2005年07月06日

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・

Img_0084.jpg

3日ぶりのエントリーです。
当Blogの看板には「時事問題から与太話まで」と銘打っておきながら、Blog開設3ヶ月を過ぎてもひとつも与太話を上げていないんですね。(笑)
お休み明けの再開を良いきっかけと考え、今日はその初与太話をエントリーしたいと思います。
実は私、拉致問題の他にもうひとつ、このBlogを立ち上げようと思った理由があるんです。
拉致問題が忙しすぎて中々こちらを取り上げる暇が無かったのですが、エントリー再開を良いきっかけと思いまして、今日はもうひとつの理由の方をご紹介することにします。

私の身内には一人の英霊がいます。
しかもその英霊は、神風特別攻撃隊の隊員でした。
彼は今から60年前の昭和20年5月4日沖縄戦で、みごと敵艦の撃沈に成功し戦死したそうです。
享年21歳。
彼は私の母方の祖父の弟、続き柄で言うと大叔父に当たる人です。
でも物心ついたときから、母に習って、「叔父さん」または「特攻の叔父さん」と言い習わしてきましたので、ここでもそういう呼び方をしたいと思います。

私は物心ついた幼い子供の頃から、何度となく祖父母に特攻の叔父さんの話を聞いて育ちました。
ですから、変な話、子供の頃は世の戦死者の中に特攻で亡くなった人は数え切れないほど大勢いるのだと、心から思い込んでもおりました。
けれど大人になって戦争について色々学ぶうち、実は自分が聞かされてきた特攻による戦死者は、大勢の戦死者の中でもレアケースであることを知りました。

私はプライベートの時でもこの特攻の叔父さんについて、親しい友人にも一度も話をした事がありません。
別に隠し立てをしたとかそういうのじゃなく、特別話す機会がなかっただけのことですが。
けれど私は今、無性にこの叔父のことについて語りたいと感じています。
理由は色々ありますが、一番の理由は彼の辞世の歌、

  身はたとへ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

これに触発された部分が大きい、ということでしょうか?

叔父さんはもし存命ならば今年80歳のお爺ちゃんでした。
私は生きている叔父と存分に話をし触れ合いを持ち、彼からきっと様々な影響を受けて自分の人生を歩んだはずです。
いうまでもなく、私は彼の特攻死によって護られた側の子孫です。
血のつながった肉親である以上、彼の存在は死んでも尚、私と言う存在に何かしらの影響を与える物なのでしょう。
である以上このまま叔父さんの事を誰にも語らないまま無為に時間を過ごすことは、なんだか叔父に対してとても申し訳ないことのように思えてきたのですね。

もしも戦争を生き伸びていたなら、彼はその後どんな人生を歩んだのか?
歩みたかったのか?
生への執着を振り切り、国と家族を護るために出撃して行った彼が、この世に残し置きたかった心とは何なのか?
この歌を思うたびに、叔父の心の内をふと考える私がいます。
私に叔父のことを話してくれた祖父母は、すでにこの世の人ではなくなりました。
唯一生身の叔父を知る私の母も、60の坂をとっくに越しております。
今私が何らかの手段で語らなければ、ひとりの青年の特攻死を世に知らしめることは出来なくなってしまう。
彼の生きた証を、例えどんなにささやかな手段であっても世に伝えたい。
ひとりでも多くの人に、私が聞いてきた特攻の叔父さんの話の数々をご紹介し、心の隅に留め置いてもらいたい。
戦後60年の今年はその良い機会ではないだろうか?
そんな思いでこのエントリーを書き綴りたいと思います。

私の祖父は5人兄弟の一番年上の長男、特攻の叔父さんは次男で末っ子です。
本来、特攻の叔父さんと私の母は「叔父と姪の関係」なのですが、特攻の叔父さんと私の祖父の歳の差は14歳、姪である私の母との歳の違いは13歳。
彼にしてみれば私の母のことを姪と言うよりも、「ちょっと歳の開いた兄と妹」と言った感じで捉えていたかもしれません。
事実子供の頃、母は叔父さんのことを「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいたそうですし。

