2005年07月12日

生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・

Img_0099.jpg

今日は再び特攻の叔父の話をご紹介します。
前回初めてのエントリーでは思いがけず大きな反応があり、私の方が少しびっくりしました。
読んで楽しいお話では決してありませんので、一体どのように受け止めて頂けるのやら、正直おっかなびっくりのエントリーだったのですが。
私の文章の足らざる所は、天国の叔父が真実の力を持って後押ししてくれたのでしょう。
中には涙が出たと仰ってくださる方もあり、やはり思い切って書いて良かったとホッとしています。
ありがとうございます。

少し気を良くしました所で、特攻の叔父さんの話を早速書き綴りたいと思います。
祖父母からの聞き伝えのみ、と言っても子供の頃からの積み重ねがありますので、全部のお話を書き終えるには、エントリー4〜5回くらいは多分必要になろうかと思います。
素人の駄文ですみませんが、よろしければお付き合いくださいませね。
我が故郷千葉のお話なので所々千葉弁が出ますことをご承知おきの程を。
ちゃんとカッコ書きで注釈つけますので、付いて来て下さいますように・・・<(_ _)>

本日はまず順序良く彼の生い立ちからご紹介します。
彼は大正14年、千葉県のある農家に5人きょうだいの末っ子として生まれました。
本当は年子でもうひとり下に男の子がいたのですが、こちらは生まれてまもなく早世しております。
男女の内訳は男・女・女・女・男。
一番上の惣領息子が私の祖父、末っ子の男の子がこれからお話しする特攻の叔父さんです。
私の祖父は大正元年の生まれですので歳の差14歳。
祖父にとっては初めて生まれた男の兄弟でもあり、この弟をとても可愛がっておりました。
また、かなり歳の差があることで自分の弟というよりも半分息子のように思っていた節もあります。

叔父さんの話でまず特筆しなければならないのは、非常に頭の良い人だったということです。
といっても叔父さんが家で教科書を開いて勉強する所など、祖父は一度も見たことがないそうです。
学校から帰ると土間から座敷へカバンをぶん投げて、ぷいっと外へ遊びに行ってしまう。
あまりにも勉強をしなさ過ぎるので、祖父は弟の将来を大変心配したそうです。
農家と言っても(一応自作農でしたが)生活レベルは食べるのが精一杯といった貧しい暮らしでした。
近所の火事の貰い火で母屋と蔵を全焼すると言う被害を受けたこともあり、当時の生活にゆとりはなかったのです。
大百姓ならば田畑を分けて分家に出すと言うことも出来ますが、生家にそこまでの余力はない。
次男坊の叔父が自立するにはどこかへ勤めねばならず、そのためにも勉強の出来ない馬鹿では困る。

弟の行く末を案じた祖父は、ある日小学校の担任の元へ弟の様子を聞きに行ったんだそうです。
で、担任の先生が言うには、成績は常に学年トップであること。
試験をしても持ち時間の半分ほどで答案を書き上げてしまい、さっさと教壇に提出すると、ひとり校庭に出て口笛を吹きながら遊んでいること。
祖父の心配は全く杞憂だったわけです。
余談ですが、この叔父さんの同級生だった人がふたり(TさんとEさん 二人とも女性)後に小学校と中学校の先生になっていて、またこの二人が揃いも揃って母の恩師でもあるのです。
その二人が何かと言うと、「あなたの叔父さんはとても優秀な人だった」と誉めそやすので、勉強のあまり得意でなかった母は、優秀すぎる叔父さんといちいち比べられるのがとても嫌だったといまだにこぼしております。
この同級生のTさんと言う人は、後ほど叔父さんのロマンスを語るときに再登場しますので、ちょっとどこかに覚えて置いてくださいね。

