2007年05月09日

07.4.10 海老原智治氏2 東京連続集会27(4)友愛会館にて

「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『海老原智治氏 タイ人拉致被害者アノーチャさん救出運動報告 その2』



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これはアノーチャさんが卒業しましたノーンセ寺小学校の現在の様子です。
これはやはりノーンセ寺小学校ですけれども、古い校舎が残っています。
30年くらい前からあるという話で、アノーチャさんもここで学んだのかどうか。
ノーンセ寺と言うのは名前の通り、お寺に併設されています。
タイの学校と言うのは日本の寺子屋と同じでして、由来がお寺に発祥があるわけですけど、今現在もお寺の境内に隣接しているというケースが非常に多くてですね。
名前もなんとか寺学校と言うんですけども、ここも同じようなケースでして、そこの本堂がこのようになっているわけです。
ここは家族のいつも行くお寺であって、馴染みのお寺であったという事です。

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これはアノーチャさんの家がある集落の中の様子です。
これは典型的な北タイの集落の様子でしてずいぶん静かな町なんです。
これも同じ町並みです。

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ここまではアノーチャさんがチェンマイにいたときのだったわけですけど、続きましてバンコクに出稼ぎに出た時の事をお話します。
前後して恐縮ですけど、19歳くらいまではこのように実家で家業の手伝いをしていたわけですけども、その後心機一転してバンコクに出稼ぎに行くことにしたという事です。
理由は何なのかあまり家族は言わないんですけど、その頃のその集落の一般的な考えとして、ちょっと家計が苦しい人はバンコクへ出稼ぎに行くのが非常にその辺では一般的だったから、アノーチャもそのような次元の一人だったというような言い方を家族はしています。

それが1973年から78年の間、19歳から24歳までであったわけです。
アノーチャさんの出稼ぎの経緯、村の女性2〜3人とバンコクへ出稼ぎに行くということにしたと。
行く前はどこで働くかも何も決めずにとにかくバンコクに出て、あちらに出た後に仕事を見つけたと言っております。
しかしそれで運よくあちらで仕事が見つかったんですけれども、実家の方には仕事は何で職場はどこだという事はついぞ言わなかったという事を家族は言っております。

その後、我々が当たったところ、風俗関係の仕事をしていたという事が分かっております。
家族の方はそういう事は口幅ったいのでそんな言い方をしたんでは無いかと思います。
それで年に2〜3回は実家に帰って来たといいます。
そうしますとたくさんお土産を持ってきて、家族や親戚や近所に分けていったという事です。
そのお土産には当時タイでは最高級デパートであった大丸デパート、これは日本の大丸の支店ですけれども、そこの袋を抱えて持ってくることが度々あったということです。

非常に父親に愛情を持っておりまして、実家に帰るたびに父親とは非常に親しくいろんな話をしていたと。
このときアノーチャさんはもう母親を亡くしておりまして、母親は非常に幼い頃亡くなっているので、記憶にもほとんど無いらしいですね。
そのような為に肉親として親として残されているのはお父さんだけだという事なので、非常にお父さんと親密な関係にあるようです。
バンコクでどんな暮らしをしているのかと言うのも、お父さんとは非常に詳しくいろいろ話をしていたらしいんですけど、そういった内容は他のきょうだいですとか親戚には話さなかったという事を言っております。

その中で非常に大きなお金をアノーチャさんはバンコクで稼いでいたようです。
家族にとっても稼ぎ頭であった。
この時期サンカンペーンで実家の月収がタイバーツで500〜600バーツでしかなかった。
これを日本の金銭価値に直してもちょっと今のレートにしても何とも言い難いんですけれども、そのような収入であったのが、アノーチャさんが毎月実家にバンコクから仕送りした額が、一回に1000から2000バーツであった。
家族みんなで実家が働いても一ヶ月に500〜600バーツなのに、アノーチャ一人が毎月1000〜2000。
倍から4倍の金をもって来たということです。
非常に大金を送ってきましたから、生活上頼りにされていたんだろうという事が分かります。
また非常に大きな大金を送ってきた事がありまして、1977年には1万1千バーツ、2万4千バーツ、そういう記録が残っております。

この当時タイの公務員の初任給が3000バーツですとか、その程度であった時代ですから、それを上回るこのような大きなお金をアノーチャはバンコクで稼いでは実家に送ってきていたわけであります。
非常に家族思いだったと思います。
それからには1977年、22歳には名前をブアパーと言う名前からアノーチャと言う名前に替えたと言っております。
ここまでがアノーチャさんのバンコク時代の主な事象ですね。

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写真をご覧ください。
これがバンコク時代のアノーチャの写真です。
1977年ごろ、21歳。
これはパスポートを作るために撮った写真であるという事です。
おそらくマカオに出稼ぎに行く事が決まった後に撮影したのだろうと思われます。

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アノーチャさんがバンコクでかつて住んでいたという場所の現在の様子です。
今現在はこんな状態で工事現場みたいになって何もないんですけど、以前はここにですね。
アノーチャさんは風俗関係に従事していたということで、この界隈はかつてその職業に従事する女性がもっぱら住む長屋のような借家があって、そこに50人から60人の女性が細い道に住んでいたという事です。
その借家そのものは取り壊されてしまって残っておりません。

