2005年07月06日

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・

Img_0084.jpg

3日ぶりのエントリーです。
当Blogの看板には「時事問題から与太話まで」と銘打っておきながら、Blog開設3ヶ月を過ぎてもひとつも与太話を上げていないんですね。(笑)
お休み明けの再開を良いきっかけと考え、今日はその初与太話をエントリーしたいと思います。
実は私、拉致問題の他にもうひとつ、このBlogを立ち上げようと思った理由があるんです。
拉致問題が忙しすぎて中々こちらを取り上げる暇が無かったのですが、エントリー再開を良いきっかけと思いまして、今日はもうひとつの理由の方をご紹介することにします。

私の身内には一人の英霊がいます。
しかもその英霊は、神風特別攻撃隊の隊員でした。
彼は今から60年前の昭和20年5月4日沖縄戦で、みごと敵艦の撃沈に成功し戦死したそうです。
享年21歳。
彼は私の母方の祖父の弟、続き柄で言うと大叔父に当たる人です。
でも物心ついたときから、母に習って、「叔父さん」または「特攻の叔父さん」と言い習わしてきましたので、ここでもそういう呼び方をしたいと思います。

私は物心ついた幼い子供の頃から、何度となく祖父母に特攻の叔父さんの話を聞いて育ちました。
ですから、変な話、子供の頃は世の戦死者の中に特攻で亡くなった人は数え切れないほど大勢いるのだと、心から思い込んでもおりました。
けれど大人になって戦争について色々学ぶうち、実は自分が聞かされてきた特攻による戦死者は、大勢の戦死者の中でもレアケースであることを知りました。

私はプライベートの時でもこの特攻の叔父さんについて、親しい友人にも一度も話をした事がありません。
別に隠し立てをしたとかそういうのじゃなく、特別話す機会がなかっただけのことですが。
けれど私は今、無性にこの叔父のことについて語りたいと感じています。
理由は色々ありますが、一番の理由は彼の辞世の歌、

  身はたとへ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

これに触発された部分が大きい、ということでしょうか?

叔父さんはもし存命ならば今年80歳のお爺ちゃんでした。
私は生きている叔父と存分に話をし触れ合いを持ち、彼からきっと様々な影響を受けて自分の人生を歩んだはずです。
いうまでもなく、私は彼の特攻死によって護られた側の子孫です。
血のつながった肉親である以上、彼の存在は死んでも尚、私と言う存在に何かしらの影響を与える物なのでしょう。
である以上このまま叔父さんの事を誰にも語らないまま無為に時間を過ごすことは、なんだか叔父に対してとても申し訳ないことのように思えてきたのですね。

もしも戦争を生き伸びていたなら、彼はその後どんな人生を歩んだのか?
歩みたかったのか?
生への執着を振り切り、国と家族を護るために出撃して行った彼が、この世に残し置きたかった心とは何なのか?
この歌を思うたびに、叔父の心の内をふと考える私がいます。
私に叔父のことを話してくれた祖父母は、すでにこの世の人ではなくなりました。
唯一生身の叔父を知る私の母も、60の坂をとっくに越しております。
今私が何らかの手段で語らなければ、ひとりの青年の特攻死を世に知らしめることは出来なくなってしまう。
彼の生きた証を、例えどんなにささやかな手段であっても世に伝えたい。
ひとりでも多くの人に、私が聞いてきた特攻の叔父さんの話の数々をご紹介し、心の隅に留め置いてもらいたい。
戦後60年の今年はその良い機会ではないだろうか?
そんな思いでこのエントリーを書き綴りたいと思います。

私の祖父は5人兄弟の一番年上の長男、特攻の叔父さんは次男で末っ子です。
本来、特攻の叔父さんと私の母は「叔父と姪の関係」なのですが、特攻の叔父さんと私の祖父の歳の差は14歳、姪である私の母との歳の違いは13歳。
彼にしてみれば私の母のことを姪と言うよりも、「ちょっと歳の開いた兄と妹」と言った感じで捉えていたかもしれません。
事実子供の頃、母は叔父さんのことを「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいたそうですし。

