2005年04月22日

松木薫さんを救うぞ!東京集会(2)05.1.13 友愛会館にて

『松木信宏さんのお話』

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私の名前の件については2〜3日前に聞いたばっかりなので、正直ちょっと驚いてます。
あんまり「信宏」という名前も男らしい名前とは思えないんですけども。(笑い声)
まぁ、私の兄にとっては、薫よりはるかにましだったのではないかな?と思います。

私は本当は、兄から見れば2番目の姉の子供になるんですけども。
いろいろまぁ、私の実の母親の方にもいろいろな事情があったかも知れないんですけど。
生まれてすぐに、本当でしたら祖父母になる父親の養子ということで入りました。

まぁ、兄はその当時大学・・・短期大学に行ってみたり、そこから編入学して京都産業大学の方に行きましたりしてましたので、滅多に家に帰ってくることは無かったんですけども。
帰ってきたときは良く・・・遊ぶといっても、私の兄は参考書とかそういうものを買ってきては勉強を教えてやるから付いて来いという感じでしたから、遊びにはならないんではないかな?と思うんですが、よく勉強を教えてくれました。

本当にじっくり私が本気になって教わっていれば、もうちょっと私も違う人生を送ったんではないかな?とは思うんですけども。
本当に私の目に焼きついている兄というのは、机に向かっている姿っていうのがほとんどです。
よくまぁ、私と父親母親とで、週末に海に行ったり山に行ったりするわけですが、兄がいるときはもちろん兄にも一緒に行こうよと声をかけるわけですが、10回誘って1回付いてくればいいほうかなぁ、と。
「家で留守番してるよ」と。

「またそんなこと言って留守番するとか言って、どっか遊びに行くんじゃないのかな?」と言ったら、「いやそんな暇があるんなら、勉強してるほうがましだよ」というふうな感じで。
実際帰ってくれば、どんな時間に帰ってきても、大体机に向かっていると。
だからもともと賢いとかそういうあれではないと思うんですけど、努力の人かなぁ?と、言うのは、まぁ私の目にはそう映りました。

先ほどうちの姉の方が、うちの父親が「勉強したいと言えばどんなことしてでも学校に行かしてあげるよ」と言ってた事を言ってましたが、私なんかの時はだいぶ父親が定年退職した後で、比較的落ちついた状態でしたので。
なんでもこちらのわがままをきいてくれるという風な。
なんでもいいよ、と。
何かしたいことがあったらしていいよと、言うようなことをよく言ってました。

あんまり自分で取り立てて(勉強)しようという気持ちが無かったせいか、結局はうちの父親がよくまぁ、なんていうんですかね。
あちこち塾を探してきて、「おまえ、そこに行け」と。
「勉強しなくちゃ薫兄ちゃんのようになれないぞ」ということで。
結局は無理やり押し込まれて、しぶしぶよく塾だのなんだの、通っていた記憶があります。

そうこうしているうちに、兄もだいぶ落ちついて帰ってきたときに、「スペインに行きたいんだ」という話をしたんですけども。
「いや、そんな遠くに行ってもらっては困る」ということを言ってました。
その当時まだ私は小学生だったんですけど、とにかく反対をしてましたね。
隣にいる姉などは「行かしてやりなよ」と、言ったんだよね?(隣に座る姉・文代さんのほうを見る)
大分女きょうだいは、みな結束してどうにかして行かしてあげたいということで。
母親といろいろとやってたみたいですけど。

うちの父親というのは一回だめだといえばなかなか頑固者で。
自分がこうと思ったらもう、てことして動かないタイプの人間なので、相当苦労したんではないかと思います。
で、姉も言いましたけど、私の耳にも焼き付いているのは「一年で絶対に帰ってくるから」と。
やはりあの、「とうちゃん、かあちゃんのそばにいるから」と、いうふうなことを言ってました。

最後に私の母なんかは、あんまり意見をするタイプの人ではなかったんですけど。
「薫がそんな滅多に頼まないタイプの人間なのに、こうやって頼んでるんだから、行かしてあげな」というようなことを言って。
まぁその場では「ダメだぁ!」と言ってたんですが、最後は「一年だけだぞ」ということで。

兄自身もスペインに行く渡航費用っていうのは、こそこそバイトして貯めてたみたいなんで。
「お金はいいよ」ということを言ってたみたいなんですけども。
何かあったら困るから、ということで確か父親も、金額はちょっと私も記憶に残ってないんですけども、まとまったお金を確か渡して、送り出したと思います。

