2005年07月31日

神風桜花特別攻撃隊・・・ある特攻隊員のお話 その4・・・

105-0598_img.jpg

ネットと言うのは便利な物です。
今回それを痛切に感じる出来事がありました。

「721海軍航空隊 第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」

これが叔父の所属した特攻部隊の正式名称です。
この所属部隊の名称を叔父の両親が息子の墓石に刻んで残していてくれたことで、実は叔父がいつごろ特攻に志願したのかを今回推測することが出来たのです。
祖父亡き今、当時の事情を知ることは永久に不可能だと諦めていたのに、ネットと言うのはすごい。
居ながらにして、60年前の事情を手に入れることが出来るのですから・・・
叔父が両親に宛てた遺書をご紹介し、遺族がなぜ叔父の敵艦撃沈を知っているのかのエピソードをご紹介し、残り後2回で終わる予定にしていた一連のエントリーですが、今回急遽追加のエントリーを一本書くことにしました。
お付き合いくださいませ。

桜花隊で検索をいれると、実にたくさんの資料がヒットします。
桜花とはなんぞや?については後でご説明するとして、それらの資料を当たっているうちに「神風特別攻撃隊の戦没者名簿」なる物を見つけたのですね。
もしや?と思ってその名簿を辿ってみると・・・・・・あったのです。
私の特攻の叔父の名前が。
一瞬心臓が止まるかと思うほど、ドッキリしました。

特攻はアメリカ艦隊への肉弾戦。
戦後はGHQの迫害を恐れて、特攻隊員の遺族であることを隠したり、特攻の出撃者名簿が密かに処分されたりしたケースもあると聞いておりました。
ですから叔父の記録ももしかしてうやむやになっているのではないか?と漠然と考えていたのです。
ところが、あったんですね。
部隊名も戦死した日も、きちんと、正確に。

急いで母を呼んで名簿を見せると、「叔父さん!叔父さん!」と声を上げて泣き出しました。
私も泣きました。
二人してパソコンの前で声を上げて泣きました。
ちゃんとここに、叔父が特攻隊員として確かに存在していたという証しが記録されている。
嬉しくもあり驚きでもあり・・・そして哀しくもありました。
叔父はやはり間違いなく特攻で死んだのだと。
木っ端微塵にその肉体が吹き飛び沖縄の海に沈んだのだと、改めて思い知らされた瞬間でもありました。

このエントリーを始める時は叔父の名前は匿名にして一連の記事を書こうと思っていたのです。
が、こうして正確な記録があるということに感銘を受け、ここで叔父の名前と遺影を公開する決意をいたしました。
ネットで見つけた叔父の戦没者名簿はこちら
神風特別攻撃隊戦没者名簿から沖縄方面作戦・特攻編成部隊→721航空隊攻撃708飛行隊のページを御覧下さい。
「昭和20年5月4日、第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」と言う欄の一番上。
「上飛曹 石渡正義(いしわたまさよし)」という記載があります。
この人が、私の特攻の大叔父その人なのです。
冒頭の写真はその叔父の遺影でございます。
身内の私がほめるのもなんですが、結構良い面構えをしてますでしょう?(笑)
家族や友人から「まーちゃん」と呼ばれて親しまれた、私の特攻の叔父の顔をどうぞ御覧くださいませ。

Img_8422.jpg

さて本日の本題に入りましょう。
まずは今回一連のエントリーを書くに当たって一番重要な手がかりになった、叔父本人の手による略歴をご紹介します。

  昭和十六年十二月一日乙種第十七期
  予科練修生トシテ岩國空ニ入隊
  同十七年七月二十八日三重空に転勤
  同十九年二月二十一日予科練習生
  教程ヲ終了同年三月十日壺中海軍
  航空隊ニ転勤同十一月台北民間飛
  行場台東民間飛行場ニ派遣サレ
  同年五月三十日中間練習機教程ヲ
  終了同六月一日台南海軍航空隊
  ニ転勤艦上爆撃機教程ヲ同年
  九月二十八日卒業同十月四日鈴鹿空
  ニ転勤操縦教員トシテ予備生徒
  ノ教育ニアタリ同年十一月九日
  七二一海軍航空隊に転勤
  戦闘機操縦員トナリ今ニ至ル
  (注: 旧字体の漢字は現代表記に改めてあります)

叔父の予科練入隊は昭和16年12月1日。
真珠湾攻撃の直前なんですね。
まさかこのときに、叔父は特攻で死ぬことなどこれっぽっちも思ってはいなかった事でしょう。
当時の軍国少年ならば予科練は憧れの的。
叔父も純粋に飛行機乗りになりたくて、少年らしい無邪気な心で志願をしたのかもしれません。
また予科練は、経済的理由で中学に進学できない地方の少年を教育するという性格も兼ねていたらしいのですね。
叔父の合格した乙種と言うのは高等小学校卒業程度の学力が求められたのだそうです。
となると頭の良かった叔父はもっと勉強がしたくて、予科練へ進むことを考えたのかもしれません。
う〜ん、やはり生家が貧乏でなければ、ね。
無事に中学進学を果たしていれば、予科練と言う人生の選択はあるいは有り得なかったかも知れない・・・

またこの略歴を読むと、台湾に赴任したり教官として予備生徒を教えていたことも分かります。
721海軍航空隊に集められた人材は優秀なメンバーを選抜したそうですが、この略歴を読むだけでも叔父がそれなりに優秀な人材であったであろうことは容易に推測されます。
実際、桜花の搭乗員は優秀な人材が多かったそうです。
後で説明しますが、そもそも桜花と言う戦闘機自体が貧弱で粗末極まりない代物であり、これをカバーして無事操縦し目的を果たすにはそれ相応の力量がいること。
桜花による特攻は、操縦の腕前の良い人から出撃をしていったと言います。

もしも叔父が平々凡々のつまらぬ人であったなら、パイロットとしての腕前が下の下であったら?
あるいは特攻に志願したとしても選抜されることもなく、死ぬことは無かったのかもしれない。
優秀ゆえに非業の死を招く、と言うのも考えてみれば罪な話。
心中は少し複雑です。
今は亡き祖父が口癖に言っていたことをふと思い出したりもします。

「正義は優秀な人間だった。
あれが生きていたら日本の戦後復興にどれだけ役に立ったか分からない。
つくづく惜しい人間を死なせたものだ・・・」

本当に。
特攻で戦死した隊員の多くは優秀な人材が多かったと、どの資料に当たっても記述が見つかります。
これらの人が戦争を生き延びていたら、どれほど国の宝となったことか。
その意味でも彼らの尊い犠牲を無にすることは申し訳の立たない話だと私は思っています。
自分に出来る精一杯の生き方をしなければ、先人の犠牲に顔向けが出来ないのではとも感じます。

更に叔父の墓には本人がしたためた上記の略歴と共に、家族が追加した以下の一文が刻んであります。

  特別攻撃隊第七神雷部隊桜花隊員トシテ鹿屋基地ヨリ
  沖縄周辺ニ出撃敵艦轟沈戦死ス 功ニ依リ二階級特進少尉
  ニ任ゼラル 享年二十一才

この所属部隊名が墓石に刻んであったことで、叔父が特攻に志願し死に至るまでの経緯が、今回おおよそ推測できたのです。

資料によれば721海軍航空隊・別名神雷部隊が、全国の航空隊から目的と生存不可能の条件を示した上で、密かに募集を始めたのが昭和19年の8月中旬。
応募者の中からおよそ200名を選抜し10月から11月に掛けて721航空隊に着任したと、記録にはあります。
もう少し細かく時系列を追うと、9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決定。
10月1日、百里原(茨城)に桜花特攻専門部隊第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入される。
11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられる。
翌年、神雷部隊は鹿屋基地(鹿児島)より出撃、となります。

資料と叔父自筆の略歴を総合して考えるに、叔父は昭和19年の夏から秋にかけて特攻に志願し選抜され、同年11月9日721部隊に着任するという流れであったと推測できるのです。
そこで問題になるのが一連のエントリーの最初にご紹介した叔父から姪に宛てた2枚の葉書です。
そのうち「オテガミチョウダイネ」と記された、2枚めの葉書が投函されたのが昭和19年10月18日。
やはり思ったとおり、あの葉書を書いた時点で叔父はすでに特攻へ志願し、死の覚悟を決めていたと想像されるわけです。
「オテガミチョウダイネ」の一文は、やはり単純に故郷恋しさや姪っ子可愛さだけで書いたものでは、無い。
いずれ来るその時に備え、可愛がっていた姪っ子の思い出を出撃の際連れて行くべく、叔父は母からの返事を求めたに違いありません。
この推測を説明した所、再び母は泣き出しました。

「それじゃ私の書いた葉書は叔父さんの役に立ったんだね?」

この言葉に再び私の胸は詰まってしまいました。
その通り。
母の葉書は確かに叔父の役に立ったのです。
叔父が僅かに残された生への執着を振り切り、出撃の覚悟を決める最後の切り札として。

叔父が戦死した5月4日と言う日は、鹿屋だけでなく、知覧・指宿・串良など他の基地からも陸海合わせてたくさんの特攻機が出撃をしています。
かなり大規模な作戦が展開されたのでしょう。
出撃の朝、叔父は何を思って身支度をしたのでしょうか?
家族の写真や母の葉書を胸に収めるとき、心によぎった物はなんなのでしょうか?
葉書ですから裏を返せばすぐに文面を読むことが出来ます。
ミミズが這ったようなたどたどしい文字を見て、思ったことは何なのでしょう?
二度と生きて戻れぬ死出の旅。
どんなに想像力を巡らせても巡らせても、叔父の心中にたどり着くことは容易には出来ません。

「兄ちゃんがお前を護ってやるからな。
しっかり勉強するんだぞ。
親父やお袋のことは頼んだぞ。」

そういう思いが生への執着を振り切る切り札となったのだとしたら、母の書いた葉書の重さを今更ながらに思わずにはいられません。
叔父が命を懸けて母を護ったということは、母の未来を護ったということ。
母の未来には当然娘の私の存在があるわけです。
つまり叔父の特攻は母だけでなく、娘の私の人生も護ってくれたということにもつながります。
それを意識する時、私は叔父の壮絶な決意の重さに潰されそうになります。
平和の時代を生きる私が、叔父と同じような決意が出来るのか?
とてもとても、そんな決意など今の私には出来そうもありません。

「桜花」についてすこし説明いたします。
桜花の写真はこちら
桜花は自力発進が出来ないため、全長約20メートルある一式陸上攻撃機と言う母機が機体の腹に桜花を抱えるようにして飛び立ちます。
桜花は全長約6メートル、両翼を含めた全幅5メートルの小型機だそうです。
機体の先端に1トン前後の大型爆弾を搭載。
中央部にパイロットの座席があり、後部には推進用のロケットを搭載していました。
これを敵艦上空で母機から切り離し、滑空したりロケットを噴射したりしてパイロットもろとも敵艦に体当たりをするんだそうです。
いわゆる「人間爆弾」と言う物です。

桜花は特攻機ですから、着陸の為の車輪がありません。
訓練用の機体には車輪の代わりにソリを付けて着陸が出来るようにしておき、爆弾の代わりに水や砂を積んで訓練をしました。
搭乗員に求められた技能は着陸技術ではなく、敵艦に向かって降下する技術のみ。
投下訓練を“一回”終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる「練度A」の判定を受けたんだそうです。
そして彼ら桜花隊員は、鹿児島の鹿屋基地に送られていきました。

桜花とは一言で言って、グライダーに毛が生えた程度の代物だそうです。
そしてこれで敵艦を撃沈するのはほとんど不可能だったのだそうですね。
機体が重いわりに翼が小さい桜花のような飛行機は、高速飛行しなければ失速するんだそうです。
しかし実態は、桜花のロケットの噴射時間はおよそ9秒程しか持ちません。
そのため桜花は母機から投下された後、グライダーのように滑空して敵艦に接近するというのです。
操縦がかなり難しいというより、ほとんど不可能に近かったのではないでしょうか?
ですから実際の戦闘の場でも、大半の桜花が迎撃されて撃沈。
母機の一式陸攻の方も、そのほとんどが敵の攻撃を受けて撃沈。
桜花作戦はほとんど見るべき成果を上げられませんでした。

敵の砲撃が雨あられと降り注ぐ中、グライダーで敵艦接近とは・・・いやはや何とも。
しかも桜花の投下訓練はたったの一回。
それで実践に臨むとは、ほとんど行き当たりばったりです。
今の時代感覚で言えば、なにやら性質の悪い冗談話か?としか思えないのが桜花作戦と言うわけです。
敵方のアメリカは、桜花のことを「BAKA」と呼んで嘲笑していたとも聞きます。
こんなちゃちな戦闘機で、しかもろくな訓練も無くですよ?
死を覚悟して特攻せねばならなかった叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
それでも母機から投下され目標からそれぬよう桜花を操縦し、見事敵艦の撃沈に成功したという叔父。
たまたま運が良かったのか?それとも操縦の腕前が優れてよかったのか?

