2016年05月04日

71年目の命日

今日5月4日は特攻の大叔父71回目の命日です。
母のお供をして、靖国神社で執り行われた永代神楽奉納に参加してきました。

71年前の今日、わずか19歳の若者は何を思って沖縄の海に特攻したのでしょうか?
考えても考えても想像が及ばないのです。
大叔父の冥福を祈るとき、あふれる涙を抑えることは出来ませんでした。

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2015年05月08日

特攻の大叔父さん、初めての永代神楽供養をしてきました

ご無沙汰しております。

ブログの更新をしなくなって長いこと経ちました。
理由はいろいろです。
今風に言えばリア充。
リアルが忙しすぎて、最近はPCを開くのも週に1〜2度あるかどうかという日常です。


一番の理由は母の事。
丁度今から3年前の夏、リウマチを発症し体の自由が利かなくなりました。
リウマチとなれば介護は長期戦となります。
家族だけで抱え込んでは共倒れになる。
そう判断した私は市の福祉課へ行き、介護認定の申し込みをしました。
そして要介護2の判定を受けました。(ちなみに現在は少し良くなって要介護1)
一人では風呂も入れず、包丁を持つことも雑巾を絞る事も出来ず、横になっても寝返りを打つことも出来ず、半日椅子に座る体力さえもなくなってしまいましてね。
まぁ、リウマチと言っても今はいいお薬があり、関節の変形などの重篤な症状が出る前に治療を始めた効果もあって、何とか日常生活を普通に送れるまでに回復しましたが。

そんなこんながありまして、いまだ江田島まで大叔父さんの遺書に逢いに行くことは出来ておりません。
体の不自由な母を連れて飛行機に乗って旅をするとなれば、せめて車いすに一日座っていられる体力がないと難しい・・・
でも、江田島一本に絞って少し頑張れば大叔父さんの遺書にはなんとか逢いに行けそうな目途はつきそうです。
気候の穏やかな時期、なるべく早い頃合いを狙って江田島旅行は敢行したく思っております。



さて、本日久しぶりの更新に臨んだ理由は、特攻の大叔父さんの永代神楽に参列してきたことをご報告するためです。
前述の通り母は急に体を患って、毎年恒例にしていた大叔父さんの命日の靖国参拝すら出来ないありさまとなってしまいました。
このまま自分が永遠に靖国に行けなくなってしまったら、叔父さんはきっと寂しがる。
そう思った母は、大叔父の命日にあたる5月4日の永代神楽供養を靖国に申し込んだわけなのです。


神楽を申込みしますと、神社から参列の案内状が届きます。
でも、体が自由にならない母を連れて、靖国詣では難しい。
神社が混み合う例大祭や夏のみたままつりへ行くことも憚られます。
本人も私も泣く泣く諦めているような状態が続きました。
いつだったか、靖国に行けなくなった母の代わりに一度だけ、私が代参として靖国詣でをしたこともあります。
母の名前で玉串を捧げ、昇殿参拝をさせていただきました。
何故だか、涙があふれて止まらず、号泣一歩手前の状態になったことを覚えております。


前置きが長くなりました。
で、今年の5月4日は、母を車いすに乗せて、久々の靖国参拝を挙行してまいりました。
久しぶりの5月4日の靖国は、いつになく若い人の姿が多かったような気がします。
10代の高校生から大学生くらいと思しきグループや、小さな子供を連れた30代くらいの若い層が、いやに多かったような・・・
世の中、少しづつ何かが変わりつつあるのでしょうかね?
マスコミで靖国が取り上げられるのは、桜の開花のニュースと、例大祭に閣僚が参拝したのしないのという例のあれしかなくて、みたままつりも正月の初もうでも、何時だって華麗にスルーがお決まりでうんざり気味なのですけれど。
参拝する人はするのです。
それも礼儀正しく。

参集殿に上がると、永代神楽の参列者は特別の控室に案内され、お茶の接待をうけます。
時間になると本殿に上がるのですが、その手前で手水を使うときも、濡れた手を拭うための紙が用意されており、一人一人に手渡しされます。
これ、普段の昇殿参拝の時にも、神雷部隊の合同参拝の時にも無かったことです。
神楽の参列者は特別、という扱いになるのでしょうか。

昇殿後、まずは供物が捧げられ厳かな空気の中、神職による祝詞と永代供養を受けた御霊の名前の読み上げがあります。
5月4日のその日だけでもざっと30〜40名位は読み上げられたでしょうか。
その後、神楽へと進みますが、神楽は笛・太鼓・琴のいわゆる生演奏。
謡(でいいのかな?)もお一人。
舞を舞う巫女さんはお二人。

うちの大叔父さんはまだ最近永代神楽を申し込んだばかりなので、名前が出てくるのは最後の方でしたけどね。
靖国がある限り、こうして毎年5月4日になると名前を読み上げられて供養していただける。
その事実を目の当たりにし、高齢となり頻繁に靖国を尋ねることが難しくなってきた家族にとっては、何よりもありがたいことと感じました。
念願叶って靖国に行き、参拝した母は神楽を見ながら泣いておりました。
私も後ろの席で泣きました。
大叔父さんもお社の奥で、喜んでくれたかなぁ?



