2006年10月15日

06.10.7 斉藤文代さん 第15回藤沢集会(1)藤沢産業センターにて

『斉藤文代さん(松木薫さんの姉)の訴え』

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皆様、こんにちは。
お世話になります。
藤沢の方には本当に何度か呼んで頂き感謝しております。
皆様の前でお話をさせていただけるという事は、本当にありがたい事だと思います。

私の弟も1980年に拉致されまして、今年の6月の13日で53歳になりました。
本当に年月が経つのが早いです。
私たち家族もみんないろんな小さい頃からの思い出があり姉弟仲良く暮らしてきて、こういう問題、拉致と言う事が起こるとは想像もつかなかったんですけど。
本当にいなくなってからは家庭もみんなバラバラの様な状態になり、親も本当に苦しんで弟の事をずいぶん探し回って、いろんなあの手この手でみんなでやったんですけども、弟は1988年に北朝鮮にいるという事が石岡さんの手紙で分かりまして。
父は余り私たち子供には言ったらいけないという事で伏せていたので、私も知らなかったんです、最初の頃は。

父は一生懸命になって時間のある限り手を尽くしたんですけれど、私に父は平成2年にもう亡くなりました。
母のベッドの横に手をこう、差し伸べるようにして亡くなっていました。
やはり母に後をお願いするよという意味だったんだと思いますけども、私の母はとても父を頼りにずっとついて来た、家庭の事だけしか出来ないようなおとなしい母でしたので、父が亡くなったという事に関してはショックが大きかったんだと思います。

現在85歳で病院の方に入院しておりますけども、本当でしたらまだ元気でいてくれてもおかしくない歳なんですけども、痴呆の方が早くなりまして、どうしても薫を探したい一心で乗り物を見ると乗って海の方に行っちゃうんですね。
遠いところでも近いところでも海の方に、ず〜っと一日中そこに座って眺めているような状態で。
私もそれを探すのに本当に苦労した事があるんです。
それで一度は名札をさせたこともあるんですけど、それは取ってしまうんですね。

それでどうしたらいいもんだろうかと自分でも思って、サンダルが、気に入ったサンダルがありますので、そのサンダルに電話番号を書いてですね。
履かせたら、そのサンダルはいつも気に入って履いて歩いているもんですから、お電話いただくんです。
お母さんがここにいますよとかって、近いときには私が迎えに行くんですけれど、遠いところになるとバスで3つも4つも、酷いときにはもっと先まで主人と迎えに行って。
海でじ〜っと向こうを見ているもんだから、「帰るよ」というと「あんたたちは帰っていいよ」と言うんですよね。
だからどうしても自分のそばに薫がいないという事が納得出来ないわけですね。

だから家で寝込んでしまうのも早かったもんですから、足は丈夫でしたんですけども夜中も何度も何度も家から出て歩くもんですから、どうしてもこれは私たちも寝不足になりますので、病院に入れなきゃという事で主人と話をして病院に入れたんですけれど。
結局病院の中でも弟を探して歩くような状況なんですね。
結局は事故に遭うとかそういうことになってはいけないからということで、下半身は動けないような状況になりまして結局は車椅子になりました。

だから車椅子に乗って座っているときに姿を見たときは、本当にかわいそうだなと思いましたけれど、元気で薫が帰ってくるのを待つしかないと。
それでも亡くなるよりは元気で薫が帰ってくるのを待っていてもらうしかないと思って、そこで自分には言い聞かせをしながら母の看病をずっとして参りました。

でも母も辛いんでしょうね。
ずっとベッドで寝ていても弟の事ばっかりなもんですから、26歳で歳が止まってしまっているもんですから、若いときの弟の姿しかないものですから、私に何かを注文するときでも「ご飯は炊いてあるからおかずはお肉をたくさん食べさせてやってね」とか、もう53歳になっているという事すら分からない状態で今も病院の方にいます。

でも今回は私たちがいろいろとやって頂いた安倍さんが総理になられました。
本当に私は心強いと思って、これでもう薫、また家族皆さんですね。
家族会皆さん、特定失踪者の家族皆さんが帰って来られるということを、本当に私は待ちに待った新しい総理だなと思っております。
やはりここまで来るのには私の事はそんなたいした努力じゃないですけども、父や母のやってきた事は精神的な苦しみ・年月を過ごして来ておりますので、いろんな事が母の頭の中にも回っていると思います。

ですから母にも、「今度はね」って。
いつも大平総理で頭が止まってるんですよ、昔のままでね。
それで私に「ちょっと手紙を書きたいから郵便局はあるのかね?」っていうから、「すぐ傍にあるよ」というと、「じゃあちょっとペンを貸して頂戴」と手紙を書くから、「じゃあ誰に出すの?」というと「大平総理に出す」って言うんですよね。
だから私も、「あぁそうね」って言ってペンを預けるんですけど。

この間安倍総理が誕生したときに私が母に「お母さん」って。
「今度はね、今まで私たち支えてくれたね、安倍さんがね、総理になったんだよ」って。
「だからね、今度はお母さんね、良い事あると思うから絶対に病気しないでね、頑張ってしっかりご飯も食べなきゃ駄目よ」って言ったら、「はい」って言って今一生懸命食事もしてくれます。

