2009年01月01日

脱北者の証言4 北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会第2部より

北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 <アジア人権人同学会の設立準備期成会>
第2部 「収容所体験者・脱北者による証言」
08.12.14 明治大学リバティータワーにて

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(承前)
(投稿者より)
「北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 第2部 脱北者の証言」
日本在住の脱北者、リ・ウチョル氏の証言を紹介します。
 以下に記されている理由で、顔や人物が特定できるような情報はお知らせできませんが、非常に好感の持てる人士でした。日本語で証言していますが、ファイルを聞いた方はその流暢さに驚かれると思います。

 司会:三浦小太郎守る会代表
(前 略)
(証言者は)リ・ウチョル(李宇哲、漢字名は推定)さんに変更になりました。
 この方は、親族がまだ北朝鮮で危険な立場に置かれております。
 リ・ウチョルさんに関してはですね、顔は撮影しないでください。本当に申し訳ないことでありますが、これはお願い致します。リ・ウチョルさんに関しては、声の録音や放送は結構です。しかし顔は撮影しないでください。以上のことは主催者の方からお願い致します。
(中 略)
 それでは次にですね、リ・ウチョルさんは日本語で…。じゃあ、脱北者のリ・ウチョルさんのお話しをいただきます。よろしくお願いします。くどいようでございますが、お顔の撮影はお止めくださいませ。

(拍手の中、リ・ウチョル氏登壇)

★リ・ウチョル氏(脱北者、元在日朝鮮人帰国者の家族)

 こんにちは!リ・ウチョルと申します。(原稿に目を向けながらの語り)私は、中国で北朝鮮から脱北してきた人たちが、どのような困難に遭遇しているか、人権侵害に泣いているかのお話しをしようと思っています。私もその一人だったからです。

 私は2002年に北朝鮮から脱北して、脱出して中国に渡りました。中国で初めての仕事は、海鮮中国料理店の従業員として、調理師以外の仕事はすべて経験しました。仕事中注文を聴き間違えたり、配膳を間違えたり、皿を割ってしまったりした場合は、従業員の責任として、給料の中から差し引かれてます。

 3〜4ヶ月分の給料は未払いで、後2ヶ月分は貰えた後辞めました。その時私は、1日に13〜14時間働いていました。その月給は400元で、日本円にすると5000円くらいですよね。それも何ヶ月間か続いて貰えなくて、4ヶ月間働いて600元貰って辞めました。

 それでも他の脱北者と比べると、彼らの受けている苦しさと比べると僕のことは、何でもないです。ほとんどの脱北者たちは、中国人が貰える最低の給料の半分にも足りないくらいを貰いながら働いています。人柄がいいオーナーさんに会ったら、中国人が貰える最低の半分くらいですね、その分を貰いながら働くことができるんですけど、そうではないオーナーさんに遭ったらですね、何ヶ月分の給料を貰えることできないし、そのまま働いている場合も少なくありません。

 それでも脱北者たちは、どこに行って、訴えることもできないです。それは何故かといえば、中国政府は、脱北者たちを難民として認めず、不法越境者として扱っています。だから来た脱北者たちが、中国政府に捕まえられたら、北朝鮮に強制送還されます。こういう点を悪用して良くないオーナーさんは、自分の気に入らなかったり、もしくは給料が少ないとか未払い分について不満を少しでも現わすと、後ろで公安といえば、中国の警察なんです。公安に密告する場合があるから、脱北者たちは、しょうがなく辛抱するしかないです。

 これは、わたくしが中国でよく聞いた話しなんですけど、脱北者が中国に渡ってですね、最初に脱北者を発見した人は、その脱北者の持ち主になる場合があります。持ち主になったら、持ち主になった人が、どこかに売りたくなったらそこに売ります。特に女性ですね、脱北者の女性たちは、中国で売られたり、買われたりしています。

 中国の田舎では女性たち、ほとんどの女性たちが、都会に出稼ぎに出てるので、家の中で農作業をやっている男性と、特に障害を持っている男性は結婚しにくいです。だから、脱北者の女性たちは、田舎の男に売られています。もちろん、売られていった家が優しければ、普通の生活ができる女性もいます。

 でも、そうでない人間に売られたらそれは大変なことになります。お金を払って買ったから、人間として見られず、物として取り扱われている場合がほとんどです。性売買(売春)のために売られている女性もけっこういます。

 これは、私がラジオで聞いたことなんですが、中国からモンゴル、タイ、ベトナムなど第三国を経由して韓国を初めとして、脱北者を受け入れている国に行きます。脱北者数人が、中国かモンゴルに行っていました。中国とモンゴルの国境は、ほとんど砂漠になっています。人の住んでいない、木もない、水もない、草もない砂漠を歩いて越えていました。方角もはっきりわからないし、持っていた食べ物もなくなって、疲れやひもじさで途中で死んだ人もいます。あの中で、ある母親の息子が死にました。息子が自分の懐で死んでいくのを見て、何もできなかった母親の心の辛さは、どんな辛さだったか、これは言葉では形容できないです。

 日本ではありえない、考えられないことが中国では起きています。しかし、私は、他の脱北者に比べたら比較的問題なく住んでいました。それは何故かといえば、一つには言葉でした。わたくしは、脱北して中国に行くために、北朝鮮にいる時も中国語の勉強を始めて一生懸命勉強したんですけど、もちろん中国人と同じではないですけどある程度できたので、私が少数民族の朝鮮族と言うと誰も私が脱北者と気付いてなかったです。

 朝鮮族といえば、日本にも在日韓国人、在日朝鮮人がいると同じように、中国にも在中国コリアンがいます。中国には50ほどの少数民族が住んでいます。中国は広い国ですから、少数民族の中には中国語が上手にできない人もけっこういます。私は中国のコリアン、朝鮮族であると言ったら、みんながそれを信じていました。