その叔父は16歳の時岩国にあった予科練に入隊しました。
祖父から聞いた話では、なんでも予科練の試験、トップ合格だったとか?
そもそも叔父さんは家庭の事情で小学校しか出ていませんでした。
本人がある日予科練を受けると言い出した時、学のないお前が予科練に受かるはず無いだろうと、家族の誰もが本気にしてなかったそうです。
ところが実際は事前の予測を大きく裏切り、並み居る中卒者を押しのけて主席で合格しちゃったらしいのですね。
試験官から「○○、お前が主席で合格した。だからお前が代表で免状を受け取れ」と言われたそうでして。
出来の良かった弟が自慢だったのか、この話は祖父から何度も何度も聞かされましたっけ・・・

母の記憶では、合格発表を受けた日、ヒューヒューと口笛を吹きながら帰宅し、家の中に入るなり家族に向かって「受かっちゃった♪」とひょうひょうと言ってのけたらしい。
特別ガリ勉タイプだったわけでもなかったそうですが、頭はたいそう切れる人だった。
いいなぁ・・・どうして私はこの叔父さんのDNAを引き継がなかったのか・・・?
もそっとお勉強が出来れば、私の人生も今とは大分違う物になってたはず・・・?(笑)

さて本日ご紹介するエピソードは叔父と姪とのあいだでやり取りされた葉書のお話です。
家族思いで子供好き。
その彼が軍人として台湾や三重県の鈴鹿などを転々とする中で、赴任地から故郷の姪に宛てて書き送った葉書が今も残っています。
それが冒頭の写真でご紹介した2枚の葉書。
私の母が、叔父さんの形見として今日まで大切に保存してきた物です。
まずはこれをご紹介しましょう。

一枚目、写真右の絵が描いてあるものは昭和18年10月19日の消印が押されています。
三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊からの投函です。
これを受け取った時の母は誕生日前だったのでまだ5歳。
幼い子供でも読めるよう、カタカナで書かれています。
全文をご紹介しますので、お読みください。
 
  ○○チャンオゲンキデセウネ
  モウオバアチャンノオッパイハノマナイデセウ
  モウライネンハガッコウヘイクンデスノモネ
  コノクライノヂハヨメルデセウネ
  ヨメナケレバオトウチャンニデモヨンデモラヒナサイ
  ニイチャンモ ヂキニコノエノヨウニ ヒコウキニノッテアメリカヘ
  バクゲキニイキマス
  ○○チャンモ ヤンチャハイワナイデ ハヤクオホキクナッテ 
  オコメヲタクサンツクッテクダサイネ
  オカラダヲゴタイセツニ
  サヨウナラ

2枚目、写真左側。
これは丁度一年後の昭和19年10月18日消印。
同じく三重県の鈴鹿海軍航空隊第一分隊から投函されています。

  ○チャン
  マイニチマイニチ オゲンキデガッコウニイッテイルコトデセウネ
  モウバアチャンノオッパイハモウノマナイコトデセウネ
  ○○○チャンノオモリクライハシテイルコトデセウ
  ニイサンモマイニチマイニチヒコウキニノッテ 
  オクニノタメニハタライテイマス
  ヒコウキハトテモノリココチガヨイデスヨ
  ○チャンモハヤクオホキクナッテ オクニノタメニハタラヒテクダサイ
  オテガミチョウダイネ
  サムイカラカゼヲヒカナイヨウニ

6人兄弟の総領娘で次々と下に妹や弟が生まれたため、母は大変なおばあちゃん子だったのです。
母親に甘える暇が無かった分、おばあちゃんの萎びたおっぱいにぶら下がって一種のごまかし・甘ったれをしていたらしい。
これは大人になってからも冷やかしの種になるくらいの公然の話題だったので、特攻の叔父さんにもさぞかし印象深い出来事だったのでしょう。
2枚の葉書ともにおっぱいの話題が書き添えてあるのですから。
しかし学校へ上がってからは母はおばあちゃんのおっぱいをキッパリと卒業したそうです。
母の名誉のため、申し添えます。(笑)