それでもですね。
変な言い方ですけれど、一度特攻の覚悟を決めたのならば、無事本懐を遂げられた叔父は幸せだったのかな?とも思っています。
これからの季節、テレビのドキュメンタリー番組などで、特攻の様子を収めたモノクロの映像が流れることがありますね。
あれを見るのは正直辛いんです。
無事敵艦に体当たりできた特攻機は、まだ良い。
しかしアメリカの迎撃を受けて、空しく落下する特攻機を見るのがたまらなく辛いのです。
死を覚悟し「花は桜木、人は武士」「一人一艦撃沈あるのみ」の精神で出撃した多くの特攻隊員。
その目的を果たす事もできずに落下する戦闘機の操縦席で、あの特攻隊員はさぞかし無念の涙を流しているのだろうな、と思うとですね。
私はどうしてもあの映像を正視出来ないのです。

同じ理由で特攻を扱った映画やドラマも基本的に私は駄目ですね。
感情移入がうまく出来ないんです。
もっと正確に言うと、感情移入は一応それなりに出来るんですけど、同時に物凄く冷めた感情も沸き起こってしまうのです。
なまじっか、リアルな特攻隊員を身近に知っているせいなのか?
どんなに良く出来たドラマを見ても、心のどこかで実際の特攻隊員はこんなものじゃないでしょ?と冷めた気持ちが沸き起こってしまう。
これは良いことなのか悪いことなのか?
これはおそらく肉親ゆえに感じてしまう、特攻と言う現実の重みの違いなのでしょう。

明日のエントリーでは叔父が両親に宛てた遺書をご紹介します。
明後日のエントリーではなぜ私たち遺族が叔父の敵艦撃沈を知っているのか?その珍しいエピソードをご紹介する予定です。
特攻の叔父さんのお話。
ここで一気に連続エントリーをいたします。
いま少しお付き合いいただきますことを、お願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考リンク

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・
posted by ぴろん at 23:26| Comment(15) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月30日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(10)05.7.17 藤沢産業センターにて

『川添友幸 救う会神奈川会長代行 閉会の辞』

今日は、長時間ですね、ご来集ありがとうございました。
伊藤先生の言われたとおりですね、これからもこの続けていかなければいけないというふうに考えています。

それで事務局から、幾つかご報告したい点がございます。
一点目はですね、さっきの先生のお話の中で非常に気になることがあったんですが、日教組の話が出ました。
日教組、所謂教職員の集まりですよね。
実はですね、はっきりはしたことは、私も言えないんですが、日教組が拉致に噛んでる可能性が非常に濃厚です。(「え〜」と会場内大きなどよめき)

ある特定の学校の教員とか、学校名出せませんが、そういう学校の教員とか、今実際、拉致の実行犯の名前が挙がっています。
日本国内にいます。
その人間が、学校の教員関係、教職員関係、(「ほんとに?」の声)そういうふうな関係で。
なぜかというと、日教組全体がやっているわけではなくて、日教組の中に、チュチェ思想を研究している研究会がありまして、そこのメンバーが拉致をやっているのではないか?

例えばよど号の妻たち、八尾恵を初め、大半がチュチェ思想の研究会のメンバーです。
よく拉致のビラなんか撒いてると、「朝鮮人はけしからん」みたいなこと私にも言ってくる方いるんですが。
私は、これは個人的な意見なんですが、やっぱ日本人の拉致の実行犯というのは、かなり多数いるんではないか?と。
逆にですね、朝鮮の人みんな悪いわけではなくて、そこをですねちょっと皆さん、考え方をちょっと考えていただけるとですね。
特にたとえば松木薫さんを拉致したのは、よど号犯の妻森順子、これは在日ですが、もう一人若林佐喜子は日本人です。

ですから日本人の行った拉致というのがですね、かなり多数あるんではないか?と僕は思います。
そういう中にですね、労働組合であるとか、共産、共産党はたぶんやってないかもしれませんが、日教組とかですね。
所謂そういう組織の名前が、実際出てきますし、さっき言われた警察なんかは、その辺をかなり把握しているという情報を得ています。
特に社会党が噛んでるんではないか?ということが、一時期騒がれたことがありますが、社会党、現社民党の人たちも、以前こちらの会は、阿部知子さんをお呼びしたことがあったんですが、ぜひ阿部さんにその点を調べてもらって、実行犯がいるんであれば、ちゃんと法の裁きの前に出していただきたいと思います。(会場内、失笑)

(川添氏は、このあたりから興奮して非常に早口になり、語順の乱れや言い間違いが目立ったので、これ以降適宜再構成しています)
それとですね、今日お配りしたチラシの中に、「WFPに対する講師派遣の拒否に関する緊急声明」っていうのが入ってまして、ちょっと簡単に経緯だけご説明致しますと、今日も会場に来られてるんですが、RENKさん、「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」私たちは、北朝鮮の金正日体制打倒とかですね、難民の支援をしているグループだと認識してますが、たぶん皆さんご存じかもしれませんが、産経新聞がかなり大きく取り上げました。

食糧横流しの映像が、6月末に報道で出ました。
去年の小泉再訪朝の時に、12万5千トンの食糧支援が決まりました。
送られた食糧は、日本政府が直接配布するんではなく、国連のWFPという機関を通して食糧配布を行うということを聞きました。
しかしそれを闇市の現場で売られている写真を、RENKの方(正確には、RENKが支援している、北朝鮮国民の反体制活動家)が撮影しまして、産経新聞初め、各紙新聞等で大きく報道されました。
騒ぎが大きくなって、こりゃ大変だと思って何気なくWFPのホームページを私見ていましたら、講師派遣をしていただくという一項がありまして、あ、こりゃ凄い、と思ってですね。
すぐ神奈川の会として、ここの会場、今日じゃないんですが、8月に会場押さえてありますんで、WFPの方に北朝鮮の食糧支援の実態話してもらおうじゃないかと。

その話した上で、RENKの方と話して、どっちが正しいのか?と皆さんに判断してもらおうと、企画を考えたんですが。
昨日になりまして回答がありまして、講師を派遣できないと。
なぜ派遣できないか?と聞きましたところ、(手にした回答書を掲げて)文書の中に細かく書いてあるんですが、人道目的の支援であるから、政治目的の問題になっては困ると。
しかしですねぇ、人道目的ということで、自分たちが胸を張ってやってるんであれば、やはり我々国民に対して説明する責任があるんではないか?と僕は思います。

さらにですね、個人的に北朝鮮に食糧支援されてる方がかなりいます。
新潟なんかでやられてる方(新潟NGO人道支援連絡会、川村邦彦代表)も、この間テレビで報道されてました。
ああいう方がやることを、私はいいとは思いませんが、それはまあ、それぞれの自由ですからいいですけど。
(WFPのように)我々の税金を使って北朝鮮に食糧支援と称して、実際にはほとんど一般の国民の口には入ってないと。
本日参加の脱北者の方とも始まる前にお話してたんですが、ほとんどそんな支援を受けたことがない、と言っておられました。

さらに申しますと、「国境無き医師団」ですね、あるいは「オックスファム」ですね、所謂国際的なNGO団体みんな撤退している(提供者補足:他にも「対飢餓行動」「カップアナムーア」なども撤退している)そうです。
さらにWFPも非常に問題あるなと思ったのは、現地スタッフってのが、何十人(WFPによると40人)かいるそうですが、ほとんどが朝鮮語を話せない(同2人)。
そんな朝鮮語を話せない現状で入ったところで、(公正な)食糧支援なんかできるわけがないんですね?

要するに、食糧支援を隠れ蓑に、あの体制延命させることをしてるんではなかろうか? と。
私もそういうことを、担当者にかなりきつく言って、(講師の派遣の)再検討を迫ったら、再検討するというふうな話だったんですが、金曜日に再度回答が来まして「講師の派遣はできない」と。
私はさらに、講演を拒否する理由を文書に出してくれ、記者会見をするからと言ったら、それも拒否すると。
食糧支援をしている写真を送るからそれで勘弁してくれと、いうみたいなことを言って(苦笑しながら)おられまして、私としては、非常に憤懣やるかたない気持ちになりました。

それで、今日WFPに抗議する緊急声明を神奈川の会として出しました。
今夜メールマガジンのニュースの方で流そうかと思っておりますので、食糧支援が真に困った人たちにはまったく届いていないということですね。
これは私たちもですね、ちゃんと口に入るんであれば、困っている人たちがいるんだから考えようという余地があるんですが。
このような(WFPの不透明な支援には)絶対に支持することはできない、と思っております。
その点で、さらに私たちもいろんな活動をしたいと思っているところです。

・・・以下、会場で配布された資料の紹介を開始・・・

WFPの講師派遣要請の拒否に関する緊急声明 

 私たち「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」は6月22日WFP(国連世界食糧計画)に対して北朝鮮における食料支援の実態の知る為に講師の派遣要請を行った。それに対してWFPの担当者である伊藤氏が 7月12日に講師派遣の要請を拒否する方向であると連絡してきた。
 WFPの伊藤氏は拒否理由に関しては以下のように述べた。
(1) 人道支援目的の食料支援が、日朝の政治的な問題になってしまう恐れがある。
(2) 過去、北朝鮮の食糧支援関連の講師派遣は全てお断りしてきた。
 それに対して「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」としては、国際機関であるWFPは日本政府から委託を受け食料支援をしている実態を説明するべき責任があるのではないかと主張し、再検討と拒否理由の文書送付を求めた。WFPの伊藤氏は二点とも了解する旨の回答であった。
 しかし、7月15日に再度、WFPの伊藤氏から連絡があり、講師派遣と拒否理由の文書送付も拒否する回答をしてきた。拒否理由の文書送付の拒否の理由を質すと、文書を送ると政治問題化する恐れがあるからだそうだ。
 私たち「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」としては、北朝鮮においては国際的なNGO団体の『国境無き医師団』や『オックスファム』などが人道支援目的での支援が出来ず、撤退している現状で日本からの援助がどうなっているか説明する責任がWFPに対してはあると考えるし、北朝鮮への食糧援助がどのように行われ、それをどのように監視しているのか? 本当に飢餓に苦しむ民衆に食糧が届いているのか? 
 その実態をWFPに説明してもらう責任もあると考える。さらにWFPが、食料支援活動を人道目的であると主張するならば堂々と国民に説明するべきであり、それを人道目的の支援であると堂々と説明して一層の援助を依頼するべきなのではないか。
 家族会も私たち救う会も、真に飢餓に苦しむ民衆への人道支援、食糧支援を拒否するものではない。人道支援の名目で送られた食料が市場で売られている。
 脱北者の話ではこのような市場では北朝鮮の貧しい階層はほとんど買うことが出来ないそうである。
 さらに北朝鮮のおけるWFPのスッタフは、数十人規模でスタッフの大多数が現地語を話せないそうであり、本当に人道活動を行っているかは非常に疑問であると言わざるを得ない。
 そのような中で、今回のWFPの講師派遣要請の拒否に対して「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」は、強い抗議をすると同時に北朝鮮への人道支援の抜本的見直しを強く求める。

