どうも、皆様はじめまして。
小学校と中学校が同級生ということで、中学校の方で活動していましたけども。
小学校の方が100年以上の歴史があるという事で、関心を持つより行動してもらわないといけないという事で、小学校の方も立ち上げました。
小学校はですね、昭和35年に入学です。
1960年ですね。
まだ、日本が貧乏・貧乏してる頃です。
私たちが最後の日本の貧しいのを知ってるんじゃないかなぁ?と、いうような環境で育ちました。
西郷さんの墓のすぐ近くに、大龍小学校がありました。
西郷さんもそこで学んだと言うことを、先生から西郷さんの幼い頃の話を良く聞かされて、「西郷さんも貧しかったんだよ、皆頑張れよ」と言うような教育を増元さんも受けたんじゃないかなぁと思います。
いろんなエピソードをと思って、クラスの人に同じ学年の人にいろいろ聞いて回ったんですけど、もう何十年も経っているもんですから、文集とか写真がなかなか見つからないで。
やっと見つかりまして、入学式のを引き伸ばして来てありますけども。(大きく伸ばしたモノクロの集合写真を掲げる)
まぁみんな和服ですよね、昭和35年の入学式ですから。
お母さんがいらっしゃらないちゅう事で、昨日お母さんにもお見せしたんですけど、鹿児島で。
お父さんが入学式に来られてるという事です。
こちらの方に、2年の時ですね。(もう一枚の集合写真を掲げる)
一クラス50人くらいいる、大龍小学校はマンモス学校で8クラスですから、400名一学年にいる。
全体では2千人から3千人いると言う学校でした。
まだ脱脂粉乳で給食を(小さな笑い声)ね、ああいう給食を、牛乳じゃなくて。
何故日本の貧しいのを知ってるのか?と言いますと、タダの本を貰った事が無いのが私なんかの年代なんです。
5年生になると4年生まで、6年生になると5年生までという時代ですね。
彼女も拉致という形になりましたけども、やはり気丈にですね。
厳しい中でも生きられる体力を持ってるんじゃないなかぁ、と私自身こう思いましてですね。
なんかそれをちょっとお話しした方がいいかなぁ、と。
今の昭和30年から産まれた後の子供たちとはまた違う、ちょっと教育を受けた子供で。
今、北朝鮮に拉致されてますけども、気丈に生きているんだと言う気持ちを自分は持ちます。

あともう一枚6年生の時のがあります。(別の写真を掲げる)
これが多賀山と言いまして桜島が見えまして、東郷平八郎の銅像があるんです。
そこへ遠足に行くんですね。
歩いて遠足に行くと、城山か、城山はあの西郷さんが切腹した所があります。
それの上に山があります。
そこに遠足にいく。
東郷平八郎の多賀山へ遠足へ行く。
そこで卒業の記念写真を撮ったのが、この写真です。
貴重な文集などもですね。
やっとかっと見つかったのでちょっと読み上げます。
将来何になりたいか?という事ですね。
昨日私は始めて実家の方にお邪魔したんですけども、琴がありましたですね。
それで「琴の先生になりたい」、て書いてあります。
お母さんがされていたので、「ああ、琴の先生になりたいんだなぁ」と、そういう気持ちです。
文集で文をいろいろ書くんですけども。
私たちの卒業する頃も、面白い人間の方が人気があるんですよね。
それはどう言う事かと言うと、こう書く人もいましたね。
「僕は大きな会社の平社員になりたい」(大きな笑い声)
こういう風に書くと「あぁすごいなぁ」、と「あぁいい文集だなぁ」と子供心に思ったんです。
それを頭において聞いてください。
「池之上町58 増元るみ子 私の夢は世界で有名なロケットに乗って、宇宙に行って、帰りに宇宙のタコを日本に連れて来たい」(笑い声)
こういう風に書いてありますね。
やっぱりこういう風にユーモラスのある、主張するところは主張して、気丈のある、増元るみ子さんでした。
北朝鮮でもこの過酷な中で、絶対絶対生きているという確信をしております。
皆様どうかご支援ください。(大きな拍手)