2005年12月21日

森本美砂さんのことば(2005/11/30)韮崎にて

ご紹介いただきました山本美保の双子の妹であります森本美砂です。
本当に今日は平日の忙しい中にも関わらず、多くの方々に来ていただきまして、お話を聞いてくださいまして、ありがとうございます。
3年前姉のことが明るみにでて以来、本当に県民のみなさまにはたくさんのご支援をいただきました。改めてこの場をお借りしましてお礼を申し上げます。(拍手)

いろんなところでお話しさせていただいておりますが、姉、山本美保は21年前の、昭和59年6月4日にいつもと変わらない表情といつもと変わらない服装、姿で、「図書館に行ってくるね」と母に言い残して、家を出ました。当時受験勉強をしていまして、その大学進学を目指して勉強していて、図書館に通っていたのです。

二十歳で勉強していたのには少し理由があります。私たちが高校三年生の秋に突然兄を(当時、二つ上で、梨大=山梨大学に通っておりましたが)バイクの事故で亡くしました。それ以来、家族の歯車が狂ってしまって、家の中が真っ暗になってしまいました。両親は、もう無気力な状態で、毎日を過ごしていましたし、私たちもどうしていいかわからなかったんです。

でも自分の進路を何とかしなくてはいけないという思いで、何とか勉強を続けていましたけれども。姉は暗くなってしまった家の中を少しでも明るいものにしていこうと、たぶん、思っていたと思います。また自分の力を試してみたいと、東京の大学を目指していました。当時父の一人の力では子供三人を大学に通わせるのは難しいと、行くなら地元だということで、東京の大学には行くことはできなかったんです。でも姉はそれを挑戦したんです。苦しい中ですけれども、見事日本女子大学に受かりました。でも私を含め、私も含めた家族は「お兄ちゃんがなくなった後、ひとりで東京になんか行かないで」と反対して、行くことに賛成できなかったんです。そのことをずっと、今でも悔いています。
あの時に行かせてあげればこんな事にならなかったんじゃないか、図書館にいってくるなんて、受験勉強をしなくてもよかったのではないかということを、未だに悔いております。
ですからなかなか、姉のことを言い出すことができませんでした。

3年前の有本さんの事件が明るみになったときに、姉は家を出てから4日後に、柏崎の荒浜海岸で鞄が見つかっています。当時行ったこともない新潟県で、海岸で姉の鞄が見つかったのだろう。当時新潟の柏崎署の方々の協力を得て、くまなく探し回りましたけれど、何の手がかりも見つかりませんでした。でも、何の手がかりもつかめない中で、どこに何を訴えていいかわからないまま、十数年がたっていました。

姉のことは片時も忘れることはなかったんですが、あの時応援できなかったということもあって、他の人に伝えることもできませんでした。

でも有本さんの拉致事件のことを知って、姉の鞄も、蓮池さんたちが拉致された20キロあまりの近くの海岸に落ちていた。何の手がかりもない。これは今何かをしなければ、動き出さなければ、姉に一生会えないという思いで、すこしずつ、調べを始めました。

そして新潟の小島会長さんに協力をいただきまして、詳しい話を聞いて頂きまして、「これは、拉致事件に間違いない」と言われまして、それからいろんな方々の支援を受けまして、すこしずつ運動して参りました。特定失踪者調査会の荒木さんにも相談し、「これはかなり濃い、今の特定失踪者野中で、特に拉致の疑いが濃い」 と言われまして、16人の中に数えられ、昨年1月29日刑事告発もさせていただきました。本当に県民の皆さんにもお力をいただきまして、20万の署名を集めて、政府に提出いたしました。

ところが、先ほどお話しがあったとおり、昨年の3月4日、私の携帯に電話がかかりました。「DNAが一致した」と電話がありました。まだ正式な鑑定書も寄せられていない状態での話でした。専門的なことはよくわかりません。でも、そう言われて、その翌日に、資料を見せられたときも、(本当はその鑑定をした専門家の方が説明をしなければならないのだと後で言われましたけれど)、県警の方が代弁する形で「よくわかりませんけれども、ここに<99.9999・>、この数字が美保さんのことを物語っています。美保さんでない確率は、六兆分の一だ」と言われました。

それがはじめは真実だと思いました。私は二十年間冷たいか鉄の中に放っておいてしまったんだと泣き崩れてしまいました。「なんてことをしてしまったんだろう」と。でも、となりで聞いていた夫は冷静でした。「なんかおかしい」とずっと思っていたようです。
その「おかしい」がやっぱり的中したんです。

DNAが一致したのであれば、全てのことがもっと一致していいはずです。
先ほどもお話がありましたし、いろんな資料にも書かせていただきました。遺留品がやっぱり・・。
遺留品は警察の方は、重視しないのでしょうか?「遺留品が違うことが、人が違うことになるんですか?」と言うことも(警察の方は)おっしゃいますけれども。

遺留品が全く違って、体のサイズも違って、専門家の方に聞きました。
「二十歳の女性の遺体が、13日後にこんなふうになってしまうんですか?」
その写真もDNAが一致したと言われた後に詳しい資料も見せていただきましたけれど、すごいご遺体です。まともにみられない状態です。男も女もわからない、年齢ももちろんわからない、姉の形などひとつもない、そういう痛ましいご遺体でした。手足がなかったんです。頭は白骨化でした。歯も13本も抜けているんです。
「こんなになってしまうんですか?」

上野正彦先生という水死体を2万体検査、監査された、東京の監察医の先生にその事を、情報をお伝えしました。資料もお見せしました。
「そんなことはない」と はっきりおっしゃいました。
「二十歳やそこいらの人が、歯がぬけるはずがない。」
歯が身元を確認する唯一の手がかりになるんです。その歯が13本も抜けている。「一年以上たっていますね。」とそんなこともおっしゃっていただきました。
いろんな状況が姉とは一致しないのです。

そういうことを調べて、でも、99.999という数字だけで、姉が亡くなったとは到底思えないのです。意地を張っているわけではありません。真実であるならば、二十年以上探し続けている姉の存在がはっきりしたのであれば、どんな過酷な事実であっても受け入れるんです。でも数字だけのものは私に真実を伝えていません。

特定失踪者の中でも特に同級生の方々の力をいただきまして、本当に大きなご支援をいただきました。日本の中で400人以上いる特定失踪者家族は、あまり声を出していないんです。拉致の認定をもらっていないからです。「拉致でなかったらどうしよう。」と言う不安を抱えて生きているんです。何十年も家族に会えない状態で苦しい胸の内を秘めながら、「でも拉致でなかったらどうしよう。」「批判されるではないか」「特定失踪者問題調査会の荒木さんたちに迷惑をかけるんではないか」と、そんな思いもあってなかなか声を出せません。本当に発展していかないんです。

そんな中で、この美保を支援してくださる方は、大きな、大きな活動を通して支援をしてくださいました。
「そこをつぶしたのかな?」と思わざるを得ないのです。

現場の警察官の方々を批判するつもりはありません。父も山梨県警に40年以上勤めた人間です。(涙があふれる、話が少し涙声になる)現場の警察官の大変な生活、仕事ぶりは、身近でよく知っております。小さい頃、どこかに連れて行ってくれると約束してもそれをきちっと実現したことは少なかったんです。事件がおきれば、即、「今日はいけない。」だから小さな頃は、父は嘘つきだと思っていました。でも、だんだん父の大変さを知るにつけ、これは国民の命と財産を守る大変な仕事をしていると言うふうに思っています。

未だに現場の警察官の方々に、パトカーにあえば、頭が下がるんです。
でも姉の問題は納得できないんです。
真実ではないからです。(涙)

「しおかぜ」の短波放送、10月の終わりから聞かせていただいております
今日からは家族のメッセージというかたちで、荒木さんが家族のメッセージを読み上げてくださいます。私は長い間その手紙を書けないでいました県民の皆様に、美保の状況を訴えることはできても、二十年間なかなか声を上げることのできなかった姉に対して、なんと言えばいいのだろう。かける言葉が見つからなかったんです。
やっとの思いで書いた手紙が、今日読み上げられます。荒木さんの暖かい言葉で。
たぶん美保は北朝鮮で聞いていると信じております。

数字だけで何の一致もしない、DNAでも・・
北朝鮮で美保を見たという方がいるんですけれども、私を見たときに姉の特徴をかなりはっきり伝えてくれました。

「あなたより肩幅がありますね。」「あなたの方が、お姉さんより大きいですね。」

それはいろんなところでそのことを伝えていないんです。そんなことを、その方は言い当てていました。

「バレーボールが得意で運動がとても得意な人でした。」(目撃者のことば)

姉だと思いました。
北朝鮮で、元気で、必死でがんばっていると思っています。

どうか姉の真実がはっきりするまで、また全国にいる拉致被害者、拉致の疑いのとれない特定失踪者のことがはっきりと、真実が明らかにされるまで、みなさまどうかご支援の声を上げ続けてください。

皆様の力で、ここまで世論を盛り上げて、政府を動かして参りました、どうか・・。
これは政治問題ではないんです。
私たちは、家族は政治問題を言っているのではないのです。
家族が家族に会いたいだけなんです。
家族にあわせていただきたいという思いを、皆様に理解してくださってここまで来たと思っています。

どうか、その声をゆるめないで、全員が救出されるまで、お力を貸してください。
よろしくお願いします。
本日は、本当にありがとうございました。(拍手)

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このエントリーのテキストは金木犀様の手によるものです。


ハイダールさんからのメッセージ

★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2005.12.19)より

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大阪と東京で開催される国民大集会参加にあたり、12月16日、レバノン人拉致被害者シハームさんのお母さん、ハイダールさんから下記のメッセージが英文で届いていますのでご紹介いたします。島田洋一救う会副会長訳。

■ハイダールさんからのメッセージ

 シハームは本当に優しい、いい子でした。娘によい教育を受けさせようと、私は一所懸命働きました。彼女の将来に多くを期待していました。父親は早くに亡くなりましたが、それを乗り越え、美しい知的な女性へと成長しました。娘は私
を大変愛してくれました。職業学校で学び、秘書として働くことを目指していました。自立し、母親を助けたいと願っていたのです。

 27年前のある日、娘が私に、日本で素晴らしい仕事が見つかったと言いました。月給も3000ドルぐらいとのことです。そんなよい仕事に就けるというので私たちは大喜びしました。夢が実現したのです。海外で働きたいというのが、
娘の子どもの頃からの望みでした。娘が日本に着いたら、私もきっと行くと約束しました。

 日本に向かう途中の娘から電話がありました。が、ベオグラード(旧ユーゴ、現セルビアの首都)からの電話だったことに、不吉なものを感じました。娘は言いました。「もうお母さんに会えないかも知れない」。一体何を言おうとしてい
るのか、理解できません。多分、知らない国で新しい生活を始めることに神経質になっているのだろうと思いました。「会えるに決まっているじゃないの。日本でひと月ぐらい一緒に過ごそうと話したことを忘れたの」。ああ、娘に何が起こったか、私には分からなかったのです。

 日本からの電話をいくら待っても、一向に掛かってきません。段々不安が募ってきます。私は、当時暮らしていたイタリアの警察へ相談に行きました。警察は、娘を捜すと約束してくれました。それから2、3か月後、驚くべきニュースがやっ
てきました。娘は、日本でなく北朝鮮にいるというのです!

 一体どういうことなのか、わけが分かりません。聞いたことすらないような国に、なぜ彼女は行ったのか。娘の身に何が起こったのか。私は怖くなり気が動転しましたが、地図の上でどこにあるのかさえ分からない所にどうやって連絡を取
ればよいのか、私に分かるはずもありません。私にできるのは、ただもう一度警察を訪れ、さらに助けを求めることだけでした。

 苦悩と不安に苛まれつつ数か月が経った頃、レバノンから知らせがありました。私のシハームが帰ってきたというのです! 私は彼女に会うため飛んで行きました。再び娘の顔が見られて、本当に幸せでした。政府当局者によれば、シハームを含む4人のレバノン人の女の子がだまされ、北朝鮮に連れていかれたとのことです。日本での素晴らしい仕事、000ドルの月給等々……、すべてウソだったのです。私は、北朝鮮がなぜそんな策略によって無垢な女の子をおびき寄せよ
うとするのか理解できませんでした。しかし、娘に会えた嬉しさが先に立ち、それ以上深くは考えませんでした。彼女は落ち込んで見えましたが、まだ若いし、すぐにこの悪夢を克服できるだろうと考えていました。

 数週間が経ち、私は再び娘のことが心配になってきました。精神的に参っていましたし、健康状態が非常に悪かったのです。ある日、彼女の目をのぞき込んで尋ねました。「一体何があったの」。娘は泣き出し、告白しました。あるアメリ
カ人男性の子どもを身ごもっているというのです。北朝鮮で自分を守ってくれた人で、もしその人と結婚していなければ、はるかにひどい扱いを受けたはずだというのです。

 私は衝撃を受け、頭が混乱しました。しかし自分を納得させようと努めました。今や、彼女には夫と赤ん坊がいる。今や、家族が出来た。そのアメリカ人男性は、娘によくしてくれているようだ。娘の性格はよく分かっている。ある人の子ども
が出来たなら、彼女は、その人と結婚し生涯を共に暮らすことを選ぶ。だから結局、私は、娘が男性の待つ北朝鮮に戻ることを許したのです。

 ああ、大きな、おそるべき誤りでした。北朝鮮がどんなところか知っていたら、決して娘を行かせはしなかったでしょう。警察を呼んででも、娘を止めにかかったはずです。

 娘は27年間、北朝鮮で暮らしています。その間、ほとんど会っていません。一度私は北朝鮮に行きました。娘に幸せな様子はまったく見られませんでした。北朝鮮側が何を隠そうとしたのか知りませんが、娘の家を訪れることすら許され
ませんでした。彼らは一軒の家を用意し、そこを私と娘、娘の家族の滞在場所にしました。どこへ行くにも、当局の人間が付いてきて私たちを監視していました。娘は生活について悪いことは一言も言いませんでしたが、私には彼女が何を考え
ているか分かりました。見送りに来た空港で、娘は泣きつづけました。

 娘からは、年に一度、ふつう、私の誕生日に電話がありますが、ほとんどしゃべろうとしません。ただ私に大丈夫かと尋ね、自分たちは大丈夫だというだけです。彼女が話せないことは分かっていますから、こちらからも多くを聞こうとはしません。

 でも娘の身体を案じています。健康状態が悪化しているのです。本当に心配でたまりません。かたわらで看取ってやれないまま娘は死ぬのではないか、私が死ぬとき娘はそばにおれないのではないか、そんなことを考えてしまいます。運命
を受け入れる以外ないのかも知れません。

 北朝鮮は、私の娘の人生を台無しにしました。彼らは、娘の夢に付け入ったのです。外国で働き、きちんとして仕事に就き、お金を稼いで私を助けるというのが彼女の夢でした。彼らは、娘の純真さに付け込み、私たちの夢を破壊したので
す。シハームとその母、私の夢をです。引退した後は娘とともに暮らすというのが私の夢でした。いま、私はレバノンに一人でいます。

 娘は何千マイルも離れたところで、夫に先立たれ暮らしています。シハームは、私のたった一人の子どもです。私は、娘と、孫と一緒に過ごしたいのです。

 彼女がレバノンに帰ってきた時、どうして支えてやればよいのかは分かりません。レバノン政府は助けてくれないでしょう。娘を北朝鮮に帰したのは、あなた自身の判断ではないか。政府はそう言うでしょう。レバノンに、私を支えてくれ
る人はいません。だから、私は娘を取り戻すという望みをほとんど捨てかけていました。

 しかし、今回、日本で多くの人と知り合うことが出来ました。痛みを共有し合いました。いつか娘と暮らせる日が来るという希望を、私は再び得ることが出来ました。日本やタイの人々と力を合わせ、娘たちと母親たちが、息子たちと父親
たちが、再びともに暮らせるよう頑張ります。

 最後にもう一度、日本の皆様にお礼を申し上げます。皆様の支援なしには、私が娘を取り返すことなどありえないでしょう。本当にありがとうございます。
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