2005年07月18日

藤沢集会へ行ってきました

集会参加が連続になりましたが、今日、というかもう昨日ですけど、藤沢で開催された集会

拉致を語らずして人権を語るなかれ
「第11回 拉致被害者と人権を考える市民集会」

に参加してきました。

今回特に胸に迫ったお話は、脱北者の証言ですね。
彼女のお話の中でも一番心に残った言葉は、日本人妻はすぐに諦めてしまうので、次々に死んでいった云々・・・のくだりでしょうか?
配給を当てにするのではなく自力で畑を耕したり、あるいは人の物を盗んでも生き延びてやろうと言う気迫気概が無い、と言うお話。
う〜〜ん、そう言われればやはりそうなんだろうか?
日本人の人の良さは遺伝子レベルまで刻まれていると言うことか?

日本人の人の良さが生と死の間を分けるのだとしたら、今北朝鮮に囚われの拉致被害者は日々をどんな思いで生き延びているのか?
私には想像もつきません。
なんだか考え込んでしまいました・・・

集会の模様は録音を録りましたので、原敕晁さんの集会テキストが終わり次第、こちらも文字化してご紹介いたします。
拉致被害者家族から特定失踪者家族、脱北者と充実した中身の濃い集会だったと思います。
ぜひご一読いただきたいと思っております。
お付き合いの程、どうぞよろしく。

藤沢集会の登壇者は以下の通り。
テキスト化次第順次公開します。

司会者挨拶
斉藤文代さん
市川龍子さん
平野文子さん
真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事

野口孝行さん 北朝鮮難民基金・国際担当
脱北者のお話
横田拓也 家族会事務局次長
高野美幸さん 特定失踪者ご家族
事務局より


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2005年07月16日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(3)05.7.14 友愛会館にて

『吉田利幸 大阪地方議員の会会長(大阪府議)のお話』

Img_0141.jpg

補足と言うかですね。
実は私ども地方議員でありますが、政治家の最大の使命はなんなのか?と言えば、国民の生命と財産を守ること。
ですから私は先ほどの集会ですね。
この協議に対してでですね。
この拉致問題は最大の話題にすべきと思うんですね。
昔の総理が人間の生命は地球より重いと言われた方もいらっしゃいましたが。
まさしく国家そのものが問われているのがこの拉致問題ではないか?と思うんですね。

原敕晁さんの事件に付いてはですね。
まさしく身寄りが少ない。
私ども地方議員の会は、大阪の地方議員が57名加盟を頂いております。
八尾の三宅議員と松本弁護士ですね。
3名で、告発をしたわけでありますが。
日本がまともな国なんだ!という主張を明確にするためにも、これは告発してですね。
ちゃんと逮捕していただかないと。
日本の警察の在るべき姿、やるべきことをやるんだと。
発信するということが非常に大事な局面を迎えているんじゃないか?と言う気がいたします。

日本の政府が本当に政治家として、私も自民党。
三宅さんも自民党ですが。
少なくとも国会議員がそういう形で自らの使命を示せないなら、地方議員からそういう発信をしなければならない。
その熱い思いで告発をしたのです。
実際先ほどの集会でも、その当時大阪の方では辛光洙に対して逮捕状をぜひと、警視庁の方に上げたそうですが、どういうわけかそれをストップされたと。
その時にやっぱり意気を、それだけあったときにそれを実際追うんじゃなくてですね。
昭和60年当時であればもっと明らかに出来たことがたくさんあると。

ただ私どもは、拉致問題ですが朝鮮総連の組織を挙げてですね。
あるいは日本人の中にも手を貸しておられるやに思うわけですね。
特定失踪者の問題にしても何百名と言う人が拉致されてるか分からない。
警察の方でも掴んでいてひょっとしたらと言うのは900人くらいいらっしゃるそうでございます。
まさしくそういうことのひとつの一番の解明しやすいというかですね。
韓国の裁判で事実関係を明らかにした上で、死刑判決を受けてるわけですから。
それに基づいて裏づけを明確にした上で、やはりこの機会に日本の国はこうだと。
主権国家であるということを世界に向けて発信するのが絶好のチャンスだと思います。
私どもこれはやはり、これは大阪府警、私ども府議会議員としての立場としての所管でございます。
私も地方議員としてできることは全て。

これは家族会・救う会の問題ではありますが、しかし一番問題なのは国家の問題として。
やっぱり政府、我々国民の一人として自らの問題として、いかに捉えるかですね。
自らの命の問題として、それがようやく連綿と続けられた先人が築き上げた歴史に続くわけですし。
日本の歴史も、日本の国の命もですね。
我々一人一人の国民の命も同じでございますから、そういう意味合いをはやりひとりひとりがやっぱり考えていくべきですし、行動していくべきだと思います。
そういう意味で皆さんに・・・(聞き取れず)皆さんにご理解いただけたらと思います。

警察もですね、今日三宅先生の方から報告がありました。
決してほったらかしにはしていない。
鋭意努力していると、解明していくという姿勢をですね。
私ども真剣に受け止めたわけで、お会いした時のこれは感触で。
しかし外交の問題では、中央議会でもそうですし、国民の皆様方ですね。
それぞれなんだ?と。
日本は国家としての体をなしていないじゃないか?と言うような思いが、一人一人皆さんここに来られている皆さんは、そういう思いがあると思います。
私ども横田めぐみさんのご両親、有本恵子さんのご両親、あるいは家族会の人と会うたびに本当に元気なうちに帰ってきたら良いですけど。
この志が一人一人の命の底から刻み込んで、やっぱり我々の意思として努力をするべきだと思います。
以上です。(拍手)

★三宅博議員の補足のお話
報告が漏れておったと思うんですけど、辛光洙。
主犯の辛光洙が今現在北朝鮮で非転向長期囚として返されましてですね。
これは金吉旭、大阪朝鮮学校教員と言うか校長まで勤めたんですけど。
彼は韓国の済州島で今も元気に暮らしておると。
それから日本における宝海楼の店主、李三俊ですね。
今一人亡くなった李吉炳と言うんですが、朝鮮総連、大阪の商工会の会長なんですけども。
彼はすでに亡くなっておりますが、前に一度ですね。
関係者の方からチラッと聞いたんですけど、彼の子供が北朝鮮におったと。

で、辛光洙にですね。
自分の子供、娘と息子の写真を見せられて、あんたの娘はどこそこで元気にしている。
息子はどこそこでいると言うことをどうも見せられたみたいです。
でけっきょくまぁ、彼もそういう中で辛光洙にですね。
全く抗うことも出来ないといいますか、これを拒絶することが出来ないというような脅迫を受けてこの犯行に加わったと言うふうなことらしいですけども。
ですけど、いかに自分の子供が可愛いとしても、全く赤の他人の関係ない人を拉致と言うそういう犯罪に手を染めると。
これはやはり許されざる行為であるというふうに私は思います。
まだまだちょっと十分に伝わってはおりませんけど、また後西岡先生とか増元さんとかが説明してくださると思います。

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(2)05.7.14 友愛会館にて

『三宅博 地方議員の会副会長(八尾市議)のお話』

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※吉田利幸 大阪地方議員の会会長
私は大阪から参りました。
実は大阪にですね。
北朝鮮に拉致された大阪地方議員の会というのがありまして、私その会長を仰せつかっております大阪府議会議員の吉田と申します。(拍手)
また後ほど私がお話をさせていただきますが。
反面、(こちらは)この全国組織でございます。
北朝鮮に拉致された日本人を奪還する地方議員の会、副会長をなさっておられます。
八尾市議会の三宅さんの方からですね。
まずいろいろとご意見なり、あるいは告発に至るまでの経緯をよろしくお願いします。

★三宅博 地方議員の会副会長
皆さんこんばんは。(拍手)
ご紹介頂きました地方議員の会の副会長をしております三宅と申します。
着席してお話させて頂きたいと思います。
今日はお手元にお配りしてますレジュメに添ってですね。
お話をさせて頂きたいと思います。
今政府認定の拉致被害者は10件16人ですね。
その中で原敕晁さんの拉致事件と言うのは非常に大きな特色がございまして、その辺のことは後刻お話させて頂きたいと思います。

原さんは長崎にお生まれになられましてですね。
その後就職の為に大阪の方に来られまして、中華料理店ですね。
天王寺区の鶴橋の駅の近くの宝海楼(ほうかいろう)という中華料理店のコックとして勤められておったと。
そのときですね、昭和55年に北朝鮮に拉致をされたと言うことなんですけども。
この拉致に至る経緯と言いますか、これは非常に過去ですね。
多くの雑誌・新聞あるいはテレビ等でですね、その全容については詳しく述べられております。

先ほど佐藤先生がお話されましたが、昨日の夜テレビにも報道されましたですね。
今朝の朝刊にも載っておりましたが辛光洙事件ですね。
この辛光洙事件が原敕晁さんの拉致事件のまさに首謀者であると、こう言うことでございます。
後ろに貼っておりますこのチャートなんですけど、これは・・・(聞き取れず)の方に頂いたんですけど、韓国の情報機関が作成したチャートでございます。
ここにですね、原さん拉致に至る実行グループの役割とかですね。
そういったものがチャートとして載せられておると言うことでございます。

原さんもですね。
多くの特定失踪者の方と共通しておりますけども、非常に身寄りの少ないお方です。
さっき増元さんからお兄さんの事がご紹介されましたけども、それ以外にですね。
本当に身寄りの少ない方でございます。
原さんのプロファイルといいますか、原さんは昭和11年に長崎市にお生まれになられたと言うことでございます。
お兄さんは原耕一さんといって今も長崎にご存命でございます。

原さんはですね、大阪の中華料理店にお勤めになっておられた。
勤めておった勤務先の宝海楼、宝の海の楼閣の楼ですね。
宝海楼と言う中華の料理店ですね。
店主これは李三俊といいますが、彼は朝鮮総連の大阪府商工会の理事長であったということでございまして。
まさか店主にこういうふうに策略にハメられて北朝鮮に連れて行かれるとは、原さんご自身全く予想だにしなかったことであろうと思います。

このチャートもそうなんですけども、原敕晁さん拉致事件の全容につきましてはですね。
辛光洙が1985年ですね。
ソウルで捕まりまして全てを白状する、自白しておりまして。
ソウル地方法院、日本で言いますと地裁みたいなところですね。
そこで死刑判決を受けておるということでございまして。
首謀者として辛光洙、その配下にいる金吉旭。
あるいは先ほど言いました中華料理店の李三俊ですね。
こういったそれぞれの役割ですね。
拉致の経緯と言うのもすでに広く知られておる。

それは先ほども申しましたように多くの雑誌・テレビですね。
テレビ朝日の石高健次さんがこの問題非常に当初から追及されておりましてね。
済州島にまで行かれて一味の人間に会われてですね、その模様をテレビで放映されています。
いうことでございますね。
今一人これは亡くなったんですけど、朝鮮総連の大阪府商工会の李吉炳と言う人がいるんですね。
彼は今は死亡しておりますが、店主の李三俊は今も存命で。
しかもそのお店は今も従前どおり現在も営業されておると。
店主も店に出て商売をしており、ごく普通の市民生活を送っておると言うことでございます。

続きを読む

2005年07月15日

原敕晁さんを救うぞ!東京集会(1)05.7.14 友愛会館にて

『増元照明 家族会事務局長のお話』

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こんばんは。(拍手)
私、家族会事務局長として、原さんのお兄さんである原耕一さんと何回か電話でお話をさせて頂いております。
原家は家族会結成当時、1997年からすでに家族会に入られると言う意向を示されて。
しばらく代表が連絡を取っておられたんですけども。
9・17以降代表が忙しくて、事務局の方で(連絡を)取らせていただいております。

先日、原物語を開催しますので、今お体が本当に良くない。
毎日のように、内臓の方で確か肝臓だと私は思ったんですけども、とにかく毎日病院の方に行かなければならない状態で、とても活動できる状況ではありませんし。
まして東京に行くなんていうのはとんでもないと、そういう話をされておりましたので。
ぜひ手紙でも何でも良いから書いていただけませんか?と言うこともお願いしたんですけども、今体力的にそれもきついということを仰っておられました。

で、今原耕一さんの心境としてどのようにお考えでしょう?とお聞きしたら、
「今日本政府がこの原敕晁と言う人間をどういうふうに救出するのか?
それを注視していきたい、静かにちょっと見ていきたい」
と言うことをおっしゃっておられました。
「日本政府がどういうふうに責任を持って弟を助けてくれるのか?
今自分としては騒ぐのではなくて、静かに政府の動向を見ていきたい」
というふうに思っていると。
原敕晁さんが失踪されてそして辛光洙が捕まり、原敕晁さん拉致事件と言うのが表に出てから、色々とメディアの方が原家を訪れるようですけども。

原耕一さんとしても各地にいろいろ要請、それから陳情もしてきたみたいですけど、来られたそうです。
でも全くなんら動いてくれなかったという、そういう忸怩たる思いがあると。
「今現在も本当に9.17以降拉致が発覚・表面化されて、日本政府がどういう姿勢を見せるのか?
それだけ今見守りたい」
と言う言葉を仰っておられました。
これからも家族会の一員として、私どもは一応中央の情勢とか今の政府の考え方、私たちが会って感じたままを申し上げる、お知らせするつもりです。