平成17年7月17日 
「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」 会長代行 川添友幸
(一部誤字があったので、読点の追加と併せ、テキスト提供者:原良一の文責で校正しています)

・・・資料の紹介終了・・・

(再び川添氏のお話)
最後に、次回の講演会なんですが、10月8日の土曜日を予定しています。
講師はですね、わたくしが先月の3日間の座り込みに参加した際、報道等でご存じかもしれませんが、「北朝鮮を知りすぎた医者」(草思社、2、3まであり)の著者であり、ドイツ人のお医者さんのノルベルト・フォラツエンさんが、偶然来られてました。
私、英語まったく喋れないもんで、今日来られてる野口さんに通訳してもらって、10月8日藤沢で講演していただけることになりました。
通訳は、その野口さんにやっていただけるということで、フォラツエンさんの他に家族会の増元照明さんか誰かお呼びしたいな、と検討しております。

また、特定失踪者問題調査会からは、岡田理事に来ていただこうと思っております。
岡田さんは、「報道特集」とかでご覧になってご存じの方もいるかもしれませんけど、今回拉致認定された兵庫県の田中実さんをずっと追ってた方で、その岡田さんをお呼びしようと思っておりますので、ぜひ10月8日、皆さん来ていただいて、いろいろお話しいただけると思います。

私たちが、こういう集会を重ねることは、ほんといいことではないと思うんですが、皆様のご協力があってこそ、先程の伊藤先生のお話じゃないですけど、会を続けるってことが必要だと思いますので、皆様のご協力今後ともよろしくお願いいたします。
あと、大変申し訳ない話なんですが、私たちもこういう形で手弁当でやっている会ですので、もしお心のある方がいらっしゃいましたら、カンパ箱ありますので、ぜひご協力よろしくお願いいたします。
いつも、いつもしょうもないお願いをして申し訳なく思っております。

今後のメールマガジンとか、チラシですとか、あと8月7日の講演会というのがチラシに入れてるんですが、先程のWFPのために会場取ったのですが、WFPに拒否されてしまったので、替わりに、私よど号の問題ずっと研究してますので、よど号の話を私がしようと思っています。
ご興味ある方、ご参加いただければと思います。
今後も救う会神奈川の会を続けていただきたいと思います。
皆さまのご協力よろしくお願いいたします。
今日はほんとうにありがとうございました。(拍手)

※司会(河井氏)
ありがとうございました。気をつけてお帰りください。

・・・集会終了・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエントリーのテキストは原良一氏提供のテキストを元に当Blog管理人が再構成したものです。
原氏のご好意に感謝いたします。
posted by ぴろん at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 集会テキスト(藤沢集会) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(9)05.7.17 藤沢産業センターにて

『来場の議員紹介&伊藤玲子元鎌倉市議のお話&家族会への千羽鶴贈呈』

『来場の議員紹介』

※司会(河井氏)
ここで、来ていらっしゃっている議員紹介に移りたいと思います。
よろしいでしょうか?

藤沢市議会議員、 三野由美子先生、(その場で立ち上がり会釈、会場より拍手)
鎌倉市議会議員、 原かつら先生、「こんにちは!」(同上)
海老名市議会議員、太田祐介先生、(同上)

『伊藤玲子元鎌倉市議のお話』

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※司会(河井氏)
ここでですね、元鎌倉市議の伊藤玲子さんのお話を、よろしくお願いします。

※川添友幸会長代行による、伊藤玲子元市議の紹介
ちょっと講演の前に、伊藤先生のお話をしますと、伊藤先生、4期16年鎌倉の市会議員を続けられておりまして、この度4月で議員をお辞めになられました。
なぜお呼びしたか?と申しますと、伊藤先生は、救う会地方議員の会始まった時からの議連のメンバーでしてですね。
ずっと9.17の前から、私たちと一緒にビラを撒いたりとね、ほんとに献身的に活動してきてきました。
で、今議員をお辞めになられまして、こういう拉致の問題や、教育の問題を扱うまっとうな議員を作らないといけないということで、こんどそういう運動をやられるということで。
ちょっと今回議員をお辞めになって、さらにその拉致議連を抜けられた経緯のをお話しを伺いたいと思いますんで、よろしくお願い致します。

★伊藤玲子 元鎌倉市議のお話
ただ今ご紹介をいただきました伊藤玲子でございます。
(マイクに声が入らず調整してから改めて)
大変失礼いたしました、この4月まで、4期16年鎌倉市会議員を勤めさせていただいておりました、伊藤玲子でございます。
今日突然に、川添会長の方から、わたくしに何か一言と言われて、ビックリしているんですけれども、今までの経緯からと、これからのことをお話しさせていただきたいと思います。

皆様、国というものは、国民の生命、財産を守るのが、国の責任じゃありませんか!?(高齢の小柄な女性に似合わぬ大音声の呼びかけに、会場からも大きな拍手と共に、「そうでーす!」などの合いの手)
本当に腹立たしくてなりません!
日本の国は一体何をしてるんだ、ということでございますよ!
わたくしは、この(拉致)事件がはっきりした時からそう思いました。

そしてまずこれは、平成9年(1997年)に国会で梶山静六国家公安委員長が、「拉致があったということは事実だ」と表明なさったのが、最初でございました。
それですぐその後、救う会ができました。
その救う会ができて、国会の方もそう表明されたにも関わらず、非常に動きが鈍いので、じゃあ地方議員もそのバックアップ、要するに言葉は汚いですけど、国会議員のお尻を叩こうじゃないか、ということで、地方議員の会が発足致しましたのが、平成10年だと思います。
わたくしどもは、そういう形で側面からバックアップ致してまいりましたけれども、それから何年かかっていると思いますか? 
未だにこんな国があるでしょうか?!(「我慢できない」の声あり)
で、わたくしは、ずっとずっといろんなことを辿っていきますと、結局戦後国民に、国家観が無いんですよ。
国家観がないんです。

で、わたくしは、国家が安泰してなくて、国家が国民の生命・財産を守らなくて、どうするんだ? 
ということを言いますと、すぐ右翼だとか何とかというんですよね、ほんとに。
で、それを辿ってくと、結局戦後の教育なんです。
日教組なんです、共産党なんです(「その通り」などの声と共に拍手)。
もうほんっとにね、わたくしは、この教育戦後60年、この左翼思想の毒が回っちゃった日本国民、どうしたらいいだろうと思って、今も考えてると崖っぷちですよね。(マイクの音が割れるほどの大音声)

で、そこには、女性ってのは、本当に行動力があっていいんですけども、間違った。
まあわたくしは、大変はっきり物を言う人間なんですけども、左翼思想、戦後の教育をよしとした、バカな女が今国を滅ぼしかけてるんですよ!(拍手広がる)
それは鎌倉市を例に挙げますと、わたくしが4期16年在任中、女性議員が28議席中6人いたんですけど、4月の市議選で10人に増えました。
その中のまっとうな議員は二人です。
フツーの感覚の、良識派の議員は二人です。
後は全部、日教組の戦後の教育をよしとした、要するに国旗、国歌、道徳教育、学力テスト、児童中心主義、イラクもう何でもかんでも反政府のね。
そういう反国家の、要するに戦後の教育をよしとした、日教組の教育をよしとした8人です。
これがねぇ、鎌倉だけじゃないんですよ?
私は全国歩いてますけど、これが、鎌倉が縮図でございます。

それでわたくしは、どうしたらいいんだろうかと調べましたらば、こういう(左翼系の)女性を要請していく組織が四つあるんです。
片や、フツーの女性を養成というか、勉強する組織ですね、全然ないんです。
それからわたくしは、これは大変だと、こう今崖っぷち来てますからね。
ということで、わたくしは、この1月に「立て直そう日本(にっぽん)女性塾」っていうのを立ち上げました。

<参 考>
・「立て直そう日本女性塾」に関する記述のある、伊藤玲子前鎌倉市議の活動報告
http://www1.ocn.ne.jp/~h100prs/kiroku/nakama-houkoku/itoureiko/itoureiko-top.htm

そして、今の目標は、とにかく平成19年に、もうあと2年半切っちゃいましたけども、統一地方選挙があります。
その時に、またこういう女性がどっ、どっと出てきますから、これ止めることができませんね。
少なくとも、一人でも、二人でも、三人でもまっとうな議会で、フツーの良識の言葉を言える女性を、出してかなきゃいけないんですね。

わたくしは、鎌倉市で一人孤軍奮闘してきました。
でございますので、神奈川県で19市ございますが、その中でどこの市にも4、5人女性議員がいます。
しかしその19市の中で、わたくし、フツーの日本人だと思ってんですけれども、そういう女性は、6人しかいませんが、(笑)そういうのが、今の日本の現状です。
ですから、本当にやはり戦後教育に毒を回されてしまった国民全体もそうですけれども、やはりここでしっかりと、国家観というものをね、皆さんに意識してもらう。
やっぱり国家が安泰でなくて、どうするんですか?(拍手)
ほんと、そうですよ。
とにかく私が、国家という言葉を使った途端に、すぐ右翼って始まりますからね。

じゃあ外国行った時に、困った時に、どこ駆け込むかといったら、大使館に駆け込むんでしょ?
非常にそういうね、何ていうんですかね、ほんとにでも恐ろしいですよ。
教育っていうのは、こういうものですから、この60年、日教組、共産党が天井向いて笑ってますよ。
大成果上げたわけですよ!

(集会に参加している男性が挙手の上発言)
「質問あります」
はい。
「あなたの言ってることと、今日この会議はどういう関係があるんですか?」

で、ございますから、国家観がないから、こういうことになったわけですから。
(会場の他の聴衆から「そのとおり」の声多数、最初の質問者の異議の声をかき消すような大きな拍手が湧き起こる。少し騒然とした雰囲気)
教育、教育が始まり、教育を変えていかなきゃいけません。
そういうことで、それから今度政治が決めていきますからね。
その政治の世界にまっとうな良識派を増やしていかなければ、この国家が成り立たなっていきません。(「その通り!」の声)
それは私が、16年体験してきた実感でございます。
もしお考えが違えば、そりゃ仕方のないことでございます。

ということで、わたくしはこれから教育の正常化と、それからこのまっとうな良識派の議員を出していく運動を、全国的に今歩き始めました。
そういうことでございまして、とにかく皆さま、拉致された方々を、全員取り返す、それまではこの国民運動止められません。
この国民運動風化させたらおしまいです。
政府があんなざまですから、やっぱり国民のバックアップがなきゃダメです。
だからわたくしは、この集会にはもう、毎回欠かさず伺ってます。
なんとしてもね、一人残らず取り戻すまで、運動続けてまいりましょう!(拍手)
そうでなければ、本当に日本の国ってのはバカにされっぱなしですから、ちょっとお金ばっかり持っていかれるんですから、とにかく皆さん頑張って、とにかく一人残らず取り返すまで、頑張りましょう!
この集会を続けなければいけません。(拍手)
皆様どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

※司会(河井氏)
ありがとうございました。
ここでですね、お手紙の紹介をさせていただきます。

『家族会への千羽鶴贈呈』

「千羽鶴をお届けします。平成15年元旦に一念発起しました。80歳を超えた今、自分にできることは何か? ひたすら祈りを込めて鶴を折り、長く哀しい日々を過ごしておられる方々に、少しでもほっとする和(なご)みをお届けできたらと思っております。
6月3日で2万2000羽になり、今回のお届けとなりました。
どうかお受け取りください。
これからも長い時間かかると思いますが、くれぐれもお体をお大事になさってくださいませ。
どうか望みを持ってお暮らしくださいますことを祈っております。
平成17年6月25日、救う会のお力をいただきお届けできました。
小松栄子」


というわけで、救う会神奈川のメンバーから、斎藤文代さん、市川龍子さんに千羽鶴の贈呈をお願いします。
(拍手の中、斎藤、市川両氏、「あら、きれい!」と喜びながら青い色の千羽鶴を受け取る)
ありがとうございます。
それでは、最後に閉会の辞ということで、川添会長代行から、はい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエントリーのテキストは原良一氏提供のテキストを元に、当Blog管理人が再構成したものです。
原氏のご好意に感謝申し上げます。
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2005年07月29日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(8)05.7.17 藤沢産業センターにて