もともと日本にいるときから、筆不精なタイプの兄ですので、なんて言いますかね。
ちょっと半年・一年手紙が無くても、便りの無いのは元気の印というか、そういう風な感覚でいたんですけど。
行ってすぐに絵葉書が一通来まして。
まだ学校に入る前っていう風な感じで内容が書いてあって、「当座は仕送りも必要ありません」ということでかいてありまして。

後、私の姉たちの名前がずらずら書いてあって、最後に信宏にもよろしくと書いてあったんで、「あぁ僕のことを忘れてないでいてくれたんだなぁ」と思いながら、喜んだ記憶があるんですけども。
その絵葉書が来て、一年たっても音沙汰が無いし、二年まではなってないと思うんですけど。
一年半くらいたった頃から、多分うちの父親があちこち・・・おそらく行ったのは警察とかあたりだと思うんですけど。
日本の警察じゃどうしようもないですから、それで外務省とかに手紙を書いたり電話したりしてましたですね。

私が外務省というか、スペインの大使館のほうにも手紙を出したりしてたみたいですけど。
どちらか、本省の方が言ったのか?現地の大使館の方が言ったのか?分かりませんけど。
印象に残っている言葉は、「それだけ言葉が出来てるんだから、結構楽しんでくらしてらっしゃるんじゃないですか?」「帰りたくないから帰らないんじゃないですか?」というようなことを、うちの父親に言ったらしくて。
「自分の育て方がまずかったのかなぁ?」と、「自分が何か押さえつけてたのかなぁ?」と。
時折ぼやいてたことがあります。

いなくなった後に、普段夫婦喧嘩というのはしないんですけど、大体きっかけは私のことで喧嘩になるもんですから。
例えば、髪の毛が、あの私の父親というのは髪の毛が長い人間が嫌いなんですよね。
だから私の兄なんかは、髪の毛をずっと伸ばしてるもんですから、「そんな見苦しい髪をするな」と、よく言うもんですから。

だから母親が帰ってきたときにお金が無いんだろうと思って、お金を渡して「これで切っておいで」と。
とりあえず切っては来るんです。
でもなんか、床屋さんに行った髪ではないんですよね。
で、あとでよくよく聞いてみたら、自分でそこらへんのはさみでちょっきんちょっきんと切って。(くすくす笑い)
写真のなかでどれかあったかな?(薫さんの写真を指し示しながら)
あ、ちょうどこの上のなんかそうですけど、これなんか間違いなく自分で髪の毛を切って、いますね。

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ちょっと真ん中あたりは、いや真ん中も多分自分でやってるんだなと思うんですけど。
(「これもそう」と文代さんの声)
とにかくまぁ、まず一年に何回床屋に行ったかと、数えたほうが早いような人でした。
うちの父親は一月に2回でも3回でも、ちょっと耳にかかれば行くタイプで、だから私なんかにも「そんな伸ばすな」と。

で、母親や隣にいる姉の方はやっぱり髪の毛短く切るほうが好きなんですけど、ほかの姉たちはちょっと伸びた髪の方が好きらしくて、よく私はおもちゃにされてたんですけど。
だいたい、そういう「短くしろ、いやこれでいいじゃない」というのが喧嘩のネタになったりしました。
子供ですからいろいろ口答えするわけですが、それを母親がかばうと、また夫婦喧嘩になると。
いう図式だったんですけど。

その散髪の件に付いては、いろいろ余談があるんですけど、「家族」って本にも確か(となりの文代さんに向かって)書いたよね?
書いてあったと思ったんですけど、京都から帰省してきたときに「これお土産」とかって菓子箱になにか入れてきたらしいんですよね。
母親が「あれまぁ」と開けたらば、床屋代とか仕送りのあれとかなんでしょうね。
お金をずっと菓子箱に入ってたやつを母親にプレゼントしたという。
私は母親が泣いてる姿は見てないんですけど、姉のほうはね、それを見て喜んで感激して泣いてるのを見たということをよく言ってます。

私はなんでもぱっぱ、ぱっぱとお金でも使うタイプなんですけど、兄は本当にほとんどお金があれば、教材というか自分の勉強のものを買うと。
着るものについても無頓着ですし、食べ物もそこらへんにあるものなんでも良いやみたいな感じで。
よくスーパーとかで父親と買い物に行ったら、ちょっとカップラーメンとかが、一箱いくらとかって安売りがあれば、「これ薫に送ろう」と言って。