本日も町村外務大臣と家族会メンバーがお会いしました。
そして大半の方が失望感を否めないと言う思いをして来られたようです。
「今度の6者協議の姿勢、2国間協議でも3者協議でもとにかく、日本政府としては北朝鮮政府に問いかける」と。
「北朝鮮政府が受けるかどうか分かりませんけれど」と仰っていましたけど。
これはぜひ、外務省の今度は佐々江(アジア大洋州)局長でしょうか。
局長にはぜひお願いしたいと思ってますが。
制裁の時期はもうちょっと明確に私はハッキリと言って頂きたかったんですけども、「タイミングを計って」としか仰いませんでした。

「6者協議が終わって6者協議でなんら北朝鮮政府が誠意ある対応を見せなければ、その時は考えて頂けますか?」と申し上げたんですけども。
それでも「私の口からその時期に関して申し上げることは出来ない」というふうに言っておりますので。
経済制裁の発動に関しては小泉総理の下、閣僚としてそれに反することは言えないんだと、私は思っています。
閣内不一致ということで 責められますから。
それにしても何となく、トーンダウンしたのかな?と。
去年12月、「厳しい対応を取る」と言ってそして「単独制裁も選択肢の一つである」と仰った外務大臣なんですけども、言葉からすると何となくトーンダウンしたのかな?と言う思いを今日抱かせて頂きました。
それでもどこかの総理大臣と違って、会ってくれるだけまだましなのかな?と。
私は今日感じております。
以上です。
どうもありがとうございます。(拍手)

2005年07月14日

原敕晁さんを救うぞ集会に行ってきました

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ご紹介の写真は、登壇者の話に耳を傾ける横田ご一家の様子です。
先日行われた座り込みのお疲れも癒すまもなく、連日支援を求めて駆け回る被害者家族。
一目見てお疲れの様子が手に取るように分かります。
しかしどんなに疲れても倒れるわけにはいかないのだ、と早紀江さんは仰ります。

家族が黙ってしまうと、国はますます被害者奪還のためには動かなくなり、これ幸いと国交正常化へと流されていってしまう。
一体全体日本と言う国は、どこまで当事者意識を失っているのか?
問題意識を失っているのか?
ったく集会に参加するたび、腹立たしい気持ちに駆り立てられます。

今日の集会で登壇された吉田利幸大阪地方議員の会会長(大阪府議)の口からくしくも飛び出た言葉。

「政治家の最大の使命は何か?と言えば、国民の生命と財産を守ることです。」

先に参加した古川了子さんの集会でも佐久間市長が「市原市民の生命を守る事が行政の役目」という発言をなさいましたが。
地方議員の方はちゃんと本質を分かって被害者奪還のために動いてくれていると言うのに、官邸の腰の重さは本当になんなのでしょうね。

毎度のことですが、集会では終始政府のやる気のなさ加減、弱腰姿勢を追及する発言が相次ぎました。
いちいち文字に書いて投稿するのもうんざりするくらい、支援者の皆様にはお馴染みの話の連続・・・

今日の集会内容で特筆することは、シン・ガンス元工作員の恩赦に至る事情と日本外交の体たらくぶりですね。
それとあの時犯した過ちを今度の6者協議で日本はまた繰り返すのではないか?と言う不安。
今度の協議で下手に核の問題が決着がついたら、拉致は棚上げのまま、日本は援助を出すことだけを要求されかねない。
その場合、日本国民は本気になって怒りの声を上げることが出来るかどうかが問われている、という趣旨の発言もありました。

いつものように集会の模様はテキスト化して当Blogで公開の予定です。
発言者は以下の通り。
しばらく当Blogでは集会テキストが続きますが、お付き合いの程よろしくお願いいたします。

増元照明家族会事務局長のお話
三宅博 地方議員の会副会長(八尾市議)のお話
吉田利幸 大阪地方議員の会会長(大阪府議)のお話
西岡力副会長のお話
横田滋 家族会代表のお話
横田拓也 家族会事務局次長のお話
増元照明 家族会事務局長のお話
横田早紀江さんのお話
飯塚繁雄 家族会副代表のお話
地村保さんのお話
本間勝さんのお話
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2005年07月13日

パンドラの箱は開かれた

パンドラは最高神ゼウスが作った最初の人間の女性です。
ゼウスはすべての悪と災いを箱の中に封じこめ、人間界に行くパンドラに持たせます

パンドラと言う名前には「全てを与えられた」と言う意味があるのだそうです。
ゼウスは神々に呼びかけパンドラにあらゆる贈り物をしました。
知恵と戦争の女神アテナは知恵を与えました。
愛と美と豊穣の女神アプロディーテは美しい肉体を与えました。
太陽と芸術の神アポロンは美しい歌声を与えました。
そして商業の神ヘルメスはパンドラに好奇心を与えたのです。

パンドラは好奇心を与えられたので、箱の中を見たくなり、我慢できずに開けてしまいます。
すると箱の中から様々な悪が飛び出しました。
病気、貧困、飢え、暴力、嫉妬、復讐、怨恨、狂気、偽善・・・
驚いたパンドラは慌てて箱のふたを閉じました。
しかし、時すでに遅し。
地上にはありとあらゆる災いが満ち満ちてしまったのです。

けれど、パンドラの箱の中に外に飛び出さずにひとつだけ残った物があります。
それは希望。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

拉致問題を語るとき例え話に良く使われるパンドラの箱。
おおよその話は知ってはいたけれど、ふと好奇心に駆られて調べてみたのです。
パンドラの箱からあらゆる災いが地上に飛び出した、と言うことは知っていましたが、箱の中に希望が残っていたと言う話は今回調べて初めて知りました。

金正日が拉致を認めたのは、まさしくパンドラの箱を開ける行為でした。
あれはただ単に拉致被害者の存在を認めた、と言うその事実だけにとどまる話ではなかったのは皆様ご承知の通り。
金正日が開けたパンドラの箱の中からは、戦後日本がかりそめの平和の裏に隠し置いていたあらゆる災いが表舞台に飛び出しました。

歴史問題、靖国問題、教科書問題、左巻きマスコミ、利権政治、売国議員、日教組の偏向教育、日の丸君が代問題、憲法改正問題、自衛隊問題、在日の問題・・・などなど。

かりそめの平和の影で甘い汁を吸っていた連中はさぞかし慌てたことでしょう。
なんとかパンドラの箱に蓋をして、甘い汁を吸い続けようと今もあがき続けています。
しかし、一度飛び出した災いの数々をもう一度パンドラの箱の中に戻すことは出来ません。
のんびりと平和ボケのぬるま湯に浸かりきっていた市井の人々の中からも、日本の抱えるあらゆる問題に目を向ける人が増えました。
パンドラの箱が開かれたことで日本人は目覚めつつあります。
政治にも外交にもトンと無知な私でさえ、日本の抱えるあらゆる問題の存在をはっきりと意識しているのです。
この流れを後戻りさせることは出来ません。
後戻りさせてもなりません。

まもなく1年ぶりに6者協議が再開される由。
しかし早くもあちらこちらから日本を牽制する声が“かまびすしい”ですね。
中国も韓国もそして北朝鮮も、そんなに日本が本気になるのが怖いのでしょうか?
6者協議などはっきり言って茶番劇以外の何物でもない。
中韓両国が北のご機嫌取りをしている現状で、今更劇的な結論が出るとも思えない。
ではそのような中、日本のとるべき道はなんなのか?

少なくとも日本は毅然と自国の主張を通すべきと思う。
「全ての拉致被害者が帰国しない限り、わが国は北朝鮮に対し経済援助は一円たりとも出さない」
とキッパリ主張し、後は残り5ヶ国が何を言おうと何を決めようと、知らぬ存ぜぬで押し通せばよい。
金が出なければ困るのは北朝鮮である。
中国と韓国である。
日本は何も恐れることなく、北朝鮮による主権侵害・人権侵害の回復を徹頭徹尾主張すればよい。

パンドラの箱のからあらゆる災いが飛び出た後、箱の中にはただひとつ「希望」が残っているのだそうです。
この日本を希望の持てる国にするためにも、箱から飛び出たあらゆる災いと私たちは戦わねばなるまいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明日、都内友愛会館にて「原敕晁さんを救うぞ!東京集会」が開催されます。
お近くの方、ぜひお運びの程を。

原敕晁さんを救うぞ! 東京集会10
日時 7月14日(木)午後6時半〜8時半
場所 友愛会館9階大会議室
三田会館隣=港区芝公園2−20 地下鉄三田線芝公園A1出口すぐ、JR田町駅か
ら徒歩10分
登壇者  三宅博地方議員の会副会長(八尾市議)・吉田利幸大阪地方議員の会会長(大阪府議)=原敕晁さん拉致の実行犯として原さんが勤務していた中華料理店の店主・李三俊を刑事告発
西岡力(救う会常任副会長)、司会・平田隆太郎(救う会事務局長)
参加予定 横田滋(家族会代表)・早紀江(同夫人)、増元照明(家族会事務局長)
参加費 千円
連絡先 救う会 〒112-0013東京都文京区音羽1-17-11-905
電話03-3946-5780 FAX03-3946-5784、info@sukuukai.jp
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ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・

特攻について調べていると、必ずぶち当たるのが恋、恋愛の話です。
特攻隊員のほとんどが10代後半から20代の前半。
中には結婚して子供のいた特攻隊員もいましたがそれはむしろ少数派。
大多数が未婚の独身者のまま戦死しているのです。
燃えるような恋愛をしたという話もありますが、まだ恋も知らぬままに戦死してしまった悲哀を語ることも多いのですね。

私が調べた中で一番切ないなぁと思った話をひとつご紹介します。
ある特攻隊員が、自分が出撃するときにはぜひ若い女性の写真を持って往きたい、と考えたのだそうです。
しかし彼に特定の女性がいたわけではありません。
そこで知り合いの伝を頼り、全く見ず知らずの若い女性の写真を手に入れ、それを胸に抱いて彼は出撃して往ったのだとか。
10代後半から20代前半の年回りと言えば、異性に興味を持ち恋の切なさを知り、将来の希望を描く時代。
人生の中でも一番輝きに満ち溢れる時代です。
その輝くべき時代をひたすら戦争に捧げ、死に向かうことのみを求めるしかなかった特攻隊員の心を思うと、本当に切なくてやりきれない思いがします。

それでは私の叔父の場合はどうだったのか?
避けては通れぬロマンスの話を、今日は皆様にご紹介したいと思います。

叔父さんはどうも女性にはかなりもてたみたいですね。
頭は良いし背は高いし。
頭が良いと言ってもそれをひけらかして人を馬鹿にすることはありませんでしたし、人懐っこくてユーモアがあっておしゃべり好きで、話の場を賑やかせずにはいられないと言う明るい性格でしたしね。
顔もまぁ・・・特別美男子と言うほどではありませんが、鼻筋がすっと通っていて貫禄のある顔立ちをしています。
どちらかと言えばいい男の方だと思います。(笑)
身内の私が褒めるのもなんですが・・・(^^ゞ
それに何よりも当時憧れの予科練ですからね。
年頃の女性陣が放っておくはずが無いでしょう。

時期がいつだか不明なのですが、近所の神社の境内で海軍の軍服姿の叔父を真ん中に、7〜8人の女の同級生ばかりがずらりと周りを取り囲み、黒一点写っている写真も残っています。
まだまだあの当時は男女7歳にして席を同じにせず、と言う時代ですよ?
多分叔父が久しぶりの帰省をしたときに、急遽同級生が集まって写したんだと思いますが。
そんな写真が残っているほど、叔父は人気者だったのです。

叔父は優秀な上に農家の次男坊でしたから、ぜひ婿養子に迎えたいと言う話は実際たくさんあったのだそうです。
その中でも一番手の有力候補が前回ご紹介した同級生のTさん。
このTさんは後に小学校の先生になり、母の恩師でもあった人です。

ただどうも正式な約束は無かったようです。
特攻隊員に志願していたということもあって、そこまでは踏み切れなかったのでしょうけれど。
生きて無事に帰ってきた暁にはぜひ、と言う話は親も含めてそこそこの所まで進んでいたらしい。
もしも叔父が戦争を生き延びていたら、このTさんと結婚して家庭を築いていたのかもしれません。
母にすれば恩師の先生がそのまま親戚の叔母さんになるという不思議なめぐり合わせになるのですが、良いじゃないですか、そういうご縁があっても。

母の記憶によれば、叔父の死後、このTさんは一度生家にお線香を上げに来たことがあるんだそうです。
仏壇の前で静かに手を合わせて長いこと祈りを捧げていたのを、覚えているのだと。
母はまだ子供でしたし、恋がどうのこうのなんてその頃は分かりようもないのですが。
ただ単に叔父さんの同級生だからお参りに来てくれたのだ、と単純に考えていたのだそうですけどね。
今になって考えれば、Tさんはもしや叔父さんの事が好きだったのではないのかな?と。
そういうふうに思える節もあったわけです。

本人同士がどこまで心に秘めた物を持っていたかは分かりません。
Tさんもだいぶ前に亡くなっているので確かめようが無いのです。
でも、幼馴染が大人になってそのまま結婚すると言うのは今も昔も良くある話です。
私としては通じあう物があったと信じたいと言うのが、正直な所なのですが。
人を愛し愛されるという至福の感情を味わうことなく命を散らしたとは思いたくありません。
たとえ淡い初恋のような物であっても、恋の喜びを少しでも知った上での死だと思いたいのです。
でなければ、あまりにも叔父が可哀想過ぎる。