母はこの葉書を受け取ってすぐにそれぞれ返事を書いたと言います。
就学前の最初の返事は、文字が曲がらぬよう、父親に鉛筆で原稿用紙のように升目を引いてもらい、後ろから鉛筆を持つ手を父親に支えてもらいながら、返事を書いたそうです。
内容は忘れてしまったけど、2度とも間違いなく返事を書いた記憶があると言っております。
しかし叔父の戦死後、遺品の中に母の書いた葉書はありませんでした。
母が言うにはおそらく出撃の際、叔父さんが自分の胸に抱いて往ったのだろうと。
この事実は私の胸に深く深く突き刺さります。
叔父さんの出撃には当然当時まだ幼かった私の母を護るため、という大義名分も含まれるのですから。

特攻は言うまでも無く、骨のひとかけらさえ故郷に帰ることの出来ない壮絶な攻撃です。
人一倍の親思い・家族思い、ユーモアがあり友達も多く、朗らかで人懐っこい性格の叔父が、大好きな故郷へ二度と帰ることも出来ず、たった独り海の底に沈まねばならないのです。
出撃の命令を受けた時の彼の心中はどのような物だったのか?
一体どうやって自分の心を納得させて、出撃に臨んだのだろうか?
最期の瞬間、いったい叔父さんは何を叫んで突撃したのだろう?
折に触れて、私は考えざるを得ないのです。

たとえ幼い子供に書き送る葉書であっても、当然軍による検閲があるわけですから、葉書の文面も当たり障りの無いことしか書けません。
しかし、葉書の最後に書かれた「オテガミチョウダイネ」の一言が、今になって妙に胸に引っかかるんですね。
もしかしたら無意識のうちに、いざ出撃の時に備えて故郷の温もりを少しでも多く、と言う気持ちから姪っ子からの返事を求めたのだろうか?などといった余計なことまでついつい考えてしまう・・・
祖父もそんな弟の気持ちを思って、まだまだ幼い娘の手をとって拙い返事を書かせたのだろうか?と思ってもみたり。

特に2枚目の葉書を出した頃は戦局もかなり厳しさを増していた頃。
事実この翌年の5月に彼は沖縄で戦死するわけですから。
単に故郷懐かしさ・姪っ子可愛さだけで彼はこの葉書を書いたのだろうか?
叔父さんがいつごろ特攻に志願し、その決意を家族に伝えたのか?
今となっては知る由もありません。
祖父母が健在のうちにもっときちんと聞いておけば良かったと、今になって悔やんでおりますが。

ともかくも、二度とわが身が故郷に帰れぬ代わりに、叔父は故郷を偲ぶよすがとして母の葉書を連れて往きました。
おそらく母の葉書だけではなかったはずです。
家族の写真や友人からの手紙など、故郷の思い出につながる物は何から何まで、胸に抱いて出撃したに違いありません。
まだまだ幼かった姪の葉書までも胸に抱いて、出撃する彼の心中はどのような物だったのだろうか?と。
私は時々彼の心中に思いを馳せます。

  「あんちゃんがお前たちを護ってやるぞ!」
  「しっかり勉強して立派な大人になれ!」
  「親父やお袋のことは頼んだぞ!」

そんな声が、茶色く変色したこの葉書の向こう側から今も聞こえてくるような気がします。
母はこの叔父さんのことが大好きだったんだそうです。
今でも母は叔父さんの話になると、大きな涙をぽろぽろこぼしながら号泣してしまいます。
そして口癖のように
「特攻の叔父さんに顔向け出来ないような、恥ずかしい生き方は出来ない」
と言います。
長いこと私は母のこの言葉を、「これは母の人生訓のような物」と他人事のように受け止めてきました。
特攻と聞いてもただ何となく「あぁ大変な死に方をしたのだな?」と思うくらいで、それ以上の実感はありませんでした。

でも拉致問題に関心を持ち日本の近代史を勉強して、「国とは何か?真の愛国心とは何か?」と真剣に考え始めた時、突然叔父さんの存在がまるで千貫の重しのように私の上にのしかかってきたのです。
特攻によって護られたのは母だけじゃない。
私も叔父さんの壮絶な死によって護られた側の人間じゃないのか?と、自問自答するようになったのです。

