2005年04月15日

増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(1)04.12.9 友愛会館にて

『平野フミ子さんのお話』



皆さんこんばんは。
本当にこんなにたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。
私、いつもこうやって立つ時、何から話して良いかいつも迷ってしまうんです。
でも今日はるみ子の事だけ、そして父の事を話さしていただきます。

るみ子は私たち増元家にとっては、太陽的存在でした。
私家族6人、きょうだい4人なんです。
私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下にいるんですけど。
本当にもう、いつも明るくて。
「家族」と言う本にも書いてありましたけども、父親がとにかく厳しくてですね。
私たちは本当に近づけない存在でした。
でも、妹るみ子だけは父親に対してものすごく「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。

父親は営林署に勤めてました。
鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2〜3日おきに帰ってきておりました。
しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して行ってましたので、父は物凄く可愛がってた。

私たちは父が怖くて、何かというとすぐ怒るんですね。
父は酒を飲むんと、鹿児島の言葉で「やまいもを掘る」って言うんですけど、酒が入ると愚痴が出るんです。
仕事の愚痴かなんか知らんけど、ちょっと薩摩男児、亭主関白と言うのが強くてですね。
私たちは本当に「どうしてこんなとうちゃんと結婚したの?」と母にいつも言うぐらいですね、(笑い声)厳しい父でした。
妹のるみ子は厳しい父に本当になついて。
ですから父もそんなにして寄ってくるので目に入れても痛くないくらいほどに、可愛がっていたと思います。

その証拠にですね。
今日は妹の同級生が写真を持ってきてくれたんですけど、大龍小学校の入学式にですね、父が参加してるんですよ。
出席してるんです。
私もその写真見て、びっくりしました。
父親はもっと仕事一辺倒でですね。
子育てには参加してないと思ってたから、「へぇー」と思って。
母親が病気がちだったせいもあって、弟・照明のお守りしてたりして、小学校の入学式に行ったんじゃないかなぁ?と、今私は写真見て思った事でした。

本当に妹の事を可愛がっていたのは紛れもない。
この4人のきょうだいの中で一番可愛がってた。
その妹がですね、北朝鮮に拉致されていった。
本当に父親はどんな思いでいたのか?と思うと。

私は晩婚でした。
37歳で結婚して38で女の子を恵まれました。
その間、両親を見ててですね、本当に私も「嫁いで行けないな」と、縁の無かったのもあるんですけど。
この二人を残して嫁いでは行けないな、という思いがあってですね。

ふたり、夫婦を見ながらですね、まぁよう喧嘩してました。
仲が良い夫婦とはとても言えなかったです。
まして鹿児島は亭主関白が強いところですから、本当に仲が良い夫婦では無かったですけども。
でもやっぱり同じね、思いを、娘るみ子を無くして、失踪・・・何ていうか・・・本当に今まで元気にいたのに急にいなくなったという、そういう思いをですね、ずっと抱えて。

私たちは家族会が結成されるまで、妹の事に関してはタブーでした。
そうしないと母親が本当にもう、泣いてしまうし。
そして世間にもなにか知らないけどタブーの、皆「家族」って言う本見ると、皆、どこでも失踪した人のことには触れない、触れられたくないという気持ち。
どこからどういう気持ちが分からないけれど、私たちもとにかく、このことには触れたくないなぁ、という思いでずっと来ておりました。

家族会が、安明進さんの、「めぐみちゃんを見た」という証言がですね。
センセーショナルにですね、クローズアップされて。
で、私たちはやっとこれで私たちも妹の事をこんなして皆さんの前で公に話せるという、一条の光を見い出した思いで。
その時はすぐにでも妹たちが帰ってくると、それだけを私たちは信じて来てました。

しかし、なかなか動かなかった。
本当に私たちは地団駄を踏みましたけど、妹があんな・・・去年ずっとそういう調子の中でですね。
国が動かない。
一昨年9月17日、5人の方が帰っていらっしゃいました。
本当に私たちは、本当に私たちの、皆さんの世論の力が、そして家族会の訴える力が通じたんだと言う事で、私たちは本当に良かったなと思いました。
妹たちは死亡とされましたが、絶対信じる事は出来ないという事で、また結束が一段と強まった訳ですけども。