私の母はどちらかと言うと父親似です。
当然戦死した叔父とも顔つきがどことなく似ております。
亡き人の面影を残す少女を教えるかつての同級生だった恩師のTさん。
中学校時代の恩師だった元同級生のEさん。
中々心中複雑な物があったのではないでしょうか?
ついつい昔を思い出しては「あなたの叔父さんは優秀な人だった」と昔語りするのも仕方の無いことではありましょう。
子供だった母にとっては、ひたすら優秀すぎる叔父と比べられる苦痛の日々であってもですね。
元同級生の彼女たちにしてみれば、母の姿を通して懐かしい青春時代を思い起こしていたのでしょうからね。

もしも叔父が生きて家庭を持ったとしたら、今頃どんなお爺さんになっていたのか?
ふと考えることがあります。
私の祖父はとても子煩悩な人でした。
自分の孫が12人もいるのにそれでは足らず、隣近所の子供まで手懐けて可愛がるという、地元では知らぬ人のいないくらい子煩悩なお爺さんで有名な人でした。
似たもの兄弟の叔父のことですから、私の祖父に負けず劣らず子煩悩爺さんになったのではないのかな?と。
生きていれば今年80ですから、ひ孫がちらほらいてもおかしくない年です。
次々と生まれる孫やひ孫を可愛がり、それでも足らずに近所や親戚の子も可愛がりしてたんじゃないのかな?と。
その中で、ついでも私もご相伴にあずかって可愛がってもらえたのじゃないかしら?などと思ったりもするのです。

大勢の子や孫に囲まれて賑やかな老後を過ごしていたであろう叔父。
わずか20歳でその生涯を閉じねばならなかった彼の無念を思うと、いい加減な気持ちで日々の暮らしを貪るのは、やはりどこか申し訳ないような気がするのです。

参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
posted by ぴろん at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月12日

特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会(5)05.7.3 千葉市民会館にて

質疑応答&仲條富夫氏の発言

 入力に対する姿勢

 今回の一連の報告記では、先述のように発言者の口調や集会の雰囲気をできるだけ忠実に再現するため、発言部分は、極力オリジナルのままのいわゆる丸起こしとし、補注が必要な部分は( )で補う形をとってきました。

 しかし、今回の質疑応答では、講演者の発言中に質問者が割り込んで発言して交錯し、わかりにくいので一部再構成しました。
 また仲條富夫氏の発言には、「○○ので、△△まして」と繋がり続けて、文として長くなりすぎる部分があるので、最小限の範囲で「ます。ました」に替えて句点を付け、文末としている部分があります。やや不自然な点もありますが、ご諒承ください。

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 質疑応答

 Q1.会場参加者(仮称Q氏)― ブッシュ・姜哲煥会談の意義 ―
 あ、一つ伺いたい。(真鍋氏:どうぞ)先程ですね、アメリカが本気になるかもしれない、と言っておられましたけど、つい最近、ブッシュ大統領が姜哲煥(カン・チョルファン)さんとお会いになりました(真鍋氏:そうですね)けど、そのことをどう思いますか?人道的観点から・・・。

 A1.真鍋理事の回答 ― 北朝鮮への強力なメッセージ ―
 よくご存知のとおりですね。なぜ姜哲煥に会ったかということですね。今、6カ国協議が始まるか、始まらないかの時に、脱北者のシンボルにですね、わざわざブッシュ大統領が30分くらいですね。
(Q氏:40分です。盧武鉉と45分の会見なので、それとほぼ同じ時間なんです)
40分ですか。だから異例なんですね。
これは、もう北朝鮮に対する非常に強いメッセージだというふうに認識してます。
(Q氏:はい、わかりました)

 ご質問ありがとうございました。最初の口火で、他に、もしよろしかったらご質問、この際ですから、何でもよろしいですから。

 Q2.原 良一(投稿入力者) ― 帰国した拉致被害者との信頼関係の構築は? ―
 先程ですね、戻ってきた家族との関係がなかなか上手くいってないって話が出てて、私は「奪還2」(新潮社)を読んでるんですね、蓮池透さんの…。それで、その中で明らかに調査会に不信感を滲ませた記述があるわけなんですよ。

 そして逆に、安明進さんの本(「新証言・拉致」廣済堂出版)も読んだんですけど、そちらでも蓮池さんが本当のことを話していない、と…。で、実際に安さんと蓮池薫さんが電話で話したことを、後で透さんが伏せてくれと言ってきた。

 結局それは、ある程度安さんの怒りもあって、本の中で暴露しちゃってるわけなんですけど、ま、暴露するってことも、逆にいえば蓮池家にとっては、感情を悪くする危険が高いと思うんですけど、そういう中で、拉致被害者とは、どうやって信頼関係を作ってるんでしょうか?

 A2.真鍋氏 ― 多すぎる「門番」、聞こえない本音 ―
 あの〜ですね、基本的に5人の本音が聞けないんですね。というのは、5人には「門番」がたくさんいましてね(会場から失笑)。まあマスコミの注目度も非常に高いので、どうしても門番が囲ってしまうという状況があって、その門番を通じてでしか5人の発言が聞こえてこないわけですね。

 じゃあ門番は誰か? 蓮池薫さんにとっての門番は透さんですよね、それからまあお母ちゃん(ハツイ氏、不敬発言ご容赦)ですよね。それと(内閣の)支援室ですね。

 どうもそこらへんを通して、いろいろ行ったり来たりをするもんですから、ほんとに蓮池薫さんが何を思ってるのか? 何を言いたいのか? 言いたくないのか? がはっきり伝わってこない。我々も想像するしかない。これは非常に悪い状況ですね。

 だから拓也君(横田拓也氏、家族会事務局次長)なんかはですね、前から5人がすべて自分の口で言わなきゃいけない、と。自分の口で明らかにしないといけないと…。よく言われるのは、やはり情報ってのは、スクリーンを通ったり、本人以外の別の口を通ったりするとですね、捻じ曲げられちゃうじゃないですか。本人の意思と違うことになっちゃうじゃないですか。おそらくあの5人にとっても、決して良くないことだ、と私たちは思っています。

 が、が、これが地村の親父さんがよく言うように、あの5人が自らすべてを証言したら、あの5人殺されてしまう、と当然…。日本には300人から400人の北朝鮮の工作員が、まだいるわけですから…。喋ったら、ただじゃ置かないぞ、ってことになってるわけですから…。

 もしあの5人が喋ったり、誰かが喋ったら、当然狙われる、ということになってますから、それを敢えて強調してですね、我々が喋れというのは、貴方の命を守るから喋ってくださいということでしょ。

 じゃあ我々が、彼らの生命を24時間守ってあげられるかどうか? そんな無責任なことは言えないし、やれないわけですね。だとすると、やはり彼らの口から直接言えないけれども、彼らが言った内容を、きちっと説明できる、あるいは説明すべき責任は、誰にあるかというと、日本政府ですね。日本政府は、その辺をきちっと責任を持って情報を開示する。5人の生命は責任を持って守るということがない限り、あの5人も安心して語れることはないんじゃないでしょうかね。

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生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・

Img_0099.jpg

今日は再び特攻の叔父の話をご紹介します。
前回初めてのエントリーでは思いがけず大きな反応があり、私の方が少しびっくりしました。
読んで楽しいお話では決してありませんので、一体どのように受け止めて頂けるのやら、正直おっかなびっくりのエントリーだったのですが。
私の文章の足らざる所は、天国の叔父が真実の力を持って後押ししてくれたのでしょう。
中には涙が出たと仰ってくださる方もあり、やはり思い切って書いて良かったとホッとしています。
ありがとうございます。

少し気を良くしました所で、特攻の叔父さんの話を早速書き綴りたいと思います。
祖父母からの聞き伝えのみ、と言っても子供の頃からの積み重ねがありますので、全部のお話を書き終えるには、エントリー4〜5回くらいは多分必要になろうかと思います。
素人の駄文ですみませんが、よろしければお付き合いくださいませね。
我が故郷千葉のお話なので所々千葉弁が出ますことをご承知おきの程を。
ちゃんとカッコ書きで注釈つけますので、付いて来て下さいますように・・・<(_ _)>

本日はまず順序良く彼の生い立ちからご紹介します。
彼は大正14年、千葉県のある農家に5人きょうだいの末っ子として生まれました。
本当は年子でもうひとり下に男の子がいたのですが、こちらは生まれてまもなく早世しております。
男女の内訳は男・女・女・女・男。
一番上の惣領息子が私の祖父、末っ子の男の子がこれからお話しする特攻の叔父さんです。
私の祖父は大正元年の生まれですので歳の差14歳。
祖父にとっては初めて生まれた男の兄弟でもあり、この弟をとても可愛がっておりました。
また、かなり歳の差があることで自分の弟というよりも半分息子のように思っていた節もあります。

叔父さんの話でまず特筆しなければならないのは、非常に頭の良い人だったということです。
といっても叔父さんが家で教科書を開いて勉強する所など、祖父は一度も見たことがないそうです。
学校から帰ると土間から座敷へカバンをぶん投げて、ぷいっと外へ遊びに行ってしまう。
あまりにも勉強をしなさ過ぎるので、祖父は弟の将来を大変心配したそうです。
農家と言っても(一応自作農でしたが)生活レベルは食べるのが精一杯といった貧しい暮らしでした。
近所の火事の貰い火で母屋と蔵を全焼すると言う被害を受けたこともあり、当時の生活にゆとりはなかったのです。
大百姓ならば田畑を分けて分家に出すと言うことも出来ますが、生家にそこまでの余力はない。
次男坊の叔父が自立するにはどこかへ勤めねばならず、そのためにも勉強の出来ない馬鹿では困る。

弟の行く末を案じた祖父は、ある日小学校の担任の元へ弟の様子を聞きに行ったんだそうです。
で、担任の先生が言うには、成績は常に学年トップであること。
試験をしても持ち時間の半分ほどで答案を書き上げてしまい、さっさと教壇に提出すると、ひとり校庭に出て口笛を吹きながら遊んでいること。
祖父の心配は全く杞憂だったわけです。
余談ですが、この叔父さんの同級生だった人がふたり(TさんとEさん 二人とも女性)後に小学校と中学校の先生になっていて、またこの二人が揃いも揃って母の恩師でもあるのです。
その二人が何かと言うと、「あなたの叔父さんはとても優秀な人だった」と誉めそやすので、勉強のあまり得意でなかった母は、優秀すぎる叔父さんといちいち比べられるのがとても嫌だったといまだにこぼしております。
この同級生のTさんと言う人は、後ほど叔父さんのロマンスを語るときに再登場しますので、ちょっとどこかに覚えて置いてくださいね。

これほど勉強の出来る人であれば、普通は中学へ進学する所なのでしょうが、前述したとおり家計が余り余裕のある家ではなかったので進学はしませんでした。
ただ、中学の代わりに高等小学校へは行ったんじゃないか?とか。
当時の生家のあたりでは中学へ行くほど余裕の無い家の子供でも、もう少し勉強をしたい人の為に一種の私塾のような物がお寺で開かれており、そこへ通ったんじゃないか?とも言われております。
しかしこれも今となっては確かめようが無い。
こういうところは本当にもっと早くきちんと聞いて置くべきだったと、本当に後悔をしています。

両親も祖父も、本当は何としてでも中学へ進学させてやりたかったのは山々だったと思います。
とにかくずば抜けて優秀だったのだし、本人も事情が許せば中学へ進み、きっともっと勉強をしたかったことだろうと思うのです。
それを思うと、貧乏だったのは本当にやるせない。
火事で焼け出される前は、そこそこゆとりのある暮らしをしていたんだそうです。
家柄も地元の大地主の分家筋にあたる家で、それなりの家格はありました。
火事で焼け出されなければ、叔父も中学進学くらいは普通に出来ていたはずなのですが。

過去を振り返り、ればたらの話をしても仕方が無いのですがね。
もしも叔父が無事に中学への進学を果たしていたら、あるいは予科練へ進むことも無く、全く違った人生を歩んだのかも知れません。
優秀だったので奨学金を貰って旧制高校から大学へと進学していたかもしれない。
そうであれば予科練から特攻へ、と言う道は取らずに済んだのかも?などと思うと、人生のあやの不思議さ加減を思わざるを得ないのですが。

いずれにしても学歴は小学校卒。
これで良くも並み居る中卒者を押しのけて予科練、主席で合格した物だと思っております。
詳しいことは知りませんが、予科練の試験はそれなりに難しい物だと聞いておりますので。
どうして叔父が予科練を受けようと思ったのか?
これも今は確かめようがありません。
予科練は当時の少年たちの憧れだったと聞きます。
叔父もご他聞に漏れず、予科練に憧れ愛国心に燃えて志願をしたのでしょうか?

