2005年05月10日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(1)05.3.10 友愛会館にて

『市川健一さんのお話』

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皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの〜、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」
と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4〜5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの〜学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

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父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。

そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。

それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。
それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。

なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの〜皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。

事件から17年後1995年、確か11月の終わりだったと思います。
私が父と店を代わり昼食を取っていたところ、電話が鳴りました。
韓国から国際電話が入ったんです。
以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方(大阪・朝日放送の石高健次氏)でした。
「韓国へ亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんという方に取材をすることが出来た。
何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中からこの男性は何回も目撃している。
おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」
と言うお電話をいただいたんです。

お袋がその時はテレビを見ておりましたですけども、私が修一と言う言葉を出したもんですから、サッとこっちの方を見ておりました。
私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端みるみる大きな粒の涙を流し
「どこへねおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」
本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。
私も初めてね、母親があのように大きな声で泣くのを見て、本当に母親の愛というものは海よりも深く広いなぁと理解しました。
それからお袋の顔も笑顔が戻り、修一の話をしてもそんなに悲しい顔をしなくなりました。
本当に安明進さんの証言と言うものは家族にとっては本当に大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
それから修一が帰って来ても困らないように、着れもしない20代の頃のスーツを取り出して虫干ししている母親の姿を見ると本当にたまらない気持ちですよね。(少し声を詰まらせ涙声で語る)

それからですね、まもなく家族会が発足したんです。
私は国は国民の生命を守る義務があります。
修一たちを全員を必ずいつかは政府が取り戻してくれるだろうと。
私は期待し、絶対に取り戻してくれるんだと、いつも思っておったんです。
ところが20年間政府は何もしてくれませんでした。
拉致被害者をね、完全に見捨てていたわけなんです。

皆様方もご承知のように2002年・平成14年、世論の力で小泉総理が訪朝されました。
日朝首脳会談が行われました。
私たちは外務省の飯倉公館に集められて、「5人生存8人死亡2人が未入国」と通知されました。
家族は個別に呼ばれ、私と妻とそれと長男3人に植竹外務副大臣より
「命に関わる問題です。
政府としては慎重に確認作業をいたしました。
ところが残念なことに修一さんは死亡されております」

その時私はね、死亡というのは頭に無かったんです。
最悪でも行方不明のままだろうかなぁ?おそらくその方が強いかなぁ?と思っておりました。
ところが死亡と言われたもので、頭の中真っ白になったんです。
そこで・・・あの・・・あの・・・植竹副外務大臣に
「修一は殺されたのですか?病死なんですか?死んだのはいつなんですか?」
と矢継ぎ早にね質問したところ
「何も分かりません」
ただそれを繰り返されるばかりでした。

妻も怒って
「何も分かりませんでは、私は両親にどう説明したらいいんですか?大臣・副大臣は知っていらっしゃるんでしょ?知っているんだったらここで教えてくださいよ!」
物凄い剣幕でね、副大臣に迫っていました。
長男も目を真っ赤にして妻の肩を抱いて
「お母さん、もういいよ、もういいよ」
ってね、一生懸命ね、母親の肩を抱いておりました。(このあたり少し声を詰まらせながら語る)

私はその時安明進さんの証言がありました、っていうのもそれも頭に全然無かったんです。
「親にどう説明したらいいのか。そうだやはり行方不明のままで知らせた方がいい。高齢の90歳の身だからどういうことか何かあったら大変だ」
そう言おうと思いましたらね、なんとちゃんとテレビで放映されておりましてね。
で私は心配して電話したら、家じゃあ妹が、
「一時はしょげ込んでいたけども、元気だよ。兄ちゃん大丈夫だよ」
と言ってくれてね、やっとそれで安心しました。

それで後で分かったんですけど、政府は死亡確認はやっていなかったわけなんです。
北朝鮮の一方的通知をそのまま私たちに伝えただけだったんです。
後日政府の訪朝団が訪朝し、北朝鮮側からの聞き取り調査を行いまして、私たちにその調査書と言うのを下さいました。
その内容を見てとても納得できる内容ではありませんでした。
1979年9月4日元山海水浴場で溺死と書いてありました。
私はえっ?修一は、あの私の田舎は私のときもでしたけど修一の時も小学校・中学校もプールが無く、また山間に住んでいましたからほとんど海水浴に行ったことが無いわけなんですよ。
で家族でも海水浴に行ったこともないし、修一が泳ぎに行ったことも全然聞いたこともありませんでした。

