2008年04月04日

靖国

中国人監督による日中合作のドキュメンタリー映画「靖国」の上映を中止する映画館が相次いだ問題について。



靖国の喧騒は一体いつになったら鎮まるのでしょうか?と言うのが、身内に桜花特攻による御霊がいる者としての率直な思いです。

私も所詮は戦後の生まれ、60余年前の戦争の時代の空気がどういうものだったのかを直接には知らない。
でもひとつだけ感じる事はあります。
それは、靖国におわす御霊は、愛する家族を国を護るために命を投げ出したのだ、という歴然たる事実の重みです。

無論英霊の全てが望んで死んだわけでもないでしょう。
死を恐れ、生きる事を渇望し、葛藤の果てに命尽きた兵士もたくさんいたことでしょう。
けれど、極限状況に追い込まれたとき、人はきれいごとだけで物事の判断がつけられるのか?
例えば特攻による死は、左の人の言うような洗脳とか犬死とか、そんなに簡単に決め付けられるものなのでしょうか?
それとも彼らは右の人たちの主張するような立派な「軍神」だったのか?

私はそれはどちらも微妙に違うと思う。
当時の特攻兵たちも、今の時代を生きる私たちと同じ生身の人間。
必死の特攻に向かう彼らの心中に、葛藤の時間が無かったとは思わない。
事実、出撃の命を受けた夜、しくしく泣く者や大声で喚く者など、様々な特攻兵がいたと聞きます。
覚悟の志願とはいえ、いざその時になれば狼狽する者もいたと聞けば、やはり彼らも生身の人間だったのだろうな、と私は思う。

今の時代は平和の時代。
戦後60年も経てば、当時の空気を知る人もいなくなり、今の時代感覚でなんとでも物事の解釈が付けられる。
自分の都合のいいところだけを抜き出して、歴史を語る姿勢には疑問を感じます。
でもあの時代を生きた人たちにも日常の生活があり、生身の感情がある事を、現代の私達は余りにも忘れてはいないか?
生身の人間の息遣いの積み重ねが歴史であることを、理屈ばかり捏ね回す「活動家」「運動家」の人たちは忘れてはいないか?と感じます。

右であれ左であれ、靖国に対して意見はいろいろあって良いと、私個人は思う。
だが、どんな意見を主張するのも、一つだけ忘れて欲しくない事がある。
今を生きる私たちがどんな理屈をひねくりだそうが、彼らが後の時代を生きる私たちの未来を護るために命を投げ出したのは変えようの無い事実なのです。

靖国は英霊に対する祈りの場所、鎮魂の場所。
あそこへ詣でたなら、思想信条・意見の違いを超えて、まずは英霊に対し静かに頭を垂れるべきではないのか?
政治的発言をするなら、靖国以外の場所でやってくれ、と日頃から私は感じています。
あの場所を、己の意見を主張するための舞台にして欲しくは無い。
ただ静かに御霊を慰める場であって欲しいと、私は切に願っています。


posted by ぴろん at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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