しかし叔父さんもやはり人の子です。
いくら勉強が出来ても運動の方はあまり得意ではなかったらしい。
勉強も出来て運動も出来て・・・ではあまりにもカッコ良すぎ。
身内でも嫉妬しますョ。
ただ、相撲はめっぽう強かったようですね。
後でご説明しますが当時としてはとても体格の良かった人でしたし、家が農家で力仕事には慣れていたせいもあったのでしょうが。

体格はずば抜けて良かったそうです。
母方の血筋は体格の良い人が多い。
私もどちらかと言えば大柄な方ですが、私の母もその年代にしては長身の方、大正元年生まれの祖父も170に近いくらいの身長は軽くありましたから、その世代の人にしては結構大柄でした。
そんな大柄ぞろいの家系の中でも、叔父さんはずば抜けて大きい人でした。
鴨居に頭がぶつかりそうなのでそこを通る時はいちいち首を傾けていたと言いますから、推定でも最低180センチ程はあったことになります。
それもただひょろっと高いのじゃなく、幅もがっちりあるんですね。
太ってて大きいのではなく、骨格ががっちりしていて大きいと言う感じ。
丈も幅もあるタイプなんです。
何しろ幼い母がこの叔父さんに高い高いをしてもらうと、天井の羽目板に手が届きそうだったと言うのですから、どのくらい体が大きい人だったかは想像して頂けるのではないでしょうか?

この体格の良さではちょっとした笑い話があるんですね。
予科練に受かって入隊した後、あまりにも体格が良すぎて体に合う軍服が無かったんだそうです。
仕方が無いのでコックさんが着る白衣を少し手直しして、しばらく間に合わせに着ていたんだそうですが。
この事を叔父は私の祖父にこんなふうに言ってこぼしたそうです。
「あんちゃん、あんまり体がいっけぇ(大きい)のも考げぇもんだ、軍隊さ行っても着るもんがねぇ(無い)」

体が大きいくらいですから、食の方もとても良かったそうです。
お腹が空くと土間の入り口までやってきて、中で台所仕事をしている私の祖母に向かって、
「○○ちゃん、腹減った、むすびこしらえておくれ!」
と頼むんだそうです。
そこで祖母がおむすびを握りだすと、「もっといっけく!もっといっけく!(もっと大きく!もっと大きく!)」とリクエストが入ります。
でおむすびはどんどん大きな握り飯になっていくのです。
当時のことですから、おむすびと言っても今のようにツナマヨなんて洒落た具もありませんし、せいぜい中身は梅干で、塩をまぶすか味噌を塗るかぐらいの素朴な物。
叔父さんはニコニコ顔でそれをぺろりと平らげると、また外へ遊びに行くんだそうな。
後に祖母はこのエピソードを私に何度も語って聞かせてくれました。
祖母曰く、
「毎日のようとサッカーボールのようないっけぇむすびむすばされて、よういな往生したゎ(毎日のようにサッカーボールのように大きなおむすびを握らされてとても大変だった)」

ん?サッカーボールのようなおむすびってどんなおむすびなんだろ???
改めて母に確かめた所、実際は赤ん坊の頭ほどのむすびだったとの話。
まぁ赤ん坊の頭でも十分に大きいけど、ば〜ちゃん、サッカーボールは少し話を大きくし過ぎだって。(笑)
でも祖母は、往生した往生したとこぼしながらも、実に楽しそうにこの思い出話を語るのですね。
私の祖父母は、実はいとこ同士の結婚です。
ですから本来兄嫁に当たるはずの祖母なのですが、叔父から見れば兄嫁である前に従姉妹のお姉さんでもあるわけで。
そういう気安さも手伝ってか、お嫁に来てからも祖母のことをちゃん付けの名前で呼んでいたし、祖母の方もこの義理の弟をやはりちゃん付けで呼び、とても可愛がっていたようです。

叔父はとても子供好きな一面もありました。
親戚の子供(男の子)を連れて成田参り(成田山・新勝寺の事)に行った事もあります。
叔父さん、あの当時はまだ十代の少年です。
今時の高校生が幼い子供を連れて成田参りなんかしませんよね?
恥ずかしくって・・・でもそんなことは一切お構いなしなんです。
恥ずかしいも格好悪いも一切無し。

でもこの成田参りに母は同行出来なかったんですね。
初めは母も連れて行くという話だったんですけど、まだ幼すぎて連れて歩くにはさすがに億劫だったのか?
女の子を連れて歩くにはさすがに少し気恥ずかしさがあったのか?
二人も一度に連れて歩くのは大変だと思ったのか?
何があったのかは分かりませんが、とにかく母は置いてけぼりを食ってしまった・・・
母はこの時成田参りに連れて行ってもらえなかったことがよほど悔しかったらしく、今でも真顔になってぼやきます。
私も叔父さんと一緒に成田へ行きたかったなぁ・・・と。

冒頭にご紹介した写真は、その成田参りのとき叔父が母へのお土産に買ってきてくれたおもちゃのハンドバッグです。
戦時中の事ですから、決して良い品物とは言い難い。
時間の経過と共に色も黒ずみ、事情を知らぬ人が見れば単なるガラクタに過ぎない代物です。
けれど先日ご紹介した葉書同様、母にとっては亡き叔父を偲ぶ大切な形見なのです。
60を過ぎたいい大人が、未だに幼い子供の頃の思い出の品を大切に大切に保管している事を、どうかご想像ください。
母の心の中で、今は亡き叔父がどれだけ大きな存在を占めているかを。

本日最後に母子のエピソードをひとつご紹介します。
叔父が岩国の予科練に入隊したあと、母親と姉3人が叔父を訪ねて千葉から岩国まで、一度面会に行ったことがあるのだそうです。
叔父は母親が年をとってからの子供でしたので、彼が予科練に入隊した頃は、母親はすでに腰が曲がり杖をつかなければ歩けない体でした。
今のように交通事情の良くないあの当時、千葉から山口県の岩国までどのくらい時間がかかったのか?
母親にとっては、まだまだ可愛い盛りの末息子。
わずか16歳で家を離れた息子に一目会いたいという母の気持ちは、ひとしおだったのでしょう。
汽車を乗り継ぎ乗り継ぎ、杖を頼りに岩国まで尋ねてきた老いた母の姿を見て、叔父は男泣きに泣いたんだそうです。
「まさかお袋まで会いに来てくれるとは思わなかった」
と言って。

はるばる岩国まで面会に来てくれた老いた母の姿を見て泣いたと言う叔父。
それを聞いて私は思わず、あぁ血筋だなぁと思ったものです。
私の祖父も情にもろい所があり、ちょっとしたことでもすぐ感激してオイオイと人目を憚らずに泣くタイプ。
さすがは兄弟、血は争えないなぁと。(笑)
叔父は当時まだ16〜17の少年、今の高校生の年頃です。
まだまだ無邪気で心優しい少年だった叔父。
久々の再会を、叔父と年老いた母はどんな思いで過ごしたのでしょうか?
千葉の実家には、岩国の錦帯橋の前で母と姉と共に写した軍服姿の叔父の写真が今も残っています。

参考リンク 
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
posted by ぴろん at 16:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月11日

特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会(4)05.7.3 千葉市民会館にて

1.中村実船橋市議会議員、特定失踪者問題調査会理事の講演‐2

  救う会の活動なかりせば…

 やはりこれまでの北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会、所謂救う会であります。やはりこれまでこの救う会が、この問題に関しまして問題提起をしてこなかったのであれば、どういう状況になっていたのであろうかと、わたくし大変そら恐ろしくなるわけであります。救う会ももちろん、当初から本当に小さな所帯から始めていった運動でありました。

 やはり北朝鮮に拉致された日本人の方々が、おられるのではないか? その動きに対しましては、もちろん様々なプレッシャーがかけられていったわけでもあります。北朝鮮本国の意を受けた様々な勢力が、救う会を包囲しようとしていく…。様々な動きも多くありました。わたくしもそういった動きを目の当たりにするにあたりまして、やはりどれだけ北朝鮮、朝鮮総聯といったものが、救う会を初めと致しました北朝鮮に拉致された日本人の人権を取り戻そうという動きに対しまして、警戒をしていたのかなあと、わたくしもよく実感を致しました。

 しかしながらやはり、事実は一つでございます(断乎たる口調)。救う会がこれまでにも一つ、一つ解明をしてきた問題、そしてまた政府に対しまして働きかけをしてきた問題、歳月は長くかかりました。そしてまた労力も多く費やしてきたわけでもあります。

 が、ようやく平成の時代にはなりましたが、国会におきましてもそれこそ当時の梶山静六官房長官の答弁、そしてまたその後国会議員も、やはり我が国の国会議員として、果たすべき当然な役割といったものを、ようやく動きといたしまして、所謂政府に対しましての質問趣意書を初めといたしましても、予算委員会におきましての質疑、そしてそれに対しましての国家公安委員長、様々な政府機関が、拉致の認定といったもの、そしてまた北朝鮮による拉致といったものが、どれだけ恐ろしいものであるかということを、これまでわかっていた人たちも声を出し、はっきりとは言えなかった時代といったもの、長きに渡りまして続いていたわけでもあります。

  変わりゆく国の動き ― 60年周期説 ―

 しかしながらやはり、我が国も、国民の、自国の国民の人権を、また生命と安全を守るのは、政府にとりまして最優先な課題であります。よくいわれることでありますが、60年周期といった言葉があります。ちょうど戦争が終りまして60年経過をするわけでもありますが、その60年ごとに我が国におきましては、それこそ国の動きといったものが、大きく変わっていく周期というものがあるといわれております。

 これまで、確かに戦前の悪い部分といったものが、多くクローズアップされてまいりまして、戦前というものは、すべて悪かった、確かにそういう位置付けが多くありました。しかしながらその結果といたしまして、やはり国家としてあるべきこと、政府として果たすべきことといったものが、蔑ろにされてしまう。それはやはりおかしいのではないか? ということが、これまでやはり60年周期で、周期によるものではないと思いますが、やはり国家としてあるべき方向に進みつつあるのではないかと思います。

 しかしながらやはり、先だってのNHKの問題もありましたが、やはり北朝鮮拉致問題におきまして、あるべき政府の道筋といったものを、的確に示そうとする国会議員の安倍晋三幹事長代理であるとか、中川昭一経済産業大臣ですね、ああいった方々に対しては、それこそ我が国を貶めようとする勢力といったもの、闇の世界では見事に連携しております。

 そういった勢力が追い落としを図ろうとする、もちろんそれだけ焦っている証拠ではありますが、やはり今のこれだけ北朝鮮の拉致問題といったものが、はっきりと明らかになった今の世の中でさえも、さらに危機感を感じながら、この問題に対しまして足を引っ張ろうという勢力が、たくさんあるわけでもあります。

  国民世論の声で拉致事件の真相解明を

やはりこれ以上、北朝鮮の拉致問題といったものを、その事実が解明されてしまっては困る人たちが、我が国の内外にたくさんいるわけであります。やはりそういった方々に対しまして、国民世論の声といったものが、きちんと勝利していかなければいけないわけでもあります。これ以上、闇の中に葬られるわけにはまいりません。そのためにはやはり、私たちが声を大にしていくこと、とても大きな役割ではないかと思います。

 世論を形成していくために、やはり私たち自身が声を大にしていくこと、それは様々な、私たちにできることはいっぱいあります。例えば、お家に帰られてご家族で今日こういう集会があって、参加してきました、と。または、今日駅でこういうチラシをもらいました、と。千葉県からも、海上郡の海上町からも、北朝鮮に拉致された疑いのある加瀬テル子さんという方がいらっしゃるんだということを、この事実といったことを、私たちが知るということから、すべてが始まっていくわけでもあります。

 そうした中、わたくしも大変驚くわけでありますが、やはり大人といった方々、これまでそれこそあたかも他人事であるかのような大人が多くいるわけでもあります。しかしながら、若い方々、中学生、高校生の方々、本当に多くの方々、市原市内におきましてもそうであります。

 古川了子さん、昭和48年に千葉駅での連絡を最後に、行方がわからなくなってしまった。この事実といったことを、ご存じない方々の方がこれまでは多かったのかもしれません。しかしながら、市原市内を初めと致しまして本当に多くの方々が、同じ市原市におきまして、同じ千葉県におきまして、古川さんという北朝鮮に拉致された人がいるというその事実を知って、これは本当に許せない。そしてこんなことがあってはいけない。率直なお気持ちを皆さんお持ちになられました。

 そしてまた、それぞれの方々が、じゃあどうすれば古川さんの人権を一日も早く取り戻すことができるのか? 皆さん、お考えになることでもあります。そして署名活動、拉致された古川さんを特定失踪者ではなくて、拉致被害者として政府に認定をしてもらう。そして外交交渉の場におきまして、あるべき交渉の議題にしてもらう。その唯一の目的のために、署名活動展開させていったわけであります。

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特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会(3)05.7.3 千葉市民会館にて

  入力に対する姿勢

 今回も入力に当たって、発言者の口調や集会の雰囲気をできるだけ忠実に再現するため、講演者の発言は、極力オリジナルのまま(いわゆる丸起こし)とし、補注が必要な部分は( )で補いました。

 また中村氏は、講演の原稿を用意していたようなので、その読み間違いと思われる言い直しは省いて再構成しました。さらに見出しの設定は、入力者の判断によるもので、中村氏が強調したい点と一致していない可能性があるのでご留意ください。

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 1.中村実船橋市議会議員、特定失踪者問題調査会理事の講演‐1 

