2010年04月25日

ブルーリボン作りにご協力を♪

東京ブルーリボンの会が行う街頭活動は、大体2カ月に一回程度の頻度で行っています。
そこで配布するリボンパッケージの数は、多いときで1000〜1200個。
少ないときでも500個程度は用意しています。

リボンは、ブルーリボンの意味やボランティア募集の案内を記したカードと一緒に3個ひと組でビニールパッケージして配ります。
3個のリボンをパッケージして配るのは、「一つはご自分の胸に、残りの二つはご家族や友人など、身近な人にあなたの手で広めて頂けませんか?」との願いを込めるため、です。


リボンを作る人。
それを街頭で配る人。
パッケージを受け取って身近なお知り合いに配る人。


一つのリボンに、それぞれの立場から「救いたい!」という願いを込めて。
一人一人の「救いたい!」という願いをつないで、ブルーリボンが一人でも多くの人の胸に輝いたら、それは必ず救出のための力になると信じています。



東京ブルーリボンの会では近々街頭活動を予定しています。
その際に必要なリボンは最低でも1500個。
多いときは3000〜3500個ほどのリボンが必要です。

一人でも多くの方にリボン作りのご協力を頂けると、ありがたく思っております。
あなたの「救いたい!」という願いのこもったリボンを、会までご提供いただけないでしょうか?

私も日々リボンの増産に励んでいますけれど、一人の努力にはどうしても限界があります。
リボン作りにご協力いただける方がいましたら、是非東京ブルーリボンの会までご連絡ください。
毎度毎度、お願いばかりで恐縮ですが、一人でも多くの方のお力添えを頂きたく、ご連絡をお待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>


ご希望の方にはリボンの作り方を解説した資料も用意しています。
数の多少、上手下手は問いません。
大事なのは、「救いたい!」という願いですから。


かわいい東京ブルーリボンの会連絡先 blue-jewel-7@mail.goo.ne.jp
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2010年04月19日

基地と沖縄

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沖縄の地に立って思うのは、ここは東シナ海を挟んで目の前が中国大陸なのだな〜〜、ということ。
逆に中国大陸の側に立って沖縄を眺めると、中国が広〜い太平洋に出るには、目の前の沖縄諸島が防波堤のように邪魔をしている、ということ・・・です。

沖縄の人たちが好むと好まざるとに関わらず、ここは今も昔も地政学的に国防の拠点なんだな、と改めて実感します。
それと、エネルギーを石油に頼る日本にとっては、シーレーンでもある沖縄付近を中国に抑えられてしまうことは、日本の喉元に刃物を突き付けられたのに等しいこと・・・とも感じました。

基地移転を巡って論争かまびすしいこの頃ですが、国防の視点を忘れた論争は何かが間違っていると思います。
沖縄の過重な基地負担は配慮をしなくてはならないでしょうが、だからといって「沖縄に基地はいらない!」と極端に丸腰論に走ってしまうのも、どこか違うと思います。
沖縄から基地が消えて丸腰になったら、ここは間違いなく中国の支配下に置かれるのではないでしょうか?
日本が戦争に負けて、沖縄がアメリカの支配下になり、島の良い場所を基地に占領されて沖縄の方々が不便を強いられているのも、歴史の事実でしょうけれども・・・
かつて琉球は中国に対し朝貢外交で沖縄の安泰を図ろうとしたのも歴史の事実・・・だったはず。
沖縄が未来永劫、平和で穏やかに暮らせる土地であるために、本当に必要なものはなんだろう?と考える視座があってもいいように思っています。

沖縄が日本を離れて仮に独立したとして、沖縄の安泰を自力で維持できるでしょうか?
朝鮮半島が、その周囲を大国に囲まれ、各国の政治力学に翻弄された歴史をたどっているのと同じに、沖縄もまた、周辺国の思惑に翻弄されるのは、目に見える未来予想図のようにも感じます。
沖縄はこれまで通り、日本のままでいた方がいいのか?
それとも中国の支配下に入ったほうが幸せなのか?

