2005年05月18日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(7)05.5.12 豊島公会堂にて

『横田滋家族会代表のお話』

Img_9166.jpg

(拍手)
私は曽我さんが日本に帰国される2ヶ月か3ヶ月くらい前だと思いますが、救う会新潟が佐渡で集会を開いた時に参加しました。
そして佐渡を案内してくれた時に、真野のところで「ここで県立病院の若い看護婦さんがいなくなったんだ」と言うことを聞きました。
その時お母さんの話は聞かなかったような気がするんですけど。
そして外から入った場合、湾が入り組んでいてちょっと入ればすぐ隠れることが出来るし。
陸の方から見てもちょっと中に入れば非常に分かり難い所って言うので、隠れるには都合の良いところというふうに言ってました。

曽我さんとめぐみは一緒に暮らしたことがあったわけなんですが、やはりめぐみにしても誰も日本人がいないところで初めて自分よりちょっと年上の、比較的歳は近いんですけど、ちょっと年上の人が現れたと言うことは非常に心強く思ったと思います。
そして曽我さんからはこれまで何回かお手紙頂きまして、めぐみの誕生日、と言うことは曾我さんが行かれてちょっと後ですかね。
めぐみは10月ですから。
その時も誕生日の様子なんかも教えていただいたんですが。

その時は近くの所にドライブをして、それから家に帰ってきて、魚や肉や野菜無い物はないって言うほどのご馳走を作ってくれて食べたということ。
そしておばさんがケーキを焼いてくれたんですけど、それでも「お母さんだったら、もっと美味しい物を作ってくれたのにね」、と言ったということを聞いて。
招待所のおばさんと言う人は親切な人だったと思いますし、一時かも知れませんけど幸せな時代があったのかな?と感じましたし。
それは曽我さんに心から御礼申し上げます。
逆に曽我さんの方からもめぐみを世話することによって、ある程度気がまぎれたんじゃないかと思いますし。
二人が暮らしてたと言うことは本当に良かったと思っています。


2005年05月17日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(6)05.5.12 豊島公会堂にて

『西岡力副会長のお話』

今の話で少し補足しておきたいんですけど、北朝鮮が曽我ミヨシさんについてどう言ってるか?
お配りした資料の一番下にですね、北朝鮮側の言ってる主張が書いてあります。
日本政府に対して北朝鮮が言って来てることはですね。
まずひとみさんは、78年の8月12日に特殊機関工作員が、身分隠し及び語学教育の目的で現地請負業者、括弧して日本人に依頼し。
現地請負業者、括弧して日本人に依頼して引渡しを受けて連れてきた。
日本人の現地請負業者に依頼したんだと言ってる。

で、お母さんについてどう言ってるか?
母・ミヨシについては承知していない。
特殊機関工作員が現地請負業者から引渡しを受けたのは、曽我ひとみ一人だけ、と言ってる。
しかし、今曽我さんに詳しく聞いたように、襲ってきたのは3人の北朝鮮人なんですね。
一緒にボートに乗って行ったんですから。
お母さんと一緒に襲われたわけです。
もしも日本人の請負業者があると言うなら、その人の名前を出してもらわなくちゃ困りますけども。
日本の中で地下組織が無いわけじゃないですから。
それについて北朝鮮は明らかにする義務があると思いますけども。

しかし曽我さんの場合は3人の工作員に襲われてすぐ近くにあったボートに載せられて、そのままその工作員も一緒に女性の工作員と一緒に連れて行かれたんですね。
請け負い業者が入らないんですね。
なにかさっき聞いたように車に連れて行かれて隠れ家に連れて行かれて、そして迎えが来て引き渡されたと言うならその説明も一理あるかもしれませんけども、全くの嘘です。

一緒に襲ってるんですから。
ですから日本政府も曽我ミヨシさんも拉致被害者だと認定しているわけです。
認定している拉致被害者について、北朝鮮は承知していない、と今言ってるんです。
じゃあお母さんどこにいるのか?ということですよね。
北朝鮮にいるときは佐渡にいると言われ、帰ってきてみたらいなかった。
説明するのは襲った側がしなきゃいけないわけですね。
何回も私たちは言ってるんですけど、北朝鮮は拉致したのは13人だと言ってるんですけど、その13人に曽我ミヨシさんは入ってないんですよ。
一緒に襲われた人が入ってないわけです。
こんな馬鹿なことがあるか?てことですね。
北朝鮮側が説明する責任を果たしていない。

曽我ミヨシさんの場合はここに並んでいる家族会の人たちの、2002年9月17日以前と同じなんですよね。
あの時は、金正日が拉致を認めるまでは、拉致をしていないと。
北朝鮮にいないと、でっちあげだ、認承知していない、と言ってたんですね。
しかし、居たんですよね。
拉致を認めたわけなんです。

でも曽我さんのお母さんのミヨシさん、そして東京の三鷹で警備員をやっていた久米裕さん、そして今回認定されました田中実さん。
日本政府の認定でも3人については知らないと言ってる。
こんなことは絶対に認められないと、と言うふうに思っています。

ご家族が帰ってきて、まだ落ち着かない。
ジェンキンスさんもアメリカにいるお母さんに会いに行きたいとか、いろんなことがありますが。
しかしそれだけではなくて曽我さんの問題は半分しか解決していない。
曽我ミヨシさんが帰ってきてないということは、曽我さんの家族の悲劇は半分しか解決していないんだと。
言うことを強く強く訴えて続けていきたいというふうに思っております。
ここにいる皆さんと是非曽我ミヨシさんを救出しようではありませんか。(大きな拍手)

ぜひですね、この資料をいろんな人に見せてください。
北朝鮮の言ってることと、曽我さんが国連の人権委員会に出したことがこうも違ってるんです。
これだけ見ても何が正しいのか?と言うことが分かってもらえると思います。
承知していないなんて言ってることは、それこそ日本人が全て承知していなければならない。
もっともっと日本人は怒らなくてはならない。
と言うふうに思っています。

では今日は曽我さんのお母さんは絶対助けなくちゃいけないという意味で、鹿児島からも熊本からも、それから兵庫からも家族会の人たちが東京に出てきて、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!集会」に参加しています。
一言ずつ今の話を聞いて感じられたこと、最近考えていることなどを言っていただきたいと思います。
横田代表からお願いします。

2005年05月16日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(5)05.5.12 豊島公会堂にて

『曽我ひとみさんのお話(5)』



※西岡氏
そしていつも私いろんなところで言うんですけど、月や星を見ながらいつ帰れるか?と思っていたと。

☆曽我ひとみさん 
その話なんですけど、向こうにいた24年間の間にも日本から来る代表団って言うんですかね?
いっぱい人が来ました。
もちろん私が直接会ったわけでもないですけど、テレビではどこの党の人が来たとか、どこを訪問しましたとか。
そういったのがニュースで流れるんで、また日本の代表団が来たんだなぁ?
今度は何か良い知らせがあるかなぁ?

それも一人二人じゃありませんでした。
沢山の人が来て、それも1日2日でもう次の日には帰ってしまって、あぁまた何にも無かったんだ。
やっぱりこういうふうにして連れてこられたと言うのを、知らなかったのかなぁと。
日本のなかでどういう運動があるのか、私たちには全然分からないし。
ただただ、日本の代表団に会って「一緒に連れて帰ってください」と、言いたいと思ったのは何度もありました。

だけど、そうすることも出来ず、ただただ、我慢。
この次は、この次はと、ずっと我慢してきました。
夜になれば日本でも北朝鮮でも空には月、星。
見るといつも佐渡が頭の中に浮かびました。
そしてそれと同時に、お母さんのこと、いつも夜、月を見ながらいつになったら日本に帰れるんだろう?
誰か助けに来てくれる人はいないんだろうか?と、いつもいつも思ってました。

※西岡氏
日本の国会で拉致のことが認められるのは1988年ですから。
その後は日本の政治家は拉致のことは分かってたんですよね?
分かってる人が、北朝鮮に行って何も取り上げなかった。
その間、曽我さんはいつも月や星を見ていた。
残念ながらそういう事になりますよね?

