2006年01月13日

「立派な最期でした」親友の戦死を母に伝える・・・映画「男たちの大和 YAMATO」を観て2

すみません。
藤沢集会のテキストの残り、さっさと仕上げねばならないのですが、もう少し大和関連の話にお付き合いいただけますでしょうか?
この作品、本当にいろいろな意味で考える所の多かった映画なので、その感動が薄れないうちにきちんと形に残しておきたいのです。
よろしくお願いを致します。

大和の水上特攻の果て、急死に一生を得て生き延びた特別年少兵の神尾克己が、親友西哲也の戦死を伝える為に西の母親の元を訪ねるというシーンが出てきます。
これは、私にとっては他人事ではない、本当に身につまされる場面でありました。
一連の特攻の叔父のエントリーをお読みいただいた方はもうご存知と思いますが。
うちの場合も戦友のAさんが、わざわざラジオの尋ね人に申し込んでまで家族を探し当て、はるばる熊本から千葉の家までやって来て、叔父の最期の様子を伝えてくれた、と言う体験を持っているからです。

そのとき、実際に私の祖父とAさんがどんな会話を交わしたのかまでは、私も聞いてはおりません。
ですが映画の中の神尾特年兵のように、叔父の両親に「立派なご最期でした」と伝えた事は間違いなく、あるいは両親に土下座して「自分だけ生き延びてしまって申し訳ない」「ごめんなさい、ごめんなさい」と絶叫したのかもしれない。

Aさんが桜花特攻で務めたポジションは、母機の一式陸攻の副操縦員です。
この副操縦員に課せられた任務は、敵艦の上空で桜花を切り離す為のボタンを操作すること。
そしてもう一つは、万が一桜花隊員が負傷などでその任を果たせなくなった時は、代わりに桜花へ乗り込んで特攻する事なのだそうです。
叔父とAさんの命運はまさに紙一重の運命共同体であった、とも言えるのです。

桜花隊員と母機の一式陸攻に乗り込む攻撃隊とでは同じ特攻隊員と言っても少し立場が違います。
前のエントリーでも少し触れましたが、決死と必死の違いがあるのです。
桜花は文字通り切り離しを受けたら最後、あとは敵艦に突っ込むしかない人間爆弾です。
ですから桜花隊員には出撃に当たっては常に決死の覚悟が求められます。
けれど、攻撃隊は少し違う。
母機の一式陸攻は桜花を切り離したら緊急退避し、鹿屋基地まで帰還する事が求められていたからです。
従って、彼らに求められたのは必死の覚悟。
桜花隊と攻撃隊ではそもそも求められる覚悟の具合が違うのですね。
しかし・・・

前述の通り、桜花を牽引した一式陸攻は非常に動きが悪く、喘ぐようにして何とか戦場までたどり着くと言う有様だったのだそうです。
これでは無事に戦場までたどり着けるかどうかわからない。
たどり着けたとしても、今度は無事に帰還出来るかどうかがわからない。
結局の所、一式陸攻の搭乗員たちも、出撃に当たっては決死を覚悟して戦場に臨まざるを得ないという事であったかと思います。
その意味では桜花隊も攻撃隊も、死に赴く覚悟は同じ。
でも攻撃隊には万が一の生存の可能性がある。
実際Aさんの搭乗した一式陸攻は無事帰還に成功した、数少ない母機の一つなのでもありますしね。

けれどAさんの任務は副操縦員。
もしも私の叔父が負傷などで桜花隊の任を果たせなくなった場合は、代わりにAさんが桜花特攻を行っていたかもしれないのです。
同じ攻撃隊でも副操縦員の任にある分だけ、彼も死への覚悟は必死よりは決死に近い物があったはず。

その分だけAさんは、決死の覚悟で桜花特攻を果たした叔父の事を、一心同体に感じていたのかもしれません。
生き延びてしまった自分が、戦友の最期を家族に伝えずしておめおめと生き恥をさらすわけには行かない。
一体全体、どんな覚悟を決めて、Aさんは千葉の家まで訪ねてきてくれたのでしょうか?
映画の中の西の母のように「お前だけむざむざ生き残って」と激しい怒りをぶつけられるかもしれない。
それでも戦友の最期を伝えない事には、彼の戦争体験は自分の中で区切りが付かなかったんでしょう。

映画の中で西の母親は、一度は神尾特少兵を責めますが言い過ぎてすまなかったと詫びます。
おそらく大和の戦死者も、うちの叔父と同様に戦死の公報が届き、遺骨と称して「英霊」と書かれた紙切れ一枚入った空っぽの白木の箱が渡されているはずです。
それで可愛い息子の死を信じろと言う方が無理というもの。
西の母が「うちの哲也はじき帰って来ますので」と言い張って、息子の死を頑なに信じないのも分かる気がします。
あるいはどこかの離れ小島などにたどり着き、生きているのではあるまいか?と。
淡い期待をつなぐのが肉親の偲びがたい情であると思いますので。
けれど、それではいつまで経っても蛇の生殺し、心の区切りが付かないまま、いつまでも苦しみ続けなければなりません。

しかし実際に同じ大和で出撃をし、息子の最期を見届けた人の言葉であれば、それを信じないわけには行かない。
息子の死を伝えに来る戦友の存在は憎らしくもあり、同時にありがたくもあるのだと思う。
それがあって、初めて母親は息子の死を乗り越えて、生きるための覚悟が決められるのですから。
息子は母を護ろうとして大和と共に命をかけた。
その思いを、生き残った者が無駄にして良い訳はないのですから。

仲代達也演じる現代の神尾克己は、長い間大和の沈没地点を訪ねる事は出来なかったという。
自分だけ生き残ってしまったという心の葛藤に苦しんで、戦後60年の年月を彼は寡黙に過ごしてきました。
そして60年ぶりに大和沈没地点を訪ねた彼は、これでようやく俺の昭和が終わったと呟きます。

我が家の場合も戦友のAさんは、叔父の命日のたびに長い手紙とお供物を千葉の実家に送り続けました。
そうしなければ、彼も戦後の年月を生き延びる事は出来なかったのでしょう。
彼の受けた心の傷の深さを、私は知る由もありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★参考過去エントリー
「尋ね人で始まった出会い・・・ある特攻隊員のお話 その6・・・」
http://piron326.seesaa.net/article/5564976.html


posted by ぴろん at 14:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
特攻の叔父さまの記事を見て感動しました。
まさに、大和の「西」少年兵とダブりますね。
家族のため、国のために戦ってくれた先人達に感謝の念を持って靖国神社に参りたいと思います。
Posted by ふみこ at 2006年01月14日 09:18
★ふみこ様

特攻の叔父の話をお読みいただき、ありがとうございます。

戦争について、特攻について、そして靖国について様々な意見があることは私も良く承知しております。
しかしあの戦争の時代があったのは確かにこの国の歴史なのです。
戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、事実は事実としてまずは受け止めるべきなんじゃないでしょうか?
特攻にしても今の時代感覚で語れば、犬死だ無駄死にだと、何とでもいえます。
しかしあの時代を生きた人たちは、そのほとんどが後の時代を生きる人のため、子孫のためと思って命を投げ出したのであり、日本の現在の繁栄は彼らの犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけないと思うのです。
まずはそこをきちんと押さえた上で、戦争の是非、靖国の是非を語って欲しい。
それが身内に特攻隊員の英霊を持つ物の率直な思いでありますね。
Posted by ぴろん at 2006年01月14日 22:37
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