沖縄の方には少し残酷な言い方かもしれませんけれど、国防の視座から考えたとき、理想論や願望だけでは済まない厳しい選択を迫られるのが、沖縄基地問題を考える上でのひとつのファクターなのだと感じます。



旅の最終日、本部湾での慰霊を終えた後、空港にそのまま戻るには多少の時間があったので、お願いして沖縄本島の東側に出てもらい、辺野古地区が見渡せる場所に連れて行ってもらいました。
現地に行って感じたことは、沖縄は観光の島と言いながら、島の東側には観光客があつまるような観光スポットがほとんどない、ということ。
辺野古地区の方々が地域の再建を願い、苦渋の選択で基地受け入れを決断されたことを、改めて実感してきました。

沖縄駐留アメリカ兵が、問題を起こしてはニュースに出ることで有名な金武町のキャンプシュワブも、本島の東側。
ここは採用間もない新兵が派遣されてくるところなので、どうしてもあれこれ問題を起こしやすいのです、と運転手さんからの説明も頂きました。


嘉手納基地のある嘉手納町は町の面積の9割ほどを基地に占領されていること。
基地のある町に入ると、Yナンバーの車(基地のアメリカ兵の所有する車はYナンバーをつけています)がやたらと目立つこと。
基地周辺のアメリカ兵相手の商売は、円高ドル安の影響がすぐに出て、景気の変動が左右されること。(ベトナム戦争のころは基地周辺の商売は、ずいぶん繁盛したそうです)
町を走るアメリカ兵の着る軍服の色は砂漠仕様の茶色であること。(これは沖縄からもイラクに派兵されていることを意味します)
ベトナム戦のころは、アメリカ軍の軍服の色はジャングル対応の緑色だったそう。
沖縄中北部の道路を走っていると、道路わきに「イノシシ飛び出し注意」のほかに、「流れ弾注意」の看板がある!(沖縄にサルはいないが本土より小型のイノシシは山にいるそうです)

沖縄では4月に旧暦で清明(せいめい)と呼ばれる本土のお彼岸のような季節行事があり、一族が集まってお墓参りをするそうです。
今年の清明では18日と25日に帰省ラッシュがあるそうで、道路上の交通情報の電光掲示板にも、「18日清明のため渋滞予想」なんて表示されていました。

沖縄の墓は、本土の墓と違って一族の方が一つの大きな墓に入ります。
中北部の地元の生活道路をいくと、道路わきに突然大きなお墓が目の前に現れてびっくりします。
最近新しく作られた墓もありますが、道のすぐ脇の崖に穴を掘り、普段はその入り口を石を積んで塞いであるような、昔ながらのお墓もたくさん点在していました。

で、沖縄戦終了後、どさくさ紛れでアメリカが勝手に基地を作ってしまったため、人によっては基地の中に一族の墓がある、という方も結構いるんだそうです。
その場合は役所を通じて何月何日に墓参りのために基地の中に入れて欲しい、と申請を出して許可をもらい、清明の墓参りをするのだそうですね。


沖縄では生活の隣にすぐ基地がある。
その事実を改めて実感した、沖縄の旅でもありました。


※写真は、沖縄半島東海岸の勝連半島(石油備蓄基地がある場所)
本部からの帰り道、高速道路の金武町サービスエリア展望台より撮影したもの
posted by ぴろん at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 与太話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

沖縄の旅・・・本編

沖縄二日間の移動には、奮発して観光タクシーをお願いしました。

理由はいろいろ・・・そもそも免許を持ってない、というのもありますが、極度の方向音痴の私は初めての場所は必ず迷子になる、というリスクがあり、これを考慮しないわけにはいかない・・・(^^ゞ