   「拉致認定の意義について」

 本日は、若干雨も降ってきましたところ、ご参加をいただきまして本当にありがとうございます。特定失踪者問題調査会の方で、理事という形で拝命をいたしております中村と申します。

 本日はこういう形でもありますので、ぜひ会場の皆様でご参加をいただくような形で、いろんな質疑応答を始めといたしましたやり取りといったこともあればいいのかな、ということを思いながら若干のお話をさせていただきだいと思います。

  政府の不作為を打破するためには

 現在の政府の動きといったものは、ご案内(集会レジュメ)の通りでありまして、これが未だ北朝鮮による拉致という犯罪が行われていながらも、さらにこれまでの自らの不作為であるとか、ただ自らのこれからの仕事が増えるのが困るのではないかと、そんなふうにさえ捉えたくなるような、これまでの政府の動きといったものが多々ございます。

 だからこそ、どこの国の政府なのだろう、と本当に思うことが皆さん多くあると思います。しかしながらやはり、今の現在におきましては、政府を上手く、一緒に私たちの方向性にと引っ張っていくということ、それがとても大事なことではないかと思います。

 やはり私どもが、例えば北朝鮮の方と直接に交渉できるとか、そういったことであれば、もちろん政府がどれだけ腰が引けていようが、後ろ向きであろうが、まったく度外視をすればかまわないのでありますが、残念ながら今の世の中、北朝鮮との交渉の窓口は、あくまでも政府でございます。

 内閣府、そして外務省、そして様々な諸官庁を、うまくこの問題に対処させまして、的確な動きをしていただく、そのためにやはり、私たち国民世論の声で政府を動かしていくという意気が大変重要であるかと思います。

  拉致は日本海側だけではない

 そのなかでやはり特定失踪者問題、所謂政府が認定しております拉致被害者の方々がおられます。そしてその一方で、現在では政府は拉致被害者認定をしてはいませんが、北朝鮮に拉致された恐れが多分に高い、ほぼ間違いない方々が、我が国の国内にそれこそ全国的にいらっしゃいます。そしてもちろん、この千葉県内にもいらっしゃるわけでございます。

 古川了子さんを初め、加瀬テル子さん、そして現在お名前を明かしても構わないよという仰ってくださるご家族の方々を含めましても、やはり千葉県内におきまして、これまでは拉致という問題、およそ日本海側の話であると、わたくし自身も思っておりました。やはり北朝鮮による拉致ということを考えますと、どうしても柏崎市、わたくしもその現場を見たことがありますが、柏崎のあの砂浜であるとか、新潟県の寄居の浜辺であるとか、どうしても日本海側の海辺を思い浮かべるわけであります。

 しかしながら、ちょうど先日の市原集会にもご参加くださった方もいらっしゃると伺っておりますが、やはりその際、真鍋専務理事よりお話しくださった大町ルートの問題もあります。やはりこの千葉県内におきまして、昭和40年代、そして50年代、60年代、さらには平成になってからも、何が起きていたのかということを、これはもちろん千葉県内におきまして、様々な所で歴史的な経緯があるわけでもあります。

 たとえば、こちらの市民会館、かつては駅があった(昭和38年に現在の千葉駅ができるまでは、市民会館のある場所が千葉駅だった)というふうにも聞いております。そしてまたこの周辺の土地のいろいろな歴史的経緯があります。戦争を挟んで、様々な歴史的な経緯を歩んできた千葉県でもあります。

 そしてまた海上郡海上町(「かいじょうぐんうなかみまち」と読む)、今度(市町村合併で)旭市になると伺っておりますが、その海上という、ほんとに太平洋岸の穏やかな遠浅の海の町でありますが、その町におきまして何が起きていたのかということを、昭和40年代に遡るということを、今昭和でいいますとちょうど80年でありますから、40年前を遡るということは、大変なことではあります。

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news_from_japan閉鎖に思うこと

パソコン初心者の私がBlogや日記を巡回する楽しみを見つけたのはまだごく最近、ここ1〜2年のことです。
その初期の頃から楽しみにしていた巡回先の一つが先日閉鎖されたnews_from_japan様。
まだまだ自虐史観のリハビリ中だった私にとって、こちらのエントリーを読むことがどれだけ良い勉強になったことか。
刺激になったことか。
先日の娘通信様の閉鎖もそうですが、今回のnews_from_japan様の閉鎖も大変残念に思っています。
連日の更新が無理なら例え週一回の更新でも良い、もっともっと勉強させていただきたかったと思うだけに、こういう内容の充実した良いBlogが次々と消えていくのは寂しい限りですね。

電脳補完録別館、7月10日付けのエントリー「9.17は遠くなりにけり」にnews_from_japan管理人のaki様のコメントが掲載されております。
その中の一言に私は思わず考え込んでしまいました。

拉致被害者の救出が「人権」の問題なのか、「主権」の問題なのか、もう一度、問い直す必要があるように思えます。

ご承知の通り、当Blogは主に拉致問題を扱うBlogです。
私はaki様のこの問いかけにどう答えるべきか?

ご訪問の皆様すでにご承知の通り、私は政治も外交も難しいことは何も分からないど素人です。
大東亜戦争を含む近代史だってまだまだ勉強中の身ですし、news_from_japan様のような啓蒙的な記事なんて、とてもとても私には書く力量がありません。
では、私がBlogを運営する理念ってなんだろう?と、改めて自分のスタンスを考えざるを得なかったのがaki氏のこのコメントだったのですね。

拉致被害者救出運動は、人の命を救う運動。
私が自分のプライベートの時間を削ってでも拉致問題に関わる原点は、常にここにあると思っています。
私が特攻隊員の遺族であることを明かしたのも、あるいは己の恥を晒して親しい人の自殺の話をご紹介したのも、すべては「何よりも人の命を大切にするべき」という自分のスタンスを訴えたかったから。
座り込み懸念エントリーの論陣を張ったのも、突撃精神よろしく自爆することによって後に残される人がどれほど傷つくのかを分かって貰いたかったから。

拉致問題を追及していくとどうしても、国家とは何か?主権とは何か?という大きな問題にぶつからざるを得ません。
そこから広がって、憲法・自衛隊・歴史・靖国・教科書・マスコミと、問題の連鎖は限りなく広がっていくのも事実です。
しかし、少なくとも拉致問題の支援者を自認するならば、第一に優先するべきは「被害者の命を救う事」であるべきと私は思うわけです。
日本の抱えるあらゆる諸問題を解決するための手段として、拉致を利用するべきではない。
それは未だ囚われの被害者とその家族に対し、非常に不遜で失礼な態度ではないか?と思います。

これからも自分らしさを失わず、時に入れ込みすぎて体調を崩すことなく?(ここが一番の問題かも?)Blogの運営をしていきたいと思います。
私は、何しろ難しい話はさっぱり分からないくせして、恐れ多くもBlog運営しているツワモノ?ですから。(笑)
これからも素人の素朴な疑問を書き綴り、皆様と共に、様々な事案について学んでいく場所にしていきたいと思っております。
私が世の中を啓蒙するのではなく、私自身がご訪問の皆様から様々な啓蒙を頂戴しようという下心たっぷりのBlogということで、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

最後に当Blogからリンクを外すに当たって、様々な事を教えて頂いたnews_from_japan様に、感謝の気持ちをささげたいと思います。
本当にありがとうございました。
posted by ぴろん at 07:47| Comment(22) | TrackBack(0) | 与太話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月09日

特定失踪者加瀬テル子を支援する千葉集会(2)05.7.3 千葉市民会館にて

  真鍋貞樹特定失踪者問題調査会専務理事の講演 ‐2

  ― なぜ、加瀬さんが拉致されたのか ―

 えーと、今何分喋りましたか? あと20分くらいでまとめないといけないわけですね。ということでですね、まだまだわからないのは、何故加瀬テル子さんなのか? という肝腎の部分ですけれども、なぜ拉致されたのか? その必要性は何なのかということなんですけど、まだこれは、解明されてません。

 古川さんの場合は、考えられるのは拉致された日本人男性の奥さんということになるわけでしょうし、どうも加瀬さんのケースの場合も、ご存知の通り、加瀬さんの夫の存在が重要なわけですね。

 えーと、(ホワイトボードに加瀬さんの夫の似顔絵を描きながら)ここにこの男性がですね、加瀬さんの夫とされる男性なんですけれども、この写真については、我々としては、公開をしていきたいと思っているのですが、マスコミの所有の物なので、なかなか出せないんですけど、この人も、拉致された日本人であって、日本の国立大学の理工系を卒業したエリートだそうだというんですね。で、この人と加瀬さんが夫婦であると、そしてこの男性が、拉致された日本人を管理している責任者で、そういう役回りをさせられている、ということなんですね。

 で、そう考えると、やはりこれはわからないです。どちらが先に拉致されたのかということはわからないんですけど、こちらのデータがないもんですからね。ま、そうだとすると、加瀬さんもお嫁さんという形で選定されていたと考えられるわけであります。

 4.千葉県のおける特定失踪者の状況

そしてですね、加瀬さんについてはこれくらいにしまして、加瀬さんを中心に千葉ということなんですけれども、大町ルートについては、ちょっと置いておきまして、この場所なんですけど、さっき中村さんの方からお話ありましたけど、この院内という所、この栄町と院内という場所ですね、ここは要町というんですか? この会館そのものは?(仲條氏より「そうですね」の答えに)はい。
ところが私、来る前にその辺ちょっと見てきたんですけど、とんでもない(ソープなど風俗産業が多い)場所ですね。え〜実はということで、さっきお名前が出ましたけど、関谷俊子さんですね。この間記者会見をして発表した女性が、関谷俊子さんプラス女性プラス男性(ホワイトボードに名前を書いている)。この3人が〜ここの場所で失踪してるんですね。

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 <参考資料>
[特定失踪者問題調査会NEWS 264](17.6.27)着信分から抜粋

関谷 俊子(せきや としこ)(当時17歳)

生年月日  ・昭和32(1957)年5月19日
失踪年月日 ・昭和49(1974)年7月11日
性別 女
当時の身分 ・千葉市内の薬品会社に勤務 定時制高校在学中
当時の居住 ・千葉県市原市
失踪場所  ・千葉港付近
失踪当時の状況 ・親類の男性と幼馴染の同級生(女性)と千葉市内の飲食店で飲食後、親類の男性が「車で二人を家まで送ってくる」と店の従業員に言い残して出たまま3人一緒に行方不明となった。店の従業員は男性の兄と妹。男性の乗っていた車も発見されていない。関谷俊子さんは古川了子さんと同じ高校で3学年下。古川事件の1年後の失踪で同じ7月である。
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 地名を具体的にいうと院内です。院内のスナックからこの3人で一緒に、この男性の妹さんとお兄さんが働いていた院内のスナックで、食事をした後、この男性が車で関谷俊子さんと女性を家まで送っていくと言い残して家を出たまま失踪と…。(会場より「何年と?」に)古川了子さんの事件のちょうど1年後です。

 この関谷さんとこの女性は、小学校からの幼なじみで、古川了子さんと同じ千葉商業高校ということです。で、千葉商業高校はすぐそこにありまして、院内と栄町に非常に近い。関係者のお話によると、当時朝鮮高校の人たちと(笑いをこらえながら)相当ケンカをしていたと言うようなことで、どうも古川了子さんも千葉商、この二人の女性も千葉商、そういう形でしかもこの3人は千葉駅の周辺の院内ですし、古川了子さんも千葉駅ということですから同じような場所、それからこの女性が働いていたのは、古川了子さんが会社に通う途中の八幡宿(やわたじゅく)のルート上で働いていました。

 どうも古川了子さんと二人の女性というのは、非常に近い関係にあるというのは不思議でなりません。で、関谷さんとこの女性も市原の生まれ育ちということです。非常にこの3人の失踪というのは、関心をもって調査しているというわけです。

 ただやはりですね、ただ一般的な失踪もそうですけど、どうしても千葉でいうとこの院内、栄町という歓楽街といいますかね、そこを中心として事件が起こると、例えばですけれども、札幌でいうと、所謂ススキノという場所で関係した失踪が非常に多いのですね。
やはり、そういう歓楽街というのは多国籍ですから、いろんな国の国籍の人が活動してる、どうしてもそこに失踪というか拉致とかいうものとの繋がりがあるんじゃないかな…。ご存知のように田口八重子さんは、池袋の駅前の、ほんとに歓楽街のど真ん中だったわけですから、どうもこういう拉致、失踪、それからそういう地域というのは結びつくなおもっています。

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特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会(1)05.7.3 千葉市民会館にて

先日千葉市民会館にて開かれた「特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会」の集会テキストをご紹介いたします。
本当は私自ら参加して、テキスト化をする予定だったのですが過日ご案内の通り集会前夜に激しい頭痛に襲われまして、ダウン。
やむなく涙を呑んで参加をキャンセルした例の集会です。

幸いにも支援者のお仲間でもある原良一氏のご好意により、集会のテキストを当Blogに全文掲載させて頂く許可を頂きました。
相変わらずの弱小Blogではありますが、掲載の場を少しでも増やすことにより、一人でも多くの人の目に留めていただき、拉致問題中でも特定失踪者に関する認識を高めてもらう一助となればと考えております。
どうぞお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。