その叔父は16歳の時岩国にあった予科練に入隊しました。
祖父から聞いた話では、なんでも予科練の試験、トップ合格だったとか?
そもそも叔父さんは家庭の事情で小学校しか出ていませんでした。
本人がある日予科練を受けると言い出した時、学のないお前が予科練に受かるはず無いだろうと、家族の誰もが本気にしてなかったそうです。
ところが実際は事前の予測を大きく裏切り、並み居る中卒者を押しのけて主席で合格しちゃったらしいのですね。
試験官から「○○、お前が主席で合格した。だからお前が代表で免状を受け取れ」と言われたそうでして。
出来の良かった弟が自慢だったのか、この話は祖父から何度も何度も聞かされましたっけ・・・

母の記憶では、合格発表を受けた日、ヒューヒューと口笛を吹きながら帰宅し、家の中に入るなり家族に向かって「受かっちゃった♪」とひょうひょうと言ってのけたらしい。
特別ガリ勉タイプだったわけでもなかったそうですが、頭はたいそう切れる人だった。
いいなぁ・・・どうして私はこの叔父さんのDNAを引き継がなかったのか・・・?
もそっとお勉強が出来れば、私の人生も今とは大分違う物になってたはず・・・?(笑)

さて本日ご紹介するエピソードは叔父と姪とのあいだでやり取りされた葉書のお話です。
家族思いで子供好き。
その彼が軍人として台湾や三重県の鈴鹿などを転々とする中で、赴任地から故郷の姪に宛てて書き送った葉書が今も残っています。
それが冒頭の写真でご紹介した2枚の葉書。
私の母が、叔父さんの形見として今日まで大切に保存してきた物です。
まずはこれをご紹介しましょう。

一枚目、写真右の絵が描いてあるものは昭和18年10月19日の消印が押されています。
三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊からの投函です。
これを受け取った時の母は誕生日前だったのでまだ5歳。
幼い子供でも読めるよう、カタカナで書かれています。
全文をご紹介しますので、お読みください。
 
  ○○チャンオゲンキデセウネ
  モウオバアチャンノオッパイハノマナイデセウ
  モウライネンハガッコウヘイクンデスノモネ
  コノクライノヂハヨメルデセウネ
  ヨメナケレバオトウチャンニデモヨンデモラヒナサイ
  ニイチャンモ ヂキニコノエノヨウニ ヒコウキニノッテアメリカヘ
  バクゲキニイキマス
  ○○チャンモ ヤンチャハイワナイデ ハヤクオホキクナッテ 
  オコメヲタクサンツクッテクダサイネ
  オカラダヲゴタイセツニ
  サヨウナラ

2枚目、写真左側。
これは丁度一年後の昭和19年10月18日消印。
同じく三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊から投函されています。

  ○チャン
  マイニチマイニチ オゲンキデガッコウニイッテイルコトデセウネ
  モウバアチャンノオッパイハモウノマナイコトデセウネ
  ○○○チャンノオモリクライハシテイルコトデセウ
  ニイサンモマイニチマイニチヒコウキニノッテ 
  オクニノタメニハタライテイマス
  ヒコウキハトテモノリココチガヨイデスヨ
  ○チャンモハヤクオホキクナッテ オクニノタメニハタラヒテクダサイ
  オテガミチョウダイネ
  サムイカラカゼヲヒカナイヨウニ

6人兄弟の総領娘で次々と下に妹や弟が生まれたため、母は大変なおばあちゃん子だったのです。
母親に甘える暇が無かった分、おばあちゃんの萎びたおっぱいにぶら下がって一種のごまかし・甘ったれをしていたらしい。
これは大人になってからも冷やかしの種になるくらいの公然の話題だったので、特攻の叔父さんにもさぞかし印象深い出来事だったのでしょう。
2枚の葉書ともにおっぱいの話題が書き添えてあるのですから。
しかし学校へ上がってからは母はおばあちゃんのおっぱいをキッパリと卒業したそうです。
母の名誉のため、申し添えます。(笑)