それに糸満市にある平和の礎は、誰にも知られた観光地でもありますが、本部湾の方は、何か記念碑や慰霊碑があるわけでもなく、とにかく海を一望できて可能であれば浜に降りられる所・・・と、目的地が非常にアバウトですから。
これはある程度地元の地理に詳しい方に連れて行ってもらわないと、どうにもならん、と思っての決断でした。

結果的には、これが非常に良かった・・・と思っています。


観光タクシーを生業にされている方ですから、運転手さんは沖縄のあらゆることを勉強されているわけです。
もちろん、沖縄の地上戦についても非常に詳しい。

特攻に関してなら、私もそれなりに資料を読み漁りある程度の知識を持っていますけど、沖縄戦についてそれほど詳細な知識があるわけじゃありません。
もちろん沖縄戦に関しても多少は勉強してますけれども・・・

逆に運転手さん側は地上戦には詳しくても、特攻に関してはアバウトな知識しかお持ちではないのです。
で、私の持つ特攻の情報と、運転手さんの持つ地上戦の知識をすり合わせると、相乗的に沖縄戦の地上と海上の戦況の様子が、大変なリアリティーを持って浮かび上がってくるわけです。
車が走るのは、まさしく沖縄戦の現地そのもの。
これほど有益な歴史の勉強も他にない、と感じました。

沖縄には、室原さんが書き遺してくださった、叔父の最期の様子を記した手記のコピーを持参しました。
それを改めて現地で読み返しながら、本部湾では叔父の桜花の投下状況を目の前の景色に重ねて再現しました。
地図の上で辿るだけでは分からない、当時の様子が、目の前に浮かびあがりまして、これが現地を訪ねる一番の良さ、と実感しました。


本部では、車一台がやっと通れるような、おそらく地元の人しか知らないような細い道を抜けて、本部湾を一望できる場所を案内して頂きました。
これ、いくらナビ付きのレンタカーを借りても、自力でこの場所にたどりつくのは難しかったかも?
それに本部湾には私たち以外には人の影も無く、記念の写真を撮るにも風がとても強くて、仮に三脚を持参しても役には立たなかったと思われます。

観光案内付き・カメラマン付き・道案内付き・・・と思えば、タクシー代は決して高くはなかったと、親切にしていただいた運転手さんには心より感謝しております。




空港で運転手さんとお別れする際、「私たちの慰霊の旅に同行して、私もとても勉強になった」と仰ってくださいました。

私からも、
「これも何かのご縁、手記のコピーを差し上げますので、よろしければ読んでみてください」
と、持参した室原さんの手記の写しを、運転手さんにお渡しいたしました。

亡き大叔父の思いや室原さんの思いが、こういう形で少しでも広がれば、それも供養になるのでは?と思っています。
posted by ぴろん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅を終えて

※2010年04月16日17:51 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・

念願の鹿屋&本部の旅を無事終えました。
母の足腰が立つうちに、という願いがかなえられてホッとしています。

旅を終えて今一番思うのは、やっとこれで気持ちが一区切りついたなぁ、ということ。
良くテレビなどで「ようやく私の戦後が終わった」というセリフを耳にしますが、あれに近い感情が今私の中にはあります。



特攻の死は、遺骨の一片も拾えない死です。
うちの正義叔父の場合は奇跡的に、最期の地を知る手がかりがありましたが、多くの遺族にとっては、肉親の終焉の地を知ることすらできない。
分からなければ、最期の場所を訪ねて行くことも出来ないわけです。

でも、私たちは本部を訪ね、叔父の最期の突撃の様子を目の前に再現することが出来る。
それが、どんなに心の区切りをつけるのに役立っているのか?ということを、深く実感しています。
その意味で、逆に最期の様子が分からないご遺族は、いつまでも苦しい思いを引きずって辛い思いをされるのだろうな、との思いも強くしました。
区切りがつかなければ、多くの遺族にとって戦後は終わりたくとも終わらないのだ、と実感を持って受け止めています。


