2005年06月27日

命は惜しんで欲しい

ご家族による座り込みは何とか無事に一段落いたしました。
座り込みに関する感想などはあちらこちらのBlogでエントリーされているようです。
私の感想もおおむね差異はありませんので、申し訳ありませんが当Blogでは省略させて頂きます。
実は座り込みの感想などよりも、どうしても書きたかったエントリーがひとつあるのです。
私はこれから古川了子さんの集会テキスト化作業に集中しますので、当分の間素人のたわ言を書く暇はありません。
ですので、どうしてもこれだけはと思っている、「ご家族の健康の問題」に関して、私の思うところを書き記しておきたいと思います。

座り込みに関して、当Blogで懸念の声を上げた折、家族の健康問題を錦の御旗にするのは止めろと言うご批判を頂戴しました。
でも私は今でもそしてこれからも、何より第一に優先するべきはご家族の健康だと思っております。
それについて私が思う個人的理由を、ちょっと綴らせてくださいませ。
実はこの一件に関しては書くべきか書かざるべきか、散々迷ったのです。
でも書かねば説得力のあるエントリーにはならないと思い、あえて自分の恥を晒す覚悟をいたしました。
少しばかり重たい話になりますが、よろしければお付き合いください。


私は大切なある人を自殺によって失うという、苦い経験を持っております。
彼女があるトラブルが理由で大変精神的に苦しんでいることを私は良く知っておりました。
しかし私の立場上、彼女のトラブルの原因に口を差し挟むことは出来なかったのですね。
私に出来る事といえば、励ましの言葉をかけることと愚痴を聞いてあげることくらい。
しかし根本的な原因を取り去れない限り、それは対処療法でしかない。
私は、ただただ彼女が日々追い詰められていくのを黙って見ているより他なく、そうしてぐずぐずと手をこまねいているうちに、彼女は自ら命を絶ってしまったのです。

彼女が亡くなる1週間ほど前だったでしょうか?
ふらりと私の所に1本の電話が入りました。
その時の彼女の穏やかな声が今も忘れられません。
悟りの境地、と言う物がどのような物なのか?
煩悩だらけの私には良く分かりません。
しかしあの時の彼女の声はまさしくその悟りの境地だったのではないか?と今でも思う。
いつもなら切羽詰ってすがる様な声で話をするのが、その日に限って妙に落ち着き払っているのですから。

さすがに私も「ん?何か変だな?様子が違うな?」とは思ったのです。
思ったのですが、これが今でも痛恨の極みなのですが。
私は心に浮かんだその疑問を、口に出して伝えることをしなかったんです。
なぜ?私は一言「いつもと様子が違うけど、何かへんなことを考えてないでしょうね?」と言わなかったのか?
その一言を口に出していれば、あるいは彼女も踏みとどまって、命を絶つような事はしなかったのではないか?
その事実は今も私の心の奥で深い傷となって疼いております。

今にして思えば、あの時彼女はすでに覚悟を決めていたのでしょう。
そして最期の別れをするために、電話をかけてよこしたのだと思います。
死を覚悟した人がただ別れを言うためだけに電話をしてくるのだろうか?
心の奥底では、もしかしたら止めて欲しい思いとどまらせてほしいという、サインを送っていたのじゃなかろうか?
でもその時私はそこまで彼女の心を読むことは出来ませんでした。

今でも親しい友人からはそんなに自分を責めてはいけないと言われます。
そんな事、後になってああだこうだと分かるのであって、その瞬間にそこまで深読みをすることなど、誰にも出来はしないのだから、と。
確かにその通りです。
その通りなのですが、でも現実に人ひとり死んでいる事実は変わりません。
気が付くところまでは来てたのに、最後に一言が出なかった・・・
結局のところ、私は人ひとり見殺しにしてしまったも同然という、良心の呵責からは逃げきれる物ではありませんでした。

自殺の一報を受けて、その晩私は一睡も出来ませんでした。
眠れないまま通夜に参列し、会葬者と共に振舞いの食事とお酒をいただいたのですが、酔えませんでしたね。
お酒が入ると私はすぐに眠くなる性質なのですが、その晩はいくら飲んでも酔えませんでした。
飲んでも酔えないことが本当にあるのだと、その時私は初めて知りました。
結局その通夜の晩も一睡も出来ず、翌日の葬儀が終わるまで丸二晩、眠れないまま私は彼女の葬儀に参列したのでした。

それからしばらくの間、私は七転八倒の苦しみを味わいました。
どうして助けてやれなかったのか?と自問自答する日々が続きました。
のた打ち回る日々を経て、私が得たひとつの答え。
死んだ人はもう帰らない。
でも、もう二度とあの苦しみを味わいたくは無い。
だから、これからの自分の人生でもしも人の生死に関わる場面に出くわす事があったなら、その時は必ず余計なおせっかいを焼く人間になろう、と決めたのです。
例え相手に嫌がられようと最悪人間関係が壊れようとも、死なれる辛さに比べたらそんなもの屁でもない。
これは私の超個人的な答えです。
けれど、その答えが今の私を支える心の柱の一つになっていることは確かなのです。

今回の座り込み云々の話が出たとき。
真っ先に浮かんだのは、お疲れのご家族が3日もの座り込みに耐えられるのか?
もしも家族の身に万が一のことがあったとき、北で救いを待つ被害者たちはその事をどう思うのだろうか?と言うことでした。

私の大切な人はもう帰らない。
でも拉致被害者はまだ生きている。
人ひとり見殺しにすると言うのは耐えがたい苦痛です。
だからご家族の人たちには後悔の無いよう、できる限りの策を行使して救出運動に取り組んでもらいたいと思うし、その為の支援は惜しまないと言う気持ちがまずはあります。

しかしその一方で自分が原因で身近な人に死なれた場合、心に残す傷の大きさもまた計り知れないものがある、と言う点が気がかりなのです。
今回の座り込みに限らず一連の救出運動の過程で、ご家族の身に万が一のことがあった場合、めぐみさんやるみ子さんが受けるであろう心の傷の深さを思うとき、私は決してご家族の命を蔑ろには出来ないと思うのですね。
ご家族が自分の命をかけても肉親を救い出したいと言う気持ちは痛いほど分かる。
でも、もしも家族が救出運動の過程で命を落とした場合、めぐみさんやるみ子さんが受けるであろう心の傷の深さもまた痛いほど分かるのです。

ですから、私は何をおいてもご家族の健康は第一に考えて欲しいと願うのです。
ご家族の皆様には何としても健康でお元気で、肉親との再会を果たしてもらいたい。
そして残された時間を少しでも豊かに過ごしてもらいたい。
それが出来なくて、何のための救出運動なのでしょうか?
世の中には家族が命をかけて運動に打ち込む姿を賛美するあまり、家族は神聖にして犯すべからずと言ったふうに奉る向きもありますが。
私にはそれが正しい支援のあり方とは思えない。

突撃精神よろしくご家族が討ち死にして、それが何の映えになるというのでしょう?
人の命を軽んじる向きを私は許容することは出来ません。
命は何よりも大事にされるべきであり、お疲れのご家族の健康問題は何よりも配慮されてしかるべきものだと思っています。
今この現状において、ご家族に休めと言うのはある意味とても酷な言い方なのかもしれません。
でも、だからと言っていつまでもいつまでも先の見えない全力疾走を続けていては、ギリギリまで張り詰めたご家族の精神の糸がいつかプツンと切れかねない。
糸が切れたときの人間の精神がいったいどのような状況に追い詰められるのか?
ひとつの修羅場を経験した者の立場から言わせていただけば、そこは非常に非常に危惧する所なのです。

家族の身近にいる支援者の皆様。
どうかご家族の健康に配慮して差し上げてください。
時には休息を取る勇気を持っていただきたいのです。
それは北に囚われの肉親を見捨てることでは決してないと思う。

救出運動の盛り上げのためには確かに今は正念場です。
しかしそれもご家族の命あっての物だねです。
死んで花実は咲きません。
墓石に布団を着せても意味がありません。
家族はもう十分すぎるほど頑張ってきました。
これから頑張らねばならないのは、私たち支援者の方なのです。
いつまでも家族を全力で走らせるのは、そろそろ恥と思わねばいけない時期に来ているのではないでしょうか?

滋さん、早紀江さん、明弘さん、嘉代子さん、照明さん、フミ子さん、文代さん、健一さん、龍子さん・・・ご家族の皆さん、どうか少し休んでください。
後は私たち支援者が頑張りますからと。
運動のあり方がそういう方向へ進んでいかない限り、遅かれ早かれ悲劇の瞬間が来るような気がしてなりません。
昨日の座り込みの後のご家族の疲労は見ていて痛々しいくらいでした。
どうか家族の皆さん。
決して無茶はしないで欲しい。
北の地で救いを待つ肉親のためにも、ご自分の命を惜しむ勇気を持って欲しいと心から願うのです。


posted by ぴろん at 04:22| Comment(8) | TrackBack(5) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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