 私が、中国滞在中安全だった二番目の理由は、本物に限りなく近い偽物の身分証明書があったからです。中国で私が、事故や問題を起こさない限り捕まる確率は非常に少ないです。でも私は、母のことですね、家の家族、母のことを心配しながら暮らしてたです。

 母は、韓国人が経営している韓国料理店で働いていましたが、母は中国語もできないし、偽物の身分証も持っていなかったので、それが一番心配でした。韓国料理店で働いている脱北者もけっこういます、中国で。それを知った中国の警察が、韓国料理店で働いている脱北者を捕まえたこともあります。それなので、母はいつも心配しながら働いていました。

 警察の制服を似た制服を着て店に入った人たちを見て、店の裏門から逃げたことも度々でした。警察の制服を似た制服を着た人たちは、例えば、警備員、建物の警備員とか、税務署の係員、衛生管理局の係員です。

 中国国内での移動は、脱北者にとってかなり難しいです。普通脱北者は、中国語ができないから、汽車の中で切符の検査で捕まる場合も多いです。脱北者たちは、中国のどこに行っても危険はついて回ります。私の家族が日本大使館で保護を受けるためには、日本大使館のある北京まで行かなければなりませんでした。

 私の家族が住んでいた所から北京まで、汽車で8時間くらいかかります。その時、あいにく北京では、人民代表大会が開かれています。人民代表大会といえば、国会議員たちが集まって開く大会のことと中国では同じなんです。そのため北京の駅では、外部から来た人の身分証明書を徹底的に調査していました。

 私が、汽車で行こうとした最初の計画を変えて、バスで北京へ行きました。私たちが出発する2日前から大雪が降って、乗客(は定員)の半分にも満たなかったので北京高速道路の入口での検査は、運良く避けられました。こうした難関を越えて、ようやく日本大使館に保護されました。

 今、この瞬間にも中国の警察に捕まえられて、北朝鮮に強制送還されたり、あちこちに避難していたりする脱北者は、数知れないほど多いです。脱北者が、何の罪もなくて肉体的に、精神的に苦しんでいます。罪があるとすれば、北朝鮮で生まれたことが罪ですよね。これが、大変辛いことなんです。

 ここにいらっしゃっている皆さんは、日本で生まれて、自由な国で生まれて本当に良かった、本当に幸せだったということを絶対忘れないでください。北朝鮮や中国で味わった苦しさや非合理的なこと、反人道的なことをすべてお話しすることはできません。もし聞きたいことがありましたら、聞いてもかまいません。(司会の三浦氏はダメと合図を送っている)可能な限り質問にお答え致します(拍手)。

 司会:三浦小太郎守る会代表
 あ、すいません。本当は、本人も言っているように質問の時間も取りたいのですが、急にトヨタ・アキコさんが来れなくなったことから、あるビデオを流そうと思っております。また、やはり立場にいろいろ危険があります。質問に全部答えることはなかなかできないと思うので、今日のところは、中国での苦しさということだけをご理解ください。では、リさんありがとうございました(拍手)。

 記録者の所感
 リ・ウチョル氏の日本語は、「だから」が「たから」、脱北者を「たっぽくしゃ」など濁音ができない朝鮮語話者特有の訛りが一部あるものの、それ以外は完璧に近く、起こしも楽でした(もっと聞き取りにくい日本人はいくらもいる)。
 どうやって日本語を習得したかを集会後聞きましたが、本人特定につながる恐れがあるので詳細は控えますが、大変な努力家であることが窺えました。日本での定住と成功を祈って止みません。

(脱北者への強制堕胎の実態に続く)


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※このテキストの音声ファイルはこちらから http://www.netlive.ne.jp/archive/event/081214.html
※北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 http://hrnk.trycomp.net/
 NO FENCE http://nofence.netlive.ne.jp/
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※このエントリーのテキストは原良一氏の手によるものです。


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脱北者の証言3 北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会第3部より

北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 <アジア人権人同学会の設立準備期成会>
第2部 「収容所体験者・脱北者による証言」
08.12.14 明治大学リバティータワーにて

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(承前)
 チョン・グァンイル氏(政治犯収容所体験のある脱北者)
 通訳:宋允復NO FENCE事務局長

 チョン・グァンイル氏が記憶している収容者の個人情報
 そして、ここは日本であるということで、日本に縁(ゆかり)のある人について言いますと、私がいる間に5名の在日朝鮮人出身者がおりました。その内の一人は、運良く耀徳の革命化区域から出されて、その後韓国(北朝鮮の言い間違いか)から第三国に逃げ出したシン・ジョンエという方、一人おりますけれど、それ以外の4名については生きているのか、死んでいるのか、私には定かな情報はありません。

 先ほど申し上げましたように、私は収容所の中では班長という立場でしたので、自分の班に配置される収容所の身柄の情報については与えられていました。韓国に入った後、(自分の班の)収容者四百数十名すべてを思い起こすことはできずに、何とか少しづつ思い出して、何とか187人の身上情報については、私なりに簡略にまとめて、今日資料としてお持ちしました。これを今頭から、お話ししたいと思います。

 187人すべてをこの場でお話しするわけにもいきませんので、その中で北朝鮮でそこそこ高位のポジションにいた人たちに関して、その人たちも様々な波風の中で収容所に送り込まれますけれども、その人たちがどういう理由で耀徳に送り込まれて、どういう死に方をしたのかということをお伝えします。

(1)シム・チョルホ氏(42歳、元逓信省副大臣、保衛部批判の失言の罪)
 シム・チョルホという人です。収容所に送り込まれた時42歳で、前はどういう職にあったかというと、逓信省といいますから日本でいえば郵政大臣の副大臣のポジションにいた人が、送り込まれてきました。2001年の9月です。

