2005年05月08日

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(1)05.2.10 友愛会館にて

『有本嘉代子さんのお話』

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皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。
この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。

当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく〜っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。

おぎゃ〜っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ〜わ〜と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す〜す〜と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。

私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。

外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。
そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。

1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。

主人のきょうだいが3人いまして。
姉と妹と真ん中なんですね、主人と。
どちらも子供たちは良く可愛がってくれました。
本当に、上も下も義姉も義妹も良くしてくれました。
義妹と恵子は偶然にも生まれた月日が一緒なんです。
誕生日が一緒だからと言うわけじゃないんですけれども、たくさんいる中で特に恵子が可愛かったみたい
です。

小さい時分から、次に出来ましたのが1年2ヵ月ぐらいですぐに次が出来たんです。
私が下に手がいるもんですから、下が出来た時点で義妹が自分が夜になったらずっと抱っこして寝てくれたんですね。
そんなんで、私以上に恵子のことは叔母の方が良く知ってると思います。
そんな関係で高校に入りました時点で、英語が小学校の時分からわりと好きで、ちょっと昔習いに行ったこともありますし。
高校に入った時点で元町にファルマーって学校があるんですね。
職業人の方も大勢来ておられました。
その夜間に行く言うことで、お昼高校で夜そこへ行ってたんです。

たまたまその学校が義妹が買いましたマンションのすぐ端にあったんです。
「遠いところだったら通うのも大変だから、私が迎えに行くわ」って、5分くらいの所でしたから、いつも夜間のときだけは迎えに行ってくれてたんです。
そしたら「そないするのが面倒だから、とにかくずっと家におって一緒に暮らそう」と言うことになって高校の時点から私どもの手から離れて、義妹と一緒に暮らしてたんです。
よく叔母ちゃんが世話してくれましたし、恵子のことは良く知ってると思います。

自分が外国へ行くと言うたんも事後承諾で、私ども全然お金出さなかったんです。
自分が4年間に夜の学校ですから、お昼アルバイトをして(お金を)貯めてましてね。
全部申し込んで、何もかも手続き済ましてて事後承諾みたいに。
義妹はやりたくなかったから、「親が止めてくれると思ってた」といまだに怒ってるんですけども。
止まらなかったんです。
いつでも素直に言うことを聞くのに、これに関しては一歩も譲らなかったんです。
泣いて「行かしてくれ」て言うたんですね。

最初は半年と言う約束だったもんですから、半年くらいだったらすぐ済むわという感じで、半年経ったらすぐ帰ってらっしゃいよって言うたんですけれど。
それがもう半年経った時点で。
手紙はねもう本当にこまめに、毎月に最低でも1回、多いときは2回3遍と来てました。
「今日はこんなところ行ったのよ」とか、一年間いたんですけど、一年間おる間本当に楽しくて仕方がないといった感じですね。
手紙が来たらそんな感じがするんですね。
だからちょっと帰りたくなかったんだろうと思います。

やっと翌年の1983年の6月の末に、「もう帰るわ」と手紙が来たんですから。
私もやれやれ思いまして、そしたら「夏の2ヶ月くらいは旅行しもって帰るから」という手紙でして。
すぐに帰ってくればいいのにと思って、私もすぐに手紙出したんですけど、ちょっと行き違いになってたんじゃないかなと思うんですね。
2ヶ月くらいは旅行しもって、こんなゆっくりなかなか来られないからいうんで、その時ちょっとまとまってお金も出してたんじゃないかと思います。

丁度私は弟が東京銀行に勤めておりましたんで、後輩の人がちょうどロンドン支店に勤務しておられたので、その人にくれぐれも頼んでくれてね。
「なにか相談に来たら相談に乗ってやってくれ」って、お願いしてくださったんですけど、「いっぺんも来てなかったよ」と言うことだったらしいです。
そこでちょっとお金を引き出して、2ヶ月くらい回るつもりでしてたんだろうと思うんですけれども。
そのときは八尾さんのことなんか全然分かりませんから、「8月の9日に帰る」ってと手紙が来たもんですから、そのときはああ良かったやれやれ帰ってくると思ったんですが。

義妹が8月の9日に一緒に迎えに行こうというつもりだったんですけど、義妹はちょっと私は気になることがあるからと。
あのひとはピンと霊感が働くことがあるんですね。
「とにかくいっぺん伊丹に電話してみるわい」って空港に電話してみたんです。
「その方ね、キャンセルしておられますよ」って、そない言われたんですね。
それが今も覚えておりますが、キャンセルした人があの、なんせ横文字でしたわ。
そんな全然聞いたこともないし、その前に「どうしてキャンセルしたんだろう?」と私たちもドキッとしたんですけど。

