2005年07月25日

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(3)05.7.17 藤沢産業センターにて

『市川龍子さんのお話』

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実は私40年前に藤沢の高校を卒業いたしまして、国立横浜病院、原宿にありますね。
戸塚区の。
あそこに勤めていたもんですから、藤沢って聞いたときに嬉しいやら。
この藤沢の駅に立った時には感慨ひとしおでしたけれども。
がらっと変わっておりますので、ほとんど面影はなかったですね。
でも、まぁ藤沢に来れて本当良かったなぁと思ってます。
鹿児島なんですが、母校とかは行く暇無いと思いますけど、今日は皆さんにお会いできて本当に良かったと思っております。

聞いていただきたいと思います。
私はですね。
53年の8月12日。
皆さんご存知だと思うんですが、鹿児島の吹上海岸と言う所があります。
ここは、夕日はとってもきれいに見える海岸なんです。
鹿児島の吹上浜で北朝鮮の工作員に拉致された市川修一の義理の姉に当たります。

その8月12日に、弟が修一が23歳の時でした。
平野さんの妹に当たります増元るみ子ちゃんと二人でですね。
吹上浜海岸の夕日を見に行ってくる。
10時までには必ず帰ってくると双方の家族に約束をしてそれっきり、忽然と姿を消してしまったんです。
将来を約束しあっていたのかどうか?私たちには分かりませんが。

その日修一がですね。
わくわくわくわくしながら、るみ子さんとデートが出来るという嬉しそうな姿をですね。
当時修一の実の姉と同じ敷地内に住んでいましたので、弟の修一の嬉しそうな姿を今でも目に焼きついている。
残念ながら実の姉はちょっと重い病状に伏せっておりますけども、この姉が、私には義妹になるんですけども、修一からは実の姉ですね。
姉の所からいなくなったもんですから、私はその姉と母にですね。
一刻も早く(修一を)抱かせてやりたい、って気持ちであちこち回っております。

修一とるみ子ちゃんはどんなにかね、夢や希望に胸を膨らませていたと思います。
修一は向学心も旺盛で、当時通信教育の大学生としても勉学にも励んでおりました。
通教の学籍番号もきちんと、私が毎月送られてくる冊子で覚えております。
Eの7609279の番号で毎月送られてきておりました。

そして何より親孝行な修一でした。
だからそんな修一がですね。
自分から姿を消すということは無いんです。
当初は家出かな?蒸発かな?駆け落ちかな?というふうに世間からは見られておりましたけども。
あとは誘拐かな?交通事故にあったかな?暴走族にあったのかな?
タコ部屋って、私は知らなかったんですが、そういうタコ部屋に連れて行かれたのかな?
神隠しにあったのかな?
果てはUFOに連れて行かれたんじゃないか?と本当にですね。
まったく雲を掴むような不可解な事件が8月12日に起きたんです。
来月でもう27年になります。

延べその時にですね。
1500名ほどの大掛かりな捜索が始まりました。
ビーチクラフトで、また地元の漁船が網を張って海の底に沈んではいないか?
砂浜に埋められてはいないか?と思って、みんな横一列に5人6人並んで棒を持って砂を突きながら埋められてはいないか?といってですね。
棒を突きながら大捜索を行いました。

でも当日はですね。
キャンプ村で浜辺で、コンサートがあったんです。
その日はたくさんの人出であったんですけども、松林を通って浜に行く中継にロータリーがあるんです。
そのロータリーに修一の車が駐車してありました。
その車の1〜2メートルのところで2匹の警察犬がもうクンと鼻を上げたんです。
そこでプッツリと匂いが切れてしまったんです。
多分4人の工作員に拉致されて、格闘したかどうか分かりません。
そこに片方の修一のサンダルが縦にひっくり返って落っこってたんです。

消息(を絶って)から10年、1988年・昭和63年です。
国家公安委員長がですね。
梶山静六さんでした。
3組のアベック失踪事件・一件の未遂事件は北朝鮮による拉致による疑いが濃厚であると、はっきりと国会で答弁されたんです。
でも、それっきりなんです。
ずっと闇に葬られたままでした。

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posted by ぴろん at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 集会テキスト(藤沢集会) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第11回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(2) 05.7.17 藤沢産業センターにて

『斉藤文代さんのお話』

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神奈川の皆様、こんにちは。
暑い中こんなにたくさん私の話を聞いていただけると本当に私も今日は胸がいっぱいで。
今日藤沢に来て良かったなぁと思っております。
聞こえますでしょうか?
だいたい私地声で声が大きいんですけど。
ちょっとの間、よろしくお願いします。

私の弟・松木薫は1980年にですね。
スペインのマドリッドから北朝鮮の方に拉致されました。
拉致した犯人は森順子さん若林さんと言う、二人で拉致したんじゃないか?というようなことで警察の方から私はお話を伺っております。

私の弟は、父には「スペインに行くときは1年で帰ってきますので、ぜひ行かせて下さい」ということで。
父はその当は、時絶対駄目だということで反対しましたけれど。
私たち家族、母・私「これから先は何でも勉強することは大事だから、お父さん最後の願いだと言ってるから、行かせてやってください」と願いしたのが今でもちょっと後悔しております。
あの時父が反対したように皆で反対しておれば、こういう事もなかったんじゃないかな?と時々布団の中で考えて眠れない時もあるんですよね。

父も折れまして、じゃあ1年だけということで許してくれて、弟は最後のバイトの、富士山でバイトをしてまして。
その費用と父から貰った費用でスペインの方に渡って語学の勉強をしてたんですけれども。
まさかこの26年間帰って来れなくなると、思うことは一回も無かったわけです。
私も本当に可哀想な子だなと、思っております。
80年に拉致されてから全然帰ってこないので父はもう慌てふためいて、スペイン大使館だの外務省だのとずい分駆けずり回って探してくださいということでいろいろお願いして回ったんですけども。
その当時は門前払いで、外務省の方も「まぁそのうち気が向いたら帰って来られるんじゃないんですか?」と言う簡単な気持ちだったので、父も本当にずい分いろんな所へお願いして回って助けてやることも出来なくって、亡くなりましたけども。
本当に父も無念だったと思います。
本当に可哀想な父だなぁと思っております。

その後に私の母が、その後活動を続けなければいけないんですけども、母はうちにおるおとなしい母でありまして。
父の言われるがまま、父の指導のままで付いて回るようなおとなしい母なものですから。
本当にショックが大きかったと思います。
本当に今思えばですね。
88年に平壌で石岡さん・有本さん・弟が暮らしていると、いうことが分かりましたけれども。
父はそういうことも出来ないままにあと亡くなりました。
そして母の方に手を差し伸べて亡くなってたんですね、床でね。
それを考えると何と北朝鮮は憎いところなんだろうと、いつもいつも思います。

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posted by ぴろん at 00:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 集会テキスト(藤沢集会) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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