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続きまして、アノーチャさんの最後の帰郷。
1978年の月は不明ですけど、年の頭の頃であったという事です。
そこで家族3〜4人と食事をする中でお兄さんのお嫁さん、兄嫁に次のように話したといいます。
「私はバンコクに出稼ぎに行っている間に、これまで3回外国に仕事に行っている。今度バンコクに戻ったらマカオに行く予定になっている。これが外国で仕事をする最後でこれが終ればもう行かない。その後はずっとバンコクで仕事をしながら時々また実家に来るから行き来をするから、だからお姉さん、それまでは父の面倒をよろしく頼みます。」
こういう事をお兄さんのお嫁さんに託したんだそうです。
そういう話をしてバンコクに戻ったアノーチャですけども、それから連絡がなく、今現在まで全く連絡が無いという事になっております。

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これが失踪先のマカオで1978年に撮影されたと思われます写真です。
22歳ごろだろうという事です。
そのようにして1978年の5月ないし7月に拉致をされてしまったわけです。
拉致の経緯についてはまた別途お話をしますが、それを家族が知ったのは次のような経緯であるという事です
もちろん拉致されたという事は知らないわけですけども、いなくなったという事自体は78年に知っていたという事です。
それがですね、次のような事情です。

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マカオに同行した友人から実家に手紙が届いたと。
その手紙にはこのように書いてある。
「お父さんとスカムさん、私と話すためにバンコクに来てください。」
大事な話があるというわけです。
その為に出て行きましたら、バンコクでこういう話をした。
「私とアノーチャはマカオに仕事に行った。1978年5月21日にアノーチャはマカオで姿が見えなくなった。失踪するこの日、アノーチャは友人と昼飯を食べに行った。その友人に『もし私が2〜3時間姿が見えなくなったら警察に届けてくれ』というちょっと謎めいた話をして、その日本当に帰って来なかった」という話です。

この友人がアノーチャの家族に続けたところでは、「その時私はアノーチャが本当に失踪したとは思わなかったので、マカオで警察にも届けなかったし、実家にも知らせなかった。」
ちょっとどこかに行って帰ってくるだけだろうと思っていただけだったんですね。
「しかし6ヶ月今経ってしまって本当に行方が分からなくなったと思われるので、今こうして私が実家にお話しすることにししたんだ」と。
要するに概略このような話があったわけです。
これをもちまして実家の方でもアノーチャがマカオでいなくなったという事を、1978年11月、分かったわけです。

しかし、分かったのはこれだけでして、どうしていなくなったのか?どこへ行ってしまったのか?何一つ分からず、それがようやくまた情報が得られたのは2005年、テレビのニュースで初めて分かったという事になったわけです。
それからですね。
バンコクでの話に行った時にこういう話を聞かされたと。
「アノーチャがいなくなったときと同じ時間に香港人も二人いなくなっている。一人は香港の宝石店のオーナーの娘で、もう一人はおそらくその従業員のようだ。」
何でそんな事が分かったのかと言うと、「マカオではその3人の行方不明者の尋ね人の張り紙が今町中に出ているんだよ」と、そんな事を聞かされたという事です

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それ以来全く78年以来情報がなかったものが、2005年になりましてテレビニュースで突然、また消息に触れることになったわけですけども、きっかけになった重要な本がこれです。
ジェンキンスさんがですね。
ジェンキンスさんの本はそのようにタイ人拉致の、まさにこの本から始まったというくらいの重要文献という事で、私の方では是非この本をタイ社会に問いたいという事で、本の版権を取得しましてすでにタイ語の翻訳を終えたところです。
現在出版のために準備にかかっております。
この7月くらいにはタイ国内で頒布できるのではないかという状況になっております。

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ジェンキンスさんの方からアノーチャの拉致の経緯と言うものが詳細に証言されております。
これは本の方には詳しくないんですけど、2005年の12月にですね。
アノーチャの家族と私の方で東京の国民大集会に参加した折に、ジェンキンスさんに面接の機会を救う会・家族会の方でアレンジして頂きまして、その中でジェンキンスさんから語られたアノーチャの拉致の経緯は次のようなものです。

マカオのアノーチャの店、これはマッサージ店、ここに2〜3人の男が数度訪れて「一緒に外に写真を撮りに行かないか?」と何度も頼まれたと。
アノーチャはどうも乗り気がしなかったようなんですけども、店のオーナーが、これはポルトガル人。
アノーチャに「お前、一緒に行けよ」と命令したわけです。
ボスが言うんでしょうがないんでアノーチャは行くことになるんですが、日中町を歩いて海岸で写真を撮っているうちに夕方になった。
浜辺に来たところで突然アノーチャを縛って猿ぐつわをはめた。
注射を打って、外から見えないような長い草が繁っているところにとりあえず寝かされたと。
その状態にした後犯人たちは、一旦車でどこかに去っていきまして、数時間経ったらまた戻ってきた。

戻ってきた犯人はアノーチャを担ぎ上げてですね、歩いて運んでいったと。
丘のようなところを越えていって農村の近くを通ったわけですけども、その時には「もし少しでも声を出したら、打ちのめしてお前を失神させるからな、絶対声を出すなよ。」
まぁそういう脅し文句を言ったと。
そしてマカオで船に乗せられます。
そうしましたら船の上に二人のアジア系の女性がいた。
2〜3日船の上にいまして北朝鮮に到着した。

アノーチャは船が北朝鮮のどこに着いたかは分からなかった。
そのまま平壌の招待所に連れてていかれて、ある日当局が招待所にいる人を庭に集めて一人ひとりを選抜したと。
「アノーチャ、お前はここの部署に行け」という事を言われまして、そこがジェンキンスさんのいる部署と言うのか、居住区域だったわけです。
このような事がジェンキンスさんの方からお話の中で分かってきました。

・・・その3に続く・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この集会の録音・写真撮影・ネット公開に関しては主催者の同意を頂いております。


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