母はこの葉書を受け取ってすぐにそれぞれ返事を書いたと言います。
就学前の最初の返事は、文字が曲がらぬよう、父親に鉛筆で原稿用紙のように升目を引いてもらい、後ろから鉛筆を持つ手を父親に支えてもらいながら、返事を書いたそうです。
内容は忘れてしまったけど、2度とも間違いなく返事を書いた記憶があると言っております。
しかし叔父の戦死後、遺品の中に母の書いた葉書はありませんでした。
母が言うにはおそらく出撃の際、叔父さんが自分の胸に抱いて往ったのだろうと。
この事実は私の胸に深く深く突き刺さります。
叔父さんの出撃には当然当時まだ幼かった私の母を護るため、という大義名分も含まれるのですから。

特攻は言うまでも無く、骨のひとかけらさえ故郷に帰ることの出来ない壮絶な攻撃です。
人一倍の親思い・家族思い、ユーモアがあり友達も多く、朗らかで人懐っこい性格の叔父が、大好きな故郷へ二度と帰ることも出来ず、たった独り海の底に沈まねばならないのです。
出撃の命令を受けた時の彼の心中はどのような物だったのか?
一体どうやって自分の心を納得させて、出撃に臨んだのだろうか?
最期の瞬間、いったい叔父さんは何を叫んで突撃したのだろう?
折に触れて、私は考えざるを得ないのです。

たとえ幼い子供に書き送る葉書であっても、当然軍による検閲があるわけですから、葉書の文面も当たり障りの無いことしか書けません。
しかし、葉書の最後に書かれた「オテガミチョウダイネ」の一言が、今になって妙に胸に引っかかるんですね。
もしかしたら無意識のうちに、いざ出撃の時に備えて故郷の温もりを少しでも多く、と言う気持ちから姪っ子からの返事を求めたのだろうか?などといった余計なことまでついつい考えてしまう・・・
祖父もそんな弟の気持ちを思って、まだまだ幼い娘の手をとって拙い返事を書かせたのだろうか?と思ってもみたり。

特に2枚目の葉書を出した頃は戦局もかなり厳しさを増していた頃。
事実この翌年の5月に彼は沖縄で戦死するわけですから。
単に故郷懐かしさ・姪っ子可愛さだけで彼はこの葉書を書いたのだろうか?
叔父さんがいつごろ特攻に志願し、その決意を家族に伝えたのか?
今となっては知る由もありません。
祖父母が健在のうちにもっときちんと聞いておけば良かったと、今になって悔やんでおりますが。

ともかくも、二度とわが身が故郷に帰れぬ代わりに、叔父は故郷を偲ぶよすがとして母の葉書を連れて往きました。
おそらく母の葉書だけではなかったはずです。
家族の写真や友人からの手紙など、故郷の思い出につながる物は何から何まで、胸に抱いて出撃したに違いありません。
まだまだ幼かった姪の葉書までも胸に抱いて、出撃する彼の心中はどのような物だったのだろうか?と。
私は時々彼の心中に思いを馳せます。

  「あんちゃんがお前たちを護ってやるぞ!」
  「しっかり勉強して立派な大人になれ!」
  「親父やお袋のことは頼んだぞ!」

そんな声が、茶色く変色したこの葉書の向こう側から今も聞こえてくるような気がします。
母はこの叔父さんのことが大好きだったんだそうです。
今でも母は叔父さんの話になると、大きな涙をぽろぽろこぼしながら号泣してしまいます。
そして口癖のように
「特攻の叔父さんに顔向け出来ないような、恥ずかしい生き方は出来ない」
と言います。
長いこと私は母のこの言葉を、「これは母の人生訓のような物」と他人事のように受け止めてきました。
特攻と聞いてもただ何となく「あぁ大変な死に方をしたのだな?」と思うくらいで、それ以上の実感はありませんでした。