☆曽我ひとみさん
(消え入りそうなほど小さな声で)そうです。
だからまだ日本に帰って来れない人たちのことを思うと、本当に心が痛いです。
私の母もそうです。
もう73です。
今の日本なら80、90って言ってもまだ元気でいられる方が一杯います。

向こうにいる人、日本で待ってる人。
本当に一秒一秒が大切です。
その大切な時間を本当に皆様方のお力で、皆が日本に帰って来て、笑顔で生活出来るようにお願いしたいと思います。

※西岡氏
最後に聞きたいんですけど、日本に帰ってくる事が出来た2002年までに、お母さんのことやめぐみさんの他に日本人のことを知ろうとはしましたよね?
お母さんいるかもしれないと思ってらっしゃったわけですし。
その日本人のことについて何か聞いてることがあれば、ここで話せることがあればお話してください。

☆曽我ひとみさん
日本人って言うか、(北朝鮮に)行った当初ですけど、ちょっと遠くで後姿を見たとか、少し話して日本人がいるというようなそういう話は耳にした事はありますけど、直接その人に会ったとか、そういうことも無かったし。
まぁ遠くで見たことはあるんですけど、その人がじゃあ誰か?って今言われても。

続きを読む

2005年05月15日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(4)05.5.12 豊島公会堂にて

『曽我ひとみさんのお話(4)』

Img_9157.jpg

※西岡氏
めぐみさんのことで覚えていることを佐渡でもお話いただきましたけど、覚えてることをここでもう一度ご紹介していただけませんか?

☆曽我ひとみさん
すごく絵が上手で、一緒になって一ヶ月くらいした頃だと思うんですけど。
紙に鉛筆で写生って言うんですかね?
手の形を描いてくれて。

※西岡氏
曽我さんの手を描いてくれたんですね?

☆曽我ひとみさん
そうそう。
ですごく上手で、私が日本に来るまでずっと大切に持ってました。

※西岡氏
日本には持って帰ってこなかったんですか?

☆曽我ひとみさん
持って帰って来なかったです。

※西岡氏
残念ですね。

☆曽我ひとみさん
本当に今思うとすごく残念なことがあります。
で、いろんな博物館を見て回って観たんですけど。
めぐみさんはやっぱり美術が好きだったみたいで、歴史博物館とか革命博物館とか、いろんな博物館を一緒に観て回ったんですけど。
その中で美術博物館はもう一回行ってみたいなぁと、めぐみさんはそう言ってました。
私はあまりちょっと美術に興味も無かったんで、私は「どっちでも良いよ」って感じで。

招待所の中ですから、中々自由に外に出ていろんな所を見るっていうことができなくて。
だから一度外に出て、そういうところを観る時は面白くても面白くなくても、なんか、開放感って言うんですかね。
そういうのがあったりして。
そういう時は本当に店に行く時とか、ごく少ないんですけど、そういう時間が二人とも大好きでした。

※西岡氏
普通は招待所で家庭教師みたいな人が来て二人で勉強するんですか?

☆曽我ひとみさん
そうです。

※西岡氏
朝何時くらいからどのくらい勉強するんですか?

☆曽我ひとみさん
朝、そんなに早くは無いんですけど、まぁ起きて食事をして、それから9時くらいから勉強を始めて。
チュチェとか思想、そういう勉強。
それから日本との戦争がありましたけど、その時の英雄たちの活躍ですか?
そういうのを紹介したような本。
だからそういう本を沢山読んで、あなたたちもこういうふうにしなくちゃいけないんだよ。
こういう生活しなくちゃいけないんだよと、教えられたと言うか。

※西岡氏
本って日本語の本ですか?

☆曽我ひとみさん
いえ違います。
朝鮮語です。

※西岡氏
朝鮮語で勉強させられたんですね?

☆曽我ひとみさん
そうです。
そういう勉強とか、基本的にはそういう勉強でしたけど。
でまぁ午後からは庭しか散歩する所が無かったですけど、庭で散歩したり。
ちょっと広い招待所なんかでは運動とか縄跳びとか、まぁ出来たんですけど、狭い所だと外に出てもほとんど庭が無いと言う、そういうところもあったりして。

※西岡氏
つまり転々と移ったということですか?

☆曽我ひとみさん
そうです。

※西岡氏
ひとつの所にどれくらいの長さいるんですか?

☆曽我ひとみさん
う〜ん、必ずしも決まっては無いです。
まぁ一ヶ月とか三ヶ月とかそんな感じです。

続きを読む

2005年05月14日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(3)05.5.12 豊島公会堂にて

『曽我ひとみさんのお話(3)』

※西岡氏
安明進さんに聞いたんですけども拉致については学校でですね。
拉致演習と言う授業があると。
袋にどう入れるかとかですね、そういうことを演習で実際にやってみるんですけども。
その時に同じ小船に乗せて連れて行っても、お互いに絶対に気配を感じさせないようにするというのが原則だと。
そういうやり方を習うんだと、言っていました。
だから曽我さんは気配は感じなかったけれどもしかし言葉が聞こえたということは、近くにお母さんがいて同じその木製の船だった可能性がありますけども、それに乗せられていたのか?
そうすると乗り移るときにですね、袋に入れられたまま乗り移ったんですか?

☆曽我ひとみさん
はい、そうです。
そのままです。

※西岡氏
すると周りは分からないですよね?

☆曽我ひとみさん
全然分かりません。

※西岡氏
小船の中に誰がいたのか分からないですよね?

☆曽我ひとみさん
分からないです。

※西岡氏
それでいつ袋から出たんですか?

☆曽我ひとみさん
小さい船に最初乗せられてしばらく行って。
まぁ、しばらくと言うのはどれくらいの時間なのか、私自身も良く分かりませんけど。
それで船よりももっと大きな船に移されて、中に小さい部屋ですけど戸も付いてて。

※西岡氏
何がついてた?戸ですか?

☆曽我ひとみさん
うん、でその部屋の中に入れられて、そこで袋出してもらった。

※西岡氏
どのくらいの大きさの部屋なんですか?
寝られるくらいですか?
寝られない?
座るくらい?

☆曽我ひとみさん
そうですね、ちょっと足を伸ばせるくらい。

※西岡氏
窓とかは付いてますか?

☆曽我ひとみさん
付いてないです。

※西岡氏
じゃあ真っ暗?
電気もついてない?

☆曽我ひとみさん
電気はついてなかったような気もしますけど・・・

※西岡氏
一人でそこに入れられた?

☆曽我ひとみさん
そうです。

※西岡氏
怖かったでしょう?

