2005年08月02日

尋ね人で始まった出会い・・・ある特攻隊員のお話 その6・・・

  千葉県出身の石渡正義君の最期の消息を存じておる者です。
  石渡君のご家族の方、この放送を聴いていらっしゃいましたら、
  熊本県○○○○のAまでご一報ください。

戦後しばらくの間、NHKのラジオ放送に、「尋ね人」と言う番組があったのをご存知ですか?
戦争のドサクサで生き別れになってしまった肉親や知人・友人の消息を尋ねる番組。
その番組に上記のような放送が流れたのは終戦後しばらく経ってからのことだと聞いております。
一度目の放送は空振り。
しかし2度目の放送を、当時東京在住だった親戚の人が聞きつけ、放送局に問い合わせを入れました。
そして千葉の家族と、A氏の数奇なご縁がつながったのです。

A氏とは何者なのか?
まずはこれをご説明しなければならないでしょう。
彼は叔父が搭乗した桜花の母機、一式陸攻の搭乗員だった人。
叔父が敵艦目掛けて突撃し、特攻に成功したその瞬間をその目で目撃した生き証人なのです。

前々回のエントリーでご説明したように、桜花は自力発進が出来ない戦闘機です。
一式陸攻の腹に桜花を抱え込むようにして出撃、敵艦目掛けて桜花を切り離し特攻する。
その母機の搭乗員だったA氏は戦争を生き延び、戦友の最期の様子を家族に伝えるべく、尋ね人に申し込んで叔父の家族を探してくれたのです。

戦争を生き延びた元特攻隊員の心中がどのような物であるのか?
私には想像がつきません。
しかし元特攻兵の中には、自分だけ生き残ってしまったという慙愧の念に囚われる余り、心を病んでしまった人も少なくないと聞きます。
とすればA氏も、生き残ってしまった者が感じるであろう、心の痛み・苦しみに苛まれる日々を過ごしていた事は、想像に難くありません。
それもA氏の場合は戦友の死の瞬間をその目で見たのですから。
心に受けた傷の深さも半端なものではなかったであろう事は推測されます。
A氏が戦友の最期を家族に伝えようとしたのも、それをすることで、おそらく自分の心にけじめを付け、心の安らぎを得たかったからではないのではないでしょうか?

721海軍航空隊・別名神雷部隊の出撃は、次から次へと搭乗員を補充して出撃するという有様だったと聞きます。
ひとつの部隊が出撃して基地が空になると次を補充し、その部隊が出撃して空になると次を補充しと言う具合に。
考えてみればこれも当然の成り行きなのですよね?
なにしろ特攻は往ったきりニ度と帰らない片道切符の出撃。
ひとつの部隊が出撃すれば鹿屋の基地は空っぽになるのは当たり前。
作戦続行の為には後から後から人員を補充せねばなりません。

ですから同じ部隊の戦友といっても、叔父とA氏が共に過ごした時間は本当にわずかな物でしかなかったのだそうです。
お互いの事は、せいぜい名前と出身地くらいしか知らなかったんですね。
戦後、A氏が叔父の家族の元を尋ねようと決心しても、尋ねていく先がどうにも分からない。
せめて私の叔父が予科練の17期生だという事だけでも分かっていれば、そこから住所を辿る事も可能でしたでしょうが。
それでやむなくA氏はラジオの尋ね人に申し込み、家族を探す決意をしたのだそうです。

叔父とA氏は出会ってすぐに親しい友人となったと聞きます。
朗らかで明るく、すぐに親しい友人を作る名人だったという叔父の特性が、良く発揮された場面でありましょう。
そして出撃の日、叔父は桜花へA氏は母機の一式陸攻へ。
これも運命なのでしょうか?

