『後藤光征氏の講演 その3』
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不審船・工作船事件
平成13年9月11日に発生した「米国同時多発テロ事件」では、多くの命が奪われ、我が国の国民にも大きな衝撃を与えました。このため海上保安庁は、米海軍施設、原子力発電所等テロの標的となりうるものの周辺海域に巡視船艇・航空機を配備して警備を強化しました。
このような状況下の12月22日「九州南西海域における工作船事件」が発生し、海上保安庁航空機による発見から、巡視船による追跡、停船命令、威嚇射撃、強行接舷挟撃、工作船からの自動小銃・ロケットによる攻撃、正当防衛射撃そして工作船の爆発・沈没に至るまでの間の現場の映像が長時間に亘り放映され、巡視船の被弾・破壊、海上保安官の負傷、工作船乗組員の死亡等、国民にとって衝撃的な事実があらゆる報道機関によって内外に伝えられました。
さらに、海底から引き上げられた工作船の実態は、我が国周辺海域に武装した極めて特異な構造の工作船が徘徊し、拉致、薬物の密輸、密出入国等重大な犯罪を行なっているという不安感を国民に植え付けました。
この事実は、工作船による拉致の手段を明らかにすると共に、この後の我が国における危機管理体制の在り方を大きく変えることになりました。
この事件に海上保安庁はどう対応し、我が国の安全保障に如何なる意義を与えたのでしょうか。
12月21日は、いわゆる花金でした。このとき官公庁は予算案の内示が一段落して、22日,23日は土日、月曜はクリスマスイヴという状況で、世間は非常に華やかで賑わっていたと記憶しています。海上保安庁はこの頃激増していた麻薬・覚せい剤の密輸、蛇頭による密航の取締りに加え、9,11テロの後の沿岸警備で、現場は疲れきっていました。土日も花金も無関係という状態だったと思います。22日の午前1時10分過ぎに宿舎で、本庁オペレーションからの不審船情報を受けた私が「手配はいいか」と聞くと、電話の向こうの保安官からは「全管区の出動を指示している」「しかし、海上は大時化で、日本海側管区の巡視船は遅れるかもしれない」と答えました。この夜、東京の上空も強い北風が吹き荒れていました。私はすぐに出勤し危機管理センターへ入りました。この時既にオペレーションには警備救難部の残業組が入り、本庁職員の非常呼集、全管区本部に対する出動指示等マニュアルに沿って淡々と進められていました。
この段階で、北朝鮮工作船にどう対応するべきか、大筋で海上保安庁は腹を決めたことになります。センターに詰めた職員はさしたる混乱も無く、この段階ではまだ不審船であった工作船の拿捕を目指して作業を進めた訳です。
この工作船拿捕に関する海上保安庁の一連の行動は、対処方針に則ったものでした。事前に準備されていた方針に基づいて巡視船と航空機、大阪特殊部隊が出動して停船させるための手続きを行い、威嚇射撃を船体まで行なって、工作船の武器による抵抗に対して正当防衛を行なったのです。自爆した後の乗組員の身柄救助については、韓国で拿捕された北朝鮮工作船の情報を得ておりましたから、保安官と共に自爆される恐れが極めて強いため、本庁から現場に対し安全を確保した上での工作船乗組員の身柄確保を指示しました。
この後、海上保安庁は多数の国民や内外の広範な関係者から、数え切れないほどの賞賛と労いと今後の期待の声を頂きました。捜査と以後の工作船対策を進める過程でしばしば問われたのは、「あのような危険な事態に至ることを予測していたのか。何故あのような手段を執ったのか」と言う事でした。海上保安官よくぞやった、という反面、殉職者が出なかったのが不思議なくらい危険な行動を何故執ったのだろう、という国民の戸惑いも感じました。
漁船を装った工作船の立入検査を行うには、船体に威嚇射撃をしなければ結局逃げ切られてしまうということが、能登半島沖事件でも明確になりました。しかし、船体に威嚇射撃をすれば必ず武器による抵抗がある。巡視船側に最悪の事態も起こり得る。これが工作船拿捕作業の唯一の関門です。
あの夜、現場に立入検査の指示を出す時点で、我々には海上保安官の安全を確保した上で拿捕できるという確信がありました。この作業で、巡視船の安全を図るには、工作船の武器の射程外、遠距離から船体に向けて威嚇射撃を行なえばよいのです。しかし、遠距離から射撃すると、着弾のばらつきがあまりにも大きくて、工作船の乗組員の身体に危害を与える恐れがあります。このため、接近もやむなしと言う状態になったのです。けれどもこの時点で、安全が確保されると信じた理由は、時化です。当時、海上は冬の季節風による大時化で4〜5メートルの波がありました。この中では工作船が持っている手動式のロケットや機関銃は、接舷するほど接近しても正確な照準は捉えられません。我々は長年巡視船の武器で訓練をしているのでこのことが直感的に判っていました。一方、工作船に比べ2隻の巡視船に装備された遠隔自動照準付きの20ミリバルカン機銃は、巡視船の船体が激しいピッチング、ローリングに遭っても、目標をピタッと狙って正確な射撃ができることが判っていました。これは、工作船の方からすれば、巡視船の海上保安官を攻撃した場合、反対に自分たちも致命的な打撃を被ることを意味し、逃げ切りか、攻撃かという二者択一の選択肢以外は与えられていなかったであろう工作船が、最後まで中国船を装ったのもこのためだろうと思われます。
本庁で、この事件の処理に参画した私は、第十管区本部長を指揮官とし、工作船と対峙している現場第一線の次のような強い意志を感じていました。
武器による抵抗を予測しながら、工作船を追跡中の指揮官と4隻の巡視船と大阪特殊警備隊の海上保安官の意思を支えていたのは、「これは自分たちの任務だ。今回工作船を取り逃がせば、国民は海上保安庁に対して絶望し、そしてそれは、我が国の安全保障体制に対する絶望に変わって、その次に来るのは想像し難い国家への不信感」という思いです。
第一線の海上保安官の意識を突き動かして、この様な毅然とした勇気ある行動をとらしめたのは、拉致と組織的な覚せい剤大量密輸という犯罪に対し、海上の治安を司る職業人としての「許せない」という素朴な正義感であったと思います。
国民の安全を守る責務を職業としているものが、凶悪な犯罪者と対峙したとき「自らの安全を優先し、国民の安全を蔑ろにする事への、恐ろしいほど素朴な罪悪感」を持っていることが、この様な凛然たる姿を可能にしたのです。
この様な現場第一線における海上保安官が持つ使命感は、領海警備・経済水域取締り、海賊取締り、欧州からの核燃料輸送護衛、蛇頭・暴力団による密航の取締り、内外の無法組織による麻薬・覚せい剤・拳銃・船舶密輸などの犯罪取締まり、国内業者と暴力団による悪質密漁の取締まり、シージャック・テロ・船内暴動を対象とした数々の警備出動、対馬海峡等国境沿岸での外国船密漁取締り等の全国周辺海域での実践で鍛えた能力、たとえば夜間の大時化の現場での相手との駆け引き、拿捕のための操船技術、乗り込んだ船舶の甲板上での逮捕制圧術、事実を証拠化する捜査、爾後の被疑者の取調べ等の事件処理、犯罪の背景にある国内外の政治・経済・社会情勢の分析等から、海上保安官として法を執行するということは、自らに危険を伴う任務でありことの覚悟と、海上の治安を維持し国民の生命・財産を守る警察任務を、国民から負託されている唯一の機関であることの深い意味を飲み込んで、各人の経験の中で醸成されたものです。
多くの実績の中から、外国人に関するものを挙げると、漁業水域暫定措置法に基づき200海里内の海域における漁業取締りが始まった昭和52年以降の外国船舶取締りでは、領海・経済水域における外国船舶立ち入る検査件数約24万3千件、外国船舶・外国人に係る殺人等海上暴力事犯や密出入国、漁業、公害法令違反等の検挙件数約5千5百件、これらに係る罰金・担保金の合計約7億円であり、最近5年間の薬物・銃器事犯の摘発では、覚せい剤・大麻等の押収量0.5トン、銃砲37丁となっています。また、国際テロを未然に防止するため、国際船舶・港湾保安法に基づき、平成16年7月1日以降昨年末までの間で、外国船約17万6千隻の入港事前通報を受理し、その船の保安措置の実施状況をチェックすると共に約1万4千隻に立入検査を行い厳格な入港規制を行なっています。
この様な、恒常的な警察業務処理が、工作船事件の際、2昼夜に亘る追跡の間、大時化のため激しくピッチング、ローリングする巡視船内で、食事も休息もとれずに、人間の気力・体力の限界にありながら、工作船の武器と対峙するための配置について、指揮官の命令を確実に実行することのみに専念し、巡視船「きりしま」の身を挺した強行接舷により日本政府の強い意思を示し、更に挟撃しようとした巡視船「あまみ」に対して加えられた自動小銃・機銃の激しい乱射の中、ビデオカメラで冷静沈着な採証撮影を行い、巡視船「いなさ」が適正的確に実施した正当防衛射撃を正確に録音録画し、そして、上空で監視中の海上保安庁航空機からロケット弾の攻撃痕を的確に撮影するという行動を海上保安官に執らせ、海上保安庁の行為の正当性(日本国政府の行動の正当性)を国内外に示すことを、可能にしたのです。
巡視船・海上保安庁航空機とその対象船舶という当事者以外が存在しない海上では、法の手続きに則った適正な実力行使と、これを証拠化する高い能力が必須であり、これを欠く場合には直ちに国内外の非難を招き、場合によっては国際紛争を招きかねないものであり、主権と国益を守る領海・経済水域の警備業務には、確固たる使命感と高度な処理能力を持った海上警察機関が必要とされる所以です。
海上警備の特殊性の一つは、外国領海という追跡権に対する主権の壁が存在することにあり、このため、巡視船にとって相手船の行動が読めないという不確定要素の存在する状況であっても、法の手続きを踏んで現行犯で拿捕するほかに選択肢は無いということであり、海上に於ける警察業務の厳しさと困難性が此処にある、ということです。
海上保安庁が外国船に対して武器を使用する場合は、厳格な法の手続きを踏むのは当然として、関係国に与える国際的影響を考慮すると、工作船対処のように他に手段が無い場合であり、この様な実力行使は、軍事紛争と海上保安事件の境界を挟んで、海上保安側の最も端にあることから、一歩対応を違えれば、軍事紛争へ発展する可能性が高いのです。だからこそ、我が国の安全保障体制の領海線と二百海里経済水域の外縁にはめられた緩衝装置、車で言えば外からは見えないショックアブソーバの役割をする海上保安官が、自己の危険を顧みず水平線の遥か彼方の国民の知らない洋上で、黙々と領海警備・経済水域警備に従事し、我が国周辺海域の治安を維持し、平時の事件が軍事紛争に発展しないように現場で対処してきているのです。
この事件が、我が国の安全保障に与えた意義は、
1 工作船の様な武装不審船に対する抑止力を確立したこと
2 拉致の手段である工作船を押収し、北朝鮮が拉致・覚せい剤密輸を認めたこと
3 日本周辺の治安・安全保障上の問題が顕在化し、安全保障体制の見直がされたこと
我が国周辺海域に武装した極めて特異な構造の工作船が徘徊し、拉致、薬物の密輸、密出入国等重大な犯罪を行なっているという不安感が現実に立証されたため、内閣官房、海上保安庁、防衛庁、外務省、警察庁等関係省庁の危機管理体制の見直しを行い、工作船対応のみならず我が国周辺海域と国内における危機管理体制全般の強化を進めるとともに、不審船・工作船対策として、巡視船・航空機などを強化したこと
であると考えます。
最後に
海上警備の課題について、お話します。
海上保安庁は、領海・経済水域の現場第一線で、巡視船艇・航空機等の部隊を運用して、外国船舶の監視、犯罪の取締り等を行い我が国の主権と国益を守ることを国民から負託されています。
海上保安庁の現場第一線の海上保安官は、政府の方針に従って、外国船の監視取締りを行い、必要な場合は外国人を逮捕しその船舶を拿捕します。従って、海上保安庁の実力が現場の巡視船艇・航空機等によって示され、その能力の限界が我が国の海上における警察業務の処理限界となることが多く、また、これは、我が国政府、世論、法律、相手国・現場にある外国船の対応によって、事案毎に異なった対応となります。
このような海上警備に従事する
巡視船は 122隻
巡視艇は 234隻(174隻は小型)
特殊業務艇 76隻 計 432隻
航空機 72機
海上保安庁総予算 189、081百万円
総定員 12,411人 (平成19年度末)
となっております。
全国の海上保安官は、この体制で、海上保安庁本庁の指揮の下、全国11の管区において、 国家公務員の国民への奉仕義務、海上保安官の危険回避を認められない職責、海上保安官が持つ使命感に基づき、わが国周辺海域の治安を維持し、平時の事件が軍事紛争に発展しないよう現場で対処しております。
6月2日青森県深浦に入港した北朝鮮人の事案では、小さな木造の船が監視網にチェックされなかった訳ですが、広大な海洋の中でのこの種の船の発見の困難性は置くとして、先に話した広大な監視対象海域と長い海岸線を持つ海上保安官の負担について、少し数字化すると、
外国海上保安機関との比較では
海上保安庁 米国CG 韓国海洋警察
職員1人当り海岸線延長 2.8km 0.4km 1.2km
職員1人当り経済水域面積 363平方km 166平方km 46平方km
国内治安機関との比較では
海上保安庁 警察 海上自衛隊
定員 (人) 12,441 288,451 45、812
(1/ 23) (1/4)
職員1人当り国民数 10,364 442 2,788
(23) (4)
予算 1、891億円 3兆6,046億円 1兆892億円
(1/19) (1/6)
となっており、
予算・定員について、まだまだ国民の皆様の理解とご支援が必要であると思います。
九州南西沖工作船事件の際は、様々な状況から、工作船を拿捕できると確信して行動したものですが、工作船からの激しい抵抗で被弾した3隻の巡視船のうち2隻は、正当防衛手段である武器と防弾装備が工作船対応機能を持たないにもかかわらず、武器による抵抗が必至の拿捕作業を命じなければならなかった、海上保安庁の窮状を考えるとき、海上警備の現場の実態は、国益、相手国との関係、人権、警備手法の秘匿、捜査上の秘匿から、総ての事実が公表されるものではなく、報道機関にとっては物理的に取材困難な場合が多いということ、海に対する国民の関心の低さもあって、日本の安全のために今、水平線の彼方で何が行なわれているのか、そのためには何が必要かについて、国民の間で語られることは少なく、したがって海上保安官の応援団も極めて少数の方々であり、工作船に対応可能な巡視船・防弾等の装備も乏しかっと思わざるを得ません。
その意味で、九州南西沖工作船事件の後、日本財団の強い意思で「海守」が発足したことは、海上保安官にとって多数の理解・協力者が増えることとなり、沿岸警備の面からも国民にとっても心強いことだと思います。
現在、海上保安庁は、切実な問題に直面しております。今後、更に増大し複雑化する海上警備の実態を考えるとき、海上保安官にとって、海上保安庁の体制が米国コーストガード、日本の警察、海上自衛隊に比べると、明らかに重い負担であり、確固たる使命感でのぞんでも、国民の期待に十分に応えられる体制が整っていないのではないか、といわざるを得ない現状、例えば、巡視船の46%、巡視艇の28%、航空機の41%が、耐用年数を経過し、深刻な老朽化問題に直面していることなどです。
それでも海上保安庁は、一人の海上保安官が、海洋権益の保全、犯罪の監視取締り、海難救助、海洋汚染の防止、船舶交通の安全等、何役もこなしている極めて効率的な組織として運用されていることを国民の皆様に理解して頂き、後ろから海上保安官のご家族とともに、支えて応援していただきたいのです。
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※このエントリーのテキストは、調査会の荒木和博氏及び講師の後藤光征氏の同意を頂き、当日の講演原稿をそのまま転載したものです。