☆曽我ひとみさん
怖かったですね。
自分でも何が何か全然分からないっていうか、どうなってるんだろう?
ただただ怖い。
どこに行くんだろう?誰なんだろう?
そのことだけを必死に考えてました。

続きを読む

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(2)05.5.12 豊島公会堂にて

『曽我ひとみさんのお話(2)』

Img_9154.jpg

※西岡氏
今お母さんと別れた日のこと、その時から時計をしていらっしゃったと言いましたけれども。
会場の皆さんには資料として曽我ひとみさんが2002年の12月にジュネーブの国連人権委員会に強制的失踪作業部会にどのように拉致されたのか?という事について説明の書簡を出しています。

・・・以下配布された資料を紹介・・・

◆曽我ひとみさんが2003年11月12日ジュネーブ人権委員会強制的失踪者作業部会に提出した書簡

 1978年8月12日土曜日、19時頃、家を出て私と母は近所のお店に夕食のおかずを買いに二人で出かけました。その日は、ごく普通の日を過ごし二人で出かけた買い物が母と生き別れになってしますとは知る由もありませんでした。
 私の家から、逸見商店までは、まっすぐな一本道で500メートル位離れている場所にあり、歩いて5〜6分の距離です。私の家も、お店も国道沿いです。国道沿いには四日町の家並みが続いていますが、その当時はとても暗く、当時街頭は数少なかったので、大変くらい道でした。灯りと言えば、家並みの中の灯りがぼんやりと照らされる程度でした。最初、家を出て反対側に渡り、海側の歩道を母と一列になって歩いていました。生きも帰りも車の往来は2〜3台程度でした。
 お店について、お店の中には10分もいなかったと思います。品物をみながら「あれにしようか、これにしようか?」と決めたりして、お店のおばさんと少し会話をしてお店を後にしました。帰り道も海側を歩きました。帰りは母と二人並んで歩いていました。その日の帰り道に、私と母に挨拶をしたと言う、近所のおばさんの証言がありますが、私には覚えがありません。

 私と母は、買い物を終えて、話をしながら家に向かっていました。お店と家のちょうど真ん中辺りを少し過ぎた頃、国道沿いにある農機具整備工場の手前、Nさんのお宅辺りだと思います。背後に人の気配がして、私が後ろを振り向くと、男の人が3人横並びに私達の後ろをついてくるのが見えました。私と母は、その男達3人を見て「気持ち悪い、怖いね」と話をしながら歩き続けました。その後少しして、私と母が足早に歩き始めた途端、急に後ろから男達3人が、走って来て私と母は、国道沿いの農機具整備工場から14〜15メート李先のお宅の敷地内にある、歩道と敷地内野坂委に140cm位の高さの赤い実のなる木の辺りに引きずり込まれました。
 私はすぐに、口をふさがれ、手足を縛られ、袋の中に入れられました。私はちょっと果て移行しましたが、男性3人の力と私の力では抵抗できず、体をバタバタさせるぐらいしか出来なかったのです。母は襲われるまで横にいたから一緒に襲われたと思いましたが、私はすぐに、袋に入れら担がれ、その場を去った様なので、母の気配は感じることさえ無理でした。そして、私は1人に担がれ数分運ばれて、小舟らしいものに乗せられて、しばらくして、膿にでた気配を感じました。
 縛られて、袋の中に入れられたまま船の中で出発を待っている時に日本語を話す女性の声がしました。しかし日本人ではないような気がしました。日本語の話し方が少しおかしいようでした。小さな声で話をしていたので内容は聞き取れませんでした。そして、誰と話をしているかも、その中にいる人数も、わかりませんでした。
 海に出た後、もう少し、大きい船に乗り替えました。袋のまま船室の中の一室へ運ばれ初めて袋から出して貰いました。部屋の中からは、一日中出ることもなく、その船の中で人を見たのは、朝と昼、2回の食事を運んできた男性のみ1人だけでした。
 1978年8月13日、17時頃、北朝鮮の清津に到着。(13日17時頃と、時間がはっきり覚えているのは、拉致されたとき腕時計を身につけていましたので時間は覚えています)清津について後、招待所に移動しましたが、その責任者に母の行方を聞きましたところ、「日本で元気に暮らしているから心配しなくてもいい」と言われました。

◆曾我ひとみさん、ミヨシさんに関する北朝鮮側の「情報」

「(曽我ひとみさんは)、1978年8月12日、特殊機観光索引が未分化串および語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引き渡しを受けて連れてきた」「母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引き渡しを受けたのは曾我ひとみさ一人だけ」(「拉致に関する調査結果」平成14年9月28日〜10月1日)

・・・資料の紹介終了・・・

※西岡氏
お母さんがどのように襲われたのかを明らかにするためには、自分がどう襲われたのかを明らかにしなければならないと言うことで。
あんまり思い出したくなかったのとですけど、詳しく書いていただいたんですが。
お母さんの事を探す・救出するためには、その時のことをどうしても考えなくてはいけないと思いますので。
あんまり思い出したくない思い出かもしれませんけれども、ここでどのように拉致されていったのか?という事に付いてちょっと話してくださいますか?

Img_9153.jpg

☆曽我ひとみさん
1978年、丁度その日は土曜日でした。
私がその頃看護学校に通っていて、丁度毎週土曜日になると家に帰っていました。
その日夕方母が帰ってきて、丁度8月12日なのでお盆の支度をしたり、ちょっと忙しいときでした。
それで夕方もう7時は回っていましたけど、母と一緒に近所の雑貨屋さんに買い物に出かけました。

そんなに遠くもないので普段着で、草履で、財布ひとつ持って、それで二人して出かけました。
その時には街灯もほとんど無く、道路と言ってもあまり車も通らない。
そういった頃でした。
明かりと言えば家々からもれてくるような、ちょっと薄暗いそんな明かりしかない頃でした。

店に行って二人で買い物を済ませて、家に向かっていました。
店を出ながら1週間あった話をいろいろ母としながら二人で歩いていると、何か後ろに人の気配を感じたので私が後ろを振り向きました。
そうした所、後ろには3人の男が横並びで付いて来てました。
その時母と二人で何か気持ち悪いから、二人共早足になって、少しでも早く家に帰ろうと話をしながら足を早くして歩き始めたその時でした。

後ろから・・・余り靴の音はしなかったんですよね、何か静かにぱ〜っとこう来たって感じで。
道路の横にあった木の下に私と母は引きずり込まれてしまいました。
その後は口、手足を縛られて袋に入れられました。
そして船に乗せられ、着いたのが北朝鮮でした。
もちろん行った当初はその地名も分かりませんでしたけど、後で汽車とか時間的に計算してみると、まぁこのくらい時間がかかったから、まぁこの場所だろうと言う。
そういうふうにして場所がハッキリ分かりました。

だけど、その・・・(西岡氏「北朝鮮だと分かった?」)清津だと。
(西岡氏「清津だと分かった?」)はい。
それでその時に袋に入れられた後は母の姿は・・・見てないです。

続きを読む

2005年05月13日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会(1)05.5.12 豊島公会堂にて

『曽我ひとみさんのお話(1)』



(大きな拍手の中、曽我ひとみさんをはじめとする登壇者がステージ上に登場)

※西岡力氏
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
時間になりましたので、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京集会」を開きたいと思います。
よろしくお願いいたします。(大きな拍手)

曽我さんっていうとだいたい日本人は曽我ひとみさんを思い出すんですが、今日はひとみさんにも来ていただいてますけども、曽我ミヨシさんのことをみんなで考えようと。
曽我ミヨシさんを私たちが全力を尽くして救い出そうと、そういう集会です。
曽我ミヨシさんの家族として、曽我ひとみさんが佐渡から今日来てくださいました。
まず東京に出てきて、何の目的で出てきたのか?
そのことを一言ひとみさんに話していただいて集会を始めたいと思います。

☆曽我ひとみさん
(拍手)
皆さんこんばんは。(「こんばんは」の声)
お忙しい中、こうしてお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
今日私が東京の方に出てきたのは、私にとって本当に一人しかいない母を、皆様のお力を借りてまた静かな佐渡で私たちと一緒に暮らすことが出来るように、お願いに上がりました。(拍手)

※西岡氏
あんまり長い話をするのは慣れてらっしゃらないと言うことなので、掛け合い方式でお話を聞こうと思います。
自己紹介が遅れましたが救う会の西岡です。
よろしくお願いいたします。(拍手)
曽我ミヨシさんの救出を訴えるために東京にいらっしゃったんですが、その本題に入る前にですね。
最近の帰ってこられた家族との佐渡での近況を少しお話をしていただいて、国民の皆様にご挨拶をしていただきたいと思います。