本部の浜で花束を捧げた後、浜辺で石と砂を少し拾い集めました。
叔父の遺骨を拾うことは出来ないけれど、この浜辺にはもしかしたら、叔父の骨片が一部なりとも打ち寄せられていたかもしれない。
そう思いながら、砂と石を拾い集めた後、本部を立ち去るとき、後ろ髪を引かれる思い、というのは不思議とありませんでした。

本部の海に向かって「叔父さん!私が叔父さんを背負って千葉に帰るよ!長い間待たせてごめんなさい!」と母が叫んだ通り、叔父の魂を一緒に連れて帰って来たような気がしているのです。

物理的には、今も叔父の肉体は本部の海の底にあります。
魂は靖国の社にいるもの、と信じて参拝も続けてきました。
戦死の公報をいただいて、空っぽの白木の骨箱ももらっていますし、千葉の実家には叔父の爪と髪を納めて作った墓もある。

でも、何かが足りない。
長い間、心のどこかで漠然とそんな思いを抱えて過ごしてきました。
その足りなかったものが、今度の旅で埋められたような、そんな満足感・充足感があります。


鹿屋も本部も、遠い。
飛行機に乗れば半日で行ける距離だけど、日常に追われていれば、そんなに簡単に行ける距離でもありません。
その遠い遠い鹿屋と本部に行って、叔父が人生最後の時間を過ごした場所と、肉体の沈んでいる場所を訪ねて、ようやく、心の隙間が埋まったような・・・そんな感じ、と言ったらいいでしょうか。

自分たちの手で、鹿屋、平和の礎、そして本部湾から叔父の魂を故郷に連れ帰り、これでようやく叔父さんもひとりぼっちで寂しい思いをしなくて済むと思うと、心から本当にホッとしています。
posted by ぴろん at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ただいま

午前様ジャスト!!の時間に無事帰宅しました。
※2010年04月16日01:21 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・・・

おかげさまで、正義叔父慰霊の旅は無事終了しました。

3日目の朝は、ザーザー振りの雨。
あれま、これからこの旅一番のイベント、本部に行くというのに困ったな〜〜と思っていたら、途中宜野湾市あたりで雨も上がりまして。
本部では風こそ強かったものの、無事に大叔父終焉の地を訪ねることが出来ました。

で、本部を離れた直後に再びの雨。
これは、叔父の涙雨に違いない、と・・・


無事慰霊の旅を終えて、心が急に軽くなったような気がしています。
ここ数年胸につかえていたものが、スッと落ちたというか。

3日間、本当に良い旅が出来ました。
明日以降、詳しく旅の思い出を書き綴ります。
取りあえず無事に千葉まで帰れて、「皆様ただいま〜〜!!」ということで、取り急ぎ休みます。
明日から早速、私の日常再開ですので・・・(笑)
posted by ぴろん at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄・平和の礎

※2010年04月14日19:02 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・・

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正義叔父さんの名前を見つけました。
一度も会ったことのない人なのに、どうして涙が止まらないんだろう?

半紙に名前を写し取って、せめて名前だけでも千葉に連れ帰ります。
65年、待たせてごめんなさい・・・
posted by ぴろん at 09:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿屋、朝

※2010年04月14日07:35 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・

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午前6時の朝日をホテルから母と共に見ました。
丁度、大叔父が鹿屋から飛び立った時刻。
この時刻、この朝日の中を沖縄目指して、飛び立ったのか・・・と思ったら、涙がこぼれました。

これから鹿児島空港に移動して那覇へ飛びます。
65年前と同じ空を飛んで、叔父のいる沖縄の地に降り立ちます。
posted by ぴろん at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

鹿屋にて

※下記エントリーは、平成22年4月13日午後17:57にmixiへ投稿

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★航空資料館二階展示室に掲示されていた大叔父の遺影
 資料館側のご厚意で特別に撮影させていただきました

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★資料館入口

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★特攻慰霊塔全景

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★戦死者の芳名が刻まれた石碑 写真中央に「石渡正義」と大叔父の名前


