訪問者数の少ない弱小Blogではありますが、特攻や靖国について関心のある方は様々な手段を行使して「話の花束」まで辿り着いてくださるようですね。
ありがたいことです。
今朝、その事を私の母に話しました。
「素人の駄文であっても、例えわずかでも、ネットを通じて特攻の大叔父さんの事を知らしめる事が出来たよ」と言ったら涙ぐんでしまいました。
「私たちが忘れたら叔父さんは犬死になってしまう」
それが私の母の言葉です。
その言葉を聞いて私の中でもやもやとした思いが、すとんと落ちたような気がしました。
特攻隊員は左の人が言うように「犬死した」のではありません。
右の論陣が語るような雄雄しい「軍神」でもありません。
彼らは己の生を精一杯生きた生身の人間。
特攻に至るまでは彼らにも葛藤があり悩みがあり恐れがあり、様々な境地を経て解脱の域に達した、というのが正しいのでは無いでしょうか?
特攻隊員の苦悩を忘れる事そのものが、彼らを「犬死」させることになる。
母の言葉はやはり肉親ならの直感に満ちている、と感じました。
昔、あるドラマの有名な台詞に「忘却は罪である」と言うのがありましたが、まさにその通りだと思っています。
特攻についてあれこれと論じるのはいい。
ただし、自分の主張にとって都合のいい部分だけを抜き出して、あ〜だこ〜だと特攻を語って欲しくはありません。
私が素人の駄文をネット上で晒してまで遺族の思いを語るのは、まずは1人の特攻隊員のありのままの真実を知ってほしい、と願うから。
特攻隊員は単なる犬死なのか軍神なのかと論じる前に、彼らにも生身の息遣いがあったという当たり前の事実を感じて欲しいのです。
それを知った上で、特攻について云々してほしいというのが、遺族としての率直な思いであると改めて考えています。