2010年05月20日

沖縄備忘録

母と共に特攻の大叔父を訪ねる慰霊の旅から帰って、早一ヶ月が過ぎました。
印象に残った旅の出来ごとはすでに書き綴りましたけど、一つだけ忘れていたことがあったので追加で書き記します。
備忘録を兼ねて・・・


まずは旅の二日目、平和の礎を訪ねた時の思い出です。

ここを訪ねた方はご存じだと思いますが、平和の礎に入るとすぐのところに数ヶ所タッチパネル式の検索ガイドがあり、探したい人の名前を入れると、碑の所在地を教えてくれます。
まずはそこで大叔父の名前を入れて、碑のあるところを探し出し、所在地をプリントアウト。
それを手に広い公園内を探すのですが、そこはガイド役も兼ねた観光タクシーのドライバーさん。
平和の礎は案内し慣れていると見えて迷うことなく、千葉県出身者の礎まで連れて行ってくださいました。

碑文に刻まれた名前は50音順に並んでいます。
石渡のいの字は、50音の初めの方と見当をつけて、石井や石田など石の文字から始まるあたりを探し始めた時でした。

「あ!いた!叔父さん、ここにいた!」

母の大きな声でした。

普通、碑文に刻まれた名前を探し当てたらば、ふつうは「あった!」と言うでしょう。
でも、母は「いた!」と叫んだのです。

碑文に刻まれた多くの名前は、縁もゆかりもない人から見れば、ただの名前の羅列です。
でも母にとっては、石碑に刻まれた叔父の名前は、命の温もりを持った叔父の存在そのもの、だったのだと思います。
だから大叔父の名前を見つけた瞬間、本能的に「あった」ではなく「いた!」と叫んだのではないか?と。

そして叔父の名前に取りすがって、後は涙、涙。
「長い間、寂しい思いをさせてごめんなさい、叔父さんやっと逢いに来たよ」と。

沖縄は千葉からは遠い所、そう滅多に行けるところではありません。
石碑の名前を写し取って持ち帰ろうと考えて、事前に半紙を準備していったのですが、石碑に半紙を当てて鉛筆でこすって叔父の名前を写し取るその瞬間、自分の口から出た言葉が、

「せめて名前だけでも千葉に連れて帰る」

でした。
持って帰るのではなく、連れて帰る。
石碑に刻まれた名前を目にしたその瞬間から、私にとっても、叔父の名前が刻まれた石碑はただの碑文ではなくなったのだと思います。



旅の3日目、本部湾にて。

本部の海をどうしても訪ねたかったのは、叔父は特攻で戦死し遺骨のひとかけらも故郷には帰れなかったので、叔父に逢いたいと思ったら、叔父の肉体の沈む海に、こちらから訪ねていかなければ逢えないと思ったから。
叔父もきっと海の底で寂しい思いをしながら、肉親の訪れを心待ちに待っているのでは?と思ったからです。

で、苦心惨憺ようやく訪ねた本部の海で、「叔父さん逢いに来たよ〜!」と母子共々声を限りに叫んで。
花と線香を供えて、遺骨代わりに本部の浜の石と砂を拾い集め、小一時間も過ごしてさて、そろそろ帰ろうとなった時、母の口から思わずこぼれた言葉が、

「叔父さん一緒に帰ろう!和子が叔父さんを背負って帰るから、一緒に千葉まで帰ろう!」

でした。
はるばる千葉から逢いに来ても、叔父の遺骨を連れ帰ることは出来ない。
身代りに浜辺の石と砂を拾っても、やはり叔父の体は、目の前の本部湾の底にいるわけで、置いて帰るのはどうにも忍びない。
さて、困ったどうしよう、と思ったその瞬間に、母が叫んだわけです。
「一緒に帰ろう!」と。

その瞬間、私も思いました。
そうだ、一緒に連れて帰ろう、このまま一人ぼっちで叔父さんの魂を置き去りには出来ない。
連れて一緒に千葉まで帰ればいいんだ、と。
そう思った瞬間から、後ろ髪引かれる思いがす〜っと心の中から消え去る感じがしました。
物理的には叔父の骨を拾ってはいないので、叔父の体は今も本部の海の底にいるわけですが、それでも魂だけは一緒に沖縄から空路千葉まで連れ帰ってきたと感じております。