 この人が何故送り込まれたかというと、保衛部はスパイを捕まえるという目的で盗聴をするんですけれども、盗聴を実施するに当たっては、逓信省、郵政局に一々許可をというか、対応を求めるわけですね。
 この人(シム氏)は煩わしくなったものですから「大してスパイを捕まえられもしないくせに、何で盗聴ばっかりするんだ、保衛部の連中は」ということを口に漏らしたのが罪になって、国家、党の名誉を毀損したという罪で収容所に送り込まれてしまいました。

(2)ユン・ヤンゴン氏(54歳、元在仏貿易参事、韓国人と交流&韓国製品の大量購入の罪)
 次がユン・ヤンゴンという男、54歳です。収容所に送り込まれる前は、フランス駐在の貿易参事という肩書きで大使館に勤務していた人です。この人が送り込まれた理由は、フランス駐在時に韓国製品をたくさん使っていた、韓国人と接触していた、これが罪とされて送り込まれました。

(3)キム・ソンゴン(元ドイツ留学生、仲間との談笑が反政府陰謀と見做されて)
 キム・ソンゴンという男性です。この人はドイツに留学していたのですが、留学生仲間7人で集まって、ドイツでの留学を終えたら、今後将来どういうことをしようかということを話し合ったらしいのです。それが何故か反政府陰謀ということになって、その話し合った人全員が、この耀徳に送り込まれてしまった。

(4)ソン・グンイル(元人民警備隊旅団長、外貨稼ぎの着服の罪)
 ソン・グンイルという男、元々は朝鮮人民警備隊(国境警備隊に相当)第七職務(?良く聞き取れず)の旅団長といって、しかも「労力英雄」という北朝鮮で(二番目の高位の)英雄称号も貰っている男ですから、大変な立場の人間なんですが、その人間が中国で外貨稼ぎをやった際に、その一部を自分の懐に入れた(着服した)罪に問われて送り込まれました。

(5)ヨン・ジョンジュ(52歳、元平壌牡丹峰区域検察所長、保衛部との内部抗争で讒言さる)
 あともう一人、平壌牡丹峰(モランボン)区域の検察所長をやったというヨン・ジョンジュという男、52歳で送り込まれたんですけども、きっかけは何かというと、北朝鮮で大変な事件になった平壌平川(ピョンチョン)区域保衛部長事件(注2)というのがあるんですね。これは何かというと「忠誠の外貨稼ぎ」といって金正日にそれぞれの国家機関が外貨稼ぎをして、金(外貨)を差し出すという運動を盛んに行っていた時に、その保衛部長が不正なことをやったらしいのです。

 その時に、(容疑が)保衛部ですからその捜査を保衛部にさせないで、検察にさせた、と。その検察の捜査に対して、保衛部が復讐のためにあらぬ事件をでっち上げて、検察所長が不正を働いたというでっち上げが報告されて、その波風の中で検察所長という人間まで収容所送りにされてしまったということです。
(注2)平壌平川(ピョンチョン)区域保衛部長事件
かるめぎ68(守る会機関紙、過去ログより)
http://hrnk.trycomp.net/archive/karu68.htm
○フリーダムハウス主催国際会議資料 1
 耀徳 (ヨドック) 収容所ソリム川区域の収監者達
2)平壌ピョンチョン区域保衛部長事件 (1997年)を参照

(チョン氏・宋氏、資料に目を通しながら打ち合わせ後)
 余りにも人数が多いものですから、後は区切って在日に関する話しをしたいと思うのですが、私が見ただけでも入れられた人というのは、

(6)氏名不承氏(元在日朝鮮人、元在チェコのテコンドーコーチ、体制批判の罪)
40歳で入れられたチェコでテコンドーを教えていたのに、チェコと北朝鮮を比較して体制批判をしたという罪で送還されて収容所に送り込まれたとか、まあ次から次へ、いずれ皆さんに公開する時があると思いますけれども、ここまでにします。

(7)カン・ソンチョル(元在日朝鮮人帰国者、拉致問題で失言を密告さる)
 この資料の中に在日朝鮮人で、コードネームで130号連絡所と言いますが、連絡所も外貨稼ぎのために貿易部門を持っていて、日本との間を何回も行き来したんだそうです。その時に拉致問題に絡んで何か発言したことが、他の監視している人間から当局のほうに通報(密告)されて、北朝鮮に帰った時に捕まってそのまま耀徳に送り込まれてしまった、と。

 その人は、元々外貨稼ぎをしている間にだいぶお金を党に差し出したので、ここ(耀徳)に何年かお勤めすれば出してもらえるだろうと思っていたのですが、結局出してはもらえませんでした。その名前がカン・ソンチョルという人です。

 それ以外でも日本との絡みで、一気に8人まとめて送り込まれた人がいたのですけれども、その人たちは35号室という金正日の秘密資金を作る場所の工作員として日本に出入りしていて、日本名も持っている人たちだったそうです。日本名も持っている人たちだったのですが、これもまた情報漏洩か何かの罪に問われて、8人まとめて耀徳収容所の革命化区域に送り込まれました。

(8)ユン・ヨンチョル
(56歳、元在日朝鮮人帰国者、元ペヤン貿易会社大連支社長
 韓国人との接触がスパイ容疑に、母の手編みのセーターを着て憤死)
 このように外の世界では罪にもならないような罪で、次から次へと人が送り込まれてくるというのが、北朝鮮の収容所でありまして、ここでもう一人、在日朝鮮人だったユン・ヨンチョルという男、当時2000年に耀徳に送り込まれたのですけど、56歳でした。この人も自分が何の罪で送り込まれたのか、まったく知りませんでした。

