2007年04月02日

07.3.10 石高健次氏2 日本再生フォーラム講演会(2)大宮JACKビルにて

日本再生フォーラム 第20回記念講演会
拉致問題を通して日本のあり方を考える・第9弾
07.3.10 大宮JACKビルにて

『石高健次氏(家族会顧問・朝日放送報道局プロデューサー)の講演 その2』

Img_4843.jpg

それを聞いて、そのときは引き下がりましたが、逆に、家族をここまで苦しめている拉致をなんとかしなければと強く思いました。

原敕晁さん拉致から始めたこともあって、辛光洙の共犯だった金吉旭(キンキルウック) 金は去年4月に、去年の4月ですよ、ようやく拉致で国際手配されました。
95年月、彼が済州島にいました。

自宅を突き止め、前で張り込んで直撃インタビューしました。
最初、『誰にもわからないんだ。わからないんです』と言いながら逃げ回りました。
私は『原敕晁さんという一人の人の、生き死にが未だにわからないんだ。』とマイク片手に叫び続けた。正直、気持ちとしては、ふんづかまえて、首根っこつかまえてですね、殴りつけても、真相を喋らせたいという心境でした。しかし、それはできません。彼は辛光洙と一緒に捕まりはしたけれど、その後恩赦・減刑で出所し一般市民でしたから。

逃げ回るのを追いかけていると、10分もしなかった。金吉旭は突然路上にしゃがんで考え込んだ。と、泣き出したんですね。声を上げて大泣きしました。

そして、原さん拉致を全部認めた。
韓国では、国家保安法違反、スパイ容疑で捕まっているんですけど、韓国人であれ外国人であれ、誰かを誘拐して北朝鮮に連れて行った場合は、国家保安法の規定で立件しないとならない。ですから辛光洙と一緒に共謀して、原敕晁のどういう拉致をやるか話をしたとか。捜査資料とか、裁判の陳述書に詳細にでてきます。大阪市内の喫茶店の名前も出てきます。
その点について、『あなたが裁判で言ったことは、本当か? ホントにホントなのか?』ということを聞きました。
彼は、はっきり『そうです。その通りです』と静かに言って頭を下げた。最後に原さんのことを『本当に気の毒なことしました』と。

このときに、憎っくき拉致犯なんですけれど、私が思ったのは、ある意味で、彼もまた、被害者だったと。南朝鮮革命という幻想にとらわれたゆえに、利用され使い捨てられた兵隊の駒に過ぎないと。
あの大泣きは、彼の良心がそうさせたのだと思います。ずーっと心の中で気の毒なことをしたと思い続けてきたが故に大泣きをして認めたんだと。

このときです。私が拉致は本当にあるんだと確信したのは。

お手元の資料、『人脈記』(朝日新聞ニッポン『人・脈・記』安倍政権の空気A平成19年3月6日付)という記事に、95年に『闇の波濤から 〜北朝鮮発・対南工作〜』というドキュメンタリー番組のことが書かれています。今申しました一連の取材をまとめたものです。

全国ネットで95年の5月頃に放送しました。原さん、海岸のカップル、田口八重子さんら13人が拉致されているのは間違いないという報道です。
しかし、残念ながらまったく全く反響がなかったんです。他の社からの問い合わせもない。黙殺というのは、こういう事をいうんだろうと思います。
世間は、たぶん、『そんなことあるだろうか、なんだ、嘘だろう』と受け止めたのでしょう。日本人をい拉致していったいなにするんだと。番組では教育係にするとか成りすましとか言ったんですが、信じてもらえなかった。
この『闇の波濤から』というのは、最初に拉致を客観的に実証した報道だったんですけどね。
いいえ、ただひとつ反響がありました。
韓国のKBS=放送公社が、韓国語に翻訳したものをで放送したいといってきた。95年11月、日曜のゴールデンタイム、夜8時から、1時間20分ぐらいですかね、『闇の波濤から』を放送してくれました。1ヶ月経たないうちに、北朝鮮の、これは安企部の人から私は聞いたんですが、ラジオが、朝日放送名指しで『あれはでっちあげだ』とやっていた。
反響があったのは、北朝鮮だけという非常に寂しい結果でしたけれども。(会場笑い)

これで、すべては終わると思っていました。
ところが、また偶然があった。
この5月の『闇の波濤』を、朝日新聞の出版局の人が観ていたんです、東京で。私の所に電話ありまして、『あの話は、本当ですか?』というふうに聞かれました。
『本当ですか?』と聞かれて『嘘かもしれません』とは答えなかったですけど。(笑い)
『それでは記録として残したいし、やっぱり訴えていきたい』と。朝日新聞の出版局というのは、新聞とはまた違う物差しがあるんですね。アエラもそういうところがありますよね。
それで5月の放送は、終わったんですが、本を書くために、また取材を続けたんです。
それが、横田めぐみさん拉致発掘につながっていった。

95年6月、KBSの放送の前、ソウル、明洞の繁華街でした。
韓国情報機関の高官から、『子供が拉致されているようだ』ということを聞いたんです。
それは、当時13才、学校でバトミントンの練習をした帰り、双子の姉妹の妹、76年か77年と。

