2010年03月26日

関行雄大尉のお母様

特攻に多少なりとも関心のある方なら、関行男大尉のお名前はご存じのことと思います。

(残念ながら知らない、知っているが詳しくは分からないという方はこちら↓をご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7

関大尉はフィリピン・レイテ沖海戦において、初の特攻作戦を決行、戦死したその人です。


先日参加させていただいた、神雷部隊戦友会慰霊祭の席でご一緒した元桜花特攻隊員の、ここでは仮にAさんとしておきます。
Aさんからお伺いした関大尉のお母様のお話を、ここに書きつづりたいと思います。



関大尉のお母様は息子と夫を戦争で失い、戦後は実家からわずかな米を分けてもらいながら命をつなぐという極貧生活を送っていたそうです。
Aさんは関大尉と同じ兵学校の出身。

「戦争中、特攻隊員は神様だった。けれど8月16日以降、我々は特攻崩れとされてしまった。それが戦後日本の処世術だったのです」

というAさんの言葉に象徴されるように、戦争中は神と崇められた特攻兵のお母様が、戦後は手のひらを返したような冷たい扱いを受けることとなりました。

(関大尉のお母様は、戦争中は軍神の母と崇められたのが、戦後は一転して「軍国主義」の批判の矢面にたたされたそうです。特攻隊員に対する世間の扱いが戦争中のそれに比べて如何に冷淡だったかを、私たちは心に留めておく必要はあると思います。)

戦死者の遺族に対し、遺族年金が支給されるようになるのは昭和28年のこと。
それまで国は、国のために命をささげ、一家の働き手を失った遺族を8年間も放置したままだったのですよ、と。

戦後の生活に困っているのを見かねた兵学校時代の仲間が奔走して、お母様を学校の用務員として働けるよう手配をされました。
そして28年の遺族年金支給開始が決定し、これで安心して生活できると喜んだのもつかの間、学校からの帰り道に転んで怪我をし、そのまま関大尉のお母様は亡き人となってしまわれたのだとか。

「息子と夫が戦死し、戦後の極貧生活をしのいだ関大尉のお母様は、結局一円たりともお国のお世話になることもなく、亡くなったのですよ。」

「戦争で一家の働き手である父親や夫や息子を奪われた多くのお母さんや奥さんは、大変な苦労をして遺された子供たちを必死で育てました。その人たちを国は8年間も放置して何もしなかったのです。あの時代、お母さんや奥さんたちはどれだけ苦しい生活をしたか、あなた、分かりますか?」

「終戦当時は大変な就職難の時代。特攻隊員という経歴があるだけで、その就職口がさらに狭められたのがあの時代です。今の時代も就職難というが、私のような元特攻隊員の就職難はその比ではありませんでした。」


「これは私の個人的な意見ですけれど、子供手当とか高校無償化とか、戦後苦労されたお母さんや奥さんのことを思ったら、今の人たちは少し甘えすぎではないですか?」



戦争時代の苦労と今の時代をそのまま比較することはできません。
戦中戦後の生活苦を思えば、どんな時代の苦労もその比ではありません。

ただ、命がけの戦争を戦い、戦後の復興期をがむしゃらに働いて現在日本の礎を作ってくれた大先輩の言葉には、やはり重みがあると思います。
元桜花特攻隊員のこの言葉を、皆さんはどのように受け止められますでしょうか?


posted by ぴろん at 10:21| Comment(5) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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