追ってその日のうちに電報が来ました。
今日も確認したんですが、8月8日付で出してるんですね。
そのときに今思いましたら、電報全然出せないんです。
だからこれは多分よど号関係の人が出したんだと思います。
後になって分かったんですけれども、西側の警察の方が、キム・ユウチョルいう北朝鮮の工作員をずっとチェックしてたんですね。
たまたまその人をコペンハーゲンの空港で見つけて写真を撮ったんですって。
そのときに恵子が端にいたんです。

それでそれは早い時期に(日本の)警察にその写真が来てたみたいです。
だけど私どもは全然分かりませんし、とにかく帰ってくる言うたまんま帰ってこないし。
本当(時間が)経っても連絡がないし、手紙は「市場調査みたいな仕事が見つかって、ちょっとしたいんだけれど」と言う手紙だったんですけれど。
一ヶ所にいないですからね。
方々行きますから、行った所から手紙出しますっていうような、だから本当にイライラしましたんですけど。
方便りでこちらからはどうすることも出来なかったんです。

それで、そうですね、8月の中ごろにいっぺん手紙届きました。
「また行った所から手紙出すからね」って感じで。
10月の中ごろに来てるんですけど、これはいつもあの子は日にちをきちっと書くんですけど、書いてないんです。
これはおかしいな?と思ったんですけど。
だからこれは多分、八尾さんが書かせたんだろうと思いますけど。
「手紙出しておいてあげるから」って言うたん違いますかね?
手は恵子のでしたから、恵子の字で、ただ日にちだけ入れんと書いてました。
それが私がいつだったか日にちを覚えてなかったもんですから、10月の中ごろと私が自分のこれに書いてあるんです。
それを最後にばたっと来なくなったんですね。

それでも何ヶ月も経つもんですから、そうですね、10月に来なくなって翌年の年明けてから初めて警察に届け出しました。
「こんな状態で・・・見てたんですけどもいまだに帰って来ないんです」言うことを、警察に届け出したんです。
警察から、そうですね、3回か4回くらい足運んだと思います。
「ちょっと来てください」言われまして行きますとね。
いろいろ、「身長はどれぐらいですか?どんなものを好んで着られますか?」とか「足は何文くらいの靴を履かれますか?」とか。
ひょっとしたらこれ外国で死んだ人じゃないかな?と思いまして。
「ひょっとしたらこの人、東洋人らしき人が外国で亡くなった人の照会違いますか?」って聞いたら、「そうです」っておっしゃる。

「そんなのあんまり私聞きたくないです」って言うた記憶はあります。
そしたら警察はそのとき「私が調査しなくていいと断った」っておっしゃってました。
そういうように取られてたんですね。
そんなんでそのまま、5年間は本当にどうしようもなかったですね。
手も打ちようが無かったんです。
1983年の最後の手紙で、今度は1988年に北海道の石岡さんという方の所へ手紙が参りまして、それで手紙とそれから写真が入ってたんですね。

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これが入ってた写真を引き伸ばしてもらったんです。
(恵子さんと石岡さん、赤ちゃんの3枚のモノクロ写真を会場に向けて披露する)
そしてもうひとつ子供の写真とね、3枚入ってたんです。
文面が、「北海道の石岡さんと恵子とそれから九州の松木さんと3人が、一緒に力合わせもって平壌に暮らしております」いうような手紙でした。
だから私はずっと子供の写真はね、松木さんだと思ってたんです。
松木さん、どうして外国に行かれるのにこんな子供の頃の写真をずっと持ち歩いてたんかなぁ?と。
二人は見たことあるのでこれは北朝鮮で撮った写真だなぁ、と思ったんですけど。
これは松木さん松木さんとずっと思ってたんですね。

かなり経ってから、「宿命」という本を書いた高沢皓司さんという方があるんですけど。
この方が、ちょうど震災の年でした。
あのときに突然訪ねて来られて、一度来られたんですけど、私も全然面識が無いもんですから、ちょっと不安だったもんですから、主人にちょっと外で会ってきてって。
どんな人か分からないからということで、ちょっと外で会ってもらって。

二度目に来られたときは朝日放送の石高さんていう方が、拉致問題にずっと取り組んできた人なんですけど、この方がご一緒してうちまで来てくれたんです。
そのときに初めて子供の写真のことを説明なさいました。
「これは石岡さんと恵子の間に出来た子供だと思いますよ」とおっしゃって。
「あ、そういえばそうだな」と納得いったんですね。
その時点までは松木さんだ松木さんだと思ってたんですね。

