2006年02月20日

イデオロギー談義は正直飽きてます

私が自分の時間を削っても救出活動に関るのは、拉致と言う理不尽な犯罪行為によって苦しむ家族を救って差し上げたいからに他なりません。
しかし、この問題は単なる誘拐事件とは性質が違う。
国家による犯罪行為は、突き詰めて考えれば国家主権とは何ぞや?人権とは何ぞや?という、日頃は余り意識しない難しい問題に直面する事になります。
戦後の日本が長らく放置してきた、この国の闇について考えねばならなくなります。

被害者を救うためには、ただ単純に「助けてください」とお願いしているだけでは不足があります。
黙って待っているだけでは正直な所、この日本と言う国は政治体制も国民世論も、被害者を救うための実効的な行動を中々起こしてくれない国なのです。
動かぬ政府の尻を叩き、世論に日本の抱える闇を理解してもらう為には、救出運動は一歩踏み込んだ政治色の強い発言をせざるを得ない事もある。

この救出運動は何かといえば救う会の右傾化が問題になり批判されます。
実際問題救出運動の現場で汗を流して活動している人の多くは、保守・右寄りの思想傾向を持つ人が多い。
いきおい救出運動は、時に天下国家を熱く語る憂国運動へとはみ出してしまう事が間々有ります。

それを嫌って批判、懸念の声を上げる左の論客がいます。
彼らの言い分にも確かに一理はある、とは思う。
でも総じて感じるのは、左の論客は批判の為の批判に終始した机上の空論が多いのではないか?と言うことなのです。
右翼・右派・保守派と呼ばれる人のあり方に一部問題があるのは、私も認めます。
でもそれを言うなら、ウヨクの揚げ足取りばかりに夢中になって、実の所は何もしない左翼・サヨクは、何様なのか?と、正直な所私は思う。
左の論客が寄って立つ社会主義・共産主義の矛盾には目をつぶり、戦後日本が抱えてきた闇に目をつぶったまま、右派の論の矛盾ばかりを突いても、説得力は無いだろうと感じるのです。

先日の東京連続集会で、増元さんは奇しくもこんな事を仰いました。

「今、家族会が圧力団体になっているのではないか?と言われているそうですが、本当に圧力をかけられる団体だったらそうなってみたいですね。
それだけの力を持って小泉さんの政策に対して大きな影響力があるんだったら、私はなっても良いですよと言うふうに思いますけども。
私たちは普通の事を言ってるだけで、家族を取り戻すために日本として当たり前の事をやってくださいと言ってるだけで、それを圧力団体と捕らえる方がおかしいですよね。
本当に。」

言い得て妙です。
今の日本で政治の場に一番強力に問答無用の圧力をかけているのは、総連だの財界だのと言った金も組織も人脈も下心もある、巨大組織の方ではないのでしょうか?
風が吹けばあっという間に飛ばされてしまうような弱小組織の家族会・救う会に、圧力団体としての存在価値があるのなら、とっくの昔に経済制裁の発動くらい勝ち取ってるはずでしょう。 
家族を救って欲しいという願いに反して、中々実行力のある策を行使しない政府に対し、彼らが一歩踏み込んだ発言をするのは止むを得ないのでは?と思っています。
ただ今までの日本の風潮として、政治色の強い議論や主張を本能的に警戒するムードがあったのは事実。
それゆえに、家族の発言は過激に過ぎると嫌悪する人がいたのも現実なのでしょう。
が、これとても、結局は家族の置かれた現状も日本の政治の現状も正しく見極めようとしない、狭い視野ゆえの狭い反応ではないのか?と私は思います。

戦後に日本は長らく平和のぬるま湯の中に首までどっぷり浸かって来ました。
もともと表立って争う事を好まない国民性でもあるゆえに、どんなに正当な理由があっても過激な発言をすればそれを聞いただけで嫌悪される風潮も有りました。
しかしそれに苛立って、撃てど響かぬ世論に対し、彼らを高い所から見下して罵倒するような論を展開する一部の右派・保守派の存在もいかがな物か?と私は思う。
「国家の一大事に直面した時、何をなすべきかパッと浮かぶのが当たり前」と言う高飛車な論理を振りかざしても余り意味がないと思います。

「何をなすべきかパッと頭に浮かぶ人」は、すでにとっくに被害者を救うための行動を起こして支援の輪に加わっているはずなのです。
問題なのはいまだ平和ボケのぬるま湯の中で寝たままの人、政治色の強い運動・活動に本能的・直感的に警戒心を持つ人達に対して、どのように働きかけをするか?と言うこと。
彼らを目覚めさせ日本の危機を自覚させ行動を起こしてもらう為には、それなりの手順を踏んで拉致問題の実情を説明するより他に無い。
でも、この理屈が「パッと浮かぶのが当たり前」と豪語する一部の右派・保守派には、どう説明しても理解してもらえないのです。

良い議論を重ねようと思ったらその前提として、拉致問題の現実・北朝鮮の現実あるいは小泉総理の現実、そして日本の現実をきちんと見極めなければなりません。
でも、右であれ左であれ、イデオロギーの呪縛に絡め取られた人の中には、議論の前提となる正しい現状の認識ができていない人が少なくないように感じます。
自分の狭い視野の中でいくら物を考えても、議論は深まりません。
イデオロギーの呪縛に絡め取られた議論は結局の所、相手の誹謗中傷や罵倒合戦にしかなり得ないというのをいやと言うほど見てきました。
どうしてこういう不毛な議論を延々と続けなければならないのだろう?

イデオロギーであれ宗教であれ、思想と言う物はそもそも人間を幸せにする為にあるもの、と私は思っています。
でも、どんなに立派な御託を並べた所で、肝心要の被害者救出に結びつかないのでは、何のためのイデオロギーなのか?
拉致問題に例えるならば、苦しむ被害者を救えないイデオロギーって何なのさ、と私は思う。
議論の為の議論などいくら重ねても時間の無駄ではないのか?と最近とみに思えてなりません。
イデオロギーの呪縛に囚われ、右は左を左は右を揶揄して憚らない。
でもそんな水掛け論をどれだけ重ねたとて、被害者救出には一向に近付かない。

正直、私はイデオロギー談義には飽きてしまいました。
サヨク独特の思考回路に縛られている人たち。
またはウヨク独特の思考回路に縛られている人たち。
イデオロギーの枠に囚われて思考を広げられない人たちと言うのは、結局の所どっちもどっちの同じ穴の狢ではないんでしょうか?

議論をすることを否定はしません。
けれど、自説をのたまう事で『救出活動をやったような気になっているネット言論人』の存在には正直ウンザリしています。
そんな人たちがいくら机上の空論を口から泡を飛ばす勢いで戦わせたとて、それが何の足しになるというのか?
ネット上でイデオロギーがらみの論争を見かけるたびに、気分がしらけて溜息ばかりこぼれる自分がいます。
そして一言言いたくなるのですよ。
その論争、日に日に憔悴していく家族の前でも言えるんですか?と。

20年も30年もの長い間、引き裂かれたままの家族がいます。
彼らの苦しみを、このまま放置していて良いんでしょうか?
被害者を救えないような、情けない国のままで良いんでしょうか?
被害者を救うために、私たちは何をするべきなんでしょうか?
この国のあり方をどうするのがベストなんでしょうか?

議論の為の議論に終始するのではなく、ROMのままで満足しているのではなく、どうすれば被害者救出に近付くのか?それぞれが真剣に考えて欲しいと思う。
そしていつまでも立ち止まったままでいるのではなく、ささやかな事でもいいから自分に出来る何かを行動で示して欲しいと心から願うのです。
家族にも被害者にも残された時間は少ないのだと言う事を、忘れて欲しくは無いのです。


posted by ぴろん at 14:38| Comment(20) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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