2008年03月29日

過日執り行われた、神雷部隊戦友会の皆さんとの靖国参拝について、書き漏らしたこと・改めて思うことなどをつらつら綴りたいと思います。
相変わらず小学生の作文レベルの駄文ですが、宜しければお付き合いの程を。

亡き特攻の正義大叔父の事を直接に知る戦友の方とお会いし、直接に大叔父の思い出話を聞いた事は前回のBlogに書きました。

亡き正義大叔父の戦友だったと言うその方から、大叔父の神ノ池基地での訓練の様子を直に聞いたとき、まるでその場に大叔父が甦り、その戦友の方の口を借りて「俺が受けた訓練はこういうふうだったんだぞ」と、遺族である私たちに伝えに来てくれたような感じがしました。
戦後60年以上の時を越えて、私たち遺族でさえも知らない大叔父の生きた証しを聞く。
それはそれは本当に不思議な体験でありました。
80過ぎの高齢を押して愛媛から出て来たというその方と、過日の神雷部隊戦友会の靖国参拝の折、お会いできたのはやはり何かのご縁だったとしか思うより他ありません。

愛媛と千葉は遠い。
60年余の時間は長い。
当時を知る人は次々と鬼籍に入り、存命であっても足腰が弱って靖国に馳せ参じられない元神雷部隊の方が大勢いらっしゃいます。
そんな中、距離も時間も飛び越えて、正義大叔父の思い出を良く知る人と共に同じ場所で同じ時間を過ごし、大叔父の訓練の様子を聞く事が出来たのは、まさに大叔父の魂が自分の生きた証しを私たち遺族に伝えるために、この不思議なご縁を結んだとしか思えないのです。

戦友の方から聞いた大叔父の思い出話は概ね以下のとおり。
神ノ池基地から飛び立った訓練機は太平洋上空を旋回し、その後滑走路に着陸をします。
ところが大叔父の乗った訓練機は、神ノ池基地の滑走路着陸寸前にフラップの具合が悪くなったのか、失速してしまったのだそうです。
それをとっさの機転でなんとか体制を持ち直して、滑走路脇の松林に突っ込み不時着し、その際大叔父は顔に怪我をして頬に傷が残ったのだとか。
大叔父を良く知っていると言うその戦友の方は、大叔父の訓練の一部始終を滑走路脇で目撃していたそうで、身振り手振りを加えて、まるで昨日の出来事のようにその様子を語ってくれたのでした。

「大叔父の頬に傷がある」という事実は、桜花投下のボタンを押したという母機の一式陸攻の副操縦員だった室原知末さん(※1)も後に手記に書き残していらっしゃいます。
千葉の生家で留守を守っていた当時の家族は、大叔父の顔に傷がある事は知りません。
大叔父の兄でもある私の祖父から、私自身もそういう話を聞いた事はありません。
つまり大叔父の頬の傷の話は、戦地で共に出撃に備えた戦友でなければ分からない話、家族では知りえない話なのです。

特攻隊員でなくとも、父が夫が兄弟が次々と出征し、その多くが生きて故郷に帰れなかったのが戦争の現実です。
残された家族の多くは、自分の愛する家族が「いつ・どこで・どんなふうに死んだのか?」を知りません。
ある日役場から戦死の公報が届き、遺骨が帰る。
遺骨が戻ればまだ良い方で、私の特攻の大叔父のように、遺骨さえも戻らず英霊と書かれた紙切れ一枚入っただけの白木の箱で無言の帰宅を果たした兵士も数多くいたはずです。
それで、大事な肉親の死を信じろと言われても、それは無理な相談であったろうと思います。

我が家の遠い親戚の家で本当にあった話をひとつご紹介します。
ある日戦死の報が役場から届き、家族は泣く泣く葬式を済ませ墓も建てて供養をしたところ、終戦後になって英霊となったはずの当の本人が何と生きて帰宅した、という話があるのです。
その方はもうずいぶん前に亡くなりましたが、法事の席などでご一緒するたびに「俺は役場の手違いで一度死んだことにされて、その時お寺に高いお布施を払って、立派に葬式を挙げてもらって墓も作って供養してあるから、本当に死んだ時は火葬だけして骨を墓に収めるだけでいいんだ」と笑い飛ばしていらっしゃいました。
実際、戦後のどさくさの中で、本当は生きていたのに戦死の報が入って死んだ事にされてしまった、というケースはざらによくある話だったと聞き及びます。
であるならば、遺骨もなしに紙切れ一枚だけである日突然戦死を伝えられても、それをそのまま素直に信じる事が出来ず、苦しんだ家族は多かったのでは無いでしょうか?

そんな中、出撃から特攻に至るまでの詳しい経緯が時系列で分かるだけでなく、今回神ノ池基地での訓練の様子まで伝えられたというのは、本当に奇跡的と言うか、珍しいケースであるとしか言いようが無いように感じています。
戦後60年余の時を越え、大叔父の魂が靖国の地で戦友の口を借りて、己の生の証しを自分の肉親に伝える。
当事者である私たち遺族にとっては、戦友の方との語らいの時間は、神がかり的な何かがあるとしか思えない瞬間でありました。
たまたま参拝のあった20日は母の誕生日でもあり、亡き大叔父から思いがけなく大きなプレゼントを貰ったような気持ちだ、と言って人目も憚らず泣いてもおりました。

母が持参した大叔父からのハガキ(※2)も、実に多くの方に読んで頂き、ありがたく思っております。
そのハガキは、なおらいの会の参加者だけでなく、会場のお世話係の方からも「もし宜しければ拝見させていただけませんか?」とお声がけを頂くほど会場の関心を集めました。
私同様戦争を知らない戦後世代の参加者の方も、是非、という事で、大叔父のハガキを手にとって見ていただきました。
軍の検閲が入るため、多くは書けない姪宛のハガキ。
幼い子供でも読めるようにとカタカナだけで綴られたそのハガキをみて、「優しい叔父さんだったのでしょうね」と仰ってくださる方もいました。

母も私も、そのハガキをきっかけにして、なおらいの会の参加者に向けて大叔父の人柄などを語りました。
1人でも多くの方の心に、大叔父の生きた証しが伝われば、それは大叔父の「残し置きたし」と願った心に添うことにもなる、と信じて。
私は比較的冷静に私の知り得た事実をお話したのですが、母は大叔父の話を始めると涙ぐんでしまい、ほとんど言葉になりません。
それを私が隣で補足をしつつ、多くの方に大叔父のお話をさせて頂きました。
大叔父の戦死当時7歳の子供だった私の母が、大叔父から貰ったはがきを後生大事に守り抜き、大叔父の話を語ると涙に暮れてしまう。
その姿を見ることで、何かを感じてくださる方もあったと思っています。
母の話を聞きながら、目を赤くしてくださる方が何人もいらした事を、ここに記しておきたいと思います。



※1 室原知末氏について

過去エントリーでは個人情報に触れることとして、氏の名前は伏せてご紹介しておりました。
しかし、室原氏は生前、私の正義大叔父の最期を伝えるのが生き延びた自分の役目であるとの信念の下に、大叔父の出撃の様子を記した手記を実名で世に出していらっしゃいます。
室原氏の遺志を汲み、氏の書き残した手記の存在を世に知らしめるため、室原氏のお名前をご紹介すると言う判断を致しました。

室原氏の手記は現在絶版のため出版社から入手する事は不可能ですが、古書店を探すなどすると、わずかですが現在でも入手は可能です。(実際私もネット古書店を通じて、室原氏の手記を手に入れました)
ご訪問の皆様の中でもしご関心のある方がいらっしゃいましたら、どこかでこの手記を手に入れて、特攻の大叔父の最期の詳細を知って頂ければと思います。
参考までに、私が入手した室原氏の手記が掲載されている書籍を以下にご紹介いたします。

★読売新聞社刊 『天翔ける若鷲 予科練最前線の記録』 長峯良斉編より 「沖縄神雷特攻」
★草土文化刊 『続・語りつぐ戦争体験−2 沖縄県で戦った』 日本児童文学者協会・日本子どもを守る会編より 「沖縄・空の特攻」


※2 大叔父のハガキの件に関してはこちら↓のエントリーをご参照ください 

http://piron326.seesaa.net/article/4869528.html


posted by ぴろん at 22:44| Comment(6) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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