2007年10月08日

07.8.11 鈴木智さん 世田谷お蕎麦屋さんミニ集会より

世田谷お蕎麦屋さんミニ集会 

07.8.11 世田谷区某蕎麦店にて 

『鈴木智さん(特定失踪者・鈴木賢さんの兄)の挨拶』



こんにちはどうも、はじめまして。
私、平成15年にですね。
こちらの荒木代表のところに届出をしまして、それ以来調査を依頼しまして色々お世話になっております、特定失踪者・鈴木賢の兄でございます。

皆様には、特に東京ブルーリボンの会、それと特定失踪者問題調査会、さらに救う会埼玉の古藤さん、それから皆様方にはですね。
日頃大変お世話になっております。
ご支援いただいております。
ありがとうございます。

私ども今現在はですね。
先ほどもちょっとご紹介がございましたけども、「拉致問題を考える川口の会」としまして、毎月第一日曜日に署名活動をやっております。
昨年の実績ですと月平均が署名数が550です。
ちなみに現在までこの拉致問題を考える川口の会としましては、市民の皆様、それと田口八重子さんの家族、それから特定失踪者の家族、それと自治体がですね。
大変理解あるご支援をいただきまして、そういう意味ではちょっと特殊と言いますかね。
異質な形の会を設けております。
もちろん、拉致被害者と特定失踪者というのは非常にこの、どこで一線を引くか?という事については、私どもも活動の中であくまでも一線を画すと、言うような事を絶えずアピールしましてね。
双方一緒に活動しているのが現状でございます。

ちなみにですね。
この署名を持ちまして現在まで川口の署名の提出はですね。
4回ぐらいに亘りまして、約25万人分ぐらいの署名をですね。
首相官邸とか内閣府に提出をしております。
つい最近は7月の12日でございましたけど、これもやはり昨年来から集めました署名を、皆様の心のこもったご署名をですね。
1万2千人分の署名を持ちまして、内閣府に提出をして参りました。

そんなことで、私はいつも講演会などですね。
アピールするようにという事がありまして、アピールさせて頂いているんですけども、私はあくまでも特定失踪者の家族ですけども、やはり心境としましてはね。
今拉致被害者・特定失踪者と言えども、これはやはり国の問題だと。
国民お一人お一人の問題だという事で、私の弟ももちろん肉親ですからね。
思いはやはりそこに行くんですけれど、現在の私の心境としましてはそういう事は超越しましてね。
拉致問題そのものを何としても解決するために、一人でも多くの皆様に、この拉致という事を認知してもらう。
いうような気持ちでもって活動に従事しておる、と言うのが現状でございます。

今後共ですね。
皆様には色々お世話になるかと思うんですが、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)


07.8.11 生島馨子さん 世田谷お蕎麦屋さんミニ集会より

世田谷お蕎麦屋さんミニ集会 

07.8.11 世田谷区某蕎麦店にて 

『生島馨子さん(特定失踪者・生島孝子さんの姉)の挨拶』

Img_3420.jpg



本日は麺業組合の方たちばかりかと思いまして、一言お礼を申し上げなきゃと思いましたんですが、そうでない方もいてちょっとピントのずれた話になるかも知れませんが、よろしくお願いします。

最初に個人的な事を言わせていただきますと、何で母の写真を持ってきたか?
それから、母の着物です。
母が(亡くなる)直前まで来ていた着物で、何でそれを着てきたか?というと、うちの母は明治38年生まれなんですけど、ホンのちょっと先の上馬で生まれ育って34歳嫁に追い出されるまでいました。
それで小学校が昔は東京にも分校がありまして、小学校4年までは駒沢小学校の分校が、このちょっと先にあったんです。
それでお墓は、実家が初台の・・・(聞き取れず)さんなので、このちょっと先のお寺さんなんですけど、そこに眠りたいという事で生前にお墓を作ってあげてたんです。

そして今日の会場は世田谷区という事で、これは母が妹に会えなくて、残念ながら会いたい会いたいと言いながら死んでいった母がきっと何か背中を押したのかな?
こういう母のゆかりの地で皆様がやってくださるという事が非常に嬉しくて、母の写真と一緒に来ました。
よろしくお願いします。(拍手)