結局(手紙を書くのに)用紙も何も無かったんだと思います。
これは伊丹を出るときに入った保険の用紙に、これはずっと持ってたんだろうと思います。
そこに字を書いてある上に自分の手で住所と名前と書いて、両親の名前と書いて、電話番号を書いておりました。
石岡さんも自分の手で書いておられました。
ところが松木さんは、そのとき一緒にいなかったんじゃないかな?と思うんです。
松木薫さんと書いてあるんですけど、これは石岡さんの手で、熊本県熊本市までしか書いてないんです。
だから松木さんには長い間連絡できなかったんです。
住所がキッチリ分からなかったもんですから。

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そんな状態で、一応北朝鮮におると言うことが分かったもんですから。
とにかく私はそう思います。
この写真がやつれてます。
だからこの間から特定失踪者の方の写真がいろいろ出てきてますけど、全然他人さんが見てはったら分からないと思うんです。
これが恵子の、(写真立てに入ったボブヘアの恵子さんの写真を掲げる)この顔しか私知らないんです。大学行ってる、ちょうど入学する頃はこんな顔だったんです。
私が入学式のときは付いていったもんですから、最寄の駅で待ち合わせして、一緒に行ったんです。
私はこの顔しか記憶にありません。
全然顔が変わってますからね。
特定失踪者の方でもあんなに変わっていたら、全然。
親だから分かります、特徴のあるところはありますから。
全然分からないだろうと思います。

とにかく主人と二人、必死の思いで手紙をよこしたんだろうから、どうしても助けてやらなければいけないと動いたんです。
9年間。
私は動いていません。
子育てで大変ですから、よう動きしませんから。
主人が外務省の方なり政治家の方なり、一所懸命できる方があったらそこへ行って、9年間は二人で動きました。
外務省に行った記憶の中で、私は本当にいつ行っても私は座って話した記憶がありません。
3遍ほど行きましたけど。
入り口までばっと出てこられるんです。
立ったまま「国交が無いですからね」って感じですね。

ですから一番最初土井さんのところに行きましたけど、土井さんのとこも「先生に言うときます」て秘書の方が言われて。
そのまま何の返事もありませんでした。
それが1983年のまだ暑い時分でしたからね。
手紙が来たのが9月6日でしたから。
まだ9月中に多分行ったと思います。
でも(土井さんから)便りが無かったから、仕方が無いと思って、主人も「政権を取ってるのは自民党だから、これは社会党行っても駄目や」と言うことで。
それではじめて安倍先生のところだけコンタクト取れたんです。
で、「とにかくどうなるか分からないけど、とにかく一遍来てください、手紙持ってきてください」って言うてくれたんですね、秘書の方が。

それで最初は私その手紙を持って安倍先生の議員会館の事務所へ行きました。
今もいらっしゃいますけど、飯塚さんて秘書の方が、「どこいったらいいかなぁ?」言うて、事務所の中たくさんいろんな方が来ていらっしゃって、皆で相談して、「警察行かなきゃ仕方が無いかな?」ということで警察署へ連れて行ってくれたんです。
そこではかなり、1時間くらい私が話することを、いろいろこういう経緯でいなくなったんですということを、1時間あまりかかって1人の人がきちっとしてくださいました。
「これはでもね、国内の事だったら何とかなるけど、外国のことだからね」っておっしゃったもんですから。
そしたら「外務省行かな仕方ないな」ということで、また外務省へ車で連れて行ってくれまして。
外務省は5分ほどでした。
そのときから外務省、おかしかったんですね。

表から出てこられて立ったまま、5分くらいで「国交が無いからね」て言われました。
その以降、また主人と同じ道をたどって、警察へ行ってまた外務省へ行って。
その外務省へ行ったときは、2度目に行ったときは、「これは難しい国ですので、これが表に出ますと娘さんに危害を蒙ることがあったらいかんので、この話は伏せておきましょう」って言われたんです。
そのときは主人も納得して「この時期だったら黙ってな仕方ないかな」って思って黙ってたんですよね。

それ以降はもうどうしようもなくて黙ってたんですけども。
19・・・ちょうどね地震が起こったときですよね。
地震が起こる前ですから1990年90年の末に、とにかくマスコミの方がわ〜っともう、何社もね、一番最初は文春の方が来られたんです。
それから各社が、もう本当に、年末だったんです。
もう20日過ぎてたと思うんですけど、年末までず〜っと来られるんですよ。
「これ隠しておこうと言ったのに、どこから漏れたんですか?」って言うたら皆おっしゃらないんですよ。
「こんなに表に出てしまったら、これ表に出な、しようがないかな?」と思って、北海道の方と相談して。

