2005年05月08日

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(2)05.2.10 友愛会館にて

『有本明弘さんのお話』

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皆さんこんばんは。
恵子の父親の有本明弘です。
よろしくお願いします。
ま、家内が言ったとおりの方法で私たちはやってきました。
その中でこの拉致の問題は、一番先に日本の国で国民の皆さんに広まった、分かってきたのが今度のこの子供が北海道の実家に手紙を送ってきたのが、88年の9月なんです。
88年の2月かな?
くらいには共産党は国会で質問してるんです。
(隣の西岡氏より「3月です」の声)
3月か?

そういういきさつもあって、私らの問題も国会へ持って行った。
この時点で政府は拉致されているということは、もうハッキリと分かってるんですよ。
で、それの2年後、その手紙を持っていった明くる年に竹下さんが北朝鮮に対して「前提条件をつけずに話し合う用意がある」と、その一言唐突にしゃべった。
そのときには手紙持っていたところが安倍晋三さんのところやったから、その秘書の飯塚さん言う人とね、その人と話をした。
ちょっと国は動いてくれるのとちゃうか?と。
そういうやり取りをしました、当時はね。

そしてそれから北朝鮮へ行くと言うような政治家が2〜3人名乗りを上げました。
その結果、最終的に残ったのが当時の金丸さんです。
1990年の9月に金丸さんが行くようになったんです。
だから私らはこのときは当然手紙が来てるし。
1年2年前には国会で質問して、政府と共産党の橋本さんとやり取りしてる。
そういう状況をあんのやから、当然外務省と同行する自社、田辺さんと自民党は石井さん、この人が外務省も何べんか折衝を持ってるんです。
当時の新聞にはそういうふうに出てるんです。

だから、当然私は先遣団でむこうに行った議員団は、当然この問題を提起して、あんたとこはこれをどないするんや?と言う折衝は当然やって来るんもんやと思ってた。
当然やらなおかしいんです。
これやってないんです。
だから僕はこれはおかしいやないかと。
スタート時点からおかしいと、追及するんですが。
当然でしょ?

そういうことが全然メディアの情報に載らんのですよ、これ。
取材しとって分かっとるんやからね?もう。
全然載ってないですよ?
もう、僕らは悔しかった。
当然そのときに、先遣団だった議員団が「過去の償いをしましょ」って海部さんの親書まで持っていったんですよ?
でもそれだけでこの拉致の問題は一言も触れずに帰ってきた。
だから今家内が言ったように9月に行った訪朝の、その12月の年末に、警察がこれはマスコミにリークしたと。
僕はそういうふうに解釈してるんです。

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有本恵子さんを救うぞ!東京集会(1)05.2.10 友愛会館にて

『有本嘉代子さんのお話』

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皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。
この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。

当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく〜っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。

おぎゃ〜っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ〜わ〜と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す〜す〜と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。

私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。

外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。
そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。

1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。

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