・・・・・・・・・・

予定より早くホテルに着いたので、ロビーのPCから書き込みしてます。
朝5時に家を出て、飛行機とバスを乗り継いで航空資料館に着いたのがちょうど11時。
鹿屋は、ちょっと遠かった。。。(汗)

資料館の受付で特攻隊員の遺族のものです、と名乗ったら、すぐに大叔父の史料を出してくださり、学芸員の方が着いて展示物の説明をしてくださりました。
資料館二階の展示室には、正義叔父さんの遺影もきちんと掲示されていました。
母は、写真の前で泣きました。

資料館の二階の窓からは、基地の全景がほぼ見渡せます。
現在の滑走路は当時とほぼ同じ位置だそうで、沖縄出撃の際、母機の一式陸攻が滑走路の端から端まで使って離陸したという風景が、そのまま目の前にありました。

途中、訓練中の自衛隊機が離陸する場面を何度か目にし、飛び立つ方向が同じなのを見て、65年前の出撃風景が目の前によみがえるような錯覚を覚えました。

この基地から南が沖縄の地。
叔父さんは、ここ鹿屋からどんな思いで飛び立ったのでしょう?
多くの特攻隊員はここを飛び立ったまま、二度と帰らないわけで、それを見送る人たちの気持ちはどんなだったのだろう?と思うと、胸が痛い・・・


特攻慰霊碑では出撃者名簿の中に大叔父の名前を探し、せめて名前だけでも連れ帰りたいと、持参した半紙に刻まれた名前を写し取りました。
途中散歩のために訪れた地元のご婦人と行き交い、少しお話をいたしました。
その方の話によれば、慰霊碑に花の絶えることはなく、地元の方によって英霊の御霊は手厚く護られていることを実感。
これならば、叔父さんも寂しい事は無いと感じ、心からありがたく思いました。

桜花別杯の碑は、桜花隊員の宿舎があった、旧野里国民学校の跡地にある記念碑。
田んぼの迫る里山の縁に、その碑はありました。
往時を偲ぶものはすぐ隣の小さなお社くらいですが、ここで叔父は仲間とともに、出撃の日を待って過ごしたのか、と思うと胸が詰まります。

出撃命令を受けて、野里国民学校の宿舎を出て、資料館のある鹿屋基地にトラックで移動したという、その風景が現地に立つと、まざまざとその距離感・空気感を感じて、身につまされます。

基地から鹿屋の市街地まではおよそ2キロ、車で10分ほどの距離。
隊員達は、時々基地を抜け出して町に繰り出したとも聞きますが、その距離感も現地に立って、初めて実感できることのひとつです。

遠いけれど、思い切って来て本当によかったなと。
母が元気なうちに、一度は鹿屋を訪ねたいという夢が叶って、とりあえず今はホッとしています。

明日は、鹿児島空港から那覇へ飛びます。
叔父の出撃空路をほぼそのまま辿って、終焉の地沖縄を目指します。
叔父の気配を追いかけて、叔父の生きた証をじっくりと感じる旅は、明日以降も続きます。

乱文乱筆ですが、取り急ぎ報告まで。
posted by ぴろん at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿屋&本部へ 特攻の大叔父の足跡を辿る旅

念願だった正義叔父の縁の地、鹿児島県鹿屋市と沖縄県本部湾を訪ねて母と共に旅をしてきました。

mixiの日記に現地から書きこんだ文章をここに転載し、続けて鹿屋と本部で感じた思いを、このBlogにも書き綴りたいと思います。
特攻の大叔父関連のエントリーが連投しますが、宜しければお読みください。
旅先の短い時間で書いた文章はかなり乱文ですが、その代わり、その時感じたまっさらの感情をストレートに書いているとも思うので、そのままここでもご紹介します。

お付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>
posted by ぴろん at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月06日

ブルーリボンを急募しています!