これほど勉強の出来る人であれば、普通は中学へ進学する所なのでしょうが、前述したとおり家計が余り余裕のある家ではなかったので進学はしませんでした。
ただ、中学の代わりに高等小学校へは行ったんじゃないか?とか。
当時の生家のあたりでは中学へ行くほど余裕の無い家の子供でも、もう少し勉強をしたい人の為に一種の私塾のような物がお寺で開かれており、そこへ通ったんじゃないか?とも言われております。
しかしこれも今となっては確かめようが無い。
こういうところは本当にもっと早くきちんと聞いて置くべきだったと、本当に後悔をしています。

両親も祖父も、本当は何としてでも中学へ進学させてやりたかったのは山々だったと思います。
とにかくずば抜けて優秀だったのだし、本人も事情が許せば中学へ進み、きっともっと勉強をしたかったことだろうと思うのです。
それを思うと、貧乏だったのは本当にやるせない。
火事で焼け出される前は、そこそこゆとりのある暮らしをしていたんだそうです。
家柄も地元の大地主の分家筋にあたる家で、それなりの家格はありました。
火事で焼け出されなければ、叔父も中学進学くらいは普通に出来ていたはずなのですが。

過去を振り返り、ればたらの話をしても仕方が無いのですがね。
もしも叔父が無事に中学への進学を果たしていたら、あるいは予科練へ進むことも無く、全く違った人生を歩んだのかも知れません。
優秀だったので奨学金を貰って旧制高校から大学へと進学していたかもしれない。
そうであれば予科練から特攻へ、と言う道は取らずに済んだのかも?などと思うと、人生のあやの不思議さ加減を思わざるを得ないのですが。

いずれにしても学歴は小学校卒。
これで良くも並み居る中卒者を押しのけて予科練、主席で合格した物だと思っております。
詳しいことは知りませんが、予科練の試験はそれなりに難しい物だと聞いておりますので。
どうして叔父が予科練を受けようと思ったのか?
これも今は確かめようがありません。
予科練は当時の少年たちの憧れだったと聞きます。
叔父もご他聞に漏れず、予科練に憧れ愛国心に燃えて志願をしたのでしょうか?

しかし叔父さんもやはり人の子です。
いくら勉強が出来ても運動の方はあまり得意ではなかったらしい。
勉強も出来て運動も出来て・・・ではあまりにもカッコ良すぎ。
身内でも嫉妬しますョ。
ただ、相撲はめっぽう強かったようですね。
後でご説明しますが当時としてはとても体格の良かった人でしたし、家が農家で力仕事には慣れていたせいもあったのでしょうが。

体格はずば抜けて良かったそうです。
母方の血筋は体格の良い人が多い。
私もどちらかと言えば大柄な方ですが、私の母もその年代にしては長身の方、大正元年生まれの祖父も170に近いくらいの身長は軽くありましたから、その世代の人にしては結構大柄でした。
そんな大柄ぞろいの家系の中でも、叔父さんはずば抜けて大きい人でした。
鴨居に頭がぶつかりそうなのでそこを通る時はいちいち首を傾けていたと言いますから、推定でも最低180センチ程はあったことになります。
それもただひょろっと高いのじゃなく、幅もがっちりあるんですね。
太ってて大きいのではなく、骨格ががっちりしていて大きいと言う感じ。
丈も幅もあるタイプなんです。
何しろ幼い母がこの叔父さんに高い高いをしてもらうと、天井の羽目板に手が届きそうだったと言うのですから、どのくらい体が大きい人だったかは想像して頂けるのではないでしょうか?

