2005年05月02日

第7回国民大集会(21)05.4.24 日比谷公会堂にて

『未帰還者ご家族によるパネルディスカッション 5』

「寺越昭男さん(寺越昭二さん長男・寺越武志さん従兄弟)のお話」
「北野政男さん(寺越昭二さん次男・寺越武志さん従兄弟)のお話」

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※司会 西岡力氏
先ほど古川さんのご家族が話をされた時にですね。
日本の政府はあるいは調査機関は拉致は70年代の後半からあったんだと。
だから70年代初めの古川さんのケースはちょっと違うんじゃないか?とお話がありましたけれども。
実は家族会に入ってらっしゃいまして、特定失踪者調査会の対象ではなくて。
今家族会として一緒に活動していらっしゃる、拉致被害者の。
拉致事件が1963年に起きてるんです。
1963年に、石川県の海の磯のすぐ、100メートルくらいの所で操業していて3人の漁師がいなくなった、その寺越昭二さんの3人の息子さんが家族会に入って、ずっと今活動されています。
お父さんの思い出、何かあったらお話くださいませんか?

☆寺越昭雄さん(寺越昭二さん長男・寺越武志さん従兄弟)

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(拍手 )
こんにちは。
私たち兄弟3人にとって父の思い出というのは、まぁ42年経ったせいもあるし、本当に断片的な思い出しかないんですけども。
父は漁師ということで気が荒いと言う一面と、よく言えば外面が良いって言うんですかね?
で、まぁ特に女の人には良かったみたいで。(笑い声)
母も相当泣かされていたようです。

私にとっての記憶って言うのは。
遠洋漁業で東北へ行ったりそれから九州のほうへ行ったりして、一年の内に何ヶ月か出稼ぎの漁をしていたんで。
若い頃、まぁ、私らの小さいころですね。
その漁の帰りに土産と言うことでみかん箱一杯にするめを持って来てくれたり。
それからラジオ、当時真空管のラジオだったですけど、ラジオを買って来てくれたり。
そういうまぁやさしい面もありましたし。

ある一面、怒ったら丸いちゃぶ台ひっくり返す、そういうような一面もあったりして。
私は鮮明に今でもよく覚えてるんですけど、一握りの丸い丸太ン棒持って追っかけられた。
何を悪いことしたんか知らんけど追っかけられた、そういう思い出もあります。
最後に事件のちょっと前だったと思うんですけども、親父と二人で銭湯へ行ったというのが私の最後の記憶になりました。

母は横浜出身なんですけども。
戦後多分、私が25年生まれですから23年か24年頃だと思うんですけども。
父とどこで知り合ったんか知らんけれども・・・まぁ、何というか、あの、え〜、夜逃げじゃなかった、駆け落ちですか。
駆け落ちみたいにして石川県の方へ来て、父と生活するようになって。
苦労して、父も心臓病を患って出稼ぎの漁に出なくなって、叔父・外雄さんとふたりで漁をするという事になったんですけどね。
父も真面目になってくれたって喜んだ矢先の事故だったんですね。

それから母は私ら3人の小さい子供を育てるのに一生懸命苦労して。
2002年、丁度小泉訪朝の年にパーキンソン病を患って亡くなったんです。
私たちは父と母のためにもやっぱりこの問題、拉致問題を本当に解決したいと思っています。
どうもありがとうございます。(拍手)

※司会 西岡力氏
実はですね。
先ほど安倍晋三さんや中山参与の方からもお話がありましたけれども。
5人が帰ってきた時に日本政府は日本政府の意思で日本に残しましたよね?
本人たちは表向きは北に帰りたいと言ってたんですよね?
あるいはジェンキンスさんも小泉総理に会ったときには、日本に行きたくないと言ってましたよね?
北朝鮮の影響下にあるときは言論の自由が無いんですよ。
本音はしゃべれないと言うことを、私たちは目の前で見て経験しました。

今、日本政府が寺越さん事件を認定しない大きな理由は、実は武志さんが北朝鮮にいて、「自分たちは拉致じゃない」と言ってるんですね?
「拉致じゃない」と言ってる。
しかしそれは蓮池さんたちが北にいた時に、日本に行きたくないと言ってた事や、ジェンキンスさんたちが日本に行きたくないと言ってた事と、どこが違うのか?と言うことなんです。