 送り込まれる前に何をしていたのかというと、軍隊が持っている貿易会社、びゃくよう、ペヤン(柏陽または白陽?)貿易会社というのがありまして、それの大連の支社長をやっていたのですね。その商売をやる中で、韓国人と取引きしていたのが、これもまたスパイ容疑ということになって送り込まれたのですけれども、この人は、送り込まれる前の取調べの生活が長かったものですから、送り込まれた時は、ほとんどまともに身も体も動かせない状況でした。

 しかも彼が特徴的だったのは、彼の話しによると自分の母親は、日本でまだ生きているんだと。その母親が手編みで編んでくれたセーターをずっと着ていたこと。真夏でも着ていたんです。何でこのクソ暑いのにそんなものを着ているんだ? と言ったら、いやこれは、母が編んでくれたセーターだからと泣いていたのです。そしてとうとうこの人(ユン・ヨンチョル)は、収容所の中で栄養失調で死んでしまいました。

(9)シン・ジョンエ氏(元在日朝鮮人の収監者で唯一釈放が確認されている人)
 先ほど、私が知っている在日朝鮮人の中で、運良く生きて出ることができたシン・ジョンエさんですけれども、この人も1年収監されて出て行く時は、運良く革命化が終わって出されたんですけど、その時には自分で歩けない状況で、担架に乗せて出されました。

 耀徳の中で人が死にますと、棺桶に入れるということは一切ありません。墓の形さえ作らせないのです。とにかく埋めて、平たにしてしまう、土に返してしまう。

(以下の段落のみ、宋氏個人の発言です)
 これは別の機会に、彼(チョン氏)から聞きましたけれども、要するに一旦こういう所に送り込まれた人間は人間ではない、土くれなんだ、だから土に戻すんだ(注3)、という言い方を(耀徳では)良くしていたそうです。
(注3)「死後も人民に踏まれろ」で平土(ピョンド)に
 姜哲煥・安赫共著の「北朝鮮脱出」(文春文庫上下巻)でも言及されていますが、耀徳収容所では、囚人が死ぬと墓を作ることは許されず、死体は特に道の下に埋められ、その上も墓や盛り土にせず平らな平土(ピョンドと読む)にされます。これには「政治犯は死後も人民に踏まれろ」という意味があり、祖先崇拝や墳墓の整備に固執する朝鮮文化圏の人々にとっては、極めて侮辱的な仕打ちになるのです。

(再びチョン氏の証言)
 収容所も12月になるととても冷たくて、土がカチカチに固まるので、死んだ人間を埋めるという作業がなかなかできないのです。ですから死体は、12月以降は倉庫の中に収めておきまして、その倉庫の中でカチカチに(凍って)固まるそうです。そして2月頃、土が掘りやすくなったらまとめて埋めるという作業をしていました。

 収容所の中には、名前ばかりの病院というのがありまして、そこでどういう処置をするかというと、例えば歯が痛いので抜歯をするとなると、歯科の抜歯用ではなくて、普通の工具のペンチで歯を抜きます。

 また盲腸の手術もするんですが、どういうふうにするかというと、メスなどはもちろんありませんので普通のナイフを(消毒のため)火で炙りまして、麻酔などなく(意識が)生きたまま人間を縛って、ナイフを入れる、と。そのナイフを入れる人間も医師免許があるわけではなくて、収容所では獣医の免許さえあればそういう行為をさせる、ある種実験台にもなっているんです。

(チョン氏、宋氏に何事か訴えて、以後は宋氏の解説)
 彼自身は、昨日も話したのですが、本来こういうことは思い出したくなくて、韓国に来てもうだいぶ経ちますけれど、それでも寝るとき悪夢が甦ってよく眠れないものですから、寝る前に酒が欠かせないそうで、こういうこともなるべく思い出したくないということで、意識下に押し込めようとしてきたんですけれども、私どものこういう要請で、とにかく苦しいかもしれないけど、(収容された)その人たちのためだからとお願いして今回来まして、彼は(これ以上)話すのは辛い、と今言っております。
(司会の三浦代表に)どうしましょう? 時間はどうですか?

 司会:三浦代表(この発言部分は、公式ファイルでは編集されて削除されています)
 もし、宋さんのほうで、既に聞いたことがあるのであれば、少し話していただけますか? どうしても本人がイヤだというなら…。

(チョン氏気を取り直して、再び語り始める)
 革命化区域の他に完全統制区域というのがあって、この世に生きて出さない区域のほうが9割以上あって、30万以上と推定される政治犯収容者の中で、ごく一部、1割弱が、革命化区域という所で辛うじて生きている可能性が残されているというところです。

 ただ、革命化区域の人間であってもここまでの扱いをされていて、バタバタ撲殺され、餓死し、冬には凍死しております。

 今この方は、韓国で北朝鮮政治犯収容所解体運動本部の組織部長という仰々しい名前ですけども、こういう運動体で活動しておりますので、今後皆様も、こういった収容者の問題に関心を傾けていただいて、皆様のご協力の下に早くこういった非人道的な行為に終止符が打てるように世論を、国際世論を盛り上げていきたいと思っています、ということです(拍手)。

 司会:三浦小太郎守る会代表
 おそらく今後資料のほうも翻訳がされれば、様々なことがまた明らかになると思います。

 本日この会場に民主党の末松衆議院議員が、いらしておられます。末松先生、ひと言お話しをいただけないでしょうか? 末松先生に拍手よろしくお願いいたします。

 末松義規(すえまつ・よしのり、民主党衆議院議員、東京19区)
どうも皆さん今晩は、今のお話しを聞いていてまた背筋が寒くなって、本当に非人間的な扱いをそこまでやれるのかというショックを受けているところでございます。

