2005年05月10日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(3)05.3.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
今日せっかく増元さんに来ていただきましたので、この前ここでも話していただいたんですが。
祐木子さんから聞いている結婚の日付のことついてですね。
市川さんが79年の9月に死んだというのは明確に間違っているという情報がありますので。
そのことについて増元さんからちょっとお話をしてもらいたいと思います。

(増元氏壇上に上がる)

『増元照明家族会事務局次長のお話』

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こんばんは。(「こんばんは」の声)
あの〜、結婚の日付けなんですけれど。
あれは第3回実務者協議が(平壌へ)行く・・・政府関係者、支援室・外務省が行く直前ですね。
家族会の皆さんが集まるときに、支援室の方から「こういう話があるですが、ご存知でしたか?」と言うことを言われました。

すなわち、祐木子さんが増元るみ子さんと一緒に暮らしていたのは79年の10月までなんです。
「そういう話をお聞きになっていますか?」と言うから、「それは知りませんでした」というふうに私は申し上げました。
私たちが祐木子さんに最初に会ったときはそのような事はおっしゃっていませんでした。
ただ「るみちゃんとは一緒にいました」
そして「るみちゃんは非常に朝鮮語の歌を覚えるのが早くて、裏山でよく泣いていました」ということを私は聞きました。
それが2002年の12月です。

2003年の5月に姉(=長姉・平野フミ子さん)が今度祐木子さんと会って、姉(=次姉・るみ子さん)はどうやって南浦に入ったか、南浦に着いた時に姉(=るみ子さん)がどういう状態だったか、そして北朝鮮での暮らしを聞いてたようですが。
姉(=フミ子さん)も「いつまで一緒に暮らしていたか?」と言うのは聞いてなかったようでしたので、本当にびっくりしまして。
「そういう話は知りませんでした」というふうに申し上げました。

第3回実務者協議で「北朝鮮サイドがもし結婚の日付を変えてこなかったら、この祐木子さんの証言をぶつけていいですか?」と言うから、「もちろん、どんどんどんどんぶつけてください」と申し上げたんですが。
家族の一応了解を得ないと使えないということを言っておられましたけど。
私は家族の了解というよりも、救出するために必要な日付であればどんどん使ってもらいたいという気持ちでおりましたので、そうやって申し上げたんですが。

その(日本側からるみ子さんと祐木子さんが)10月まで一緒にいたというのを聞いて、実務者協議の(北朝鮮側の)回答が4月20日というふうに最初言っていた結婚の日取りを7月20日に変えてきた。
でも10月まで一緒に暮らしていたというのになんで7月に変えてきたんだろう?と。
全然意味が分からないわけです。
どうして分かるような嘘を。
わざわざ4月20日の結婚日を7月20日といって、間違えて記述しましたとわざわざ言ってきたわけですよね?
意味が無いじゃないですか?

私たちにとってはいつ結婚したか分からないし、確定付けることも出来ないのに。
わざわざ7月20日と言って来た。
こちらサイドでは(るみ子さんと祐木子さんが)10月までは一緒だったから当然結婚してないという。
それまでは結婚してないという情報ですから。
全然意味が分からなかったんですけど。

こちらでよく考えてみるとこれしかないなと思ってるんです。
だいたい2002年9月17日以前、とにかく「8人死亡5人生存2人未入境」という、この方法で日本政府と決着をつけますというふうに金正日の許しを請うた。
で金正日は「それでいいですよ」という風に言って。
その今状況をずっと続けているわけですけども。

市川さんは9月4日に亡くなったといってる。
しかもその時には結婚してた、といってますので。
つまりそれ以前に結婚させておかなゃきゃまずい訳ですね。
10月以降に結婚しているというと、(北朝鮮が出してきた証言を)ガラッと変えなきゃいけない。
(西岡氏の声「海水浴を11月にしなくちゃいけない」)
向こうの証言、言ったことをガラッと変えなきゃいけないので。

横田めぐみちゃんについてはガラッと変えるだけの、多分金正日は許可をするんでしょうけども。
その他、田口八重子さんにしても私の姉にしても市川修一さんにしても、多分有本恵子さんにしても、いちいちそれを変えるっていう、今その一点集中は横田家ですから。
あの当時もそうでしょうけども。

ですから瑣末なことでいちいちまた金正日に「こうやってこうします」ということは出来なかったんでしょう。
ですからあのまま通さなきゃいけない。
9月4日に市川さんは死んだことにしなければいけない。
その前に結婚してたことにしなければいけないから。
祐木子さんが10月まで一緒に暮らしていたのは、当然北朝鮮は記録が残っているから知ってるでしょうけれども。
あえて7月20日に結婚した、ということにしたんじゃないか?と言う風に理解しています。(拍手)


市川修一さんを救うぞ!東京集会(2)05.3.10 友愛会館にて

『市川龍子さんのお話』

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皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。

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また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。

今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)

また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

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市川修一さんを救うぞ!東京集会(1)05.3.10 友愛会館にて

『市川健一さんのお話』

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皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの〜、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」
と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4〜5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの〜学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

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