翌年の1月の16日くらいだったですかね。
外務省の方に正式にお願いに上がろうということで文書にして持っていったんですね。
そのときに表に出すべしって、名前もきちっと明らかにするべしで行ったんですけれども。
記者会見が始まりまして。
本当にそういうのは生まれてはじめてですから、記者の方がたくさん来られてますし、テレビの方もずらっと後ろに並んでらっしゃいますし。
そこで、いざこれから私たちが話ししようというその直前に接触してこられた方があったんです。

マスコミの幹事社言うんですか?
代表して仕事してくださったのは、そのときはNHKなんです。
NHKの記者の方が来られて「ちょっと会ってほしい人があるんですけど」と言われるので、別室へ行って会ったんですね。
その方がそのときは名前も何もおっしゃらないし、どこから来られたか分からないんですけども。
「私が金正日と太いパイプを持った人を知っておりますので、水面下で必ず娘さんが帰れるようにしますから私に任せてください」っておっしゃったんです。
それが後になって分かったんですけれども、ウニタ書房言いまして、よど号の機関紙を売ってらっしゃっる方らしいです。

その人が「水面下で必ず取り戻す」って言うてくださったんで、「それだったら帰りさえしたらいいんだから」と。
「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「今から記者会見始まりますけども、そこで氏名と住所を一切言わないでください」言うてはったんですね。
それが言わないことがどういうことなのか全然分からなかったです。
とにかく(記者会見で)名前言う段になったら「急に言えなくなったんです」って言うたら、記者の方がものすごく怒られたんです。
「早くから来てこないしてるのに、住所と名前と言うてもらわんかったら何にも出来ない」って。
というのはその翌日湾岸戦争が始まったんです。

明日湾岸戦争が始まるっていうて、「こんな急がしい最中に来てるのに、こんなこと言うたら困る」ってすごく怒ってはったんですけど。
そのままとうとう言えずに終わってしまったんです。
私どもはその遠藤さんと1年あまりお付き合いしました。
だけど北海道の方はハッキリ申し上げたら、得体の分からない方だから私は付き合いようせんて、私はこのまま置いて行きますって。
私どもはその方と1年ほどお付き合いしました。
なにか大阪に絵本を仕入れにいくて言われたら、ちょっと神戸へ来て会いましょうか、と言うことで3遍くらい神戸の駅の近くのホテルで会いました。

だけどそれがいまだに誰のツテで来られたのか全然分からなかったんですけども。
金丸さんが逮捕されたんです。
あの時点から全然連絡してこられなくなったんです。
だから政治家のほうから来てはったのか、どこから来てはったのか。
それでも外務省ともなにか関係があったみたいです。
主人が外務省がおかしなことをしてると「そんなことしてもらったら困るやないか」って文句言うていきますと、あくる日必ず連絡が入るんです。(笑い)
「あれはちゃんと生きております、ちゃんと動いておりますから、必ず水面下で助け出しますから」と。
そのときに第三国発言なさったんです。
森首相が第三国発言なさいましたね?
北京に連れてきてそこで会わせる、それを聞いたとき、私は驚きませんでした。
「ああ、遠藤さんと同じこと言うてるわ」と思って。(笑い声)

だけど遠藤さんが「北京に娘さんたちを連れてきてもらって、お母さんたちと会って、それで日本に帰ればいいような、そんな形も取れるんですよ?」って遠藤さん言いました。
最後にあの方はずっと見てましたらね。
「でもこれはどこかで行き詰ってるような感じがするなぁ、絶対これでは解決しないような感じがするなぁ、あの人もいつまでもこの人たちを自分が騙してるのいかんなぁ」というふうに私は取れたんですね。
「そんなような気持ちでおってる違うかな?」というような一遍バッとしたんです。

そのときになにか一番最後にね、「とにかく手紙を書いてください。手紙を必ず持っていくルートがありますから、娘さんにまで届けてあげますから」と言うことでしたので。
差し支えの無いことだけを書いて、家族全員が一筆ずつでも妹たちは「元気にしてる?」と言ったり。
長女がちょうど(恵子さんがロンドンに)行くときに子供を身ごもってましたので。
向こうからも知ってるんでね。
「(長女に子供が)出来てるだろうな?一遍会いたいわ」って手紙が来てましたからね。
長女が「(子供は)元気に大きくなってるよ」とか、いろんなことを各自が5人の子供が書いて、私たち二人も書いて送ったんですね。