『高野美幸さん(特定失踪者・高野清文さんの妹)のお話と特定失踪者ご家族のご紹介』

Img_0298.jpg

※司会(河井氏)
続きましては、特定失踪者家族の訴えです。
特定失踪者高野清文さんの妹でいらっしゃる高野美幸さんです。
よろしくお願いいたします。

高野美幸さん
いつも神奈川の集会の方にお呼びいただきまして、ごあいさつさせていただいているので「またあいつか」とイヤな顔をされないで、また聞いていただきたいと思うんですけれども。
わたくしの兄は、特定失踪者高野清文ということで、伊豆七島の神津島から、1976年に大学2年生19歳の時に、行方不明になっているその家族の妹でございます。
今日はですね、先に特定失踪者の家族のご紹介ということで、今日いらっしゃってる家族の方たち、お名前を申し上げますので、あの立ち上がってその場で、軽くあいさつとかしていただければと思うんですが。

高野清文さん 
失踪年月日 昭和51(1976)年7月30日
生年月日 昭和31(1956)年10月31日
当時年齢 19歳
当時身分 電気通信大学2年生
失踪現場 東京都神津島村の民宿から

大学寮の仲間と神津島へ行き行方不明に。前日に山へ行くと言っていたため、神津島村の天上山を捜索するが発見できず。同月12日に隣の新島でも若い女性が行方不明になっている。

『参加した特定失踪者のご家族の紹介』

Img_0302.jpg

Img_0303.jpg

↑紹介を受けてご挨拶をされる特定失踪者ご家族の方々

高野さん
まずですね、前回もお話をいただきました、佐渡から74年にいなくなられました大澤孝司(おおさわたかし)さんのお兄様でいらっしゃいます茂樹様がいらっしゃってます。(拍手)


★大澤茂樹さん
(拍手の中、マイクを受け取る。以下他の家族の方々も同様に発言または会釈あり)
私の弟は、昭和49年の2月24日に、新潟県佐渡島でいなくなっております。
今それぞれの方のいろいろなお話がありましたが、私もこの拉致問題が完全に解決するまで頑張っていきたいと思いますので、さらなる皆様方のご支援とご協力をよろしくお願いいたします。(拍手、以下同)

大沢孝司さん(佐渡の曽我さん母子失踪地のすぐ傍で失踪)
失踪年月日 昭和49(1974)年2月24日
生年月日 昭和21(1946)年6月21日
当時年齢 27歳
当時身分 新潟県佐渡農地事務所勤務
失踪現場 新潟県佐渡郡新穂村

自宅独身寮から約400m離れた飲食店で夕食を済ませ、知人宅に寄った後行方不明。当時事務所には50〜60人が勤務、うち15〜20人程度が本土から単身赴任で来ていた。失踪時期は観光がオフシーズンだったため、最も忙しい時期に拉致された曽我さんと違い警察もかなり大規模に捜査してくれた。事務所では失踪後まもなく「あれは北朝鮮にやられたのではないか」との話で持ちきりになったが、やがてぴたりと止んだという。元同僚の話では「失踪の2〜3日前、一緒の船で新潟から帰ってきた。船中では飲む話、食べる話などをしていて自殺や失踪のそぶりは全くなかった」とのこと。北朝鮮製と思われるマッチが漁の前あたりに落ちていたという。平成16年1月29日、新潟県警に告発状提出。

高野さん
ありがとうございました。それではですね、生島孝子(いくしまたかこ)さんですね。
渋谷から72年に行方不明になりました。
お姉様の馨子(けいこ)様がいらっしゃってると思うんですけど。

★生島馨子さん
皆様のお力をお借りして、是非、妹を日本に連れ帰りたい、取り返したいと思います。
よろしくお願いいたします。

生島孝子さん(脱北者による目撃証言あり)
失踪年月日 昭和47(1972)年11月1日
生年月日 昭和16(1941)年6月14日
当時年齢 31歳
当時身分 港区役所麻布支所交換手
失踪現場 東京都渋谷区

当日、一日の年休届けを出し勤め先を休む。朝、同居していた妹に「夕方に電話があったら出かける」と言っていた。衣類の入れ替えをし、夕方クリーニング店に衣類を出している。孝子さんは翌日出勤時に着る服を揃えておいて出かけていた。その夜何の連絡もなく帰宅せず。翌2日夜、自宅に電話があり、しばらく無言の後、「今更仕方ないだろ」と男性の声とともに切れた。平成16年9月29日、警視庁に告発状提出。

高野さん                                      
そして、藤沢のこの地では、もっとも関係が深い方かと思います。
寺島佐津子さん、鎌倉の花火大会に行って行方不明になりました。(会場の一角が「あら〜」と驚きでざわめく。「かわいそうに」の声も…)
ご両親がいらっしゃってると思いますけど、その場でお立ちいただければと。

★寺島佐津子さんのご両親
無言で会場に深々と一礼。(拍手)

寺島佐津子さん(鎌倉の海岸で失踪)
失踪年月日 昭和54(1979)年8月10日
生年月日 昭和35(1960)年7月26日
当時年齢 19歳
当時身分 銀行員
失踪現場 神奈川県横浜市戸塚区

失踪当日、勤務先の支店の親睦会で鎌倉の花火大会に行き、10時に現地解散。同僚と鎌倉駅で別れ、戸塚駅からバスで帰宅途中に行方不明。翌日、自宅近くの草むらからセカンドバッグが見つかる。警察犬の捜査でもここまで来たのは間違いない。

高野さん
あと、松井綾子さんのお母様、1998年12月に千葉県※で失踪されたということで、いらっしゃってるかと思いますが。

★松井綾子氏のご母堂
松井でございます。(最敬礼)

松井綾子さん(※千葉県で失踪?)
失踪年月日 平成10(1998)年12月3日
生年月日 昭和51(1976)年9月14日
当時年齢 22歳
当時身分 臨床検査技師として病院に勤務
失踪現場 茨城県水戸市のアパート

12月3日8:20病院に「調子が悪いので休む」とtel。4日病院を無断欠勤。検査課の人がアパートへ確認に行く。車なし、ドア施錠。病院から実家に電話があり、家族が部屋に入るが室内物色された形跡なし。12月4日8:28国道6号線茨城町のGSで給油(本人自筆で確認)。12:05ローソン調子黒生店で昼食購入。12月15日 神栖町海浜公園多目的広場駐車場で自家用車発見。運転席側のロックなし、6000円入りの財布が助手席に置かれた黒バックに残されていた

※特定失踪者問題調査会のホームページでは、水戸市で失踪となっていますが、松井氏の車が千葉県内の東金から銚子方面を走り回って、最後は茨城県神栖町で発見されており、千葉県内での失踪の可能性が高いので、松井氏は千葉県で失踪としたものと思われます。
(この項、原良一氏が調査会の真鍋氏に直接確認済み)

高野氏さん
それからですね、
実は、笹垣範男(ささがきのりお)さんという92年に行方不明になられてます、18歳の方のお父様がいらっしゃってたんですけど、
今日はこの時間には、ちょっとご用事があるということで、お帰りになられましたが。
いらっしゃってたことの旨、お伝えしておきたいと思います。

笹垣範男さん
失踪年月日 平成4(1992)年9月12日
生年月日 昭和49(1974)年3月4日
当時年齢 18歳
当時身分 予備校生(美大志望)
失踪現場 神奈川県三浦市

当日、母親が出勤する時(午前9時)には「今日は予備校(横浜市)で絵の授業はないが空いている教室で勉強できるので行くかも」と言っていた。姉が昼に出かけるときはまだいた。予備校に行ったかどうかは出席をとっていないので不明。普段と同じ服装、お金も4、5千円しか持っていない。朝の雰囲気からはとても家出するようには見えなかった。いなくなる10日位前から誰かと会っている様子。いつもは夕方5〜6時に帰宅するのが、10〜10時半に帰宅する日もあった。前日、前々日は終電で帰ってきた。誰と会っていたか聞いても答えなかった。預金通帳は残っている。


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2005年07月28日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(7)05.7.17 藤沢産業センターにて

『横田拓也 家族会事務局次長のお話』

Img_0294.jpg

皆様こんにちは。(会場からも「こんにちは!」の応答)
ただ今ご紹介いただきました、横田めぐみの弟の横田拓也と申します。
ほんとにいつも北朝鮮による日本人拉致問題に関しまして、本当に暖かいご支援と応援をいただきますことありがとうございます。
また、ちょっと時期がほんとに遅くなりましたが、先月の末にですね。
首相官邸前というか、横で実施しました、私たちの家族・兄弟を取り戻すために行った座り込みに関しまして。
本当に三日間暑い中、平日も含めて多くの方々にご参加いただきましたことをですね。
重ねてお礼申し上げたいと思います。
ありがとうございました。

既に、私の家族他の案件に関しましては、皆様ご承知いただいていることかと思いますが。
私の所も若干もう一度ご紹介したいと思います。
私の姉、横田めぐみは1977年11月にですね、中学1年生です。
下校途中に拉致されたわけです。
警察犬が嗅覚を失ったのは、本当にもう自宅からすぐ近くの所ですから。
あともう少しで帰れたはずのところで、何者かによって待ち伏せをされて、拉致をされてしまったというわけです。

先程特定失踪者問題調査会の真鍋さんの方から、9歳の女性の方の事例もありましたが、9歳にしても13歳にしても本当にまだ子供です。
まだ少女なんですね。
私たちが、自分たちが男性であれ女性であれ、13歳の頃、もう一度ちょっと思い浮かべて欲しいんです。
本当に明るく、楽しい毎日だったはずですね?
こんなクラブで楽しんでみたいとか、こんな友だちと、どこどこ遊びに行ってみたいとか。
こんな勉強してみたい、こんな高校に進学したい、大学に行きたい、こんな仕事をしてみたい。
いろんな夢があったはずです。
自己実現の夢ももっと持っていたと思います。

しかし、そういった夢が一方的に遮断されてしまって、美しい日本から連れ去られて、楽しい家族の許から連れ去られたわけであります。
これは、私のめぐみだけではなくて、家族会にいる全員がそうですし。
先程ご紹介があった、政府が認定してる・してないだけの違いがあってもですね、特定失踪者の方々、ご家族の皆さん。
等しくそういう悲しみと辛さを背負わされていると、いったわけであります。

で、引き裂かれた拉致というものは、ほんとにもう釈迦に説法でございますが、改めて申し上げますと、単なる一人の男が、偶発的に行った誘拐事件のようなレベルではないんですね。
国家の指令によって、独裁者の指示によって、直接的な指令によって行われた国家テロなんですよ。
私たちはもう、一週間・二週間前にまた大きな大規模な同時テロ、テレビ画面を通じて知ったわけです。ほとんど、これ一緒なんですね。
事態の現象こそ違いますけれども、もう、組織ぐるみでされてるわけなんです。

そのテロの話ですとか、先程脱北者のお話の方にもありましたけど、日本はまあこんな有り様ですが。
アメリカにおいては、ほんとに積極的にこの問題に取り組もうとしております。
新聞でも既にご承知いただいてるかと思いますが。
アメリカの下院本会議では、7月11日に北朝鮮による日本人・韓国人の拉致及び被害者を拘束し続けていることを非難して、拉致問題解決なくしてテロ支援国家から外してはならない、ということを改めて採択してるわけです。
そして脱北者を強制的に退去させている中国への非難もそこに含まれているわけであります。
その採択というのは、362対1で、いわばすべてがこの採択に賛成されているわけなんですね。

で、ポイントは、当事者のアメリカではないんですね。
日本人が当事国であって、韓国も日本以上に拉致されている。
他国のことを彼ら(=アメリカ)がこういって、こうした形で採択をしているということがポイントなんですね。
本来であれば、こういった動きというのは、日本政府が先頭を切ってしなくてはならないはずなんです。