・・・以下 原良一氏の手による集会テキストを掲載・・・

入力に対する姿勢

 今回の講演を入力するに当たって、発言者の口調や集会の雰囲気をできるだけ忠実に再現するため、講演者の発言は、極力オリジナルのまま(いわゆる丸起こし)とし、補注が必要な部分は( )で補いました。

 ただし、

映画のアニメのトトロ→アニメ映画の「となりのトトロ」、
橋本助教授→橋本正次東京歯科大助教授

のように最小限の校正を行っています。
また文中の見出しも、入力者によるもので当日のレジュメなどに依っていません。

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  特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会
 〜すべての特定失踪者、拉致被害者を家族のもとへ〜

日 時:2005年(平成17年)7月3日 19時〜21時(開場18時40分)
場 所:千葉市民会館 地階小ホール(〒260-0017千葉市中央区要町1−1)
JR総武線千葉駅より徒歩7分、総武本線東千葉駅より2分、総武本線沿い
TEL:043-224-2431、FAX:043-224-2439
地 図:<http://www.f-cp.jp/shimin/map.html>参照
主 宰:加瀬テル子を支援する会
後 援:内閣府認証NPO法人 亜細亜人権協議会
協 賛:特定失踪者家族支援委員会
講 演:1.中村実氏(船橋市議特定失踪者問題調査会理事)
    「拉致認定の意義について」
    2.真鍋貞樹(特定失踪者問題調査会専務理事)
    「特定失踪者の多数出ている大町ルートについて」
    3.仲條富夫(加瀬テル子を支援する会代表、加瀬テル子従兄弟)
    「加瀬テル子の家族の訴え」
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 開会のあいさつ

 司会者(亜細亜人権協議会平野さん)
 本日は、忙しい中特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会にお集まりいただき、まことにありがとうございます。私ども特定失踪者加瀬テル子を支援する会は、特定失踪者加瀬テル子の従兄弟である仲條富夫氏を代表とし、内閣府認証NPO特定非営利活動法人亜細亜人権協議会全面支援協力の下、すべての特定失踪者、拉致被害者を家族の許へスローガンに掲げ、特定失踪者加瀬テル子の拉致被害者認定、家族との面会を趣旨として立ち上げ致しました。

 本日は、特定失踪者問題調査会専務理事真鍋貞樹氏、また特定失踪者問題調査会理事中村実(船橋市議会議員)氏をお招きし、講演をしていただきます。それでは只今より、特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会を開催いたします。初めに加瀬テル子を支援する会仲條富夫代表、ごあいさつをお願い致します。

 仲條富夫代表のあいさつ
 (マイクを使わず大きな地声で)
 どうも本日は、お忙しいところご苦労様です。

 まずもって最初にお詫び申し上げます。いろいろ努力をしましたが、皆さん心配していただいた通り(聴衆が3人だけ(>_<))になってしまいましたが、街頭の方でもチラシをお配りしてお願いしたんですが、なかなかやはり特定失踪者ということで、なかなかそれは他人事、絵空事だなあということを、雨の中も配りしましたし、今日も配らせていただきましたけど、これが今の現実なのかなあと敢えて申し上げたいと思いますけど(悄然とした口調)…。ただ今日来ていただいた方は、私どもとしましてはも千万の味方を得た思いが致します。

 これからこういう支援をする会を皆さんと共に進んでいくわけですが、最後にいってはおかしいですけれども、加瀬テル子が北朝鮮に拉致されていって向こうの確実に政府間の交渉に乗っていただいた時に、初めて会場が一杯になるのかなあ、という思い、これは自分の不安でもありますし、ある意味ではここで挫けてはいけない、遠い彼の地でこういう催しをしなければ、なかなか向こうの空で住んでいる人たちに声が届かないのかなあという淋しい思いもしますが、大変今日は申し訳なく思っておりますが、真鍋さん、中村さんの講演の方を是非聞いていっていただきたいなと思います。どうもありがとうございます。よろしくお願いいたします。

 真鍋貞樹特定失踪者問題調査会専務理事の講演 ‐1

 どうもみなさんありがとうございます。日曜日の夜お集まりいただきまして、本当にありがとうございます。仲條さんの冒頭の言葉ありましたけれど、え〜、あのお…(しばし言い澱み)8年前を思い出しました(しみじみとした口調)。私たちが拉致問題をスタートした時の状況は、もう今日のこの(聴衆がいない)状況でございました。

 1.スタートは一人から

 まず何かをやらなきゃいけないということで、何か会を作ろう。ということで集まったのが、当時で20人くらいでしたね。それからこれは集まっただけで何か具体的なものがあったわけじゃなくて、具体的なものを始めようとしたのが、とにかく署名活動をやろうと…。それから会を作ったことの記者会見をやろうということからスタートしました。
で、最初に署名活動をやったのが、有楽町の数寄屋橋の駅前で、え〜ま、10人くらいだったでしょうかね。そこでビラ配りをいたしましたが、だあ〜〜れも受け取ってくれませんでした。ビラもどれくらい用意したのかはわかりませんけど、一人として振り向いてくれる人はいませんでした。ま、こんなものだろうと思いまして、その後記者会見を行いました。

 その時の記者会見は、集まった記者はたった5人です。今でも誰と誰と誰と誰と誰とで、名前を挙げられるわけですけれども、その中で記事を書いてくれたのは産経新聞、それと読売新聞だけでした。産経新聞はご存知の通り、この問題は昔から熱心にやってましたから、一面のトップに救う会というものができて、これから活動を始めるという記事を書いてくださいましたけど、読売新聞は、ベタ記事のこのちっちゃなところにようやく、まあ見る人がみればわかるというくらいの記事で、ま、そういうところから運動というのはスタートするもんだと思っております。

 拉致問題というものが、大きく国民の関心を呼んでいる問題であるといっても、やはりどんな事例もそうでしょうけども、やはりスタートというものは、こういう一人か二人からスタートする、数人からスタートする、その積み重ねで大きくなっていく、というふうに思っていますから、今日はこういう所は、こういう状況でまずは第一歩が進んだということでですね、これから頑張っていこうという会に、是非していただければというふうに思っております。

 で今日は、前回の市原集会に来られた方がたくさん、というか多いので、この間と同じことを話してもいけませんが、中にはいらっしゃっていない方もおられるようです。ですからまあ、前回と同じだなあと思うようなところがあってもゴメンナサイ、申し訳ございませんということでご諒承いただければと思います。

 ただ今日は、加瀬テル子さんの会ですから加瀬テル子さんのことについてですね、くわしくお話をさせていただきたいというふうに思っております。

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嵐の前の静けさなのか?

一晩たって少し頭が回るようになって来ました。
ロンドン同時多発テロを受けて言いたかった私の一言。
つくづく小泉って人は、どこまでも口だけは達者な軽薄な男だろうか?ということです。
テロ発生を受けての小泉クンのコメントを聞いて、私は一瞬思考が止まってしまいましてね。

「テロ行為は断じて許されるものではなく、強い憤りを覚える。ブレア英首相の対応を完全に支持し、首相へのいかなる協力も惜しまない。被害者の方々に心からお見舞い申し上げます」


「いかなる協力も惜しまない」って、言葉ばかりはとっても勇ましいけど言うは易し行うは難しですぞ?小泉クン!
拉致問題で最低限の毅然とした態度すら示せない君が、何カッコつけてほざくのか?
スパイ防止法も無く、オウム真理教に破防法さえ適用できなかった体たらく国家が、テロ防止のために一体全体どんな協力をするというのでしょう?
口を開けば「対話と圧力」と馬鹿の一つ覚えよろしく、同じ台詞を繰り返して国民を欺く思考回路とどこがどう違うのだろうか?と思ったのはおそらく私だけではあるまいに。

同じテロでも爆弾爆発させたテロには機敏に反応しても、自国の国民をさらわれるテロには無関心ですか?
へぇ〜〜そうですか?
口だけ立派な御託を並べて実際は何もしないあなたのやり口には飽き飽きしました。
カッコつけてばかりいないで、少しでも実効性のあることをしたらどうなんですか?
今すぐの制裁発動が無理だとしても、国家の責任で特定失踪者の調査をするくらいのことは今すぐにでも出来る事です。
全ての拉致被害者とその家族の帰国が実現しない限り、一円たりとも経済援助はしない!
日朝国交正常化もしない!とそれくらいの事を言ってくれても良いんじゃないですか?

・・・はぁ、叫べば叫ぶほどに物言わぬ壁に向かって独り言を言ってるような気分で滅入りそうです。


それはそうと、座り込みから早2週間が過ぎましたね。
なんだかすっかり世の中が、拉致問題から引いてしまったというか・沈静化してしまったというか。
座り込みにかける情熱が激しかった分、揺り戻しが来てるだけなのか?

ライス長官が近々来日すると言うけれど、これは6者協議における最終的な日米の意思確認作業が目的なのでしょうね。
アメリカは次の6者協議を最後に次のステップに進むとも言われていますが、それに対する日本側の対応は準備できてるんでしょうか?
今後の対応について少なくともアメリカとの打ち合わせは滞りなく進んでるんでしょうか?
韓国はどうにもならないくらい北朝鮮に蝕まれていますが、そっちの方はどのように対処するつもりなのか?
いざと言う時、切るのか切らないのか?
過去の経緯から考えて、日本側の段取りはちゃんと出来てるのか?非常に気がかりです。
嵐が来てから慌てふためいても、遅いんですからね。

小泉クン、君に任せてホントに日本の命運は大丈夫なのでしょうか???
posted by ぴろん at 20:18| Comment(0) | TrackBack(1) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月08日

言葉が無い・・・

イギリスはロンドンで同時多発テロが発生しました。
犠牲になられた方とそのご家族に心よりお悔やみ申し上げます。
お怪我をされた方には心よりお見舞い申し上げ、一日も早い回復をお祈りいたします。

しかし、どうしてこうもテロの連鎖は続くのか?
犯人の側にどんな理由があるのか分かりませんが、問答無用の暴力行為を認めることは出来ません。
こんな愚かな行為は一刻も早く止めて欲しい。

爆破の原因はまだ不明とのことですが、自爆テロの可能性も否定は出来ないとか・・・
それを聞いてなんだか心中複雑な気分になってしまいました。

こういう事件があると、私はどうしても9・11の世界貿易センタービルへのテロ攻撃を思い出してしまいます。
ビルに突っ込む航空機の映像・・・あれを見た瞬間、体がガチガチに固まってしまってどうにもならなかったことを思い出します。
後の報道で日本の神風特別攻撃と混同するような記事や意見を目にして、とても複雑な気分になったことも思い出します。
私は特攻隊員の遺族ですから。
そういう論調もああいう映像も、心に毒です。
少なくともテロリストと神風特別攻撃隊とをごっちゃにするのはご勘弁いただきたかった・・・

自爆テロなんてねぇ・・・
いったいどんな覚悟で爆弾もろとも自爆するというのか?
考えれば考えるほど、たまらない気持ちです。
親は?きょうだいは?その事をどう思うのか?

今日も書きたいことはいろいろあったんですけど、呆然としてしまって言葉が浮かびません。
なんだか色々なことを思い出してしまって・・・
特攻の叔父さんの記事も第2弾を書き上げたんですが、とてもエントリーに上げる気にはなれません。
短文ではありますが、今日はこれにて失礼します。
posted by ぴろん at 23:26| Comment(8) | TrackBack(5) | 国内問題&国際問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

靖国は日本人の心、粗末にするべからず

昨日アップしました特攻の叔父の話にたくさんのコメントを頂戴しました。
私の拙い駄文でどこまで家族の心情をお伝えできるか、少し不安に思っていたのですが。
私の足りない所を後ろから叔父が後押ししてくれたのかな?
感動した、涙が出たというコメントにこちらが逆に少し勇気付けられた思いです。
どうもありがとう。

お話したいエピソードはいろいろあるんです。
子供の頃の聞き伝えとはいえ、全部のお話をご紹介するとなると、エントリー4〜5回分は多分必要になるかと思います。
だいぶ長くなりますが、お付き合いいただけますでしょうか?
特に、なぜ遺族の私たちが叔父が沖縄戦で見事敵艦の撃沈に成功したことを知っているのか?
この件については非常に珍しいエピソードがあります。
子供の頃は特別どうとも思わなかったのですが。
今考えると中々感動的な、まるでドラマのようなお話が我が家の場合あるのです。
どうしてもこれについてご紹介したい。
あの時代を生きた人の心情を少しでも現代日本に伝えたい。
これが自分のBlogを立ち上げ、特攻の叔父さんの事を語ろうと思ったきっかけでもあるのです。
必ず書き上げますので、今しばらくお待ちくださいませ。

私は祖父から戦争の話を聞くのが好きな子供でした。
母方のいとこは私を含めて全部で12人いるのですが、多分、私が一番祖父から戦争の話を聞いているのでは?と自負しています。
だいたいそういう辛気臭い話って、子供は苦手でしょう?
ちょっとだけ聞くと後はいいやって話をはぐらかしたりして、きちんと聞かない事の方が多いと思う。
でも私の場合、それから?それから?とかなり突っ込んで祖父の話を聞いていたのです。
聞き手がいれば、もともとおしゃべり好きな祖父ですから良い調子で次々と話をしてくれる。
まぁだいたいは同じ話の繰り返しなんですが、その繰り返しに付き合うのが割りに億劫じゃなかったんですね。