一昨年、5月の7日ですね。
国際フォーラムで6千人収容するところに、入りきれないほどの人たちが集まってくださいました。
その時に、私は日本が大好きになりました。
それまではなんて、こんな日本に生まれてきたんだろう?と。
本当に砂を噛む思いで過ごしていましたので、本当に去年の国際フォーラムの時は本当に嬉し涙で、幕が上がっていくのを見ておりました。

その翌日にですね、祐木子さんとお話することが出来ました。
私はさっき記者会見でも申し上げたんですけども、どんな話の内容が聞けるんだろう?話されるんだろう?かと、不安が一杯、聞きたいのは山々なんですけども。
ひょっとしたら「るみ子さんは死んでしまったんですよ」言われかねないと思ってですね。
「嫌、そんなのは私聞きたくない」と、弟にも私拒みましたけども。
「いや、そんな話じゃないから、とにかく祐木子さんと話をしてみたら?」と言われて、意を決してホテルの一室でお話1時間くらいさせていただきました。

Img_7594.jpg

この写真を祐木子さんに見せたんです。(るみ子さんの写真を掲げる)
「あ、るみちゃんだ」と言ってくれました。
私のるみ子はですね、修一君と一緒に行ってるというのは、あちらが言ってることなんですけども、実際るみ子を見たという目撃証言が全然無かったんですね。
ですから、「本当に?本当に行ってるんだろうか?」と、私は本当に「嘘じゃないんだろうか?嘘じゃないだろうか?」と思っていたりしたもんですから。
祐木子さんにですね、「あ、るみちゃんだ」ということを聞かされたときは、「ああ、やっぱり残念ながらあっちに行ってたんだなぁ」って言う、がっかりしたような嬉しいような、本当に複雑な気持ちでおりました。

その時のお話でですね。
「るみちゃん」「祐木子ちゃん」という風に話合って招待所で生活してたと言う事を、いろんな話を聞きました。
その話の中でですね、妹は歌が好きだったもんですから、すぐ朝鮮語の歌も覚えて。
朝鮮語も勉強して。
卓球を中学時代にしてたから・・・やっぱり共産圏は卓球が盛んですよね?
だから、招待所の人たちと卓球して遊んだりとか。

あの子はうちの家系には無い、あの身長が163センチ、結構高いんですよね。
後姿はモデルくらいでして、昔の24歳ですからね。
本当にすら〜っとしていましたので、大きい先生と言われていたらしいですね。
で、祐木子さんが妹で小さいから小さい先生だったんですね。

その話の中で、鹿児島はスイカの漬物というのを作るんですよ。
鹿児島にしか無いそうなんですよね。
スイカを食べますね?白いところが残りますよね?
で、ちょっと食べた残りの赤いところを切り取って、皮を切り取って、白い身の所に塩を振って一夜漬けみたいにしたり、醤油につけたりして食べるんですけども。
父親が大好きだったもんですから、料理はあまりしなかった子ですけど、それだけは覚えていたらしくて、北朝鮮の招待所で食べさせてもらったっていう。
だから祐木子さんの地方ではそういう習慣が無かったですからね、印象に残ってたんだと思います。

北朝鮮に、南浦(なんぽ)というところに着いた時の話を聞いて、私は衝撃を受けたんですけど。
とにかく何時間かかるか・・・まぁ吹上浜から拉致されて行きましたから、南浦まで何時間かかるか私は分かりません。
相当数船倉にですね、入れられて、恐怖と絶望の中で何時間も暮らしてたと思うんです。
私も妹も暗がりが嫌いでした。
怖がりでしたから、どんなに恐怖を味わったんだろうか?と思うと、私は想像を絶するんです。
想像だに出来ないんですけども。
その時南浦に着いて、下船するとき足腰立たなくて、やっと両脇を工作員にかかえらるようにして下船したと言う話も聞くことが出来て。
私はその時にもう、何ともいえない気持ちになりました。