☆曽我ひとみさん
こうして皆様方のおかげで私たち家族4人は佐渡で楽しく生活をしております。
娘二人も4月から新潟の大学の方で勉強させてもらっております。
友達も少しづつ出来始めて。
最初は人が、大学で生徒たちが沢山いるんで、最初はちょっとびっくりしていましたけど、だんだん今は慣れてきて学校の生活もとても楽しいと言っております。

そして夫の方ですけども、最近は暖かくなってきたので畑で野菜(作り)を一杯やっています。
私は真野支所の方で、検診のお手伝いをして、今一番忙しい時期です。
検診が始まったので。
一生懸命頑張ってます。(拍手)

※西岡氏
それでは本題に入って、曽我さんがこの世界で一人しかいない愛するお母さん。
先ほど言いましたけども、曽我ミヨシさんがどんな人だったのか?
この連続集会でずっと皆さんにもお話をしていただいてますけども、曽我ミヨシさんの思い出を話していただきたいと思います。

☆曽我ひとみさん
私の母は本当に物静な働き者の母でした。
いろんな話があるんですけど。
私が多分3歳か4歳くらいの時だったと思うんですけども、皇居の方に勤労奉仕で行ってました。
その時私が小さかったんで、一緒について行きたかったんですが、「ついていきたい」とわんわん泣いたこともありました。

うちの生活が貧しかったため、母は昼間は土建業って言うか、ヒューム管で油とセメントなどをいじって本当に大変な仕事を毎日しておりました。
それから夜帰ってきてからは12時くらいまで内職でざるを作っていました。
そのざるを作るのも自分の休みの日に山に行って、その頃は車なんかもなかったですから、一人でリヤカーを引っ張って山に竹を切りに行って。
それで一生懸命私たちを育ててくれました。

母はあまり怒ることがなくって、私たちきょうだいに手をあげることもほとんど無く、本当に優しい優しい母でした。
私たちきょうだいには、自分がどんなに苦しくても辛くてもそういう顔を見せずに本当に優しく育ててくれました。
そんな母でしたけど、時にはやっぱりやるせないこともあって、夜中ひとりで布団の中で泣いていることもありました。

私の父がお酒が大好きだったもんで、それについても色々と母は苦労したと思います。
それで私があるとき「こんなにお酒飲むんだったら、別れてしまえば?」と子供ながらに母に言いました。
そしたら母は笑っていました。
その笑い顔、微笑を私は今でも忘れていません。

Img_9152.jpg

それと私が今手にはめている時計ですけど、まぁ見ると男物の時計なんですけど、私にしてみると、この26年間母であり、時計というよりは私の母だと今でも思っています。
丁度あの日。
思い出したくも無い、あの日です。
母と別れた日に、その日からずっと私の腕にはこの時計がありました。
それで向こうに行って10年くらいはこの時計をずっと身に付けていました。

今ちょっとはっきりは覚えていないんですけど、10年少し経ったくらいで時計が動かないようになってしまいました。
その時もちろん機械だから壊れることもあるだろう。
それは普通なんですけど、私にとってはこの時計が母と同じ存在だったので、その時すごく心配しました。
お母さん、どこかで病気でもしてるんじゃないか?と。
なんかこの時計が教えてくれたのかなぁ?と本当にやるせない気持ちになりました。

その後直すことが出来なかった時計も皆様方のおかげで、私が日本に帰ってから、このように動くようになりました。
だから私はこの時計が直った時に思いました。
絶対母もこの時計と同じように、どこかで絶対に元気で生きていると。
そして今も私は母の帰りを一生懸命待っています。

・・・続く・・・

2005年05月12日

曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会より帰宅

Img_9152.jpg

先ほど集会より帰宅いたしました。

曾我さんのお話は一言で言って、とても重いです。
何しろ実際に拉致されたご本人なのです。
呪わしい運命のあの日の事など思い出すのも苦痛に違いないのに、お母様の救出を訴えるためには、その辛い思い出さえも言葉にして世に訴えなければなりません。
どうして被害者であるひとみさんがこの期に及んでも、自らの心と体を削る思いをしてまで世に訴えねばならないのか?

その意思の強さと切なさ。
支援者の一人としては「ひとみさんの母を思う気持ちはひとしおなのだな」などと感心している場合ではないと思いました。
ひとみさんご本人にそんな辛い思いをさせるような集会を、あえて開かねばならないこの日本の国と国民の体たらくを思うと、何ともいえない重苦しい気分と情けなさを感じざるを得ません。

曾我さんが帰国されてもうすぐ丸3年になると言うのに。
昨年の5.22小泉再訪朝からでも1年経つのに。
昨年暮れのめぐみさんの偽遺骨騒動からでも4ヶ月経つのに、この国も国民の動きもまだまだ鈍い・・・
集会で曾我さんのお話を聞きながら、私はひとみさんに対し申し訳ない気持ちで一杯でした。
曾我さんごめんなさい。
あなたが誰よりも大事に思うお母様の救出に少しも近づけていない現実を思うと、私はあなたの顔をまともに見るのも申し訳ないような気がしてなりません。

ひとみさんに限らず、拉致被害者家族が足を棒にして声をからして世論に訴えなければ何も動かない現実って何なのでしょうか?
政府が・小泉が体たらくなのは、それを支持する国民が体たらくだと言うことです。
国家主権とは何?国とは何?国民とは何?
毎度の事ながら、日本人は自分の国のあり方をもっともっと考える必要がある、と感じた2時間でもありました。


最後になりましたが。
金木犀様・あおいのママ様・入倉さんご夫妻様・電脳補完録の山本様・log様ご夫妻・とんぼ返りベイビー様・・・と、沢山の方とお会いしご挨拶させていただきました。
短い時間に訳分からん状態で挨拶して回っておりましたので、失礼のありました方にはこの場を借りてお詫び申し上げます。
私めは、この程度のささやかな人間ではございますが、自分に出来る精一杯の支援を続けてまいる所存ですので、今後ともご指導ご鞭撻の程、何卒よろしくお願い申し上げます<(_ _)>
posted by ぴろん at 23:48| Comment(2) | TrackBack(3) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

市川修一さんを救うぞ!東京集会(10)05.3.10 友愛会館にて

『質疑応答』

質問者1
先ほど北朝鮮の工作員が「拉致をしたのは俺だ」とかそういう話でございましたけど。
彼らは朝鮮語でなんと言うふうに拉致を読んでるんですか?
それとも誘拐というふうなニュアンスなんでしょうか?
言葉はどんな言葉でしょうか?

回答 西岡氏
ラチ、拉致と言う言葉は使ってますね?
ラチ、ラチ・・・拉致ですね。

質問者1
同じですか?多少は悪いことだという意識はあるわけですね?