私は戦後の生まれですから、当然この叔父さんとの面識はありません。
でも幼い頃から色々なエピソードを祖父母や母から聞かされて育ちましたので、私の中では相当にリアリティーを持って存在しているのですね。
その叔父さんの壮絶な死を具体的にイメージし始めた時、母の思いがそのまま私の思いへと変わるのにそう時間はかかりませんでした。
私もあの世に逝ったとき、彼に合わせる顔が無くなるような生き方はしたくありません。
少々しんどいことがあっても、叔父さんの壮絶な死よりははるかにましじゃないか!と思えば力が湧いてきます。
そして叔父さんが命をかけて護った日本を、もっと誇りの持てる国にしなければと強く感じてもいます。

そうじゃないと私があの世に逝ったとき、叔父さんから
「なんだこのアマ!俺が命をかけて護った日本を滅茶苦茶な国にしやがって!」
と怒られてしまう・・・(^^ゞ
ちなみに「アマ」と言うのは女性に対する罵倒の言葉。
男だったら「この野郎!」と言う所を、女性が相手だと「このアマ!」になるのです。
これは私の住む千葉のお国言葉・・・
ま、実際の所、彼はとても心の優しい人だったそうですから、いきなり怒鳴りつけるようなことはしないだろうとは思うんですけどね。
それにしても沖縄の冷たい海の底で、私の叔父さんは今の日本の姿をどんな思いで見つめているのか?

今年の5月4日は全国的に晴れました。
清々しい5月の空の下、世はのどかにゴールデンウィーク。
日本全国行楽日和でした。
沖縄の海でもマリンスポーツを楽しんだ若者がたくさんいたことでしょう。
でも60年前の同じ日に同じ沖縄の海でひとりの若者が、国を家族を護るため決死の思いで突撃し、敵艦もろとも木っ端微塵に果てたのです。
そういう時代がホンの少し前に確かにあったことを、時には思い返して欲しい。
今も沖縄の海の底で幼い姪の葉書を読みながら、寂しさを紛らわしている若者がいることを心の隅にでも留めて欲しい。
5月4日の青い空を見つめながら、私はふとそんなことを考えました。

特攻の叔父さん、享年21歳。
生きていれば今年80歳のお爺さんです。
私は生きているこの叔父に、ぜひ一目会ってお話をしてみたかったという気持ちがあるんです。
どこに行ってもすぐに親しい友達を作る名人だったという叔父さんと、きっと良いお友達になれたんじゃないか?と思うのですね。
でもそれはかなわぬ夢。
せめて私があの世とやらに逝ったとき、胸を張って「叔父さん、私も日本の国を精一杯護ったよ」と言える自分でありたいと思う。

特攻の叔父さんについて、私が祖父母や母から聞いている話を、折々に綴ってご紹介したいと思っています。
ひとりの特攻隊員の存在を身近に感じることで、戦争について・家族について・日本の国のあり方について、色々なことを考えるきっかけにして貰えたらな、とも思っております。
そうであれば、今も沖縄の海の底に眠る叔父もきっと喜んでくれるのではないか?と思いますので。
叔父は朗らかな性格で人と触れ合うことが好きな人でした。
自分の話題で話の場が盛り上がることを、彼はきっと喜んでくれるものと思っております。
どうぞお付き合いの程、よろしくお願いいたします。