東京ブルーリボンの会から、ここをご覧の皆さんへお願いです。

過日都内浅草で開催した4.3第二回浅草街頭活動は、お陰さまで1200筆を超えるたくさんの署名を頂き、無事成功を収めることが出来ました。
街頭活動をご支援・ご協力いただいた皆様、改めてありがとうございます。


さて、東京ブルーリボンの会では近々再びの街頭活動を計画しています。
ところが過日の浅草街頭活動では、予想以上に大きな反響を頂いた関係で、用意したブルーリボンは次回街頭用の予備パッケージまで配布する事態となり、手持ちのリボンが底をつくという嬉しい悲鳴を上げている状態なのです。

そこで皆様にお願いです。
リボン作りに協力していただける方がいらっしゃいましたら、東京ブルーリボンの会まで、リボンを作って送っていただけないでしょうか?

数の多少は問いません。
また、ご希望の方にはリボン作りを解説した資料も差し上げています。
ご協力いただける方は、東京ブルーリボンの会まで、どうかご連絡をお願いいたします。

ブルーリボンを胸につける人が一人でも増えたら、それは必ず拉致被害者を救う力になります。
全ての拉致被害者の救出という私たちの願いを、リボンを胸につけることで共有することが出来ます。

あなたの願いを込めたリボンを、街頭で一人でも多くの方にお渡しするために。
拉致被害者救出を願う多くの心と心をつなぐために。

ブルーリボン作りのご協力をどうぞ宜しくお願いいたします。

★東京ブルーリボンの会連絡先 blue-jewel-7@mail.goo.ne.jp
posted by ぴろん at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月03日

4.3第二回浅草街頭活動報告

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本日の浅草街頭活動の成果です。

◆署名総数・・・・・・・・・・・・1,210筆
◆カンパ総額・・・・・・・・・176,601円

署名数は第一回の巣鴨街頭活動に匹敵。
カンパ総数は東京ブルーリボンの会としては過去最高です。

署名も応じてくださる方が列をなし、あまりにもピッチが速いため、用意した署名用紙では足りず、途中二回コピーのためにコンビニま
で走ったほどです。
持ちこんだリボンパッケージ&ハガキセットは、いつもより多めのおよそ1200個。
こちらも街頭終盤には底をつき、手持ちのバラのリボンを代わりにお配りしたほど。
署名は声掛けをする間もなく次々と応じてくださる方が列をなし、リボンも自ら歩みよって受け取り、その足で署名に回ってくださる方が多数いて、浅草の温かな心に感激しました。

集まっていただいたボランティアの皆さんはおよそ14名。
家族会からは増元照明さん、特定失踪者ご家族の藤田隆司さんも川口から駆け付けてくださいました。
先日紀伊国屋ホールで舞台「めぐみへの誓い」を上演された夜想会のメンバー3名も参加してくださいました。

前日の嵐とはうって変わって今日は天候にも、そして開花状況にも恵まれ、少ない人数の割には最大値の成果を上げることが出来たと思います。

今年の桜を拉致被害者の皆さんにお見せすることはかないませんでしたが、来年こそは満開に咲く美しい桜を見せられるよう、一日も早く拉致問題が解決することを願っています。
来年の桜の時期に、再び街頭活動を行わずとも済むことを祈って・・・

お預かりした署名は、責任を持って民主党鳩山代表の手に届くよう手配をいたします。
またカンパは全額調査会の短波放送「しおかぜ」の資金としてお役立ていただけるよう、近日中にも調査会にお届けする予定です。


最後に、この度の浅草街頭にご協力いただいた皆様全てに感謝いたします。
ありがとうございました。
posted by ぴろん at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

4.3第二回浅草街頭活動のお知らせ(再掲)

昨日、都内には桜の満開宣言が出ました。
隅田川河畔にも明日は大勢の花見客が訪れるものと思います。

桜は日本のイメージそのものということで、北朝鮮には桜の木が一本もないと聞いたことがあります。
北朝鮮に囚われの拉致被害者にも、この美しい桜を早く見せてあげたいと思いませんか?