ジュースでもそうですよね、なにか買って送ってました。
とにかく送らないと、食わないで一週間でも二週間でも過ごすんじゃないか?っていう風なそういう雰囲気が漂っているような、兄でした。

服なんかもよれよれのジーパンとかはいてましたし。
とにかくネクタイ姿というのが大っ嫌いみたいで、北朝鮮側から出してきた写真なんかもネクタイの結び方が非常に下手なんですよね。(笑い声)
うちの父親なんかもあんまり上手なほうじゃなくて、要はひとかけっていうか、一回くるっとまわして伸ばすようなタイプで、そういうふうな結びをこれも(北朝鮮から提供されたネクタイ姿の薫さんを指して)してると思うんですが。

とにかくスーツとかいうものの姿を見たのは一回か二回ぐらいで、ほとんどラフな格好というか。
それしかなかったというのが多分現実なんじゃないかと思います。
母親なんかが(スーツを)買ったりとかして着せようとするんですけど、やはり性に合わないと。
私から見れば非常にジーパンが似合って羨ましいな、と思っているんですけど。

私が高校生のときに、「これ薫が着ていたやつだから、お前着てみろ」とかって、ジーパンをもらうわけですよね。
でも足の太もも辺りではいたときに引っかかっちゃうんで。(笑い声)
「じゃあ腰周りだけ直せばどうかな?」とかいったら、そうすると今度は、足の長さが全然合わないですね。(笑い声)

ただ、上のシャツだけはぴったし合う。
特徴というか体型の特徴ってのは、遺骨を持ち帰ってきたときに、体型の特徴というのは、橋本先生に言ったのは、「うちの兄は逆三角形で間違いありません」と。
「足も私の腰くらいあるはずです。自分ではいて確かめましたから」と言ったら橋本先生少し笑っておられましたけど。

松木家っていうのは、あんまりなんていうんですかね、足の長い人間とか、そんなに勉強が出来る人間というのががいなかったもんで。
「突然変異で出来た人間なんじゃないかな?」と僕なんかは子供の頃ずっと思ってたりしたんですが。
突然変異じゃなくて、影で隠れて人一倍努力をしていたと、今から考えてみればそういう風に思います。

辞書とかそういうのを離した姿というか、握っている姿のほうしか、私も印象に無いもんですから。
よく言ってたのは「この辞書を丸暗記するぐらいのつもりで、自分は勉強している」というようなことを、胸を張って言ってましたから、それだけのことをしていてたんじゃないかと思います。
ただ、私なんかはそういう真面目って言うふうな印象しかないんですけど。

私、学校も小学校から高校まで兄とまるっきり一緒なんです。
熊本の名前なんでご存じない方もいらっしゃるかもしれないんですけど。
中高一貫教育でやってる九州学院ていう、私立の学校に男は行かさせてもらったんですけど。
女の人は信愛女学院といって、両方ともキリスト教の学校なんですけど。
これクリスチャンの方は分かるかもしれないんですけど、九州学院っていうのはプロテスタントっていってキリスト教では新教の学校なんですけど。
信愛女学院のほうはカトリックの旧教の学校なんですよね。

一回聞いたことがあるんですよ、うちの父親に。
「どうして男は九学で、女は信愛なの?」とかって言ったら、「え〜?意味は無いよ」って。
「うん、ただ見てくれが良さそうなところに行ってもらいたかっただけだ」(笑い声)と言ったときにはさすがに吹き出したんですけど。

ただ、自分がやっぱり勉強したくても出来なかったと言う事が、私にも言ってました。
やっぱり長男だったんですけど、もともと田舎は鹿児島なんですけど、鹿児島に帰ることをせずに九州の地方を転々としてたんで、言葉ではあまり苦労したという言葉は吐いたことは無いんですけど。
母親のほうは「苦労した苦労した」といいますけども。
でも本人は盲腸で腹膜炎起こしちゃって死にかけたとか、戦争中に爆弾で足やけどしてたりとか、体を見ればいろいろ痛々しい姿があるんで。
そういう苦労したということは人には言わない感じの父親でした。

兄もどちらかといえば、そういうことを言わないタイプで。
父親に似たか?というと、顔もそうなんですが、私の兄は母親にそっくりだな、と思います。
母方のおじとかみんな体がすらっとしてるんですよね。
体型も似てるし、男一人だけ、母方に似たと。
私は先ほども言いましたように孫ですから、なんか皆「年を追う毎にだんだん爺ちゃんに似てきたね」と。
「信宏は爺ちゃんに似てきた、あとは髪の毛似なきゃいいわね」というようなことを言ってますけど。

