もう、昨日の話になりますが、救う会の集会へ参加する前に私は靖国神社へ立ち寄ってきました。
今回は母を同行して。
母は靖国参拝は何度もしているのですが、遊就館には一度も入った事が無いと言うのです。
ですからあの中に特攻の叔父さんが搭乗した戦闘機、「桜花」が展示されている事も、桜花出撃の様子をジオラマで再現した横に神雷部隊の戦没者名簿が展示されてことも知らないと言うのです。
それらを改めて母に見せたくて、気候が涼しくなるのを待って昨日、思い切って出かけて参りました。
まず、母に見せたかったのは神門を入って右横2本目に植えてある、神雷桜です。
これは神雷部隊の隊員が、靖国神社神門右2番目の桜の木の下で会おうと約束して出撃したことにちなんで、戦友の方々が植樹された物。
母もやはり泣きました。
桜の木に触れると、叔父の体に触れたような気がするのです。
体の大きかった叔父のように、桜の木もかなりの大木、一抱えは軽くあります。
この木のどこかに叔父がいると思えば、遺族としてはやはり心動かされないわけには行かないのです。
「叔父さん、叔父さん会いに来たよ」としばらくは桜の木の下に佇んで、叔父との会話をいたしました。
時間もありましたので今回は昇殿参拝をさせていただくつもりで靖国に来ました。
秋のお彼岸が近いせいか、昨日は参拝者がやけに多かったような気がします。
それも若い人がたくさん。
遊就館の中は若者てんこ盛り、と言う感じでもありましたしね。
靖国に関心を持って来てくれたのか?
それとも反日感情の延長戦で怖い物見たさ、冷やかし半分で来たのか?
それは分かりませんけれど。
遊就館内に設置してある、見学者ノートには結構辛らつな靖国批判が書いてありますしね。
遺族の一人としましては心中複雑な物がありますが・・・それでも靖国を一度も参った事も無く、観念だけで物を言われるよりは良いのでしょうか?
私としては一日も早く、心静かにお参りが出来るそんな環境が整う事を祈るばかりなのですが。
昇殿参拝は、実は母も私も今回初めての体験です。
何だか今までは気後れしてしまって・・・
でも今回は時間もたっぷりありましたし、やはり戦後60年の節目の年ですし。
拝殿横の参集殿へ昇殿参拝申し込みへ行きますと、係りの人に「ご遺族の方でいらっしゃいますか?」と聞かれました。
靖国神社では一般の参拝と遺族の参拝とでは申し込みの用紙が違うのです。
むろん、私たちは特攻の叔父を供養する為に参ったのですから、遺族ですと申し上げ、それ用の申し込み書を頂き、英霊の名前と申込人の住所氏名などを記入して、玉串料と共にお願いをいたしました。
ではこれを、と渡されたのは黄色のリボン。
一般の参拝者はピンク色のリボンです。
あれ?遺族とそれ以外では参拝者の扱いに違いがあるのだろうか?と思っていたら、その通りだったんですね。
参拝のご奉仕をしてくださった宮司さんのお話によれば、靖国の御霊が何よりお喜びになるのは遺族の参拝であると。
春秋の例大祭や御霊祭りなど、様々な趣向で御霊をお慰めしてはいても、やはりご遺族の拝礼に勝るお慰めは無い、ということで遺族の参拝には特に気を使ってくださるのです。
本殿横でお払いを受ける時も、遺族は最前列へ。
本殿内で座る時もやはり遺族は最前列へ。
玉串を捧げる順番も、遺族が先でその後一般の参列者となります。
何だか申し訳ないくらい、お心を使っていただきました。
祝詞を上げていただく時は叔父の名前も詠んで頂きました。
私も母もただただ、涙。
不思議なものです。
あそこで参拝をするときは、拝殿の前であろうと昇殿であろうと、無心にただひたすら涙涙になる。
叔父の魂に包まれたような気持ちになる。
ここには間違いなく、叔父の魂がいると感じるのです。
昇殿参拝を終えてお神酒を頂戴し、控え室に戻ると遺族だけにはお供物の下賜があります。
それを頂いて無事参拝を終えました。
そしてその後目的の遊就館へ。
初めて「桜花」を目にした母の感想はやはり
「こんなに小さくてどうやって乗り込んだのか?
特攻の叔父さんは人よりも体が大きいから、体を折り曲げるようにして乗り込んだんじゃないだろうか?」
でした。
桜花は本当に小さい。
例えは悪いけど、遊園地に良くあるような飛行機の乗り物に毛が生えたような感じ、なのです。
しかも性能はお話にならないほど幼稚だったと言う・・・これで命をかけて特攻する叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
けれどあの時代、どの若者も国を家族を守るためなら、命をかけることを厭わなかったと言います。
特攻への志願も、後年言われているように嫌々の仕方無しではなく、むしろ進んで志願したケースが多いという。
多分私の叔父も志願するに当たっては、嫌々ではなく、自ら望んで誇りを持って名乗り出たような感じがします。
叔父の場合は赤紙で徴兵されたのではなく、自らの意思で予科練へ進んだ生粋の軍人です。
その軍人としての責務、日本男子として家族を守るという意思、その他もろもろ・・・
国家の危機に際して、叔父がおろおろ・もたもたしたとは考え難い。
特攻に志願するには家族の承諾が必要だったそうですが、それを親に言い出した時、親の側・子の側にどんな葛藤があったのでしょうかね?
それはなんとも分かりませんが、しかし私の祖父は弟を心の底から誇りに思っていました。
それは間違いが無い。
悲しみを乗り越えた上でのゆるぎない心だったのか、誇りに思ってやらねば弟が不憫すぎると思ってのことだったのか?
特攻などと無謀な作戦を考え出した人に対しては、やはりどうにも割り切れない複雑なものが私の心の内にあります。
所詮は戦後生まれの私が今の時代感覚で何を言っても説得力はありませんが・・・けれど戦闘機としてはちゃちな代物だったという桜花を見るたびに心中は複雑になるのであり、桜花を見つめる目には涙が滲むのです。
ジオラマを見て、叔父の出撃の様子を改めて目に焼き付けます。
大きな飛行機の下に戦闘機をくくりつけるような格好で桜花は出撃した・・・と、話には聞いていますが、実際にジオラマを見るとその時の状況をリアルに想像する事ができます。
所詮はたかがジオラマなのですが、これをみてこんなふうに叔父が搭乗していたのだなぁと思うと、遺族にとっては単なる模型、と言うわけにはいきません。
もうこの辺りから、涙モードなのですが、何とかこらえてジオラマ横の神雷部隊戦没者の芳名碑の前へと進みます。
老眼で細かい文字を読むにはそれ用の眼鏡と交換しなければならない母なのですが、眼鏡をかけ直し叔父の名前を確認した途端、芳名碑の前でオイオイと号泣を始めてしまいました。
展示室の中にはかなりの人がいましたから、いったい何事か?と怪訝に思った人は沢山いたでしょう。
でも私は母を止めませんでした。
泣きたいだけ泣けば良い。
叔父はまだ幼かった母を守るため、拙い文字で書かれた母の葉書を胸に抱いて出撃したのです。
その姪っ子が亡き叔父を偲んで泣けば、叔父の魂もいくらか慰められるに違いない。
それが叔父の魂のおわす靖国ならではの事なのだから。
叔父の出撃時(昭和20年5月4日)の頃にはもうたいした戦闘機もなくて、人も戦闘機も寄せ集めのような有様だったんだそうです。
そして特攻の叔父の話でもご紹介した戦友のAさんは、叔父の乗り込んだ桜花の発射ボタンを押した人。
そのわずか数秒後に見事敵艦の撃沈に成功した様子を、彼は一式陸攻の中でどんな思いで見つめたのか?
撃沈の瞬間「石渡〜〜〜!」と一式陸攻の搭乗席で絶叫したと言う彼。
Aさんもきっと生き残った神雷部隊隊員の一人として、戦友たちと共にやはりこのジオラマの設置や神雷桜の植樹のために奔走したのでしょうね。
今年は戦後60年と言う節目の年であり、この夏テレビではドラマやドキュメンタリーなどの関連番組がたくさんありました。
当然それらの番組中には特攻の場面を映した映像が流れる事が例年よりも多くてですね。
特攻隊員の英霊を持つ身としましては、ずいぶんと心の痛い夏でありました。
あの映像を見ると、どうも私は平静ではいられない。
いろいろ感じてしまうのです。
いろいろ考えるのではなく、感じてしまう。
突撃の瞬間は自分の体がバラバラにされるような感覚に襲われますし、迎撃を受けて空しく落下する戦闘機を見れば搭乗員の無念の涙を感じてしまう。
私が望むのは、テレビの映像であれ遊就館に展示中の戦闘機であれ、単なる物体としてドライな視線で見ることはしないで欲しい、ということでしょうか?
テレビの向こうに映る戦闘機にも展示中の戦闘機にも、そこには様々な思いを抱いた生身の若者が乗り組み、命をかけて闘ったのだと言う事実を、少しでもリアルに感じて欲しいと思うのです。
館内を一通り見学した後、遊就館一階のサロンで、海軍カレーを頂いてきました。
今時のカレーと違って昔風の素朴な味わいのカレーです。
ちょっと年配の人?であれば、ソースを一さじかけたくなるような昔の味わい、と言えばイメージできるでしょうか?(笑)
叔父さんも海軍だから、きっとこれと同じ味のカレーを食べたのかもしれない、と思うとたかがカレー一つにも感慨深いものがあります。
戦争当時のカレーはさぞかしご馳走だったことでしょう。
体が大きくて大飯食いだった叔父は、やっぱり軍でも人より余計にご飯を食べたんだろうか?とか。
つまらぬ事を思っては、カレー一つにも涙が滲む、変な親子でありました。(笑)
遊就館を出てもう一度拝殿前にいくと夕暮れの中、ライトアップがされており、拝殿前がやけに明るいのです。
さすがに夕方遅くなると人気も少なくなります。
最後にもう一度拝殿でお参りをして叔父との別れを惜しみました。
そして帰り際はやはり振り返り振り返り・・・次回の参拝を約束しつつ、後ろ髪を惹かれつつ、九段下駅へと向かいました。
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本日初めて当Blogをご訪問の方へ。
私には沖縄戦で戦死した特攻の大叔父がいます。
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