 私は、民主党の衆議院議員で末松義規と申しまして、今拉致特別委員会の民主党の筆頭理事をさせていただいております。そこでいろいろな委員会の質疑等をやって、今月(12月)も17日にまたやることになっているわけでありますが、北朝鮮の金正日が…(呼び捨てはまずいと思ったのか、国防)委員長が、病気を患っているので、ほとんど再調査をしてしっかりやれという話しが決まったかと思ったら、全然決まらずに、私ども委員会としても今いろんな活動を、手紙を委員会として正式に出して北朝鮮に送ったりしても、何ら梨の礫(つぶて)になっていまして、ちょっとどういう形で進めていけばいいのか、本当に政府の尻を叩くのは、ずっと叩いているのですが、国会議員としてどういう形で進めていけばいいか、非常に苦渋、難渋しているところというのが、現実でございます。

 別途私は、ミャンマーの民主化運動の民主化議連という議員連盟がございまして、そこの事務局長もしております。これも75名くらい超党派で集まって、ミャンマーのアウンサン・スー・チーあるいは、そういった政治犯を何とか助けていこうという話しをしているんですけども、これもですね、独裁体制の軍事専制の体制をなかなか崩せないというかですね、国連のガンバリ特使なんかも頑張ったり、あるいは潘基文(バン・キムン)事務総長も頑張ったりしていますけど、なかなか達成できないという話しで、本当にここでいろいろお話しがなされると思うんですけれども、ちょっとこちらのほうも手詰まり感で、結局体制を崩してひっくり返すしかないというのが、大方の結論だろうと思うんですけども、なかなかそれは外からはやれないというような状況でございます。

 そういった意味で、ただ粘り強く日本としてやらなければいけないことなんで、最後の一人がきちんと救出されるまで、政治家として責任を取ってゆく、そういう形で臨みたいと思います。今日もまたよろしく追い願い申し上げます(一礼、拍手)。

 司会:三浦小太郎守る会代表
 私たち、もちろん超党派の運動といいますか、基本的にどの政党を支持するのか、そういうのは6団体いずれにも無いと思います。ただ、自由民主党であれ、また民主党であれ、どの政党であれですね、今の話しをお聞きになればね、このような体制は許せないというのは、自由や民主主義を価値とする政治家ならばすべての方々が共有していただけるのではないかと考えております。

※チョン・グァンイル氏の持参した収容者リストの翻訳・文書化は時間がかかると予想されるので、今回掲示した資料からでも、特に元在日関連の被収容者で情報をお持ちの方がいたら、守る会、NO FENCEにご一報ください。

(リ・ウチョル氏の証言に続く)


(注2の参考資料)
 平壌ピョンチョン区域保衛部長事件 (1997年)
 国家保衛部海外情報課所属ロシア駐在のある職員が、イエメンにミサイルを売却して多額の利益を得た。それで一部は個人的に横領し、残りは金正日に献上してその功績を認められて共和国英雄の称号を授与され、平壌市平川 ピョンチョン)区域保衛部長という肩書きを得た。
 その後最高検察所海外チームが不審を抱いて調査したところ、海外口座に個人の資金が入金されていることが発覚し、これを金正日に報告した。金正日は彼を公開処刑した。このことで、保衛部側では検察所側に恨みを持ち、関連検察所を対象として報復したこともあった。


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※このテキストの音声ファイルはこちらから http://www.netlive.ne.jp/archive/event/081214.html
※北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 http://hrnk.trycomp.net/
 NO FENCE http://nofence.netlive.ne.jp/
http://hrnk.trycomp.net/

※このエントリーのテキストは原良一氏の手によるものです。
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脱北者の証言2 北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会第2部より

北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 <アジア人権人同学会の設立準備期成会>
第2部 「収容所体験者・脱北者による証言」
08.12.14 明治大学リバティータワーにて


(承前)
(投稿者より)
「北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 第2部 脱北者の証言」
耀徳政治犯収容所の体験者チョン・グァンイル氏の証言を、長文のため二分割にて紹介します。

 文字起こしにあたって、通訳の宋允復氏の特有のクセで、語りが「私が」の一人称と「彼が」の二人称が混在している部分がありますが、読みやすさを優先させて、明らかに宋氏の解説である部分を除いて、私の文責で「私が」の一人称に再構成しています。

 また通訳を介す場合、どんなに優秀な通訳でも一定程度の誤訳や漏れが生じることが避けられず、これに記録者の主観が再構成時に加わるので、メディアや学界関係等で正確さを要する場合は、オリジナルの公式ファイルの画像と音声との参照をお願いします。

 なお証言内容には、極めて悲惨で、尾篭な汚い部分も多く出てきますのでご承知の上でお読みください。
いつも通り、発言内の( )は原則投稿者の補注です。

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 司会:三浦小太郎守る会代表
 ご存知の方も多いと思いますが、基金は、結成以来もう1000人くらいになるのかな、とにかく数百人以上の人名を何らかの形で助けております。

 そしてこのような脱北者の方が、日本にも多く在住し、韓国にもたくさんいらっしゃる。今日お二人が来ておられますけれども、最初にどうしても断っておかなければならないことがあります。

 皆さん、お手元に資料があると思いますが、チョン・グァンイルさん、こちらの方は、カメラを撮影される方々、自由に撮影されていただいてかまいません。もう一人ですね、ワン・ヘソンさん、日本在住の脱北者、そして中国で非常に悲惨な目に遭った人をお呼びする予定でしたが、ちょっとこの方は変更になりまして、リ・ウチョルさんという同じような立場の方です。メモをされてください、リ・ウチョルさん、発音は下手だと思いますがカタカナです。リ・ウチョル(李宇哲、漢字名は推定)さんに変更になりました。