過日説明したように、桜花は戦闘機としてはお話にならないくらいちゃちな代物です。
母機の一式陸攻の方も敵の返り討ちに遭い、そのほとんどが帰還を果たせず、搭乗員もろとも撃破されたと聞きます。
しかし幸か不幸か、はたまた叔父の腕前が良かったのか?
叔父の搭乗した桜花は敵艦の撃沈に成功しました。
その瞬間、母機の操縦席の中でA氏は「石渡〜〜〜〜!!」ととてつもなく大きな声で絶叫したのだそうです。

しかし、暢気にしてはいられません。
一式陸攻は無事桜花の切り離しに成功したら、鹿屋基地まで帰還せねばならないのです。
敵の雨あられのような砲弾の嵐をかいくぐり、レーダーに引っかかるのを避けるために海面すれすれを飛行。
A氏の乗った一式陸攻は逃げに逃げたそうです。
けれどアメリカの追撃は激しく、もう駄目かと思ったその時、前方に大きな雲の塊を発見。
その雲の中に飛び込んでアメリカの追撃を辛くも振り切り、計器飛行で鹿屋を目指しました。
そして、何とか無事の帰還に成功したのだそうです。

この話を聞いて、私は自分の立ち位置のレアぶりを思わずにはいられなくなりました。
特攻隊員の遺族である事事態がすでにレアケース。
そして、叔父が特攻に成功した事が更にレアケース。
特攻の瞬間を目撃した生き証人がいる事が更に更にレアケース。
その生き証人を乗せた母機が無事の帰還を果たした事が更に×3のレアケース。
そして母機の搭乗員だったA氏が戦後を生き延びた事が更に×4のレアケース。
そのA氏が千葉の家を探し当てて、叔父の最期を伝えに来てくれた事が、更に×5のレアケースだという事に。

特攻隊員の中にも色々なケースがあります。
中には特攻に志願した事を家族に内緒にしたまま出撃した特攻隊員がいるそうです。
戦後のどさくさで出撃名簿が分からなくなっている者。
自分の息子が兄弟が特攻で戦死したことを知らない遺族もいれば、出撃時の状況どころか出撃地さえも分からない、と言うケースさえあると言います。

そこへいくと我が家の場合、所属部隊から出撃日、出撃の様子から特攻に成功したその瞬間と、何から何まで分かっているのです。
これが叔父の死を受け止め、心の整理を付けるのにどれだけ役に立った事か?
大切な肉親の最期の様子が分からない多くの遺族は、中々その死を受け入れる事が出来ず、最期の消息を求めてあちこち訪ね歩く人もいると言います。
しかし我が家の場合、その必要は全くありませんでした。
はるばる熊本からA氏が叔父の最期を知らせるべく、訪ねて来てくれたのですから。

私が祖父から聞いているのはこれらの事実のみ、です。
A氏が千葉の家を訪ねてきてくれた時、何を感じて何を思ったのか?
どんな会話を交わしたのか?
子供の知恵ではそこまでの機転は利きません。
惜しい話を聞き逃してしまったと、本当に悔やんでおります。
戦友の最期を伝えに千葉の家を訪ねるA氏の心境や如何に?
叔父の最期を知る戦友を迎える祖父たちの気持ちは如何に?
人一人の死を、それも特攻による死を伝えに来るのです。
迎える方も訪ねる方も、それ相応に複雑な心境であった事と推測いたします。
千葉の家の敷居をまたぐ、A氏の足取りは軽かったのか?重かったのか?

なので、この先の話は想像するしかないのですが。
私の祖父は人情の塊が服を着て歩いていると表現しても差し支えないくらい、情の厚い人でした。
悲壮な決意をして戦友の最期を伝えに来るA氏の事を、祖父が邪険に扱うとは100%考えられない。
A氏の告白を受けて、おそらく祖父はA氏の手を取り、感激のあまり男泣きに泣いたのでしょう。
そして顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらおそらくこんな台詞を語ったに違いない。

「よく弟の最期の様子を伝えてくださった。
ありがとう。
本当にありがとう。
Aさん、いつでも弟の墓参りに来てやってください。
この家を自分の実家だと思っていつでも訪ねて来て下さい。
あなたが来ればきっと弟も大喜びするでしょうから。」