でも子供の頃に感じる疑問と、大人になって感じる疑問は違います。
例えば、叔父が予科練に志願した理由とか、いつ特攻に志願してそれを家族に伝えたのか?とか。
その時親兄弟はどんな反応をしたのか?
叔父が特攻死したと聞いたとき、家族はどう思ったのか?とか。
何一つ私は聞いてはいないのです。
今、これらのことをどれだけ後悔しているか?
このBlogをお読みの方で、身近な人に戦争体験を持つ人をお持ちの方。
今のうちに根掘り葉掘り聞いておいた方が良いですよ。
あとでどれだけ悔やんでも「死者に口無し」なのですから。

私が今ご紹介できるのは、子供の視点で祖父母から聞いた話だけ。
でもたとえそれだけの話でも、今伝えねば誰も何も知らないまま、叔父の生きた証は埋もれてしまう。
それだけは嫌だったんです。
命を懸けて国と家族を護ってくれた叔父に対して申し訳が立たない、とも思いました。
戦後60周年の今年、供養を兼ねて叔父の話を広くご紹介しよう。
それがこのBlogを立ち上げたもうひとつの理由であり、英霊に対する私の恩返しなのだと思っております。


さて本日書き綴りたい素人のたわ言は靖国神社についてです。
いうまでもなくあそこは国を護るために命を懸けた人々の魂の眠る場所です。
現代日本に生きる日本人の全てが、彼らの尊い犠牲の上に命を生き永らえている事を再確認する場でもあると思う。
それなのにつまらぬ外交の駆け引きの道具にされ、参拝するのしないのといった瑣末なことで靖国が不当に貶められていることを、“私は遺族の一人として”とても哀しく思います。

死んだ人間より生きてる人間の方が大事なんだから、靖国を後回しに考えても良いじゃないか?
靖国参拝に反対する御仁の口からはそんな言葉も飛び出します。
へぇ〜〜、あんたはいつから日本人のプライドをどぶに捨てたのか?
テレビなどでそんな論調を目にするたび、私は彼らに軽蔑の眼差しを送ります。
確かに死者を拝むより、自分の腹に食べ物を満たす方が優先順位が先なのかも知れない。
しかし靖国の御霊は単なる死者ではありません。
私たちの国を命を護るために、自分の命を投げ出してくれた人の魂を祭ってある所なのです。
彼らの存在を蔑ろにするということは、めぐり巡って自らの存在も蔑ろにするということ。
そんな自虐的な国・国民が、どうやって世界からそして私たちの子孫から尊敬を集めるというのでしょう?

誇りを捨てるということは、自分の心を殺すこと。
そんな最低限のプライドさえも持たない根無し草が、いったいどうやって?自分の国を、家族を護るというのだろう?
プライドだけじゃ飯は食えないという拝金主義が現代日本には蔓延っているようですが。
プライドを護るためには、今目の前にあるご馳走を蹴飛ばす勇気が必要な時もある、と私は思っています。
いくらご馳走で腹を満たしても、そこにどのような生きる支えがあるというのでしょうか?
プライドをなくしたら、何をよりどころに人は人生を生きるのですか?
何を誇りにして次の世代に伝えるのですか?
誇りをなくした人間は生きるしかばねです。
そんな腐臭ばかりを放つ人間に、いったいどんな魅力があるというのでしょうね?

私たちの国・日本には連綿と続く長い歴史があります。
縄文・弥生の時代から平安・戦国の世を経て、徳川の時代を経て明治・大正・昭和と続き、今平成の世があります。
その時代その時代を真剣に生きた人の証は私たちの体の中に、血脈として刻まれていることを、戦後60年間の日本人はあまりにも蔑ろにし過ぎたのではないでしょうか?
この歴史の連鎖を、現代日本の勝手な都合で勝手に拾捨選択しても良いのでしょうか?
無論どこぞの国のように、不当に歴史を美化することは許されませんが、不当に貶める必要も無いんじゃないか?と私は思います。

私の特攻の叔父は、沖縄で敵艦の撃沈に見事に成功しているのだそうです。
その敵艦にアメリカ兵はいったい何人乗り組んでいたのか?
彼らの家族から見れば、私の叔父は憎い仇でありましょう。
日教組の自虐歴史観的に語れば、私の叔父はアメリカ兵を何十人も何百人も殺した人殺しです。
でも歴史のあやと言う物をそんなに簡単に単純に論じることが、果たして正義と言えるのか?
私に言わせたら、国を家族を護るために命懸けで戦ったのは、アメリカ兵も私の叔父も同じです。
ただ、勝負は時の運です。
戦争が終わったとき、たまたま非常にも勝者と敗者をクッキリと色分けしただけのこと。
戦争が罪だと言うならば、戦争に加担した勝者も敗者も等しく罪を背負わなければ不公平です。
勝者は何の罪にも問われず、敗者のみが罪を着せられ汚名を被せられ不当に貶められるのは、命懸けで戦って散った戦死者に対する冒涜だとも思う。

私はいつも叔父を供養する時、叔父が撃沈したという敵艦のアメリカ兵の犠牲者にも叔父と同じように哀悼の意を捧げています。
もしも叔父が撃沈したアメリカ兵のご遺族にお会いしたら、謹んでご冥福を祈らせて頂きたいとも思っております。
しかし彼らに謝罪はいたしません。
彼らの息子や夫や父親が命を懸けて祖国・アメリカと家族を護ろうとした気持ちと、私の叔父が命を懸けて祖国・日本と家族を護ろうとした気持ちとに、上下の隔たりは無いと思うからです。

私が自虐史観に負けてアメリカ兵のご遺族に頭を下げると言うことは、叔父の犠牲を不当に貶めることにつながります。
それは叔父の名誉のためにも出来ないことだと思っています。
逆に仮にあの戦争で日本が勝利したとしても、私はアメリカ兵の遺族に謝罪を求めることはいたしません。
それが戦争のある意味での本質ではないのでしょうか?
戦争はその決着がついたとき、非常なまでに敗者と勝者を分けるだけのこと。
戦争の責任は敗者だけが背負うべき物、戦争の罪は敗者だけが背負うべき物・・・とは、私にはどうしても思えないのです。
posted by ぴろん at 09:27| Comment(34) | TrackBack(1) | 与太話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月06日

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・

Img_0084.jpg

3日ぶりのエントリーです。
当Blogの看板には「時事問題から与太話まで」と銘打っておきながら、Blog開設3ヶ月を過ぎてもひとつも与太話を上げていないんですね。(笑)
お休み明けの再開を良いきっかけと考え、今日はその初与太話をエントリーしたいと思います。
実は私、拉致問題の他にもうひとつ、このBlogを立ち上げようと思った理由があるんです。
拉致問題が忙しすぎて中々こちらを取り上げる暇が無かったのですが、エントリー再開を良いきっかけと思いまして、今日はもうひとつの理由の方をご紹介することにします。

私の身内には一人の英霊がいます。
しかもその英霊は、神風特別攻撃隊の隊員でした。
彼は今から60年前の昭和20年5月4日沖縄戦で、みごと敵艦の撃沈に成功し戦死したそうです。
享年21歳。
彼は私の母方の祖父の弟、続き柄で言うと大叔父に当たる人です。
でも物心ついたときから、母に習って、「叔父さん」または「特攻の叔父さん」と言い習わしてきましたので、ここでもそういう呼び方をしたいと思います。

私は物心ついた幼い子供の頃から、何度となく祖父母に特攻の叔父さんの話を聞いて育ちました。
ですから、変な話、子供の頃は世の戦死者の中に特攻で亡くなった人は数え切れないほど大勢いるのだと、心から思い込んでもおりました。
けれど大人になって戦争について色々学ぶうち、実は自分が聞かされてきた特攻による戦死者は、大勢の戦死者の中でもレアケースであることを知りました。

私はプライベートの時でもこの特攻の叔父さんについて、親しい友人にも一度も話をした事がありません。
別に隠し立てをしたとかそういうのじゃなく、特別話す機会がなかっただけのことですが。
けれど私は今、無性にこの叔父のことについて語りたいと感じています。
理由は色々ありますが、一番の理由は彼の辞世の歌、

  身はたとへ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

これに触発された部分が大きい、ということでしょうか?

叔父さんはもし存命ならば今年80歳のお爺ちゃんでした。
私は生きている叔父と存分に話をし触れ合いを持ち、彼からきっと様々な影響を受けて自分の人生を歩んだはずです。
いうまでもなく、私は彼の特攻死によって護られた側の子孫です。
血のつながった肉親である以上、彼の存在は死んでも尚、私と言う存在に何かしらの影響を与える物なのでしょう。
である以上このまま叔父さんの事を誰にも語らないまま無為に時間を過ごすことは、なんだか叔父に対してとても申し訳ないことのように思えてきたのですね。

もしも戦争を生き伸びていたなら、彼はその後どんな人生を歩んだのか?
歩みたかったのか?
生への執着を振り切り、国と家族を護るために出撃して行った彼が、この世に残し置きたかった心とは何なのか?
この歌を思うたびに、叔父の心の内をふと考える私がいます。
私に叔父のことを話してくれた祖父母は、すでにこの世の人ではなくなりました。
唯一生身の叔父を知る私の母も、60の坂をとっくに越しております。
今私が何らかの手段で語らなければ、ひとりの青年の特攻死を世に知らしめることは出来なくなってしまう。
彼の生きた証を、例えどんなにささやかな手段であっても世に伝えたい。
ひとりでも多くの人に、私が聞いてきた特攻の叔父さんの話の数々をご紹介し、心の隅に留め置いてもらいたい。
戦後60年の今年はその良い機会ではないだろうか?
そんな思いでこのエントリーを書き綴りたいと思います。

私の祖父は5人兄弟の一番年上の長男、特攻の叔父さんは次男で末っ子です。
本来、特攻の叔父さんと私の母は「叔父と姪の関係」なのですが、特攻の叔父さんと私の祖父の歳の差は14歳、姪である私の母との歳の違いは13歳。
彼にしてみれば私の母のことを姪と言うよりも、「ちょっと歳の開いた兄と妹」と言った感じで捉えていたかもしれません。
事実子供の頃、母は叔父さんのことを「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいたそうですし。

その叔父は16歳の時岩国にあった予科練に入隊しました。
祖父から聞いた話では、なんでも予科練の試験、トップ合格だったとか?
そもそも叔父さんは家庭の事情で小学校しか出ていませんでした。
本人がある日予科練を受けると言い出した時、学のないお前が予科練に受かるはず無いだろうと、家族の誰もが本気にしてなかったそうです。
ところが実際は事前の予測を大きく裏切り、並み居る中卒者を押しのけて主席で合格しちゃったらしいのですね。
試験官から「○○、お前が主席で合格した。だからお前が代表で免状を受け取れ」と言われたそうでして。
出来の良かった弟が自慢だったのか、この話は祖父から何度も何度も聞かされましたっけ・・・

母の記憶では、合格発表を受けた日、ヒューヒューと口笛を吹きながら帰宅し、家の中に入るなり家族に向かって「受かっちゃった♪」とひょうひょうと言ってのけたらしい。
特別ガリ勉タイプだったわけでもなかったそうですが、頭はたいそう切れる人だった。
いいなぁ・・・どうして私はこの叔父さんのDNAを引き継がなかったのか・・・?
もそっとお勉強が出来れば、私の人生も今とは大分違う物になってたはず・・・?(笑)

さて本日ご紹介するエピソードは叔父と姪とのあいだでやり取りされた葉書のお話です。
家族思いで子供好き。
その彼が軍人として台湾や三重県の鈴鹿などを転々とする中で、赴任地から故郷の姪に宛てて書き送った葉書が今も残っています。
それが冒頭の写真でご紹介した2枚の葉書。
私の母が、叔父さんの形見として今日まで大切に保存してきた物です。
まずはこれをご紹介しましょう。

一枚目、写真右の絵が描いてあるものは昭和18年10月19日の消印が押されています。
三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊からの投函です。
これを受け取った時の母は誕生日前だったのでまだ5歳。
幼い子供でも読めるよう、カタカナで書かれています。
全文をご紹介しますので、お読みください。
 
  ○○チャンオゲンキデセウネ
  モウオバアチャンノオッパイハノマナイデセウ
  モウライネンハガッコウヘイクンデスノモネ
  コノクライノヂハヨメルデセウネ
  ヨメナケレバオトウチャンニデモヨンデモラヒナサイ
  ニイチャンモ ヂキニコノエノヨウニ ヒコウキニノッテアメリカヘ
  バクゲキニイキマス
  ○○チャンモ ヤンチャハイワナイデ ハヤクオホキクナッテ 
  オコメヲタクサンツクッテクダサイネ
  オカラダヲゴタイセツニ
  サヨウナラ

2枚目、写真左側。
これは丁度一年後の昭和19年10月18日消印。
同じく三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊から投函されています。

  ○チャン
  マイニチマイニチ オゲンキデガッコウニイッテイルコトデセウネ
  モウバアチャンノオッパイハモウノマナイコトデセウネ
  ○○○チャンノオモリクライハシテイルコトデセウ
  ニイサンモマイニチマイニチヒコウキニノッテ 
  オクニノタメニハタライテイマス
  ヒコウキハトテモノリココチガヨイデスヨ
  ○チャンモハヤクオホキクナッテ オクニノタメニハタラヒテクダサイ
  オテガミチョウダイネ
  サムイカラカゼヲヒカナイヨウニ