回答 西岡氏
と言うより、拉致というのは科目があるんです。(会場内 どよめき)
政治軍事大学に。
拉致がテロかどうかと言うことを日本で議論してるときに、「馬鹿なことを言うんじゃない」と安明進に怒られたんですけど。
テロリスト養成学校の必修科目にあるのに何で拉致がテロじゃないんだと。(笑い声)
それで安さんも拉致をされたこともあるし、したこともあると。
拉致演習です、実技、政治軍事大学の教官を誰か一人拉致して来い!とか、学生を拉致して来いとか。
安さんも拉致されたこともある。
それから社会に出て行ってですね、地方の党の幹部を拉致して来いという実習もあるんだそうです。
それはやってみたことがある、と言うことですね。
拉致という言葉はかなり沢山よく使われています。

回答 平田氏
日本人が想像も出来ないような異常な状態なんですね。
先ほどの大学の船も卒業旅行で勝手に日本に来るんですから。

質問者2
私せいぜい今日が3回目ですので偉いことは言えませんけども。
救う会の企画でこのように家族とか直にお話を聞く機会を与えてもらったこと、大変有意義だったと思います。
まずはそれを感謝します。
質問を受け付けられましたので 私の言い分はもう達せられたんですが。
過去2回の時にはこういった質問時間が、何か言ってもいい時間が設けられていませんでしたので、せっかく家族も目の前にしてるんですから、励ましの言葉ですとか。
あるいはまた西岡さんもいらっしゃる、平田さんもいらっしゃる。
それじゃあ教えて欲しいこと、疑問に思うことをこの際聞きたいという方もいらっしゃる。
そういった時間を設けて欲しかったなぁ、ということです。(笑いと拍手)
(平田氏 「ありがとうございました」)

質問者3
経済制裁のことでいろいろ出てますけども、私昨日インターネットでちょっと見たんですが。
北朝鮮は今度薬品で外貨稼ぎをやってると言うのをちょっと実は聞いたんですよ。
(西岡氏 「薬品?」)
薬品、薬品。
結局バイアグラとかあれなんだけど、これ見た時非常にこれびっくりしちゃったんですよね?
(平田氏 「覚せい剤とかじゃない薬品ですね?麻薬とか?」)
バイアグラとか、インフルエンザの万能薬とかなんですよ。
余計なこと言っちゃって申し訳ないんですけども、これ見てやつらも考えてるなという、関心はしてられないけれどね。
ちょっとこれ言いたくてお話したんですが。

司会者 平田氏
ありがとうございました、後で出所をぜひ教えてください。

質問者4
西岡さんにちょっとお聞きしたいんですが、金国石という工作員がいますよね?
あの・・・の中で市川さんについての話が出てきますが。
金国石に対してはどういうふうな評価なんでしょうか?
ちょっとここの中では出なかったんですが、彼自身は市川さんと増元さん斉藤さんを見たと本に書いてますが、信憑性というのはどうなんでしょうか?(一部聞き取れず)

続きを読む

市川修一さんを救うぞ!東京集会(9)05.3.10 友愛会館にて

『平田救う会事務局長のお話』

Img_8324.jpg

え〜っとちょっと付け加えますと、人権教育の基本計画についてですね。
今日は少し前向きな発言があったということですが。

他方で今日は「人権法」と言う法律の方ですね。
これを法務省が今用意しておりまして。
自民党の法務関係の合同部会で議論されております
この中では全く逆の動きが今進んでおります。
あえて例えて言えばですけども。
今日、西岡さんが「総連の6人について再入国許可を出さないように」と言うような発言をしました。
今後この法律が通過をしてですね。
この港区の人権委員がですね「これは差別である」という、決定をしますと西岡さんは逮捕されます。(えっ?と言う声)
逮捕されたらどうするのか?いうような議論が自民党の中で今日行われている。
つまり基準がきわめて曖昧で人権の委員と言うのもどういう人が選ばれるか分からない。
この曖昧さの中で一定の権力を与えていいのだろうか?と言う議論で。
この法律が通ると逆に救う会も総連の問題に対して言及できないこともあると言うことで、ぜひ皆さんもご注目いただきたいと思います。

後もう一点、先ほど油濁法のことがありましたよね?
外国の船が入って来れなくなると言う、境港の話が出ましたけども。
境港の漁業の関係者の中のところに、地元の人と西岡副会長が行きましてですね
油濁法と言うのはふるさとの海を守るための法律ですね。
制裁でも何でもないんですね。
これをいくらやっても業者は国家から保障が出ない。
だけども制裁をかければ、これは国が業者に迷惑をかけてる部分もあるので保障が出るんですね。
だから皆さん経済制裁支持してくださいよと。
「あ、そうだな?」っていうかたちでですね。
地元の業者の方も制裁かけなきゃだめなんだな?という話し合いがあったというふうに聞いておりまして。
地元の業者を守るためにも経済制裁でなかれば守れないんですよ。
ぜひそういうこともご理解いただきたいと思います。

ちょっとまだ(時間が)ありますのでご質問を受けます。
ちょっとその前にお一人ご紹介させていただきます。
市川さんのお嬢さんがいらしてます。
福岡から駆けつけて来てますのでご挨拶を・・・

『市川ご夫妻のお嬢さんの挨拶』

(司会者に促され、会場席より立ち上がる)
(平田氏の声)こんばんはからちょっと(会場笑い声)

こんばんは(拍手)
今日は私の家族のためにお集まりいただき、ありがとうございました。
私は何も出来ないんですけれど、両親をちゃんと見守っていきたいと思っています。
皆様よろしくお願いします。(拍手)

市川修一さんを救うぞ1東京集会(8)05.3.10 友愛会館にて

『増元照明事務局次長のお話』

今詳しく話されたのでほとんど補足することはないんですけれども。
「人権教育啓発に関する基本計画」
これに対して最初(福田官房長官が)官僚的な答弁をされたので森さんが
「官僚的な答弁は聞きたくないんです。長官自らの意思で自らの言葉で言って欲しい」
と言ったら、最後には踏み込んだ表現をされて「入れるべきだと思う」と。
「個人としては思う」とその程度のことはおっしゃってました。

あとはだいたい飯塚さんがおっしゃった通りなんですけども、とにかく傍聴席って言うのは絶対に声を上げちゃいけない、手を叩いちゃいけない。
皆さんの思うように私も野次を入れたかったんですが、それをやると2度とは入れないので。
何回もそういうところへ行って圧力をかけなきゃいけないと思ってますので、ルールは守ってきました。
また機会があれば、そういう情報があれば、時間があれば行きたいと私は思っています。

今日の申し入れなんですけども、最初「内閣総理大臣」って言ってる。
最初の救う会の全国協議会の幹事会の中では「小泉内閣に対する、小泉内閣に決断を求める」そういう内容だったんですけども。
今小泉内閣ではないだろうと。
小泉総理だろうと、言う幹事会の中でも皆さんの強い意見がありまして。
最初の「小泉内閣」と言うところを「小泉総理」と変えました。
それほど皆さんが今の小泉総理の決断を促す方向でないと、この拉致問題の経済制裁の発動もそうですけども、全て動く方向に行かないだろうと。
今閉塞感を持っておりますので。
小泉総理一点で絞ろうと言うことで、やりたいと思っております。

ぜひメールでもそしてはがきでも、皆さん小泉総理に送ってください。
国民の怒りを“小泉総理に分かるように”これから発揮していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。

市川修一さんを救うぞ!東京集会(7)05.3.10 友愛会館にて

『飯塚繁雄家族会副代表のお話』

Img_8311.jpg

皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
いつもながら大変ご熱心な、集会に来ていただきましてありがとうございます。

今日たまたまですけども、参議院の内閣委員会が開かれまして、私と増元さんで傍聴に行きました。
質問はですね、民主党の森ゆうこさんですね。
この方がハッキリと質問しておりました。
本当に偶然と言うか、もちろん察しておるんですけども、今日たまたま私たちが申し入れた内容、全くそのとおり質問を強く行ってました。

ひとつは人権教育問題。
これをきちっと基本計画に入れなさいという話。
これについては官房長官がですね。
官僚的な回答で「盛り込むように検討します」と、言うことしか言っておりません。
これは今かなり論議が高まってますので、かなり突っ込んだ論議がされると思います。

我々がいつも発信してる「拉致問題解決のためには経済制裁しかない」と。
こういう意見をですね、ハッキリといいまして。
「いわゆるこの問題の一番大きな有効なカードとして今持ってるわけですけども、このカードを無効にするんですか?」と、言うような強い話し方で話しておりました。
「経済制裁ということは世論も支持しているし、いろんな国会議員・その他も支持してる。こういう中で官邸としてはどうするんですか?」と。
「やるんですか?やらないんですか?」と言うような強い質問を行ったわけですけども。