実は安明進さんの名前が何回か出てきますが、安明進さんは犯人から直接寺越さん事件の事を聞いてるんですね。
金正日政治軍事大学で航海講座というのがあって、工作船で日本に侵入するときにどうするか?という講座があるんです。
その先生、オと言う人が「実は1963年、ノトに進入した時になぁ」と言う話をしてくれたそうなんです。

3人その船に乗ってたんですけど、一番年上の人が子供をかばったと。
それでうるさいのでそのかばった大人を射殺して、あと二人を拉致して来たと聞いたんだと言ってるんです。
ところが北朝鮮はこの3人は遭難してたんだと。
助けてやったらば、日本より北朝鮮が良い国だったから帰らなかったんだと。(笑い声)
そして武志さんも今は「そうだ」と言ってるんです。
これを日本政府は北朝鮮の中で家族もいるのに危険を冒して、拉致されたと言わない限り認定しないのか?と。

国家として、さっき安倍さんや政治家の方が言ってましたけど、日本国としての決断はどこにあるのか?
言うことだと思うんですよね?
とくに北朝鮮は、昭二さんは射殺されたんじゃなくて、上陸て平和に楽しく暮らしていたのに、病気で死んだと言ってるんですよね。
で、最近墓が出てきたんですけども、その生年月日がおかしかったんですよね?
その事をちょっと北野さん、お話いただけませんか?

☆北野政男さん(寺越昭二さん次男・寺越武志さん従兄弟)

次男の北野政男でございます。
寺越事件の真相と言うのは、事件のその日以前と以後の記憶と言う所で考えれば、ちょっと分かりやすいと思います。
もし事件の以前に、武志が小さい時に、親父の生年月日を覚えてるはずがないんですね?
事件の以前に覚えていることは(武志さんの母親の)友枝さんが覚えているとことです。
大人でしたから、寺越友枝は。
事件の以後に向こうに渡った武志が日本のことをひとつも覚えていない、ということです。

安明進さんの言うように海で射殺されて捨てられた時には、武志の記憶は朝鮮へ行って一つも持っていないということです。
親父は朝鮮に渡っていませんから。
ですから墓石に刻んであった期日、生年月日というのは、武志から出て来た物でなくてこれは友枝さんが北朝鮮へ行って、「こう、しかじかこういう事ですから墓石を作りましょう」と言って、出てきた墓石だ。
そしてそこに刻まれた生年月日は、友枝さんがうろ覚えに覚えていた生年月日を書いたものだから全然違っていたと一日違っていたと、そう思います。

※司会 西岡力氏
本当は3月31日生まれなのに、3月30日と書いてあったんですよね?

(寺越昭男さんの声)そうです。

墓石にですね、生年月日が刻んであった。
実は誕生日の日に死んだという事になってますから、死亡日も生年月日が同じだという事になってますが、3月30日となってるんです。
しかし戸籍を調べると3月31日なんです。
昭二さんが北朝鮮に上陸していて、平和に楽しく暮らしていたんならば、自分の生年月日を間違えて言うはずはないんです。

今、つまり安明進さんの証言などが出てきて、寺越さんたちがお父さんの遺骨を返して欲しい。
お母さんと一緒の墓に入れたいと。
昭二さんは北朝鮮で結婚していませんから、家族いないんです。
日本にしか家族がいないんです。
その遺骨を返すのは当たり前のことですよね?
しかし遺骨は返ってこなくて、砂だけが返ってきたんです。
そして出てきた墓の写真に生年月日が一日間違っていたと。

しかし北朝鮮の言うことは、10人のまだ帰ってこられないこの家族会の人たちのこともデタラメですけども。
この寺越さんの事も、自分たちが射殺しておいて、「助けてやった、感謝しなさい」と言ってるんです。
それについてどちらが正しいと判断するのか?と言うことを日本政府は求められていることだと思うんです。
寺越さんたちが何回も日本政府に会って仰ってるのは、このまま拉致認定されないまま、国交正常化してしまったら、私たちは北朝鮮に感謝しなくちゃいけない。
お父さんを救助してもらったと感謝しなくちゃいけない。
お父さんを射殺されていて、親戚を拉致されているのに、感謝しなくちゃいけないことは絶対に認められない。
そう思いませんか?皆さん。(拍手 「そうだ」の声)

真実を明らかにする決意さえあれば日本政府にできることはたくさんあると。
そういうふうに思っております。

・・・続く・・・


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