この体格の良さではちょっとした笑い話があるんですね。
予科練に受かって入隊した後、あまりにも体格が良すぎて体に合う軍服が無かったんだそうです。
仕方が無いのでコックさんが着る白衣を少し手直しして、しばらく間に合わせに着ていたんだそうですが。
この事を叔父は私の祖父にこんなふうに言ってこぼしたそうです。
「あんちゃん、あんまり体がいっけぇ(大きい)のも考げぇもんだ、軍隊さ行っても着るもんがねぇ(無い)」

体が大きいくらいですから、食の方もとても良かったそうです。
お腹が空くと土間の入り口までやってきて、中で台所仕事をしている私の祖母に向かって、
「○○ちゃん、腹減った、むすびこしらえておくれ!」
と頼むんだそうです。
そこで祖母がおむすびを握りだすと、「もっといっけく!もっといっけく!(もっと大きく!もっと大きく!)」とリクエストが入ります。
でおむすびはどんどん大きな握り飯になっていくのです。
当時のことですから、おむすびと言っても今のようにツナマヨなんて洒落た具もありませんし、せいぜい中身は梅干で、塩をまぶすか味噌を塗るかぐらいの素朴な物。
叔父さんはニコニコ顔でそれをぺろりと平らげると、また外へ遊びに行くんだそうな。
後に祖母はこのエピソードを私に何度も語って聞かせてくれました。
祖母曰く、
「毎日のようとサッカーボールのようないっけぇむすびむすばされて、よういな往生したゎ(毎日のようにサッカーボールのように大きなおむすびを握らされてとても大変だった)」

ん?サッカーボールのようなおむすびってどんなおむすびなんだろ???
改めて母に確かめた所、実際は赤ん坊の頭ほどのむすびだったとの話。
まぁ赤ん坊の頭でも十分に大きいけど、ば〜ちゃん、サッカーボールは少し話を大きくし過ぎだって。(笑)
でも祖母は、往生した往生したとこぼしながらも、実に楽しそうにこの思い出話を語るのですね。
私の祖父母は、実はいとこ同士の結婚です。
ですから本来兄嫁に当たるはずの祖母なのですが、叔父から見れば兄嫁である前に従姉妹のお姉さんでもあるわけで。
そういう気安さも手伝ってか、お嫁に来てからも祖母のことをちゃん付けの名前で呼んでいたし、祖母の方もこの義理の弟をやはりちゃん付けで呼び、とても可愛がっていたようです。

叔父はとても子供好きな一面もありました。
親戚の子供(男の子)を連れて成田参り(成田山・新勝寺の事)に行った事もあります。
叔父さん、あの当時はまだ十代の少年です。
今時の高校生が幼い子供を連れて成田参りなんかしませんよね?
恥ずかしくって・・・でもそんなことは一切お構いなしなんです。
恥ずかしいも格好悪いも一切無し。

でもこの成田参りに母は同行出来なかったんですね。
初めは母も連れて行くという話だったんですけど、まだ幼すぎて連れて歩くにはさすがに億劫だったのか?
女の子を連れて歩くにはさすがに少し気恥ずかしさがあったのか?
二人も一度に連れて歩くのは大変だと思ったのか?
何があったのかは分かりませんが、とにかく母は置いてけぼりを食ってしまった・・・
母はこの時成田参りに連れて行ってもらえなかったことがよほど悔しかったらしく、今でも真顔になってぼやきます。
私も叔父さんと一緒に成田へ行きたかったなぁ・・・と。

冒頭にご紹介した写真は、その成田参りのとき叔父が母へのお土産に買ってきてくれたおもちゃのハンドバッグです。
戦時中の事ですから、決して良い品物とは言い難い。
時間の経過と共に色も黒ずみ、事情を知らぬ人が見れば単なるガラクタに過ぎない代物です。
けれど先日ご紹介した葉書同様、母にとっては亡き叔父を偲ぶ大切な形見なのです。
60を過ぎたいい大人が、未だに幼い子供の頃の思い出の品を大切に大切に保管している事を、どうかご想像ください。
母の心の中で、今は亡き叔父がどれだけ大きな存在を占めているかを。

本日最後に母子のエピソードをひとつご紹介します。
叔父が岩国の予科練に入隊したあと、母親と姉3人が叔父を訪ねて千葉から岩国まで、一度面会に行ったことがあるのだそうです。
叔父は母親が年をとってからの子供でしたので、彼が予科練に入隊した頃は、母親はすでに腰が曲がり杖をつかなければ歩けない体でした。
今のように交通事情の良くないあの当時、千葉から山口県の岩国までどのくらい時間がかかったのか?
母親にとっては、まだまだ可愛い盛りの末息子。
わずか16歳で家を離れた息子に一目会いたいという母の気持ちは、ひとしおだったのでしょう。
汽車を乗り継ぎ乗り継ぎ、杖を頼りに岩国まで尋ねてきた老いた母の姿を見て、叔父は男泣きに泣いたんだそうです。
「まさかお袋まで会いに来てくれるとは思わなかった」
と言って。

はるばる岩国まで面会に来てくれた老いた母の姿を見て泣いたと言う叔父。
それを聞いて私は思わず、あぁ血筋だなぁと思ったものです。
私の祖父も情にもろい所があり、ちょっとしたことでもすぐ感激してオイオイと人目を憚らずに泣くタイプ。
さすがは兄弟、血は争えないなぁと。(笑)
叔父は当時まだ16〜17の少年、今の高校生の年頃です。
まだまだ無邪気で心優しい少年だった叔父。
久々の再会を、叔父と年老いた母はどんな思いで過ごしたのでしょうか?
千葉の実家には、岩国の錦帯橋の前で母と姉と共に写した軍服姿の叔父の写真が今も残っています。

参考リンク 
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・


posted by ぴろん at 16:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 先日来の叔父上様のお話、私も引きずり込まれて拝読しております。

 運動に入る前も含めて私の46年の人生において、特攻隊員をご親族に持つ方と
身近に接するのは初めてでした。
 ぴろん様の魂の叫びとも思えるご投稿に圧倒される思いです。

 書きたいこと、ご意見したいこといろいろありますが、まだまとまっていないので、
再度、拝読・熟読の上投稿させていただきます。

 なお、お待たせしていた
「特定失踪者加瀬テル子を支援する会千葉集会」の報告記の
第三弾、最終回が完成し、蒼星板サブボードに投稿しました。
ご高覧、ご活用ください。

 文体の違いに加え私の場合、プリントアウトして配布されることを想定して
詰め気味で書いているので、blogの貴板では字がギッシリ詰まって
読みにくいかとも思いますが、よろしくお願いします。
Posted by 原 良一 at 2005年07月12日 22:29
原様

加瀬さんの集会テキスト化、ご苦労様でした。
早速掲載させて頂きました。
ご好意、改めて感謝申し上げます。

>運動に入る前も含めて私の46年の人生において、特攻隊員をご親族に持つ方と身近に接するのは初めてでした。
ぴろん様の魂の叫びとも思えるご投稿に圧倒される思いです。

魂の叫びと言える程の物かどうかは分かりませんが。(笑)
子供の頃からあまりにも身近に特攻の話を聞いて育ったため、世の中に特攻で戦死した人は、ちょっと言葉は悪いのですけど掃いて捨てるほどいるのだと思っておりました。
実際はかなり少数のレアケースなのですけどね。
だいたい3〜4千人くらいでしょうか?
特攻による戦死者数は。
年を重ねて、特攻で死ぬことの意味や重さが少しずつ理解できるようになった時、これを世の中に伝えないままにしておくのは、叔父に対して申し訳ないような気がしてきたのです。

特攻について、人それぞれ思うことはお有りだと思います。
私の立場から何がしかの考え方を押付けるつもりはありません。
ただ一人のごく普通の若者が、特攻に至るまでの軌跡を追う過程で、何かを感じて頂けたらそれで良いと思っています。

特攻の叔父の話はこれから佳境に入ります。
両親に宛てた遺書もご紹介する予定です。
宜しければお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
Posted by ぴろん at 2005年07月12日 23:31
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。