石高『え?子供もやられてるんですか?』
石高『名前は何というんですか』
高官『わからない』
石高『どこの話ですか』
高官『それもわからない』

この情報を韓国にもたらしたのは、これよりちょっと前に亡命していた北朝鮮の工作員です。その人は横田めぐみさんと話をして聞いたのでしょう。場所は平壌の病院。めぐみさんが心を病んで二度目の入院をしている時だった。秘密の病院にその工作員もケガをするとか、何らかの事情でいたのでしょう。
身の上話かなんかをして13才、バトミントン、双子の姉妹の妹、ということを聴き、後に亡命した。亡命者の情報を吟味するのが、情報機関の仕事なんですけど、『彼が言っていることは、間違いないと思う』と。ところが、どこの誰かを亡命工作員彼も聞かされていない。
彼女が(めぐみさんが)、その亡命工作員に語ったのは、『拉致され、一生懸命勉強して朝鮮語を5年以内にマスターしたら、親の元に返してやる』と言われた。だから、少女は一生懸命朝鮮語を勉強した。ところが、18才になったときに、『返して欲しい』といったけども、ダメだと言われた。何度も懇願したが許してくれなかった。それで心を病んで、病院にかかっていた。
そこで、後に亡命する工作員と身の上話をしたわけです。
なぜ名前を言わなかったんだというふうに不思議に思う方がいらっしゃると思います。
しかし、これと似た例があります。
金賢姫の口から出た拉致女性「李恩恵」。田口八重子さんと後にわかりますね。今お兄さんここにいらっしゃいますけれど、金賢姫と田口さんは日本人化教育のために1年8ヶ月ぐらい一緒に過ごした。しかし、田口さんは自分の名前は告げていないんです。
言うと、自分の身が危ないと。おそらく、そういうことがハッキリ分かっていたのでしょう。田口さんもめぐみさんも。

この情報をもたらした人は安明進とは違います。未だに表には出てきていない。韓国サイドに今まで何回も会わせてくれと言い続けてきましたが、未だに表に出さない。

その後、96年10月に朝日新聞から『金正日の拉致指令』という本を出しました。このときに、「少女拉致」の情報を書こうかどうか迷ったんです。結果的にはこの情報を書きませんでした。
何故かと言いますと、子供がやられている。13才、あまりにも荒唐無稽。95年の5月に『闇の波濤から』を放送したときに黙殺された。こういう事を書けば、13人がやられているという、他の拉致被害者のことも、また嘘だろうなんかいい加減な話だろうと思われのではと考え、この話は書かなかったんです。この時点では、横田めぐみさんという所にはたどり着いていません。

本の出版とともに広告が出ました。『現代コリア』という雑誌から、その本の紹介記事を書きませんかと声がかかりました。そのときまで、全く私は面識ないんですけど。
『現代コリア』の10月号に、『私が金正日の拉致指令を書いた理由』という記事を書いたんです。
10月号なんですが、何かの都合で遅れて11月の始めぐらいに出ました。

なぜ、私にその情報が入ったかと言いますと・・・。
実は、私にその情報を私に告げる以前、韓国安企部の高官は、日本の警察のある官僚に、『子供が拉致されてるらしいぞ』と通報していた。これは、公式通知ではなくて担当者が個人的に電話をして、日本の女性がやられているから調べたらどうですか。それが春のことなんですね。

その警察官僚は、オンラインで叩いてみたが出てこない。5年以上経った記録は、消えてしまうので、中央では。で、そんなの見つかりませんでしたという返事をしたんですね。これもまたそういう官僚の体質の話なんですけれど。

その後3月にオウムのサリン事件がおきるんですけれど。もう一度、韓国安企部の担当官は、連絡をいれて、『いや工作員のもたらした情報は間違ってないと思う。他のことも色々チェックしたが嘘はついてない。もう一回調べたらどうですか?』というのを、今度は放っておいた。

そんな状況のとき、拉致があるのかどうかとワーワー言ってる日本の記者が一人いたなというのをたぶん思い出されたんでしょう。
こちらから願い出て6月23日、明洞(ミョンドン)の居酒屋でこの安企部の人と会った際、「少女拉致」の話が出てきたのです。

話は96年に戻りますが、『現代コリア』に記事が出た直後、12月になって、新潟の「ニュー越路」という公務員宿舎で、佐藤勝巳さんが講演なさって、そのあとの親睦会で、まぁ、こういう記事がうちの現代コリアに載っているんですけどと言ったときに、『それは、横田めぐみだ』ということになったわけです。

それが私の所にも入って−−この間に紆余曲折があるんですが−−、名前がちゃんとわかったのが、97年の1月7日、報道される一ヶ月前です。

それで、1月の末に、兵本さんに横田滋さんは日銀の行員だったと私が言いまして、彼は議員秘書の威力でOB会名簿を出させ、電話番号を割り出した。それで、横田さんのお父さんと議員会館であって、そこに私が電話を入れました。
川崎のご自宅へ伺ったのが、1月23日だったです。まぁ、こうして、当時で20年近く空白があった、横田さん夫妻に『娘さんは、拉致されて平壌で生きている可能性がある』ということを伝えたわけです。

このときに、私は報道を控えました。理由は、横田さん宅にめぐみさんのいろんな写真がありましたから、その写真と、適当に少女ファッション雑誌からとった写真とをもって、この情報をもたらした工作員に、確認をしたかった。それをさんざん、韓国政府に要請しました。
でも、その亡命工作員は、まだ公表できないからダメだと言われて、それは、未だに会わせろと言い続けているんですけど。その確信をとるまでは、私は報道しないと決めたんですね。

それは、このときも、世間が信じて国が動いてくれればいいけど、95年の『闇の波濤』放送のときのように、中途半端におわれば、拉致の証拠であるめぐみさんやその情報をもたらした亡命工作員の家族が、抹殺されるかもしれない。そういうことを考えて、最低、写真で、この工作員に確証をとるまでは、それこそ報道を控えたわけです。しかし、現代コリアの筋とか、西村眞悟さんや、アエラ関係に話が漏れました。いずれの方とも、電話で話をして本当に国が動いてくれるんだったらいいけど、今の状態では、慎重にやってくれということを言いました。1月の30、31日ですね。

ところが、2月3日、これ月曜日だったんです。この日が発売日のアエラが、私が、こういういきさつでみつけたということ。それと産経が出て。その後、午後三時台だったか、西村眞悟さんが、衆議院予算委員会の総括質問で、私が書いた記事と現代コリアの記事と、新潟日報の女子中学生下校途中に行方不明というのを並べて質問された。衆議院の予算委員会総括質問というのは、NHKで生中継されるんですね。やると直前にわかっていましたから、昼のニュースから我々も報道していった。