あぁ、これは嘘だな。
泳げない者がわざわざ海水浴に行くはずが無い。
それと9月4日、水は冷たいですよね?
その水の冷たい時期に海水浴するはずが無い。
それと元山海岸から緯度をたどっていくと東北の岩手県に当たります。
岩手県でも9月になって海が冷たくて泳いでいる人はいないですよね。
それなのに海水浴で死亡としてあるわけなんです。
元山海水浴場には台風も近づいていた訳なんですよね?

私には目撃証言者の安明進さんがいらっしゃいました。
1988年から1991年、あの〜修一をね、金正日政治軍事大学で何回も目撃しているわけなんです。
修一の特長なりすべて話されたこと、また赤いネクタイなんかも修一に間違い無いという証言も頂いておりましたから。
それなのに北朝鮮は拉致の次の年には死亡としているわけなんですよね。
本当に全てが矛盾と不自然な点が多く、とても信憑性があるものではなく、捏造と嘘に嘘を重ねるのが北朝鮮の常套手段だと思っております。

昨年5月22日小泉総理が訪朝されました。
私たち家族は10名の未帰還者、それから100人以上ともいわれる北朝鮮に拉致された可能性の強い特定失踪者。
この人たちの救出の道筋を立てて来られることを本当に心から強く切望しておりましたけども。
ところが総理は被害者の国・日本が、加害者の国・北朝鮮に対して、食糧支援の約束をなさる。
また国民の意思で成立した経済制裁法も発動しない、ということをね、約束されてこられたんです。
本当に唖然としてしまいました。

日本は北朝鮮から主権侵害・人権侵害され続けているのに、なぜ?
なぜ毅然とした態度で交渉が出来ないのか?
本当にね、情けない!腰抜け外交!日本はどうなっているんだ!と怒りがふつふつと湧いてきました。
日本人の拉致を指令したのは金正日なんです。
その金正日は自国民にも恐怖を与えて食料も与えずして、餓死させ続けている極悪の独裁者なんです。
だから日本政府がどんなに誠意を持って米支援しても、特定階層の人あるいは軍人などにそれがまわって国民のね、口には入らないんです。
だから祖国を捨てて脱北者がどんどんどんどん後を続いておりますよね?

独裁者には誠意は通じません。
独裁者の考えることは得か損だけなんです。
私たち家族は北朝鮮に対して経済制裁の発動をして欲しいと強く強く要請しております。
対話の出来ない相手にはもう制裁の圧力しかないと思います。
圧力と言っても軍事力ではありません。
経済封鎖でもありません。
北朝鮮の国民が困らない、金正日が困る人・物・金を止めればいいわけなんです。
それをね、総理は絶対やって欲しいと思うんです。

でなければ、ただ時間だけが過ぎ去っていきます。
私のね、両親はもう90歳なんです。
一刻でも早く弟に会わせたい。
私はその一念でね、気が張っております。
本当に時間が無いんです。
朝私は早く起きるんですけど、両親今日も元気で起きてきてくれるかなぁ?
それだけが毎日心配しております。

今父は足が痛くて、自宅と店は隣同士なんですけど。
私なんかが歩けば何歩かで店に着くのに、親父はそこまで来るのに30分も時間がかかるわけなんです。
本当に歩けば歩くほど足が痛い痛いと言ってね、ほとんど寝ているわけなんです。
あんまり寝ているとボケてしまいますんで心配しております。

北朝鮮の国民もね、金正日の独裁から解放されることを信じております。
皆様方もこの拉致問題を忘れないで下さい。
関心を持ち続けてください。
世論の力ほどね、強いものはありません。
5人の被害者、まずはその家族が帰って来られたのも世論の力です。
私たち10人の未帰還者、また400人以上と言われる特定失踪者、この人たちが全員が祖国の土を踏むまでは戦わなくてはいけません。

頼りにしているのはね、皆様方のね、世論の力なんです。
どうかね、私たちと一緒に戦ってください。
そしてね友達、友人なんかにこの拉致問題の話をしてください。
悪いのはね、金正日です。
よろしくお願いします。(拍手)


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