実は私は母が死ぬまではほとんど何もやっておりませんでした。
母が死んで何かやろうと思うときに、東京で家族会と一緒の集会というものが無かったものですから、どうしていいか?何をしていいのか?が、自分で本当に分からなかったんですね。
それで埼玉とか茨城とか呼んで頂いて、そこで講演を聞かせていただき、だんだんと拉致の問題が分かってきました。
それからテレビ番組とかそういうところから少しずつ知識を仕入れて、だんだん拉致の事が分かりましたけど、東京でも例えばもう35年位前ですか。
大学生の方、甲州街道沿いに多くいなくなっていらっしゃるんですよね。

それから印刷工の方の話なんかも聞いて。
それから75年以前のは東京に割合いとあるのに、非常にマスコミになんかにも扱われないんですよね。
何か、抑えられているのかな?とも思ったんですが、そのうちだんだんあちらこちらと伺っている内に、古賀先生が熱心にやってくださっているのでお招きを受けて、古賀先生のところに伺いました。
古賀先生、本当に元日から署名活動をやってくださったんですね。

それでね、びっくりしちゃって、東京にもこういう方がいらっしゃるんだ、これが東京全体に広がって行ったら良いなと思っていたら、お食事をするところの麺業組合、お蕎麦屋さんのお店にこのポスターを貼ってくださるという事を伺いまして、これはね。
凄く温かさと、日本の心みたいなのを感じたんですね。
麺だから日本の心と言うんではなくて、お店に飾ってくださるという心が、非常に温かく感じたんですね。
是非お礼を申し上げたいという事と、このポスター、古賀先生非常にご尽力下さって出来上がったものなんですけど東京都の人権擁護局に貰いに行ってもなかなかくれません。
名前をサインさせられて3枚だけやっと頂きました。

でもそういうふうに東京都内の官庁なんかには貼ってあるんですが中々一般の人はね。
目にするようなところには貼ってないんですよね。
それで、今回の事は非常に感謝しております。
もうひとつこれはね、コミュニティセンター、昔の交番なんですけど、そういう所には貼ってあるんですけども中々皆さんの目にはつきません。
それで良かったな、と思います。
これがまた他の業種にも広がっていったらな、とも思います。

それから先ほど荒木先生のお話にも出てきましたけど、印刷工の方たちがいなくなったあのあたりは、その方たちがいなくなったというのは、まさしく私の青春なんです。
私が若い頃あの辺り、小さな印刷工場が一杯ありました。
その当時は今みたいに交通が発達していませんから、していないというのも変な言い方かもしれませんけど、新幹線もないですしね。
東京で働くという事は非常に大変なことだったんです。
自分で何とか東京で成功しようとか、何か身につけようとか、そういうね。
一家を支えるために東京に行って働けるという、目標を持って働きに出てきていた時代なんですね。

それから大学生の方たちも、今みたいにどこでも入れるようなそんな時代じゃなくて、学校も数少なかったですし、それから地方の親御さんが息子・娘、あんまり娘はいなかったですね。
息子の方が多かったと思いますけど、息子に期待をかけて東京の大学に送り出しているんです。
その親御さんの期待を担った子弟がね。
突然連れ去られて分からなくなった。
非常に心配していらっしゃると思うけれど、その親御さん、今拉致問題が出て来たからと言って東京に出てきて活動すること出来ないんですよね、多分。

それだから東京にいる私が貧乏だけどせめて、東京にも(特定失踪者が)いると声を上げて、それで地方の親御さんの代わりにこの人たちも何とかしてくれって言わなければいけないんじゃないかって勝手なね、考えで活動しております。
あくまでも個人的な考えですけど、地方で歳取った親御さんに一生懸命やっているからねって言える様なところまで、皆さんに知っていただけたらありがたいなと思います。
東京に一杯いるという事を少しでも多くの人が、関係のない多くの東京の人が知ってくれる事が、運動の原点になると思うんですね。
まず知ってもらうという事を目標にしております。
よろしくお願いします。(拍手)
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