神雷桜はすっかり花を落し、新緑の若葉と姿を変えていました。
母が元気なころは、桜の花の時期に靖国を訪ねたこともありましたが、今後は人出の多い時期の参拝は安全を確保する意味でも難しくなるかと思われます。
でも本人が元気なうちは命日や例大祭などの物日に関係なく、母と一緒に靖国に参りたいと思っております。

今年は戦後70年。
終戦時7歳の国民学校2年生の母も、喜寿を迎える歳となりました。



追記

この夏、茨城で桜花を題材にした映画の撮影が行われるそうです。

映画「サクラ花〜桜花最後の特攻〜」制作発表
https://www.youtube.com/watch?v=5LiOKnwyddQ

映画「サクラ花」、6月から撮影 特攻機「桜花」題材に
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14256487396685

映画製作のための協賛金を募っているそうです。
問い合わせ先はこちら↓
藤代範雄デザイン事務所内サクラ花デスク(電話0299・57・0702)
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2012年09月06日

大叔父さんの遺書

先週火曜日放送のクローズアップ現代。
海軍特攻兵の遺書が密かに集められていたと言う話。


もしやうちの大叔父さんの遺書もあるのでは?と局に問い合わせた所、手元の資料の中に、大叔父の写真の他に手紙と手形が入っていたと言う返事。



やっぱり、あった!!



海上自衛隊の第1術科学校に原本があるはずなので、「可能であれば一度原本を見たい、コピーを頂きたい」というこちらの意向を先方に伝えてくれると、担当の記者から連絡を頂きました。


どこの誰とも知らない巡礼者に、祖父が渡してしまった大叔父の遺書。
もう二度とこの世では逢えないと思って諦めていた手紙に、逢える可能性が出てきました。
何という奇跡!



先方との連絡が着いたら、大叔父さんの心に逢いに行く!

母を連れて、広島の江古田まで逢いに行く!
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2012年08月28日

クローズアップ現代「なぜ遺書は集められたのか〜特攻 謎の遺族調査〜」を視て

今日、NHKクローズアップ現代を視聴しました。
番組タイトルは「なぜ遺書は集められたのか〜特攻 謎の遺族調査〜」http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3237.html

本当に久しぶりにブログを更新したのは、この番組に関連して思い出した事を忘れないように、そして多くの方に歴史の事実の一端を知っておいて貰いたく思ったので。


戦争が終わって数年後、私の母がまだ小学生位の頃、ある日巡礼のような格好をした見知らぬ人が、千葉の家を訪ねて来て、特攻の大叔父の遺書を見せて欲しいと懇願したんだそうだ。
私の祖父は、その巡礼風の男の方としばらく話をしたあと、「是非この遺書を預かって供養をしたい」と言うその方の申し出を受けて、特攻の大叔父の遺した遺書の類を沢山渡して帰したのだとか。


遺書は、遺された家族にとってかけがえのない物。
どうしてそれを祖父は見知らぬ他人に渡してしまったのか?
それが私には長年の謎でした。


千葉の生家には大叔父の遺書が二通残っていて、一通は自分の毛髪を縫いとめたハンカチで、もう一通は両親に宛てた遺書だったため、さすがに祖父もこれだけは渡さずに手元に遺したものと思われます。

特攻の大叔父は筆まめな人だったので、手紙の類とか、書き残した物がもっとたくさんあったと母の記憶にはあると言う。
それらがあれば、大叔父の人となりを知るにしても、特攻へ臨む思いにしても、もっともっと遺族には知りうる事がたくさんあったはずなのに、どうして祖父はそれを他人に預けてしまったのか?
いくら人が良いにしたって何故?
 

