
ネットと言うのは便利な物です。
今回それを痛切に感じる出来事がありました。
「721海軍航空隊 第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」
これが叔父の所属した特攻部隊の正式名称です。
この所属部隊の名称を叔父の両親が息子の墓石に刻んで残していてくれたことで、実は叔父がいつごろ特攻に志願したのかを今回推測することが出来たのです。
祖父亡き今、当時の事情を知ることは永久に不可能だと諦めていたのに、ネットと言うのはすごい。
居ながらにして、60年前の事情を手に入れることが出来るのですから・・・
叔父が両親に宛てた遺書をご紹介し、遺族がなぜ叔父の敵艦撃沈を知っているのかのエピソードをご紹介し、残り後2回で終わる予定にしていた一連のエントリーですが、今回急遽追加のエントリーを一本書くことにしました。
お付き合いくださいませ。
桜花隊で検索をいれると、実にたくさんの資料がヒットします。
桜花とはなんぞや?については後でご説明するとして、それらの資料を当たっているうちに「神風特別攻撃隊の戦没者名簿」なる物を見つけたのですね。
もしや?と思ってその名簿を辿ってみると・・・・・・あったのです。
私の特攻の叔父の名前が。
一瞬心臓が止まるかと思うほど、ドッキリしました。
特攻はアメリカ艦隊への肉弾戦。
戦後はGHQの迫害を恐れて、特攻隊員の遺族であることを隠したり、特攻の出撃者名簿が密かに処分されたりしたケースもあると聞いておりました。
ですから叔父の記録ももしかしてうやむやになっているのではないか?と漠然と考えていたのです。
ところが、あったんですね。
部隊名も戦死した日も、きちんと、正確に。
急いで母を呼んで名簿を見せると、「叔父さん!叔父さん!」と声を上げて泣き出しました。
私も泣きました。
二人してパソコンの前で声を上げて泣きました。
ちゃんとここに、叔父が特攻隊員として確かに存在していたという証しが記録されている。
嬉しくもあり驚きでもあり・・・そして哀しくもありました。
叔父はやはり間違いなく特攻で死んだのだと。
木っ端微塵にその肉体が吹き飛び沖縄の海に沈んだのだと、改めて思い知らされた瞬間でもありました。
このエントリーを始める時は叔父の名前は匿名にして一連の記事を書こうと思っていたのです。
が、こうして正確な記録があるということに感銘を受け、ここで叔父の名前と遺影を公開する決意をいたしました。
ネットで見つけた叔父の戦没者名簿はこちら。
神風特別攻撃隊戦没者名簿から沖縄方面作戦・特攻編成部隊→721航空隊攻撃708飛行隊のページを御覧下さい。
「昭和20年5月4日、第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」と言う欄の一番上。
「上飛曹 石渡正義(いしわたまさよし)」という記載があります。
この人が、私の特攻の大叔父その人なのです。
冒頭の写真はその叔父の遺影でございます。
身内の私がほめるのもなんですが、結構良い面構えをしてますでしょう?(笑)
家族や友人から「まーちゃん」と呼ばれて親しまれた、私の特攻の叔父の顔をどうぞ御覧くださいませ。

さて本日の本題に入りましょう。
まずは今回一連のエントリーを書くに当たって一番重要な手がかりになった、叔父本人の手による略歴をご紹介します。
昭和十六年十二月一日乙種第十七期
予科練修生トシテ岩國空ニ入隊
同十七年七月二十八日三重空に転勤
同十九年二月二十一日予科練習生
教程ヲ終了同年三月十日壺中海軍
航空隊ニ転勤同十一月台北民間飛
行場台東民間飛行場ニ派遣サレ
同年五月三十日中間練習機教程ヲ
終了同六月一日台南海軍航空隊
ニ転勤艦上爆撃機教程ヲ同年
九月二十八日卒業同十月四日鈴鹿空
ニ転勤操縦教員トシテ予備生徒
ノ教育ニアタリ同年十一月九日
七二一海軍航空隊に転勤
戦闘機操縦員トナリ今ニ至ル
(注: 旧字体の漢字は現代表記に改めてあります)
叔父の予科練入隊は昭和16年12月1日。
真珠湾攻撃の直前なんですね。
まさかこのときに、叔父は特攻で死ぬことなどこれっぽっちも思ってはいなかった事でしょう。
当時の軍国少年ならば予科練は憧れの的。
叔父も純粋に飛行機乗りになりたくて、少年らしい無邪気な心で志願をしたのかもしれません。
また予科練は、経済的理由で中学に進学できない地方の少年を教育するという性格も兼ねていたらしいのですね。
叔父の合格した乙種と言うのは高等小学校卒業程度の学力が求められたのだそうです。
となると頭の良かった叔父はもっと勉強がしたくて、予科練へ進むことを考えたのかもしれません。
う〜ん、やはり生家が貧乏でなければ、ね。
無事に中学進学を果たしていれば、予科練と言う人生の選択はあるいは有り得なかったかも知れない・・・
またこの略歴を読むと、台湾に赴任したり教官として予備生徒を教えていたことも分かります。
721海軍航空隊に集められた人材は優秀なメンバーを選抜したそうですが、この略歴を読むだけでも叔父がそれなりに優秀な人材であったであろうことは容易に推測されます。
実際、桜花の搭乗員は優秀な人材が多かったそうです。
後で説明しますが、そもそも桜花と言う戦闘機自体が貧弱で粗末極まりない代物であり、これをカバーして無事操縦し目的を果たすにはそれ相応の力量がいること。
桜花による特攻は、操縦の腕前の良い人から出撃をしていったと言います。
もしも叔父が平々凡々のつまらぬ人であったなら、パイロットとしての腕前が下の下であったら?
あるいは特攻に志願したとしても選抜されることもなく、死ぬことは無かったのかもしれない。
優秀ゆえに非業の死を招く、と言うのも考えてみれば罪な話。
心中は少し複雑です。
今は亡き祖父が口癖に言っていたことをふと思い出したりもします。
「正義は優秀な人間だった。
あれが生きていたら日本の戦後復興にどれだけ役に立ったか分からない。
つくづく惜しい人間を死なせたものだ・・・」
本当に。
特攻で戦死した隊員の多くは優秀な人材が多かったと、どの資料に当たっても記述が見つかります。
これらの人が戦争を生き延びていたら、どれほど国の宝となったことか。
その意味でも彼らの尊い犠牲を無にすることは申し訳の立たない話だと私は思っています。
自分に出来る精一杯の生き方をしなければ、先人の犠牲に顔向けが出来ないのではとも感じます。
更に叔父の墓には本人がしたためた上記の略歴と共に、家族が追加した以下の一文が刻んであります。
特別攻撃隊第七神雷部隊桜花隊員トシテ鹿屋基地ヨリ
沖縄周辺ニ出撃敵艦轟沈戦死ス 功ニ依リ二階級特進少尉
ニ任ゼラル 享年二十一才
この所属部隊名が墓石に刻んであったことで、叔父が特攻に志願し死に至るまでの経緯が、今回おおよそ推測できたのです。
資料によれば721海軍航空隊・別名神雷部隊が、全国の航空隊から目的と生存不可能の条件を示した上で、密かに募集を始めたのが昭和19年の8月中旬。
応募者の中からおよそ200名を選抜し10月から11月に掛けて721航空隊に着任したと、記録にはあります。
もう少し細かく時系列を追うと、9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決定。
10月1日、百里原(茨城)に桜花特攻専門部隊第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入される。
11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられる。
翌年、神雷部隊は鹿屋基地(鹿児島)より出撃、となります。
資料と叔父自筆の略歴を総合して考えるに、叔父は昭和19年の夏から秋にかけて特攻に志願し選抜され、同年11月9日721部隊に着任するという流れであったと推測できるのです。
そこで問題になるのが一連のエントリーの最初にご紹介した叔父から姪に宛てた2枚の葉書です。
そのうち「オテガミチョウダイネ」と記された、2枚めの葉書が投函されたのが昭和19年10月18日。
やはり思ったとおり、あの葉書を書いた時点で叔父はすでに特攻へ志願し、死の覚悟を決めていたと想像されるわけです。
「オテガミチョウダイネ」の一文は、やはり単純に故郷恋しさや姪っ子可愛さだけで書いたものでは、無い。
いずれ来るその時に備え、可愛がっていた姪っ子の思い出を出撃の際連れて行くべく、叔父は母からの返事を求めたに違いありません。
この推測を説明した所、再び母は泣き出しました。
「それじゃ私の書いた葉書は叔父さんの役に立ったんだね?」
この言葉に再び私の胸は詰まってしまいました。
その通り。
母の葉書は確かに叔父の役に立ったのです。
叔父が僅かに残された生への執着を振り切り、出撃の覚悟を決める最後の切り札として。
叔父が戦死した5月4日と言う日は、鹿屋だけでなく、知覧・指宿・串良など他の基地からも陸海合わせてたくさんの特攻機が出撃をしています。
かなり大規模な作戦が展開されたのでしょう。
出撃の朝、叔父は何を思って身支度をしたのでしょうか?
家族の写真や母の葉書を胸に収めるとき、心によぎった物はなんなのでしょうか?
葉書ですから裏を返せばすぐに文面を読むことが出来ます。
ミミズが這ったようなたどたどしい文字を見て、思ったことは何なのでしょう?
二度と生きて戻れぬ死出の旅。
どんなに想像力を巡らせても巡らせても、叔父の心中にたどり着くことは容易には出来ません。
「兄ちゃんがお前を護ってやるからな。
しっかり勉強するんだぞ。
親父やお袋のことは頼んだぞ。」
そういう思いが生への執着を振り切る切り札となったのだとしたら、母の書いた葉書の重さを今更ながらに思わずにはいられません。
叔父が命を懸けて母を護ったということは、母の未来を護ったということ。
母の未来には当然娘の私の存在があるわけです。
つまり叔父の特攻は母だけでなく、娘の私の人生も護ってくれたということにもつながります。
それを意識する時、私は叔父の壮絶な決意の重さに潰されそうになります。
平和の時代を生きる私が、叔父と同じような決意が出来るのか?
とてもとても、そんな決意など今の私には出来そうもありません。
「桜花」についてすこし説明いたします。
桜花の写真はこちら。
桜花は自力発進が出来ないため、全長約20メートルある一式陸上攻撃機と言う母機が機体の腹に桜花を抱えるようにして飛び立ちます。
桜花は全長約6メートル、両翼を含めた全幅5メートルの小型機だそうです。
機体の先端に1トン前後の大型爆弾を搭載。
中央部にパイロットの座席があり、後部には推進用のロケットを搭載していました。
これを敵艦上空で母機から切り離し、滑空したりロケットを噴射したりしてパイロットもろとも敵艦に体当たりをするんだそうです。
いわゆる「人間爆弾」と言う物です。
桜花は特攻機ですから、着陸の為の車輪がありません。
訓練用の機体には車輪の代わりにソリを付けて着陸が出来るようにしておき、爆弾の代わりに水や砂を積んで訓練をしました。
搭乗員に求められた技能は着陸技術ではなく、敵艦に向かって降下する技術のみ。
投下訓練を“一回”終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる「練度A」の判定を受けたんだそうです。
そして彼ら桜花隊員は、鹿児島の鹿屋基地に送られていきました。
桜花とは一言で言って、グライダーに毛が生えた程度の代物だそうです。
そしてこれで敵艦を撃沈するのはほとんど不可能だったのだそうですね。
機体が重いわりに翼が小さい桜花のような飛行機は、高速飛行しなければ失速するんだそうです。
しかし実態は、桜花のロケットの噴射時間はおよそ9秒程しか持ちません。
そのため桜花は母機から投下された後、グライダーのように滑空して敵艦に接近するというのです。
操縦がかなり難しいというより、ほとんど不可能に近かったのではないでしょうか?
ですから実際の戦闘の場でも、大半の桜花が迎撃されて撃沈。
母機の一式陸攻の方も、そのほとんどが敵の攻撃を受けて撃沈。
桜花作戦はほとんど見るべき成果を上げられませんでした。
敵の砲撃が雨あられと降り注ぐ中、グライダーで敵艦接近とは・・・いやはや何とも。
しかも桜花の投下訓練はたったの一回。
それで実践に臨むとは、ほとんど行き当たりばったりです。
今の時代感覚で言えば、なにやら性質の悪い冗談話か?としか思えないのが桜花作戦と言うわけです。
敵方のアメリカは、桜花のことを「BAKA」と呼んで嘲笑していたとも聞きます。
こんなちゃちな戦闘機で、しかもろくな訓練も無くですよ?
死を覚悟して特攻せねばならなかった叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
それでも母機から投下され目標からそれぬよう桜花を操縦し、見事敵艦の撃沈に成功したという叔父。
たまたま運が良かったのか?それとも操縦の腕前が優れてよかったのか?
それでもですね。
変な言い方ですけれど、一度特攻の覚悟を決めたのならば、無事本懐を遂げられた叔父は幸せだったのかな?とも思っています。
これからの季節、テレビのドキュメンタリー番組などで、特攻の様子を収めたモノクロの映像が流れることがありますね。
あれを見るのは正直辛いんです。
無事敵艦に体当たりできた特攻機は、まだ良い。
しかしアメリカの迎撃を受けて、空しく落下する特攻機を見るのがたまらなく辛いのです。
死を覚悟し「花は桜木、人は武士」「一人一艦撃沈あるのみ」の精神で出撃した多くの特攻隊員。
その目的を果たす事もできずに落下する戦闘機の操縦席で、あの特攻隊員はさぞかし無念の涙を流しているのだろうな、と思うとですね。
私はどうしてもあの映像を正視出来ないのです。
同じ理由で特攻を扱った映画やドラマも基本的に私は駄目ですね。
感情移入がうまく出来ないんです。
もっと正確に言うと、感情移入は一応それなりに出来るんですけど、同時に物凄く冷めた感情も沸き起こってしまうのです。
なまじっか、リアルな特攻隊員を身近に知っているせいなのか?
どんなに良く出来たドラマを見ても、心のどこかで実際の特攻隊員はこんなものじゃないでしょ?と冷めた気持ちが沸き起こってしまう。
これは良いことなのか悪いことなのか?
これはおそらく肉親ゆえに感じてしまう、特攻と言う現実の重みの違いなのでしょう。
明日のエントリーでは叔父が両親に宛てた遺書をご紹介します。
明後日のエントリーではなぜ私たち遺族が叔父の敵艦撃沈を知っているのか?その珍しいエピソードをご紹介する予定です。
特攻の叔父さんのお話。
ここで一気に連続エントリーをいたします。
いま少しお付き合いいただきますことを、お願い申し上げます。
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参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・