私はいろんな場でお話しする機会をいただいておりますけども、こうして私たちにできることは、皆様方にお訴えすることしかできません。
私たちの辛い思いを、一言でも多くお伝えすることしかできない。
これは、みんな一緒なんですね。
ですから家族であるから、兄弟であるから、前面に立って闘うしかない。
これは当たり前のことだと思っておりますけども。
これは国家間の戦争行為のようなものですから、テロ行為に向かって闘っている以上は、国が先頭切ってやらなくてはいけないことなんですよ。

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2005年07月27日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(6)05.7.17 藤沢産業センターにて

『脱北者Yさんの証言 聞き手:野口孝行氏(北朝鮮難民救援基金)』

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☆野口孝行氏のあいさつ

こんにちは。
北朝鮮難民救援基金の野口です。(拍手)
いつも神奈川の会にはですね。
私たちの団体は、難民の救援について活動している団体なんですが。
いつもご協力をいただいて貴重な時間をいただきまして、ほんとに会の方、そして皆様にいつも感謝しております。
ありがとうございます。

脱北者の方と話をする前に、ちょっとお知らせがありまして、8月1日ですね。
「北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟とNGOの会議」というのが予定されていまして、皆様のお手元にあります、私たちの会報にもいろいろ書いてあるんですが。
難民問題に関係している団体、そして救う会、特定失踪者問題調査会等々NGO、国際議員、各国の議員さんが集まって会議をします。
興味がある方はたくさんいらっしゃると思うので、注目していただきたいと思います。

それとですね、7月31日ですが。
チラシが入っているので、ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが。
「ソウル・トレイン」というですね。
脱北者が中国まで逃げてきて、そしてその人たちがどうやって韓国までたどり着くのか、というドキュメンタリー映画を、アメリカの監督が作りまして、それを日本で上映する会というのが、日本であります。
7月31日に文教区民センターで行われるんですが、興味のある方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。

これから脱北者の方とお話をするんですが、マスコミの方にお願いがあるんですが。
多くの脱北者の方がそうであるように、まだ北に家族が残っている関係で、こちらの日本にたどり着いたことがわかると、(北にいる)家族に害が及ぶ恐れがありますので。
申し訳ないですが、顔は映さないようにしていただきまして。
公の場で出す場合は、音声の方も変えていただきまして、顔も一切映らないようにしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

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↑脱北者の証言に聞き入る家族会の方々


☆脱北者Yさんの証言(聞き手:野口孝行氏)

(会場脇より脱北者Yさんが登場、正面席に着席)

※野口氏質問(以下野口氏)
それでは。
お話するのが、まだ慣れていないということで、私がきっかけみたいな形でお話をうかがいたいと思います。
まず、最初に聞きたいのは、先程の1960年代に帰還事業で向こう(北朝鮮)に渡ったそうですが、その時の乗った時の様子と、何歳くらいの時に北朝鮮に行ったのかと言うことをちょっとお話しください。

★脱北者Yさんの回答(以下Yさん)
私は日本の大阪で生まれました。
日本で教育を受け日本の学校を卒業して日本で就職して、18歳の時に父母に付いて北朝鮮に行きました。
それから北朝鮮に着いた途端に「ああ、北朝鮮に行ったのは間違いでだった」とそれを感じました。
どうしてか感じたかというと、日本で聞いた時は
「朝鮮の国は、地上の楽園で夢のような良い国で、仕事をしなくても食べていける。
勉強はただで、病院もたただ」
と、そういういろんな宣伝に騙されて、うちの父母たちは正直一本で。
そう言う人たちの宣伝に本気になって(北朝鮮に)行くために、私は行きたくないのに連れていかれたというか、父母が行く所にしょうがなく行ったのです。

行ってですね。
一番初め船が着いた途端に「間違ったな」と思って、改めて話したんですね。
「この船で日本へ帰して下さい。私は日本に帰ります」
と。
それで、(北朝鮮に)帰る時は、「絶対(日本)に帰ることが出来ない」ということを知らないで行ったんですね。
行ってみて、気に入らなかったら日本に帰れるものだ、とそういう気持ちで行ったんですけど。
着いた途端に、日本に帰ると言ったのを、絶対にそれは出来ないということがわかって、その日から日本に帰るのを夢に見て、
「いつかは必ず自分が生まれて育った日本に帰るんだ」
とそういう具合に北朝鮮に生きました。

※野口氏
実際に船に乗ってですね。
北朝鮮に着いた時に、何を見て何を感じて、この国は言われていた・宣伝されていたものとは違う、と具体的に思ったのですか?

★Yさん
私たちを迎えに出てきた大学生たちの服装とか、顔色を見て、日本では見たことがないような質の悪い服装をして。
人間たちの顔色というのは、栄養失調に近いような。
その頃から北朝鮮というのは食糧難に遭っていたようでしたが。
私は、何のために人間の顔はこのようななのかというのは知らなかったんです。
とにかく日本では見たことのないような人たちだなと。
それから(北朝鮮の)山には木が全然ないんですね。
全部裸なんです。
だから国が豊かではない、ということを感じました。

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2005年07月26日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(5)05.7.17 藤沢産業センターにて

『真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事のお話』

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どうも皆さんこんにちは。
ただ今ご紹介いただきました、特定失踪者問題調査会専務理事の真鍋でございます。
小泉さんに倣って、クールビズで来ております。
どうも失礼いたします。(笑い声)
一番イヤな人の格好真似るのも(笑)、どうかと思いますけれども・・・

私の方から、特定失踪者問題調査会の調査の現状、それから神奈川県の現状。
そしてそれに付随する、拉致問題全体を解決するのに何が必要かというようなお話をさせていただきたいと思います。
時間がだいぶ余っているようですので、ちょっと少しお時間をいただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

最初に私ども特定失踪者問題調査会がですね、現在440名のご家族からご相談をいただいております。
私どもに届けられなくても、私たちに状況をご相談されるご家族が他にもたくさんいらっしゃいます。
本当に私ども、スタートして2年半になるんですけれども、実際これほど多くのですね。
失踪された方がいらっしゃる。
それで苦しんでいらっしゃるご家族がですね。
こんなにたくさんこの日本の、自由で、平和な、豊かな国にですね。
あるということにほんとに驚いております。

具体的な数を申しますと、日本で年間10万件失踪があるそうです。
これは警察に届けられた数ですから、警察に届けられないご家族もいらっしゃると思います。
年間10万件の失踪の内、99%くらいは5年間の内に何らかの結論が出るそうです。
拉致被害者の方もそうですし、特定失踪者のご家族がそうなんですが。
10年、20年、長い場合には40年、50年何の結論も出ないままにずっと時が流れていくご家族が年間に1000件、ということになります。

そうすると、拉致問題がいつから始まったのかというのは、まだはっきりとしていないんですけれども、仮に30年と致しましょう。
そうすると30掛ける1000ですから、3万人の失踪された方の内に北朝鮮による拉致被害者がいる事は間違いないと、思っております。

ですので、我々の所に届けられてるのは、その3万件の内の2%にも満たないくらいのご家族から、しか、実は届けられていないということですから。
我々でこうした後ろにもポスターがありますけれども。
公開された方々が220人くらいなんですけれども、我々の知らない所にですね。
必ず拉致被害者の方がいるだろうと思っております。

Img_0279.jpg

その証明として幾つか例をお話したいんですけども。
ちょっとホワイトボード(以下、白板と略す)をお借りしますけれども、440人の内にですね。
もう既にご存じだと思いますけれども。(白板に向かった時、マイクがハウリングを起こす)
あぁ、ごめんなさい。
デカイ声で言いますね。(マイクを外して地声で話す)
藤田進さんの写真が出てきましたね、川口にお住まいになってた方ですね。(藤田進さんの名前を板書)
それから加瀬テル子さん、千葉県の海上町(うなかみちょう、05年7月1日より隣の旭市に合併)という所ですね、銚子の近くですけれども。(加瀬テル子さんの名前を板書)
このお二人は写真が出てきたので、皆さんもよくご存知だと思います。

もう一方、先日発表しましたけれども国井えり子さん。(国井えり子さんの名前を板書)
この国井えり子さんは網走から失踪(1968年)です。
藤田進さんは当時19歳、加瀬テル子さんが17歳、国井えり子さんは16歳です。(年齢を板書。会場より「え〜」と言う声)
まあめぐみちゃんが13歳ですね。
この3人につきましては、ちょっと事情があって国井えり子さんはややセーブした言い方をしておりますけれども。
私どもとしては、拉致はもう間違いないと思っているんですけれども。
写真が出てきた事情がありまして、はっきりした言明は避けておりますけれども。
はっきりいって北朝鮮から写真が出てきた方は、はっきりと判っているのは今3人です。

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第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(4)05.7.17 藤沢産業センターにて

『平野フミ子さんのお話』

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こんにちは。
今日は本当にありがとうございます。
やっぽり暑いですね。
熊本も35度くらいあるんですけども、こちらも負けずに暑いなぁと思って。
ここにお集まりの皆さん、拉致被害者を助けたいっていうその思いと、こんなに日本が駄目になったどうしたら日本を立て直すことが出来るんだろうか?
ちゃんとしたまともな国にする事が出来るんだろうか?とそういう思いの、日本が大好きな人たちが集まってくださっていると思います。
本当に感謝いたします。
ありがとうございます。

私の妹、さっき龍子さんが仰いましたけども。
修一さんと一緒に吹上浜に行って、その時に車の中にカメラがあったんですね。
その時にお互いに撮った写真です。(ホワイトボードに掲げられたるみ子さんと修一さんの写真を指差す)
ですから拉致される数時間前に撮った写真を現像しましたら、このように暑い8月の12日ですから、盆の前の日ですから。
サングラス掛けて、帽子かぶってますけども。

Img_0279-2.jpg

それを蓮池祐木子さんにですね。
帰国した翌年ですね。
「この写真はふけてるね」って仰いました。
私たちもそう思います。
これが拉致される2ヶ月前にいとこの結婚式に父と二人で出たときのスナップ写真ですね。(るみ子さんの写真を掲げる)
あの本当にふたり、これは一人で写ってますけど。
本当に父は妹を可愛がっていましたので、恥ずかしそうな顔で父と妹が一緒に写っている写真もあります。
それが1枚でしょうね。
父とるみ子が一緒に写ってる写真と言うのはですね。

fujisawa1.jpg

本当に妹は良い子でした。
身内ですから、あの第3者として見ても親思いの良い子でした。
私が代わりに行けたら良いのになぁ、と思うくらい親孝行の子でした。(少し涙ぐみながら)
その日は私と妹は同じ鹿児島市内の会社に勤めておりましたので、(車で)私を降ろしてから妹は会社に行ってるんですね。
8月の12日、ちょうど土曜日でした。
半ドンでしたので、今日は修一君と一緒に吹上浜に夕日を見に行くんだっていうふうに、2〜3日前から言ってたもんですから。

私もまだ修一君の顔は一回かニ回見たくらいででですね。
直接お話したことは無いです。
でも実直そうな感じの方でですね。
妹も今の24歳と違って昔の24歳と言うのは本当に真面目って言うか、子供ですね。
妹は暗い所が嫌いだから、ちょっとこう男性を、修一君も男性ですから、暗い所でちょっと手を握ろうとしますよね?普通ね。
嫌ってして、こんなふうにしてするんだよって。(体をよけるしぐさをしてみせる)
妹が私にこんなふうに嬉しそうに、恥ずかしそうに話をしてくれたのを思い出すんですけども。

そんな真面目な子がですね。
10時になっても電話くれない。
12時、1時、本当にその夜はまんじりともせずに夜を明かしました。
本当に私たち母と、父はちょっと船に乗ってましたので、分かりませんでしたけれども。
なんでこんなに遅いのか?
今までこんなこと無い。
携帯電話も無い時ですからね、連絡もつかないですよ。
何でるみ子こんな事、今まで一度も無いことだよね?って、事件にでも巻き込まれたんだろうかね?って言って警察に届けても警察は取り合ってくれません。
アベックで出てますから。