それは先ほども申し上げた高沢皓司さんという方がはじめて私どものところに訪ねて下さって、震災の年なんですけど、そのときに「その手紙は私が言付かりました」っておっしゃいました。
「私が平壌に行きまして、田宮さんの手までは渡してきましたよ」って。
田宮さんていうのはよど号乗っ取りのリーダーですね。
「この方までは渡してきましたよ」って。
「そこから先、娘さんの手に入ったかどうかは分かりませんけども、ともかく田宮さんまでは私届けてきました」っておっしゃいました。
そのときに田宮さんは「よど号の私たちの手で、20人くらいはこの国に連れて入ってる。これは私たちがここにおる間に絶対に日本の国に帰すようにせなならん」って田宮さんが言うてるてことは聞いております。
それから間無しに、田宮さんは心臓麻痺で亡くなりました。
私は粛清されたんじゃないかな?と今でも思ってますけどね。

本当にそんな辿りもって来たんですけども、本当に何の進展も無くて。
はじめて横田(めぐみ)さんが北朝鮮にいる言うことがわかりまして。
それも朝日放送の石高さんがたまたまソウルに行かれたとき、そういう情報をこちらに持って帰られて。
それをこちらで佐藤先生が新潟でお話なさったときに、そこで初めて「めぐみさんじゃないかな?」ということが分かって。
予算委員会のときでしたかね。
西村先生が国会の場でめぐみさんのことをおっしゃって。

それで横田さんもおっしゃってました。
はじめてお会いしたときに、「今年で19年目にしてやっと、めぐみのいるところが分かったんですよ」っておっしゃいました。
「だけどね、19年間めぐみが北朝鮮のあんな国でも元気で暮らしているゆうことが分かったんですけど、私らが表に出ることによってめぐみにもしものことがあったらどうしよう?と、かなり悩みました」とおっしゃいました。
同じです。
私らもかなり悩みました。
本当に、初めて新聞に出るいうときは本当に夜眠れませんでした。
どうなるかしら?と思いましたけど、同じ思いで横田さんも思い切って表に出てくれたんですね。

それによって初めて1997年ですね、3月に家族会が出来たんです。
初めて運動始めましたらね。
外務省に行きましたらね、当時局長さんが会ってくれました。
私らが行ってるときは「なんとかもうちょっと上に人にお目にかかれませんか?」とお願いしても、課長どまりでね。
「私で辛抱してください」って言うんです。
数の力って本当に大きなものだな、ってつくづく思いました。

今も問題は前に進んでませんけれども家族会が出来て、やっと2002年9月17日、5人の方が帰って来られて。
だからそういう経緯で、家族会の方とお目にかかるんですけども、そんなにゆっくり話す間も無かったんですけども。
「家族」って言う本を出しましたね。
あのことによってずっと読ましていただいて、はじめて「皆さん同じ思いで長いこと暮らしてきたんだなぁ」とつくづく思いました。
今から先どうなるか不安ですけどもね。
やはり、必死の思いで私は助けを求めてきたんだろうと思いますから、出来る限りのことはせないかんと思うてますし。
家族会でも横田さんも一所懸命、毎日のように北から南からずっと全国走り回って、訴え続けておられますのでね。
だから私どもも今訴え続けるより他に道が無いんです。

これを本当に外務省の方々が、交渉に当たる方がしっかりと受け止めていただいてね。
日本の国のことなんですからね。
特定失踪者の人も、やはり400人からの方が言って来られてる。
この方も同じ思いなんですよね。
だからその、分かりませんものね。
本当にそうなのかどうなのか?言う、証拠が無いもんですから、動くに動かれなかったんですけども。
長い間みな同じ思いで暮らしておられたと思うんです。

全員の方が帰って来ないと、私はいつもそう思ってますけども。
解決しないです。
拉致問題の解決と言うことは、やはり全員が全部日本人なんですからね。
この方たち全部が日本の国の土を踏まないと、解決しないと思っております。
これからも皆と力を合わせて、家族会の皆さんと力を合わせて一所懸命頑張っていこうと思いますので、皆様方もどうぞ、これを最後まで、とにかく立ち消えになってしまったら困りますので。
皆様関心を持ち続けていただいて。

一緒に、国のためなんですから、日本の国がおかしくなってるなとずっと思ってましたけれども。
若い人たちがたくさん連れて行かれて犠牲になってますけども。
この人たちの拉致問題があったことによって、日本の国が国民の皆様方が日本をきちっと見直してくださって、それでこれではいかんと言うことで私たちに応援してくださっています。
道を歩いていても何人かの方が必ず声をかけてくださって、「頑張ってくださいよ」「私たちもずっと関心を持って見てますからね」と、それが一番の励みになっています。
親なんだから、絶対に最後までこれをやらなければいけないと思っております。
どうぞ皆様よろしくお願いいたします。(拍手)


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