でも拉致問題に関心を持ち日本の近代史を勉強して、「国とは何か?真の愛国心とは何か?」と真剣に考え始めた時、突然叔父さんの存在がまるで千貫の重しのように私の上にのしかかってきたのです。
特攻によって護られたのは母だけじゃない。
私も叔父さんの壮絶な死によって護られた側の人間じゃないのか?と、自問自答するようになったのです。

私は戦後の生まれですから、当然この叔父さんとの面識はありません。
でも幼い頃から色々なエピソードを祖父母や母から聞かされて育ちましたので、私の中では相当にリアリティーを持って存在しているのですね。
その叔父さんの壮絶な死を具体的にイメージし始めた時、母の思いがそのまま私の思いへと変わるのにそう時間はかかりませんでした。
私もあの世に逝ったとき、彼に合わせる顔が無くなるような生き方はしたくありません。
少々しんどいことがあっても、叔父さんの壮絶な死よりははるかにましじゃないか!と思えば力が湧いてきます。
そして叔父さんが命をかけて護った日本を、もっと誇りの持てる国にしなければと強く感じてもいます。

そうじゃないと私があの世に逝ったとき、叔父さんから
「なんだこのアマ!俺が命をかけて護った日本を滅茶苦茶な国にしやがって!」
と怒られてしまう・・・(^^ゞ
ちなみに「アマ」と言うのは女性に対する罵倒の言葉。
男だったら「この野郎!」と言う所を、女性が相手だと「このアマ!」になるのです。
これは私の住む千葉のお国言葉・・・
ま、実際の所、彼はとても心の優しい人だったそうですから、いきなり怒鳴りつけるようなことはしないだろうとは思うんですけどね。
それにしても沖縄の冷たい海の底で、私の叔父さんは今の日本の姿をどんな思いで見つめているのか?

今年の5月4日は全国的に晴れました。
清々しい5月の空の下、世はのどかにゴールデンウィーク。
日本全国行楽日和でした。
沖縄の海でもマリンスポーツを楽しんだ若者がたくさんいたことでしょう。
でも60年前の同じ日に同じ沖縄の海でひとりの若者が、国を家族を護るため決死の思いで突撃し、敵艦もろとも木っ端微塵に果てたのです。
そういう時代がホンの少し前に確かにあったことを、時には思い返して欲しい。
今も沖縄の海の底で幼い姪の葉書を読みながら、寂しさを紛らわしている若者がいることを心の隅にでも留めて欲しい。
5月4日の青い空を見つめながら、私はふとそんなことを考えました。

特攻の叔父さん、享年21歳。
生きていれば今年80歳のお爺さんです。
私は生きているこの叔父に、ぜひ一目会ってお話をしてみたかったという気持ちがあるんです。
どこに行ってもすぐに親しい友達を作る名人だったという叔父さんと、きっと良いお友達になれたんじゃないか?と思うのですね。
でもそれはかなわぬ夢。
せめて私があの世とやらに逝ったとき、胸を張って「叔父さん、私も日本の国を精一杯護ったよ」と言える自分でありたいと思う。

特攻の叔父さんについて、私が祖父母や母から聞いている話を、折々に綴ってご紹介したいと思っています。
ひとりの特攻隊員の存在を身近に感じることで、戦争について・家族について・日本の国のあり方について、色々なことを考えるきっかけにして貰えたらな、とも思っております。
そうであれば、今も沖縄の海の底に眠る叔父もきっと喜んでくれるのではないか?と思いますので。
叔父は朗らかな性格で人と触れ合うことが好きな人でした。
自分の話題で話の場が盛り上がることを、彼はきっと喜んでくれるものと思っております。
どうぞお付き合いの程、よろしくお願いいたします。


posted by ぴろん at 09:18| Comment(13) | TrackBack(2) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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