 そしてこの方は、親族がまだ北朝鮮で危険な立場に置かれております。リ・ウチョルさんに関してはですね、顔は撮影しないでください。本当に申し訳ないことでありますが、これはお願い致します。リ・ウチョルさんに関しては、声の録音や放送は結構です。しかし顔は撮影しないでください。以上のことは主催者の方からお願い致します。

 それでは最初に北朝鮮政治犯収容所の体験者であるチョン・グァンイルさんの証言を、NO FENCEという最近収容所の解体を目指す団体が結成されましたが、そこの事務局長、宋允復氏の通訳でお届けします。じゃ、よろしくお願いします(拍手)。

★チョン・グァンイル氏(政治犯収容所体験のある脱北者)
 通訳:宋允復NO FENCE事務局長

 アンニョンハセヨ、チョン・グァンイルニダ。
 こんにちは、チョン・グァンイルです。私は元々1963年に中国で生まれて、68年に北朝鮮に「帰国」という形で(北朝鮮に)入った人間なんですね。北朝鮮に入った後に会寧(フェリョン)という中朝との国境の町で、小学校、中学校を過ごしまして、79年に軍に入隊し、87年に除隊しました。

 その後、92年までは、一労働者として生活していたんですけれども、92年になって824部隊、これは皆さん、日本人拉致の前進基地のある清津(チョンジン)連絡所ってお名前お聞きになったことがあると思うんです。実は彼は、その清津連絡所のある分駐所と言っていますけれども、そこで勤務をしていました。

 私は98年まで、先ほど申しましたコードネーム824連絡所である清津連絡所、ここで要するに拉致工作等で出入りする、戻ってくる工作員を、偽装漁船(=「不審船」)で引き揚げたりということに関わっていまして、98年の10月からは、今度は連絡所絡みの貿易会社がありまして、「朝鮮貿易会社」といいますが、そこで貿易の事業に携わっておりました。

 その貿易会社は、中国の延吉(えんきつ、ヨンギル、注1)に支社を持っておりまして、99年の5月までそこの支社長としていたんですけれども、99年7月にスパイ容疑、何ゆえにかといいますと、水産物貿易その他で韓国人ビジネスマンと接触したんですね、それがスパイ容疑になりまして、保衛部の取調べを12ヶ月間受けた後に、2000年の4月に耀徳(ヨドク)収容所、皆さんお聞きになった方が多いと思いますけれども、15号耀徳収容所の革命化区域に送り込まれました。
(注1)延吉の読み方
 宋氏は、「えんきち」と発音していますが、漢字登録や各種検索では「えんきつ」と入力しないと、上手く出てきません(「えんきち」の読みも誤りではないようですが)。チョン氏は朝鮮読みで「ヨンギル」、中国語では「イェンジー」となります。

 2000年に(耀徳に)入れられまして、その後2003年の3月まで収容所生活をし、釈放されたのは4月11日です。その後2週間ほどで4月25日に中国に脱出しました。中国では5ヶ月ほど滞在しまして、第三国を経由して2004年の4月に韓国入りを果たし、現在ソウル在住です。

 先ほどのスパイ容疑を受けた経緯について、簡単にお話ししたいと思います。私が以前勤めていた824連絡所というのは、大変機密に関わる部署であって、私自身がその機密を知り得る人間であった訳ですから、貿易を扱う部署に移された後も、実は監視付きだったのです。私本人は自覚していなかったのですが、監視されておりました。

 当初、中国で中国人相手に貿易をやっていたんですけれども、商売として上手くいかなかったのです。それで私は、他の意図はまったく無く、商売の目的だけで韓国人のビジネスマンと接触をしました。

 相手をしていた韓国人ビジネスマンに、特に親しくしていた人がいたのですけれども、私が承知している限り、その人は韓国の情報機関と繋がっている人でも何でもないわけですが、保衛部はそれに目を付けました。彼は、韓国の情報機関の手先であるということになって、個人的な付き合いの中でプレゼントを貰ったりした、それも情報機関からの工作資金を受け取ったという罪名にされまして、スパイという扱いだった訳です。

 取調べというのは、大変厳しい拷問が続いたわけです。私自身は、当初はそんなことはしていない、秘密を漏洩した覚えもないし、意図的にしたこともないと頑強に否定して、頑張ったですけれども、やはり拷問には耐え難くて、いっそこのまま認めて、後は殺されてもいいやと諦めまして、「確かに工作の任務は受けたけれども、遂行はしなかった」とのこの線を守って、虚偽の自白をしたわけです。それが認められて収容所送りが確定しました。

 こうしたスパイとの疑いがかかって取調べを受けますと、一般の司法の手続きとはまったく別体系です。公開の裁判があるわけでもなく、正式な取調べがあったわけでもないのですけれども、拷問を受けて本人が自白したということで、そのまま15号の耀徳収容所に送り込まれました。

(耀徳に)送り込まれてみますと、本当に人間として生きられる所ではないというのが、切実な実感です。私が送り込まれた革命化区域というのは、生きて出られる可能性が残されている所なんですね。ただそこでの扱いも過酷でありまして、送り込まれる前の段階で拷問を伴った過酷な取調べを受けて数ヶ月とか1年過ごしているわけです。

 それで充分に衰弱するだけ衰弱している人間を送り込んで、かなりの強度の強制労働を課すものですから、当然(ノルマ)は達成できません。そうなると食事を減らすという、ただでさえ収容所の最低限の、命を永らえる最低限の食事をさえも削るということで、栄養失調で死ぬ、殴られて死ぬ、そうした人間を夥(おびただ)しく見ました。

 私は運良く生き延びまして、収容者の班長という囚人の中で一定程度監督する立場に付けられたのですけれども、私がいる間、私の班で延べ人数で400人余りの人間が送り込まれましたが、収容された3年の間に200人が死にました。400人送り込まれた中で、200人が3年間の内にどんどん、どんどん死んでいきました。