posted by ぴろん at 09:18| Comment(13) | TrackBack(2) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「特攻の叔父さん」のはがき、読みました。
涙が出ました。
私の祖父は満州で戦い、部下を失ったときの話を幼い私にしてくれました。
その祖父も今年亡くなりました。
今になって思うのは、「もっとちゃんと聞いておけばよかった」ということ。
悔しいです。
Posted by OKDY at 2005年07月06日 10:07
いつも素晴らしい文章をありがとうございます。
私は50も半ばになります。
最近ようやく、特攻叔父さんのようば英霊が
出会うのが靖国神社なのだとわかってきました。
あの戦争は日本にとっては大東亜戦争なのだということも。ここまで随分時間がかかってしまいました。この先、日本の名誉を守るためにどうやって生きていったらいいのかと思います。
Posted by at 2005年07月06日 13:49
はじめまして、
特攻の叔父さんのお話、涙がでました。
生きていらしたら私の父と同じ年ですね。
私の父は大学生の時海軍兵学校に入隊しました。運動能力などなくとてもおっとりしており、本人もいまだにどうして合格できたのか不思議とのほほんと話し、特に厳しい訓練については語らず結構優遇されていたとだけ聞いています。
私も悲惨な話などないので特に父から具体的な話を聞いていませんでしたが、ぜひ今のうちに詳しく色々当時の話を聞いてみたいと思っています。私の父に叔父さんのお話をぜひ読ませます。
近所の煙草屋のおじいさんが、大川周明塾にいて、チャンドラボースの通訳をやっていた事を最近知りました。フィリピンの刑務所に戦犯として投獄されていたそうです。彼はペルシャ語をはじめ6カ国語以上の言葉が喋れるつわものです。
身長も180センチ位あり、恐らく父と同じくらいの年齢と思われますがものすごく鍛えられた体つきをしています。彼も貴重な語り部です。

日本を護ってくださった多くの方に本当に恥じない生き方をしたいと改めて感じています。
素敵なお話本当にありがとうございました。
Posted by はなはな* at 2005年07月06日 22:04
はじめてコメントします。
私の両親はそれぞれ十一人兄弟、十二人兄弟の末の方で、國民学校低学年時に終戦を迎えています。そして双方の兄弟とも、年長の兄達は戦死しています。
その事は、小さい時から何となく聞いてはおりました。
けれど若かった時分の私は、彼らの事をきちんと問おうと思った事もありませんでした。
極端な左翼教育の中で育てられた事は言い訳でありましょう。昭和40年代に生まれ「ニュータウン」という地元出身者の一人もいない街で育った私は、国にも自治体にも、家族にすら帰属意識を持たない、むしろ持たない事を誇るような浅薄な「現代人」であったのです。
それがどうして「愛国心」と「日本の主権」を叫ぶ人間に更生(笑)したかの経緯は自分語りなので割愛いたしますが、この頃つくづく思うのは、自分も「遺族」であるのだ、という事です。
靖国参拝賛成激励メールを首相その他に散々送っておきながら、伯父という近い身内が英霊の中にいる事については「そういえば」という程度にしか思い当たらない自分。
今度両親に会ったら、今のうちにきちんと話を聞いておかねば後悔するのではないか。
そんな内心の焦燥にかられている時にこの記事を読み、読みながら涙が止まりませんでした。
特攻についても、大東亜戦争そのものについても様々の視点がありましょう。けれど彼らの心を現代人の価値観で量るような所業は、いましめるべきと思います。
以前テレビで読み上げられているのを聞き、以来忘れられない歌があります。
「波凪ぎし このたいらぎの礎に 君ら鎮まる うりずんの海」。
うりずんは沖縄の言葉で「若夏」。沖縄戦の鎮魂に詠まれた美智子皇后陛下の御歌です(聞き覚えなので字等はおそらくこの通りではありませんが)。
戦いに赴いた人々の命はまさに「礎」なのです。その上に私達がある。その血脈に繋がって、私達がいる。どこにも帰属しない現代人像などいかに自分勝手な思い上がりであったか。
伯父達にも、ぴろんさんの「特攻の叔父さん」にも、謹んで心からの感謝と尊敬を捧げます。
ぴろんさんに「特攻の叔父さん」のお心をきちんとお伝えになったお母様も、素晴らしいですね。「残しおきたし」と仰られたお心を、我々が台無しにする事のないよう、生きて行きたいと存じます。
素敵な記事を、どうも有難うございました。
Posted by Nikita at 2005年07月07日 01:39
コメントを寄せてくださった皆様方へ

ありがとう、こちらこそ感謝いたします。
叔父の思いを汲んでくださる方がこんなにもいらしたことが嬉しいです。
叔父も沖縄の海の底でさぞかし喜んでいることでしょう。

人の命は死んで終わりではないのだという事をこの頃強く感じます。
たとえ肉体は滅びても魂は、それを受け継ぐ者の心の中で永遠に生き続けるのだということを、とても強く実感しています。