こうして、横田めぐみさんが、拉致されているということが世に出たわけです。

その直前から、兵本さんと私と手分けして、有本のお母さんには、みなさんの電話番号教えて電話してもらい、被害者家族に会を作ろうと呼びかけを始めた。
被害者家族は、カップル男女の家族は別にして、互いに何のつながりもなく、孤立しておられた。

3月の25日、朝日放送東京支社のあった芝公園の近くの安い都営の会議室、アジュール竹芝にみなさんを集めて家族会を結成しました。
翌日に警察庁に誓願を出しまして、外務省にも行きました。このときに、マスコミ各社が報道してくれたこともあって、対応に出たのが、アジア局長です。今はアジア太平洋局ですけれど、加藤良三局長が対応しました。

その辺りから、政府の対応は変わってきました。
しかし、川崎の駅前で、横田さんたちが署名活動されるんだけど、まぁ、そうですね、半分以上の方は、素通りだった。
「なんだ、これは? 拉致? 何が起きているんだ?」「こどもさん、どうかしたの」って感じでちょっと聞きながら、通り過ぎて行かれる方が、多かったのを覚えています。

めぐみちゃん拉致を発掘報道されるまでの話を長く時間をとって、やらせていただきましたが、そういう所を通じて、ほんとに官僚たちの事なかれ主義、政治家の無責任さというのを私は痛感してきました。

もう一つ具体例をいいますと…。
宇志津事件というのがあります。石川県の能登半島で、久米裕さんという三鷹市役所のガードマンが密貿易で儲かると騙されて海岸に連れて行かれて拉致されるんですね。それを石川県警公安課が、李という実行犯を外国人登録法違反で捕まえる。彼の口からは、拉致のことが出てきたんですね。それで、現場の人たちは東京に海外移送目的の誘拐罪、つまり拉致で立件したいと願い出た。本人が誘い出して連れて行ったと自供しているわけですから。
東京の警察官僚は、『そんなことをすれば戦争になりかねない』っていって押し留めたらしいんです。要は、及び腰で、ビビって、折角の拉致犯逮捕を闇に葬った。結果、彼は外国人登録証を携帯していなかったとそれだけのことで、結局あれは、裁判にもならなかった。

裁判をすると、警察の方は警察の方で、いろんなことで集めた資料が公開されたら、その先情報がとれなくなる。そんな論理が中央に働いたようにも聞いています。
拉致で立件していれば、それで警察が動いていれば、二ヶ月後のめぐみちゃん拉致は防げたのかもしれない。
そういうことを考えますと、現場で頑張っている刑事はいられるんですね、それが中央に行くと、なんかこう、潰されちゃう。これが正に、官僚の事なかれ主義だと思います。

それと政治家の無責任。
拉致問題に手を染めても票にならないと。利権に結びつかないですよね。北朝鮮と国交樹立すれば、利権に結びつく場合もあるでしょうけど。
そういうものに対して、政治家というのは、本当に動かなかったのです。

そういう意味では、拉致が出たときは、橋本龍太郎総理ですね。小渕さん森喜朗さんが後に続いた。
結局誰も、北朝鮮に認めさせるということが出来なくて。小泉さんのことも、色々批判もありますが、拉致の入口をこじ開けたという点では、やっぱりよくやったと僕は思います。
やり方が、もっと全体と関連させて、何故出来なかったんだろうかと口惜しいこともありますが。

そういう長いこと、政治家も動かない、官僚もやらなかった中で、北朝鮮にいる被害者はもちろんですが、家族の方も、本当に辛い思いをなさってきていて、横田さんであれ有本さんであれ、今現在も、我が子が生きているか死んでるのかわからない辛い毎日を送っておられる。
これの辛さは、もう、いなくなった日と、同じ気持ちなんですよね、めぐみちゃんでもう30年なりますけれども。有本さんで24年ですか・・・。
連絡が来なくなった、突然消えた、そういう心が引き裂かれるような痛みを、20年、30年ずっと持ち続けておられるのが、被害者家族の方たちなんです。

これはもう、ほんとうに、早紀江さんが最近、記者会見で『こんな状態で、普通の親であれば、半狂乱になりますよ』とおっしゃっていましたが、本当に辛い、生殺しの状態が続いている。

それとまぁ、最後の方になりましたが、なんていうんですかね、最近の安倍さんに対する期待は、すごく大きいですし、安倍さん自身、一生懸命何とかしようという気持ちでやってらっしゃるのは、ありがたい。
ただ、最近ちょっと、えー?っと思うことがありました。
拉致の家族の方達と一緒に頑張ってくれとやるのは良いんですけど、この前、めぐみちゃんが帰ってきて欲しいということで、有名な歌手、PPMのポールストゥーキーさん、私も10代で彼が大阪に公演にきたときに見に行ったことがあるんですけど。彼が歌を作って、それを官邸で、安倍さんとかが一緒に聴かれた。
僕はそれを聞いて、非常に複雑な気持ちになった。そういうことやっている場合ですかと。

家族の人たちは、僕らもしょっちゅう会食したり私自身も有志を集めて、元気づけとカンパ集めのためにチャリティーコンサートをやったりします。外国からも、有名な音楽家が協力してくれて最後に皆で『ふるさと』を歌ったりしますけれど、総理大臣が、官邸で、一緒になって、コンサート聴いていて良いものかと。
もっとやることあるだろうと。ちょっと、なんか、「えっ?」とおもいましたね。

それと昨日のお昼、共同通信が流したんですけど、政府が1億500万円の広告費を出して、政府は拉致問題解決のために頑張りますと、そういうキャンペーン、公報をテレビを使ってコマーシャル流すという。1億500万ですよ。
「え?どうなってるんや」と。
現にこうやって皆さん今日も熱心に聞いていただいて、テレビや新聞で、拉致はとんでもないことであり、国はなんとかせにゃいかん、政府がなんとかせにゃいかんと、国民はわかってるわけですよね。
わかっているのに、なんでそんな、わからせるための広告が必要なのか?

