2005年07月12日

特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会(5)05.7.3 千葉市民会館にて

質疑応答&仲條富夫氏の発言

 入力に対する姿勢

 今回の一連の報告記では、先述のように発言者の口調や集会の雰囲気をできるだけ忠実に再現するため、発言部分は、極力オリジナルのままのいわゆる丸起こしとし、補注が必要な部分は( )で補う形をとってきました。

 しかし、今回の質疑応答では、講演者の発言中に質問者が割り込んで発言して交錯し、わかりにくいので一部再構成しました。
 また仲條富夫氏の発言には、「○○ので、△△まして」と繋がり続けて、文として長くなりすぎる部分があるので、最小限の範囲で「ます。ました」に替えて句点を付け、文末としている部分があります。やや不自然な点もありますが、ご諒承ください。

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 質疑応答

 Q1.会場参加者(仮称Q氏)― ブッシュ・姜哲煥会談の意義 ―
 あ、一つ伺いたい。(真鍋氏:どうぞ)先程ですね、アメリカが本気になるかもしれない、と言っておられましたけど、つい最近、ブッシュ大統領が姜哲煥(カン・チョルファン)さんとお会いになりました(真鍋氏:そうですね)けど、そのことをどう思いますか?人道的観点から・・・。

 A1.真鍋理事の回答 ― 北朝鮮への強力なメッセージ ―
 よくご存知のとおりですね。なぜ姜哲煥に会ったかということですね。今、6カ国協議が始まるか、始まらないかの時に、脱北者のシンボルにですね、わざわざブッシュ大統領が30分くらいですね。
(Q氏:40分です。盧武鉉と45分の会見なので、それとほぼ同じ時間なんです)
40分ですか。だから異例なんですね。
これは、もう北朝鮮に対する非常に強いメッセージだというふうに認識してます。
(Q氏:はい、わかりました)

 ご質問ありがとうございました。最初の口火で、他に、もしよろしかったらご質問、この際ですから、何でもよろしいですから。

 Q2.原 良一(投稿入力者) ― 帰国した拉致被害者との信頼関係の構築は? ―
 先程ですね、戻ってきた家族との関係がなかなか上手くいってないって話が出てて、私は「奪還2」(新潮社)を読んでるんですね、蓮池透さんの…。それで、その中で明らかに調査会に不信感を滲ませた記述があるわけなんですよ。

 そして逆に、安明進さんの本(「新証言・拉致」廣済堂出版)も読んだんですけど、そちらでも蓮池さんが本当のことを話していない、と…。で、実際に安さんと蓮池薫さんが電話で話したことを、後で透さんが伏せてくれと言ってきた。

 結局それは、ある程度安さんの怒りもあって、本の中で暴露しちゃってるわけなんですけど、ま、暴露するってことも、逆にいえば蓮池家にとっては、感情を悪くする危険が高いと思うんですけど、そういう中で、拉致被害者とは、どうやって信頼関係を作ってるんでしょうか?

 A2.真鍋氏 ― 多すぎる「門番」、聞こえない本音 ―
 あの〜ですね、基本的に5人の本音が聞けないんですね。というのは、5人には「門番」がたくさんいましてね(会場から失笑)。まあマスコミの注目度も非常に高いので、どうしても門番が囲ってしまうという状況があって、その門番を通じてでしか5人の発言が聞こえてこないわけですね。

 じゃあ門番は誰か? 蓮池薫さんにとっての門番は透さんですよね、それからまあお母ちゃん(ハツイ氏、不敬発言ご容赦)ですよね。それと(内閣の)支援室ですね。

 どうもそこらへんを通して、いろいろ行ったり来たりをするもんですから、ほんとに蓮池薫さんが何を思ってるのか? 何を言いたいのか? 言いたくないのか? がはっきり伝わってこない。我々も想像するしかない。これは非常に悪い状況ですね。

 だから拓也君(横田拓也氏、家族会事務局次長)なんかはですね、前から5人がすべて自分の口で言わなきゃいけない、と。自分の口で明らかにしないといけないと…。よく言われるのは、やはり情報ってのは、スクリーンを通ったり、本人以外の別の口を通ったりするとですね、捻じ曲げられちゃうじゃないですか。本人の意思と違うことになっちゃうじゃないですか。おそらくあの5人にとっても、決して良くないことだ、と私たちは思っています。

 が、が、これが地村の親父さんがよく言うように、あの5人が自らすべてを証言したら、あの5人殺されてしまう、と当然…。日本には300人から400人の北朝鮮の工作員が、まだいるわけですから…。喋ったら、ただじゃ置かないぞ、ってことになってるわけですから…。