今のところ熱も出さないで、何とか頑張ってくれておりますけど、やはり母は会いたくて会いたくてしょうがないもんですから、いつもいつも私が写真をそばにおいておくと、写真を見て写真に子供のように語り掛けるんですね。
「薫、もう帰っておいで、帰っておいで」って言うんですよね。
だから本当に私はそれを見ていると辛いんですけれども、でもやっぱり母がそれを待ちに待って頑張るという気持ちがあるんだったら、私も一生懸命頑張らなくちゃいけないと。 

今、私の松木の場合は二度も骨を渡されて参りましたので、私は大きなショックを受けました。
北朝鮮のやることですから、それは嘘だということは分かっているんですけれども、二回とも他人の骨でしたから本当に信用のならない北の国だなと言う事で、私も自分なりにああいう国には嘘つきが多いんだから自分が頑張らなくちゃいけないということで、自分に出来る事は何かないかな?と、いろいろ毎日考えながら皆さんと一緒に活動させていただいたりしております。

また、今回今年はノルウェーの方に国際会議がありましたので、私でお役に立つかどうか分からないですけど、何としてでも皆さんと私たちの家族、拉致家族が一日でも早く帰ってこられるようにお願いをしたいからということで、ここの救う会の会長の川添さんと一緒にノルウェーの方に行かせて頂きました。
私は私なりに、お話も私は向こうの言葉は分かりませんけども、ジェスチャーでやるしかないと言う覚悟で行きましたけど、私の周りにはいろんな日本から来られた方がおりまして本当に助けていただきました。
パンフレットを配るにしても何にしても、皆様方が通訳をして下さったりして、私は本当に恵まれているなと思いました。

斎賀大使は私もお会いしたのは初めてでしたので、斎賀大使の持ち時間は30分だったんですね。
私は斎賀大使がお話をされる前に何としてでもお会いしたいと思ってお話したいと思って、打ち合わせしていただいてお会い出来るようになりまして。
私は壇上に立ってお話をするのは、スケジュールが決まっておりますので出来ないと思いますけど、拉致被害者は何としても私たちには時間が有りませんし、家族が本当に時間がないのでなんとしても助けていただきたいんです。
ですからそれを何とかお話していただけないでしょうか?という事を言いまして、私の母も毎日毎日書いているものをちょっと持って参りましたと言って斎賀大使に見せまして、「薫に会いたい、会いたい」って書いてあるんですね。
それをみせて、どこの親御さんでもみんな同じ気持ちでいらっしゃるから、どうか助けていただきたいんですと。

アメリカの方からも声を上げて世界が一つになって拉致問題を解決していただきたいと言う気持ちで私は参りましたので、何としてでも時間をとってお話していただきたいと思いますという事で、お願いしましたら「はい、分かりました」といってくださったので私は会場の方から見守って、斎賀大使がお話をされるときに私がじっと聞いておりましたら、何とありがたいことにですね。
30分の持ち時間で本当は人権のお話をされるはずだったのに、20分お話をしてくれました、拉致のお話をですね。
私は言葉が分かりませんから日本から来られた団長の方が、「今から斎賀大使がお話しをされます」とかメモを書いて送ってくれるんです。
「今終りました」とかですね。
(時計を)見たらちょうど20分くらいお話をしてくださったんですね、拉致問題に関して。

本当に私はありがたいなぁ、遠いところへ行って、こんなにして来た甲斐があったと思ってですね。
私は何も出来ないけれど、拉致と言う事が世界の方に分かっていただいて、これは本当に許せない事であると言う事を分かっていただきたいという一心でしたので。
本当に私も、そういう場に行くと言う事は何か胸がどきどきどきどきして怖かったんですが、勇気を持って斎賀大使と会ってお話をして良かったなと思いました。

横田早紀江さんは私たちよりうんと年上なのに、お体もそんなに丈夫でないのに、めぐみちゃんの事を思ってあちこちずいぶん回られて、本当に私は頭が上がりません。
13歳で親子の(間を)引き裂かれて悲しい思いをして、本当に戦ってこられて、市川さんの所も同じですね。
市川さんのところもみんな悲しい思いをしてこの年月を過ぎてきましたので、今回は何としてでもですね。
安倍総理のですね。
私、タラップから家族がみんな降りてくるのを待っているんですね。
最初に5人が帰ってきたときには私は本当に喜んで、今度は私たちの番だからと言う気持ちでお帰りなさいと言う気持ちで私は迎えました。

ですから今回は日本人の家族がこんなにいたんですよ、北朝鮮にと。
飛行機一台に乗れなかったんですよ、というくらいのそういう私は嬉しい話を期待して、待っていたいと願っております。
それが私の母親に対する親孝行だとも思っております。
母もやっぱり会うまでは死ねないと思っていると思います。
去年も2回血を吐いて、上からも下から下血も致しまして、病院から病院へ搬送されてもう助かりませんと言われたのをですね。
乗り越えてくれたんです。

ですからやはり私がここで頑張らないと母に申し訳ないなと思いまして、皆様の前でご協力を願うのも、最後の最後にみんなと笑っていただきたいと言う気持ちで、喜んでいただきたいと言う気持ちで私いつも来ております。
ですからこれからも皆様方のお力を借りて、あとは政府が一生懸命やっていただかなければいけないと思いますので、どうかこれからもよろしくお願いしたいと思います。

本当にこういう場でお話させていただけると言う事は、私たちの家族は一日でも早く帰って来られると言うことですので、なんとしてでも私は時間がないから、家族みんな時間がないから助けていただきたく思って、皆さんの前でお話させていただきました。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。(拍手)


posted by ぴろん at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 集会テキスト(藤沢集会) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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