これについても官房長官はハッキリと明言はしておりません。
結論から言いますと、「北の対応は確かに不誠実なものだ、それは我々も感じている」と。
「しかしながらやっぱり対話が出来る状態にしておかなければならない」(薄笑いの声)
「そのようにこれからも努力する」
「多少の忍耐は必要である」(会場内、あきれたようなどよめき)
そんな言葉ばかり出るのかと思うと我々もがっかりするんですけども。
当の質問した森ゆうこさんも私たちに謝ってました。
「こんな回答しか出せなかった、今日は。申し訳ない」と言ってましたけど。

結局いろんな状況を判断して、例えばアメリカのパウエルさんベーカーさん、この辺の話がですね、ありましたけれども。
「必ずしも一国だけで制裁しても効果はないだろう」と言うような話をしてましてね。
で、我々としてはそうではないんですね。
もちろんも森さんも言ってましたけども。
日本が率先して怒ってる、経済制裁という有効なカードを切って、ハッキリとした強いメッセージを送らなければいけないと。
そうしなければ外国諸国もついてこないと、こういう考え方からハッキリ追求しておりました。

日本も今まで3回くらい制裁をしたという話も聞きましたけども。
ラングーンの事件、大韓航空機、それからテポドンが太平洋に落っこった。
このときにしたようなんですけども
その結果は私たちはっきり聞いてませんが、そういった経験はあるわけです
従って「この経済制裁を何とでもすべきだ」と、あくまでも強い態度で迫っておりましたし。
「拉致被害者の家族の人たちに座り込みまでさせるんですか?」と言うようなことも言っておりましたね。
ですから例えば24日に集会をやりますけども、その前にきちっとした態度を出しなさい、と言うことだったと思います。

それからですね、特定失踪者の問題につきましても。
何人かがすでに認定されてもいいと、いうような状況の人がおります。
これについては即認定せよという話もしたんですけども。
やっぱりここはですね、逃げました。
官房長官曰く、「証拠がない」(あきれたどよめきの声)
「証拠がない以上認定できない」と。
まあ「だけれども、これから鋭意一件一件調査します」(あきれたどよめき、野次の声)
同じ議員の中でそういう野次も出ましたけども、「もっと突っ込め〜!」とかね
非常にそういう意味ではこの委員会この拉致については盛り上がっていましたし。
たまたま私と増元さんが入って来た時にすぐ察知して、「今日は家族会の飯塚さんと増元さんも来ております」と。
言うようなハッキリといいまして、その場の雰囲気も高めておりましたけども。

大体そういう内容なんですが。
いずれにしてもいろんな方面から経済制裁につきましては実行可能な場面になってきてるわけです。
ただ一人我が総理がですね、なかなか首を縦に振らないのが非常に残念ですけども。
これからは集会のテーマにあるように小泉さん自身に迫って行くと。
言うような形をとらざるを得ないと思っております。
補足については増元さんの方からお話があると思いますが、以上です。
どうもありがとうございました。(拍手)

2005年05月11日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(6)05.3.10 友愛会館にて

『横田早紀江さんのお話』

Img_8305.jpg

こんばんは。(拍手)
いつもご支援ありがとうございます
特になにかお話と言われてもあれなんですが、今日は市川さんのお話をお聞きしまして。
特にお母様の着物の話を聞きまして。
本当にもうどんな思いでその着物を抱きしめていらしただろうなぁと、涙があふれてなりませんでした。

私もやはりそのような時代の者ですから、もう母はおりませんけれども。
今日見せてくださいましたような着物を、就職しました時とか、そのつどやはり母に反物を買ってプレゼントしたことを思い出しながら。
本当に親子の思いというのは、どこでも同じなんだなぁという思いで聞かせていただきました。
本当に早くお母様が元気な間にその思い出の着物をね、着て。
そして修一さんが「あぁ僕の贈った着物を、お母さん忘れないで着てくれたんだ」と思って。
タラップの上から降りてきてお母さんと抱き合われる日が本当に早く。

こんなに長いこと待たされることは許せないことなんです。
考えてみてもね。
いつまでも、いつまでも、いつまでも家族がね。
こんな風に全国駆け巡って皆さんにお話しすることも大事なんですけど。
「もういいですよ」と。
「私たちが責任ですから」
「国を負う者がやるんですから」って、本当に言っていただきたいと思うんです。
政府の方には率先して、何も言わなくても一生懸命に本気で取り返す算段をやっていただきたいと思っています。

私たちはまだまだ元気でがんばれますので一生懸命にまたお話させていただきますけども。
本当にどうか皆様方の目を政府に向けて。
間違った外交をしていないか、どんな思いをしてやっているのかと言うことをしっかりと見ていただいて。
また誉めていただいて、見守っていただきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(5)05.3.10 友愛会館にて

『横田滋家族会代表のお話』

Img_8302.jpg

こんばんは。
横田でございます。(「こんばんは」の声 拍手)
今日は皆さんのところに資料としてふたつ。
総理大臣のところに申し入れをしました。
全会の運動方針に基づく要請と、「人権教育・啓発における日本人拉致問題への積極的関与について」これを今日は救う会の平田さん西岡さん、それと家族会の代表4人が行ってまいりました。
これは小泉総理大臣に対する要請を内閣府の家族支援室の大熊室長に提出して。
それを総理大臣の方に提出していただくことになったわけで。

特にそこで大熊室長に「ハイ分かりました、こうやります」と回答が出るような問題ではありませんが、「皆さんの気持ちはきちんと伝えます」とおっしゃってくださいました。
先般、家族会・救う会それから拉致議連の合同の協議会を開きまして、当面の運動方針を決めたわけです。
例えば4月24日に国民大集会を開くって事は、小泉総理を申し入れることではありませんので、その他の事について申し入れを行いました。

もうひとつが人権問題というのは政府が平成14年に「人権教育啓発に関する基本計画」っていうんで閣議了承したのがありますが。
外国人に対するいろんな差別をしてはいけない、同和教育であるとかいろんな問題が出ておりますが、拉致問題についてはそれが出てません。
14年の段階では当然国会で取り上げられた後ですので、まだ金正日が拉致を認めた段階ではありませんけども。
それこそどんな国内にあります人権侵害といったようなことが並べられてるわけですが。
拉致の問題については何も述べられてませんので、それを入れて欲しいと言うことをお願いしました。

そうしますと学校教育とか、各地の教育委員会が講演会を開く時でも拉致についても加えて欲しいって事を申し入れることが出来ますので。
これが入りますと、学校教育なんかでも拉致問題が広く取り入れられることになると思います。
そしてこの後、増元さんからお話があると思いますが。
今日の参議院の内閣の委員会でこのことについて質問があったときに、官房長官が一般的には曖昧な答えが多かったらしいんですけど、このことについては前向きな答弁をなさったようです。

また最近では家族会・救う会で鳥取県の境港で集会を開きました。
保険をかけてない100トン以上の船は入港できなくなるのが3月1日からでしたが、その直前の27日に境港に行きました。
こちらは人口が2万5千くらいの小さな町で、その中で水産加工業なんかに携わっている方が1100人くらいですから相当影響が大きいわけです。
これはあくまでも経済制裁ではなくて、そうした船が日立でチルソン号が座礁したようなかたちで事故を起こした場合の保障を求めると言うことが、本当に誰でも保険をかけてない船を入れないということで。
経済制裁ではありませんけども。

実際には北朝鮮が2・5%くらいしか加入してませんで、実質的には経済制裁に近い形になりますが。
地元の方にはやはり迷惑な話って言いますか、生活に関わってくるわけです。
しかしそういうところであるにも関わらず市長をはじめたくさんの方が拉致を解決するためには我慢をしなければならないと言う形で支持をしてくださって、我々としましても非常にありがたいことだと思いますし。
直接関係ないところではなおさら強く支持していただけるのではないか?と心強く感じております。
最近の動きをご報告申し上げました。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(4)05.3.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

