2007年11月24日

北鎌倉 建長寺・正統院 神雷戦士の碑を尋ねて

昨日、私は母を連れて北鎌倉にある建長寺・正統院という小さなお寺を訪ねてまいりました。
ここには海軍神雷部隊の顕彰碑があると聞き、縁の者としては一度は行かねばなるまいと、前々から考えていたところ。
今年も大分押し詰まりましたが、ここでようやく時間の都合がつきましたので、千葉から鎌倉まではるばる日帰り旅行を決行した、と言う次第です。

自宅から鎌倉までは総武・横須賀線直通の快速電車を使えば、乗り換え無しでおよそ1時間半で辿り着けます。
一度電車に乗ってしまえば訳は無いのですが、そこまで腰を上げるのが意外と億劫。
近場にあるゆえに「いつでも行けるさ」という安心感と、片道1時間半・往復で3時間も電車に乗るとなると、いくら近場とはいえ丸一日潰れてしまうという億劫さ。
余程思い切らないと、中々腰が上がらないのが、悲しいけれど人間の性なのです。
しかし、私の母も寄る年波には勝てず、体の衰えは日々隠しようがありません。
その内その内と先延ばしにしている内に、行きたくても本当に動けない体の状態になっても後で心残りが生まれます。
ならば思い立ったが吉日とばかり、今年は共に茨城県にある土浦の特攻記念館に神ノ池基地跡と、神雷部隊縁の場所を訪ね歩いてまいりました。
そして年の最後に、近場で残った最後の縁の場所、建長寺・正統院を訪ねてきたというわけです。

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東北・北海道では11月としては記録的な降雪量を記録したと言う寒波がまだ関東上空にも残り、朝方は吹き寄せる北風が冷たく、格好よりは温かさを優先とばかりに、完全防備のスタイルで親子共々家を出発しました。
が、寒かったのは自宅から電車に乗るまでのわずかな時間だけ。
電車内は当然暖房が効いているので寒さは感じませんし、北鎌倉駅に着いたら写真の通り、抜けるような青い空に暖かな日差し、風もぴたりと止んで寒さなど微塵も感じませんでした。
母曰く、「これもきっと特攻の叔父さんのお陰。わざわざ千葉から身内が訪ねてくるのに、寒くては可哀想だと気を使ってくれたのだろう」と。

祝日という事もあり、鎌倉にはたくさんの観光客がそぞろ歩いておりました。
その人並みに混じって、まずは目的地の建長寺を目指します。
鎌倉に行ったことのある方ならご存知でしょうが、建長寺は駅からは徒歩15分ほどと少し離れた場所にあります。
歩く以外に交通手段がなく、それもついつい出かけるのを億劫にしてしまう理由の一つ。
ともかくも足早な他の観光客の方をどんどん先に行かせ、私たちは母の体力に合わせて、時間をかけてゆっくりゆっくりとお寺を目指しました。

建長寺は北鎌倉でも最大級のお寺の一つ。
その奥の塔中(たっちゅう)寺院の一つに正統院があり、その正統院自体は本当に小さな小さなお寺です。
ここは基本的に一般の観光客の立ち入りお断りのお寺ですが、私は事前に正統院へ電話を入れて、「神雷部隊の顕彰碑に参拝するのであればどうぞご自由にお入りください」との了解を取りました。
山門前の竹の仕切りを開けて正統院の墓地へと進み、その一角にある神雷戦士の碑の前へ進み出ました。
そこには、切り立った山の斜面を掘り抜いて、その中に大きなステンレス製の芳名板が据えられた立派な顕彰碑がありました。

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まずは持参した花を供え手を合わせて拝んだ後、特攻の大叔父の名前を探しました。
当たり前ですが、大叔父の名前もきちんと漏れなく、その顕彰碑に刻まれておりました。
その名前を見つけると、母はすぐに号泣をしてします。
大叔父の名前を手でさすり、長い間億劫にして放っておいて寂しい思いをさせた事を詫びました。

特攻の大叔父は、沖縄の海で木っ端微塵に果て、いまだ骨のひとかけらも戻ってきてはいない。
叔父さんの魂に触れるには、こうした記念の場所を訪ね歩くより他ないのです。
母が顕彰碑に寄り添っている間、私は持参した線香に火を点し、母と共に改めて顕彰碑に供えました。
中々その場を去りがたく、線香が点っている間はここにいようということで、およそ30分ほど碑の前で大叔父とお話を致しました。

人気のない正統院の墓地は静かで陽だまりに包まれた、穏やかな場所です。
顕彰碑の脇にある、案内板の説明を読むと、この碑を作ったのは神雷部隊生き残りの戦友会の方で、この碑が最初に作られたのは戦後20周年を記念した昭和40年のこと、と知りました。
そして戦後49周年の年、平成5年に改修を加えたことも記してありました。

戦後49年の年、と言う数字には思い当たる節があります。
神雷部隊戦友会は戦後50年の節目の年に、会員の高齢化を理由に解散しています。
会の解散を翌年に控えて、最後の務めとして亡き戦友の顕彰碑を自分たちの力で整え、それを心の区切りとしたのでは無いでしょうか?
十死零生の特攻部隊に生きた、彼ら神雷部隊の生き残りの人たちの心に去来するものが何なのか?
私には到底理解の他でしかありません。
でも、先に逝った戦友達に向けて、自分たちが元気な間に出来る限りの供養をしておこうという強い志を、私はこの戦後49周年の年に碑の改修を行ったと言う一文に感じました。
それは遺族としてはとても有難い事であり、同時に生き残りの彼らが生涯背負わざるを得なかったであろう業の重さを、推測するに十分の物でもあるとも感じました。

建長寺は由緒正しき歴史あるお寺さんです。
ここにどういう由来で神雷戦士の碑が立つことになったのか、その理由は私には良く分かりません。
関係者の中に、どなたかお寺さんとご縁のあった方でもいらしたのか?
いずれにせよ、これだけ立派なお寺の一角に顕彰碑が作られ、日々供養をして頂いていると思うと、何か心休まるものを感じます。

人はいずれ歳を取り、肉体は滅びて消えていく。
でも、日本の歴史の一ページに、確かに神雷部隊という特攻専門部隊は存在したのであり、そこで命を散らした多くの若者がいたのは事実なのです。
生き延びた神雷部隊の戦友会の方々が、戦後その重い荷物を背負って生きたのも、確かな事実なのです。
その事実の重みを、こうした顕彰碑の中に感じ取って欲しい。
そして後世に長く伝えて欲しい。
 
そんな事を思いつつ、冬の短い日が傾きだして少し風に冷たさを増した正統院の墓地を後にしました。
その後、建長寺名物のけんちん汁でお腹を満たし、少しばかり北鎌倉をそぞろ歩いて町並みの風情を楽しんだ後、夕暮れ迫る頃には帰宅の徒につきました。
千葉からの遠出で歩きっぱなしの疲れる旅であったにも関わらず、帰宅後それ程の疲れが残らなかったのは、ようやく特攻の大叔父さんの縁の場所を訪ねてきた、と言う安堵感が先に立った証しでしょうか?

鎌倉の青い空のように、帰宅後の私たち母子の心も快晴。
沖縄の海に沈む叔父さんの魂に、私たち肉親の思いは無事届いたでしょうか?
そんな事を思う、北鎌倉建長寺までの日帰りの旅でありました。


posted by ぴろん at 10:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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