2010年04月16日

鹿屋にて

※下記エントリーは、平成22年4月13日午後17:57にmixiへ投稿

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★航空資料館二階展示室に掲示されていた大叔父の遺影
 資料館側のご厚意で特別に撮影させていただきました

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★資料館入口

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★特攻慰霊塔全景

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★戦死者の芳名が刻まれた石碑 写真中央に「石渡正義」と大叔父の名前


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予定より早くホテルに着いたので、ロビーのPCから書き込みしてます。
朝5時に家を出て、飛行機とバスを乗り継いで航空資料館に着いたのがちょうど11時。
鹿屋は、ちょっと遠かった。。。(汗)

資料館の受付で特攻隊員の遺族のものです、と名乗ったら、すぐに大叔父の史料を出してくださり、学芸員の方が着いて展示物の説明をしてくださりました。
資料館二階の展示室には、正義叔父さんの遺影もきちんと掲示されていました。
母は、写真の前で泣きました。

資料館の二階の窓からは、基地の全景がほぼ見渡せます。
現在の滑走路は当時とほぼ同じ位置だそうで、沖縄出撃の際、母機の一式陸攻が滑走路の端から端まで使って離陸したという風景が、そのまま目の前にありました。

途中、訓練中の自衛隊機が離陸する場面を何度か目にし、飛び立つ方向が同じなのを見て、65年前の出撃風景が目の前によみがえるような錯覚を覚えました。

この基地から南が沖縄の地。
叔父さんは、ここ鹿屋からどんな思いで飛び立ったのでしょう?
多くの特攻隊員はここを飛び立ったまま、二度と帰らないわけで、それを見送る人たちの気持ちはどんなだったのだろう?と思うと、胸が痛い・・・


特攻慰霊碑では出撃者名簿の中に大叔父の名前を探し、せめて名前だけでも連れ帰りたいと、持参した半紙に刻まれた名前を写し取りました。
途中散歩のために訪れた地元のご婦人と行き交い、少しお話をいたしました。
その方の話によれば、慰霊碑に花の絶えることはなく、地元の方によって英霊の御霊は手厚く護られていることを実感。
これならば、叔父さんも寂しい事は無いと感じ、心からありがたく思いました。

桜花別杯の碑は、桜花隊員の宿舎があった、旧野里国民学校の跡地にある記念碑。
田んぼの迫る里山の縁に、その碑はありました。
往時を偲ぶものはすぐ隣の小さなお社くらいですが、ここで叔父は仲間とともに、出撃の日を待って過ごしたのか、と思うと胸が詰まります。

出撃命令を受けて、野里国民学校の宿舎を出て、資料館のある鹿屋基地にトラックで移動したという、その風景が現地に立つと、まざまざとその距離感・空気感を感じて、身につまされます。

基地から鹿屋の市街地まではおよそ2キロ、車で10分ほどの距離。
隊員達は、時々基地を抜け出して町に繰り出したとも聞きますが、その距離感も現地に立って、初めて実感できることのひとつです。

遠いけれど、思い切って来て本当によかったなと。
母が元気なうちに、一度は鹿屋を訪ねたいという夢が叶って、とりあえず今はホッとしています。

明日は、鹿児島空港から那覇へ飛びます。
叔父の出撃空路をほぼそのまま辿って、終焉の地沖縄を目指します。
叔父の気配を追いかけて、叔父の生きた証をじっくりと感じる旅は、明日以降も続きます。

乱文乱筆ですが、取り急ぎ報告まで。
posted by ぴろん at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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