(耀徳では)収容者たちの労働意欲をかき立てるために食糧が使われるんですね。具体的に申しますと、伐採した木材、直系30センチ以上、長さ4メートル以上の木材を山で伐採し、それを片道2キロの区間を一日4往復させるのです。その木材を引きずって運ぶという運搬作業です。

 その4往復を仕上げると、トウモロコシ餅を一つあげるのです。すると、そのトウモロコシ餅一つを欲しいがために、その達成のために夢中になるのです。虚弱な体を引きずってやるんです。ただもっと弱い人を、例えば押しのけて、で、押しのけられた人は体力がないものですから、斜面をゴロゴロ転がってそのまま木材の下敷きになって足が折れるとか、死ぬとかが頻発するくらい過酷な状況の中で、働かされます。

 しかもそれを冬季にやらせるんです、寒い時にです。そういう形で4往復を仕上げられなかった人たちは、食事が与えられないものですから、それでまた餓死するとこういう形でバタバタ人が死んでいきました。

 春先になりますと、今度は種蒔きの季節になります。蒔く種は何かというとトウモロコシが主なんですけれども、囚人たちが、監視の目を盗んで種を口に入れようとしますね、どうしても。ですからそれができないように人糞を撒くのです。種蒔きの作業をする前に、トウモロコシの種を人糞まみれにしたものを収容者たちに(渡して種蒔きの)作業をさせるのですけれども、それでも口に入れてしまう者がいる、ひもじさの余りに、です。

 もちろん口に入れる時は、服などで拭って入れるのですが、それでも病原菌が残っていまして、それで大腸炎に罹って死ぬ人間が、けっこうな数で出てきます。毎年、春先の種蒔きの時期になりますと、そういう形で死ぬ人間、人糞まみれのトウモロコシを口に入れて死ぬ人間が、だいたい20人か、30人はコンスタントに出てきます。

 夏になりますと、今度は草むしりをしなければならないのです。草むしりも大変な面積をやらせるものですから、しかも暑い夏です。乏しい食事で働かされて、やっぱり課題(ノルマ)を遂行できない人が出てきます。そうするとまた無条件に食事を削ってしまうということで、栄養失調で死ぬ人が、夏にも20人から30人出てくる。

 秋口になると、今度は草を刈って堆肥を作る作業というのがありまして、これも大変な分量です。一人当たりの堆肥を作る課題の量というのが、800キロです、一人当たり…。800キロの堆肥を作れないと、これまた食事を削られて飢え死にする。

 収穫の秋、実りの秋になりますと、囚人たちが作ったトウモロコシを盗み食いするチャンスができるわけです。ただこれが発覚しますと、一房以上盗み食いしたことがバレますと、独監房(トクカンバン)といいまして一人だけを押し込める小さなスペースがあって、そこに送り込まれます。

 独監房といいますと、高さが1.5メートル、幅が1.5メートルということで横になれません。足を伸ばせないというスペースに押し込んで、一日三食与えられますけど、一食あたりスプーン一杯の豆ご飯、(宋氏:たぶん大豆を煮た物と思いますが)と、コップ一杯ぶん位の(実の無い)塩水、一応塩漬けの白菜を煮た汁(スープ)ではあるのですけれども、コップ一杯の汁、それが一日当たり、一日三回与えられる。

 私が3年間いた間、独監房送りになった人間はかなりの人数に登りますが、生きて戻った人間は、一人もいませんでした。私が3年間いる間に、直接見ただけで20人くらい送り込まれましたが、一人も生きては出てこられませんでした。

 後、公開処刑についてお話ししますと、収容所にいる間に直接見た公開処刑は2件です。一件目は、労働の最中に余りにお腹が空いたものですから、ちょっと持ち場を離れて山苺の類を摘まんで食べようとしたところ、点呼が入ったのでびっくりして隠れていたところを、逃走を試みたと見做されてその場で射殺されてしまった人間が一人います。

 もう一人は、これもジャガイモを盗み食いしようとして持ち場を離れたところを点呼が入って、びっくりして隠れていて見つかってしまって、その場でこれも射殺されました。その人が射殺されたのは、私が出所する直前の2003年3月5日でした。

(その2に続く)


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※このテキストの音声ファイルはこちらから http://www.netlive.ne.jp/archive/event/081214.html
※北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 http://hrnk.trycomp.net/
 NO FENCE http://nofence.netlive.ne.jp/
http://hrnk.trycomp.net/

※このエントリーのテキストは原良一氏の手によるものです。
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脱北者の証言1 北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会第2部より

◆管理人よりご訪問の皆様へ

支援仲間の原良一氏より、先日の6団体共同集会における第2部「収容所体験者・脱北者による証言」のテキストを提供して頂きました。
第3部のテキストはまだ紹介し終わっておらず順不同になりますが、テキストの速報性を考慮して一足先にアップいたします。
かなりの長文ですので、分割の上ご紹介したいと思います。
北朝鮮の人権状況を知る上で貴重な証言を是非、ご一読いただければと思います。


・・・以下、テキストを転載・・・

北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 <アジア人権人同学会の設立準備期成会>
第2部 「収容所体験者・脱北者による証言」
08.12.14 明治大学リバティータワーにて


(投稿者より)
 身辺未整備ですが、とりあえず年賀状を出し終えたので、
「北朝鮮テロ全体主義国家の実情を訴える6団体共同集会 第2部 脱北者の証言」
に取りかかります。ご高覧いただければ幸いです。