本当に妹は、今の24歳といったら大人です。
でも27年前の24歳は子供なんですよね。
本当に私の妹はまだ市川さんと付き合い始めたばかり。
まだ3ヶ月くらい、手も握ったかどうか分からないくらいの状態だったと思います。
そういうところに連れて行かれて、本当にどんな気持ちでいたか?
足腰が立たないっていう、その状態を想像しただけでも、私は何も聞けなくなった、というのが実情でした。

いろんな事聞きたかったけども、まだ子供さんが帰ってない状態がありましたので、いろいろ聞くのも困らせるだけだなぁという思いもしましたし。
酷だなぁと思って、私たちはもう、あの方たちは子供さんはじきに帰ってくるから、その時に話せる場になったら、話してくださるだろうなぁ、と思って。

ひとつ、ひとつだけですね、子供さんがいるんじゃないか?という話をしてくれたんです。
というのもあちらの証言では、あの時点では、翌年の4月の20日に結婚式を挙げて、修一君がその年の9月4日に元山で・・・北朝鮮で9月に水泳するのもおかしいと思ったんですけど・・・ま、水泳して心臓麻痺で死んで、妹は1981年、3年後に心臓麻痺で死んだということですね。
で、子供はいないという、で遺留品もないと言うことで。
ホントにもう私たちは何も無いんですよ、妹の事が、ただ、(北朝鮮に)いたという事だけで。

祐木子さんの話だけでですね、死んだということを信じることはできないんですけども、本当に何も無いんですよ。
残酷な、なんて言っていいか、本当にその時は分からなかったんですけども。
祐木子さんの話の中で「ひょっとしたら、るみちゃんは子供がいたんじゃないかな?」って言う話をですね。
「どうして?」って聞いたら、別れてからですね。
その年月は私は聞いてもいませんし、あちらも話さなかったと思いますけども。

別れてから、それぞれ結婚したんでしょうね。
で、「風の便りにるみちゃんに子供がね、一人目生まれた、という話しを聞いたよ」って、言うんですよ。
それは今だから話すんですけども、今だから話せるということなんですけども。
だから、未確認情報ではあるけれど、祐木子さんもるみ子が赤ちゃんを抱いてるところを見た訳では無いんですけども。
妹が赤ちゃんを産んだということを、男の子ってその時は言ってましたけどもね、そういう話を聞きました。

でこの話とダブるんですけど、平成12年現在ですね、子供が二人いるという未確認情報でありますけども。
(情報が)ありますので!
絶対に私たちは死んでると言う事を信じていませんけども、子供がいるという話も私は信じております。
色々な情報を集めれば、確実な情報になっていくと思います。

父も本当に残念ながら、一昨年、10月の15日に5人の方が帰っていらした翌々日に、肺がんで、10月に17日に、本当にるみ子に会いたくて会いたくてたまらなかったと思います。
末期がんの中でですね、苦しい中で、私はどんなしても父に生きていて欲しかったから、延命措置もさせました。
うちの父は「そんなのはよか」と首を振りました。
声が出ないくらい、喉が皆さんの中でもそのような状況で旅立っていかれた方がいらしてると思うんですけど、私も初めて家族がそういう状態になるのを目にしたもんですから。
ここの喉が吸引でからからになってるんですね、干からびてるんですね、ミイラに近い状態で。

私も本当にあんな状態で、父も我慢強い父でしたけども、肺がんというのはとにかく痛いらしくて。
看護婦さんにも初めの頃はですね、お下の世話をしてもらう時でも「恐れ入ります」(と言って)礼儀正しい患者だったんですよ。
ところが9月の17日、訪朝が決まったあと、心筋梗塞を起こしてですね。
相当のプレッシャーだったと思うんです。
10月になって急にガクッと体調を崩しまして、起き上がれない状態になって、吸引もしょっちゅう受けておりました。

私はもう、父は一日でも長く生きていて欲しかった。
ですから、延命措置してもらったんですけども、その時にですね。
10月の10日に延命措置をしました。
私はそれを見きりませんでした、もう怖くて。
父がどんなに苦しい思いをするのか?と思うとですね・・・(照明氏の方を見て)あ、10月の11日だったね?延命措置受けたの。

10月の11日に延命措置受けましたから、その午前中に、私に言うんです。
血圧が低下して「延命措置するなら今しかないですよ」って、病院の先生に言われてましたので、私たちきょうだい、決断をする場面があったんですけども。
うちの父が最後に力を振り絞って、あのがらがらの喉の状態の中でですね。
「おれは、るみ子と市川君との結婚を許す」って言いました。

もう本当に私はね、今までクローズアップされてから、修一君とるみ子が付き合っていると言うのを、父親は知らなかったんですよ、それまでは。
で、いなくなってから、いなくなってから初めて、付き合ってると言うのを父は知ったんです。
というのも、厳格な父でしたので男女交際には凄く厳しかったんです。
もし結婚を前提にしてないふたりがね、二人は結婚を前提にしてると思ってたんですけど、まだそう煮詰まった話じゃなかったから、言ってなかった。
私と母は知ってましたけど。

テレビに婚約間近とか婚約したとかいう話が先にたって、いかにも婚約中ということで話が出てましたので、そのときでも「おれは許しとらん」て言ってました。
そして9月17日以降もですね、テレビの中で妹たちを紹介するのに、婚約間近とか解説がついてたんです。
その時でも、病室のベッドの上で「まだおれは許しとらん」って言うんですね。
父親というのはすごいなぁと思いました。
自分が知らないところでそういう話がいってると言うのが、とても許せなかったんでしょうね。

10月の11日、延命措置を受ける午前中にですね、父親は「結婚を許す」って言ってくれました。
もうその時は自分でも死期が分かってたから、これだけは言って旅立ちたいと思ったんでしょうね、
父親の責任として。
なんでそんな気になったのか?
(このあたりから会場内あちこちから、すすり泣く声。以後最後まですすり泣き止まらず)
声が小さいから、耳元に私こうして(顔を寄せるしぐさ)近づけて聞いたんですけども。
「修一君とるみ子、二人は愛し合ってる」って。
「なんで愛し合ってると分かるの?」って聞いたら、何か、悪者がですね、市川君を刀で切りつけて2〜3刃、刃を受けたそうです。
軽症になったそうですね。
それをるみ子がかばったんですって。

だから「二人は愛し合ってるんだ」って、言う。
傷を負ったんだけども、二人のかばい合うその姿にですね・・・父の夢なんでしょうけど・・・父は「二人を許す」それしかないんだと思ったんでしょうね。
ですから自分がこの世を去るけれども、妹にはそれを伝えて欲しい。
私も本当「とうちゃん良かったね。やっと許す気になったね」って。
「るみ子が帰ってきたらちゃんとそれ言うからね。市川さんにもそれ報告するからね」って言いました。

私は父にいつまでも生きて欲しかったけども、あの痛みの中ですね、いつまでも頑張ってもらうのは、私は酷じゃないかなぁって。
79歳の老体にですね。
精神的にも、あのような死亡って言う事をもたらされた、あのような現実を見ないといけない。
24年間ですね、本当に妹に会いたくて会いたくて。

でもね、ひとつも「会いたい」って事、言わなかったんです。
大正生まれの人間だと思いました。
「父ちゃん、なんで言わなかったの?」
私は葬式の時に、法事の時に「言って欲しかった」って。
「るみ子に会いたか」ってなんでいってくれなかったの?って、私は本当に思いましたけど。
それが父親の最後の強がりだったのかなぁ?って思います。

私の父は本当に私たちには厳しかったけども、地域の人たちには本当に良くしてくれてました。
亡くなってから初めて父の偉大さってのを分かりました。
もっと父親に優しくしてればよかったなぁっていう・・・後の祭りですけども。
ですから、妹をですね、取り戻すのが父に対する孝行だと思ってます。
生前に会わせられなかったけども、絶対にるみ子をですね、取り戻さなければ。

母親ももう身体をやってますけど、妹に会うためにがんばって・・・してます。
でも、いずれは(母も)あの世に逝くでしょう、父親の元に。
その時にですね、母親に妹を会わせるだけ会わせて、報告させたいんです。
あの世に逝って「とうちゃんるみ子は元気だったよ、子供も何人おったよ。本当に日本の人が良くしてくれたよ」て言う風な、そういう気持ちをですね。
持って、あの世に、父親に報告させてあげたいんです。

父親の命日もいつも思うんですけど、この前の10月17日、1年忌を迎えました。
「今年もやっぱりだめだった」って。
国民の人たちも理解を示されて、妹たちのことがですね。
皆さんに一杯いろんな人たちに知ってもらえるようになった現状なんですけど、北があのような事ですのでなかなか前に進みませんけども。

こんなして皆さんが・・・めぐみちゃんのことも、私は信じておりませんでした。
あちらの言う事は嘘ばっかり・・・うちの父も9月の17日にベッドで言ってましたけど・・・8人死亡2人未入国ということを、それをわたしは一緒にテレビで見てたんですけども、あ、私は東京にいたんでした。
「とうちゃん、かあちゃん信じないで、がんばろうね」って、言うのが精一杯でした。
父親はその時母と一緒にテレビ観てて「北の言う事はうそばっかりじゃぁ」って。
いままでずっと騙され続けておりますので、それに屈する事はなかったんです。
でもあのようにバンって言われますとですね、やっぱり弱い、人間ですから、どんなに落胆しただろうかと思うと私は想像も出来ませんけども。

わたしもひとりの娘をもつ身ですので、13歳のめぐみちゃんが突然いなくなった。
それを私に合わせると、私も自分の娘をひとり持つ親として絶対に取り戻さないと、という思いがいっつもしてるんですよ。
わたしも妹に早く会いたい。
でも、めぐみちゃんはぜったいに早紀江さんに会わせてやらないと、日本の名折れですよね?
皆さん、そう思いませんか?(拍手)

本当に一生懸命、早紀江さんは日本の為に頑張って下さっています。
私たちの代表する方ですけども、本当にめぐみちゃんだけの問題ではない。
日本国中の津々浦々からですね、大根を引っこ抜くようにして連れさられて行った人たち、皆を救わなければならない。
その崇高な目的のために、動いてくださっています。

私は昔は日本が大好きでしたけども。
でも今日本が嫌いになりつつあるんです・・・政府の人ですよ?(笑い声)
国民の方々は、こんなにたくさんの方々が理解してくださって、日本も捨てた物では無いんだなぁと、そういう思いになってますけど。
ただ、私たちは家族に会いたい、それだけのためなんです。
それだけの為なのに、どうして日本の行く末の事まで論じなければならないのか?という思いが今してるんです。

早紀江さんもおっしゃってます。
この問題は今の日本を問いただしてるんだということをですね。
妹たちもこんなに大きな事になってるとは、つゆ知らないと思いますけども。
私は絶対に妹を取り戻すんだ。
そして、母親に会わせてあの世に逝かせたいと、その思いだけで動いております。

特定失踪者のことも忘れてはならないと思っております。
「未知との遭遇」という映画がありましたけども、UFOが世界の各地から連れて行った人たち。
丁度妹たちはUFOの仕業じゃないか?と言われてたこともありましたので、あれとオーバーラップしてですね。
UFO中からいろんな人が降りてくるんです。

今度もですね、絶対取り戻して、羽田のタラップにですね、日本の各地から拉致された人々を、皆さんの力で降ろす。
そういう夢を持とうではないですか。
絶対実現する夢だと思います。
日本人の力を、底力を見せてください。

私の父は弟にですね「わしは日本を信じる、だからお前も信じろ」といって旅立っていきました。
あんなに日本の政府に切り捨てられてきた父でしたけども、最後まで日本国民だったと思います。
ですから皆さん。
まだ、あの地で日本を見ながら、日本の地を、そして肉親を思って涙してる人たちに思いを馳せてください。
私たちはこんなしてぬくぬくした、平和な生活しておりますけど、あちらに拉致された人々は、今年また冬を極寒の地で迎えようとしています
絶対に助けなければ日本が世界の物笑いになります。
どうぞお願いいたします。

めぐみちゃんの遺骨も嘘ということが分かって、絶対に良い方向に。
小泉さん今度こそ経済制裁、何がしかの知恵を、意思を示していってくださると思います。
それでなければ日本の元首じゃ無いと私は思っています(拍手)
ありがとうございます。
これからもどうぞこの拉致問題に関心を持っていただき、そして全員救出するまでお力を貸してださい。
よろしくお願いします。(拍手)


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