うちの家では特別な存在でした。
同じ学校なので、私立で先生とかも一緒なんですよね、私と。
教わった先生も一緒なんですよね。
やはり私は真面目な兄だと思ってたんですが、第三者の意見もやはり聞かなきゃいけないと。
ひょっとしたら、違った一面があるかもしれないと。
いなくなるには何か理由があるんだと。

その当時は拉致だとは思わなかったですから、絶対訳があるはずだというふうなつもりで。
それで「松木薫って覚えてますか?」と言ったら、実際教えたことあるはずなのに、知らないという先生もいれば、よく知っているということを言われる先生もいて。
「本当に松木の弟か?」とか「そうですけども」、「それは似ても似つかぬ兄だなぁ」、ということをよく言われました(笑い声)

やはり私が教わった先生で印象に残っているのは、もう亡くなったんですけど国語を教えておられた先生で、授業中酒飲んでやってくるタイプの先生だったらしくて。
私が教わる頃には定年間近でもうだいぶお年を召されて、代わりに質問に答えられたらポケットから飴やチョコレートをだして、ほれほれと上げるような先生だったんですけど。
「松木君、遊びにおいでよ」と。

家に行ったらずらっと寿司だの酒だのが並んでいて、「飲んでけ」とか。
本当は飲んではいけないんでしょうけど、もう時効だと思うんで、一緒に飲みながらいろりろ話をしたら、「本当にお前の兄さんも、もう少し頭が柔らかだったら、よかったのになぁ」と。
「お前ほど柔らかだったら困るけど」、とよく言われました。(笑い声)

その学校に入学するときも、父親が「松木薫の父親ですけど、今度私の身内が受験するんでよろしくお願いします」と。
「そんなことしなくてもいいのに」とかって言うんですけど、うちの父親はとにかく、兄もそうなんですけど、学校の先生に必ず挨拶に行く。

長崎だろうが京都だろうが、必ず一回は行くという、変に生真面目というかそういう面があって。
そこへ行ったときに、そこの先生から「松木薫さんの弟さんなら間違いないでしょう」と、「通るの間違いないですよ」と言われて。
それを聞いたときに、「さあ、これは通らなかったら大変なことだ」ということで、本当に勉強した記憶があります。

本当に幸い通りましたので、まるっきり同じ環境の元で勉強したんですけど。
でも同じ学校なので本当に思うんですけど、どう考えても自分の意思で行方不明になる事は考えられなかったんですよね。
だから、「おかしいな?おかしいな?」と。
「絶対この学校出てて、そんな蒸発するようなことないのにな」と思っていたら、ポツリと私の母親のほうが言ったことは、「本当は薫兄ちゃんは牧師になりたかったのよ」と。
「え?なんで?」と、「やっぱり学校の影響じゃないかしら?」とかって言ってたんです。

それを普段は基本的に勉強することについては賛成している父なんですけども、こと、そういう宗教的な面では「うちはちゃんと先祖代々の宗教があるんだから、そんな牧師になるんだったら勘当だ」と、「今後一切支援をしない」とかと。
相当強いことを言われたらしくて、それだけで断念したんじゃないんでしょうけど。

結局その牧師っていう道はあきらめて、「どうせなるんだったら先生になれ、学校の先生になれ」と父親が言ったらしくて。
そこらへんから「(学校の先生を)やってもいいかな?」ということで、学校の先生になる道を探り始めたらしいんですけども、と母親が言ってました。

私が高校一年のときですかね。
北海道からの手紙が届いて、二年後に私の家に連絡が入ったんですけど。
ちょっと姉がしゃべったときに父親が知ってるというふうなようなことを言ってたんですけど。
実は父親は知らなくて、姉がどうしてこういうことをいうかというと、その手紙が来たときに・・・母親が、姉たちは外に出て行ってますので、家には父親と母親と私という暮らしだったんですよね。
そのとき「絶対しゃべるな」と。

「きょうだい親戚はもちろん、絶対しゃべるな」ということを私に言ったんです。
「なんで?」と「だって身内じゃない?」と。
「いや身内だから何でも知らせていいってもんじゃない。そういうことを知ることでかえって迷惑をかける」と、「親戚にも迷惑をかける」と。
北朝鮮という国をなんとなくわかってたのかなぁ?と思うんですけど。

「とにかくしゃべるな!」ということで、強い口調で言われますもんですから、私もついぞ隣の姉にも何もしゃべらなかった。
本当に9.17のときになってから話したんだね?(文代さんに向かって)
本当にしゃべらないまんまで。
私の姉がどこから聞いたかといったら、警察から聞いたと。