南方で、シベリアで、無念の死を遂げた日本兵の遺骨が、まだ収拾されずに現地に残されています。
きっと彼らは祖国日本に帰りたいに違いない。
家族のもとへ、故郷へ、帰りたいはずだと思います。

いつだったかアルピニストの野口建さんが、縁あって南方のあるところへ元日本兵の遺骨の調査に同行したとき、多くの遺骨を見つけながら、様々な理由でその御遺骨を持ち帰ることが出来ず、現地に置いたまま日本へ戻らねばならなくなったことがあったそうです。
その時、野口さんは「必ず皆さんを迎えに来るから、もうしばらく待っていて欲しい」と涙し、後ろ髪引かれる思いで現地を離れた・・・という記事を読んだことがあります。
そのお気持、今の私には分かるような気がします。
目の前に、御遺骨があって、無念の魂の存在を目にした時、人はそのままその場を立ち去るなんて、出来ないことだと思いますから。


何気ない一言ではあるのですが、母の発した「叔父さんいた!」と「叔父さん一緒に帰ろう!」の言葉に、肉親ならではの思いを感じて頂ければ幸いです。
知らない人が見れば、ただの石碑、ただのサンゴ礁の海です。
でも、ゆかりの者には、それは単なる物体でも風景でもなく、魂の宿る寄りしろであることを、ご理解いただければ嬉しく思っております。
posted by ぴろん at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月09日

今年の5月4日

20100504.jpg

連休中は、バタバタと仕事に追われ、連休明けには拉致支援の街頭活動に追われで、今年の大叔父命日の靖国参拝について書く暇がありませんでした。
ようやく忙しさも少しだけ息をつけたので、忘れないうちに、いろいろと今年の思いを書き記したいと思っています。


5月4日は、私の特攻の正義大叔父の命日。
実家の両親、妹と途中駅で待ち合わせて、今年も靖国へ行ってきました。

今年は念願の鹿屋&本部の慰霊の旅もしたことですし、叔父さんの御霊にその旨を報告する、という大きな目的もあります。
歳を重ねて歩みが少し遅くなった母の隣で、歩調を合わせるようにして、九段の急な坂を上り、社を目指しました。


手水を済ませて神門をくぐり、まずは神雷桜へ。
ご本殿の奥深くに叔父の御霊がいらっしゃることは分かっていますけど、戦友との再会を誓った神雷桜は、遺族にとってはもう一つの寄りしろであり、叔父の肉体そのもの、といっても過言ではありません。
年月を重ねて大きく太ったその幹に手を添えると、陽の光に暖められた幹のぬくもりはそのまま叔父の体温のような気がします。
春、桜の季節には淡いピンク色に染めていたその姿も、すっかり新緑の若葉に変わり、風にそよぐ若葉の葉ずれの音は、叔父の息遣いのような。

母は靖国を訪ねると、いつもいの一番に神雷桜に抱きつきます。
神雷桜を抱きしめることは、母にとっては、そのまま特攻の正義叔父を抱きしめるのとイコール。
そして、涙。


昇殿参拝をお願いし、他の参拝者と共に御社深く進んできました。
今回の昇殿参拝は、どういうわけか遺族の方が多かった。
昇殿はこれまでに何度もさせてもらっていますけど、遺族の方と同席することはあっても我が家の他にもう一軒くらい、というのが常でした。
お日柄が良かったのか、たまたまだったのか分かりませんが、この日は大叔父を入れても全部で5名ほどの遺族が集まり、ご一緒に昇殿させて頂きました。
昇殿の拝礼でも、いつもなら家族の代表1名だけが榊をささげて拝礼するのですが、この日は遺族が多いことに配慮してくださったのか、昇殿した参拝者全てに榊を渡してくださり、それぞれ拝礼をさせて頂きました。

静かに頭を垂れて目を閉じると、つい先日訪ねたばかりの鹿屋基地の風景や本部湾の景色が目に浮かび、涙を抑えることが出来ません。
今までも、資料や本などでそれなりに叔父の足跡はたどってきたつもりですが、やはり現地に足を運んで直接にその場の空気なり距離感なりを感じてくると、心に迫るものの強さは違うのだと実感します。

