2005年06月05日

綸言汗の如し

皆様は「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」と言う諺を知っていますか?
一度口に出した君主の言葉は、汗が再び体の中に戻らないように取り消すことが出来ないのだから、発言にはくれぐれも注意しろ、という意味であります。
救う会の戦略を見ていると、つくづくこの諺の重みを感じざるを得ない。

第7回国民大集会を開催するに当たって、主催者は座り込みを辞さずの言葉を口にしました。
しかし、そもそも救う会がこの言葉を初めに口に出した時、彼らは最悪座り込みに追い込まれる事態を本当に覚悟してたのかどうか?がどうも怪しいのです。
座り込みも辞さずと言葉で取りあえず気勢をあげておけば、官邸側からそれなりに何がしかの譲歩が引き出せるのでは?と安易に考えていた節は無かったのだろうか?
私が見る所、どうも後者のような安易な気持ちでこの言葉を口にした可能性は大である、と思えてならないのだが?

座り込みは安易な上に無謀な策である。
その理由は散々書き綴った過去のエントリーをお読みいただきたい。
座り込みも辞さずと言葉の脅しをかければ、官邸も何か動くだろうという甘い期待が救う会の一連の戦略には織り込まれていたように思う。
ところが予想に反して小泉はのらりくらりと動かない。
そのうち官邸も動くだろう、いつか動くだろうと言う甘い見込みの中で、ただ漫然と時をやり過ごし時間だけが無為に過ぎてしまった。
いずれ官邸は動くだろうと言う甘い見込みゆえに、自ら行動を起こし世論の喚起を図ることもしなかった。
結局の所、官邸側に追い詰められた救う会は、自分が振り上げたこぶしの納めどころを失ったのである。

振り上げた以上、今度はそのこぶしの収めどころを考えなくてはならない。
選択肢は二つに一つ。
振り上げた勢いに任せて官邸に座り込みをかけるか?
それとも拳を収めて、次善の策を行使するか?

あれだけ啖呵切って勢い込んだだけに、今更振り上げたこぶしをすごすごと下ろすのはどうも決まりが悪い。
そんなことをすれば救う会の看板に傷がつき、世論の信頼を失わないか?
今更引っ込みはつかないのだから、このまま突撃するべし!
一部の座り込み賛成派の議論の裏にはそんな思惑も見え隠れする。

この座り込み策には費用対効果の議論も、リスク対策も講じられた形跡がどうも見えない。
それもそのはずである。
元々口先だけの思いつきで、それほど深く覚悟をして戦略を練った上で「座り込みも辞さず」の言葉を言ってるわけではないのだから。
つくづく愚かな思考の連鎖であると思う。

今更言っても仕方が無いことだけど、なんで救う会は自分で自分の首を絞めるようなことを言ったんでしょうね?
座り込みも辞さずの言葉を口にしたのなら、その時から最悪の事態に備えて準備万端整え、一番効果的でリスクの少ない実行案を具体的に講じておくのが物事の順序である。
しかし救う会にそこまでの準備をしたうえで、座り込みを口にした形跡は、無い。
官邸動かずの形勢を受けて、今頃になって慌てふためいて、準備におろおろしているのである。
それはそうでしょう、この発言自体が最初から行き当たりばったりなのだから。

綸言汗の如し。
リーダーたる者、出来もしないことを安易に口走ってもらっては困るのです。
救う会が自分で掘った落とし穴に、小泉を落とさずに救う会自らがはまってどうするのか?
今日はもう6月の5日。
座り込み予定日とされる24日まで時間はたったの半月ちょっとである。
これだけの一大事をこんな短い時間で、いったいどうやって準備をしリスク対策をするというのか?
マスコミ対策は?
万が一の救急体制は?
おそらく救う会にはそれらの準備はほとんど出来てはいないでしょう。
それでも座り込みに打って出るというなら、それを無謀と言わずしてなんと言うのか?

ともかく家族は今必死なのだ。
それなのに肝心の救う会の、この危機感の無さ具合は何なのか?
救う会の看板を守るために、誰が見ても無茶な策を救出運動と銘打って行使するようでは本末転倒である。
私たちの運動には人の命がかかっているのです。
救う会は自分の面子などにこだわっている場合ではない。
こだわるべきでもない。

救う会はもっと真剣にもっと危機感を持って、救出運動の戦略を立てるべきである。

※5日AM8.25に本文の一部を修正しました


posted by ぴろん at 01:03| Comment(4) | TrackBack(2) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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