戦争について、特攻について、人それぞれ思うことはあるでしょう。
しかし犠牲になった彼ら一人一人にそれぞれの人生があり、家族があり、残したい思いがあったことを、現代日本に生きる私たちはもう少し真剣に汲み取る努力があっても良い様に思っています。

私の駄文で何かを感じてくれる人が一人でもいれば、叔父への良い供養にもなると思っております。
長文のエントリーを最期までお読み頂きました事、改めて感謝申し上げます。
Posted by ぴろん at 2005年07月07日 09:08
ぴろんさん
おっはようございます。
もうぴろんさんてばダイダイだぁ〜い好き♪

こんなお話が聞けるなんてもうびっくり。
私にも特攻ではありませんがトラック諸島というところで散った
会った事のない伯父(母の兄)がいます。

母の実家。
毎年お盆には「盆だな」に英霊の戦地での粗末なわずかな遺品と茶色に変色した家族宛ての葉書の束が一緒においてあります。
私はその葉書を読むのが好きなのですが
娘が「私この葉書好きなのよ」と言った時には
ちょっと嬉しくビックリしました。
多分真面目であったろう伯父の人柄がうかがえる文章です。
そしてあまりにも純粋で家族を思う気持ちがひしひしと伝わってきていつも胸がつまります。
23歳の若さで乙女の柔肌も知らず
ただただ残った家族とお国を思い死んでいったのだろうか?
後に続く私達が応えなくてどうする?
昨年のお盆に娘が読んでくれというので
読み始めたのですが途中で詰まり読めなくなってしまいました。
私も年ですね(笑)

戦後伯父を現地で葬った方が母の実家を訪ねてきて
「もう死んでしまったのだから何もいらないと思い
砂地にそのまま埋めた」と。
母は「嘘でもいいから手厚く葬ったと言って欲しかった。」と今でも悔しそうに言います。

logさんに出会えた事もあり
私の中で何かが変わったのでしょうね。
今までの生き方では「こりゃいかん」と思い(笑)
針路変更をしまして
確執の多かった母の話、特に英霊の話も進んで聞く様になり嬉しそうに懐かしそうに話す母を見ては
「間に合って本当に良かった!」と思っております。

努めて靖国にも足を向ける様にしています。
昨年初めて靖国詣のお土産を母の実家に持っていったら英霊の弟の嫁が大変喜んでくれて
私はビックリしてしまいました。
「良く気がついてくれた」と。
私ってば今まで何していたんだろう?とちと恥ずかしかったです。

私の終戦記念日の思い出というのも変な話ですが
8月15日は母の実家の匂いと葉書の束と
私があの世に行って
初めて出会える伯父の思い出です。

あっそうそうこちらでも「あま」って言いますよ(笑)
坂東太郎らへん。

今の日本人は
北朝鮮にさらわれた同胞を助ける事もできなくなってしまったと
英霊が知ったら悲しむでしょうね。

Posted by ケイラ at 2005年07月07日 09:25
ケイラ様

日本人の多くは身内の誰かが戦争の犠牲になっているはずなんですよ。
そういう所から、もっと戦争を身近に感じて、これからの日本のあり方を考えることがあっても良いと思うのですね。

>あっそうそうこちらでも「あま」って言いますよ(笑)

ケイラさんはたしか茨城でしたよね?
それだと例えば机の角に足をぶつけた時にできる青あざのことを「あおなじみ」って言いません?
東京ではあ「あおたん」って言うらしいんですけど、個人的には「あおなじみ」の方が言葉の響きが柔らかくて文学的だと自負しているんですが。(笑)
つまらない郷土自慢でした・・・(^^ゞ

>今の日本人は
北朝鮮にさらわれた同胞を助ける事もできなくなってしまったと
英霊が知ったら悲しむでしょうね。

全く同感です。
権利と義務を履き違え、自分勝手・自己中心が自由だと勘違いしている連中の何と多いことか。
自堕落な精神のままで同胞の奪還を果たす覚悟なんて出来はしないと感じます。
拉致問題はある意味、国民の喉元に覚悟と言う名のナイフを突きつけているのじゃないか?とも思います。
Posted by ぴろん at 2005年07月07日 21:59
他のホームページからのリンクで初めてここを訪れました。
特攻の叔父さんの話しを伝えることはとても良いことだと思います。(私の父は他界しましたが内地で教練が仕事らしく殆ど戦争の話しはしてくれませんでした。)

