・靖国神社へ行ってきました
・古川了子さん第2回行政訴訟
・変人のたわ言を綴ってみる・・・本日は蓮池透氏の事
3本読むとだいぶ長いですけれど、宜しかったらお付き合いくださいませ<(_ _)>
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古川了子さんの訴訟が思ったよりも早く終わってしまったので、思い切って靖国神社まで足を伸ばしてきました。
特攻の叔父の話を書き終えた事を報告したかったし、今年は戦後60年の節目の年でもあるので、最初はお盆の頃にでも、と思ってたんです。
仕事の都合でその頃でないと時間が取れそうもなかったので。
でも盆の頃は混みますでしょ?
人ごみはどちらかと言うと苦手な方だし、あそこに行くとどうも私は平静でいられない。
出来れば人出の少ない静かな時にと思ってたので、今日は私個人的にはちょっとラッキーでした。
古川さん、不謹慎でごめんなさいね<(_ _)>
地下鉄で九段下駅下車、A1番の出口からエスカレーターで上がると、正面に靖国神社の大きな鳥居が見えてきます。
これが見えた時点で、私の涙腺はダムが決壊したような有様となってしまったのですね。
ハンカチで涙を拭き拭き参道を歩く私は、他の人から見たらさぞかしおかしな光景に見えた事でしょう。
戦死者の遺族と言うには私は一応まだ年若いですから。(笑)
この人いったいどうしちゃったのかしら〜〜?と、ね。
今年は叔父の思い出をエントリーする為にあれこれ調べ物もしましたし、以前よりも尚一層叔父の死をリアルに感じられるようになった事も、涙腺決壊の理由だとは思いますが。
本殿が近づくごとに、私の体には叔父の息遣いが肌身で感じられるような感覚を覚えます。
当然心の中ではすでに叔父との会話は始まっております。
「叔父さん、あなたの肉親が会いに来ましたよ。今年はあなたの思い出話をネットで紹介しましたよ。叔父さんは読んでくれましたか?喜んでもらえましたか?」などなど。
本殿前で参拝する時、何とも言えない思いが胸に迫るような気がしました。
これはどうも上手く説明が出来ません。
包まれるような、圧し掛かるような、温かいような・・・
国を家族を護る為沖縄の海に散った叔父の魂が、まるで私の体に乗り移ってきたような感じがする、と言ったら少し大げさでしょうか?
叔父の体は沖縄の海の底。
敵のアメリカ兵の遺体も同じ沖縄の海の底。
敵と味方が死んでもいがみ合う事のないように、叔父が安らかに海の底で眠れるように、叔父の霊を弔うと同時に敵兵の霊もお悔やみします。
どうか同じ沖縄の海の底で静かに安らかに眠ってくださいと。
友達作りの名人だった叔父のことだから、きっと今頃は敵兵のアメリカ人ともお友達になってますよね?などと、話しかけたりもいたします。
涙は相変わらずボロボロ状態ですが、心休まる瞬間でもありました。
参拝後は遊就館へ。
ここでもですね、特攻の展示コーナーを見るのは辛いですね、やっぱり。
特攻の文字を目にした途端、思わず足が止まってしまうのですよ。
でも特攻で戦死した叔父の遺族である私が、このコーナーを見ないわけには行きません。
しばらく深呼吸をして気持ちを整えて、一歩づつ歩みを進めます。
特攻隊員の遺品や遺書、特攻作戦に至る状況説明のパネルなどは読むほどに見るほどに辛いです。
多分他の人にとってはたくさんある展示物のひとつに過ぎないのでしょうが、私にはその展示物の向こう側にどうしても叔父の姿が重なるのです。
自分の存在意義が問われるような気がするのです。
もうひとつ、私の足が止まってしまう展示物があります。
それは特攻機「桜花」の展示と、桜花の出撃を再現したジオラマのコーナーです。
この展示室に入って、天井から吊るされた桜花を見るとですね。
胸が痛いんです。
近づいて行くのに、こちらも本当に勇気が要ります。
呼吸を整えて、気持ちを落ち着けて一歩一歩・・・
桜花、実物は本当に小さいのです。
零戦などよりもはるかにはるかに小さい機体。
こんな小さな機体に、体の大きかった叔父はどんなふうに乗り込んだのだろう?とか。
切り離しを受ける瞬間は何を思ったのだろう?とか、どうしてもあれこれ考えてしまう。
そしてジオラマを見て、一式陸攻の腹に吊り下げられた桜花を見るとですね。
叔父さんもこんなふうに突撃して往ったのだなぁ、と思うとたまらない気持ちになる。
ジオラマの前で再び涙腺決壊状態。
他の人にそれと悟られぬよう、涙を隠すのに必死となりました。
そうそう、遊就館で仕入れた桜花の情報を少しお教えします。
桜花の搭乗員は離陸時は母機の一式陸攻に乗って行くんだそうですね。
そして現地に近づくと桜花に乗り移り、以後は母機と桜花のやり取りはモールス信号でするんだそうです。
そして桜花切り離しの合図は「トン、トン、トン、ツー、トン」。
彼はこの、「トン、トン、トン、ツー、トン」を今生の名残として耳にし、数秒後には突撃して木っ端微塵となったわけです。
こういう事実を一つ一つ知るたびに、叔父の死がますます私の中でリアルになります。
その分だけ叔父に近づけたと思うと同時に、叔父の存在も更に私の中で重みを増してくる。
これはもう、仕方の無いことですね。
私が特攻隊員の遺族である事は避けられない事実。
叔父の生きた証しを背負う覚悟は、キッチリ決めなければならない、と言うことでしょうからね。
ジオラマの横には721海軍航空隊・雷神部隊の戦死者名簿が展示されています。
ここにも叔父の名前はきっちりと記録されておりました。
しばらくその名簿の前に立ち尽くしてですね。
叔父の名前を何度も何度も指で撫でました。
そして心の中で話をしました。
「叔父さん、私はあなたの肉親です。私の温もりが届いてますか?寂しくはないですか?母も私も元気にしていますから心配しないで下さいね」などなど・・・
721海軍航空隊の隊員は、靖国の神門をくぐった右側の2番目の桜の木の下で会おうと約束をしていたんだそうですね。
ですから靖国神社には、生き残った戦友たちの手で本当に右2番目の場所に桜の木が植えてあるのです。
その写真が冒頭の物。
神雷桜と札の架かった桜の木は一抱えもあるような大木でした。
そっと手を触れてみると夏の日差しを受けてほかほかと温かいのです。
私にはそれが何やら叔父の体温のようにも思えました。
「戦友の皆さん、ごめんなさい。ちょっとだけお邪魔して叔父の温もりに触らせてください」
そうお断りをして、少しだけ叔父と話をしました。
もしも生きている叔父さんと触れ合う事が出来たなら、こういう温もりを感じる事が出来たのかな?などと想像を巡らせたりしました。
私にとっては靖国は静かに祈る場所。
叔父と心の対話をする場所。
それ以上でもそれ以下でもありません。
今靖国問題がいろいろ言われていますが、そういう喧騒が一刻も早く鎮まって、心静かにお悔やみが出来る場所になって欲しいというのが、私の素朴な願いです。
帰り際は、何度も本殿を振り返り振り返り、叔父との別れを惜しみました。
「叔父さん、また来るからね。それまで寂しくても待っててね」
と声を掛けながら、地下鉄の駅に向かいました。