「叔父さん、あなたの人生の最期の場所を訪ねてきました。
残しおきたしわが心かな・・・と願ったあなたの心の内のいくばくかでも感じる旅が出来たと思っています。
この思いを一人でも多くの方に伝えますから、どうか心安らかにお眠りください」


参拝後は、すぐ隣にある遊就館へ。
ここを訪ねるのも、もう何度目なのか分かりません。

でも、例えば沖縄の地に立ち、目の前に迫る東シナ海とその向こうにある中国の存在を意識して戻った視点で展示物を見ると、従来の自虐史観だけでは語れない、当時の日本の切迫感を感じます。
沖縄を守るために、そして一隻でも多くの米戦艦を沈めるためにと出撃した特攻隊員の胸の内を思うと、今までの「戦争=軍隊=悪」という単純図式の思考のままでいいんだろうか?と素朴な疑問も感じます。
戦争はしないに越したことはないけれど、憲法9条を金科玉条のごとく拝み倒し、戦争の出来ない国のままでいることが果して本当の意味での平和の維持につながるんだろうか?・・・とも。


遊就館の中には、特攻機桜花のレプリカが展示されています。
私たち家族がその場にたどり着いた時、小学校3〜4年生くらいの男の子を連れた若いご夫婦が、そのレプリカを興味深そうに見学しているところに出くわしました。
と、次の瞬間、母はその親子に歩み寄り、今日は特攻の大叔父の命日であることや今目の前にある桜花に乗り沖縄に出撃したことを、身振り手振りで説明を始めたのです。
相手のご家族が、母の話に興味を示してくださったこともあり、母はいつもバッグに入れて持ち歩いている叔父からのハガキや遺影、沖縄の旅で半紙に写し取ってきた大叔父の名前を見せながら、「国や家族を思って死んでいった若者がいることを、どうか忘れないでください」と涙ながらに語り始めたのです。

鹿屋と本部の旅でも、途中現地の方と言葉を交わす折には、必ず叔父の話を切り出しては、「どうか忘れないでほしい、こういう若者がいたことを知って欲しい」と、涙交じりに喋り続けていました。
いきなり特攻の話を聞かされる側からしてみれば、このおばさん、なんだろう?と思う方も多分いらっしゃっただろうと思います。
どちらかといえば人見知りするタイプの母が、人が変わったように堰を切って叔父の話をする様子を見るたびに、この頃思うのです。
母は、叔父の事を伝えたいんだな、と。

母も戦後65年を経て、今年72歳になりました。
残りの人生あと何年か、あとどれくらい元気で出歩けるのか?と考える歳になってしまいました。
自分が元気なうちに、一人でも多くの人に叔父さんの存在を知ってもらいたい・・・そんな切なる思いを、この頃の母の後ろ姿に感じています。

遊就館での親子連れは、幸いにも母の話を関心を持って聞いてくださりました。
別れ際には、貴重な話をありがとうございます、と仰ってもくださりました。
母は最後に小学生の男の子に向かって、「私の叔父さんが亡くなった時、私はちょうど君くらいの歳だったんだよ。姪っ子を護ろうとして死んだ人がいることを忘れないでね」と話しかけてお別れをしました。

その男の子の心のうちに、母の話がどの程度伝わったのか?は正直分かりません。
小学生の子供が聞くには、特攻というのは余りにも話が凄すぎて、その苦しみや悲しみを理解するのは相当に難しいと思うからです。
実際、私も小学生くらいの頃は、祖父母から叔父の話をいくら聞かされても、特攻がどれだけ壮絶な死であったかをイメージすることは出来ませんでしたし。

でもいつか、もう少し大きくなって自分の意思で歴史の勉強をするようになった時、彼の心の中で、母とのやり取りが少しでも思い出されてくれれば、それでいいと思っています。
男の子から見ればまったくの赤の他人のおばあちゃんが、いきなり自分の目の前で、大粒の涙を流して叔父の思い出を語るその姿を心の隅にとどめ置いてもらえれば、英霊の心は必ずその子にも伝わるのだと、私は信じたいですから。
posted by ぴろん at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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