1億円があれば、いろんな情報、拉致解決につながる情報を集めて欲しい。どれだけの人間がやられているのか?あるいは、今、中朝の国境地帯で警備がゆるんでいるうえ、国内も身分証で自由に移動できるくらいになっていますから、被害者を脱北させて救出させられるかもしれない。そのために1億500万円を使う。
それなら、私はわかります。
でも、政府がここまで頑張ってやっています、拉致について我々は絶対に諦めない、やりますからというメッセージのコマーシャルを流す。これ、一億500万。これ、みなさん、どう思いますか?一億500万、僕は、ちょっと違うんじゃないかと思います。

そんなことを思っていて、ふと昔の、ある光景を思い出しました。
97年、横田さんのことが出て、2月7日に、横田さん夫妻が、院内、つまり国会の中の、新進党、衆参両院議員総会に行かれて、訴えられたんですね。『自分たちは、一民間人なんだと。国交もない国に行って、探したり連れてくることはできないので、政治家の皆さんの力をお借りするしかありません』と頭を下げて、頼まれた。
と、そのときに、議員席から女性のちょっと高い声で、『がんばってねーーー』と言う声が聞こえたんです。横田さんに対してですよ。
これ、政治家ですよ。このことを今思いだした。何と無責任なんだ。
頑張るのは、あんたたちだろう。横田さんは、心配で家でずっと耐えてきた。『もう、あとは私たち政治家がやりますから、じっと体を休めてください』というのが筋じゃないか。
頑張るのは、君たち政治家だろうと。
そのとき、本当に何とも言えない怒りみたいなものを覚えたんですね。
そのことを、なんか、最近思い出しました。

それと、最後にこういう拉致が、何故、未だに、表に出てから10年たっても解決できないのかということを考えたときに、私が思うのは、日本という国には、やっぱり、なんていうか、牙がないんですね。
牙というのは、例えば人は、何か理不尽なことをされたときに、何をするのか!と。言葉だけでだめだったら、ときには殴ったりするでしょう。
国と国では、話し合いだけなく軍隊を派遣するぞという。そういうことが、日本の場合、歴史の流れに於いて、悲しいかな、ある意味と必然的にそうなったと私は思うんですが、牙をむけない国になっている。

アメリカだったら、イランのアメリカ大使館に、職員等が監禁されて、ヘリコプターが救出に行って、
これは、砂嵐で失敗しましたが、最終的には、取り返した。
たとえば、拉致があったら、アメリカなら、空母を東シナ海の北朝鮮沖に浮かべて、話し合いでまず解決しようとするでしょう。被害者を出さなければ、攻撃すると。その前には、経済制裁、勿論どんどんどんどんやっているでしょうけど。
そういう意味での、牙と言いますか、爪というか、そういうものが、やっぱり日本にはない。
やっぱり、アジアを植民地支配した後に戦争に負けて、戦後は平和憲法というのが出来て、結局、なんか言うだけで、靖国神社うんぬんと言うだけで、周りの国は、ワーッと言う。それに対して、胸を張って、日本のやる安全保障の道といいますか、そういうことを堂々と言い返せないできた。安倍さんになって少し変わりつつあるようですが。
結局、なんですかね、その、言われっぱなし、やられっぱなし、足下をみられている。北朝鮮なんか、いくらなめてかかっても、日本は攻めてこないと、わかっているんでしょうね。アメリカはそうじゃない。その違いが、拉致というものの解決を阻んでいる構造だと思います。
で、それはどこから来たかと言いますと、繰り返しますが、植民地支配をした結果、連合国軍に負けて、そのあと、正に武装解除をされて、牙を抜かれて、そして平和憲法といわれる憲法ができて・・・。一方で、アメリカが護ってくれているのを尻目に経済発展をしてきた。ふっとみたら、国防とかそういうことは、全然自分たちの力でやってこなかったんです。

これは、我々マスコミも自戒を込めて、自分たちもやっぱり力がなかったと反省しておりますけど、国防論議ということすら、日本のメディアというのは、長年タブー視してきた。
国家安全保障、国防というのは、正に拉致被害者とか名もない何の罪もない一人一人の国民を守るということなんですよ。
これはみなさんどんな人でも、家族を護りたいとか故郷の同級生、友達を護りたい。いなくなったら、何とかしなければいけない。そういうことの集合なんですね、国家安全保障というのは。そういうことの集合だと思います。そのために何をしたらいいのか、真正面から、やっぱり、考えていかなければいけない。
戦後、おざなりにしてきたメディアの責任も大きいです。

そういうことが、今拉致が、全然出口がみえてこない背景にあると思います。

拉致解決について、アメリカに頼るというのも、考えてみれば、情けないことなんですよね。横田さんが、副大統領にあったり、ブッシュにあったり、アメリカの政治家にあって頼むというのは、追い詰められてそうせざるを得ないんですけど、それを第三の独立国家が見たら、やっぱり、心の底では、「日本という国は、自分の国民が奪われて、なんで被害者までがアメリカに頭を下げなければならないのか・・」と。それ自体で、またなめられるという気がします。