6人兄弟の総領娘で次々と下に妹や弟が生まれたため、母は大変なおばあちゃん子だったのです。
母親に甘える暇が無かった分、おばあちゃんの萎びたおっぱいにぶら下がって一種のごまかし・甘ったれをしていたらしい。
これは大人になってからも冷やかしの種になるくらいの公然の話題だったので、特攻の叔父さんにもさぞかし印象深い出来事だったのでしょう。
2枚の葉書ともにおっぱいの話題が書き添えてあるのですから。
しかし学校へ上がってからは母はおばあちゃんのおっぱいをキッパリと卒業したそうです。
母の名誉のため、申し添えます。(笑)

母はこの葉書を受け取ってすぐにそれぞれ返事を書いたと言います。
就学前の最初の返事は、文字が曲がらぬよう、父親に鉛筆で原稿用紙のように升目を引いてもらい、後ろから鉛筆を持つ手を父親に支えてもらいながら、返事を書いたそうです。
内容は忘れてしまったけど、2度とも間違いなく返事を書いた記憶があると言っております。
しかし叔父の戦死後、遺品の中に母の書いた葉書はありませんでした。
母が言うにはおそらく出撃の際、叔父さんが自分の胸に抱いて往ったのだろうと。
この事実は私の胸に深く深く突き刺さります。
叔父さんの出撃には当然当時まだ幼かった私の母を護るため、という大義名分も含まれるのですから。

特攻は言うまでも無く、骨のひとかけらさえ故郷に帰ることの出来ない壮絶な攻撃です。
人一倍の親思い・家族思い、ユーモアがあり友達も多く、朗らかで人懐っこい性格の叔父が、大好きな故郷へ二度と帰ることも出来ず、たった独り海の底に沈まねばならないのです。
出撃の命令を受けた時の彼の心中はどのような物だったのか?
一体どうやって自分の心を納得させて、出撃に臨んだのだろうか?
最期の瞬間、いったい叔父さんは何を叫んで突撃したのだろう?
折に触れて、私は考えざるを得ないのです。

たとえ幼い子供に書き送る葉書であっても、当然軍による検閲があるわけですから、葉書の文面も当たり障りの無いことしか書けません。
しかし、葉書の最後に書かれた「オテガミチョウダイネ」の一言が、今になって妙に胸に引っかかるんですね。
もしかしたら無意識のうちに、いざ出撃の時に備えて故郷の温もりを少しでも多く、と言う気持ちから姪っ子からの返事を求めたのだろうか?などといった余計なことまでついつい考えてしまう・・・
祖父もそんな弟の気持ちを思って、まだまだ幼い娘の手をとって拙い返事を書かせたのだろうか?と思ってもみたり。

特に2枚目の葉書を出した頃は戦局もかなり厳しさを増していた頃。
事実この翌年の5月に彼は沖縄で戦死するわけですから。
単に故郷懐かしさ・姪っ子可愛さだけで彼はこの葉書を書いたのだろうか?
叔父さんがいつごろ特攻に志願し、その決意を家族に伝えたのか?
今となっては知る由もありません。
祖父母が健在のうちにもっときちんと聞いておけば良かったと、今になって悔やんでおりますが。

ともかくも、二度とわが身が故郷に帰れぬ代わりに、叔父は故郷を偲ぶよすがとして母の葉書を連れて往きました。
おそらく母の葉書だけではなかったはずです。
家族の写真や友人からの手紙など、故郷の思い出につながる物は何から何まで、胸に抱いて出撃したに違いありません。
まだまだ幼かった姪の葉書までも胸に抱いて、出撃する彼の心中はどのような物だったのだろうか?と。
私は時々彼の心中に思いを馳せます。

  「あんちゃんがお前たちを護ってやるぞ!」
  「しっかり勉強して立派な大人になれ!」
  「親父やお袋のことは頼んだぞ!」

そんな声が、茶色く変色したこの葉書の向こう側から今も聞こえてくるような気がします。
母はこの叔父さんのことが大好きだったんだそうです。
今でも母は叔父さんの話になると、大きな涙をぽろぽろこぼしながら号泣してしまいます。
そして口癖のように
「特攻の叔父さんに顔向け出来ないような、恥ずかしい生き方は出来ない」
と言います。
長いこと私は母のこの言葉を、「これは母の人生訓のような物」と他人事のように受け止めてきました。
特攻と聞いてもただ何となく「あぁ大変な死に方をしたのだな?」と思うくらいで、それ以上の実感はありませんでした。

でも拉致問題に関心を持ち日本の近代史を勉強して、「国とは何か?真の愛国心とは何か?」と真剣に考え始めた時、突然叔父さんの存在がまるで千貫の重しのように私の上にのしかかってきたのです。
特攻によって護られたのは母だけじゃない。
私も叔父さんの壮絶な死によって護られた側の人間じゃないのか?と、自問自答するようになったのです。

私は戦後の生まれですから、当然この叔父さんとの面識はありません。
でも幼い頃から色々なエピソードを祖父母や母から聞かされて育ちましたので、私の中では相当にリアリティーを持って存在しているのですね。
その叔父さんの壮絶な死を具体的にイメージし始めた時、母の思いがそのまま私の思いへと変わるのにそう時間はかかりませんでした。
私もあの世に逝ったとき、彼に合わせる顔が無くなるような生き方はしたくありません。
少々しんどいことがあっても、叔父さんの壮絶な死よりははるかにましじゃないか!と思えば力が湧いてきます。
そして叔父さんが命をかけて護った日本を、もっと誇りの持てる国にしなければと強く感じてもいます。

そうじゃないと私があの世に逝ったとき、叔父さんから
「なんだこのアマ!俺が命をかけて護った日本を滅茶苦茶な国にしやがって!」
と怒られてしまう・・・(^^ゞ
ちなみに「アマ」と言うのは女性に対する罵倒の言葉。
男だったら「この野郎!」と言う所を、女性が相手だと「このアマ!」になるのです。
これは私の住む千葉のお国言葉・・・
ま、実際の所、彼はとても心の優しい人だったそうですから、いきなり怒鳴りつけるようなことはしないだろうとは思うんですけどね。
それにしても沖縄の冷たい海の底で、私の叔父さんは今の日本の姿をどんな思いで見つめているのか?

今年の5月4日は全国的に晴れました。
清々しい5月の空の下、世はのどかにゴールデンウィーク。
日本全国行楽日和でした。
沖縄の海でもマリンスポーツを楽しんだ若者がたくさんいたことでしょう。
でも60年前の同じ日に同じ沖縄の海でひとりの若者が、国を家族を護るため決死の思いで突撃し、敵艦もろとも木っ端微塵に果てたのです。
そういう時代がホンの少し前に確かにあったことを、時には思い返して欲しい。
今も沖縄の海の底で幼い姪の葉書を読みながら、寂しさを紛らわしている若者がいることを心の隅にでも留めて欲しい。
5月4日の青い空を見つめながら、私はふとそんなことを考えました。

特攻の叔父さん、享年21歳。
生きていれば今年80歳のお爺さんです。
私は生きているこの叔父に、ぜひ一目会ってお話をしてみたかったという気持ちがあるんです。
どこに行ってもすぐに親しい友達を作る名人だったという叔父さんと、きっと良いお友達になれたんじゃないか?と思うのですね。
でもそれはかなわぬ夢。
せめて私があの世とやらに逝ったとき、胸を張って「叔父さん、私も日本の国を精一杯護ったよ」と言える自分でありたいと思う。

特攻の叔父さんについて、私が祖父母や母から聞いている話を、折々に綴ってご紹介したいと思っています。
ひとりの特攻隊員の存在を身近に感じることで、戦争について・家族について・日本の国のあり方について、色々なことを考えるきっかけにして貰えたらな、とも思っております。
そうであれば、今も沖縄の海の底に眠る叔父もきっと喜んでくれるのではないか?と思いますので。
叔父は朗らかな性格で人と触れ合うことが好きな人でした。
自分の話題で話の場が盛り上がることを、彼はきっと喜んでくれるものと思っております。
どうぞお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
posted by ぴろん at 09:18| Comment(13) | TrackBack(2) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月03日

2〜3日休養します・・・

ご訪問の皆様、おはようございます。

大変わがままを言って申し訳ないのですが、今日より2〜3日の間エントリーをお休みさせて頂こうと思っております。
実は夕べ、古川了子さんの集会テキストをアップして終わった途端、激しい頭痛に襲われましてそのままダウン・・・
寝込むほどではないのですが、今日もイマイチ調子が良くないんです。

座り込み懸念エントリーをやってる頃から、どうも知らず知らずのうちに無理があったようでして。
ここに来て精神的・体力的に限界値を越えちゃったみたいで体が言うことを利きません。
私も命が惜しいので、しばらく英気を養ってから復帰しようと思っています。

本当は今日は千葉市民会館で開催予定の「加瀬テル子」さんの集会へ行くつもりにしてたのですけど、ちょっと外に出歩ける状態じゃないんで。
こちらも涙を呑んでキャンセル・・・(T_T)
楽しみにしてた方、御免なさい。
体力・気力を回復したら今までのように、バンバンと素人のたわ言&テキストを書き綴りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは2〜3日後の再会まで、しばらく失礼をいたします。<(_ _)>

posted by ぴろん at 09:19| Comment(12) | TrackBack(0) | ご挨拶&お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

古川了子さんを救う千葉集会in市原(8)05.6.25 市原市民会館にて

『竹下珠路さん(古川了子さんの姉)のお話』

Img_0001.jpg



改めましてこんにちは。
今日は暑い中お忙しい中、こんなにたくさんの皆様にお集まりいただきました。
本当にありがとうございます。
昨年、丁度一年前に、千葉市民会館で千葉集会というものを、高校の同期生の皆さん、そしてこの実行委員会の皆さんが立ち上げてくださいました。
それを考えまして、また今日なんですが。

実は私は昨日、国会を取り巻く座り込みの中に一日座っておりました。
その思いといたしましては家族としては、先ほど何をしたらいいですか?と言ってくださいましたが。
家族としても何をしたらいいのか分からないと言うのが、ここ拉致だと家族がハッキリ確認した2年半。
そしてその前からの32年間の思いなんです。

古川了子がいなくなってこの7月7日の七夕の日で丁度32年になります。
何をしたらいいのか?
当時私は、当時とても仲の良かった友達から、私は長男を産んですぐ後だったんですけども。
「竹下さん、自分の妹だったら何としてでも探し出すもんでしょ?」ということを。
励ましと叱責ともいわず受け止め、投げ掛けられて、苦しい思いをしたことがありました。
しかし、家族であっても親であっても何とかしようと思っても、出来ないことがたくさん有るんです。
(このあたり少し言葉を詰まらせながら語る)

でも出来る所から今出来る事から、動き出そうと思って。
こうして真鍋さんや弁護士の皆さんや救う会の中村さんや千葉商の会の皆さんや、みなさんにご支援をいただきながら。
ああしたらどうだろう?こうしてみようか?と言って、いただけることをではしてみましょうと、動き出す。
その一歩一歩が妹に近づくことなのかなぁ?と思ってそれを精一杯しているのが現実です。
昨年の千葉集会で皆様方に「古川了子を拉致被害者として認定してください」という、署名のお願いした所、たくさんの方々から励ましの署名とお手紙と色々な物をいただきました。
温かい心をたくさんいただきました。
見ず知らずの方々から、本当にあり難い事だなぁと思っております。
そして昨日5時の間にもつくづく思いましたことは、一人ずつの人間の力は小さくて本当に何をして良いのが分からないんですが。
皆さんと一緒にこうしたら良いかも知れないと言う思いを、思いを持って行動を起こしたときに、次第に風が強くなり。
そして政府を動かし、彼の国にいるであろう、私たちはいると信じております。
今も元気でいると信じております、了子の所に届くんだろうなと思っております。

母も一生懸命頑張って毎日暮らしてくれております。
私はその母と毎日ご飯を食べながら、皆さんの力が私たちに勇気を与えてくれるし、日本政府を動かしてくれるんだと信じております。
今後とも何をしていいのか分からない中でも、皆さんのお知恵をいただきながら、一生懸命家族としてまた日本人として多くの拉致被害者を救えるように。
裁判も含めて頑張っていこうと思いますので、どうぞ皆さま力を貸して下さい。
どうぞ声を上げ続けてください。
テレビで拉致の問題と言うニュースが流れた時に「ああもういいわと、進まないのね」と、パチンとスイッチを切ることの無い様に。
「どうなっているの?ちょっとは動いているの?」という、関心を持って見ていただきたいと思います。

今日もこの中に高校一年生の男の子さんが来てくださいました。
昨日も私は実は座り込みの現場でお目にかかった青年です。
こういう若い方たちが自分たちの国の問題だとして興味を持ってくださることが、とても私は力強さを感じますし。
若い人たちにこんなことが二度とあってはいけないんだと言うことを、もっともっと関心の無い若い方たちにも伝えて頂ければありがたいかな、と思っております。
今日はどうもありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
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