Img_8295.jpg

最初は79年の4月20日に結婚して、そして9月4日に海水浴で死んだと言ってたわけです。
市川さんについて言うとですね。
ところが昨年の11月に79年の7月20に結婚して9月4日に死んだと今は言っているわけなんです。
しかし、結婚相手のるみ子さんと祐木子さんは79年の10月まで一緒にいたと言っている。
結婚できないんですよね。(笑い声)
しかし自筆のサインがついてる結婚申請書があるんですよね。
自分でサインしたことになってるわけなんですね、二人がね。
それは全部デタラメだということ、なんですよね。

で、少しおかしいといわれたんで直してきたけども、やっぱりるみ子さんだけを直すわけにはいかなくて、市川さんのを隠してた・・・困ったんでしょうね、やっぱりね。
10月まで、10月の後半に結婚したとすると、11月に海水浴に行かなきゃいけない。(笑い声)
それにいくらなんでも気付かなかったのか?
ちょっと困るということになっちゃったんですね。

実は今日ですね、安明進さんが来ることになってたんですけども、ソウルでちょっと用事が出来て今日までにこちらに来れないと昨日電話がかかってきました。
残念なんですが。
実は彼から安さんからですね、市川さんについて詳しく聞き取りを私しておりまして。
それを本当はここで彼に話してもらおうと思っていたんですけど。
まずそのお話、報告からさせていただきたいと思います。

安さんは、ご承知のとおり1987年の3月に金正日政治軍事大学に入ったんですね。
その年の11月に大韓機爆発事件が起きて。
そして学校の中で金賢姫は我々の先輩だという噂が出て。
日本人に化けてたらしいと。
拉致された日本人が先生らしいという噂が駆け巡って、日本人に対する関心が高まるわけなんですね。

一方88年(87年の言い間違い?)の3月、安さんが入学した時にですね。
安さんよりも先輩の工作員たち。
特に、安さんは25期生なんですけども、11期生。
清津連絡所で実際に拉致をやっていた先輩の工作員たちが、「再教育を受けろ」という命令があって政治軍事大学に再入学するわけです。
昔は教育期間が2年ぐらいだったんですね。
安さんは6年コースなんです。

政治軍事大学もだんだんコースが長くなってきて、金正日は工作員教育を重視してたんですね。
現役の工作員だけれども教育期間が足りない、2年しか受けてないから。
もう一度学校に戻って再教育をしろ、と言われて。
それが実はめぐみさんを拉致したチョンという教官が、その再教育組だったわけです。

続きを読む

2005年05月10日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(3)05.3.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
今日せっかく増元さんに来ていただきましたので、この前ここでも話していただいたんですが。
祐木子さんから聞いている結婚の日付のことついてですね。
市川さんが79年の9月に死んだというのは明確に間違っているという情報がありますので。
そのことについて増元さんからちょっとお話をしてもらいたいと思います。

(増元氏壇上に上がる)

『増元照明家族会事務局次長のお話』

Img_8284.jpg

こんばんは。(「こんばんは」の声)
あの〜、結婚の日付けなんですけれど。
あれは第3回実務者協議が(平壌へ)行く・・・政府関係者、支援室・外務省が行く直前ですね。
家族会の皆さんが集まるときに、支援室の方から「こういう話があるですが、ご存知でしたか?」と言うことを言われました。

すなわち、祐木子さんが増元るみ子さんと一緒に暮らしていたのは79年の10月までなんです。
「そういう話をお聞きになっていますか?」と言うから、「それは知りませんでした」というふうに私は申し上げました。
私たちが祐木子さんに最初に会ったときはそのような事はおっしゃっていませんでした。
ただ「るみちゃんとは一緒にいました」
そして「るみちゃんは非常に朝鮮語の歌を覚えるのが早くて、裏山でよく泣いていました」ということを私は聞きました。
それが2002年の12月です。

2003年の5月に姉(=長姉・平野フミ子さん)が今度祐木子さんと会って、姉(=次姉・るみ子さん)はどうやって南浦に入ったか、南浦に着いた時に姉(=るみ子さん)がどういう状態だったか、そして北朝鮮での暮らしを聞いてたようですが。
姉(=フミ子さん)も「いつまで一緒に暮らしていたか?」と言うのは聞いてなかったようでしたので、本当にびっくりしまして。
「そういう話は知りませんでした」というふうに申し上げました。

第3回実務者協議で「北朝鮮サイドがもし結婚の日付を変えてこなかったら、この祐木子さんの証言をぶつけていいですか?」と言うから、「もちろん、どんどんどんどんぶつけてください」と申し上げたんですが。
家族の一応了解を得ないと使えないということを言っておられましたけど。
私は家族の了解というよりも、救出するために必要な日付であればどんどん使ってもらいたいという気持ちでおりましたので、そうやって申し上げたんですが。

その(日本側からるみ子さんと祐木子さんが)10月まで一緒にいたというのを聞いて、実務者協議の(北朝鮮側の)回答が4月20日というふうに最初言っていた結婚の日取りを7月20日に変えてきた。
でも10月まで一緒に暮らしていたというのになんで7月に変えてきたんだろう?と。
全然意味が分からないわけです。
どうして分かるような嘘を。
わざわざ4月20日の結婚日を7月20日といって、間違えて記述しましたとわざわざ言ってきたわけですよね?
意味が無いじゃないですか?

私たちにとってはいつ結婚したか分からないし、確定付けることも出来ないのに。
わざわざ7月20日と言って来た。
こちらサイドでは(るみ子さんと祐木子さんが)10月までは一緒だったから当然結婚してないという。
それまでは結婚してないという情報ですから。
全然意味が分からなかったんですけど。

こちらでよく考えてみるとこれしかないなと思ってるんです。
だいたい2002年9月17日以前、とにかく「8人死亡5人生存2人未入境」という、この方法で日本政府と決着をつけますというふうに金正日の許しを請うた。
で金正日は「それでいいですよ」という風に言って。
その今状況をずっと続けているわけですけども。

市川さんは9月4日に亡くなったといってる。
しかもその時には結婚してた、といってますので。
つまりそれ以前に結婚させておかなゃきゃまずい訳ですね。
10月以降に結婚しているというと、(北朝鮮が出してきた証言を)ガラッと変えなきゃいけない。
(西岡氏の声「海水浴を11月にしなくちゃいけない」)
向こうの証言、言ったことをガラッと変えなきゃいけないので。

横田めぐみちゃんについてはガラッと変えるだけの、多分金正日は許可をするんでしょうけども。
その他、田口八重子さんにしても私の姉にしても市川修一さんにしても、多分有本恵子さんにしても、いちいちそれを変えるっていう、今その一点集中は横田家ですから。
あの当時もそうでしょうけども。

ですから瑣末なことでいちいちまた金正日に「こうやってこうします」ということは出来なかったんでしょう。
ですからあのまま通さなきゃいけない。
9月4日に市川さんは死んだことにしなければいけない。
その前に結婚してたことにしなければいけないから。
祐木子さんが10月まで一緒に暮らしていたのは、当然北朝鮮は記録が残っているから知ってるでしょうけれども。
あえて7月20日に結婚した、ということにしたんじゃないか?と言う風に理解しています。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(2)05.3.10 友愛会館にて

『市川龍子さんのお話』

Img_8266.jpg

皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。

Img_8270.jpg

Img_8327.jpg

また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。

今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)

また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

続きを読む

市川修一さんを救うぞ!東京集会(1)05.3.10 友愛会館にて

『市川健一さんのお話』

Img_8250.jpg

皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの〜、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」
と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4〜5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの〜学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

続きを読む

2005年05月09日

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(6)05.2.10 友愛会館にて

『もう一度、有本明弘さんのお話』

私はこの運動長年してきて、結局アメリカと北朝鮮とものすごい緊張感が高まる。
出来るだけ早い時期がええと、そういうような観点でおりましたので、いよいよそういう(時期に)近づいてきたなと思っております。
私の見方は、アメリカの大統領としたら、朝鮮戦争が終わって50年になるんですね?
今度戦わずして韓国がツルル〜〜〜っと北朝鮮に取り込まれてしまった。
これアメリカとしたらどういうふうな気持ちか?
「許さん! 」と、これしかないでしょ?
あれだけの軍事大国が戦わずしてツルル〜〜〜っと飲み込まれよった。
日本の状況もアメリカ皆知っとるよ?
ツルツルツルっと日本もやられてしまうとこまで、アメリカ見とんのよ、これ。

そういうなかで今国民は経済制裁賛成と、ここまで日本の国は変わってきた。
だからアメリカはあの国を、とにかく北朝鮮の金正日を許さんと。
僕はそういうような観点でずっと運動をやってきたから、いよいよ最終的な面に近づいてきたなと。
最終的な面に近づいてきた時点では、向こうは必ず日本の国に脅しをかけてくると。
そういう見方もしとった。
だから脅しをかけて来たら、向こう寄りの人がいっぺんおるの、目に見えきれんけれどね。
これらの人がまた、そういう軟弱な言い方をすると。
それをささんためにも、未来の人がしっかりしてくれたら。
日本の国が一体となって北朝鮮に厳しく迫れる。
そのためにはトップが動いて、今も言ったようにアメリカの核とミサイル、これに拉致もセットして共同で向こうに厳しく迫っていく。
こういう体制を出来るだけ早い時期に構築しておかなければならない。

そうすることはどうすることか?
やはり小泉さんに退いてもらって、テレビタックルでやっておったでしょ?
次の総理大臣は誰か?
安倍さんが圧倒的に多かったのよ。(拍手)
西村眞悟は、「平沼さんや」と。
これしかないんです。(拍手)
これがなぜか?分かりますか?

安倍さんはこのおかしな自民党、これを説得する側に立たなければならない。
そして朝鮮半島が傾いた時点でその公式によって、(総理に)なる。(くすくす笑い)
だから今は平沼さんをやったら、これ野党挙党体制が出来るのよ?(くすくす笑い)
これしかないんですよ?
日本の国、政治家ひとつになる。
もう国民はひとつになってるのやからね。
やれと。
こういう体制を早急に構築せねばならない。

だから、小泉さん辞めてもらうしかないのよ。(拍手 「その通り!」の声)
小泉さんが任期までおって国民の大半がね、自民党をぶっ壊す言うた人に物凄い声援を送ってるのよ。
国民はみなそんな考えをもっとるのよ。
自民党も、と言うことは支持ないのよ。
だから国民の信頼を得る、こういう人というのは、やはりこの「制裁せい」と言う人の期待に応える。
こういう体制を自民党が作らねばならない。
これしかないのよ自民党は。
政権の座に着こうと思えば。
だからそれだったら小泉さん、任期までやらさしたらいかんのよ。(拍手)
すぐに辞めてもらう。
その平沼さん、挙党体制を作って、朝鮮半島が片付くまではこれでいくんだと。
これみんな国民賛成してくれるよ?(拍手)
それしかないのよ。

わしら自民党一本でおる。
え〜〜と、中二階いうとったけどな。
4階5階の連中、これみんな朝鮮総連にやられてもうとる。
だからこの状況が生まれて来とる。
なぜか?
朝鮮総連を、一言で「困ってるんやから助けたる」と、1兆何千億もの税金を注ぎ込んでしもた。
それと朝鮮総連を手入れする。
これ情報が漏れてもうて、行ったらダンボールに2〜3杯にしか資料がなかった。
これで終わってるのよ?
そんなおかしいことないですよ?

朝鮮総連のトップ引っ張ってきて、「どこに隠したんや?」と、泥を吐かせる。
これしかないのよ?
何もやってないのよ?
やろうとしたのか、やらされなかったか。
とにかく我々の眼から見たら、とんでもない話でぶん殴ってやりたい。
そういう思いでわしらは朝鮮総連の問題に関しては見とる。
そういうような・・・
(「はい、ありがとうございました」の司会者の声。西岡氏時計を指して「時間です」の合図)
(会場内、拍手と笑い)

8時55分に集会終了

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(5)05.2.10 友愛会館にて

『増元照明事務局次長のお話』

こんばんは。
家族会の増元です。
さっき電話があったのは日経の新聞社が
「なぜ今この時期に北朝鮮がこの時期、『6者協議に出ない・核を保有している』というふうに言ったと思いますか?」って言われまして。
やはりよく考えると日本国内で経済制裁に関する要求が高まってきてると。
実際今年になって万景まだ入ってきてませんから。
これは改正油濁損賠法というのがありまして、これを1月から施行しているのが新潟なんですけど。
今、中国の保険会社の方に要請しているらしくて、4月の10日くらいには入ってくるんではないか?と先ほど言われておりました。

でも実際万景がここまで入ってきてない。
2月の16日は金正日の誕生日なんですが、それにメロン持って行ってない(笑い声)
やっぱり直接金正日が「なぜなんだ?」ということを気付いた。
で、「脅せばどうにかなるんではないか?」とまだ瀬戸際外交やってるではないか?と思いますけど。
6者協議に出ない理由として、「日本がこういう敵視政権やってるから出ないんだ」と、中国とアメリカに言うとする。
中国とアメリカはじゃあ、「日本はもうちょっと拉致問題出すなよ」と言う可能性が出てくる。
そのとき日本はじゃあどうするのか?

それを考えていかなければならないと思うし。
先ほど西岡さんがおっしゃったように、日本の立場を明確にこの時期にやっておかなければならない。
拉致問題の6者協議で拉致問題出しますよ?当然。
この拉致問題が解決しなければ経済制裁はありますよ?と。
ということを明確にアメリカにも、中国にも、言っていかなければならない。
中国が、本気で「あっ日本も本気なんだ」と初めてそう思ったら中国は北朝鮮に圧力をかけざるを得ない。
中国は今宗主国でもありますし、議長国ですから。
6者協議でまとめたいというふうに思ってる。

アメリカも一応あんまり北朝鮮に興味ないとしてるんですが、ただ核を持たせるのだけは駄目だと思ってるわけですから。
金正日政権の案件を 6者協議に出して一応まとめる姿勢だけは見せなきゃいけない。
これが崩れたら安保理だと考えているはずですから。
だからどっちにしても出させなければならない。
でも日本が毅然としてやってたら両方の大国が北朝鮮に対して動かざるを得ないということになってる。

ここで日本政府がどうするんだ?と。
「6者協議に出ない・核を持ってる」
この報を受けて日本政府がどういう対応をするか?
私は多分小泉さんがまた弱気になるんだと思いますが。(笑い)
国民の皆さんがどうするか?ということです。
こんなことを言って、じゃあ拉致問題を棚上げするようなそういう機運があるとすると、私たちはやっぱり声を上げていって頂くしかない。
国民がこの国の政策を変えていかなければならない。
小泉さんの弱気を変えていかなければならない。
小泉さんが日本を売ったとすると、辞めてもらうしかない(拍手)

日本の中の経済制裁の機運、さほど変わってないから向こうも困ってるんです。
それがああいう無謀な瀬戸際政策の発言になってるんではないか?と言う私の感想です。
そこではわれわれは絶対に屈してはいけないし。
あんなのに屈したらどこまで付け込まれるか分かりませんからね。
ここは日本として毅然としてやっていただきたいと思っています。
よろしく願いします。(拍手)
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。