ですから、イラクへの派兵で自衛隊はサマワに行きましたけれど、考えてみたら、それより、二十年ぐらい前ですかね、カンボジアのアンタック、PKOとかで派遣するときに海外派兵は憲法違反だとかものすごかった。それが、だんだん、国民的な合意も出来てきて、イラクに軽いにせよ軍隊の装備を持って出て行った。
これは、北朝鮮からすれば、牙のない自衛隊がよく出て行ったものだ、と少しはプレッシャーになったのではないかと思います。
だんだん、まともに安全保障を見つめていこうという意識は高くなってきているんだけれど、同時並行で、国民の、国や自分の家族を護る意識みたいな、そういう個人個人の内面からの意識も沸き起こってこないとだめです。
いくら物だけ、兵器や道具、ミサイルだけ、そろったって…。

今日はこういう話の機会を与えていただいて、本当にありがたいと思っています。それは、みなさんが、やっぱり、正に、めぐみちゃんとか、田口さんとか、有本さんとか、そういう人がどうなってるんだ、どうしたら解決するんだという意識で来られているからです。
正にそういう意識があることが国を護っていく、そういうことを繰り返させない、あるいは、解決する。そういう流れになっていくと思いますので、これからも、ずっと関心を持ち続けてやって欲しいと思います。
今日はどうもありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエントリーのテキストはblue-jewelさんの手によって起こした物を、石高氏ご本人に目を通していただいた上で公開をしています。


07.3.10 石高健次氏1 日本再生フォーラム講演会(1)大宮JACKビルにて

日本再生フォーラム 第20回記念講演会
拉致問題を通して日本のあり方を考える・第9弾
07.3.10 大宮JACKビルにて

『石高健次氏(家族会顧問・朝日放送報道局プロデューサー)の講演 その1』

Img_4827.jpg

みなさん、こんにちは。(会場から こんにちは!の声) 再生フォーラム方に、去年(12月北朝鮮人権週間のとき 参照「映像とシンポジウムで語る北朝鮮」)に、埼玉、彩(さい)の里で幾つかのシンポジウムがありまして、取材にきました。その際の懇親会で、『一回講演で来ていただきたい』という話がでました。『3月だ』と。『だいぶ先の話だなー』とこっちは目先のことに追われる毎日なんで、先のことだなーと思っていたんですが、今年に入って、竹本さんから電話がかかってきました。その電話に非常に力が込められていまして、『これはもう、3月の今日の10日はいかなくてはいけないな』と思って参りました。石高です。どうぞ宜しくお願いします。(拍手)

私は一(いち)ジャーナリスト、一記者ですので、いろんな日本の外交、政治のこと、専門家ではございません。
ただ、マスコミの一端におりますので、社会に埋もれた事実を発掘して、不特定多数の人に、それを知ってもらう、そういうことで、もう、32年ほど記者をやってきました。
今、拉致問題というのは、厚い壁にぶつかっています。
横田めぐみさんの拉致を突き止めて、報道したのが、ちょうど、10年前です。
10年経って、まだ先が見えないときに、原点に返ってもう一度考えてみるというのも、大切ではないかと思いまして、その原点で、動かせていただいた私の話が、何かの、みなさんの力づけなり役に立てばと、そういう気持ちで大宮に参りました。

ジャーナリストというのは船でいうと、ウォッチといいますか、ブリッジの上にいて前方周囲を監視する。双眼鏡を用いたり肉眼で見たり道具を駆使して、船が進む前方に何があるかを、しっかり見る役割なんですね。船を操船するのは船長なり機関士がおります。いわば、船長が今は安倍総理で、私なんかは、右の方になにか氷山の固まりがあれば、タイタニックみたいにならんように、『右の方にあるぞ』と言ったり、左の方に、何か、狭い浅瀬があるようだったら、それを知らせる。船長は、うまく船を操って、ぶつからんようにするのが役割。

そんな仕事の中でいろんな偶然から、横田めぐみさん拉致というのを突き止めまして、世の中に知らせたわけです。
それが船長=総理大臣はじめ政治家の知るところになったんですが、未だに先が見えない。めぐみちゃんが生きているのか死んでいるのか、北が死亡と言った8人の状況が全くわからない。向こうには、おそらく100人を超す拉致被害者がいるであろうと思います。彼らも含め、どう解決して良いのかということがわからない。

今日は、拉致問題の発端の最初の話。どうやって、めぐみさんの拉致が出てきたのか、その時の日本の政治、あるいは外務省、警察官僚たちはどうだったのか。その原点の話を、まずさせていただきます。その後、今の状況、これから一体、どうしたらこれは解決できるのかという、そういう内容で、私なりに話をさせていただきます。

世の中が拉致というのをはっきりと認識するのは、2002年に小泉総理が平壌に行って、金正日がそれを認めて、謝ったあの時からだと思います。まず拉致された被害者本人5人が帰ってきて、日本の人は、ほとんどが『あ、拉致というものが本当にあったんだ』というふうに、気づいたのだと思うんです。

実は、私が拉致を頭の中で意識して、これがあるのかないのか。拉致というのは、いったい何のために行われるのかと。全くそういうことがわからない状態で始めたのが、94年なんです。

97年、めぐみちゃんにたどり着くまでは、本当に、<孤立無援>と言いますか、全く誰も振り向かない状態で、取材をしておりました。その一番とっかかりが、91年。
日曜朝の「サンデープロジェクト」が、89年に立ち上がって、その当時、特集コーナーのスタッフをしておりました。今は、担当ははずれておりまして、さっき紹介の時に、前に出した本に書いてあったからそういわれたのでしょうが、その点、訂正させていただきます。

まさに、正にこのサンプロがはじまった2年後の91年、最初の北朝鮮による核疑惑というのがおきたんですね。
寧辺(よんびょん)というところで、フランスの偵察衛星が、核研究施設を撮って、それを解析をしたら、やっぱり核開発をやっているじゃないかと。
91年にソウルに取材に行きました。何故かと言いますと、その当時、公(おおやけ)に表に出ていました、北朝鮮政府の一番の高官、高英煥(コヨンファン)という、アフリカのある国の書記官だった人が亡命してソウルにいたんです。
当時は“脱北”という言葉もなかったと思います。亡命者という言い方をしていました。この人なら何か知っているだろうということで、インタビューに行きました。

これは笑い話のようなんですけれど、非常に極秘で進められているはずの北の核開発というのが、ある部分、秘密が漏れて、口コミで伝わっているという風なことを、彼は言うんですね。科学者たちはもちろん厳重な監視の下に、アパートに住まわせられている。しかし、家に帰ってご飯食べながら子供にしゃべる。子供がそれを学校でしゃべる。そういうのからどんどん広がっていって、『あ、あそこは、ああいう人が住んでいるんだ』と。そうして広まっていった。
さらに、彼が外務官僚として知りうることを聞きました。こういう亡命者を保護管理しているのは、今の国情院、当時の国家安全企画部、いわゆる韓国の情報機関、CIAですね。

そういう人と打ち合わせでメシを喰ったりしたときに、担当者が、ふと、こういう事を漏らしたんですね。
『大阪出身で、北朝鮮に渡って、そのあと、亡命して、今ソウルにいる一人の朝鮮人がいます。』

金秀幸(キムスヘン)という十代で、北朝鮮に渡って、仕事をした後に亡命して、今ソウルにいる。
『それは一体どういう人なんですか』、と聞いたら、『いわゆる、北朝鮮帰国者の一人だ』と。91年の12月のことです。

“帰国者”というのは、私も、うろ覚えながら、吉永小百合さんの映画、『キューポラのある街』、舞台の川口はここから近いんですよね。その中で北朝鮮に在日朝鮮人が帰って行くシーンがあった。駅で、みんなが万歳、万歳をして、当時“地上の楽園”と宣伝された、北朝鮮に帰って行く。ある家族が、帰るかどうか、迷っている、そういうシーンもあったように思いまして・・
それくらいしか、帰国者についての知識はなかったんです。

ここで視聴率調査をさせていただきます。

『キューポラのある街』を見たことある人、ちょっと手を挙げてください。
あーやっぱり、四分の一五分の一ぐらいですね。だいたい今手を挙げた人は、50代半ば以上だと思います。(会場笑い)

帰国者という言葉を聞き、初めて北朝鮮の人権ということを意識した。
この北朝鮮帰国者が、あとで調べて、9万3000人いる。その中には1831人の日本人妻がいる。日本人夫もいましたけれども。

その帰国者の一人で亡命した金秀幸さんに会って話を聞いた。彼から出てきた言葉ですね。『北朝鮮を理想の地上の楽園と宣伝され、そういう夢を抱いて帰った。そのうち数千人が、行方不明になっている。とんでもない国だ。』と。

その頃は、北朝鮮に関する情報が、あまりにも乏しかったために、どんな国だかわからない。
うっすらと、なんとなく地上の楽園とか、みんなが共産主義とか言って、金日成とかいう人が指導しているこじんまりとした国なんだなというようなイメージしかありませんでした。正直言いまして。

10万人の帰国者というのは、100%新潟の港から出港していました。清津という北朝鮮の東海岸の北の方にある港についたわけですね。その着いた瞬間にこの人は、騙されたと。これはみんなそうだと思います。10万人全部そうだと思います。

当時は、日本いる彼等、在日朝鮮人から見たら、韓国の方が経済的には下の方で、北朝鮮というのは、日本の留学生に、あの当時1950年後半で、一億円、あるいは年によっては二億円というお金が奨学金として送られていた。

今考えれば、当時のソ連、東欧の工業発展による援助によって潤っていただけなんですが。

金秀幸さんが言うには、船が着いて、デッキから下を見たら、ボロをまとった、顔色の悪い、痩せこけた人たちばっかりだった。
背景を見たらくすんだ、その灰色の世界で、港の倉庫とか、そういうものが本当にみすぼらしい。これ、全く話が違うと彼は思った。もちろんその時、出迎えのおそらく数百人だったですけれど、北朝鮮の人たちも、騙されたと思ったようだと彼は言いました。というのは、資本主義の敵国であった日本で虐げられた朝鮮人が、我が金日成首相率いる朝鮮民主主義共和国にきてホッとしていると思ったところが、デッキに見えるみんなの顔色は良い、腕時計はしている、体格は良い、良い服は着ている。これは、どういうことなのか、こっちはこっちで騙されていたと。

そして、下に降りていったら、まぁ非常に奇妙な雰囲気があって、その後は、みなさんが、ご存じのように、とんでもない人権弾圧。
文句を言えば銃殺刑にされると。そういうような国だったんですね。

このことを聞いて、本当なのか、日本へ帰って調べたら、ちょっと前に、正に帰国船を送り出した新潟の朝鮮総連の副委員長だった張明秀(チャン・ミョンス)さん、みなさんお聞きになったことがあると思います。この人の親も兄弟も帰っているんですけど、とんでもない国だと、本で書かれていました。『裏切られた楽土』。
この人がホントに、私が考えますに、北朝鮮という国はとんでもないということを実証で、広く世に訴えた最初の人だと思います。この人の本がなければ、『楽園から消えた人人々』という私の番組はなかった。

張明秀さんの所に飛んでいきまして、いろいろ事情を聞いた。これはとんでもない国だということがわかりました。

在日朝鮮人10万が北へ渡っている。当時の在日はだいたい60万ですから、6人に1人が北朝鮮に渡っているんですね。身内、同級生、近所の人、誰かいる。

それが、その後の、北朝鮮による南朝鮮革命のための対南工作の一環として、日本を中継基地としての工作員活動を容易にしていた。つまり、帰国者は北の人質だったとわけです。

そんな在日の人のところを回りました。みんな、喉元まで出かかっていたんですね。自分の弟が、従兄弟が、あるいは、親が、向こうで、行方不明になっている。収容所で拷問され殺されたとか行方がわからないとか。半分位は実名、顔を出してしゃべってもらった。あとの半分は、しゃべると、まだ元気な、他の身内までやられちゃう。だから顔は隠してくれといわれました。
そうしてできたドキュメンタリーが、皆さんにお配りした資料に出ています。『人脈記』という朝日新聞の記事。92年、『楽園から消えた人々 〜北朝鮮帰国者の悲劇〜』という、ドキュメンタリーをやりました。これはサンデープロジェクトの特集でまず、92年の2月にやった。それで30分の全国放送、5月には、1時間15分ぐらいで放送しました。

これで、もう私と北朝鮮との縁というのは、切れたと思っていた。すると94年の夏、番組で証言をしていただいたパクという在日朝鮮人女性から、電話がかかってきたんですね。『会いたい』と。番組では匿名で、背中からインタビューしていました。
会った時に彼女が『私の北朝鮮にわたって銃殺されたお兄さんはね、あのときはいわなかったけれど、実は私が北朝鮮から潜入してきた大物スパイ辛光洙と同居していたことが元で、銃殺刑になったの』と言う。

その時に、正直言って、この人、大丈夫かなーと思いました。何のことを言っているのかなと。スパイが潜入してきたとか。
私のお兄さんは、北朝鮮にわたって、平壌放送の日本語のアナウンサーをして、それを東京でラジオで聞くのが本当に楽しみだった。彼女たちその時みんな、いわゆる総連系で、金日成を尊敬している。そのラジオのお兄さんの声が消えて、85年にお兄さんは、銃殺になっていました。それを知ったのは、5年後の90年。それも銃殺されて死んだと。向こうの帰国者を担当する局の課長から聞いた。

お兄さんが銃殺になった本当の原因は、私が辛光洙というスパイと同棲していた。そこで生じた行き違いの結果として、平壌の兄が監視の対象にされた。その後、辛光洙が85年、逮捕されたとき、おそらく私と平壌の兄が、辛光洙を売ったんだろうと北の当局が理解したのでしょう。辛光洙という男と一緒におったことで、兄は楽園から消えてしまった。

それに続いて出てきたのが、この辛光洙という人は、原敕晁さんという大阪のコックを拉致し、再び潜入して、その人のアパートに住み、引っ越しを繰り返し、住民票を取って、免許証、パスポートを取得した・・・そう言うんです。

ここで、初めて「拉致」という言葉を聴いたのです。
そのとき、何て言いますか、衝撃ではありますが、半信半疑でした。
拉致なんて、いったい何のためにやるのか? スパイ小説スパイ映画でもそんな話聞いたことがない。ただ、嘘を言っても彼女のためになるわけではない。
とにかくその日は別れて、調べてみたら、85年の6月の新聞に、ソウルの安企部発表で、言うとおりの事が割と大きめに載っていました。  『大物スパイ辛光洙逮捕・日本人の原敕晁さんを(名前も入ってます)拉致して、なりすます』とそういう記事があったですね。

彼女の話は、嘘じゃないと思うと、なんか大きな闇に首を突っ込んだような気がしました。ただ、当時の報道は記事を見る限り、一過性のもので終わっていました。

一体どういう事なのかと。全体像が見えないわけです。それでも、何をどうやって良いか解らないまま、闇雲に拉致ということを頭において取材を始めました。94年の夏ですね。
おそらくこの時点で記者として拉致の取材をしていたのは、私一人だったと思います。

取材に出向く私の気持ちというのはですね、当時は今以上に、南北朝鮮の対立が激しかったですから、北朝鮮を貶めるために、韓国が、わざとこういう話をでっち上げて、パクさんとかを私の前に出現させているのではないかと疑心暗鬼にとらわれたこともありました。

拉致は、今でこそみなさん周知の事実なんですけど、その当時はそうなんです。
私がこういう事を言いますのは当時の政治家と官僚のの姿勢・態度がいかにいい加減だったかを知ってもらいたいからなんです。
拉致被害者家族との付き合いが始まったのが94年の暮れです。神戸の有本明弘・嘉代子さん夫妻。

娘の恵子ちゃんが、平壌から手紙が来ていましたから。すでにいろいろ動いていらした。
それで1月初めにご自宅に行きまして、色々事情を聞いて、これは「よど号」の連中に騙されて拉致されたと確信しました。
ご両親は何とかしたいと、非常に思っていらっしゃるんだけれども、誰も相手にしてくれない。警察庁も、外務省も相手にしてくれない。
マスコミに訴えても、誰も来てくれない。そういうところに神戸のご自宅に伺いまして、1月の17日に外務省に一緒に動いてくれと要請に行こうという約束をして、それがまぁ、あの阪神大震災で流れるんですけれど、3月になって一緒に行きました。

その時の状況、出てきた相手が、北東アジア課の地域調整官といいまして、まぁずーーっと下っ端の役人なのです。その人が、どういったかというと。これがとんでもないんです。

有本さんは、すでに一部週刊誌には名前が出ているから実名を出して、娘を助けてくれと言ったのにたいして、その役人は、『実名を出して、安否の照会をすると、命に関わる。だから出来ません。あの国は何をやるかわからんから』 と言いました。つまり外務省としては何も出来ない、何もやりませんと。

その後、海岸から消えたカップルの家族のところへ行きました。
家族の皆さんの当時の心境ですが、皆さん諦めかけておられたのは事実です。
95年当時、蓮池さんや奥土さんは、取材拒否だった。電話をしまして、『どういう状況で消えたのか、親のその後の思いとかを聞かせて欲しい。世間に訴えたい、政治が動いて欲しいから、聞かしてくれ』と言いましたけれど、当時、お母さんのハツイさんが、体調を崩されていたこともあって、『取材に応じられません』と。
その理由を聞いて愕然とした。愕然というのは、国に対してなんですけれど。蓮池秀量さんは『今更、薫のことを、どうのこうの訴えても、国が動いてくれるとは思えない。取り返せるとは思えない。そう考えること自体が辛いのです』と。
自分も年をとってきたし、妻ハツイさんも体をこわされて、体がきつい。取材に応じることは、辛いこれまでを又思い出すことですから、その重圧に耐えられないという。
私にたいして話すことで、辛くなるんですね。