そんなふうに歓待されて感激しない元特攻隊員がいるでしょうか?
おそらくA氏もつられて男泣きに涙したであろうことは想像に難くありません。
その証拠にA氏はその後何度か叔父を訪ねて千葉まで墓参りに来ています。
叔父の墓の周りを花一杯にしてやりたいと、訪ねてくるたびにツツジなどの花木の苗を持参し、墓の周りに植えつけていきました。
5月4日の叔父の命日には、叔父の霊前に供えて欲しいと供物と手紙を毎年毎年欠かさずに送って寄こすようにもなりました。
平成元年、祖父は病で他界したのですが、その後A氏からは
「実の兄とも思って慕っていたのにとても哀しい。心に穴が開いたようだ」
と言う内容の手紙を書き送ってきています。

祖父との交流を通じて、A氏の心の痛みは少しは和らいだのでしょうか?
生き残ってしまった罪悪感を乗り越える事はできたのか?
分かりません。
特攻の是非を問う事はここではいたしません。
しかし特攻はやはり非業の死です。
死んだ者は無論のこと、生き残った者の心にも癒しがたい傷を作る事だけは確かなのです。
肉親然り、戦友然り。

国を守る為には、家族を守る為には、命を懸けて戦わねばならぬ事がある。
世の中きれい事だけでは済みません。
それは平和の時代を生きる私にも、理解は出来ているつもりです。
けれどもそうかと言って、生きてる人間を爆弾に乗せて敵艦目掛けて打ち込むなど、どう考えても正気の沙汰とは思えない所業でしょう。
同じ戦うにしても、どうしてもう少し人の命を粗末にしない戦い方をしてくれなかったのか?
その思いはやはり私の心のどこかで疼いています。
そして私の心の中から、叔父の特攻死の重みと痛みが消える事は、おそらく永遠に無いのだと思います。

A氏の証言により、祖父を初めとする家族の心の痛みがいくらか和らいだ事は確かなのでしょう。
特攻の現場を目撃した人の証言であれば、叔父の死は動かし難い事実となります。
否でも応でも、叔父の死を受け入れざるを得ないのです。
もしかしたらあるいはどこかで生存しているのでは?という淡い期待も、きれいさっぱり捨て去らねばならない。
A氏のお話は、家族にとってさぞかし非情な非情な死亡通告であったことでしょう。
しかし、叔父は無駄に死んだのではない。
見事敵艦を撃沈して本望を果たしたのだ・・・そう思えば、辛い現実の中にも一筋の光を見る事は出来ますから。

私が物心付くか付かないかの幼い子供の頃から、特攻の叔父の話を聞かされて育ったのも、祖父の心の中である程度、弟の事が整理が付いていたからに他ならないと、今は感じています。
おかげで戦後生まれの私でも、かなり詳細な叔父の人生の軌跡を辿る事が可能になりました。
こうしてご訪問の皆様に叔父の人となりを語る事も出来ました。
叔父が残しおきたいと願った心の内を、多少なりとも受け継ぐ事が出来れば、叔父もさぞかしあの世で喜んでくれる事と思います。

最後に。
拙作ではありますが、叔父の辞世の歌を受けて自分の今の想いを込めた返歌を作ってみました。
これをご紹介して、一連のエントリーを終わりたいと思います。
叔父の短い生涯を通して、何かを感じ何かを考えるきっかけにしていただければ、遺族としましては大変ありがたく嬉しく思います。
長々お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
ご訪問の皆様に、心より感謝申し上げます。
  
  辞世 
  身は例へ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

  返歌
  後の世に残しおきたし心をば 胸に抱きて散る桜花
  残されし心を我に刻みつつ 五月四日の蒼空を見る

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参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・
神風桜花特別攻撃隊・・・ある特攻隊員のお話 その4・・・
遺書・・・ある特攻隊員のお話 その5・・・


posted by ぴろん at 20:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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