 もしあの5人が喋ったり、誰かが喋ったら、当然狙われる、ということになってますから、それを敢えて強調してですね、我々が喋れというのは、貴方の命を守るから喋ってくださいということでしょ。

 じゃあ我々が、彼らの生命を24時間守ってあげられるかどうか? そんな無責任なことは言えないし、やれないわけですね。だとすると、やはり彼らの口から直接言えないけれども、彼らが言った内容を、きちっと説明できる、あるいは説明すべき責任は、誰にあるかというと、日本政府ですね。日本政府は、その辺をきちっと責任を持って情報を開示する。5人の生命は責任を持って守るということがない限り、あの5人も安心して語れることはないんじゃないでしょうかね。

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生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・

Img_0099.jpg

今日は再び特攻の叔父の話をご紹介します。
前回初めてのエントリーでは思いがけず大きな反応があり、私の方が少しびっくりしました。
読んで楽しいお話では決してありませんので、一体どのように受け止めて頂けるのやら、正直おっかなびっくりのエントリーだったのですが。
私の文章の足らざる所は、天国の叔父が真実の力を持って後押ししてくれたのでしょう。
中には涙が出たと仰ってくださる方もあり、やはり思い切って書いて良かったとホッとしています。
ありがとうございます。

少し気を良くしました所で、特攻の叔父さんの話を早速書き綴りたいと思います。
祖父母からの聞き伝えのみ、と言っても子供の頃からの積み重ねがありますので、全部のお話を書き終えるには、エントリー4〜5回くらいは多分必要になろうかと思います。
素人の駄文ですみませんが、よろしければお付き合いくださいませね。
我が故郷千葉のお話なので所々千葉弁が出ますことをご承知おきの程を。
ちゃんとカッコ書きで注釈つけますので、付いて来て下さいますように・・・<(_ _)>

本日はまず順序良く彼の生い立ちからご紹介します。
彼は大正14年、千葉県のある農家に5人きょうだいの末っ子として生まれました。
本当は年子でもうひとり下に男の子がいたのですが、こちらは生まれてまもなく早世しております。
男女の内訳は男・女・女・女・男。
一番上の惣領息子が私の祖父、末っ子の男の子がこれからお話しする特攻の叔父さんです。
私の祖父は大正元年の生まれですので歳の差14歳。
祖父にとっては初めて生まれた男の兄弟でもあり、この弟をとても可愛がっておりました。
また、かなり歳の差があることで自分の弟というよりも半分息子のように思っていた節もあります。

叔父さんの話でまず特筆しなければならないのは、非常に頭の良い人だったということです。
といっても叔父さんが家で教科書を開いて勉強する所など、祖父は一度も見たことがないそうです。
学校から帰ると土間から座敷へカバンをぶん投げて、ぷいっと外へ遊びに行ってしまう。
あまりにも勉強をしなさ過ぎるので、祖父は弟の将来を大変心配したそうです。
農家と言っても(一応自作農でしたが)生活レベルは食べるのが精一杯といった貧しい暮らしでした。
近所の火事の貰い火で母屋と蔵を全焼すると言う被害を受けたこともあり、当時の生活にゆとりはなかったのです。
大百姓ならば田畑を分けて分家に出すと言うことも出来ますが、生家にそこまでの余力はない。
次男坊の叔父が自立するにはどこかへ勤めねばならず、そのためにも勉強の出来ない馬鹿では困る。

弟の行く末を案じた祖父は、ある日小学校の担任の元へ弟の様子を聞きに行ったんだそうです。
で、担任の先生が言うには、成績は常に学年トップであること。
試験をしても持ち時間の半分ほどで答案を書き上げてしまい、さっさと教壇に提出すると、ひとり校庭に出て口笛を吹きながら遊んでいること。
祖父の心配は全く杞憂だったわけです。
余談ですが、この叔父さんの同級生だった人がふたり(TさんとEさん 二人とも女性)後に小学校と中学校の先生になっていて、またこの二人が揃いも揃って母の恩師でもあるのです。
その二人が何かと言うと、「あなたの叔父さんはとても優秀な人だった」と誉めそやすので、勉強のあまり得意でなかった母は、優秀すぎる叔父さんといちいち比べられるのがとても嫌だったといまだにこぼしております。
この同級生のTさんと言う人は、後ほど叔父さんのロマンスを語るときに再登場しますので、ちょっとどこかに覚えて置いてくださいね。

これほど勉強の出来る人であれば、普通は中学へ進学する所なのでしょうが、前述したとおり家計が余り余裕のある家ではなかったので進学はしませんでした。
ただ、中学の代わりに高等小学校へは行ったんじゃないか?とか。
当時の生家のあたりでは中学へ行くほど余裕の無い家の子供でも、もう少し勉強をしたい人の為に一種の私塾のような物がお寺で開かれており、そこへ通ったんじゃないか?とも言われております。
しかしこれも今となっては確かめようが無い。
こういうところは本当にもっと早くきちんと聞いて置くべきだったと、本当に後悔をしています。

両親も祖父も、本当は何としてでも中学へ進学させてやりたかったのは山々だったと思います。
とにかくずば抜けて優秀だったのだし、本人も事情が許せば中学へ進み、きっともっと勉強をしたかったことだろうと思うのです。
それを思うと、貧乏だったのは本当にやるせない。
火事で焼け出される前は、そこそこゆとりのある暮らしをしていたんだそうです。
家柄も地元の大地主の分家筋にあたる家で、それなりの家格はありました。
火事で焼け出されなければ、叔父も中学進学くらいは普通に出来ていたはずなのですが。

過去を振り返り、ればたらの話をしても仕方が無いのですがね。
もしも叔父が無事に中学への進学を果たしていたら、あるいは予科練へ進むことも無く、全く違った人生を歩んだのかも知れません。
優秀だったので奨学金を貰って旧制高校から大学へと進学していたかもしれない。
そうであれば予科練から特攻へ、と言う道は取らずに済んだのかも?などと思うと、人生のあやの不思議さ加減を思わざるを得ないのですが。

いずれにしても学歴は小学校卒。
これで良くも並み居る中卒者を押しのけて予科練、主席で合格した物だと思っております。
詳しいことは知りませんが、予科練の試験はそれなりに難しい物だと聞いておりますので。
どうして叔父が予科練を受けようと思ったのか?
これも今は確かめようがありません。
予科練は当時の少年たちの憧れだったと聞きます。
叔父もご他聞に漏れず、予科練に憧れ愛国心に燃えて志願をしたのでしょうか?

しかし叔父さんもやはり人の子です。
いくら勉強が出来ても運動の方はあまり得意ではなかったらしい。
勉強も出来て運動も出来て・・・ではあまりにもカッコ良すぎ。
身内でも嫉妬しますョ。
ただ、相撲はめっぽう強かったようですね。
後でご説明しますが当時としてはとても体格の良かった人でしたし、家が農家で力仕事には慣れていたせいもあったのでしょうが。

体格はずば抜けて良かったそうです。
母方の血筋は体格の良い人が多い。
私もどちらかと言えば大柄な方ですが、私の母もその年代にしては長身の方、大正元年生まれの祖父も170に近いくらいの身長は軽くありましたから、その世代の人にしては結構大柄でした。
そんな大柄ぞろいの家系の中でも、叔父さんはずば抜けて大きい人でした。
鴨居に頭がぶつかりそうなのでそこを通る時はいちいち首を傾けていたと言いますから、推定でも最低180センチ程はあったことになります。
それもただひょろっと高いのじゃなく、幅もがっちりあるんですね。
太ってて大きいのではなく、骨格ががっちりしていて大きいと言う感じ。
丈も幅もあるタイプなんです。
何しろ幼い母がこの叔父さんに高い高いをしてもらうと、天井の羽目板に手が届きそうだったと言うのですから、どのくらい体が大きい人だったかは想像して頂けるのではないでしょうか?

この体格の良さではちょっとした笑い話があるんですね。
予科練に受かって入隊した後、あまりにも体格が良すぎて体に合う軍服が無かったんだそうです。
仕方が無いのでコックさんが着る白衣を少し手直しして、しばらく間に合わせに着ていたんだそうですが。
この事を叔父は私の祖父にこんなふうに言ってこぼしたそうです。
「あんちゃん、あんまり体がいっけぇ(大きい)のも考げぇもんだ、軍隊さ行っても着るもんがねぇ(無い)」

体が大きいくらいですから、食の方もとても良かったそうです。
お腹が空くと土間の入り口までやってきて、中で台所仕事をしている私の祖母に向かって、
「○○ちゃん、腹減った、むすびこしらえておくれ!」
と頼むんだそうです。
そこで祖母がおむすびを握りだすと、「もっといっけく!もっといっけく!(もっと大きく!もっと大きく!)」とリクエストが入ります。
でおむすびはどんどん大きな握り飯になっていくのです。
当時のことですから、おむすびと言っても今のようにツナマヨなんて洒落た具もありませんし、せいぜい中身は梅干で、塩をまぶすか味噌を塗るかぐらいの素朴な物。
叔父さんはニコニコ顔でそれをぺろりと平らげると、また外へ遊びに行くんだそうな。
後に祖母はこのエピソードを私に何度も語って聞かせてくれました。
祖母曰く、
「毎日のようとサッカーボールのようないっけぇむすびむすばされて、よういな往生したゎ(毎日のようにサッカーボールのように大きなおむすびを握らされてとても大変だった)」

ん?サッカーボールのようなおむすびってどんなおむすびなんだろ???
改めて母に確かめた所、実際は赤ん坊の頭ほどのむすびだったとの話。
まぁ赤ん坊の頭でも十分に大きいけど、ば〜ちゃん、サッカーボールは少し話を大きくし過ぎだって。(笑)
でも祖母は、往生した往生したとこぼしながらも、実に楽しそうにこの思い出話を語るのですね。
私の祖父母は、実はいとこ同士の結婚です。
ですから本来兄嫁に当たるはずの祖母なのですが、叔父から見れば兄嫁である前に従姉妹のお姉さんでもあるわけで。
そういう気安さも手伝ってか、お嫁に来てからも祖母のことをちゃん付けの名前で呼んでいたし、祖母の方もこの義理の弟をやはりちゃん付けで呼び、とても可愛がっていたようです。

叔父はとても子供好きな一面もありました。
親戚の子供(男の子)を連れて成田参り(成田山・新勝寺の事)に行った事もあります。
叔父さん、あの当時はまだ十代の少年です。
今時の高校生が幼い子供を連れて成田参りなんかしませんよね?
恥ずかしくって・・・でもそんなことは一切お構いなしなんです。
恥ずかしいも格好悪いも一切無し。

でもこの成田参りに母は同行出来なかったんですね。
初めは母も連れて行くという話だったんですけど、まだ幼すぎて連れて歩くにはさすがに億劫だったのか?
女の子を連れて歩くにはさすがに少し気恥ずかしさがあったのか?
二人も一度に連れて歩くのは大変だと思ったのか?
何があったのかは分かりませんが、とにかく母は置いてけぼりを食ってしまった・・・
母はこの時成田参りに連れて行ってもらえなかったことがよほど悔しかったらしく、今でも真顔になってぼやきます。
私も叔父さんと一緒に成田へ行きたかったなぁ・・・と。

冒頭にご紹介した写真は、その成田参りのとき叔父が母へのお土産に買ってきてくれたおもちゃのハンドバッグです。
戦時中の事ですから、決して良い品物とは言い難い。
時間の経過と共に色も黒ずみ、事情を知らぬ人が見れば単なるガラクタに過ぎない代物です。
けれど先日ご紹介した葉書同様、母にとっては亡き叔父を偲ぶ大切な形見なのです。
60を過ぎたいい大人が、未だに幼い子供の頃の思い出の品を大切に大切に保管している事を、どうかご想像ください。
母の心の中で、今は亡き叔父がどれだけ大きな存在を占めているかを。

本日最後に母子のエピソードをひとつご紹介します。
叔父が岩国の予科練に入隊したあと、母親と姉3人が叔父を訪ねて千葉から岩国まで、一度面会に行ったことがあるのだそうです。
叔父は母親が年をとってからの子供でしたので、彼が予科練に入隊した頃は、母親はすでに腰が曲がり杖をつかなければ歩けない体でした。
今のように交通事情の良くないあの当時、千葉から山口県の岩国までどのくらい時間がかかったのか?
母親にとっては、まだまだ可愛い盛りの末息子。
わずか16歳で家を離れた息子に一目会いたいという母の気持ちは、ひとしおだったのでしょう。
汽車を乗り継ぎ乗り継ぎ、杖を頼りに岩国まで尋ねてきた老いた母の姿を見て、叔父は男泣きに泣いたんだそうです。
「まさかお袋まで会いに来てくれるとは思わなかった」
と言って。

はるばる岩国まで面会に来てくれた老いた母の姿を見て泣いたと言う叔父。
それを聞いて私は思わず、あぁ血筋だなぁと思ったものです。
私の祖父も情にもろい所があり、ちょっとしたことでもすぐ感激してオイオイと人目を憚らずに泣くタイプ。
さすがは兄弟、血は争えないなぁと。(笑)
叔父は当時まだ16〜17の少年、今の高校生の年頃です。
まだまだ無邪気で心優しい少年だった叔父。
久々の再会を、叔父と年老いた母はどんな思いで過ごしたのでしょうか?
千葉の実家には、岩国の錦帯橋の前で母と姉と共に写した軍服姿の叔父の写真が今も残っています。

参考リンク 
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
posted by ぴろん at 16:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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