だから、私からの口からも言ったわけでもないし、母親の口からも言ったわけでもないと。
だから、その分かるまでの、そういう拉致されているということが分かる経緯を私は詳しく話すことができなかった。
その点では申し訳なかった。
亡くなった父親にも申し訳ないけど、隣の姉にも本当に申し訳なかったと。 
隠し事してて申し訳ないと、いうふうに思っています。

そのまえにちょっと・・・連絡が取れなかった時期もあった。
それも仕方が無いけどね、あったからね、あれだけども。
そういうことでだから、黙ってました。
母親もそういうことで一切外話すこともなかったもんですから、ご近所も多分みんな知らなかったんではないかと思います。

よくまぁ、私の家に兄がいなくなってから、2〜3年後くらいからおまわりさんが来るようになったんですよね。
「年寄りの家庭だから、年寄りとちっちゃい子供のいる家庭だから、見回っている」と言って来たんですけど、それがずっと代々引き継がれていって。
その手紙が来て、神戸の有本さんたちと連絡を取るようになってからはじめて言ったのが、
「松木さん、どっかから手紙が届いたとかって言う、連絡が来ませんでしたか?」
「え?なんでそういう話を知ってるんですか?」って言ったら、「実は・・・」ということで。

おそらくいなくなってから何年か後には、ひょっとしたらそういうことを把握していたのかなぁ?と。
それまではよく家に来てくれて私のアルバイトの世話をしてくれて、親切なおまわりさんたちだなと思ってたんですけども。
実際は私らの家庭の行動を確認というか、ひょっとしたらそういう思想の家庭ではなのか?と思われていたのかな?と思います。

ずっと家にこられていれば分かるんですけど、うちはそういう家庭ではないと分かるんですけども。
だから終わりの頃はうちの家に上がってきて「ちょっと今日は眠たいから寝させてくれ」といってよく寝ていったり。
「ご飯を食べに行こう」と言ってご飯食べに行ったり。
私が就職が決まったときはスーツを作ってくれて、熊本にいたときは何かとお世話になりました。

ホントにそれで3家族集まってから・・・が結構長かったです。
会ってすぐに帰って来るものかなぁ?と思ってたんですけど、なかなか。
初め確か私一人で行ったんですけども。
神戸のほうに行ったんですけど、外務大臣宛に嘆願書を出すという形式だったんですけど。
それで上京して記者会見すると。

そのとき有本さんや石岡さんが、「松木君はまだ高校生だから、そうやってテレビの画面とかそういう映像に出ると、将来何かあったら困るから」って言って。
「私は構わないからどこへでも行きますよ」って言ったんですが、石岡さんとかが、「いや、まだね、そういう将来があって、この先何があるか分からないんだから、ついて来ちゃだめだ」って言うことで。

「私たちでやるから」ということで。
会見をするぞということで行ったんですけども。
それは皆様ご存知かも知れませんけども、そういう北朝鮮とのコネクション持つという人が「この会見、取り合えず取りやめてくれたら何とかするから」というふうなことでお流れになって。
それから有本のお母さんお父さんとかがだいぶご苦労されて、それはよく放送などで出ているんで分かっていると思います。

ただ、私らの場合は、母親が「言うな、しゃべるな」というタイプでしたし。
「なんでかな?」と思ったんですけど、やはりもちろん兄の身に何か起こるかもしれないということもあったんでしょうけども。
ひょっとしたら本当はやってくれという気持ちがあったんじゃないか?と。
ただ相手が私ですから、やはり石岡さんとかと同じで、要らぬ気苦労をかけさせたくなかったというのがあったのかなぁ?とも思います。

その間、考え方の違いで連絡を取らない時期もありまして、石岡さんや有本さんとかとの交流が途絶えた時期もあって。
私も仕事で、大阪に行ったり東京に移ったりしましたもんですから、家族会結成とかそういう風なことは丸っきり耳に届かなかったと。

でまぁ、もし届いたとしても、姉はどうだか知らないんですけど、姉の場合は届いたら参加してた?(隣の文代さんに問いかける)
(文代さんの言葉)一緒にやりましょということで・・・その間に・・・最初は(後は聞き取れず)
うちの場合は、最初に集まったときにやるときは皆一緒でと。
石岡家もやるときは一緒にと。
みんなでやると決めたときに一緒にやろうと。
なんとなく暗黙の了解があったんですよね、表に出ることを控えようと。

それぞれ言葉に言うあれじゃないんですけど、なにかあったら?とかって。
そのあと、点点点ということになるんですけども。
有本さん場合はお父さん母さんの場合はご存知かもしれませんけど、叔母さんという方がいらっしゃって。
叔母さんという方も、やはり何かあったら、点点点と。

私なんかも今のまんまじゃ・・・というのがちょっとありました。
その手紙の中に私の兄の筆跡が何も無いもんですから。
熊本の警察の方にも「今声を上げても、向こうが知らぬといったらそこで、松木薫という者の存在自体が否定されちゃうぞと、なくなっちゃうぞ」ということを言われたんですよね。

なにも物証が無いもんですから。
やはりあの・・・生きてて欲しいという気持ちが家族にあるもんですから。
変に・・・
有本さんたちは証拠があるもんですから。
本人の顔写真もあるし、旅行保険もあるし、石岡さんももちろんあったんですが。
でもうちの場合は石岡さんの代筆で何も無いんですよ。
だから声を上げようにも上げられないと、いう状態でいて。

これはもう、ちょっと本音の本音なんですけど、ちょっといやらしい気持ちがありまして。
あわよくば、本人じゃないかも?しれないと、淡い期待を抱いていたんですよね。
本人の筆跡じゃないから、ひょっとしたら本人じゃないんじゃないか?と。
スペインでパスポートだけ盗られて帰るに帰れなくてスペインでね、現地人に成りすましているのかな?と。
言葉が出来るし、どこへでも行けると。
ひょっとしてそういう状態なのかな?とか。
ひょっとしたら北朝鮮に渡ってないのかな?と、ほんのちょっとだけ淡い期待を抱いていたこともあります。

ただ結果は、本人は向こうにいるということを北朝鮮は認めましたんで。
で、実際こうやって写真も持ち帰りましたし。
遺骨は人様のものでしたけども、ああいうシナリオも日本語のテキストとして使ってるということもいってるんですけども。
前にもここの場所で言ったんですけども、シナリオを日本語の教材というのはちょっとおかしいなぁ?と。
シナリオってその時代時代の流行語があるじゃないですか。

だから十年たったら使いものにならないフレーズというのもあるわけですし。
そういうものを日本語の教材に使うのはどうなのかな?と思って。
ひょっとしたらシナリオというもの自体が、「これは北朝鮮の“シナリオ”なんだから、あんまり信用するなよ」と、私なんかそういう風にとったんですよね。
姉なんかはその「出航」というドラマのビデオを見て、また違う思いを抱いたみたいで。
これはもう、兄が帰ってくるまで、どっちが本当のことかわかんないですけど。
本当にそういうものだったんではないか?と、何がしかの意味があるんではないか?と思っています。

ずらずらっとしゃべったんですけど、最初に姉も言ったんですけど。
私の兄がよく報道などでなにか色仕掛けとか、一度ならずも二度までも夕刊紙にちょっと書かれちゃいまして。
何の根拠があって言っているのかな?と。

その当時よど号の妻たちのアパートに出入り、兄と石岡さんがしてたもんですから。
そのとき一緒に出入りしていた女性がいるんですが、一緒にスペインに行ったことがあるんですが、その方にテレビでは露骨過ぎて放送できなかったんですが。
そのとき行かれたプロデューサーの方が「ずばり単刀直入に聞きます」というふうな形で、「何ですか?」と。
「松木さんとよど号の森順子(よりこ)っていうのは、肉体関係があったんですか?」と。
私なんかとなりでぐっと息を飲み込むばかりで、「何てこと聞いてくれるんだ」と。

思って聞いてたんですけど、そしたら一言で、「それは絶対にありません」と。
すくなくとも、スペインからウイーンにって言ってたんですけど。
まぁ、実際にウイーンに行ったかどうかもわかんないですけど、証拠が無いんで。
そのときに「少なくても私たちと一緒のときは、そういうことが出来る環境にはありません」と。
私の兄は勉強だけじゃなくて、トランプゲームも暇つぶしにやってたらしくて、「私は松木さんにトランプを教えてもらいました」と。

で彼女たちは、よど号の妻たちはふたりで自分たちのベッドで寝て、泊まることは私の兄や石岡さんたちは滅多に無かったと。
必ず遅くても帰って。
そのまま帰って、二度と行かなきゃいいんですけどね、なんか次の日にまたやってきたと。
だから、どういうふうな誘い方というか。
だから、一緒に食事をするのが色仕掛けだったら、それはね、どんな若い人は毎日色仕掛けを受けてるようなもので。
だから何を持って色仕掛けというのかな?と。

そういうことを書いて結局何もこういうこと、皆様はご存知でいらっしゃいますけども、拉致問題について。
何も知らない人が見たら、「なんだ、そうやってだまされてるんだから、帰ってこられなくても仕方が無いじゃないか」といった雰囲気を作ることになったりしないか?と。
私なんか、そういう報道を憤懣やるかたない思いで見ている。

あと、政府の発表と違うことを、さも政府の発表のように番組で言う方もいらっしゃいますし。
なんでうちの家ばっかりこんなこと言うのだろう?と。
お骨も2回も持って帰って来るし、と。
何かあるのかなぁ?と。
そのお骨のときも、薮中局長とかが帰ってきて個々の家族に説明するまでは何にも言わなくて。
次の日の新聞報道かなんかに、何気なく新聞を開いたらえ〜?って感じで。
「何で話してくれなかったんだ?」ということで、問いただしたりもしたんですが。

そしたら「私たちは松木さんたちのものとは思ってないんで、言わなかったんだ」と。
「だったら鑑定が終わるまでマスコミにも言わなくていいじゃないか?」と。
変にそうやって流れるから、私たちいらない気苦労をしなきゃいけなくなるわけですし。
私らはいいんですけども、母親がもしテレビの放送とかを見たらまた「松木薫の遺骨」その後に「らしきもの」と付くんですけど。

「松木薫の遺骨」とかいうのが出るだけでも、痴呆といってもすべてが痴呆なわけじゃないですから。
読み書きはまだできる、あ、書くのはもう出来ないね。
読むのは出来るんだよね?
でも読むのは私の目の前でも、これなんていうの?というと読めますし。
活字は見れるわけですから。
そしたら活字はちゃんと頭の中に入っていくわけですから、どう思うのか?と思うと。

うちの家ではポリシーがあってふたりとも。
松木薫のことについて、松木薫の名誉を傷つけられるような事については、どんなことをしてでも抗議するぞと。
うちの母親が泣くようなことをするやつは絶対に許さないぞ、というのが絶対条件であって。
だから、ほかのご家庭よりも過敏に反応する面はあるんですけど。

いや本当になんていいますか、私の兄は反論したくても反論できない環境にあるわけで。
かたや、いまよど号の妻たちが帰ってくるわけです。
いろいろ私が裁判とかへ行ってもいろいろ言ってるわけですよ。
そいつら自分たちの主張をね、いろいろ言ってるわけなんですよね。
それを聞きながら思うのは「いいよなぁ」と。
「おまえらいいよなぁ」と。

私の母の気持ちを代弁すると、自分が丹精こめて育てた息子を勝手になんの理由もなく連れ去ってて。
で、自分は向こうに居づらくなったから帰ってきて、そういう環境の中で、なに言ったって日本じゃ殺されるようなことは滅多に無いですしね。
仮に刑務所の中に入ったって、死ぬということはないですよね。

かたや自分が連れ去った人間は置いてけぼりで、いつ何があったっておかしくないようなところに置いてくる。
そんな理不尽なことあってもいいものかな?と思ってます。
それをずっと言ってたら、3月には石岡さんのまあ、ペアって言ったらおかしいですけども、拉致のときに石岡さんと接触してた若林佐喜子というのが帰ってきますし。
7月になったらいよいよ、兄のまあそういう相手だったといわれる森順子というのが帰ってきます。

帰ってきて・・・私の兄が帰ってきてからだったら、いつ帰ってきてもいいんですけども。
今のままで帰ってくるんだったら・・・まぁ、これは家族のエゴかもしれないんですけど、どうしても心の中に引っかかるものがあって。
少なくとも自分の兄たちが帰ってくるまでは、加害者が帰ってくるというのはどうかなぁ?と。
姉はどう思ってるか知りませんけど、私個人の気持ちとして日本の刑罰では軽いですから。
そのまま北朝鮮の刑法で罰してもらえたらな?と、そういうことすら考えています。

それに自分たちで好きで行ったんですから、そのまま向こうにいればいいんじゃないかな?と。
で、お子さんたちは罪がないと私も思うんですけど、でも毎月のように北朝鮮に行ってるらしいですから。
そんなに北朝鮮が好きだったら、もうまた北朝鮮に永住しちゃえばいいんじゃないかな?と。(拍手)
僕はそういう風に思ってます。

裁判に行って、これは笑い話なんですけど。
私は直接聞いたわけじゃないんですけど。
よど号のメンバーを支援している方々たちが、まぁ松木家は私の姉と私と、有本さんのお父さんお母さんと・・・石岡さん来られてたんです、今度は。
そしたら、ふた家族って言ってると。
石岡さんが余りマスコミに出ないもんですから、どれが石岡さんか分かんないで、ふた家族来てるとよって言ってたらしくて。

馬鹿じゃないの?って思いながら。(笑い声)
少しは学習しろと。
そんなことしてるとよそ見している間に刺されちゃうぞと。
石岡さんに刺されちゃうぞと。
そういう風に思ったりしたんですけど。

裁判でもよど号の弁護士さんたちのほうが迫力があるんですよね。
日本の検事さんたちの方はなんとなく弱々くて。
「これじゃ、大丈夫かな?頼みますよ」と。
なんか傍聴してて祈るような気持ちで、「もっとやってください、お願いします」という感じになりました。
まだ石岡さんなんかは、たまたまこの前は水谷、田中協子って言って元は水谷って言うんですけど、裁判の傍聴に行ったんですけど、やはり自分たちの主張をするわけですよね。
それを聞いて「私は拉致なんかに関わってない」ということを言う。

石岡さんなんかは肩をぶるぶる震わせちゃって。
「で、どうでした?」って私が聞いたら、「いい勉強をさせて、も・も・もらったよ」とかって顔を笑おうとしてるんですけど、顔を笑えずに引きつってひくひくしてる訳なんですね。
用事があるからって言ってすぐいなくなったんですけど。

普通なら感想を私にメールなどで送ってくるんですけども、待てど暮らせど送って来なかったんで、きっと相当ショックだったんだろうと。
昔は石岡さんなんかは「帰ってきて自分たちの罪を償いなさい」と、メンバーに対して比較的寛容なことを言っておられたんですけども、「一度裁判を見てください」と。
「考え絶対変わりますから」と。
変わったみたいです。
「帰ってくるな!」って言ってますから。
もう「帰ってくるな〜!」ていうふうな。

私母親が元気な間は母親を悲しませることしたくないですし。
とにかく母親を一日でも長く長生きしてもらうということを、二人とも至上命題にしてますんで。
最後は時間の勝負かな?と。
母親はまだ元気なときに私に、あのこういうことを言ってはどうかな?と思うんですけど。
「私が生きてる時には間に合わないかもしれない」ということを、北朝鮮にいるという手紙が来たときに、すぐ言ったんですよね?
「なんで?」と。
「まだ70、大丈夫だよ」
「いや・・・」って黙るんですよね。

だからおそらく北朝鮮がどういう国なのか、薄々感じてたんじゃないかと。
そういう戦争体験もありますし、あとは母親の勘なのかよく分かりませんけど。
でも本当に母親が言ったとおりのことになってきてると。
なかなか・・・なんていうんですかね、その、兄が生きているということは日に日に強くなるんですよ。
もう間違いないと。

ただ、兄が帰ってくるということが、それと平行してなかなか行かないですよね。
進んだりこう後ろに下がったり、じれったいというか。
こんなじれったいことしてたら、うちの母親なんて今83になりますけども、今度4だよね。
何歳まで生かさなきゃいけないのかな?と。
120歳くらいまで生かさないといけないのか?と、それはちょっと難しいと、ホントそう思います。

私たちはこうやって訴えさせていただいたりお話させていただいたり出来ますけども、実際の交渉は政府ですから、政府の方にはしっかりやっていただきたいなと思います。
ただ私らに出来るのは母親をどんなことをしてでも、一日でも一時間でも一分でも長くやって生きててもらうと。
それしかないと思ってますんで。
これからもちょっとそういうふうなことでやっていきたいと思います。

あと私は、よど号のメンバーたちに対して、いろいろ出来得ることを、ね。
帰ってくるというのを「帰ってくるな!」といって、成田空港にバリケード張るわけにも行きませんから。
どうにかして、少しでも彼らが日本に居心地を、日本にいて快適だな?と思わないようにするしかないですよね?
性格悪いかもしれませんが。

それしか出来ないんで、無い知恵を絞って、いろんな人に協力を頼んでそういうことをやって、出来得ることならば「自分たちがやりました」ということを、正直に言えるような。
言わせると言ったら、あの人たちはおそらく意地でも言わんごとなるので、言っていただけるように丁重に丁重にいろいろ考えてやっていきたいと思います。
長くなりましたけど、本当、今後ともよろしくお願いいたします。(拍手)


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