2006年05月04日

5月4日の蒼い空

Img_2869.jpg

今日は私の特攻の叔父の命日です。
家族の写真と手紙を胸に沖縄に散った叔父の事を思うとですね。
この日はやはり、少し胸が痛む思いがします。

そして世間は楽しいゴールデンウィークを過ごすのんびり気分。
61年前の余りにも激しい現実との落差に、何だか打ちのめされるような気がします。

61年前の今日午前6時3分、叔父の搭乗した一式陸攻は特攻機の桜花をその腹に抱いて、友軍機と共に鹿児島県の鹿屋基地を発進しました。
そして午前9時、叔父の搭乗した桜花は、敵の掃海艇・ゲーエテイをめがけて突撃。
その数秒後、沖縄の海で彼は木っ端みじんに吹き飛んで戦死しました。
享年はわずか21歳。

特攻隊員としては非常に珍しい事に、出撃時間も突撃時間も突撃した敵艦の名前も、そして戦果も分かっております。
本当に本当にこれはレアなケース。
大体の特攻隊員は出撃したらそれっきりで、どこでどう死んだのか、全く分からない人の方が多い。
中には特攻隊員として出撃した事さえ知らない家族もあるという中で、突撃した敵艦の名前まで分かっているうちの叔父のようなケースは多分数えるほどだと思います。

彼が今生きていれば、81歳のおじいさんです。
うちはどちらかと言えば長生きの家系なので、十分元気に、かくしゃくと人生を謳歌していたかもしれない。

二度と生還できない故郷日本は叔父の目にはどんなふうに映ったのか?
鹿屋を飛び立ち、やがて見えてくる開聞岳にどのように今生の別れを告げたのか?
後ろに遠ざかる九州の地をどんな思いで見送ったのでしょうか?
南西諸島の島々を次々と眼下に見送りながら、敵艦の迎え撃つ沖縄へと、どんな気持ちで彼は向かったのか?
そして頭の上に広がる5月の蒼い空をどんな思いで見つめたのか?
考えれば考えるほど、自分の身を引き裂かれそうなくらいたまらない気持ちになる自分がいます。

私は自分の特攻の叔父を語る時、散華と言う言葉を使いたくありません。
一連の特攻の叔父のエントリーをお読みいただいた方の中には、もしかしたらすでにお気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、私は叔父の話を語る時に一度もこの散華と言う言葉を使った事がありません。
散華と言う言葉は余りにも美しく文学的に過ぎて、叔父の壮絶な死を語るのには温度差が有り過ぎる言葉と感じてしまうのです。
無論、他の方が散華と言う言葉を使う事に、私は何の違和感も拒否感も無い。
でも自分の叔父の話を語る時に、この余りにも美しい言葉はどうしても使えないのです。
叔父の苦悩をオブラートに包んでしまって、叔父の死をリアリティーの無い物にしてしまうような気がするのです。

叔父は5人兄弟の末っ子で、出撃時には私の母を筆頭に4人の幼い甥っ子姪っ子がいました。
おそらく特攻に臨むに当たっては、俺が命をかけてこの幼い子供たちを守る、と言う決意はどこかに必ずあったと思っています。
叔父は特攻に志願した直後に、私の母の元へ一枚のハガキを寄こしています。
元気で学校に行っているか?弟の面倒は見ているか?といったごくありきたりの近況をたずねる文面の最後に「オテガミチョウダイネ」の文字がある。

元特攻隊員の手記をあれこれと読んでいた時、私の胸に刺さって消えないエピソードが一つあります。
それは特攻に志願した直後、そのあまりの現実の重さに平静を保つ事が出来ないほどの強く激しい恐怖心が襲ってきた、と書き記したある手記を読んだときの事です。
その特攻隊員は、しかしある日道端で無邪気に遊ぶ幼子を見たとき、「そうだ、俺はこの幼い子供たちの命を守るために自分の命をかけるのだ」と決意し、それ以降徐々に冷静さを取り戻していったと言う。

そのエピソードを読んだとき、なぜかその人の決意が、私の叔父の決意と重なって見えました。
叔父にも当時すでに、私の母を含めて4人の甥姪がいた。
当然、彼も死への決意の過程で、この幼い甥っ子姪っ子を守ろうという決心をしたはずで、その事によって叔父もあるいは心の平静さを保っていたのかもしれない、と思うわけなのです。

それを思うと、「オテガミチョウダイネ」の文字はとてつもなく重いのです。
叔父の望みに応えて返事を書き送ったと言う母のハガキ。
死の間際まで、折々に揺れる心を、おそらく叔父は母のそのハガキを読む事で平静さを維持しようと努めていたのかもしれません。
それがとてつもなく、切ない。
叔父の死によって守られた側の私としては、その事実はたまらなく重い。

ともかく叔父は61年前の今日、幼い姪っ子のハガキを胸に、特攻機「桜花」と共に命を散らしました。
皮膚は裂かれ、肉は引きちぎられ、骨は砕かれて、顔も内臓も何もかも人の形を一切残さず、桜花と共に木っ端みじんになって沖縄の海に沈みました。
その悲壮なまでの最期を、どうして肉親の私が散華などと言う美しい言葉で語れようか?
叔父の痛みを我が身に引き受ける時、どうしても私は散華と言う言葉だけは使えない、いや使いたくは無いのです。

叔父が突撃した敵艦の名前が分かっているという事は、アメリカ側の資料を探せば突撃の瞬間その船が沖縄のどこにいたのか?を知る事がおそらく出来るはずだと思います。
そうすれば、例えば戦艦大和のように東経何時何分何秒、北緯何度何分と言う所まで確定が出来るのかもしれません。
もし、それが可能ならその場所へ会いに行きたいと言う気持ちが私にはあります。
なにしろ向こうは木っ端みじんに吹き飛んでしまい、いまだに骨のひとかけらも故郷へ帰って来られないのですから。
はるばる千葉から沖縄の海まで訪ねていけば、叔父は海の底で肉親の訪問を喜んでくれるでしょうか?

今年の5月4日も抜けるような蒼空が頭の上に広がりました。
正義叔父さん、見えますか?
あなたが敵艦目掛けて出撃した午前9時の故郷・千葉の今年の蒼空を、あなたの魂に捧げます。


posted by ぴろん at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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