駆け落ちじゃないか?とか、ラブホテルにいるんじゃないか?
そんなことをする子じゃないんです!って言っても何も事件が表に出てこないもんですから、警察は取り合ってくれません。
市川さんの家族と一緒に、翌々日にですね。
吹上浜に行ったらそのような車と、スリッパと置いてあった様な状況でした。
本当に私たちは、本当に自分たちが被害者の家族になるなんて思いませんでした。
突然来るんです。
ある日突然、本当に、狙われたようにして、本当に不思議。
なんで私たちが新聞沙汰になるんだろうか?って、何でるみ子がこんな事になるんだろうかって言う、そういう思いです。

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2005年07月25日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(3)05.7.17 藤沢産業センターにて

『市川龍子さんのお話』

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実は私40年前に藤沢の高校を卒業いたしまして、国立横浜病院、原宿にありますね。
戸塚区の。
あそこに勤めていたもんですから、藤沢って聞いたときに嬉しいやら。
この藤沢の駅に立った時には感慨ひとしおでしたけれども。
がらっと変わっておりますので、ほとんど面影はなかったですね。
でも、まぁ藤沢に来れて本当良かったなぁと思ってます。
鹿児島なんですが、母校とかは行く暇無いと思いますけど、今日は皆さんにお会いできて本当に良かったと思っております。

聞いていただきたいと思います。
私はですね。
53年の8月12日。
皆さんご存知だと思うんですが、鹿児島の吹上海岸と言う所があります。
ここは、夕日はとってもきれいに見える海岸なんです。
鹿児島の吹上浜で北朝鮮の工作員に拉致された市川修一の義理の姉に当たります。

その8月12日に、弟が修一が23歳の時でした。
平野さんの妹に当たります増元るみ子ちゃんと二人でですね。
吹上浜海岸の夕日を見に行ってくる。
10時までには必ず帰ってくると双方の家族に約束をしてそれっきり、忽然と姿を消してしまったんです。
将来を約束しあっていたのかどうか?私たちには分かりませんが。

その日修一がですね。
わくわくわくわくしながら、るみ子さんとデートが出来るという嬉しそうな姿をですね。
当時修一の実の姉と同じ敷地内に住んでいましたので、弟の修一の嬉しそうな姿を今でも目に焼きついている。
残念ながら実の姉はちょっと重い病状に伏せっておりますけども、この姉が、私には義妹になるんですけども、修一からは実の姉ですね。
姉の所からいなくなったもんですから、私はその姉と母にですね。
一刻も早く(修一を)抱かせてやりたい、って気持ちであちこち回っております。

修一とるみ子ちゃんはどんなにかね、夢や希望に胸を膨らませていたと思います。
修一は向学心も旺盛で、当時通信教育の大学生としても勉学にも励んでおりました。
通教の学籍番号もきちんと、私が毎月送られてくる冊子で覚えております。
Eの7609279の番号で毎月送られてきておりました。

そして何より親孝行な修一でした。
だからそんな修一がですね。
自分から姿を消すということは無いんです。
当初は家出かな?蒸発かな?駆け落ちかな?というふうに世間からは見られておりましたけども。
あとは誘拐かな?交通事故にあったかな?暴走族にあったのかな?
タコ部屋って、私は知らなかったんですが、そういうタコ部屋に連れて行かれたのかな?
神隠しにあったのかな?
果てはUFOに連れて行かれたんじゃないか?と本当にですね。
まったく雲を掴むような不可解な事件が8月12日に起きたんです。
来月でもう27年になります。

延べその時にですね。
1500名ほどの大掛かりな捜索が始まりました。
ビーチクラフトで、また地元の漁船が網を張って海の底に沈んではいないか?
砂浜に埋められてはいないか?と思って、みんな横一列に5人6人並んで棒を持って砂を突きながら埋められてはいないか?といってですね。
棒を突きながら大捜索を行いました。

でも当日はですね。
キャンプ村で浜辺で、コンサートがあったんです。
その日はたくさんの人出であったんですけども、松林を通って浜に行く中継にロータリーがあるんです。
そのロータリーに修一の車が駐車してありました。
その車の1〜2メートルのところで2匹の警察犬がもうクンと鼻を上げたんです。
そこでプッツリと匂いが切れてしまったんです。
多分4人の工作員に拉致されて、格闘したかどうか分かりません。
そこに片方の修一のサンダルが縦にひっくり返って落っこってたんです。

消息(を絶って)から10年、1988年・昭和63年です。
国家公安委員長がですね。
梶山静六さんでした。
3組のアベック失踪事件・一件の未遂事件は北朝鮮による拉致による疑いが濃厚であると、はっきりと国会で答弁されたんです。
でも、それっきりなんです。
ずっと闇に葬られたままでした。

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第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(2) 05.7.17 藤沢産業センターにて

『斉藤文代さんのお話』

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神奈川の皆様、こんにちは。
暑い中こんなにたくさん私の話を聞いていただけると本当に私も今日は胸がいっぱいで。
今日藤沢に来て良かったなぁと思っております。
聞こえますでしょうか?
だいたい私地声で声が大きいんですけど。
ちょっとの間、よろしくお願いします。

私の弟・松木薫は1980年にですね。
スペインのマドリッドから北朝鮮の方に拉致されました。
拉致した犯人は森順子さん若林さんと言う、二人で拉致したんじゃないか?というようなことで警察の方から私はお話を伺っております。

私の弟は、父には「スペインに行くときは1年で帰ってきますので、ぜひ行かせて下さい」ということで。
父はその当は、時絶対駄目だということで反対しましたけれど。
私たち家族、母・私「これから先は何でも勉強することは大事だから、お父さん最後の願いだと言ってるから、行かせてやってください」と願いしたのが今でもちょっと後悔しております。
あの時父が反対したように皆で反対しておれば、こういう事もなかったんじゃないかな?と時々布団の中で考えて眠れない時もあるんですよね。

父も折れまして、じゃあ1年だけということで許してくれて、弟は最後のバイトの、富士山でバイトをしてまして。
その費用と父から貰った費用でスペインの方に渡って語学の勉強をしてたんですけれども。
まさかこの26年間帰って来れなくなると、思うことは一回も無かったわけです。
私も本当に可哀想な子だなと、思っております。
80年に拉致されてから全然帰ってこないので父はもう慌てふためいて、スペイン大使館だの外務省だのとずい分駆けずり回って探してくださいということでいろいろお願いして回ったんですけども。
その当時は門前払いで、外務省の方も「まぁそのうち気が向いたら帰って来られるんじゃないんですか?」と言う簡単な気持ちだったので、父も本当にずい分いろんな所へお願いして回って助けてやることも出来なくって、亡くなりましたけども。
本当に父も無念だったと思います。
本当に可哀想な父だなぁと思っております。

その後に私の母が、その後活動を続けなければいけないんですけども、母はうちにおるおとなしい母でありまして。
父の言われるがまま、父の指導のままで付いて回るようなおとなしい母なものですから。
本当にショックが大きかったと思います。
本当に今思えばですね。
88年に平壌で石岡さん・有本さん・弟が暮らしていると、いうことが分かりましたけれども。
父はそういうことも出来ないままにあと亡くなりました。
そして母の方に手を差し伸べて亡くなってたんですね、床でね。
それを考えると何と北朝鮮は憎いところなんだろうと、いつもいつも思います。

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2005年07月24日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(1) 05.7.17 藤沢産業センターにて

『川添友幸 救う会神奈川会長代行 開会の辞』

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今日はですね、皆様ご来場ありがとうございます。
今までうちの会長がご挨拶していたと思うんですが、ちょっと都合でですね。
これから私が会長代行という事になりましたのでご挨拶させていただきます。
今日は暑い中、本当に皆さんありがとうございます。
明日、町田の方でちょっと集会があるので人数心配していたんですが、これだけ来て頂いて嬉しい限りです。

今日これからこちらに講師の方と、今ですね。
ちょっと控え室の方にいるんですが、インターネットでは榊原さんと言うお名前になってたんですが。
ちょっと急遽調子が悪いということで、Yさんと言う方で、ほとんどまだメディアに出たことのない脱北者の方です。
ちょっとですね、顔がですね。
出ると色々あるということで今対応を協議してますんでですね。
我々もまだ慣れていないところがあると思いますがですね、よろしくお願いいたします。

6カ国協議も始まりですね、拉致の問題中々難しい状況が来てるかもしれません。
しかし今回第11回。
あまり回を重ねることは良いこととは私たちは思いませんが、この問題をですね。
続けていき、拉致問題更に特定失踪者問題。
個人的に私よど号をずっと追いかけてますが、よど号拉致事件問題。
更にですね北の人権問題。
強制収容所や脱北者を含めた問題。

なんとかですね、これをしていかなければならないと思っていますので、毎回毎回皆さんの参加だけがこの神奈川の会、頼りとなっております。
ぜひですね、よろしくお願いいたします。
私たちもこれ素人の会ですので、不慣れな点もあるかもしれませんので、アンケートの方がありますんで。
また、それに書いていただければそれを参考にしていきたいと思いますんでですね。
よろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
テキスト化に当たり、脱北者のお名前は証言者の都合により匿名といたします。
悪しからずご了承ください。
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2005年07月23日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(12)05.7.14 友愛会館にて

『本間勝さん(田口八重子さんの兄)のお話』

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私は田口八重子の兄のひとりで本間勝と申します。
今日は町村外務大臣との談話があったんですが。
町村外務大臣は大臣になられてから10ヶ月近くなるわけですが、しばらく会ってないからということと、たまたま今回は6カ国協議の開催と言う時期に会ったんだけども。
それを意識しての面談では無いよと言っておりました。
町村外務大臣はですね、その前の元川口外務大臣なんかと比べればですね。(会場内クスクス笑い)
格段に拉致被害者問題につきましては親身になってやっていただいておると言うことは常々感じております。

川口外務大臣は一回家族会と会ったことがあるんですが、拉致被害の問題を今後どうするんですか?どう取り組むんですか?と我々が問いただした時に、
「北朝鮮をあまり刺激しないで、おとなしく水面下でやってるからおとなしくして下さい」
と、このような言葉ですね。
それと比べれば、
「我々の家族会の各種集会、座り込み等大変な思いをしている割には政府側の進展があまり見られなくて申し訳ない」
という言葉を出してくれました。

状況なんですが、私新潟の港の方に、万景峰号の入港阻止の集会にこれで4回ほど参加してきたんですが。
そのたんびに思うことは、新潟の救う会の会長で馬場先生がいらっしゃるんですが。
この人は横田めぐみさんが小学校に入学した時の校長なんです。
その方がもう年齢が84歳になられる方が先頭になっていつも岸壁に来てやっておられる訳なんですね。
新潟の県議連の関係の人たちも入港のたびに我々と一緒に「入港反対!万景峰帰れ!日本人返せ!拉致被害者を帰せ!」と言う声を一緒になって上げていただいております。
私もその万景峰が入るたびにですね。
先頭に立って海上保安庁の巡視艇が先導してくるわけですね。
そういった姿を見るとね。
そんな工作船、ひとつの危険な船が護衛をしないと何があるか分からないと。
あれは貨客船なんですよね。
そういう荷物も運ぶ、お客様も運ぶ、そんなような船がね。
海上警備をしなければ日本の港に入って来られない。
そんな事はノーマルじゃないわけですよね?

だったら、万景峰号の今までの役割と言うのは、大型工作船であり、核の必要な物を日本から輸入していたり、それから日本にいる在日生徒ですね。
在日の学校の朝鮮学校の生徒は、北朝鮮の金正日の崇拝と言う研修を受けて、まぁ修学旅行ですよね。
それで帰ってくるんです。
帰ってきた時に我々が船に向かってシュプレヒコールをやるときにですね。
その姿を笑って見てるんですよ。
何回4回入港したんですけども、その窓越しに見てるんですね。
デッキの上にも顔を出したりしていました。

そういうふうに在日のね。
日本にいて生活していくのに、こういった我々の拉致被害の問題を真剣に受け止めて自分たちの問題としてね。
いかに考えてないか、教育してないかと言う姿を見て、本当に憤りを感じます。
来月8月10日には新潟で1万人大集会と言うのをやりますので、ぜひその日は万景峰が入港する日なんですね。
そういった姿を見てください。
そしてその大会に参加してください。
お願いいたします。(拍手)

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(11)05.7.14 友愛会館にて

『地村保さんのお話』

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皆さんこんばんは。
福井から来ております地村でございます。
皆さんと政府と国民の世論のおかげで3家族、新潟・佐渡・福井県の3家族が皆さんの協力で帰して頂きました。
政府が動き、総理が行って連れて帰って頂きました事、親として本当に皆さんに御礼申し上げます。
帰りました息子も孫も、大変日本に馴染みまして。
もう小浜の方言で会話をしているような状態でございます。
本当に幸せに暮らしております。

しかし、帰りました息子たちの言う言葉に出すのは
「僕らは帰ったけれど、また皆さんのおかげで帰ったけれど、本当に申し訳ないんだ」
と言うことを本当にしょっちゅう言うております。
家族会や東京あたりへ来て見ますと、まだまだ未帰還の人。
横田さん有本さん増元さん、大変大勢の拉致された未帰還の人たちが北朝鮮に残っております。
本当に私たちは穴があったら入りたいなと、思っておりますし。
本当に申し訳なく思っておりますし、帰りました息子達もいつもそれを口に出しております。
「あんまりとうちゃん、集会でも息子が帰ったと喜んだ言葉を出すなよ」
と、いつもブレーキを掛けられておるような状態でございます。

しかし私とすれば帰ってきた孫も大変私に馴染みまして、本当に幸せに暮らしております。
これもひとえに皆さんの協力あってのことで、本当に感謝しております。
孫も息子も帰ったからといって、私もこれでええと言うわけにはいかんと思いまして、北朝鮮の拉致問題の全面解決までは、私は帰った者が表に出てやるべき事やと思って、署名活動を現在もしております。(拍手)
政府を頼らずに、皆さんの力で政府を動かしていただきたいと思います。
皆さんの政府を動かし拉致問題の全面解決まで、どうかみなさん、どうかひと配り、助けていただきたいと思います。
簡単な御礼でございますが、御礼とお願いの言葉に代えさせていただきます。
どうも皆さん、ありがとうございます(拍手)

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(10)05.7.14 友愛会館にて

『飯塚繁雄 家族会副代表のお話』

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やはり今日は町村外相との話し合いの中で感じたことは、たまたま6者協議が後で決まったと言うことなんですけども。
いずれにしてもそれを前にして政府あるいは外務省の強い態度って言いますかね、考え方というか。
そういう意気込みが見受けられなかったと、いうのが非常に残念ですけども。
その中で6者協議、多分核・ミサイルの話が中心になると思うけども。
その核・ミサイルも言ってみれば人道、人の命の問題だと。
今度の拉致問題につきましても当然ながら人道問題であると。
と言うことからすればこの問題は必ず出しますよ、と言う話はしてくれたんですけども。
私も今回こういう日本独自の立場を強く表明してくださいと。
北朝鮮よりしたたかにやってくださいと、いう話をお願いとして出しておいたんですけども。
全体的には何となく、しばらく会ってないから会ったという感じに終わってしまいましたけども。

その中で私としては実はこの原さんの問題は、私の妹田口八重子との関係と言うか情報的にはですね。
あるんですが。
今までの情報を全部整理しますと、実は結婚はしていないと。
86年の7月の20日に会った富貴恵さんの話だと、まだ独り者だった。
先ほどの話、原さんの件については89年の7月19日に亡くなっていると。
言う話もありますけれど、その情報は全く別々なんですね。
そういうことなんですが。

いずれにしても辛光洙と言うのは、もしかしたらめぐみさんとかひとみさん以外にも日本人のハングル語の先生になったのかもしれない。
田口八重子もそれに教わったかもしれない、という勘ぐりもあるんですけども。
そういう意味で辛光洙については日本政府も拉致犯罪者としてね。
国際指名手配をしているわけですから、これについては今後どうしますか?と、言う問いかけをしました。
これは町村さんが直接話したんじゃなくて、斎木さんが話してくれたんですけども。
この問題については引き続きやってますと。
かなり情報としても重要な情報も得ていると。
従いましてこれからもこの追求については引き続き今後もやっていきますというお話を頂きました。
外相は傍で頷いていましたので、多分本人もそういう気持ちだろうというふうに考えます。

こうして今までの問題の経過の中で、この問題を解決する糸口としてのチャンスはかなりあったんですね。
大韓航空機の時の事もそうでしたし、それ以来数えてみますと相当ありました。
今回の辛光洙の件に関してはある意味向こうの事実を明らかにするための大きな手がかりと。
重要な生き証人と、言うことで捕らえられると思います。
そういう意味ではこれはこれとしてですね。
きちっと追求して、日本としてもきちっと調査を出来るような結果に早くしてもらいたいなと。
それがこの拉致問題解決につながるひとつの大きなタイミングでもあると私は感じています。
以上です。(拍手)

2005年07月21日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(9)05.7.14 友愛会館にて

『横田早紀江さんのお話』

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皆様こんばんは。
本当に先日の座り込みのときは、たくさんの方が応援してくださってありがとうございました。
助けていただいて感謝しています。

今日町村さんにお会いしまして色々お話を聞きましたけども。
やはり先ほど西岡先生が仰いましたように私たちは何度も何回もお話させていただきますが。
アメリカとかジュネーブでお話させて頂いた時と、あの、そのなんていうか、気迫っていうか。
こちらにむいていらっしゃるその時の気迫が、あぁもう、あぁ駄目なんじゃないかな?と、最初からなにか思えるような。
本当に何とかしなきゃというような眼差しを感じられないんですよね、いつも。
日本の政治の方たちは、これは何なのかなぁ?といつもでも思うんですけども。

デメロさんとお会いした時の話を良くしますけど。
とくにあの方は本当に素晴らしい方でした。
本当に亡くなった事が残念でなりませんが。
写真を残してありまして。
ちょうどデメロさんが真剣にこう、眼差しをギラギラさせて私たちが泣きながら話しているのを・・・(聞き取れず)ように聞いてくださった。
あの感情を誰か一人でも政府の方々が私たちに示していただけないのかな?と、いつでも思っています。
そして西岡先生が今日お話になさったようなことを、国民の皆様が本当に一生懸命こうして私たちと同じ気持ちになって聞いてくださっているのですが。
総理大臣を初め、日本の国会議員のあれだけの人がどれだけこの拉致問題の、すごい残酷な大変な問題なんだと言うことを、どこまで考えていらっしゃるのかな?といつも思いますので。

ぜひ国会の中ででもどこででも、国会議員の皆様方に西岡先生に講師としてお話に行っていただけたら良いと、私いつも思ってるんです。(拍手)
今日の辛光洙のお話にしても、色々な問題にしても字面で読んで、この人はこういうふうにこうだったんだなぁと。
だから送還されたんだなぁというような。
何となく事務的な感じの解釈で物事を考えている方が多いんじゃないでしょうか。

そのような中でどれだけたくさんの人が、人生を狂わされて本当に苦しんで、親も子供も。
長い長い年月本当に生殺しの中で。
今までも本当にたうちまわっているのがこの拉致問題の本当に現実なんだと、しっかり、政府の方たちがしっかりと考えていただきたい。
それにはどうしたら良いんだろうと。
ぜひ西岡先生、お話に行っていただきたいと私は思うくらいです。

中々難しいことですけれど、辛光洙のお話、昨日のニュースでありましたように。
めぐみとかひとみさんとかがあんな小さい時にその人に教わっていたというようなことを聞いて、私たちもびっくりしたんですけれども。
そのような大変な人が先生になって。
日本にいれば何もそんなに人に習わなくても、ちょんと大学に行けば物理でも何でも自分でやれば勉強が出来るのに。
そんな本当に不自由な所で、故郷を恋慕いながら早く帰りたいと思いながら一生懸命に、そんなおじいさんに習わせられて。
本当に可哀想で悔しくてならないんです。
何とかして早く取り返さなければと・・・・・・・よろしくお願いいたします。(拍手で一部聞き取れず)

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(8)05.7.14 友愛会館にて

『増元照明 家族会事務局長のお話』

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西岡さんが仰ったように、本当に私たちはこの辛光洙の件については、悔しい思いと言うかそういった物を重ねて参りました。
更にそのお話の所では、皆さんお分かりのように今日話した中でお分かりのように、日本政府の北朝鮮に対する対応の拙さと言うものを非常に感じられると思うんですが。

近くは2001年の金正男が日本に来た時です。
・・・(聞き取れず、情報機関の名前か?)が情報を流して。
せっかく日本政府に金正雄を捕らえるようにという情報をせっかく流したのに、あの田中真紀子という稀代の悪女がいましたけど。(笑い声)
手をバタつかせて返しなさいと。
それに唯々諾々と従った、元福田官房長官と小泉総理。
そしてその対応を私たちは目の前で見て、やっぱりこの政権では駄目なのかな?と言う思いをするわけですけれど。

今の対応はまさしくその行為ではないか?と思います。
辛光洙に対しては何をかいわんやと言う。
でも、こういう政府だからこそ国民の皆さんがしっかりしてるのではないか?と、そういうふうに思ったりなんかもしてるんですが。

声を上げていかないと日本政府は必ず国交正常化へ向かいます。
そして6者協議でもおそらく核を優先的に考えて、核の合意の方に走るでしょう。
先ほど、町村さんが言ってたと言うふうに言いましたけども。
とにかくよその国から6者協議を優先するために経済制裁の発動を控えてくれと言われて、それに乗ったと言うことは、拉致被害者・国民の命よりも核を優先したということです。
結局核を優先する会議で合意がなされたら、拉致の被害者を取り戻さなくても結局経済協力をせざるを得ないということです。

その時に国民が本当に怒るかどうか?
私は皆さんには期待したいと思っております。
その時に経済協力をするような政府をどうやって私たちが糾弾していくのかどうか?
そこまで考えていっていただきたいというふうに思っております。
よろしくお願いたします。

2005年07月20日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(7)05.7.14 友愛会館にて

『横田拓也 家族会事務局次長のお話』

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横田拓也でございます。
まずお話させていただく前に先般の座り込みに際しまして、本当に多くの皆様方にお力添えを頂きましたことを改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。(拍手)

今日は原さんのお話を聞かせていただきまして、私を含めて、そして多くの国民の皆様方がですね。
また事実を深く認識していただいたことは本当に良い機会であったと思います。
原さんのケースのようにですね。
いろんな形でいろんな事情によって、こうした機会に出るの無いご家族が多くいらっしゃると思います。
特定失踪者の中にももしか、政府に認定していないだけで、拉致された人々がですね。
日の目を見ないだけで悩んでいる苦しんでいると言うケースが、本当に多くあるんだと思います。
本当に日本政府は一人残らず全員を返すんだと、それまで許さないんだと言うことを。
自分の言葉として、自分の口から改めて言って欲しいし。
小泉総理には意思を持って信念を持ってその事を口にしていただきたいと思います。

話は変わるんですが。
昨日、夕方の1チャンネルですが、辛光洙の件で報道がなされまして。
色々報道でニュースがあるわけなんですが。
NHKさんがどういったルートで情報を入手されたのか分からないんですけど。
私たち自身はそうした事実を知りながら、そういう強い覚悟と信念を持って座り込みをしていたわけなんです。
そういった事実はやはり当事者として明らかにして良いのか悪いのか?と言った悩みはありますし。
タイミングが適切なのかどうかと言うのは、常に考えているんですが。
先月の末の座り込みの時にはそれをあえて語らずに、座り込みをしていたわけです。

当然、日本政府・当局は、その事実は同じように知っているわけですが。
私たちが3日間続けた訴え、官邸の横で「小泉さん、会いに来てください」と。
「私たちの声に耳を傾けてください」と言う事を言ったんですが。
この事実を知っていたにも拘らず、何の反応も示されなかった。
と言うことは大変哀しい事だと思いますし。
そして今日も官房長官の談話の中でも「家族が怒るから」というような、本当に他人事のように軽く流せてしまう。
官房長官の談話と言うものは本当に日本国民の一人としてですね。
拉致被害者の一人としてでなく日本国民の一人として、本当に寂しい・哀しい事柄だと思います。

私は6者協議の場で中国やもちろん北朝鮮もロシアも、いろいろ妨害工作的な発言を繰り返していますけれども。
絶対日本政府は譲らず、6者協議の場で北朝鮮に対して日本人の拉致問題が解決しない限り。
つまり一人残らず奪還するまで、あなたたちに対して経済協力派ひとつもしないんだと。
国交正常化は有り得ないんだと、言うことを明言していただきたいというふうに思います。(拍手)
そしてですね。
北朝鮮が相変わらず何の誠意も見せなければ、国連安保理に日本政府は持ち込むんだと言う強い姿勢を示していただきたいというふうに思います。(拍手)

辛の話が出た後はですね。
でっち上げ国家ですから。
おそらくこれまで彼らが言ってきたことのようにですね。
すでに辛は例えば脳梗塞で死んでます、と言ったようなことを言って来るんだと思います。
そういうふうなことを絶対に私たちは許してはならない。
一人残らず日本人を取り戻すまで、国民は声を上げていく 行動していく。
そして日本政府はそれを代表して北朝鮮に対して6者協議の場であれ、日朝二国間の場であれ、強く言っていただきたいと思います。
よろしくお願いします。(拍手)

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(6)05.7.14 友愛会館にて

『横田滋 家族会代表のお話』

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こんばんは。(拍手)
今日は町村外務大臣が就任されて半年以上経ちましたので、家族の人と話をしたいということで外務省で面会をいたしました。
それで家族会からとしては、近く6者協議が開かれるわけですが。
それで北朝鮮側は拉致を議題にするべきではないとか。
拉致は2国間の問題で取り上げるべきでないって言うような中国等の意見もありますんで。
そういうことの無いように、ぜひ何をおいても6者協議で取り上げるようにと言うことを、十分根回しをして必ずこのことを取り上げてもらうようにという要望をいたしました。

それからまた昨年のめぐみの遺骨とする物が別人の物と判明しまして、最終的な精査が終わったのは12月の24日なんですが。
その際に細田官房長官が北朝鮮側が速やかに誠実な対応を取らなければ、日本も厳しい態度を取らざるを得ないと言ってから、先ほど座り込みをやった段階で6ヶ月が経過して、まもなく7ヶ月近くになりますが。
先ほどの話にもありましたように、日本がここで経済制裁と言い出すと北朝鮮側がそれに出てこない口実を与えるから、それをしないで欲しいと言う他の国の意見があるからと言うようなことを仰ってましたんですが。
しかし我々の立場からすると、現実はそういう事だと思いますけど。
6者協議で話し合って解決すると言うことは望み薄だと思いますので、これが終わって一定の期限を切って制裁の発動をして下さいと言うことをお願いしました。(拍手)

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(5)05.7.14 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話 その2』

(西岡氏の話に戻る)
社会党だけじゃないんですよね。
2000年になりますと自民党にも工作の手は入ってきまして。
つまりコメが送られていったわけですよね。
金丸訪朝以来自民党も工作の対象になっていて。
当時は拉致の会、救う会ってのは自民党よりも右だったんですね。
自民党を攻撃していた。
自民党のこれはこの間座り込みしたときに確か早紀江さんが仰ったんだと思いますけど。
当時野中さんとか土井さんとか、今どう思っているのか?出てきて話を聞きたいと言いましたけど。

野中さんは我々が座り込みしたときに「日本でいくら吼えていたってめぐみさんは帰って来ない」と。
座り込みをした数日後のどこかの講演で仰ったんですね。
吼えると言う動詞は、人間に対して使う動詞じゃないですよね。
その同じ時期に辛が我々の見ている所で堂々と英雄として北朝鮮に帰っていったんですね。
日本からコメが出て行ったんですね。
座り込みをしたら吼えてると言われたんです。
たった5年前のことです。
その時マスコミもそれほどけしからんというふうには書かなかった。
韓国の拉致被害者の家族はですね。
実は辛たちが(北朝鮮に)送られるときにバスの前に立ちはだかってですね。
20分止めたんです。

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それでここにですね、記念切手の拡大の写真があるんですけども。
北朝鮮がですね、非転向長期囚が帰ってきたと。
この人たちは立派な人たちだと言って記念切手を出したんですね。
人数が多いもので切手のシートに一人一人の顔写真が全部入ってるわけですけども。
この中に辛も居るわけです。
彼らは日本人のパスポートを持って原さんに成りすました人を英雄だと未だに言ってる訳ですよね。
(増元氏、切手の拡大写真を掲げる。司会の平田氏が本物の切手シートを掲げて披露する)

問題なのは金大中大統領だと思うんですね。
金大中大統領がつまりさきほど言ったように、辛たちを送り返したわけですね。
この間、5月に金元大統領が東京に来たんですね。
東大のカンと言う先生とか和田春樹さんとか、そういう人たちを呼んでシンポジウムをやったわけなんですね。
二日間やった東アジアの朝鮮問題に関するシンポジウムで、拉致問題は誰も発言しない。
という異常な、我々から見ると異常なシンポジウムだったわけですけども。
特別講師としてきて、そして話をしてるんですね。
我々は金大統領が来るんだったら、辛を送り返したことについて、なぜそうしたのか?
聞きたいと。
シンポジウムで話し合いをするのなら、ぜひそれを議論して欲しいと声明を出したんですけど。

朝日新聞が、そのシンポジウム朝日新聞が後援だったんですけど。
そういう関係もあったのか、記事で金大統領にインタビューしてその質問をしてくれたのはですね。
そしたら金大統領は知らなかったと。(薄ら笑いの声)
その記事を見てある韓国の公務員の人が大変怒ってまして。
大統領が知らないなんて有り得ない。
大統領が約束してきたことですからね。
もしも知らなかったと言うことであれば、日本の外務省はなにしてたのか? 
森総理は金大統領と、辛が送り返された後、20日後に熱海で会ってたんですね。
すぐ抗議したのか?
してないでしょ?

金大中大統領は日本では未だに民主化運動家とか言われてますけれども、そうじゃなくて韓国人拉致も一切取り上げないんですね。
5億ドルの裏金を、現金を渡してるわけですね。
これが核開発の資金になったわけですね。
現金ですから自由に使えるわけです。
そして日本人拉致救出を妨害した、非人権的な民主主義の反対する独裁者の側に立ってる非民主的な人だと。
言わざるを得ないですね。(拍手)

拉致の問題と言うのは実は日本国内だけの問題じゃなくて国際的な問題で。
アメリカがあの後も、選挙でブッシュ大統領が勝ったんで、状況が変わったわけですけども。
当時はアメリカもクリントン大統領が行く行かないで、さっき言いましたけど米朝で反テロ宣言出したんですね。
その理由は何かと言いますと、北朝鮮がテロ国家リストに入ってたんですね。
アメリカの。
ここで何回も言ってますけど、それから(北朝鮮を)抜こうとしていた。
テロ国家にアメリカの大統領が行くわけにはいかないですから。

よど号の犯人たちが帰ってくると話が流れるわけです。
それと最近テロをやってるかどうかと言うのが問題になる。
最近は大韓機爆破事件以降ないですね。
87年以降、表立って明らかになってるのは。
もうやらないと言わせると。
北朝鮮は最初からやってないと言ってるんですけど。
北朝鮮はテロには反対だという文書があると議会を説得しやすいと、アメリカと北朝鮮が反テロ宣言を、共同宣言を出したんですね。

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2005年07月19日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(4)05.7.14 友愛会館にて

『西岡力 副会長のお話 その1』

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西岡です。
お話をさせていただきたいと思いますけれども。
大変まぁ、原さん事件については悔しい思いが多いですね。
つまり85年の段階で、これだけ明確に拉致が明らかになってたわけなんですね。
80年に拉致されたわけですけども、85年の段階で韓国に捕まったわけですね。
原敕晁と言う日本政府が発行したパスポートを持ってたわけです。

そのパスポートは、金賢姫が持っていたのは北朝鮮が印刷した偽物だったんですが。
原敕晁の名義の辛さんが持ってたパスポートは本物だったんです。
日本国が本当に発行した本物だったわけなんです。
そこに貼ってあった写真は辛の物だったんです。
原さんの写真じゃなくて辛の写真が貼ってあって、原さんだという筆跡は辛の筆跡だったわけなんです。
完全に成りすまされて、本物のパスポートを取られて。
そしてそれが韓国で捕まったわけですね。
物証があるわけです。
パスポートと言う。
そして本人が自供して有罪判決となって拉致だとなったわけです。

そこで本当は今のようなマスコミの報道や国民の関心が集まるべきだったんだと思うんですね。
なぜその時に一過性の報道だけで終わってしまったのか?
当時の新聞などを見ますと、ソウル発で書いてはいるんですけども、しかし当時北朝鮮はでっち上げだと言ったんですね。
当時のですね、北朝鮮が言ってた記録を探してきました。
先ほどの資料として後でお配りした2枚のうちの一枚、労働新聞が85年の7月2日付で論評を出している物の翻訳ですけれども。
でっち上げだといったんですね、北朝鮮は。
3人と言うのは辛とそれから済州島にいるキム・ヒヨクと洪と書いてハンなんですけども。
在日韓国人でスパイをやってた人ですね。
その3人が捕まったと。
この人たちについてですね、でっち上げだと。
我々は総連となんら関係がないと言って来たんですね。

当時は日本の世論、そしてマスコミも両論併記なんですね。
韓国はこう発表したと。
北朝鮮はこう言ってると、言うことだったんですね。
つまりなぜそうなってるか?と言うと、日本にいる我々容疑者だと思ってるんですけども、逮捕が無かったんです。
今になって告発となってるんですが、85年の段階で日本の中で事件になってないわけです。
日本人が拉致されて犯人が捕まってて、成りすましている物証があって、自供しているのに逮捕できなかったという。
日本の中で事件になってなかった。
辛を国際手配したのもですね。
金正日が拉致を認めた後ですよね?
何でその時身柄の引渡しを求めたり出来なかったのか?と。
85年の段階で辛の身柄の引渡しをこちらに求めていればですね。
あるいはきちんとした捜査が日本主導で出来ていて。

彼は、一時期一回転向するんですね。
しゃべるんですけども、刑務所の中で戻っちゃうんですね。
プロセスはそういう感じなんですけども、その時にめぐみさんの事や曽我さんの事が知る機会があったわけです。
85年の段階で横田家は探してたわけですね。
分からなかったわけです。
曽我さんのも2002年まで分からなかったわけです。
そのことを知ってる人間が実は韓国にいたんですね。
85年に。

で日本国のパスポートを偽造すると言うことだけでも、大変な主権侵害ですね。
すると原さんがいなくなって、そのパスポートが偽造されている。
外交問題にして北朝鮮に強く抗議すると共に、韓国政府に対してこれは日本の主権のかかった問題だから人権のかかった問題だから、辛の取調べをさせてくれとなぜ要求できなかったか?
両論併記で北朝鮮はこういってるということの中で。
マスコミの報道もソウル発で一回か二回書かれて終わりになってしまった。

家族会がなかったからなんですよね。
当事者が言わないと日本の中で誰も被害者を救おうと言う人達がいなかったわけです。
警察は警察で、証拠・法に基づいて捜査していると言うんですけど、外務省は警察が認定した人について交渉すると言うんですけど。
国家が金正日に、これは辛が本人が韓国の取調べで言ってるんですけど。
原さん拉致は金正日から直接命令を受けたと、聞いてるわけです。
と言うふうに韓国の月刊現代と言う、編集長が当時書いてあるんですね。
ですからこれも金正日の命令なんですね。

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