集会での登壇者の声を文字に起こして伝えて、果たしてこれがどれだけ拉致問題への関心を呼び起こすことにつながるのか?と根本的な疑問を感じる事が多くなって来たので。
どこの集会に行っても同じメンバー、同じ登壇者。
話す内容も似たり寄ったり。
むろん、それでも集会に滅多に足を運べないROMの方に向けての情報発信は一定の価値が有るとは思うけど、テキスト化に掛ける時間と手間の割りに、肝心要の世論喚起の効果は図れているんだろうか?と、素朴な疑問を感じるのだ。
拉致は国家主権の侵害問題だ!
拉致は深刻な人権侵害だ!
確かにその通り。
でも主権だ人権だと観念的な言葉を声高に発して、果たしてどれだけの世論にその言葉が響いているのだろう?
主権だ人権だというキーワードで訴えてそれに呼応してくれる人は、すでに何らかの行動を起こしているのではあるまいか?
5年前の9.17の時、国民の多くは北朝鮮による拉致という、余りにもむごい現実を前に怒りを発露し涙を流した。
そこにイデオロギーの入り込む余地なんてあったのかな?
あの時、日本列島を覆ったのは、人間としての根源的な怒りや悲しみではなかったか?
でも、実際問題として救出運動の現場に足を踏み入れれば踏み入れるほど、イデオロギーの洗礼を受けないわけには行かない。
もちろん、主権や人権と言った観点からこの拉致問題を考える視点は絶対不可欠。
だけど、そういう言葉を声高に語ったところで、それだけで人の心は動くのか?
拉致被害者を救うために、自分に出来る何かをしようと言う動機付けになるのだろうか???
イデオロギーの発露が不要とは思わない。
家族の方が怒りをあらわにする事がいけないとは言わない。
でもそれだけでは、これ以上の世論の支持を取り付けるのは難しいのでは?と言う疑問も感じる今日この頃。
世論の視線は実に様々。
拉致問題は日本人が責任を持って解決すべき事案である!と叫んだところで、「だから何?」と言われてしまえばそれでおしまいなのも世論の悲しい現実なのだから。
だから私は最近考えを変えて、なるべく現場に出る方向へにシフトを変えようとしています。
街頭に立ち、道行く一般の人に訴える。
イデオロギーと言う切り口とは違う、人の心に響く訴え方を日々模索する。
5年前の9・17を振り返り、あの時感じた人間としての素朴な感情を思い出し、それを私にとっての救出運動の原点としたいから。
被害者救出は待ったなし。
イデオロギー思考に凝り固まるだけではなく、ありとあらゆる切り口を持って世論の理解を求めたい。
少しでも多くの方にこの問題に関心を持っていただき、自分に出来る何かをしようと言う空気を作らねば、被害者救出など遠く及ばないような気がする。
いつも自分に言い聞かせること。
この運動は被害者の命を救う運動。
だから自分の自己満足のために運動をしてはならない。
自分の行なった活動が、本当に被害者救出という目標に近づいているのか、常に自己検証を怠らないこと。
私が支援活動の為に振り向けられる自分の時間には限りがある。
その限りある時間を最大限効果的に使うために、私個人の支援の方向を少しばかり方向転換することにしました。
テキスト化がこのところお留守になりがちなのはそのせいなのであります。
テキストを待ち望んでいる方には申し訳ないと思います。
しかし、今後も文字に起こして価値のあると判断した素材は積極的にテキスト化を致します。
しかし、それ以外の時間はこれまでとは違う活動にシフトをしたい。
そのこと、どうかROMの皆さんにもご承知いただきたいのです。
今、世論喚起のために必要なのは、イデオロギーの看板よりも如何に拉致問題にリアリティを持ってもらうか?と言う点にあると考えます。
主権・人権の旗を振っても広がる世論には限界がある。
だったら初心に戻って、9・17の時の人間としての素朴な怒りや悲しみをもう一度思い出してもらう・・・被害者救出を一刻も早く現実のものとするためにも、その方向で私の時間を使いたいのです。