叔父さんにとってとても良い供養に成ると思います。

Posted by ひま at 2005年07月08日 21:06
ひま様

コメントありがとうございます。
思った以上に反響を呼んでいるようで、嬉しく思っています。

拙い駄文ですが、今続きを執筆中です。
近日中にアップし、終戦記念日前には全てのお話を紹介できたらと思って取り組んでおります。
宜しければお付き合いくださいませ。
叔父もきっと喜ぶと思いますので。
Posted by ぴろん at 2005年07月08日 21:52
初めまして。西村幸祐様のブログから辿り着きました。叔父様の話を拝見して、読みながらボロボロ泣いてしまいました。
色んな気持ちが湧いてきてどうお伝えしたらいいか分かりません。
悔しい気持ち、温かい気持ち、切ない気持ち。
私も、管理人様の叔父様を誇りに思います。同じ日本国民として。そして、今日本に向けられている某国のあらゆる攻撃や嫌がらせから、この国を守りたいと思います。
もちろん、同じ一部の日本人からも・・・。
私は、戦争に関心を持ったのは小林よしのりの戦争論を読んでからです。
それから、サッカーのアジアカップでのあの出来事。
私自身を大きく変えてくれたものです。
それまでは、戦争で日本は色んな国を苦しめた悪い事をしてきたひどい国という認識でした。
もっともっと、色んなお話を聞かせて下さい。
これからも運営頑張って下さい。
応援しています。
Posted by Rina at 2005年07月09日 13:03
Rina様

ようこそお出でくださいました。
自分の国を護る。
このたった一言を口先だけでなく行動で示すことの重さを、この頃つくづく感じております。
拉致問題を通して日本のあり方を考えた時、叔父が決めた覚悟の大きさ・重さに潰されそうになる自分がいました。

今の私に叔父ほどの覚悟が出来るかどうかは分かりませんが、せめて叔父の覚悟に恥じない生き方をと心から願っております。
平和ボケ日本と呼ばれて久しいわが国ですが、ホンの少し前までの日本人は潔いほどの覚悟を持って国と家族を護ったのですよね。
その子孫の私たちがこの体たらくでは、犠牲になった英霊の方々に申し訳が立たないと思うのですが。
このエントリーを読んでそういうことを少しでも考えてくれる人がいたら、私もとても嬉しく思います。
Posted by ぴろん at 2005年07月09日 19:37
はじめまして。
叔父様のお話読ませていただきました。
読みながら、涙が止まりませんでした。
私の身内には戦死した人はいませんが、母方の祖父の仕事の関係で、母の一家は戦時中満州におり、満州での当時の暮らしぶりや、敗戦後の満州での苦労、引揚げ時の苦労話を、私が子供の頃から話してくれました。
改めて、母の話をもう一度聞いてみたくなりました。
素敵な記事をありがとうございました。
これからも応援しています。
Posted by きのこ at 2005年07月13日 14:35
きのこ様

こちらこそはじめまして。
満州からの引き上げもなかなか大変だったようですね。
私は資料その他でしか知ることが出来ませんが、身近に体験者がいると言うのはとても貴重なことです。
ぜひぜひ今のうちに詳しく色々な話を聞いておくことをお勧めします。

叔父の話、長いエントリーでしたのに読んでくださってありがとうございます。
一人でも多くの方に、叔父の存在を知ってもらうことは私にとっても大きな喜びです。
感謝申し上げます。

先ほどこの特攻の話題について、第三弾のエントリーを上げました。
宜しければお読みになってくださいませ。
この後叔父が両親に宛てた遺書とか、なぜ私たち遺族が叔父の敵艦撃沈を知っているのかというエピソードをご紹介する予定です。
ここが一番の聞かせどころだと思っております。
どうぞ最後までお付き合いくださいますようお願いいたします。
Posted by ぴろん at 2005年07月13日 16:25
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