


正義大叔父の命日の今日、靖国を訪ねてきました。
いつも思うことですがここは大叔父の魂のいるところ、戦友たちとの再会を誓った約束の地だということです。
神門を入って右2番目の神雷桜を見るたびに、ここに叔父さんの魂は宿っているのだな、と強く感じます。
若葉で覆われた神雷桜が風に吹かれてたてるさわさわという音は、亡き特攻隊員の息遣いのようにも思えます。
神雷桜は、やはりいつ見ても私にとっては特別な桜ですね。
靖国ついていろいろ意見があるのは承知済み。
特攻について様々な理解があるのも承知済み。
でも、私は思うのです。
彼らはどこにでもいるごく普通の人間だったのだ、と。
愛する家族がいるからこそ、自分の命を賭けてでも守ってみせる!と彼らは決意することが出来たのではないか?と。
自分の命をかけるだけの価値のある家族がなくて、どうやって人は決死の特攻を決意できるというのでしょう?
靖国にいらっしゃる英霊たちは、壮絶すぎるほどの愛情を持って後に残る家族たちの未来を守ってくれたのだと思います。
英霊の思いは、後に残る家族へ向ける愛以外に、何があるというのでしょうか?
靖国について特攻について、いろいろ意見はあってもいいと思います。
でも、その議論をする前に、靖国の御霊に対して、一度は深く首を垂れて感謝の意を示すのが、人間としての最低限の礼節ではないか?と私は思っています。
私は後世に生きる一部の人たちが、自分たちのイデオロギー的主張を通すために、特攻隊員を狂信者扱いしたり、逆に軍神扱いする風潮には強い違和感を感じています。
そういう意見に触れるたび、彼らは狂信者や軍神などではなく、ごくごく普通の人間ではありませんか?と私は言いたい。
愛する家族や友人のいるごく普通の人間だから、悩み苦んだ末に、彼らは命を差し出す覚悟が出来たのではないのですか?と言いたいのです。
今の感覚から考えれば正気の沙汰ではない特攻作戦を決行するまでには、彼らにも逡巡の時があり、苦しみの末に悟りの境地に辿り着いた、と考えるのが普通ではないでしょうか?
その過程を忘れて自分の主義主張の裏付けに使うがために、都合のいいところだけを切り取るようにして特攻を語る向きには、違和感と不遜の念しか感じない私です。
世は戦争真っただ中の非常時。
国家存亡の危機に立たされた時、特攻の大叔父は故郷の家族を守るために、自分の命を差し出す覚悟を決めてくれました。
弱冠二十歳の青年の決意の重さを思えば思うほど、私は大叔父の大きな愛情に圧倒されます。
当たり前の話ですが、戦後生まれの私にとって、特攻の大叔父は写真と祖父母や母からの伝聞でしか知らない存在です。
この世で一度も逢ったことのない特攻の大叔父の、あまりにも大きくて重すぎるほどの愛情を感じる場所が、私にとっては靖国なのです。
いつか私が三途の川を渡ってあの世へ逝ったとき、胸を張って正義叔父さんに逢える自分でありたい。
それが、大叔父の命がけの愛に守られた、後世に生きる私の果たすべき最低限の務めと考えています。