拉致被害者を救う願いを込めたブルーリボンも、今回は可能な限りたくさん用意しましたので、花見を兼ねて是非受け取りにきていただけませんか?
一筆の署名に応じていただけないでしょうか?

そして、もしお時間があれば、20〜30分でも結構です。
街頭活動のお手伝いをしていただけたら、嬉しく思います。
当日飛び入り大歓迎!

桜満開の隅田川吾妻橋たもとで、皆様のおいでをお待ちしています。





桜咲く春の隅田川河畔で
 鳩山政権に対し、拉致解決を訴える
4.3第二回浅草街頭活動
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日本人の力を結集して拉致問題の解決を!
“Let's do it together.”

季節は春。隅田川河畔では桜が今を盛りと咲き誇り、花見を楽しむ行楽客であふれていることと思います。
けれど、桜は日本をイメージする花ということで、北朝鮮には桜の木が1本もない、と聞きました。
桜見物というささやかな楽しみさえ長い間奪われたまま、北朝鮮にいる拉致被害者の皆さんは、今も救いを待っています。
故郷の桜を家族や友人と楽しむ・・・そんなごく普通のささやかな幸せを取り戻すためには、一刻も早い被害者の救出を実現させなくてはなりません。
そのためには、鳩山政権に対して、もっともっと力強く拉致問題の解決を訴える必要があります。
私たち東京ブルーリボンの会(BLUE RIBBON TOKYO)と共に、春の浅草から訴えましょう。


【日時】平成22年 4月3日(土)
    午後12時〜14時(ボランティア集合 11時半)
    ※事前準備に御協力いただける方は11時頃まで集合
【場所】浅草吾妻橋付近(浅草水上バス乗り場前の広場)
    最寄駅:東京メトロ銀座線浅草駅・東武伊勢崎線浅草駅・都営浅草線浅草駅

【内容】東京拉致問題解説パネル展示・英文他チラシ配布
    署名活動・ブルーリボン・北朝鮮宛てはがき配付・プレゼン他

※ 当日配布するブルーリボンの提供を募っています。
※ 今回の署名の提出先は「民主党鳩山代表」の予定です。


主催:東京ブルーリボンの会 (BLUE RIBBON TOKYO)
   連絡先:blue-jewel-7@mail.goo.ne.jp
 携帯:090-5215-7752 かわむら
共催:北朝鮮による日本人拉致問題完全解決を図る東京都議会議員連盟
拉致問題を考える川口の会
賛同団体:特定失踪者問題調査会
※ご家族、北朝鮮関係の団体、議員、識者にも呼びかけをしています。

◆ お手元にある拉致関連グッズ(ポスター、のぼりなど)お持ちください。
◆ 拉致問題の解決を願う方、どなたでも参加できます。初めてでもお気軽にどうぞ!
posted by ぴろん at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 拉致問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月01日

神雷桜

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実家の両親と待ち合わせて、靖国神社へ神雷桜を見に行ってきました。
開花状況、本日満開宣言が出た模様ですが、私の実感では7〜8分咲き位だったでしょうか?
それでも見事な咲き具合だったと思います。


多くの特攻隊員が、靖国での待ち合わせの場所と定めた神門右二番目の桜。
私の大叔父さんの魂の拠り所。

靖国を訪ね、神雷桜に逢うと、やはり心がホッとします。
でも、母が神雷桜の大きな幹にしがみ付いて話しかけても、返事はないのです。

「叔父ちゃん、な〜んにも喋ってくれない」

母は一言ぽつんとつぶやき、寂しそうな顔をして、しばし桜に寄り添ったまま時間を過ごしました。

今年も花開く時期に神雷桜に逢えて、感無量。
来年も、またきっと逢いに来ます。
それまで、まずは母に元気でいてもらわねば・・・

叔父の戦死時7歳の少女も、この春72歳になりました。
年月は無情に過ぎていくのです。
posted by ぴろん at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする