2005年07月13日

パンドラの箱は開かれた

パンドラは最高神ゼウスが作った最初の人間の女性です。
ゼウスはすべての悪と災いを箱の中に封じこめ、人間界に行くパンドラに持たせます

パンドラと言う名前には「全てを与えられた」と言う意味があるのだそうです。
ゼウスは神々に呼びかけパンドラにあらゆる贈り物をしました。
知恵と戦争の女神アテナは知恵を与えました。
愛と美と豊穣の女神アプロディーテは美しい肉体を与えました。
太陽と芸術の神アポロンは美しい歌声を与えました。
そして商業の神ヘルメスはパンドラに好奇心を与えたのです。

パンドラは好奇心を与えられたので、箱の中を見たくなり、我慢できずに開けてしまいます。
すると箱の中から様々な悪が飛び出しました。
病気、貧困、飢え、暴力、嫉妬、復讐、怨恨、狂気、偽善・・・
驚いたパンドラは慌てて箱のふたを閉じました。
しかし、時すでに遅し。
地上にはありとあらゆる災いが満ち満ちてしまったのです。

けれど、パンドラの箱の中に外に飛び出さずにひとつだけ残った物があります。
それは希望。

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拉致問題を語るとき例え話に良く使われるパンドラの箱。
おおよその話は知ってはいたけれど、ふと好奇心に駆られて調べてみたのです。
パンドラの箱からあらゆる災いが地上に飛び出した、と言うことは知っていましたが、箱の中に希望が残っていたと言う話は今回調べて初めて知りました。

金正日が拉致を認めたのは、まさしくパンドラの箱を開ける行為でした。
あれはただ単に拉致被害者の存在を認めた、と言うその事実だけにとどまる話ではなかったのは皆様ご承知の通り。
金正日が開けたパンドラの箱の中からは、戦後日本がかりそめの平和の裏に隠し置いていたあらゆる災いが表舞台に飛び出しました。

歴史問題、靖国問題、教科書問題、左巻きマスコミ、利権政治、売国議員、日教組の偏向教育、日の丸君が代問題、憲法改正問題、自衛隊問題、在日の問題・・・などなど。

かりそめの平和の影で甘い汁を吸っていた連中はさぞかし慌てたことでしょう。
なんとかパンドラの箱に蓋をして、甘い汁を吸い続けようと今もあがき続けています。
しかし、一度飛び出した災いの数々をもう一度パンドラの箱の中に戻すことは出来ません。
のんびりと平和ボケのぬるま湯に浸かりきっていた市井の人々の中からも、日本の抱えるあらゆる問題に目を向ける人が増えました。
パンドラの箱が開かれたことで日本人は目覚めつつあります。
政治にも外交にもトンと無知な私でさえ、日本の抱えるあらゆる問題の存在をはっきりと意識しているのです。
この流れを後戻りさせることは出来ません。
後戻りさせてもなりません。

まもなく1年ぶりに6者協議が再開される由。
しかし早くもあちらこちらから日本を牽制する声が“かまびすしい”ですね。
中国も韓国もそして北朝鮮も、そんなに日本が本気になるのが怖いのでしょうか?
6者協議などはっきり言って茶番劇以外の何物でもない。
中韓両国が北のご機嫌取りをしている現状で、今更劇的な結論が出るとも思えない。
ではそのような中、日本のとるべき道はなんなのか?

少なくとも日本は毅然と自国の主張を通すべきと思う。
「全ての拉致被害者が帰国しない限り、わが国は北朝鮮に対し経済援助は一円たりとも出さない」
とキッパリ主張し、後は残り5ヶ国が何を言おうと何を決めようと、知らぬ存ぜぬで押し通せばよい。
金が出なければ困るのは北朝鮮である。
中国と韓国である。
日本は何も恐れることなく、北朝鮮による主権侵害・人権侵害の回復を徹頭徹尾主張すればよい。

パンドラの箱のからあらゆる災いが飛び出た後、箱の中にはただひとつ「希望」が残っているのだそうです。
この日本を希望の持てる国にするためにも、箱から飛び出たあらゆる災いと私たちは戦わねばなるまいと思う。

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明日、都内友愛会館にて「原敕晁さんを救うぞ!東京集会」が開催されます。
お近くの方、ぜひお運びの程を。

原敕晁さんを救うぞ! 東京集会10
日時 7月14日(木)午後6時半〜8時半
場所 友愛会館9階大会議室
三田会館隣=港区芝公園2−20 地下鉄三田線芝公園A1出口すぐ、JR田町駅か
ら徒歩10分
登壇者  三宅博地方議員の会副会長(八尾市議)・吉田利幸大阪地方議員の会会長(大阪府議)=原敕晁さん拉致の実行犯として原さんが勤務していた中華料理店の店主・李三俊を刑事告発
西岡力(救う会常任副会長)、司会・平田隆太郎(救う会事務局長)
参加予定 横田滋(家族会代表)・早紀江(同夫人)、増元照明(家族会事務局長)
参加費 千円
連絡先 救う会 〒112-0013東京都文京区音羽1-17-11-905
電話03-3946-5780 FAX03-3946-5784、info@sukuukai.jp


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ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・

特攻について調べていると、必ずぶち当たるのが恋、恋愛の話です。
特攻隊員のほとんどが10代後半から20代の前半。
中には結婚して子供のいた特攻隊員もいましたがそれはむしろ少数派。
大多数が未婚の独身者のまま戦死しているのです。
燃えるような恋愛をしたという話もありますが、まだ恋も知らぬままに戦死してしまった悲哀を語ることも多いのですね。

私が調べた中で一番切ないなぁと思った話をひとつご紹介します。
ある特攻隊員が、自分が出撃するときにはぜひ若い女性の写真を持って往きたい、と考えたのだそうです。
しかし彼に特定の女性がいたわけではありません。
そこで知り合いの伝を頼り、全く見ず知らずの若い女性の写真を手に入れ、それを胸に抱いて彼は出撃して往ったのだとか。
10代後半から20代前半の年回りと言えば、異性に興味を持ち恋の切なさを知り、将来の希望を描く時代。
人生の中でも一番輝きに満ち溢れる時代です。
その輝くべき時代をひたすら戦争に捧げ、死に向かうことのみを求めるしかなかった特攻隊員の心を思うと、本当に切なくてやりきれない思いがします。

それでは私の叔父の場合はどうだったのか?
避けては通れぬロマンスの話を、今日は皆様にご紹介したいと思います。

叔父さんはどうも女性にはかなりもてたみたいですね。
頭は良いし背は高いし。
頭が良いと言ってもそれをひけらかして人を馬鹿にすることはありませんでしたし、人懐っこくてユーモアがあっておしゃべり好きで、話の場を賑やかせずにはいられないと言う明るい性格でしたしね。
顔もまぁ・・・特別美男子と言うほどではありませんが、鼻筋がすっと通っていて貫禄のある顔立ちをしています。
どちらかと言えばいい男の方だと思います。(笑)
身内の私が褒めるのもなんですが・・・(^^ゞ
それに何よりも当時憧れの予科練ですからね。
年頃の女性陣が放っておくはずが無いでしょう。

時期がいつだか不明なのですが、近所の神社の境内で海軍の軍服姿の叔父を真ん中に、7〜8人の女の同級生ばかりがずらりと周りを取り囲み、黒一点写っている写真も残っています。
まだまだあの当時は男女7歳にして席を同じにせず、と言う時代ですよ?
多分叔父が久しぶりの帰省をしたときに、急遽同級生が集まって写したんだと思いますが。
そんな写真が残っているほど、叔父は人気者だったのです。

叔父は優秀な上に農家の次男坊でしたから、ぜひ婿養子に迎えたいと言う話は実際たくさんあったのだそうです。
その中でも一番手の有力候補が前回ご紹介した同級生のTさん。
このTさんは後に小学校の先生になり、母の恩師でもあった人です。

ただどうも正式な約束は無かったようです。
特攻隊員に志願していたということもあって、そこまでは踏み切れなかったのでしょうけれど。
生きて無事に帰ってきた暁にはぜひ、と言う話は親も含めてそこそこの所まで進んでいたらしい。
もしも叔父が戦争を生き延びていたら、このTさんと結婚して家庭を築いていたのかもしれません。
母にすれば恩師の先生がそのまま親戚の叔母さんになるという不思議なめぐり合わせになるのですが、良いじゃないですか、そういうご縁があっても。

母の記憶によれば、叔父の死後、このTさんは一度生家にお線香を上げに来たことがあるんだそうです。
仏壇の前で静かに手を合わせて長いこと祈りを捧げていたのを、覚えているのだと。
母はまだ子供でしたし、恋がどうのこうのなんてその頃は分かりようもないのですが。
ただ単に叔父さんの同級生だからお参りに来てくれたのだ、と単純に考えていたのだそうですけどね。
今になって考えれば、Tさんはもしや叔父さんの事が好きだったのではないのかな?と。
そういうふうに思える節もあったわけです。

本人同士がどこまで心に秘めた物を持っていたかは分かりません。
Tさんもだいぶ前に亡くなっているので確かめようが無いのです。
でも、幼馴染が大人になってそのまま結婚すると言うのは今も昔も良くある話です。
私としては通じあう物があったと信じたいと言うのが、正直な所なのですが。
人を愛し愛されるという至福の感情を味わうことなく命を散らしたとは思いたくありません。
たとえ淡い初恋のような物であっても、恋の喜びを少しでも知った上での死だと思いたいのです。
でなければ、あまりにも叔父が可哀想過ぎる。

私の母はどちらかと言うと父親似です。
当然戦死した叔父とも顔つきがどことなく似ております。
亡き人の面影を残す少女を教えるかつての同級生だった恩師のTさん。
中学校時代の恩師だった元同級生のEさん。
中々心中複雑な物があったのではないでしょうか?
ついつい昔を思い出しては「あなたの叔父さんは優秀な人だった」と昔語りするのも仕方の無いことではありましょう。
子供だった母にとっては、ひたすら優秀すぎる叔父と比べられる苦痛の日々であってもですね。
元同級生の彼女たちにしてみれば、母の姿を通して懐かしい青春時代を思い起こしていたのでしょうからね。

もしも叔父が生きて家庭を持ったとしたら、今頃どんなお爺さんになっていたのか?
ふと考えることがあります。
私の祖父はとても子煩悩な人でした。
自分の孫が12人もいるのにそれでは足らず、隣近所の子供まで手懐けて可愛がるという、地元では知らぬ人のいないくらい子煩悩なお爺さんで有名な人でした。
似たもの兄弟の叔父のことですから、私の祖父に負けず劣らず子煩悩爺さんになったのではないのかな?と。
生きていれば今年80ですから、ひ孫がちらほらいてもおかしくない年です。
次々と生まれる孫やひ孫を可愛がり、それでも足らずに近所や親戚の子も可愛がりしてたんじゃないのかな?と。
その中で、ついでも私もご相伴にあずかって可愛がってもらえたのじゃないかしら?などと思ったりもするのです。

大勢の子や孫に囲まれて賑やかな老後を過ごしていたであろう叔父。
わずか20歳でその生涯を閉じねばならなかった彼の無念を思うと、いい加減な気持ちで日々の暮らしを貪るのは、やはりどこか申し訳ないような気がするのです。

参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
posted by ぴろん at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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