特攻兵は普通次男以下が志願し選抜されるのですが、お兄様は長男であるにも関わらず特攻兵に志願されました。
しかもその事実を両親には隠しての志願だったのだそうです。
彼の母親はある日、面会のために茨城の訓練地を訪ねたそうです。
その時上空を訓練で飛ぶ飛行機(多分、桜花の訓練機のこと)をみて、旅館の仲居さんに「あれは何ですか?」と聞きました。
仲居さんは「ああ、あれは神様です」と一言答えたとのこと。
飛行機を見てそれを即「神様」と呼べば、それは特攻の訓練であることは当時の日本人には常識です。
いくら息子が何も言わずに黙ってても、母親には長男が特攻に志願したことはすぐに分かります。
面会の席で母親は息子に「おまえは特攻に志願したのか?長男なのになぜ志願したのか?」と問い詰めましたが、息子は最後まで頑として口を割らなかったとか。
その席に戦友として同席した前述の元桜花特攻隊員も、お母様に厳しく問い詰められ往生したとか。
あの日の母親の様子は今も忘れられない・・・そうです。
私のマイミクさんが、最近「神雷部隊始末記」という本を出版されました。
その本を見て、最近になって神雷部隊で戦死した特攻隊員の遺族の方が、自分の肉親がどういう人だったのかを知りたいという問い合わせが、戦友会の関係者の方のもとにもたくさん届いている、というお話が直会の席で披露されました。
問い合わせを受けて、「その人のことなら北海道のどこそこに住んでいる○○さんが同期だから彼に聞くといい」と連絡先を教えることもあるそうです。
教えられた連絡先に電話を入れて早速話を聞きました、とお礼の電話を頂くこともあるそうで。
そのお話を伺い、改めて私は自分の幸運を思わずにはいられない、と感じています。
自分の息子が、兄貴が、夫が戦場でどんな死に方をしたのか?を知りたい・・・と思うのは人情だと思います。
けれど特攻の場合、その攻撃の性格上、多くのケースが実際の戦闘の様子を知るすべはないのです。
それどころか、前述のご遺族の方のように、自分の息子が特攻に志願したことそのものを知らされていないケース、戦後占領期に世間の批判を恐れて、名簿などの関係書類が破棄されたり紛失したりで、誰がいつどこで特攻したのかという基本情報すらうやむやになっているケースなどが、たくさんあると聞いています。
そして多くの特攻隊員はそのほどんとが未婚のまま戦死していますので、今遺族としてある人たちも、親・兄弟・妻という立場の人はごく少数。
肉親であっても私の母のように姪であったり、私のように姪の娘であったりと、どんどん縁が遠くなるわけです。
縁が遠くなり時間がたてば、肉親といえども、特攻隊員として死んだ身内の人となりが分からない・・・というのは有り得ることです。
それでも、肉親の死に少しでも関心を持てば、その人がどういう人であったのか?
わずかでもいいから知りたい、知って供養をしたい・・・と思う気持ちは、私にも痛いほどよくわかります。
幸運にも母機の一式陸攻が無事生還して、搭乗員の室原さんが手記を書き残し実家に手紙を送り続けてくれたことで、我が家の場合は正義大叔父の人となりも特攻の様子も、戦死の地も全てが分かっています。
だからこそ、終焉の地である沖縄の本部を訪ねて行くことも出来る。
その幸運に感謝し、肉親が訪ねることさえ出来ないであろう、多くの特攻隊員の御霊を思って、本部湾に頭を垂れたい・・・との思いを強くしています。
慰霊祭でご一緒した元桜花特攻隊員のAさん。
彼は今も戦友のご母堂とやり取りをされているのだそうです。
戦後65年経って、まだ健在のお母様がいらっしゃることに驚きつつ。(御歳100歳を超えていらっしゃるそうです)
戦友の死を忘れたくないとAさんは毎年の命日に靖国参拝を欠かさず、鎌倉の建長寺の慰霊碑を訪ねては、お母様の分までお参りしましたと、鎌倉銘菓の鳩サブレをお母様の手元に送り続けているのだそうです。
お母様からは、「今年も鎌倉から鳩が飛んできた」とお礼の言葉を頂き、同時に次のような言葉を仰るのだ、と私に語ってくださいました。
「Aさん、人間には二つの死があります。ひとつは医学的に、生物学的に死ぬこと。もうひとつは、その人の存在が忘れ去られて人の心から消えてしまうこと。忘れ去られての死はとても辛いことです。私は生きている限り息子を忘れたくはありません」
Aさんは直会の席で、今私が話したことをどうか次の世代に伝えてください、と懇願されました。
生きている限り、私が知っていることは何でもお話します。
そのために膝と腰の痛みをこらえて、今日私はここに来ました。
来年も元気で再びここに来たいと思いますが、私は80を超えてあと何年生きられるか分かりません。
聞きたいことは何でも聞いてください、その代わり、私から聞いたことをどうか一人でも多くの方に伝えてください・・・と。
私は特攻から逃げて生き残ったわけではありません。
死ぬ覚悟をしたのに、結果として生き残ってしまった。
そのことだけは、どうかわかってください。
Aさんは目にうっすらと涙を浮かべながら、そういう言葉も仰りました。
死ぬよりも生きる方が辛い。
言葉にすればたったそれだけですが、大変な重い荷物を背負われて戦後を必死に生きてきた大先輩の思いが、そこにありました。
思いを託された者の一人として、その重い荷物のいくばくかでも、代わりに背負う責任が、私にもあると思っています。
戦友の死を思って、戦友のお母様に鳩サブレを送り続けるAさんの姿は、今は亡き、室原さんの姿と重なります。
生き残った特攻隊員も、また苦しい時間を必死に生きてきたのだと。
忘却は罪です。
戦争についていろいろ意見はあろうとも、国を守り家族を守ろうとして命をかけた人たちがいたこと。
そして生き残った苦しみを背負い、戦死した戦友の分までもと、戦後の復興期を必死に働いてきた元特攻隊員がいたこと。
彼らの思いを決して忘れてはいけない。
日本の今は、彼らのような大恩人・大先輩の苦難の上にあることを、忘れてはいけないと改めて心に刻んでいます。