 最初に、プログラムで事前告知されていた脱北者で元帰国者のトヨタ・アキコ氏が直前で韓国当局より出国許可が下りず、不参加になった経緯が発表されました。脱北者の現況を知る上で重要と思うので、独立した投稿として案内します。ご了承ください。
いつも通り、発言内の( )は原則投稿者の補注です。
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 司会:三浦小太郎(守る会代表)
 これから脱北者の証言を行います。
 わたくしはですね、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(守る会)という団体の代表を務めさせていただいております三浦と申します。急遽、この場だけ司会をさせていただきます。

 最初に北朝鮮難民救援基金の加藤博さんから、本日証言予定のトヨタ・アキコさん(仮名)という脱北者の方が来られなくなってしまいました。そのお詫びと経緯を説明さていただきます。

 加藤博氏(北朝鮮難民救援基金事務局長)
 今ご紹介いただきました北朝鮮難民救援基金の加藤です。
 本来証言集会は、3名でやることになっておりまして、それぞれ充分な時間を取ってお話しさせていただくという趣旨でありました。今ご紹介のありましたトヨタ・アキコさんという方は、お母さんが北海道出身の人で、お父さんももちろん北海道出身ですが、お母さんは日本人妻、それで在日朝鮮人のお父さんと結婚して北朝鮮に行かれた方なんですけども…。

 この方は、そもそもは平壌に住んでおられた方です。ですけれども、日本から北朝鮮に帰る時に「3年経てば、日本に戻してあげる」という約束で行ったのに、約束が守れないということで「提議書」(意見書)というものを出したそうですね。

 そのためにその家族は、(北朝鮮最北端の)咸鏡北道(ハムギョンプクド)の茂山(ムサン)、「茂る山」という所に追放されました。その追放される時に「今後一切、日本語を使ってはいけない」と。「もし使うようなことがあれば、一家全滅になると思え」と脅されて茂山に追放されたために、お母さんは自分が第何次船で来たとか、兄弟がどうであるとか、そういう一切のことを子供に話さなかったそうです。

 本人は、去年北朝鮮を脱出して日本に帰りたいと言ったので、私たちも鋭意努力して探したんですけれども、結局本人が日本から行ったということを証明することができなくてですね、結局日本に来ることはできませんでした。

 本人は仕方なく、自分が行ける所の次の選択肢として韓国を選んだんですが、本人は(北朝鮮時代)茂山の社会安全部、警察ですね、戸籍を担当する部署で働くことができたそうです。そういう(北朝鮮の権力機構である)社会安全部にいたという関係で、韓国に来てからもいろいろと取り調べが厳しかったようです。

 本人は、既にパスポートも取得していまして、自由に出国できる体勢にはありましたけども、いざ、この会議に出席する時になって、担当の警察、刑事がいるんですが、「日本に行くことはできない。行ってはならない。行った場合には、パスポートも没収するし、罰金は300万ウォンだ」と、そういう話しがありました。

 私は、この事情がよくわからないので、在東京の韓国大使館の領事に尋ねてみましたら、本人が韓国で保護観察中という場合は、パスポートを持っていても出国できない場合がある」という説明でした。

 本人は、担当の刑事からそう言われて出国できないということで、「今回は申し訳ありませんが出席できません」と、そういう話しがありました。

 ですから、韓国に着いたからといって必ずしもすぐに自由になれるという訳ではなくて、そういう保護観察という身分である場合もあります。そういうような結果で、今回は皆さんに非常にドラマチックな話しでもあり、北朝鮮の現実をわかってもらう上で、非常にいい話しだと思いましたので紹介しようと思っていまいたけれども、今お話ししたような事情で、来れなくなってしまいました。皆さんには、期待していただいたのに充分にそういう機会を設けることができなくて、本当に残念です。申し訳ありませんでした(一礼)。以上です。

 司会:三浦小太郎守る会代表
 今お話しになられました北朝鮮難民救援基金のホームページに、トヨタ・アキコさんの書いた手記が載っております。それなどお読みいただければありがたいと思います。

 ご存知の方も多いと思いますが、基金は、結成以来もう1000人くらいになるのかな、とにかく数百人以上の人名を何らかの形で助けております。

 実はわたくし、この服は脱北者の方から貰いまして、実はこの服も貰いまして、ズボンは間に合わなかったんですが(笑)、わたくしは、いつもほとんどホームレスそのものような格好をして、皆さんと会うことがあるんですけれど、今日は脱北者のお陰で、支援を受けて(笑)ちょっとまともな服を着て、ズボンは丈を短くするのが間に合わなかったので、残念なことであります。


 以下、投稿者の補注

 三浦代表も紹介していましたが、トヨタ・アキコさんに関しては、北朝鮮難民救援基金のホームページで本人の手記を含む詳しい紹介があるので、参照ください。

■北朝鮮難民救援基金NEWS58号 2008/08/28(08.7・8月合併号)
http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/news58.htm

日本に行けなかった日本人妻と娘 トヨタ・アキコ
http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/news58.htm#
(一部抜粋)
>私は大人になるまで、生まれた北朝鮮が世界中で一番良い国だと信じていた。
>北朝鮮の安全部住民登録課で勤務していた時、(中 略)経済監察課が押収したラジオで
>日本のNHK放送と韓国KBS放送を聴いたのが発覚した。

>調査が始まるとセメントの床にひざまずかされ、椅子、角材を使って、
>頭、胸などを無差別に殴打、暴行され、拷問を受けた。
>私は日本に行きたかった。2004年から2005年にわたって瀋陽の日本総領事館に
>5度ほど連絡をしたが、返事はいつも「待て」で何の進展も期待できなかった。

(脱北者チョン・グァンイル氏の証言起こしへ続く)

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※ このテキストの音声ファイルはこちらから http://www.netlive.ne.jp/archive/event/081214.html
※ 北朝鮮難民救援基金 http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/
http://hrnk.trycomp.net/

※このエントリーのテキストは、原良一氏の手によるものです。
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