2005年09月29日

西村眞悟氏よりメールを頂戴しました

西村眞悟氏が選挙直後の民主党の議員集会で「小泉は狙撃しても良い」という問題発言をした事は、皆様ご存知のことかと思います。
自民圧勝の結果を受けて、ある意味拉致問題がにっちもさっちも行かない状況に追い詰められ、家族も焦りの色を濃くしている所にこの問題発言はいかがなものかと思い、僭越ながら私は西村氏に対して抗議のメールを送らせていただきました。

西村氏のお気持ちは分かるが、ご自分の立場を弁えていただきたい。
拉致問題に取り組む議員の顔をとも言うべき西村氏の不用意な一言が、救出運動に悪い色をつけ支援の輪を狭める原因にもなりかねない。
早くも朝日新聞などは鬼の首を取ったような騒ぎをしている。
つまらぬ一言が、被害者救出を遠のかせるような事になってはいけない。
くれぐれも発言は慎重に、ご配慮をお願いしたい・・・といった趣旨のメールを送ったのです。

この抗議のメールに対する返事が昨日、西村氏から私のところへ届きました。
私信ですので全文転載は避けますが、厳しさの中に優しさを感じさせる(そう言われると、こちらもちょっと気恥ずかしいが・・・汗)メールを頂いた事に感謝する、今後とも変わらぬご指導をお願いしたい、以後気をつけて政治活動に励みたいなど、大変丁寧で真摯なお心のこもったお返事を頂戴いたしました。

己に向けられた批判・忠告の声を聞くというのは、正直言ってそんなに楽しい物ではありません。
西村氏にとってもこのような抗議のメールを受け取ると言うのは、さぞかし耳の痛い話であったことだろうと推測します。
しかし彼はその痛みから逃げることなく正面から受け止め、今回の問題発言を謙虚に反省する姿勢を見せてくださいました。
その真摯な姿勢は最大限評価したいと思いますし、拉致問題解決のためにより一層のお力を発揮していただきたいと思っています。

朝日新聞などは西村氏の問題発言をまるで鬼の首を取ったような勢いで騒ぎ立てておりましたが、無名の一市民の声に真摯に応えてくれた誠実なお人柄に触れ、改めて安堵の気持ちがいたしました。
特に今回の選挙では、小泉さんを熱烈に支持する一部の人たちの間で、小泉批判を一切許すまじといったおかしな風潮が蔓延り強い違和感を感じてもいたので、西村氏のこの真摯な対応には何か心洗われる思いも致しました。

草の根の一支援者に過ぎない私が、いくらこのような弱小Blogで吼えていても、どうにもならないのが拉致問題です。
実際に国を動かすのは国会議員のお仕事。
これからも良い意味で議員にハッパをかけ、被害者救出のために働いてもらう。
それも政治参加の一つのあり方だと思います。
よい働きをしてくれた議員にはGJメールを送る。
おかしな動きをした議員には抗議のメールを送る。
国民の目がいつでもあなた方を見ていますよ、と言うサインを常に発信する事も大事なことと思います。

その意味でも、今回勇気を出して抗議のメールを送ったことは意義のあることだと思いましたし、こちらの思いを汲んでくださった西村氏の誠意に感謝したいと思います。
西村氏の今後の活躍を大いに期待し、また応援もさせて頂きたいと思っております。
posted by ぴろん at 17:09| Comment(10) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

10月開催予定の拉致問題関連集会のご案内

来月各地で開催予定の拉致問題関連の集会情報をお知らせします。
今、必要なのはとにもかくにも支援の輪を広げる事。
少しでも拉致問題の認識を深めてもらう事、だと思っております。
お近くの方、ぜひ参加をご検討くださいませ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★西岡力〜拉致問題のゆくえと北朝鮮、中国の反日問題〜

【演題】西岡力「拉致問題のゆくえと北朝鮮、中国の反日問題」
【日時】10月1日 13:30〜
【場所】小平福祉会館4階小ホール
【会費】500円
【連絡】誇りある日本をつくる会
【備考】http://www.ch-sakura.jp/event.php


★第15回袖ヶ浦市防犯大会

日 時 10月1日(日) 10時〜
場 所 袖ヶ浦市民会館(袖ヶ浦市坂戸市場1566、0438-62-3135)
登壇者 佐藤勝巳さん(救う会会長)
主 催 大会実行委員会 
連絡先 0438-62-2111(内線236)市役所総務部杉沢


★北朝鮮に拉致された日本人を救出する秋田の会設立記念シンポジウム

日 時 10月6日(木) 18時半〜
場 所 秋田市文化会館
登壇者:中山恭子さん(元内閣官房参与)
     飯塚繁雄さん(田口八重子さん兄、家族会副代表)
     地村 保さん(地村保志さん父)
     佐藤勝巳さん(救う会会長)
連絡先 018-862-3008


★救う会神奈川市民集会

■第12回「拉致被害者と家族の人権を考える市民集会〜拉致を語らずして人権を語るなかれ〜」
講 師:横田哲也さん(横田めぐみさんの弟)
    市川健一さん(市川修一さんの兄)
    岡田和典さん(「特定失踪者問題調査会」理事)
    ノルベルト・フォラツェンさん(http://www.soshisha.com/book_wadai/03vollertsen/index.html
    通訳 野口孝行さん(「北朝鮮難民救援基金」国際担当)

日 時:平成17年10月8日 土曜日
午後1時30分開場・午後2時開演(午後5時30分終了)
場 所: 藤沢産業センター
(JR藤沢駅北口より徒歩5分・藤沢郵便局隣り>
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~fcenter/sisetu4.html
参加費: 500円(学生 300円)
主 催: 拉致被害者と家族の人権を考える湘南の会実行委員会
共 催: 北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会
問合先: 090(9816)2187
syounantarou@h9.dion.ne.jp


★第3回拉致被害者を救おう フォーラム in ふくしま

日 時 10月16日(日) 13時半〜16時(開場12時半)
場 所 福島市公会堂(福島市松木町)
登壇者 横田滋さん・早紀江さん(横田めぐみさん両親)
     西岡 力さん(救う会常任副会長)
参加費 1000円(支援金として)
主 催 救う会福島
申込み 往復葉書に参加者氏名・住所を記入の上、
〒960-8022福島市新浜町5-17久米設計事務所気付
返信葉書が入場整理券になります
連絡先 024-534-5031


★大阪ブルーリボンの会枚方集会

日時:10月22日(土)13:00開場 14:00〜16:30
場所:枚方市市民会館大ホール(京阪枚方市駅南口から徒歩3分)
出席予定者:家族会 増元照明事務局長、有本明弘さん、有本嘉代子さん、横田拓也さん、飯塚耕一郎さん
講師:特定失踪者問題調査会代表 荒木和博先生
主催:大阪ブルーリボンの会(下記HPご参照)
会場定員は約1500名限定ですので、早めにご来場ください。(満員になりますと入場をお断りさせていただきます。)
URL : http://osaka-blueribbon.org/


★横田夫妻講演会

1.開催日時
平成17年10月22日・土曜日・午後2時〜3時30分(午後1時30分開場)

2.講演会の趣旨
拉致問題の解決が膠着状態にあり、日韓協議の再開など見込まれているものの、拉致被害者家族の高齢化が進み、世論の沈静化も見られます。
「救う会・群馬」では、群馬県内各地において家族会メンバーによる「講演会」などを企画して世論の喚起に努めております。
横田 滋、横田早紀江夫妻も過酷なまでのスケジュールにありますが、吾妻郡地域において、多くの皆さまに、肉声での訴えをお聞き頂き、ご支援の輪を広げたいと願います。

3.主催団体など
主催:「横田夫妻を支援する講演会実行委員会」
共催:「救う会・群馬」「群馬ボランティアの会」

「横田夫妻を支援する講演会実行委員会」の内容は自由民主党の県会議員ならびに郡内の国会議員により組織されたものです。

※実行委員会事務局(お問い合わせ先)
小渕優子事務所・電話:0279−75−2234です。

4.場所
岩櫃ふれあいの郷・コンベンションホール(定員450名)
吾妻郡吾妻町原町1046電話0279−68−2261
JR吾妻線・群馬原町駅前。

5.後援団体
自由民主党吾妻郡支部、吾妻郡医師会、中之条ロータリークラブ、草津ロータリークラブ

6.お問い合わせ先
実行委員会事務局(お問い合わせ先)
小渕優子事務所・電話: 0279−75−2234


★青梅市講演会

「人権講演会とリコーダー演奏」
−拉致問題を考える集い−

日時:平成17年10月29日(土)
   13:30〜16:10(開場13:00)
場所:青梅市民会館ホール(JR青梅線青梅駅徒歩5分)
地図:http://www.ome-tky.ed.jp/index.cfm/7,33,20,9,html

出演:【リコーダー演奏】
    指揮:諸岡忠教氏
    演奏:青梅リコーダー・オーケストラ
   【人権講演会】
    講演者:横田滋氏、横田早紀江氏、蓮池透氏、辺真一氏

主催:青梅市、多摩西人権啓発活動地域ネットワーク協議会

申し込み:下記の方法でお申し込み下さい。入場無料。定員615名(応募者多数の場合抽選)
往復はがき(お一人様1名限り)に「人権講演会とリコーダー演奏」、住所、氏名、電話番号、返信面にあて名を記入し、9月20日(火)(消印有効)までに下記の申込先まで御応募ください。車椅子席をご希望の方はその旨ご記入ください。保育室(2歳以上未就学児まで)をご利用の方は、その旨とお子様の年齢もご記入ください。
【申し込み先】
 〒198-8701 青梅市東青梅1-11-1 青梅市市民部生活コミュニティ課

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※10月5日追加分情報

◆韓国人拉致被害者も救うぞ!東京連続集会12
10月20日(木)午後6時半〜8時半 開場6時 
韓国家族会の崔佑英代表らを招き、韓国の拉致問題を語っていただき、西岡副会
長が解説。
日本青年館5階「501会議室」(03-3401-0101) 神宮球場隣新宿区霞ケ丘町
7-1 、地下鉄銀座線外苑前駅3番出口・大江戸線国立競技場A2出口より徒歩7
分、JR千駄ヶ谷・信濃町より徒歩10分、車で5分

主催 救う会東京・救う会全国協議会 参加費千円
参加方法 当日直接会場にお越し下さい。
お問い合わせ 救う会事務局 03-3946-5780 FAX03-3946-5784
〒112-0013東京都文京区音羽1-17-11-905
info@sukuukai.jp http://www.sukuukai.jp

この集会はいつもの友愛会館と会場が違います。
お間違いの無い様ご来場ください。
会場の案内図はこちらから↓
http://www.nippon-seinenkan.or.jp/hotel/access/access.htm
posted by ぴろん at 15:57| Comment(0) | TrackBack(1) | ご挨拶&お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

拉致被害者は生きている!東京集会(14)05.9.18 友愛会館にて

『一般からの質疑応答 他』

★Q(一般参加者 女性) 

いつも心に思ってるんです。
どうして日本政府は、「どうしました?」と聞いてるじゃなくて、「返せ」と言えないんでしょうか?
それをいつも・・・(会場の一般参加者より「日本人が反日分子だからですよ、官僚も、自民党も」の声)
日本人が反日だからですか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

その質問に私が答えて良いのでしょうか?
実はですね、中国人や朝鮮人の中では日本人についてこういう評判があるんですね。
よく言えば大変礼儀正しいと。
悪く言えば、あいつらは何をしても「すいません」と謝ってくると。(くすくす笑い)
だから何をしても大丈夫なんだと言う風に見られているというのは事実です。
やはり自分の敵が自分の事を攻撃してきているのに、堂々とけしからんと言わないと言う。
それが日本人の礼儀なのか何なのか分かりませんが、その民族性はちょっとおかしいんではないか?と。
と言うふうに思います。

皆さん方のために、日本の事悪口を言いたくて言ってるんじゃなくてですね。
それは日本のためになる、皆さん方の為になると思うので申し上げているんです。
そして、日本がちゃんと自己主張出来る国になれば自分の事を守る国になれば、金正日は長続きできない、と。(大きな拍手)

この席を借りて一つ申し上げたい事があるんですが、私は拉致された日本人を全員助け出さなければならないと思っています。
そのために戦っていますが、それだけではなくて金正日によって苦しめられているのは北朝鮮の人民も同じなんです。
この豊かな食べ物の余っている日本からすれば想像もできないかもしれませんが、300万人にも上る北朝鮮の私の同胞が餓え死にさせられたんです。
その人たちも一緒に助けなければならない。
私は拉致被害者を救う為に戦っていきますけども、皆さん方にも拉致被害者を救う為と、そして北の私の同胞を救う為にも力を尽くしていただきたいと心からお願いいたします。(大きな拍手)

★西岡力氏のお話

その事と関連して実は今安さんとも相談しているんですが。
実は今脱北者の仲間で今、自由北韓放送と言うですね。
短波ラジオ放送を、来年の1月から北朝鮮向けに脱北者が放送局を作って送ると言う計画があって準備をしているんですね。
韓国の中で左翼の学生や北朝鮮に近い人たちが、その放送局を何度も襲撃して放送局が維持できなくなって、転々と引越しをして、そして韓国当局も実は良い顔をしていない中で脱北者の力で自由の声を北朝鮮に届けようと活動をやっていまして。
私もその放送局まで活動を9月に行って見てきまして、普通の食堂の地下でトイレも無いところにいるんですね。
そこでしかし、どんなテロにあっても自分達の声を北朝鮮に入れたいんだと。
北では今、実は短波放送を聴いている人は多いと。
脱北者が北朝鮮の思考方式で北の方言で言うと信じてくれると、と言っていまして。
その放送の一部で日本人拉致の情報も是非くださいとか、日本人は絶対に拉致問題では妥協しませんとか、言う事を流してもらう事はできないかと言う話もしてるんですが。

もちろん拉致問題でその放送を利用するだけではなくてですね。
北の人民に自由の情報を入れて彼らを助けるために、実は韓国の中で厳しい戦いをしている安さんの仲間の人たちもいますので。
その人たちを近く日本に呼んで、彼らに何か協力できることはないか?と言う集いも考えておりますので、また詳しい事が決まりましたらご連絡しますけれども。
自由北韓放送ということで覚えていただいてですね。
キム・ソンミンさんという軍人出身の脱北者がいるんですが、その人たちをぜひ記憶の隅に入れていただいて、またご連絡しますのでご協力をいただければと思います。(拍手)

★司会 平田氏

安明進さん、西岡さんありがとうございました。(拍手)
また最後まで本当に真剣にお付き合い頂きましてありがとうございました。
安明進さんが言っておられましたように、私たちがすぐに相手のことを信じると言うのはある意味で大変良き文化ですが、日本人同士ではそれで良いとしても、国際交渉の最前線に立つ外交官であるとか報道の方とかいろんな方がいらっしゃいます。
そういう方には外国の事を良く分かってお付き合いをしてもらわなければならないと言う、今日はそういうアドバイスもありました。
そういうことをですね、心にかけて、これからも頑張っていきたいと思います。
本日はありがとうございました。(拍手)

・・・集会終了・・・

拉致被害者は生きている!東京集会(13)05.9.18 友愛会館にて

『マスコミによる質疑応答』

★Q(日本テレビ ザ・ワイド) 

はい、宜しいですか?このままで。
安明進さん、先ほどから敵工地の名前が出てるんですけれども、(西岡氏より「社名を仰ってください」の声)日本テレビのザ・ワイドと申します。
敵工地の事はご存じないということですが、安明進さんが知っている敵工局と言うのはどういう所で、そこにはどんな人たちがいて、何をするところなのか、教えていただけますか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏 以下同様)

敵工地、と言う言葉は聞いた事はありません。
多分、薫さんの記憶違いか、あるいは翻訳上の問題か何かではないかと思うんですが、敵工局と言うのは人民局の総参謀局の傘下にある一つの部署です。
敵工局の担当は心理戦を担当する部署でして、例えば板門店で米軍や韓国軍と接触する兵士たちは全部敵工局の所属です。
また韓国に対して板門店から拡声器で放送していたりしたんですが、それもすべて敵工局の要員です。
そしてまた総参謀局の配下に偵察局と言う部署があるんですが、偵察局の要員たちは小さな手帳のようなものを持っていて。
そこには簡単な会話が朝鮮語を英語や日本語に翻訳して「お前どこから来たのか?」とか等を見れるような手帳があるんですが。
それは偵察要員用の手帳は敵工局が作ります。

★Q(日本テレビ ザ・ワイド) 

その組織の中に田口八重子さんを始めとする日本人がいる可能性はあり得ないんですか?

★A 安明進さん

私はそちらに入った事がないのでですね。
断定的なことは言えないんですが、しかし敵工局に日本人拉致被害者がいるとすれば、それは朝鮮人民軍の偵察局も独自に70年代から工作船を持っていたので、必要があれば自分達が拉致をしてきて確保してるんじゃないかと思います。
その可能性はあります。
しかし田口八重子さんのように、労働党の3号庁舎が拉致してきた人間が敵工局に回されると言う事は、私の知ってる範囲ではあり得ない事だと思います。

★Q(日本テレビ ザ・ワイド)

その組織上ありえないというのはどういうことですか?

★A 安明進さん

秘密機関同士はお互いに牽制しあっている。
特に党と軍の間は協力関係は一切ないので、組織上あり得ないと言うことです。

★Q(新潟日報)

新潟日報の○○と申します。
拉致被害者6人が太陽里に集められたと言う話を聞きましたが、安さんは太陽里に行って・・・ありますか?(音声が小さく一部聞き取り不可能)

★A 安明進さん

知りません。

★Q(日経新聞)

すみません。
日経新聞ですが、田口さんが敵工局にいないとなると、田口さんは今どこで何をしているというふうに推測されますか?

★A 安明進さん

91年に確認されたその場所。
ハム教官が言っていた招待所、その近くにいるんではないかと思います。
秘密機関の中で動かすと言うのはそんな簡単な事ではないので、今もそこにいるんではないかと推測します。

★Q(日経新聞)

日本語教育を今もしていると、そういう事になりますか?

★A 安明進さん

日本語教育は、北の工作機関がなくならない限り続くだろう。
北の工作員が外で悪い事をするときに日本人に成りすましてするので、工作機関がある限り工作員の日本語教育は続くだろうと思います。

2005年09月25日

拉致被害者は生きている!東京集会(12)05.9.18 友愛会館にて

『斉藤文代さんのお話(松木薫さんの姉)』



こんばんは、松木薫の姉です。
安さんのお話を聞いていまして、私は今ただひたすら、皆が北の国で元気でいて欲しいと願って聞いておりました。
後は日本政府が一生懸命やるかやらないか?
後、国交正常化をすると私の弟達は帰ってこられないんじゃないか?と言う不安を私は持っております。
やはり今、国民の皆さんにこうして私たちは助けていただいています。
本当に心が休まるのは皆さんの集まった時の顔を見た時にホッと致します。
何時もいつも家の中にいて、考えてはいけないことを考えます。
でも本当に政府に、もう早く取り戻してくださいと、願うだけです。
よろしくお願いいたします。(拍手)

拉致被害者は生きている!東京集会(11)05.9.18 友愛会館にて

『有本明弘さんのお話(有本恵子さんの父)』

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今、安さんがお話になられた事は、安さんが向こうで体験された事を率直にお話されたわけで、私たちは安さん以外の他の情報で知っている事といえば、八尾(恵)さんが証言したように日本の人間を拉致してきて。
それをつがいにして(「つがい」という言葉を強調気味に語る)、拉致したら使いやすいと。
そういう発言をしているこの人間が言っておるんでありまして。
金日成がそういうふうな教示をしたんです、これ。
金日成、その親が。
だからそれをずっと追討して現在までも来ていると思うんです。
ですから男が半分、女が半分、大体その割で向こうは拉致しているとそういう認識で私は思うんです。

拉致した中にはもう年齢がいって向こうの言葉を覚えるだけでも何年もかかって、はっきりよう覚えられない。
そういう人も拉致されておるんです。
それはなぜかと言うと、日本の国の住んでいる戸籍を取る為に人間を拉致している。
それもかなりあるんです。
私が聞いた一人は、3階建てと聞いたんですけど、その中に沢山の日本人を収容しておる所があると、いうような事を聞きました。
それは何かと言いますと、もう向こうに連れて行っても使いもんにならない人間、それを一ヶ所に集めて管理しているんだと、そういうふうな認識で話を聞きました。
だからかなりの大勢の人がようけ連れて行かれているのは確かだと思います。
以上です。(拍手)

拉致被害者は生きている!東京集会(10)05.9.18 友愛会館にて

『有本嘉代子さんのお話(有本恵子さんの母)』



皆さんこんばんは。
ご苦労様です。
今寺越さん仰いましたけど、国交正常化したら寺越さんの事件だけじゃないんです。
全部が駄目になるんですから。
これ絶対に私もう、今度小泉さん圧倒的に勝たれましたので、その時点で思いましたけども。
国交正常化へ走るような事があれば私たち家族は、今度こそ座り込みどころではない、首相官邸へ行って本当命懸けで戦わないかんと思っていますので。(大きな拍手)
その時は皆さん、お力を貸してください。(大きな拍手)
本当に皆さん、よろしくお願いします。(大きな拍手)
安さん、ありがとうございました。(大きな拍手)

拉致被害者は生きている!東京集会(9)05.9.18 友愛会館にて

『寺越昭男さんのお話(寺越昭二さんの長男)』

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こんばんは。
どうもお疲れ様です。
安明進さん、本当に今日はありがとうございました。
私も声を上げて、今年で丸3年になります。
こうやって安明進さん、救う会の皆さん方のおかげで大分話は進んで来たかなぁと。
しかし、私らが政府に対してお願いした事って言うのが今現在何一つ解決していないと。
本当に政府は寺越事件をどういうふうに見ているんかなぁと。
本当に解決する気があるんかなぁ?
まぁ、そういう不信感が最近はものすごく募って来て。

今の選挙でも山崎拓さんが、小泉さんの任期の間に国交正常化をしたいというような事も言ってましたけど、本当に私には信じられない発言だなぁと。
もし、国交正常化したら寺越事件はどうなるんやろう?
あの、闇から闇へ本当に葬り去られてしまうんでないかなぁという気がしています。
もう一点総理は、寺越事件は、
「武志君は立派になった」と。
「北朝鮮で本当に立派になったから。そしてお母さんは北朝鮮に行ける。行きたい時に行ける。だからこれで良いんじゃないか」
と、そういうふうな発言をしてましたけども、とんでもない事です。(拍手)

私たちにとってもそうですけども、まだ私の叔父さんの家族が、北朝鮮にいるんですね。
外雄さんの奥さんとそして二人の子供が、私にとって見ればいとこなんですけども、まぁ彼らの事も私は本当に幸せになっていただきたいと思うし。
そうするためにはどうすれば良いかと言うことを考えた時に、やっぱり武志の事も含めて一日も早く日本政府に拉致認定をして(もらって)、日本の政府として北朝鮮に対して、彼らの生活の安寧と生活、自由を保証をやっぱりさせるべきだと思いますね。
そういう意味からも、これはもう国交正常化をしない前にしていただきたいと思っていますので、皆さんのご協力をお願いします。(大きな拍手)
どうも、安さんありがとうございました。(大きな拍手)

拉致被害者は生きている!東京集会(8)05.9.18 友愛会館にて

『平野フミ子さんのお話(増元るみ子さんの姉)』

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こんばんは。
今日はありがとうございます。
私にマイクを持たせたらですね、今何言うか分からない。(会場より小さな笑い声)
主人からですね、「あんた馬鹿正直に何でも言うな」って言われてますけども、本当にこの安明進さんのお話を聞いてまたあの日を思い出すんですね。
2002年9月17日。

あの時タラップを降りてきた薫さんを見て安さんがですね。
「あっ、あの人が返ってきたら市川さんも帰って来る」って言われたんです。
妹は市川君と夫婦になっていますので、私の妹を助け出すためには市川君を助け出さないと、と言う思いが絶対にあるんですね。
安明進さんの今までの、安明進さんの証言からこの運動が盛り上がって、私たち何をして良いか分からないという所にあって、家族会も出来、そして5人が帰ってきて、5人が皆帰ってきたときに何も仰らない。
その当日しか仰らなかった。
今のことは言えないんだなぁ、子供さん帰ってくるまで何も言えないんだなぁと言う思いでいました。

私たちも言いたいことが本当に一杯ありますけども、私も本当に田舎者で人を信用する事しか知りません。
でも本当に今、何を信用して良いか分からない。
政府も信用できないし、ここにいらっしゃる皆様方だけが信用できる。
本当にいろんな講演に行って私たちの話を聞いていただきます。
拙い話、聞いていただきます。
そういう人たちしか信用できないんです、今。
この拉致問題が、この新政府でどういうようになっていくのか?っていう、すごい不安があるんです。

横田早紀江さんが仰ってました。
もしもめぐみちゃんが帰って来たら、めぐみちゃんを他の日本人を救う為に活動させますって、そういう事を仰っていました。
私ももちろんるみ子が帰ってきたら、他の日本人を救う為に、「るみ子、あんた他の日本人の多くの支援の人たちのおかげで帰ってこられたんだから、あんた今から帰ってこられない人のために頑張らんといかんよ」って私は言います。
それがせめてもの皆さんへに対する恩返しだと思っています。
ですからまだ一杯言いたいことがありますけど、また大変な事になってはいけませんのでここで控えさせていただきますけども、本当に私たちは安明進さんには感謝しています。
本当にありがとうございます。(大きな拍手)

拉致被害者は生きている!東京集会(7)05.9.18 友愛会館にて

『家族による質疑応答(本間勝氏)』

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★Q 本間勝さん(田口八重子さん兄)

蓮池(薫)さんからの話でね。
八重子が敵工地、先ほど西岡先生から書いていただいた敵工地の組織に入れられていると。
八重子は金賢姫の事件の後に、要するに日本人を教官に使わなくなったと。
なぜなら金賢姫みたいな工作員がいて日本人が教官にいたことがばれると。
要するに亡命してくると日本人はいたんだよと、ばれてくるから、それで金賢姫の大韓航空機爆破事件以降は、蓮池さんも工作員教育から外されて、その翻訳業務に回されたと。
そういうような話をされたんですね。
今現在はそういう工作員教育には日本人を携わってないんじゃないかと思われます。
それとなんで八重子は敵工地と言う、労働党の組織じゃなくて軍の組織に回されたと思いますか?
それをちょっと教えてもらいたいです。

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

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(安氏、証言の途中で敵工地の略図を後ろのホワイトボードに書き記す。かなり長い証言になる)
えと、通訳をします。
まず最初の日本人教官を金賢姫事件のあと辞めさせられたという話ですが、そういうことは無いと思います。
なぜなら先ほど言ったハム教官が八重子さんは招待所は代わったけれど教育を続けていたと。
確認したと私たちに言ってるわけです。
ですから辞めていないと思います。
ただ、そこはちょっと私はちょっと記憶がはっきりしないんですが、確か学内で聞いたような気がするんですが、事件の後ですね。
分校で1対1の教育を長い時間していると、金賢姫が田口さんの事を沢山聞いて(韓国当局に)話してしまったような事が起きるから、同居教育はやめて本部に日本人教官の事務所を作って小型バスが出てたんですね。
分校の方に。
彼らはそれに乗って必要な時に分校へ行って教育をしていた。
そういうシステムに変えたんではないかというふうに思っています。

それからもうひとつ敵工地の問題ですが、敵工地と言う言葉は聞いた事はありませんが、敵工局(てきこうきょく)という部署は人民軍にあります。
これは心理戦を担当している部署で、そしてそれは政治軍事大学の近くに敵工局の地域がありました。
それが今ここで書いたのが、(ホワイトボードの略図を指し示しながら、以下同様に)ここが本校です。
そして分校です。
そして東北里、ここですね。
そして彼らが住んでいたという太陽里、この辺ですけれど、こちらまで太陽里が続いているわけです。
そしてここに敵工局地域がある。
その横に国家保衛部地域がある。 
ただし私の考えでは、党の工作期間にいた人間を軍に行かせるということは、もちろん私が全部のことを知っているわけではありません。
しかし組織上、大変ありえないことではないか?と、いうふうに思います。

拉致被害者は生きている!東京集会(6)05.9.18 友愛会館にて


『家族による質疑応答(増元照明氏)』

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★Q 増元照明さん(増元るみ子さん弟)

今、安さんはあまり管理をするところは多くない。
100人くらいの拉致被害者、韓国は400人以上、480何人の拉致被害者。
それだけの被害者を管理する招待所はあるのかどうか?
それと北朝鮮は密告社会ですよね?お互いに。
拉致被害者の中にも密告制度はあったと思いますか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

招待所はそれほど多くないんですが、多分多くの拉致被害者は分散管理されていると思います。
拉致された事によって教官をさせられている人たち、教官をさせてなくて翻訳をさせている人たち。
分散管理をされているんじゃないかと思います。
それから密告制度ですが、それは当然あるはずです。
北朝鮮社会は当然そういう社会で、例えば私も密告制度があった。
4人で韓国に侵入してきたわけです。
私が一人侵入作戦の前に呼ばれてですね。
「お前の事を信用している」
組長と言うのがいるんですね。
組長がリーダーで3人退院がいるんですが、組長の様子がおかしかったら撃ち殺せと上官が言うんですね。
多分他の隊員たち組長も同じように「お前だけを信じている」と言われ、作戦に投入されているはずです。
そういう社会ですから相互密告制があるのは間違いない。

2005年09月24日

拉致被害者は生きている!東京集会(5)05.9.18 友愛会館にて

『家族による質疑応答(飯塚繁雄さん)』

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★Q 飯塚繁雄さん(田口八重子さん兄)

今いろいろお話を聞きましたけれども、聞いている間にいろいろ脳裏に向こうに行ってる人間が出てくるんですけれども。
安さん、向こうに残されている日本人。
我々の親族の日本人が、例えば生きてるとしたらどういう場所でどんな気持ちで生きてるか?
言うような事が少しでもコメントいただければありがたいなと。

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

北朝鮮は自分達の必要のために拉致をしたわけですね。
つまり現地化教育の教官が必要だった為で、その必要は現在も変わっていないと思いますから、継続して工作員の教官として使ってると思います。
また彼らを管理する事が出来るような秘密区域というのはそれほど多くは無いんですね。
今まで管理されていた場所の中にいて、同じように教官として暮らしているんじゃないかと私は考えます。

北朝鮮当局は日本人被害者を殺すだろうか?ということですが、私はその可能性は大変低いと思っています。
実は工作機関の中で我々工作員要員たちも日本と言うのは大変しつこい国であると。
日本の警察は一つの事件について20年30年徹底的に調べてくると、いう認識を持っていました。
特に金正日が拉致を認めた後の段階では、3号庁舎の人間は大変緊張していると思います。
後で責任を取らされるかもしれない。
そういう状況の中で拉致被害者に手を加えたりすることは、ほぼあり得ないんではないか?と思っています。
あるとすれば被害者たちが反抗して言う事を聞かなかった場合ですが、反抗したらば殺されると言う事を良く分かっている拉致被害者が反抗するとは考えられない。
そういう観点から考えると今も殺されないで、管理下におかれているというふうに思うわけです。

それから確か朝日新聞だったように記憶するんですが、金正日が拉致を認めた後の記事でですね。
日本に対する拉致を認めたので、清津連絡所を解散すると言うような記事が出ていたのをご存知ですね。
そんなことはあり得ないと。
清津連絡所は今も存在していて、最新の装備を導入しているんです。

清津連絡所は今でも活動していて、そこに工作員たちがいると言う事については映像でもすでに日本に入手されていて、いつかは公開されるんじゃないかと思います。

また北朝鮮は拉致を実行した人間を死刑にしたと。
チャン・ボンニン、キム・スンチョルと言う人間は刑務所に入れたと言ってるんですが、この二人は3号庁舎の人間ではありません。
軍人です。
そして3号庁舎で拉致を命令したのは金正日ですから、責任者を処罰するとしたら金正日を処罰しなければならない。
軍人は別の刑で処罰を受けたのかもしれませんが、拉致とは何の関係も無いんです。

2005年09月23日

拉致被害者は生きている!東京集会(4)05.9.18 友愛会館にて

『安明進氏の証言(通訳・西岡氏) その3』

薫さんを目撃したのは講堂の行事の時だけではなくて別の時もありました。
政治軍事大学には勝利号と言う貨客船が所属していまして、その船で大学に必要な装備だとかそう言う物を日本から買ってきていたんですね。
日本人の拉致被害者たちは故郷の日本のニュースが聞きたいのか、あるいは何か日本の物を買って来てくれと頼んでいるのか。
勝利号が戻ってきて船員たちが大学に帰って来ると、その船員たちの事務所が大講堂の上の所に同じ建物にありましたから、大講堂の前のあたりに集まって来てですね。
船員たちの出てくるのを待って、良く話をしているのを目撃しました。

ですから彼は拉致された日本人の教官として(政治軍事大学に)いたわけです。
教官をやっていたとすれば政治軍事大学に居なかったとはありえない、論理的にもおかしいわけです。

そしてまたもう一つ、北朝鮮は拉致した日本人は13人だと発表したわけですね。
日本人の中でも純真な方はそれを信じていらっしゃる人もいるかもしれませんが、絶対嘘です。
先ほども申し上げたように30人の教官が政治軍事大学の中にいたんです。
それでも13人より多いんです。
それだけでもない。
実は拉致した人間の中から教官として使える人間を選抜して教官にしたんです。
ですから30人よりもっと多い人たちがいたのは間違いない。

帰国した5人の中でも私が目撃したのは薫さん一人だけなんですね。
教官が5人の中で一人だけだったとすれば、そういう比率であればもっと他に教官をしていない日本人がいるという計算になるわけです。

★ここより、西岡力氏のお話

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大体以上が安さんの話ですが。
(後ろのホワイトボードに書かれた安氏の目撃した拉致被害者の名前の一覧を指し示しながら)この中でここまでが政治軍事大学の中で見たと言う人ですね。
11人。
この男性のどちらか一人が藤田進さんに似ていた。
藤田進さんの物と言われる出てきた写真ですね。
藤田さんが拉致された時の学生時代の写真では分からなかったんですが、亡命者がもたらしたと言われる写真ですね。
と似ていた。
この藤田さんは実は実は市川さんと良く歩いていて、安さんが市川さんからタバコを貰った時、横にいた男性Aと言う人がこの藤田さん。
と言う事ですね。

田口八重子さんについては91年まで金正日政治軍事大学、当時の名前は中央委員会直属政治学校の分校にいたわけですね。
射撃の教官が行って見たらば、別の招待所に移っていたと。
薫さんは家族の人に田口さんは86年に敵工地(てきこうち)と言う所にいたと言ってる。
これは軍の所属なんですが、91年まで政治軍事大学にいたと言うことは、まだ党の所属にいたと言うことで86年に軍の所にいてまた戻ってきたのか?
そこも若干、まだ解明出来てない部分なんです。

この中で日本の政府が認定しているのは、6人ですね。
17人のうち11人は認定されていない。
そのうち4人は全く分からない。
特定失踪者の写真を沢山見てもらってるわけですけども、その中に似た人がいない。
もちろん久米さんや原さんのように身寄りのない人を拉致しているケースは沢山ありますから、調べて欲しいと名乗り出ていない人の中でこういう所にいた可能性はあるわけですね。
田中実さんなどはそういうケースで選ばれて連れて行かれているわけですね。
張龍雲という工作員が自白をしなければ田中さんは名前が分からなくて、男性Cとかになってたんですね。
そういう点でも、つまり30人政治軍事大学にいると。
日本人は16人と日本政府は認定していて、あと14人認定していてもっといるじゃないかとそういうことじゃなくて。
つまりここで安さんが知ってる17人のうち6人しか特定できない。
認定できてないわけですから、認定以外の人が14人じゃなくてもっと多くなるんですね。
言う計算になるわけです。

そして今日有本さんたちがいらっしゃってるんですけれど、よど号の犯人たちが拉致した人間っていうのは別の日本革命村と言うところにいましたから、そこでよど号が拉致した人間たちは基本的に彼らが管理していたようなので。
高沢(皓司さん=「宿命」の著者)と言う人間は、田宮と言うよど号のリーダーから20人くらい拉致したと聞いてるわけで、今よど号ケースで3人しか認定出来てないんですね。
あと17人はこちらに、30人とは別の所にいる可能性が高いわけです。

そういうふうに考えていくと、もちろんこの二人(寺越昭二さん・外雄さんの事)は30人の中に入ってないわけですね。
寺越さんも殺されちゃってしまったわけです。
教官の中には入ってないわけです。
武志さんは教官じゃなくて、装備を運搬する仕事をしてたわけですね。
だからその30人の中に多分入ってないと思うんですが。
曽我さんのように結婚して外にいた人もいるので、こういうことからして我々は100人くらいはいるんじゃないか?と。
100人くらい今言ったような分かってる他に情報からすると、合わせて100人くらいになるんじゃないか?と。
金正日の言ってる13人というは絶対におかしいと。
日本政府の言ってる16人もまだまだ足りないと、言うふうに思っているわけです。

★ここより再び安氏の証言(通訳・西岡氏)

またさっき言ったようにですね。
70年代の半ばから82年くらいまで清津が全面的に拉致を行ったんです。
これで10何人というのはありえない。
具体的には分からないんですが、実はめぐみさんを拉致したと安さんに話している丁(チョン)教官は、もう一人自分は拉致していると言ってるんですね。
男をひとり拉致したといってるんですね。
でも学校にはいないと。
それから丁教官と同じような世代で同じような時期に再教育を受けた別の教官も、自分は2人拉致したと。
その2人も学校にはいないと。
そこで3人、学校にいない人の存在が出てくる。

拉致がなぜまだこんなたくさん行われていて解決できないのか?
もちろん、やった北朝鮮の責任が一番ですが。
しかし私が命懸けで拉致はあるんだと97年から証言を始めても、信じなかった大部分の日本社会の人たちの責任。
また北の工作船を発見しても発砲もせずに、ただ領海から追い出すだけで何もしなかった警備当局の責任もあるんじゃないかと思います。

今のような日本の警備体制であれば金正日が決心さえすれば、ここにいる皆さんだって拉致する事が出来る。
今現在でもそういうことが、日本の警備状況ではないかと思います。

次に死んだと言ってるわけですね、8人を。
市川さんは79年に死んだといってるわけですが、私は91年に見ているわけです。
これは矛盾する。

それから田口さんは86年に死んだと言ってるんですね、北は。
しかし91年に話を聞いていると。
ここで確実に生存を確認出来ると。

それからめぐみさんは私が向こうにいたときには、91年以降確認していませんが、ソウルに来てから入手した有力な情報によると95年前後の2年間、金正日の息子の誰かひとりの日本語教師をしていると。
95年が入ってるんですね。
めぐみさんは94年に自殺したといわれているんですが、95年前後の2年間、金正日の息子の一人の日本語教師をしていると、私がソウル入手した情報ですけれども、かなり信憑性がある情報によれば生きていると。

ここで死んでるか生きてるかと言うことを検証するまでも無くて、北朝鮮が死亡の証拠として出してきたのは判子、ゴム印を押した書類だけなんです。

遺骨も本物は一体も来てないんですよね。
北朝鮮は1950年に起きた朝鮮戦争で死んだの米兵の遺骨も、お金が欲しくて発掘してアメリカに売ってるんです。
50年代に死んだ人間の遺骨も出てくるのに、そのあと自分達が徹底的に管理していた日本人の骨が一体も出てこないことがあるでしょうか?

北朝鮮の発表を少しでも信じてしまおうとする日本人の思考方式をまず変えなくちゃならない。
北が死んでるからといっていちいち点検する必要性さえもないんだと。

2005年09月22日

拉致被害者は生きている!東京集会(3)05.9.18 友愛会館にて

『安明進氏の証言(通訳・西岡力氏) その2』

政治軍事大学の中では教科書でですね。
工作員の現地化教育は工作員たちが頭をひねっても出す事ができなかった優秀なアイデア、それが金正日同士が3号庁舎を指導するようになって偉大な同士の頭から出てきた。
大変素晴らしいアイデアであると、教科書で習うんですね。
しかしそれを習った時にオ教官はですね。
もちろん公式の席で金正日は嘘つきだとか言えないんですが、実は俺たちが前から金正日が指示する前からやってたと。(くすくす笑い)
俺たちが現役の頃から必要だと思えば一人二人は拉致してたんだと。
昔からやってたんだと。
朝鮮語で「虎がタバコを吸っていた時代」と言う言葉があるんですが、昔と言う言葉ですね。
昔々という昔話の頭言葉で使うんですが、虎がタバコを吸っていた時代から、と言うふうにオ教官は我々学生に言ってたんです。

もちろん金正日が「現地化教育をしろ」と、「そのために現地人を連れて来い」と拉致指令を下した後、拉致工作が本格化して拉致が大変頻繁に行われたと言う事は事実です。

ちょっと専門的な話になってしまうんですが、金正日が拉致命令を下したあと拉致を本格的にした事を証明する一つの事実としてですね。
70年代の半ばに拉致命令が出されたわけですけども、その後は82〜3年くらいの間拉致が本格的に行われた時、清津連絡所、日本担当の清津連絡所だけでは足りなくて元山連絡所、ウォンサンですね。
元山連絡所の一部が対日担当に動員された。
元山と言うのは本来日本担当ではなくて、南担当なんですが。
元山連絡所の所属で昔元山からちょっと離れたラクオン郡にあるテチョ連絡所と言うのがあって、今は政治軍事大学の訓練所になっているんですが、その連絡所にだから元山の一部ですね。
そこは70年代半ばから82〜3年までの間、日本担当に変更になった、言う事実があります。
そのテチョにある元山の一部はですね。
連絡所の下に方向(ホウコウ)と言うのがあるんですね。
方向と言うのがあってその下に組と言うのがあるんですが、3つの方向があるんですが。
その一つの部隊みたいなものですが、53方向と言う名前が付けられているテチョにある方向ですね。
つまり元山連絡所には3つしか方向がないわけですが、3分の1が日本担当になったと。

韓国にですね。
今何人かの政治軍事大学出身の先輩で亡命したり捕まったりした人たちがいるんですね。
その先輩たちが拉致のことを話すと今の韓国政府の圧力を受けるので、中々話をしないんですが、その元山連絡所で勤務していた先輩たちもいるんです。
その先輩がその53方向が日本だけを担当する方向だったと、言ってる。
拉致を担当するとは言わないんですが、日本だけを担当する方向だったと言うふうには言っています。

そしてその53方向は実は82年か3年に解体されてもう一度元山連絡所に移管されるんですね。
その事実からして、70年代の半ばに金正日が現地化教育のために現地人を連れて来いと拉致命令を出して、大々的に拉致を行われて、ある程度必要な教官が確保されたので縮小されたという推測も成り立つんです。

このような状況からしてですね、北朝鮮の言ってる事を絶対に信じてはならない。
ここにいらっしゃる皆さんだけでも北朝鮮の言ってる事をそのまま信じる事は絶対にやめて欲しいと思う。

ですから見てください。
96年から私が拉致に付いて証言を始めたとき、まず最初は安明進と言う人間はいないと言った。
その後は私が学校の先生で、強盗・強姦・殺人をして逃げた人間のクズだと。
人間のクズの言う事だから信じてはいけないというふうに発表したんですね。
しかし2002年に拉致を認めたじゃないですか。

私は北朝鮮によってですね。
このように存在しない人間とされ、それから学校の先生一度もしたことないんですが先生にもなって(くすくす笑い)、金正日政治軍事大学に通ったんですけども、北朝鮮はその大学の存在を認めていない。

私は金正日政治軍事大学の25期卒業生です。
韓国には11期以降の先輩たちが何人もいるんです。
その先輩たちは皆私が卒業生だという事を認めて、先輩たちと今良い関係なんです。

このような妙な状況を蓮池薫さんが利用しているんじゃないかと思って、私は残念です。

蓮池薫さんは、私が「薫さんを見た、政治軍事大学の教官だ」と言ったので、「いやそれは誤解だ」と。
「自分は政治軍事大学に居たことはない、安さんに会った事も無い」と言っています。
その表現自体は実は正しいんです。

金正日政治軍事大学に居たことがないという蓮池さんの話はある意味では正しいんです。
私は87年3月にその学校に入学しましたけれども、その時の学校の名前は朝鮮労働党中央委員会直属政治学校だったんです。
それが92年の1月の10日に、本校が金正日政治軍事大学になり、分校が烽火(ほうか)政治大学になったんです。
そして二つに分かれたときの前に、日本人の教官たちは分校の方に移って行ったんです。
従って金正日政治軍事大学に蓮池薫さんが居た事が無いと言う、表現自体は正しいんです。
また私と会った事が無いと言うのも、会った事は無いんです。
しかし私の方は彼らを見ていた。
見ることは出来た。
学生は沢山ですけども、日本人教官は少ないわけですから、我々は何回も薫さんを目撃する事ができた、と言う事です。
だから薫さんにもう一度新しい質問をしたんですけども、
「それではあなたは朝鮮労働党中央委員会直属政治学校、またの名を130連絡所、対外的には695軍部隊と言われている場所に居たことはないのか?
そしてそこで学生たちに目撃されるような場所に居たことはないのか?」
いう質問をしたんですが、それについて今度は彼が答える番だと思います。

先ほど私は薫さんに695軍部隊と呼ばれている所、対外名称695軍部隊という所にいなかったのか?と聞いたわけですが、それはつまり金正日政治軍事大学は何度も名前が変わりましたが、130連絡所、695軍部隊と言う対外名称はずっとそのまま変化無く使われているんです。
そして北朝鮮は実は、拉致被害者が695軍部隊にいるということを誤ってなのか何か分かりませんが事実上認めたんです。
8人の死亡診断書が日本に来ましたが、そのうち7枚は695病院と言う判子が押してあったじゃないですか。
実は私は695病院という判子が押してある書類が来るずっと前に、最初に本を書いた時91年、金正日政治軍事大学のまたの名前は695軍部隊だと書いてあるんです。
確認してくだされば分かるんですが、695と言うのは政治軍事大学の中にある病院だから、695と使っているわけです。

695と言うところに日本人拉致被害者が関係している事は北朝鮮が認めたことなんです。
薫さんが695軍部隊と言うところに自分がいたことを認めるのかどうか。
いなかったと言うと、やはり矛盾するんじゃないかと思います。

今蓮池さんたちが話すことができないのは、北朝鮮にいる別の拉致被害者の身の上に何か起こると脅迫されているのかもしれませんし。
あるいは北朝鮮から帰る前に厳しい教育を受けて何かこのように話せと言われて、それをそのまま言っているのかもしれませんが。
とにかく時間が経てば真実が明らかになると、私は思っています。

蓮池薫さんは私は彼が政治軍事大学に居なかったというのでその名称を使うのはやめて、労働党直属政治学校130連絡所695軍部隊の大講堂で、市川さんやめぐみさんと一緒にそこにいた。
そして贈り物を受け取ったりしていた事を目撃しています。
我々は軍服を着ていましたが、彼らは私服でした。

我々は軍服を着ていましたわけですけども、拉致された日本人は我々と区別する為なのか、私服を着せられていたと。
それから日本人だけでなく拉致された韓国人の教官もたくさんいたんですが、その人たちも私服だったんです。
夏には白いワイシャツでネクタイ無し。
そして冬には紺の背広にネクタイをしていました。
背広は同じ者を着ていたので、支給されていたようでした。

薫さんの事を良く覚えているのは彼は背が高かったんですね。
拉致される前の写真を見たときにですね。
最初に拉致の事を証言始めた97〜8年の時、「似てるなぁ、しかし違うかもしれないなぁ」
確実に自信が無かったんですね。
それで、ご両親に対してはもしも違っていたら大きな精神的なショックを与えるのでハッキリとは言わなかった。
しかし関係機関、例えば日本の警察などには似ている人がいたと話はしてありますし、大変親しかった日本のマスコミの何人かの記者にもその話はしました。
そして彼が羽田空港でタラップから降りてきた姿を見て、これは間違いが無いと。
私が良く見ていた姿と全く良く似ていたと。

もし私が私の本の中で薫さんの事を見ていましたと書いていたら、薫さんは帰って来られなかったのではないか。
そのようにも考えています。

蓮池さんは学校の中で教官の中でも指導的な地位に居たんではないか?と。
日本に帰ってきてから5人に対してもどうもその様な関係に見えますので。
地村さんも政治軍事大学にいた可能性はあると思いますけども私は見ていません。
ですから、教官はやっていなかったんではないかとも見ます。
そういう人たちを何人か蓮池さんをリーダーとして、一時ケースとして日本に送ってみたんではないかなぁ、とも考えています。

・・・つづく・・・

2005年09月20日

拉致被害者は生きている!東京集会(2)05.9.18 友愛会館にて

『安明進氏の証言(通訳・西岡力氏) その1』

(日本語で)皆さんこんばんは。(大きな拍手)
(以下、西岡氏の通訳)今、西岡さんの方から私の紹介があり、金賢姫が証言をして生き残ったので、私は韓国に亡命をして、そして日本に来て証言をしたと言う話であったんですけれども。
これは聖書にある言葉か仏教の物かちょっと忘れましたが、「悪は必ず暴かれる」と、言う事で私でなくても別の人が来て、証言をしたんじゃないかと私は信じています。

この席は私が金正日政治軍事大学で私が見た日本人についてお話しする。
そしてまた政治軍事大学で何人が拉致されたのかを明らかにする席でありますけれども。
私がまずすぐ思い出すのは、政治軍事大学には11人の教官がいた。
これはもう一緒に生活するキャンパスの中で何回も見ていた人たちです。
11人を一辺に見たんではなくて、5人一緒に見たり6人一緒に見たり、何回か入れ替わりながらそのように目撃していた人たちが11人いると。

実は11人と言うことを申し上げるんですが、私たち政治軍事大学では私たち学生は、少し申し訳ない話かもしれませんが、若い男性だったものですからどうしても若い女性に関心があったと。
めぐみさんのことをずっと関心があってじろじろと見ていたんだと。
そしてその横にいる人たちのことについても目に入って来たんだと、言う事です。

学校の中ではですね、先輩たちや教官から政治軍事大学には30人ほどの日本人の教官がいると聞いていたんです。
それでそういう話を聞いたもんだから、私もそして同級生たちもですね。
30人もいるのかと思って、数えてみたんですね。
しかしいくら数えてみても30人は数え切れなかった。
11人だったというふうに覚えています。

その11人の中ですね。
一番良く覚えているのは市川修一さん。
もちろん北朝鮮にいた時はその日本の名前は知らなかったわけです。
キム・ヨンイルとかいう名前だったと覚えているんですが、彼は外国語第二講座の教官の代表として、良く何かの式の時に行事の時に贈り物を貰ったりしていた、言う事で覚えています。

今、名前が分かっている人はそれ以外に、増元るみ子さん。
格好はちょっと今の拉致される前の写真の顔とは違っていたんですが、体全体が写っている写真などを見ると足の形などで覚えていると言って、増元るみ子さん。
それから蓮池薫さん。
薫さんは私が目撃したと言う事を否定しているようですけれども、とにかく薫さん。
それから、もちろん横田めぐみさん。
そして田中実さん。
それから北海道から拉致された男性、名前は分からないんですが北海道から拉致された男性。
それから加藤久美子さん。

それからですね、後女性が二人。
一人は田中実さんの、実さんが若干体が弱かったようなので、横にいつもいて面倒を見ていた奥さんとも見えた女性。
田中実さんの奥さんとも見えた女性。
そしてもう一人の女性。
それから男性が二人。
その4人については、今まで私が見せていただいた失踪者の写真の中に似た顔はいないんですが、もしかしたら顔が大変変化していて、その中にいても確認出来ていないのかもしれません。

それからですね、学校の中に通信装備を持ってきて、良く学校の中を出入りしていた寺越武志さん。

それから915病院と言う工作員が利用できる病院が大学の近くにあるんですが、その915病院で目撃した古川了子さん。

それからやはり近くにですね。
放送局がありましてですね。
そこに偽装アンテナが沢山付いていて、それを工作員の学生たちが爆破する訓練を受けるんですね。
その爆破訓練場だった放送局に出入りしていた日本人の女性が一人。

今言った人たちが目撃した人ですけど、それ以外に田口八重子さんについてですね。
金賢姫を教えた先生ですが、私は田口八重子さんを目撃はしていません。
ただし、実は1990年〜91年頃、私の先生で金賢姫の先生。
私にも教えた共通の先生がいるんです。
その先生たちが大変元気がなかった。
金賢姫が本を書くという話が伝わって、その本の中に政治軍事大学の様子が書かれて、自分が登場したら罰を受けるんじゃないか。
元気がなかったんですが、それでそういう事があったんでだいぶ噂になったと。
ところが91年になったらばその教官が元気が出てきた。
ハムさんと言う教官なんですが、(後ろのホワイトボードに「咸」と言う文字を書く)こういう字を書くんですけどね。
射撃の教官で。
その教官に我々が聞いた所、「先生元気になりましたね」と言ったらば、「将軍様の配慮で教官の処罰はされない事になったんだ」と。
「金賢姫を教えた日本人の教官も全く問題がない」と。
「行ってみると招待所だけが変わってそのまま教育をしていた」と、いうふうにハッキリとした話を聞いています。
ですから91年まで、金賢姫を教えた日本人の教官、つまり田口八重子さんは健在だったと言うことは分かっている。

それからもうひとつ、90年くらいだったと記憶しているんですけれども、実は朝鮮中央放送、ラジオでですね。
大韓機爆破事件と言うのは全くでっち上げだと。
拉致した日本人なんかいないんだと、言う放送をしてたんですね。
それを学生と先生が学校の中で聴いたと。
それで、おかしいと、ここの中に居るじゃないかと。
余りにもでたらめなことを言ってるなぁ、おかしいなぁというふうに、学内で話題になったんです。
だからその時まで、田口さんはいたということです。

実はそのときですね。
学生の中で、我々はもう金賢姫がここに居たと言うこと、拉致された人から教わったというのを知っているのに、公開的に国際社会ででたらめだという。
ということは、我々が国際社会に出て行ってもしも捕まった時、そんな話をしたらどういう事になるんだろうか?
どういうことを上は考えているんだろう。
怖い気持ちがしたんです。

北朝鮮と言うのはそういう所なんですね。
しかし日本人はまりにも信用社会に住んで嘘をついてはいけないと言う事を思っていらっしゃるから、北が死んだと言ったら死んだということを信じてしまうというような、純真な所があるかもしれません。

日本を見ていてですね。
もちろん北朝鮮のことを知らないからそう仰るのかもしれませんが、やはり北を見る時は日本的な物の見方を捨てなければならないと、強くお願いしたいんです。

今までで15人になるわけですけれど、先ほど17人と申し上げたのは、後二人は実は寺越さんを拉致した犯人であるオ・グホと言う人物は我々の教官であると。
航海術を教える講座の福講座長で授業中に寺越事件に付いて話をして、そこには3人が船に乗っていた。
一人は子供だった、と言っていた。
今は大きくなったと言っていた。
そして一人は抵抗したのでその場で射殺した。
死体を海に捨てたと言ってる。
後二人、つまりそこで3人いたと言ってる訳ですから、寺越(武志)さん以外に昭二さんともう一人外雄さんの事だと思いますが、それを合わせると17人になると、いうことです。

そこで寺越さんの話が出たので申し上げたいんですけれども、日本の方々はいったいこの事件をどのように考えているのか?ということです。
船は日本のすぐ近くで見つかったんですよね?
人間は北朝鮮に居たわけです。
彼らは救助したと言ってるんですけども、何で船が(日本の)近くで、北朝鮮で救助されなくてはならないのか?
私は海の、海上での工作活動の訓練を沢山受けているから良く知っているんです。
冬の、5月ですか。
寒い海の中で長い事人間は泳いでいられないんです。
夜、水中に長い事いれば凍え死んでしまう。
特に13歳の武志さんが、長い期間北朝鮮の船に発見されるまでの長い期間泳いでいたとすれば、流されていたとすれば、それを日本人はどう考えるのか?
今でも北朝鮮の言うように救助だと考えるのか?拉致だと考えるのか?
北朝鮮が何と言ってるかではなくて、日本人が何と考えるかではないでしょうか?

もちろん日本の総理は北朝鮮に行った時「寺越さんを助けてくださってありがとう」と、感謝は申し述べなかったんでしょうけれども。
しかしハッキリと拉致だと分かる事件があって、その証人もいた事が分かっていたのに、なんで日本政府は、その事をず〜っと歴代の政府は問題にして来なかったんでしょうか?
どうしても理解が出来ない。

寺越事件の現場に私は行ってみたんですね。
その現場の様子と、オ・グホ教官が私たちに話してくれた様子が全く一致するんです。
つまりオ教官はその場所に侵入するとき、船の明かりを消して真っ暗な中、進んでいった。
いつもそこの上陸地点は何回も利用していて、何も無かった所だったと。
ところがその日突然小さな船が現れて、大声でこっちへ来るな来るなと声をかけたと、言うふうに言ったんです。
それで拉致をしたと。
現場に行ってご家族からお話を聞きますと、その日たまたまそこの地点の近くに網をかけたと。
今まではそこの場所に網をかけたことはなかったと、いうことですし。
そこは岩が多い所なんです。
ですからまさか工作船がそんな岩の多い所から入ってくる事はないだろうな、と思われる地域なんですね。
そういう点でも全く地理が様子が一致している。

その寺越さんたちを拉致したオ・グホ教官たちと言うのは、政治軍事大学の中でも7〜8人しかいない、共和国英雄称号を受けた人なんですね。
共和国英雄称号と言うのは戦闘行為をして手柄を立てた人だけに与えられるそのような英雄称号で、その人が嘘を言うはずが無いと。
その人が実は日本担当の清津連絡所に約20年間勤務していて。
ずっと対日工作・侵入をしていて寺越さんだけではなくて、拉致された日本人と大変親しく付き合っていた。
彼の家へいくと日本人拉致被害者がそこへ出入りをしていたと。
日本人拉致被害者は外貨を貰って、外貨ショップで買い物が出来るんですが、そこでオ教官の子供に必要なカセットテープを買ってきてプレゼントしたり、あるいはカップラーメンを買ってきてオ教官にプレゼントしたりとかしていて。
それを私はオ教官の家に行った時に見ているんです。
自分が関係して拉致した人間に申し訳ないと思って付き合っていたのか?
愛着を持ってたのか良く分かりませんが、とにかく自分が清津にいた時代に拉致した人たちを良く知っていて、その人たちと付き合っていたのがオ教官です。

・・・続く・・・

2005年09月19日

拉致被害者は生きている!東京集会(1)05.9.18 友愛会館にて

『西岡力氏による、安明進氏の経歴紹介』

安さんのお話の前にまず私の方から簡単に安明進さんの事を紹介させていただきます。
安明進さん、1968生まれです。
そして87年に朝鮮労働党の工作員に選抜されました。
これは自分の意思は全く関係ないです。
工作員になるというのは、党が、労働党が決めるんですが。
そして金正日政治軍事大学、当時は学校の名前は、朝鮮労働党中央委員会直属政治学校と言う名前だったんですが、そこに87年の3月に入学しました。

そして93年の5月にその大学を卒業して、朝鮮労働党の3号庁舎の作戦部という拉致を担当した工作員の所属する所です。
その作戦部の715連絡所、これは陸上の工作員の連絡所ですね。
海の工作員ではなくてですね。
陸上から韓国に侵入する工作員の連絡所に所属になりまして、そして93年の5月に卒業して所属になって、その年の9月にその最初の作戦で韓国に偵察任務のために韓国軍の軍服を着て入る。
と言う偵察任務があって、韓国の軍事境界線を越えたこちら側にそのままこちらに来てしまった、という形で韓国に亡命をしています。

実はこれは安さんがじゃあなぜ亡命したかと言いますと、これは金賢姫事件と関係があるんです。
金賢姫が毒薬を飲んだんですけれど、生き残ったんですね。
韓国に行って、自白をしてしまったと。
金正日は大変怒ったんです。
なんで自白をしたんだと。
で教育が悪かったって、いう事になったわけですが、その時に教育の仕方に問題があったという事になったんです。
韓国に入る事が想定される工作員に、韓国の実情を教えてなかった。

これはこの間ここでもお話したかもしれませんけど、金賢姫がなぜ自白をしたのかというと拷問にあったんではなくてですね。
韓国の実情を知ってしまったから。
北朝鮮にいる時教育を受けたのは、韓国が北朝鮮より貧しい。
アメリカ帝国主義の植民地で苦しい生活をしていると言われてたのが、実は韓国の方が豊かだったというのを見て、自白してしまったから。
安さんたちの代からは韓国のことを正しく教えると、いうことになって、安さんは韓国の新聞を毎日自由に見れると。
韓国のテレビも録画したビデオが来て見れると、いう生活をしていたんですね。
そのうちに韓国に憧れちゃったんです。
自由な世界が良いと思った。
夢の中でソウルの町を自由に歩いてる自分の夢を見たんです。

そしてもう一つのショックは金賢姫が死刑にならなかった。
115人をテロで殺した犯人なのに、韓国政府は恩赦をしたと。
で、自分が絶対に殺されない。
思って、つまり、普通はですね。
ソウルに何回も入って疑って逃げる人はいるんですけれど、(何回も)入らないで最初の作戦で来ちゃったんです。
その理由は政治軍事大学の中に居るときから韓国の事を知っていたから。
それは金賢姫が生き残った、からなんですね。
彼女が生き残らなければ、めぐみさんを目撃した安さんもこちら側に来なかった、言う事なんですが。

安さんは政治軍事大学の中で今までは15人について、目撃したり確実な情報があると。
この間の国会でも言ったんですけれど、先ほどちょっと打ち合わせして、後二人は知っていると言う事で17人と。
今日はその17人についてお話をしてもらおうと思っています。
それではよろしくお願いします。

靖国神社へ行ってきました 2

もう、昨日の話になりますが、救う会の集会へ参加する前に私は靖国神社へ立ち寄ってきました。
今回は母を同行して。
母は靖国参拝は何度もしているのですが、遊就館には一度も入った事が無いと言うのです。
ですからあの中に特攻の叔父さんが搭乗した戦闘機、「桜花」が展示されている事も、桜花出撃の様子をジオラマで再現した横に神雷部隊の戦没者名簿が展示されてことも知らないと言うのです。
それらを改めて母に見せたくて、気候が涼しくなるのを待って昨日、思い切って出かけて参りました。

まず、母に見せたかったのは神門を入って右横2本目に植えてある、神雷桜です。
これは神雷部隊の隊員が、靖国神社神門右2番目の桜の木の下で会おうと約束して出撃したことにちなんで、戦友の方々が植樹された物。
母もやはり泣きました。
桜の木に触れると、叔父の体に触れたような気がするのです。
体の大きかった叔父のように、桜の木もかなりの大木、一抱えは軽くあります。
この木のどこかに叔父がいると思えば、遺族としてはやはり心動かされないわけには行かないのです。
「叔父さん、叔父さん会いに来たよ」としばらくは桜の木の下に佇んで、叔父との会話をいたしました。

時間もありましたので今回は昇殿参拝をさせていただくつもりで靖国に来ました。
秋のお彼岸が近いせいか、昨日は参拝者がやけに多かったような気がします。
それも若い人がたくさん。
遊就館の中は若者てんこ盛り、と言う感じでもありましたしね。
靖国に関心を持って来てくれたのか?
それとも反日感情の延長戦で怖い物見たさ、冷やかし半分で来たのか?
それは分かりませんけれど。
遊就館内に設置してある、見学者ノートには結構辛らつな靖国批判が書いてありますしね。
遺族の一人としましては心中複雑な物がありますが・・・それでも靖国を一度も参った事も無く、観念だけで物を言われるよりは良いのでしょうか?
私としては一日も早く、心静かにお参りが出来るそんな環境が整う事を祈るばかりなのですが。

昇殿参拝は、実は母も私も今回初めての体験です。
何だか今までは気後れしてしまって・・・
でも今回は時間もたっぷりありましたし、やはり戦後60年の節目の年ですし。
拝殿横の参集殿へ昇殿参拝申し込みへ行きますと、係りの人に「ご遺族の方でいらっしゃいますか?」と聞かれました。
靖国神社では一般の参拝と遺族の参拝とでは申し込みの用紙が違うのです。
むろん、私たちは特攻の叔父を供養する為に参ったのですから、遺族ですと申し上げ、それ用の申し込み書を頂き、英霊の名前と申込人の住所氏名などを記入して、玉串料と共にお願いをいたしました。

ではこれを、と渡されたのは黄色のリボン。
一般の参拝者はピンク色のリボンです。
あれ?遺族とそれ以外では参拝者の扱いに違いがあるのだろうか?と思っていたら、その通りだったんですね。
参拝のご奉仕をしてくださった宮司さんのお話によれば、靖国の御霊が何よりお喜びになるのは遺族の参拝であると。
春秋の例大祭や御霊祭りなど、様々な趣向で御霊をお慰めしてはいても、やはりご遺族の拝礼に勝るお慰めは無い、ということで遺族の参拝には特に気を使ってくださるのです。

本殿横でお払いを受ける時も、遺族は最前列へ。
本殿内で座る時もやはり遺族は最前列へ。
玉串を捧げる順番も、遺族が先でその後一般の参列者となります。
何だか申し訳ないくらい、お心を使っていただきました。
祝詞を上げていただく時は叔父の名前も詠んで頂きました。
私も母もただただ、涙。
不思議なものです。
あそこで参拝をするときは、拝殿の前であろうと昇殿であろうと、無心にただひたすら涙涙になる。
叔父の魂に包まれたような気持ちになる。
ここには間違いなく、叔父の魂がいると感じるのです。
昇殿参拝を終えてお神酒を頂戴し、控え室に戻ると遺族だけにはお供物の下賜があります。
それを頂いて無事参拝を終えました。

そしてその後目的の遊就館へ。
初めて「桜花」を目にした母の感想はやはり
「こんなに小さくてどうやって乗り込んだのか?
特攻の叔父さんは人よりも体が大きいから、体を折り曲げるようにして乗り込んだんじゃないだろうか?」
でした。
桜花は本当に小さい。
例えは悪いけど、遊園地に良くあるような飛行機の乗り物に毛が生えたような感じ、なのです。
しかも性能はお話にならないほど幼稚だったと言う・・・これで命をかけて特攻する叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
けれどあの時代、どの若者も国を家族を守るためなら、命をかけることを厭わなかったと言います。
特攻への志願も、後年言われているように嫌々の仕方無しではなく、むしろ進んで志願したケースが多いという。
多分私の叔父も志願するに当たっては、嫌々ではなく、自ら望んで誇りを持って名乗り出たような感じがします。
叔父の場合は赤紙で徴兵されたのではなく、自らの意思で予科練へ進んだ生粋の軍人です。
その軍人としての責務、日本男子として家族を守るという意思、その他もろもろ・・・
国家の危機に際して、叔父がおろおろ・もたもたしたとは考え難い。

特攻に志願するには家族の承諾が必要だったそうですが、それを親に言い出した時、親の側・子の側にどんな葛藤があったのでしょうかね?
それはなんとも分かりませんが、しかし私の祖父は弟を心の底から誇りに思っていました。
それは間違いが無い。
悲しみを乗り越えた上でのゆるぎない心だったのか、誇りに思ってやらねば弟が不憫すぎると思ってのことだったのか?
特攻などと無謀な作戦を考え出した人に対しては、やはりどうにも割り切れない複雑なものが私の心の内にあります。
所詮は戦後生まれの私が今の時代感覚で何を言っても説得力はありませんが・・・けれど戦闘機としてはちゃちな代物だったという桜花を見るたびに心中は複雑になるのであり、桜花を見つめる目には涙が滲むのです。

ジオラマを見て、叔父の出撃の様子を改めて目に焼き付けます。
大きな飛行機の下に戦闘機をくくりつけるような格好で桜花は出撃した・・・と、話には聞いていますが、実際にジオラマを見るとその時の状況をリアルに想像する事ができます。
所詮はたかがジオラマなのですが、これをみてこんなふうに叔父が搭乗していたのだなぁと思うと、遺族にとっては単なる模型、と言うわけにはいきません。
もうこの辺りから、涙モードなのですが、何とかこらえてジオラマ横の神雷部隊戦没者の芳名碑の前へと進みます。
老眼で細かい文字を読むにはそれ用の眼鏡と交換しなければならない母なのですが、眼鏡をかけ直し叔父の名前を確認した途端、芳名碑の前でオイオイと号泣を始めてしまいました。
展示室の中にはかなりの人がいましたから、いったい何事か?と怪訝に思った人は沢山いたでしょう。
でも私は母を止めませんでした。
泣きたいだけ泣けば良い。
叔父はまだ幼かった母を守るため、拙い文字で書かれた母の葉書を胸に抱いて出撃したのです。
その姪っ子が亡き叔父を偲んで泣けば、叔父の魂もいくらか慰められるに違いない。
それが叔父の魂のおわす靖国ならではの事なのだから。

叔父の出撃時(昭和20年5月4日)の頃にはもうたいした戦闘機もなくて、人も戦闘機も寄せ集めのような有様だったんだそうです。
そして特攻の叔父の話でもご紹介した戦友のAさんは、叔父の乗り込んだ桜花の発射ボタンを押した人。
そのわずか数秒後に見事敵艦の撃沈に成功した様子を、彼は一式陸攻の中でどんな思いで見つめたのか?
撃沈の瞬間「石渡〜〜〜!」と一式陸攻の搭乗席で絶叫したと言う彼。
Aさんもきっと生き残った神雷部隊隊員の一人として、戦友たちと共にやはりこのジオラマの設置や神雷桜の植樹のために奔走したのでしょうね。

今年は戦後60年と言う節目の年であり、この夏テレビではドラマやドキュメンタリーなどの関連番組がたくさんありました。
当然それらの番組中には特攻の場面を映した映像が流れる事が例年よりも多くてですね。
特攻隊員の英霊を持つ身としましては、ずいぶんと心の痛い夏でありました。
あの映像を見ると、どうも私は平静ではいられない。
いろいろ感じてしまうのです。
いろいろ考えるのではなく、感じてしまう。
突撃の瞬間は自分の体がバラバラにされるような感覚に襲われますし、迎撃を受けて空しく落下する戦闘機を見れば搭乗員の無念の涙を感じてしまう。
私が望むのは、テレビの映像であれ遊就館に展示中の戦闘機であれ、単なる物体としてドライな視線で見ることはしないで欲しい、ということでしょうか?
テレビの向こうに映る戦闘機にも展示中の戦闘機にも、そこには様々な思いを抱いた生身の若者が乗り組み、命をかけて闘ったのだと言う事実を、少しでもリアルに感じて欲しいと思うのです。

館内を一通り見学した後、遊就館一階のサロンで、海軍カレーを頂いてきました。
今時のカレーと違って昔風の素朴な味わいのカレーです。
ちょっと年配の人?であれば、ソースを一さじかけたくなるような昔の味わい、と言えばイメージできるでしょうか?(笑)
叔父さんも海軍だから、きっとこれと同じ味のカレーを食べたのかもしれない、と思うとたかがカレー一つにも感慨深いものがあります。
戦争当時のカレーはさぞかしご馳走だったことでしょう。
体が大きくて大飯食いだった叔父は、やっぱり軍でも人より余計にご飯を食べたんだろうか?とか。
つまらぬ事を思っては、カレー一つにも涙が滲む、変な親子でありました。(笑)

遊就館を出てもう一度拝殿前にいくと夕暮れの中、ライトアップがされており、拝殿前がやけに明るいのです。
さすがに夕方遅くなると人気も少なくなります。
最後にもう一度拝殿でお参りをして叔父との別れを惜しみました。
そして帰り際はやはり振り返り振り返り・・・次回の参拝を約束しつつ、後ろ髪を惹かれつつ、九段下駅へと向かいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日初めて当Blogをご訪問の方へ。
私には沖縄戦で戦死した特攻の大叔父がいます。
本日のエントリーに関連する詳しい話をお知りになりたい方は、カテゴリー「特攻の叔父の話」の過去エントリーをご参照ください。
posted by ぴろん at 11:05| Comment(5) | TrackBack(1) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京連続集会へ参加してきました

Img_0536.jpg

拉致被害者は生きている! 東京集会11に参加してきました。
安明進さんの証言は聞き応えがありました。
色々印象に残った話はあるのですが、集会最後の方の質疑応答で一般参加者から寄せられた質問、
「どうして日本政府は(被害者を)返せと言えないのか?」
と言う質問に安氏が答えた言葉から、一足先に一部紹介いたします

・・・・・・・・・・テキスト開始(通訳・西岡氏)・・・・・
その質問に私が答えて良いのでしょうか?
実はですね、中国人や朝鮮人の中では日本人についてこういう評判があるんですね。
よく言えば礼儀正しいと。
悪く言えば、あいつらは何をしても「すいません」と謝ってくると。(くすくす笑い)
だから何をしても大丈夫だと言う風に見られているのは事実です。
やはり自分の敵が自分の事を攻撃してきているのに、堂々とけしからんと言わない。
それが日本人の礼儀なのか何なのか分かりませんが、その民族性はちょっとおかしいんじゃないか?と。
と言うふうに思います。
(中略)
日本がちゃんと自己主張出来る国になれば、金正日は長続きできない、と。(大きな拍手)
・・・・・・・・・・テキスト終了・・・・・

そして集会最後の安氏の発言も一足先にご紹介します。

・・・・・・・・・・テキスト開始(通訳・西岡氏)・・・・・
金正日によって苦しめられているのは北朝鮮の人民も同じなんです。
この豊かな食べ物の余っている日本からすれば想像もできないかもしれませんが、300万にも上る北朝鮮の私の同胞が餓え死にさせられたんです。
その人たちも一緒に助けなければならない。
私は拉致被害者を救う為に戦っていきますが、皆さん方にも拉致被害者を救う為と、そして北の私の同胞を救う為にも力を尽くしていただきたいと心からお願いいたします。(大きな拍手)
・・・・・・・・・・テキスト終了・・・・・

支援者の間ではすでに言い古されている感が無きにしも非ずではありますが、私たちのなすべき事は何か?改めて考えさせられる一言ではないかと思います。
明日救う会の全国幹事会があるとのことで、全国の救う会代表ほか、ご家族も大勢参加されていました。
その中から印象に残ったご家族の言葉を一部ご紹介します。

・・・・・・・・・・テキスト開始・・・・・・
「今何を信用して良いか分からない、政府も信用できないし、ここにいらっしゃる皆様方だけが信用できる。
講演に来て私たちの拙い話を聞いていただきます。
そういう方たちしか信用できないんです。
この拉致問題で、新政府がどういうようになっていくのか?すごく不安があるんです。」(平野フミ子さん)

「国交正常化へ走るような事があったら私たち家族は、今度こそは座り込みどころではない、首相官邸へ行って本当命懸けで戦わねばいかんと思っています。(大きな拍手)」(有本嘉代子さん)
・・・・・・・・・・テキスト終了・・・・・

自民圧勝を受けて、さっそく官邸からは国交正常化を急ぐような話も漏れ伝わってきます。
ご家族の焦り・苛立ちは余人の想像力の及ぶ所では無いのだろうと感じました。
圧倒的多数を占めた自民党が変に暴走する事の無いよう、私たち支援者も一層監視の目を強め、拉致問題に関しての関心と理解を一層広げる努力をしなければならない、と改めて強く感じました。

集会の模様は順次テキスト化してアップの予定。
お付き合いを・・・
posted by ぴろん at 01:09| Comment(2) | TrackBack(1) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月17日

9・17に寄せる思い

今年も9.17がやって参りました。
この一年目ぼしい進展もなく、被害者救出に一歩も近づけていない不明を恥じています。
北の地で救いを待つ被害者と、肉親の帰りを待ちわびて全国を駆け巡るご家族に対し、ただただ申し訳ない気持ちで一杯です。

3年前の今日、小泉総理第一回訪朝の日。
「5人生存・8人死亡・2人未入国」の報を受け体が震えて何も手につかなかった一日。
テレビの向こうで悲しみに暮れ、怒りに震えるご家族に対し、今まで拉致問題に無関心だった自分を恥じた日。
せめてこれからは拉致問題が解決するまで決して関心を失わないと心に決めた日・・・

私なぞに出来る事には限りがあります。
ぼちぼちと集会のテキストを起こすくらいしか出来ない自分が時にもどかしく思うこともある。
やりきれない思いに囚われる瞬間もありますが、しかし途中で投げ出すわけにも行きますまい。
被害者は今も助けを待っている。
家族も歯を食いしばり支援を求めて東奔西走している。
知らぬ振りはできない。
他人事には出来ない。
彼ら当事者は、所詮は他人の私などよりもっともっと苦しいのだから。

初心を忘れぬ為に、私が最近心のよりどころにしている言葉を一つご紹介いたします。
パンドラの箱から全ての悪が飛び出した後、たったひとつ「希望」が残っているのだと言う。
今ここで諦めれば自ら「希望」を捨てるに等しい。
ならば諦めるわけにはいくまい。
最後の一人を救い出すまでは。

Where there is a will,there is a way.(意志あるところに道はある)
posted by ぴろん at 11:07| Comment(2) | TrackBack(5) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月16日

また家族会バッシングですか?

拉致問題の解決は本来党派を超えて全国会議員が、そして全国民が一致団結して取り組まねばならない問題であるはずです。
家族は今回の選挙で拉致問題に理解の深い候補を一人でも多く国会へと、党派を超えて応援をしてきました。
お疲れのご家族にそこまでの負担を強いるのはお気の毒だと思いつつも、家族の必死の行為自体に、私は何の異論も挟むものではありません。
しかし、世の中にはその行為を感心できない行為だと批判する向きもあるようですね。
当Blogにも家族会の応援行動について(具体的には民主党の候補を応援した事に対して)疑問の声を寄せてくださった方がいますから。

↓リンクするのもどうかとは思いますが、一応問題のBlogをば下に紹介しておきます。(笑)
http://www.himeharu.org/000663.html

本来ならば拉致問題の解決は何も家族が全国を駆けずり回るような真似をせずとも、国家が率先して奔走するべき問題なのです。
私は今回の選挙に臨むにあたり、当Blogで横田早紀江さんの悲痛な叫びを何度もご紹介してまいりました。
この問題を取り扱うに当たって、もう一度彼女の声を掲載します。

★横田早紀江さんのお話(横田めぐみさんの母)

こんなに長いこと待たされることは許せないことなんです。
考えてみてもね。
いつまでも、いつまでも、いつまでも家族がね。
こんな風に全国駆け巡って皆さんにお話しすることも大事なんですけど。
「もういいですよ」と。
「私たちが責任ですから」
「国を負う者がやるんですから」って、本当に言っていただきたいと思うんです。
政府の方には率先して、何も言わなくても一生懸命に本気で取り返す算段をやっていただきたいと思っています。

私たちはまだまだ元気でがんばれますので一生懸命にまたお話させていただきますけども。
本当にどうか皆様方の目を政府に向けて。
間違った外交をしていないか、どんな思いをしてやっているのかと言うことをしっかりと見ていただいて。
また誉めていただいて、見守っていただきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

※「市川修一さんを救うぞ!東京集会(6)05.3.10 友愛会館にて」より一部抜粋

ところがなにが悲しいといってこの国のトップは、なぜか拉致問題の解決には消極的であり無関心であるのです。
国家の責務は国民の生命と財産を守ること。
その責任者たる総理大臣がどういうわけか、昨年の5.22以降、目に見えてこの問題への関心を失いやる気をなくしているとしか見えないのです。
ご家族の心中は察するに余りある。

ご家族はお年を召して、どなたも本当に後が無い。
座して待っているだけでは拉致問題が忘れ去られてしまうと焦る気持ちがあるからこそ、彼らは老骨に鞭打って全国を駆け巡り自分の命を削ってまでも支援を求めて歩いているのです。
今度の選挙でも党派を問わず、一人でもこの問題に強い関心を持つ議員を国政の場に送り出したい。
それが被害者救出に近づく一歩になると、必死になる家族の気持ちは痛いほど理解できる。
その彼らに今更何を批判するべき事があるというのだろう?
ここまで家族を追い詰めてしまっているのは国の無策である。
その国の運営を担う国会議員を選んでいるのは私たちである。
国家の無策は間接的に私たち国民全ての責任だと思うのだが。

確かに家族が政治に関る事は両刃の剣、と言う側面があることは否めない。
特定の候補を応援する事で、その党に懸念を持つ人の反発を買うというリスクは確かにあるのです。
党としての民主党には、対中国や対北朝鮮政策に関してかなり問題がある事は私も理解しています。
だが問題があると言うなら自民党内にも売国議員としか思えないような議員はたくさんいる。
家族が応援した候補がたまたま民主党候補者だったからといって、過剰に嫌悪感を持つのはいかがなものだろうか?
拉致問題の対応に関して問題があるのは、自民も民主もどっちもどっちの側面はある。
売国議員と言うならば、自民の小泉さんだって、十分に売国に値する行為を行っているのではないか?と私は思うのですけれどね。
そこを忘れて家族がたまたま民主党候補者を応援したと言うその事実一つだけを突つくのはいかがなものか?
だいたいが、民主=売国と決め付けるのは直線単純思考に過ぎると思う。
民主党を懸念する思いを強めるあまり、「拉致問題に熱心な議員を一人でも多く国会へ」と言う家族の純粋な願いまでをも非難するのは、少しばかり了見が狭すぎやしないだろうか?

家族の行為を非難する前に考えて欲しい。
家族をそこまで追い詰めてしまったのは誰なのか?
長年この問題を放置し無関心を装ってきた私たち国民が、家族の必死の行動をどうして責める資格があると言うのだろう?
いい加減、日本人も事の真偽を正しく見抜く目を養ってはどうなのか?と思う。
5.22の家族会バッシングの時も、家族の置かれた立場を良く理解せずに、小泉さんへの礼儀がなってないと批判の嵐が沸き起こりましたが、あれから早一年以上は過ぎているのです。
私たち国民の側も、もう少し拉致問題への正しい認識を深めるべきではなかろうか?と切に願う。
家族が選挙の応援のために全国を飛び回らなくても、全ての国会議員が心を一つにして、拉致問題に誠心誠意取り組んでくれるようになる事を切に切に願う。

関連リンク

お気に召すまま(6/16) 拉致は党派を超えて取り組むべき課題 
posted by ぴろん at 16:15| Comment(6) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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