・・・その2に続く・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエントリーのテキストはblue-jewelさんの手によって起こした物を、石高氏ご本人に目を通していただいた上で公開をしています。

★日本再生フォーラム 第20回記念講演会 テキスト一覧表

日本再生フォーラム 第20回記念講演会
拉致問題を通して日本のあり方を考える・第9弾
07.3.10 大宮JACKビルにて


1 石高健次氏(家族会顧問・朝日放送報道局プロデューサー)の講演 その1
http://piron326.seesaa.net/article/37576264.html

2 石高健次氏(家族会顧問・朝日放送報道局プロデューサー)の講演 その2
http://piron326.seesaa.net/article/37576759.html

3 飯塚繁雄 家族会副代表の訴え
http://piron326.seesaa.net/article/37712796.html

4 飯塚耕一郎さん(田口八重子さんの長男)の訴え
http://piron326.seesaa.net/article/37829987.html

5 被害者家族の訴え
http://piron326.seesaa.net/article/37928249.html
posted by ぴろん at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ご挨拶&お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

土浦にて

P4010014.jpg

昨日私は母を連れて、茨城県の陸上自衛隊土浦駐屯地内にある、「雄翔館(ゆうしょうかん)」という予科練の記念館を訪ねてきました。
http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/heiki5/yokaren/yokaren.html
ここは戦前、予科練教育の中心的施設があったところだそうで、そこに私の特攻の叔父の遺影が飾られていると聞き、是非一度たずねてみたいと、母と共に足を運んでまいりました。

駐屯地内にある記念館は、それほど大きいものではありません。
学校の教室二つ分くらいの小さな展示室に所狭しと、遺影や遺書などが飾られています。
私の特攻の叔父も話に聞いたとおり、海軍の白い軍服姿の写真と両親に宛てた遺書の写しなどが、ガラスケースの向こう側に展示してありました。

特攻の叔父ゆかりの場所を訪ねるとき、母はいきなり7歳の少女に戻ってしまいます。
今年69歳のいい大人が、人目も憚らず、記念館の中で号泣をする。
「叔父ちゃん、叔父ちゃん」と涙声で話しかける。
それが特攻によって直接に命を護って貰った遺族のありのままの姿なのだろうと思います。
母は結局1時間以上も記念館の叔父の写真の前で号泣を続けておりました。

少し前の私なら、母と共に泣いて涙を流していました。
でも、今回は私は一粒の涙も出なかった。
なぜなのでしょう?

無論、私とて悲しくないわけではないのです。
しかし、直接には特攻の叔父を知らない私の思い・感じ方は、やはり母のそれとは微妙に違う。
直接に知らない分だけ、冷静に客観的に特攻についてのあれこれを読み取る余力が、おそらく私の中にはある。
ただただ肉親として悲しむだけでない何かが、私の中に根付いたようにもこの頃感じられてなりません。

生還不能の決死の突撃。
桜花に乗り込む直前、「では往きます」と、母機の一式陸攻の搭乗員に別れを告げたその姿は神々しささえあったという。
最近入手した地元の郷土史研究家の方の著書によって、私は叔父の最期の様子を知りました。
悟りの境地というのは、そういう姿の事を言うのでしょうか?

自分の愛する家族を護りたい。
そう思わなければ、特攻などと言うおよそ無謀な作戦にその身を投じることなど果たして出来るのか?
大事なものを護るためには、時に命さえも投げ出さねばならない時がある。
それを身をもって私に教えてくれたのが、特攻の叔父。

特攻で死んだ人はただ、可哀想だけの人なのか?
現実問題として、きれい事では済まない無い何かがこの世にはあります。
「戦争はいけないこと」といった決まり文句だけでは解決のつかない世界の矛盾。
極限状態に追い込まれた時、人はどうあるべきなのか?
どうすれば、自分の愛する家族を護り故郷を護り、そして国を護れるのか?

もっともっと、私たちは考えなければならない事があるのだと思います。
のんびりと平和ボケしている間に、忘れてしまった物・失ってしまった物の如何に大きいことか。
真の平和を享受するために、私たちが払わねばならない代償について、戦後の私たちは考えることさえ拒否をしてきました。

でも、そろそろ私たちは目覚めても良い頃合だと思う。
自分の身だけ安泰であれば、という甘えはそもそもはじめから通用しないのだから。
幻想の海の中で惰眠をむさぼる事は、そろそろ許されない時期に来ているのではないか?
そんな事を思いながら、私は資料館を後にしましたが。

資料館の外は、春爛漫の桜の花。
同じ桜の花と書いても、花の桜は平和の時代の私たちの心を和ませる美しい存在です。
しかし、特攻機「桜花」は、同じ桜でも人の命を散らす花。
沖縄の海で、「桜花」と共に散った一つの若い命を、どうか時には思い起こしてください。

いまだひとかけらの骨も故郷に戻れない叔父に会うためには、こうした資料館の類を訪ねていくより他にない。
69歳の良い大人が、一瞬にして7歳の少女に戻り、「叔父ちゃん、叔父ちゃん」と声を上げて泣く。
ガラスの向こうに飾られた写真を前に、「このガラスより近くには叔父ちゃんのところへ行けない。叔父ちゃんに手が届かない」と言っては、また泣く。
「叔父ちゃんの顔に泥を塗るような生き方はしてないよ、叔父ちゃんこれからも私を護ってね」と言って泣く。
それが遺族のありのままの姿であるのだと、どうか心の隅に刻んで欲しいと願っております。
posted by ぴろん at 07:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。