たった一人で全国を回り、遺書を集めて回ったと言う近江氏。
その写真が巡礼風の風体だったのをみて、ピンときた。
おそらくこの人は、千葉の家にも立ち寄り、大叔父の遺書を持ち帰っているはず。


近江氏が特攻隊員の遺書を集めて回ったのには、旧海軍上層部の意向があったと言う。
特攻は、それを命じた側にも複雑な思いを遺したのは確か。
そして終戦後の一時期、世間の風が特攻に対して冷ややかだったのも確か。
戦争中、軍神と崇め奉った彼ら特攻隊員を、戦後の日本は手のひらを返し、生きる為の方便として特攻を否定した。
そういう歴史の事実は、知られているのかいないのか…


もし、大叔父の遺書を持ち帰ったのが、番組で取り上げた近江氏ならば、そして大叔父の遺書が今も保存されているなら、是非読みたい。
大叔父が特攻に出撃する前、何を考え何を言い遺したのかを、遺族としてはどうしても知りたいから。

そして集められた遺書は、是非誰でも見られるように可能な限り公開して欲しい。
闇から闇へと葬らないで欲しい。
苦悩の中で若い命を散らした彼らの思いを、どうか後世の私たちにも読めるようにして欲しい。
posted by ぴろん at 23:34| Comment(11) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

NHKハイビジョン特集 「人間爆弾“桜花”」を視て

少し遅くなりましたが、表題の番組を視ての感想を、思いつくままに書き綴ります。

私のマイミクさんが取材の協力をしていること。
ここ数年、3月の神雷部隊戦友会の方と靖国参拝をご一緒させて頂いている関係で、私の知っているお顔が番組に出るであろうこともあり、親近感を持って番組を拝見させて頂きました。


思った通り、番組に登場した証言者の内、3名は、私もお話を伺ったことのある方。
中でも佐伯さんという元桜花隊員の方は、神雷部隊の靖国参拝の折、正義大叔父の訓練の様子を話して聞かせてくれた、大切な方です。

叔父が神ノ池基地で桜花の降下訓練を受けた際、着陸に失敗して滑走路わきの松林に突っ込んだ。
けれどたいした怪我もなく、ケロリとした顔で訓練機を下りてきた・・・という証言を聞かせてくれたのは、佐伯氏です。
家族も知らない訓練の様子を、私は佐伯氏の言葉によって知りました。


証言の内容については、私にとって特に目新しいというものではありません。
今まで特攻の大叔父を追いかけて各地を訪ね歩き、または様々な資料を読み漁り、直接元隊員の方からお話を伺う機会を得てきた私にとっては、周知のことがほとんどでした。

ただ、こうして改めて言葉にして語る様子に触れると、大叔父の最期の様子や心情はやはりこうであったかと、身につまされる場面は多々ありました。
特攻は一度出撃すれば二度と生きて鹿屋の基地には戻りません。
桜花特攻の場合、母機の一式陸攻の搭乗員は全部で7名、桜花隊員1名を加えると計8名が搭乗して出撃するわけです。
母機もろとも迎撃を受けたなら、出撃機の数×8名分、一度に人が消えていなくなる。
一度の出撃で百数十人の兵士がスッポリいなくなる、という証言は、改めて聞けば、特攻を送り出す基地の日常が如何に苛酷であったかを思わされます。

そんな中、出撃命令を待つ隊員の思いはどうだったのでしょうね。
桜花隊員の宿舎は鹿屋基地最寄りの野里国民学校。
私もこの春、野里小学校跡を訪ねましたが、周囲を田んぼと畑に囲まれた、本当にのどかで静かな土地柄です。
出撃割が決まると、上官が、隊員が宿舎にしている教室の黒板にチョークで名前を書いていく。
その名前を見たとき、大叔父はどんな思いだったのでしょうか。
記録を読むと、出撃割の発表の際も、桜花隊員の面々は底抜けに明るかったのだそうです。
出撃する隊員は「一足先に靖国へ行っているぞ!」と言い、後に残る隊員は「後から俺も行く、靖国の社の奥に俺の席も一つ取っておいてくれ」などといった会話を交わしたそうです。

ただ、そうはいっても特攻は非情な死には違いなく、昼間は底抜けに明るく振る舞ってはいても、夜寝る前になるとしくしくと泣く者、やけ酒を飲んで騒ぐ者などがいて、自分に出撃命令が下ったとき、果たして冷静にいられるだろうか?と心配した・・・と記録に書いた元桜花隊員の言葉もあります。


死を覚悟して志願したとはいえ、特攻隊員の心は日々揺れに揺れたことが、テレビに登場した証言者の言葉からもはっきりと読み取れます。
一度出撃すれば必ず死ぬ特別攻撃。
しかし十分な護衛もなく、無事敵艦まで辿りつける保障もない。
作戦としては愚策中の愚策、ということを分かった上で、それでも死の恐怖を振り切って出撃に至るには、よほどの悟りが無ければ往けるものではありません。

これまでに何度か書いたように、特攻兵の最期の覚悟を決めさせた物、最終的に彼らの背中を押した物は、後に残る家族への思い以外にはないと思う。
正義叔父の場合は、私の母(叔父の戦死時、国民学校2年生)が叔父に宛てて書いたハガキを胸に抱いて出撃をしています。
まだ幼い甥や姪を護るため、両親や兄、姉を護るため・・・と思わねば、誰が生への未練を振り切って出撃できるというのでしょうか。

番組には桜花の発進ボタンを押した方の証言も出てきます。
その瞬間、彼は眼をつぶり見ることは出来なかった、と証言しています。
いくら軍人でもあの瞬間は見られない・・・と。
その言葉・思いは、私の正義叔父の出撃ボタンを押した、故・室原知末氏の思いにも重なります。
室原氏は、大叔父の命日、5月4日が近付くと、発射ボタンを押したときの感覚がよみがえり、体中の血が逆流するような感覚に襲われたそうです。
毎年毎年、室原氏は大叔父の実家を守る家族に宛てて、墓前に供えて欲しいと長い手紙と供物を送りつづけました。
私が物心ついたころから、この手紙の存在は私も知っていて、母の実家の仏間にかかる大叔父の遺影と共に、特攻というものを身近にしてきました。
もちろん子供の私に特攻の何たるかが分かるはずもなく、特攻が余りにも非情な死であることを思い知るのは、まだまだ最近の話ではありますが。

室原氏の手紙の内、何通かは私も読ませてもらったことがあります。
達筆でしたためられたその手紙は、出撃当時の状況やその際の自分の思いなどを、まるで便せんにぶつけるようにして書き記してあったことが今も印象に残ります。
室原氏もまた、特攻から生き残ってしまった苦しみを、生涯背負い続けた方でありました。


桜花を作った技術者が仰った、自分が桜花を作ったと胸を張って言えない、という言葉も胸に詰まりました。
戦時中とはいえ、上部からの命令に逆らえない立場であったとはいえ、はやり特攻専用機を作ってしまうという、その苛酷な現状に、人の心はそんなに簡単に苦悩を凌駕してはくれないのですよね。

特攻機を作った人、出撃命令を出した人、発進ボタンを操作した人、そして特攻で死んだ人。
奇しくも生き延びて戦後命を長らえた人。
その誰もが、苦しみ悲しみの渦中に身を置いたのが、特攻です。
勝ち目の無い戦いに、戦果を出せないと分かっている出撃に、我が命を預ける。
死を覚悟するその崇高さと、稚拙な作戦行動の隙間を埋め、自分の死を意味あるものにする唯一の方法は、自分が愛する家族や友人知人のために、我が命を掛ける・・・ということであったのだろうと思います。


特攻の正義大叔父が、特攻に志願し、神雷部隊に配属されるその直前、私の母に書き送ったハガキの最後の一文には幼い子供でも読めるように片仮名書きで「オテガミチョウダイネ」の文字があります。
それに応えて、母はつたない文字をハガキに書き連ねて、叔父に送ったそうです。
特攻の大叔父の足跡を調べるため、あちらこちら訪ね歩き、今年は念願の鹿屋と沖縄に足を運んで、今強く胸に迫るのも、大叔父のハガキにある「オテガミチョウダイネ」の言葉なのです。

どんな思いで、叔父はこの一行をしたためたのだろう?
どんな思いで、母からの返事を待ったのだろう?
訓練の日々、鹿屋に移動してから出撃までの日々、どんな気持ちで叔父は母のハガキを眺めたのだろう?

そう思うと、私はとてもいたたまれない気持ちになります。
叔父の圧倒的な愛情の重さに、今も押しつぶされそうになる自分がいます。

自分の命を差し出してでも、国を護る覚悟。
家族を護る覚悟。
その気概。

理屈でなく、鬼気迫る彼らの心情が、後に残された家族の肩には圧し掛かります。
そして心ならずも生き延びてしまった元特攻隊員が、戦後の時代を苦しみや悲しみを胸の奥に抱えて生きてきたという事実も、忘れてはいけないと思っています。


念仏平和では国は護れない。
けれど、特攻の悲劇は繰り返してはならないと思っています。
人の犠牲を最小限に抑えた上で国を護るためには、トップの知恵や戦略が必要。
したたかな外交も必要。

戦後の日本という国は、そういう賢い国であって欲しい・・・
靖国の社で、私の大叔父はそんな風に思ってはいないだろうか?と近頃考えている私なのです。
posted by ぴろん at 23:56| Comment(30) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする