2006年08月31日

06.7.12 横田滋さん2 八重山集会より 石垣市民会館大ホールにて

「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」 
06.7.12 石垣市民会館大ホールにて

『横田滋さんの講演 その2』

そしてめぐみの事は橋本総理がその時には拉致かどうかと言う返事はなかったんですけど、5月になってから調査の結果、「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である」という事で従来の6件9人、アベックの場合は一件で二人になりますから件数と人数が合わないんですけど、そこにめぐみを加えて7件10人の北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である事案という事が国会で答弁されまして、そしてその年の警察白書にも載りました。

そしてめぐみの事でちょっと前に戻りますけど、2月3日に国会に取り上げられた時に新潟市の方で、この事件は新潟で起きたんだから我々の手で救出しようと言う事で、横田めぐみさん救出のための救う会というのが新潟で出来ました。
そしてそうした救う会が警察に行ったり外務省に行ったり日赤に行ったりと言う事で活動を始めたもんですから、後の家族の人も「やっぱり今自分達が立ち上がらないと救出のチャンスが無くなるだろう」と言う事で集まって、そして家族会という物を作りました。
これが平成9年の3月25日です。

それ以降はめぐみさんを救う会と言うのが、今度は「北朝鮮に拉致された日本人を救う会」ということで名前が変わりました。
そしてその時はまだ新潟一つだったんですけど、その会に集まってきた人が東京の会、東京の会と言っても実際的には関東の会だったんですけど、それが千葉の会とか埼玉の会・神奈川の会とかって発展的に分裂して、そういったところに出席した方が北海道の会とか福岡の会・大阪の会・京都の会とかって段々広がって、今日本全国殆どの県に救う会ってのはあります。

それから救う会に入って無くてもこちらのように八重山ブルーリボンの会というのと同じ名前で、要するに群馬県ブルーリボンの会と言うのが前橋にありますから、今は実質的に全県に救う会ってのは出来ました。
そういった方の活動と、国会議員の方が超党派の議員連盟を作ってくださった結果、かなり拉致問題は国民の関心が高くなってきましたし、政治的にも動くようになりました。

そして平成14年の1月か2月に日米首脳会談が開かれましたときに、小泉総理がブッシュ大統領に「拉致問題の解決無しに国交正常化交渉の妥結はありえない」と仰って下さって、それから国会の方でも衆参両院で拉致解決の決議がなされたり、それから拉致の専門幹事会と言うのが出来たり、国内的には随分救出の条件が整ってきました。

そしてブッシュ大統領がクリントン大統領から政権を引き継いで北朝鮮に厳しい態度を取るようになりましたし、それから北朝鮮自身も経済政策に失敗して配給制度が成り立たないようになったので、なんとか政権を維持するためには日本と国交を結んで経済協力を得なければならなくなると言う状況に追い込まれまして。
そして平成14年の9月の17日に初めての日朝首脳会談が実現致しました。
そしてその際に金正日は拉致を認めて謝罪をして5人が生存、それから8人が死亡と言うふうに発表をしました。

その日各家族に内訳の伝達があるので待機していたわけです。
そして中々伝達がありませんで、政府は「今ちょっと最後の詰めの作業をしています」と言う事で、まず一番に私たちの家族が呼ばれました。
その時世間ではめぐみについては確認されたわけではありませんけど、生存情報と言うのがたくさんありましたし、歳が他の人より10歳は若いので、今日はいつ頃帰ってくかというのが分かるのかと楽しみにしてたんですが。
実際に行きましたら、副大臣の方が「誠に申し上げにくい事ですけど、お嬢さんは亡くなっておられます。そして結婚して女のお子さんがいます」とそれだけの伝達がありました。

全く思いも寄らない事ですけど政府が詰めの作業をした上での公式の伝達ですから、反論するということも出来ませんので「いつ死んだんですか?結婚した人は日本人ですか?北朝鮮の人ですか?女の子は何歳ですか?」とかって聞いたんですけど、何を聞いても「分かりません、分かりません」ということだけだったので、またそれは別途教えてくれるのかと思って帰って来たんですが、全く思いもしない状況だったので愕然と致しました。

そしてその後も個別に呼ばれまして生きているとか死亡したとか言う事だけで、他の人も死亡したと言われても何日に死んだのか?原因と言うのが全く分かりませんでした。
しかし翌日になって、それは北朝鮮が言って来たのをそのまま右から左に伝えただけだと言うのが分かったので、我々はそんな事ではとても納得できないといって。
それでも更に2〜3日後になって何日に死亡したかと言う事と、後は原因としては事故か病死かという2種類だけでよく分かりませんけど、めぐみの場合は自殺だという事で言って来ました。

それからその月の月末に政府の調査団が(北朝鮮へ)行ったわけですが、死亡したと言われた8人は、原(敕晁)さんは元々40代で拉致されていますから40代で亡くなっていますが、それ以外の7人はめぐみだけ10代、それ以外は20代で拉致されて全員20代で死亡しています。
そして2人だけが病死で後の6人は事故死です。

うちのめぐみの場合はうつ病で入院して回復期に病院の中を散歩している時に、医者が用事が出来て席を外した隙に来ている物を破ってロープを作って首吊り自殺をした。
遺体は病院の共同墓地に埋葬したが夫が秋になって持ち帰った。
その時に焼いたか墓を作ったとか内訳は分からないんですけど、夫が持ち帰ったと言う事。
証拠と言うのは患者入退院台帳という(物の、表紙の)入退院と言うのを消して上に死亡と書き直してあるんですけど、患者死亡台帳に名前が載っているというだけで具体的な証拠と言うのは何もありません。
カルテもその時は見つかりません。
その様な状態でとても納得できるような状態ではありません。

そしてそのひと月くらい後の10月15日に5人の方は帰国しました。
しかし当初は2週間くらい滞在して、また北朝鮮に帰って家族と相談してから来ると言うふうに言われていました。
この帰ってくるというのは約束があったともなかったとも言われてハッキリしませんけど、少なくとも文書としてはなかったと思います。
それがあれば北朝鮮が出してくるはずですから。
そして日本は、そのまま(北朝鮮に)帰すと二度と日本に戻って来られないだろうという事で福田官房長官が談話を出して、そのまま留め置いたわけです。
そうすると北朝鮮側はそれは約束違反だと言う事で、子供たちを返さなかったわけです。

それから約2年くらい経ちました2004年の5月に小泉総理が再訪朝したときに、蓮池さん・地村さんの家族は子供を連れてきて、それから曽我さんの家族はちょっと遅れてジャカルタ経由で帰ってきましたので、生存したと言われた人については全て帰って来ました。
家族も含めて帰って来ていますが、死亡と言われた人については小泉総理が訪朝した2002年(9月17日)の死亡したと言われた時から、全く一歩も進展していません。

北朝鮮は再訪朝したときに、これは生きている人は全て返したし、後は死んでいるんだから拉致問題は全て終わったんだという事で、それこそ経済協力を貰う為の交渉を始めようと考えたようですが、日本側はそれではとても納得できないから再調査を要求したわけです。
そして再調査を要求して8月頃になってようやく調査委員会を作ったと言う報告があって、9月頃になってほんの少しだけ修正があって、めぐみは93年に死亡と言ったんですけど、蓮池さんがお帰りになって子供さんが帰ったので、「93年死亡と言ったんだけど94年まで一緒だったんだ」と話をしたのが新聞に載って、それを受けて向こうは「93年死亡というのは勘違いで94年死亡だ」と訂正して来たくらいです。

そしてその年の11月に開かれた実務者協議で、後の人に対しては余り情報が無かったんですけど、めぐみの物は学生証だとか自筆のメモ、写真等が出てきまして。
決定的なものとして夫のキム・チョルジュンさんが「めぐみの遺骨」を持ってきました。
それは規則を破って自分が、これもいつ掘り出したかも何回も変わるのでどれが本当か分かりませんけど、一番初めは93年に遺骨を持ち帰ったと言いましたけど、その後96年になって今は97年と言ってますけど、その都度その都度変わるので信用できませんけど。
それを自分が持ち帰って、遺体を焼いてその骨を自宅に保管していたんだと。
それを親に渡したいと言う事で骨を持ってきたわけですけど。

しかしその骨はDNA鑑定しました結果、5つの検体といいますか4つのかけらからは同一のDNA、もうひとつの骨からは別のDNAが検出されたわけですけど、いずれもめぐみの物ではありません。
めぐみの物はへその緒とかいろいろな資料がありましたから、早い段階でめぐみのDANと言うのはどういう物かというのは分かっていたわけですけども。
ですから向こうは決定的証拠と言う事で持ってきたにも拘らず、向こうはおそらく写真なんかも何枚か持ってきまして、不安そうな顔をしているこの少女を我が国が立派な大人に育てて幸せに暮らしたんだけど、病気で自殺をしてそして夫が大事に保管していた物を持ってきたんだと。
しかし1400度で高温で焼いたのでDNAが鑑定出来なかったから、科学的には証明できないんだけど実際には間違いないんだという形で、持って来たんだと思います。

そうすると我々は反論する材料もありませんから納得せざるを得ない所になり兼ねなかったんですけど、しかし日本の技術水準の高さで反論する事が出来たので、それは違うと言う事を北朝鮮に通知をしたわけです。
そうしますと北朝鮮側は、それは鑑定がでたらめなんだと言う事で反論しただけで、科学的に説明すると言っても何も聞く耳を持ちませんで、そしてずっと1年半くらいそういった状況が続いていまして。
今年の2月に二日間、日朝の交渉が行われましたんですが、しかしこのときも北朝鮮側は相変わらず拉致は解決したと言うだけで、具体的な進展は何もありませんでした。

めぐみの骨が他人のものだと分かったんですが、その時に細田官房長官が「北朝鮮が速やかに誠意ある対応をとらなければ、日本としては厳しい対応を取らざるを得ない」と言う談話を発表して、我々もすぐにと言うわけでもありませんけど、何ヶ月経っても北朝鮮が誠意ある態度を示さないので、政府に対して経済制裁を、具体的に言えば例えば万景峰号を止めて欲しいとかいろいろな事を要求したんですが、小泉総理は対話の窓口が途絶えると言う事を理由に制裁という事は積極的ではなかったわけです。

しかし、今回のミサイルがきっかけになって経済制裁を検討するようになり、即日万景峰号を6ヶ月間入港禁止するっていうような方針を発表しました。
そしてその翌日には、これはミサイルだけでなくて拉致問題も解決しなければ解除をしないという形で、最初はミサイルだけ。
しかし後で拉致も含めて制裁を実施致しましたので、そうなるとミサイルだけを解決しても制裁を解除して貰えなくなりましたので、北朝鮮側としては何らかの対応を取らざるを得ないと思います。

今年の2月に日朝の包括並行協議とちょっと名前を変えたんですけど、これは拉致の問題だけ協議すると北朝鮮は追及される一方ですから、核の問題・拉致の問題・経済支援と並行的に協議するけど、その場合でも拉致が解決しなければ他の物が一時的に先行する事があっても妥結はしないんだと強く相手方に伝えてありますから、北朝鮮側としては拉致を何とか解決しなければ経済支援は受けられないわけです。
そしてその時に行きました梅田さんと言う参事官の方が団長で行きましたけど、いろいろな説明があった後に個人的な感想だと言う事で3つの感想を述べられたんですが。

一番目には、北朝鮮は日本の世論を非常に気にしているということです。
その例としましては、めぐみの写真展を全国で今やっておりまして、十数万人の方が見てくださったんですけど。
そして北朝鮮側はめぐみの事を知っていますから、「新潟で写真展を開いたら二千人の人しか来なかったですね」と言うような事を向こうが言ったんだそうです。
それで梅田参事官は、「いや私も新潟へ行って見たけど超満員でしたよ」と「誰がそんないい加減な事を教えたのか知らないけど、実際は2万5千人来たんだ」と言うような事を教えたそうです。

それから北朝鮮は日本人記者向けの記者会見をしたんですが、そのときに「記者の質問が少ないから日本は拉致の関心が薄まった」とか言う事を言ったそうですけど、それはあくまでもそういった発言と言うのは金正日向けのなんと言いますか、発言ですね。
日本向けにしていてもそういう事はすぐ本国に伝わりますから、そんな事で非常に日本の拉致を気にしていると言うことです。
ですから今日もこんなに満員に来てくださったという事も、きっとそれは3分の2くらいの人数で言ってちょっとしか来なかったんだよと報告が行くかもしれないですけど、こういった入場者数も新聞に載りますから、チェックして知っていると言いますか。
そういった事なので本当に満員の方が来てくださった事は、そういった点でも非常に北朝鮮に対して強い圧力になると思ってありがたく思っております。

それからもう一つは経済制裁が非常に、アメリカの経済制裁によって効いているわけですけども、それ以外にも日本は法律を厳格に適用する事によって実質的な経済制裁をしている事で非常に向こうにしては堪えていると言う事で。
3番目には拉致の国際化という事を気にしているということで、以前は日本と韓国しかなかったわけです。
レバノンもありましたけど一応解決していましたので。
ところがジェンキンスさんの著書によってタイ国の女性が拉致されたとか、マカオの人が拉致されたとか、イタリアの人が拉致されたとか、いろんな事が現れて来たわけです。
現在では12ヶ国の人が北朝鮮に拉致されていると言うふうに言われてますので、そういった事で拉致問題が国際化して、そして後で話が出ますけど早紀江がアメリカへ行ってブッシュ大統領に会って、拉致の問題を訴えたりすると言う事は北朝鮮側からすれば非常に困るわけですけども。
拉致の国際化と言う事を非常に恐れていると言う事でした。

それで、最後時間が来ましたので、最後にやはり拉致問題の解決と言うのは世論の後押しと言う物が欠かせませんし、また一番大きな力になります。
今日も皆様方が台風の接近にも拘らず大勢来て下さったと言う事は、如何に大勢の方が同胞を救わなければと言う事で来てくださったわけで、本当にありがたく思っております。
引き続き拉致問題に関心を持って見守ってくださいますようお願い致します。
どうもありがとうございました。(拍手)

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2006年08月28日

06.7.12 横田滋さん1 八重山集会より 石垣市民会館大ホールにて

「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」 
06.7.12 石垣市民会館大ホールにて

『横田滋さんの講演 その1』

皆さんこんばんは。
ただ今ご紹介を頂きました、新潟で拉致されました横田めぐみの父・横田滋でございます。
今日は台風接近の中、こんなに大勢の方にお越し頂きまして、いかに皆様方が同胞を救おうと言う関心の高い事を感じましてありがたく思っています。
こちらにお伺いする前に中学校へ行きまして約1時間話をさせて頂きましたんですが、生徒さんも非常に熱心に聴いて下さいまして、関心の高さと言う物をここでも感じました。

めぐみは昭和52年の11月の15日、新潟市の寄居中学校でバドミントンの練習を終えて帰宅途中、自宅のすぐ近くで行方不明となりました。
めぐみは通常6時半くらいには帰って来ますが、その日はそれを過ぎても帰ってこないので早紀江が学校まで迎えに行きました。
そうすると体育館に明かりが点いて女の人の声で「わぁ〜っ」と言う声が聞こえたので、「今日は随分遅くまで練習しているんだな」と思ったそうです。

それはめぐみは、その二日前くらいに開かれました新潟市のバドミントンの新人戦に出場しまして、そこで成績はまずまずだったんですけど、新潟市の強化選手に選ばれました。
その当時の新潟市の女子のバドミントンと言うのは全国のトップレベルだったので、非常に名誉だと思う反面、自分の代でここでレベルを下げてしまうと困るという事で心配もしておりました。

それで普通より遅くまで練習をしているのかと思って帰ろうかと思ったんですが、(体育館を)のぞいて見たら生徒は全部帰った後で、お母さん方がバレーボールの練習をしていました。
それで急いでとって帰りまして玄関を開けてみますと、めぐみの靴が見えません。
それで弟二人を連れて家の近くの空き地等を調べましたんですが見つかりません。
そのうち私も銀行から帰ってきて一緒に探したんですが、これまで学校の帰りに寄り道したことなど一度も無かったもんですから、その日のうちに警察に届けを出しました。
それで新潟の中央警察署と隣接しました東警察署の方がすぐに家に駆けつけてくれました。

学校と家の間は約500メートルくらいです。
学校の前の道路も非常に広い所でそのまま真っ直ぐ行きますとバス通り、これも広い所です。
そこを通って自宅まで帰るわけなんです。
警察の調べでは学校の校門を出るときは友達二人計3人、校門の前に広い道路が横に広がっていますが、そこを右に曲がって3人で自宅の方向へ向かいました。
一人はすぐに右の方に曲がって分かれまして、丁度学校と家の中間点くらいにありますバス通りの交差点で、もう一人の友達と左に曲がって別れて、めぐみがそのまま自宅方向に向かって直進しました。
それが最後の目撃情報です。

警察はそこから警察犬2頭を出してめぐみの匂いを追わせた訳です。
そうしますとそのままずっと真っ直ぐ自宅の方向に向かいまして、そして左に曲がると50メートルくらいで自宅と言う交差点で、ここで犬が匂いを追うことが出来ませんでした。
そこで警察はここで車にでも乗せられたんじゃないだろうか?と推測して、行方不明になった理由として身代金目的の誘拐、または暴行目的の誘拐。
それからそこには交通事故の痕跡は無いですけど軽く接触して、たまたまその人が無免許だったりして、処置に困って連れ去り運がよければそこで治療でもして帰ってくるのではないかということも考えましたんですが。
やはり重点的には身代金目的の誘拐と言ううことで県警の特殊班といって、誘拐なんかを担当する班の人たちが来まして逆探知の装置を付けたり、刑事さんが家の中に数人入り込んで、家の周りには覆面パトカーが張り込む。
そして大勢の方が近所を探してくれました。

しかしその日は12時くらいで一旦打ち切りまして、翌朝薄明かりになった頃から県警の機動隊も出動しまして、大規模に近くの空き地を大勢の警察官が長い棒を持って一列横隊に地面を突きながら歩いて。
防風林から海岸、護国神社の境内まで探してくれたんですが、めぐみの姿はもちろん遺留品も見つかりませんでした。
また、大勢の警察官の方が近所を聞き込みに回って悲鳴を聞いたかどうか?それから女の子が連れ去られるのを見たかどうか?という事も調べてくれましたんですが、しかし何の反応も情報を得る事も出来ませんでした。

1週間警察はそのままの状態で警察はずっと捜査を続けてくれたんですが何も無いままで、そのために公開捜査に切り替えて、地元の新潟日報に大きく少女行方不明という事で載りましたので、これで解決するかと思ったんですが、そういった新聞に載ったにも関わらず何も情報が入りません。
そのうち警察は、新潟の海流は北の方に流れていますから、山形県との県境くらいまでずっとヘリコプターを飛ばしてくれたり、それから(海岸の)侵食を防ぐ為にテトラポットと言うのが三角型の大きなコンクリートを沈めてある訳ですが、そこの外側に引っかかっていないか?と言う事で巡視船を出して調べたり、それから春になったらダイバーが潜って調べたりもしてくれましたが、そこからも何も遺留品も出てきませんでした。

我々もチラシを何回も警察に頼んで貼ってもらったり、テレビの人探し番組にも5回出て呼び掛けをしましたんですが、テレビの力は非常に大きくてすぐに他の方は見つかるんですが、めぐみについては何の情報も入りませんでした。
警察でも犯人は同じような事を繰り返しますから、そこでそうした犯人が捕まった場合、その余罪として見つけるしかもう方法がないということになって、世間では神隠しであるとかUFOの仕業であるとか言われましたんですが、全く何の情報も入りませんでした。

そしてそんな状態が約20年も続きました平成9年の1月の下旬に、参議院議員の橋本敦議員の秘書の兵本(達吉)さんという人から電話がありまして、「お宅のお嬢さんは、北朝鮮の工作員に拉致されて平壌に居るらしいという情報が入りました」という電話を頂きました。
20年ぶりに初めて入った情報です。
「あぁ、これで解決した」と思って、詳しい話を聞く為に議員会館に向かいましたら、そこでありましたのは公開捜査に切り替えた時の新潟日報のコピーと、それから現代コリアと言う雑誌の前年の10月ごろだったくらいと思いますけど、そこに大阪の朝日放送のプロデューサーの石高健二さんて言う方が書かれた「私が金正日の拉致資料を書いたわけ」と言うタイトルのページが20ページに亘ってコピーしてありました。

それを石高さんがソウルに行って韓国のソウルの安企部に取材して、蓮池さんや地村さんの行方不明事件について調べて本を書いたわけです。
「金正日の拉致指令」と言う本を。
しかし「その取材中にこんな情報があるんだけど、ちょっと情報不足で本には書けなかったけど、知っている人がいたら教えて欲しい」という前書きがありまして、そこには1977年から78年ごろ日本海のどこかの都市で13歳の少女がバドミントンの練習を終えて帰宅途中に任務を終えて出国しようとする工作員を目撃したので、工作員はそれを警察に通報されたら困ると言う事で少女を連れて帰った。
そして少女はお母さんのところへ帰りたいと頼んだんですが、しかし朝鮮語を習得したら返してやるといわれて一生懸命勉強して朝鮮語をある程度マスターしたんですが、18歳になったとき返して貰えないということが分かったので精神に破綻を来たして入院をした。
少女は双子の妹である、というように書かれていました。

それを見ましたときにこれはめぐみの事に間違いないなと思いましたんですが、しかしそれは新聞情報と殆ど変わりが無いものです。
実はめぐみがいなくなって3ヶ月くらい経った時に、身代金を要求する電話が入りまして、そして早紀江がその電話を引き伸ばしている時に逆探知に成功して犯人を逮捕した事がありました。
それでこれでもう解決かと思いましたんですが、それは高校生が新聞情報を元にして悪戯をしたわけです。
ですから今回も新聞情報が先にあったともいえないような内容で、ずいぶん20年も前の話でめぐみが有名人でもなんでもないのに13歳とかバドミントンとか非常に細かい事が書いてあったわけです。
ですからちょっと危惧を感じましたんですが、だだひとつ気になったのは少女は双子の妹であると書いてありますけど、めぐみは双子ではありません。
しかしめぐみには双子の弟がおります。
そして双子の弟の事は後には何回も新聞に出ましたけど、公開捜査に切り替えた時の新聞には載っておりません。

それで後でそれを書いた石高さんに聞いたんですが、韓国の安全企画部から話を聞くときは、例えば調書を見ながら教えてくれるという物ではなくて、食事をしながらとか歩きながら話を聞くというような事で、その時にきっとその人が下に双子がいるということが頭に残っていて、そして本人が双子の下のほうであると言ったのではないかといいましたけど、新聞には出ていない双子とあったのでそこは実際とは違いますけど、これはもしかしたら本当かな?と言う感じは致しました。

そして一番初めに直面しました我々のなんと言いますか困惑なんですが、それは実名を挙げて写真を載せて報道して頂くかどうか?という事です。
そしてそれは家の中でも意見が分かれまして、私は「内容を出して写真を出さなければ世間から信用されないからそれはすべきだ」と言いましたが。
子供たちと早紀江は「お父さんの言う方が正しいんだろうけど、そんな事をしたら北朝鮮は拉致は無かったという事にして、折角ここまで頑張ってきたのにこっそり殺してしまう恐れがあるからやっぱり安全を取るべきだ」という声が強くて、家の中でも意見がまとまらなかったんですが。

たまたま現代コリアのHPの中に日本人拉致リストと言うのがありましたが。
それは蓮池さんや地村さんの事が載っていたわけですが、その一番前にいつの間にか横田めぐみと言う事で、実名でいなくなった状況なんか載っていましたので、こんな事で中途半端に北朝鮮に知られるよりは一般のマスコミなんかにも公表した方が安全が保たれるだろうと言う事で、実名を出す事を了承しました。
そして平成9年の2月3日の産経新聞の朝刊に少女拉致事件という事で大きく報道されまして、それはその年の新聞協会賞って言うんですか?
大スクープだと言う事で取ったくらいの内容でしたんですが。

それから朝日新聞が出していますアエラと言う週刊誌にも載りました。
しかしながら両方ともそれ程発行部数がありませんので、日本全国の人が知ったというわけでもありませんけど、その日の午後に開かれました衆議院の予算委員会で新進党の西村眞悟代議士、今民主党でやっていますが、その方が衆議院の予算委員会で橋本総理大臣に対しまして、少女拉致事件という事で質問をしました。
それに対しまして橋本総理大臣は「現在調査中であるから」と、その時は明確な答えはありませんでしたが、それが全国へテレビで生中継されましたので、それで日本人の多くの方は「あぁ、北朝鮮へたくさんの日本人が拉致されているんだな?」と言う事が初めて知ったわけです。

今日若い方もお見えになっていますけど、そういった方は小泉総理が訪朝したときに日本人拉致が分かったと思ってらっしゃるかも知れませんけど、殆ど今日お見えになっている方は平成9年に拉致事件が分かったと思います。
しかし、実際にはもっともっと北朝鮮による拉致と言うのは早くから分かっていたわけです。
アベックの方が居なくなったのはめぐみが拉致された翌年の、昭和53年の7月と8月です。
このときに3件のアベックの行方不明事件がありまして、それと一件の未遂事件がありました。
そしてその1年半後くらい後の昭和55年の1月の6日付の産経新聞、これは二日くらい連続になりましたんですが、アベック行方不明事件と言う事で大きく報じました。
そして北朝鮮と言う名前は出していませんが外国の諜報機関が関与しているという事で、読めば北朝鮮と分かる内容ですがしかしこれは他の新聞の後追いがなかったので立ち消えになってしまいました。
しかしこれは一つの新聞社が今となってみれば立派な記事を出したんですけど、その当時はやはりそれ程、本当にこんな事があるのかな?みたいな事になってしまったわけですが。

しかし昭和63年には参議院の予算委員会で先ほど出ました、橋本敦議員が国会の場で拉致事件を質問しています。
それとその時は、大韓航空機を爆破した金賢姫に日本語を教えた田口さんの事についても質問しています。
それに対して治安関係の責任者であります梶山静六さんが国家公安委員長で、「北朝鮮による拉致が濃厚である」というふうに国会の場で北朝鮮による拉致と言う事を発言しておりますし、当時の外務大臣も「現在調査中ではあるが事実であれば断固たる処置をとる」と回答しておりますから、政府関係者とか議会関係者の方はその時には知っているわけなんです。
しかしその時たまたま産経新聞と日経新聞が小さく報じただけで、それ以外の新聞が報じなかったもんですから一般の方は気がつかなかったわけです。

そして親の方も我々がちょっと心配したのと同じように、自分達が名乗り上げると子供たちが殺されるかも知れないということで黙っていたわけです。
親が黙っていて、そして世間の人も世論も結局知らないから、救出運動なんか起きないわけです。
そうすると政府はどうしたか?というと、後になって記録を読んでみますとめぐみについては北朝鮮側に照会しています。
北朝鮮から「そんな人は実在しない」と回答がありましたんですが、アベックについては事実上何もしていないで放ったらかしにしていたわけです。
そして国交正常化交渉を重点にしたわけです。
めぐみの事が明らかになった直後でも外務省の局長の方が「たった10人くらいの拉致の事で騒いで日朝国交正常化交渉が滞るという事は国益に反する」というようなことを言って、ヒンシュクを買った事があります。

よくアメリカでは一人でも拉致されたら戦争をしてでも取り返すと言いますけど、結局世論の力が無ければやっぱりたった10人と言う。
その10人が非常に大事な事なんですが。
そういった拉致された国民を救うということよりも、北朝鮮と国交を結ぼうという事がやっぱり重要視するわけです。
それまでに中国とかソ連とか本当は国交がなかった時代がありましたんですが、両方とも結んだので北朝鮮が最後になるんですが、ですからそんなような状態ですからやはり世論の力が如何に大きいかという事がお分かりになると思います。

それから日本電波ニュースと言うメディアが韓国に行きまして、亡命した工作員から色んな話を、偽ドル札作りの話を聞いたときに、「日本では今日こんな事が話題になったんだ」という事でその産経新聞等を見せた所、その工作員が「この人は見たことがある」と。
「自分が工作員として教育を受ける時に金正日政治軍事大学で見たことがある」と言うような事を証言したわけです。
それによってもっと拉致の可能性が高まったわけですけど。
ただ工作員と言うのは我々の印象では初めて聞いた言葉なので、スパイとして入って来る人だから腕力は強いかもしれないけどあまり教養の無い暴力団のような人かな?と思ったんですけども。
実際ソウルに行って対面しますと非常に礼儀正しい精悍な青年が現れまして、そして知っている事はなんでも教えてくれましたし、知らない事やいい加減な事は言わないので、この人が言っている事は間違いが無いんだという事は確信しました。

・・・その2に続く・・・

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オンデマンド放送を御利用の方はこちらへどうぞ。
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2006年08月27日

06.7.12 砂川昌順氏 八重山集会より 石垣市民会館大ホールにて

「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」 
06.7.12 石垣市民会館大ホールにて

『砂川昌順氏の講演』

ただ今ご紹介頂きました砂川でございます。
オープニングで「トゥバラーマ」「月ぬ美しゃ」をそこで聴いていたんですけども、ついうるっと来ましてですね。
私も島んちゅですので、やはり歌を聴くと色んな思いが頭をよぎって行くんですけれども、本当に素晴らしい歌を聴かせて頂きました。

本日は横田さんご夫妻をお迎えし、「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」で講演させて頂く機会を与えられましたことを、大変光栄に思い深く感謝申し上げます。
本日の開催に向けご尽力くださいました主催者、実行委員、後援者、多くの関係者の方々、そして本日こうしてお忙しい中、それにも増して台風4号が接近中の中、ご来場くださいました皆様に対して心よりお礼申し上げます。
ありがとうございます。

以前、横田さんご夫妻と講演を一緒にさせて頂いた時でした。
何気ない会話の中で、「横田さんご夫妻が、全国でまだ講演に訪れていない県が二県ある」という話になりました。
「どこですか?どこの県ですか?」
軽く聞いてしまったんですね。
その答えを聞いたときに、ガツンと頭を思いっきり殴られたような思いで言葉を失いました。
その二県の中に沖縄県が入っていたからです。

「申し訳ありません」
ただ謝るしか言葉は見つかりませんでした。
足元を見つめていなかった自分が愚かしく情けなく、拉致被害者ご家族の皆様に対しまして「申し訳ない」と言う思いで、自分には横田さんご夫妻と一緒に講演をする資格など無いんじゃないのかな?と、その時思いました。
本日は石垣市民の皆様が横田様ご夫妻をお迎えしてくださって、こうして講演会を開いてくださったことに対して、特別の思いを込めて皆様に対しましてお礼申し上げたいと思います。
ありがとうございます。

私は毎年11月15日は新潟の海へ出かけています。
横田めぐみさん、当時13歳、中学校1年生。
学校からの帰宅途中拉致されたあの新潟の海を、この目に焼き付けておきたいと思うからです。
横田さんご夫妻が「めぐみちゃ〜ん、めぐみちゃ〜ん」と必死で我が子を探し回った。
暗闇の中を懐中電灯を手に必死で探し回ったであろう、その海岸に立ち、国民の一人としてそしてかつて公務に携わっていた一人として自分が至らなかった事を反省し戒め、拉致被害者ご家族の皆様に対しまして改めてお詫びの気持ちを強く思うと同時に、今私たちがやらなければならない事について足元から見つめ直していきたいという思いを、自分自身に強く叱咤する日としております。

過去において多くの日本国民が、拉致問題に真摯に取り組んでこなかった時期がありました。
助けを求める拉致被害者ご家族の声に耳を傾けなかった一時期がありました。
事実を、事実足らしめる物を見誤って来たように思います。
私たち国民も反省すべき点があるかと思います。

私は自分の記録した物を本として出版いたしました。
「極秘指令」と言う本ですが、それは元北朝鮮労働党調査部に所属していた蜂谷真一ことキム・スンイル、蜂谷真由美こと金賢姫の、大韓航空機858便の爆破した実行犯の二人を拘束した経緯をまとめた本です。
大韓航空機858便は1987年11月29日、二人の実行犯によって爆破されました。
115名と言う多くの尊い人命が一瞬にして消えました。

皆様の中には1987年12月15日のテレビ報道を記憶されておられる方もおられるかと思いますが、金賢姫が韓国に到着した日のタラップを安企部。
これは1988年に国家情報院と改称をしておりますが、その安企部、国家安全企画部のメンバー、その前身のKCIAとも言われておりますが、そのメンバーに両脇を抱えられながら飛行機のタラップを降ろされるシーンは、ご記憶されている方もいるかと思います。

しかしながら裏を返せば金賢姫の身柄を要求せず、韓国側に身柄を引き渡し、情報の収集・分析に消極的であった日本政府。
日本における、いわゆるインテリジェンスの不在を露呈したシーンだったと言えるとも思います。
この事件は単なるテロ事件として片付けられるものではありません。
日本国のパスポートが偽造され、日本人が偽装の対象となり、いわゆる日本国が陥れらようとしました。
それは日本国の国益が失われかけたとも言えます。
そこには日本の体制そのものにおける国家、存在としての根本的な問題、根幹が横たわっているように思います。

さてここで少し突っ込んでお話させて頂きます。
1987年7月、在バーレーン大使館での勤務を終え、帰国。
9月に休暇を取り、私はヨーロッパへ向かいました。
目的は3つありました。

ひとつはオーストリアの北朝鮮大使館において、大韓航空機爆破事件の真偽を問いただしてみる事。
二つ目は東西ドイツの壁、ベルリンの壁の崩壊・開放、東側社会体制の崩壊に関わる情報の信憑性の確認。
これは当時のソ連の国家保安委員会、皆さんKGBと申し上げると分かりやすいのかもしれませんが、そのメンバーに確認する事。
そして三つ目は日本の機密情報を東側に流している日本側協力者の情報を入手する事。
以上3つの目的を持ってヨーロッパへ向かいました。
本日は二つ目と三つ目の目的に関しては、今回の講演の趣旨とは直接関わりが無いため割愛いたしますが、ひとつ目の目的について、時間の範囲内で簡単にお話したいと思っております。

ウィーン到着後、二人のウィーンでの足跡を洗いました。
その後北朝鮮大使館側と話し合いを持ちました。
大使館側は参事官、書記官計5名が出席、その中での話し合いとなりました。
まず最初に「北朝鮮が大韓航空機858便を爆破したと考えられている。それは韓国でのオリンピック開催を阻止する事を目的として韓国にダメージ・打撃を与える為に、あなたたちの国が国家として国家犯罪として大韓航空機を爆破したと考えられているが、それについてあなたたちの意見を聞かせてもらいたい」と、いう問いかけを行いました。
彼らは真剣な顔つきをしながらも、時折薄ら笑いに近い表情も浮かべていました。

「あなた達が大韓航空機を爆破したんですか?」とストレートに問い掛けました。
すると、「南だよ、南のせいだよ」と言う答えが返ってきました。
全て南が悪い、南のせいだ。
論理や説明や根拠もなく、ただ口をそろえて「南のせいだよ、南が悪いんだ」と言い続けておりました。
そこで私は「二人は北朝鮮の工作員だと思われますが、それについてはどう考えますか?」と尋ねました。
すると一人の書記官が「あぁ、南の安企部だ。あいつらは安企部のメンバーだ」と答えてきました。
「どうして南の安企部だと言えるんですか?」
すると参事官が「いや、確か服毒したと聞いたけれど、服毒は南の安企部のやり方だよ。だから南がやったんだよ」という答えが返ってきました。

「なるほど、安企部のやり方ですか。それではこのテープを聴いて貰えますか?」
私は持ってきたテープをそこで回し始めました。
そのテープと言うのはバーレーンの空港で二人を拘束し、服毒現場を録音したテープでした。
彼らは暫く聞き入っていましたが、私が何も尋ねないうちから「いや、日本語は良く分からないし、何のテープなのか分かりません」と、言って来ました。
その会談は日本語でやってたんですけれども、そういう答えがこちらが何も尋ねないうちから即座に帰ってきました。

そこで「日本語を話せる人が北朝鮮にも大勢いると思いますが、日本人も結構いるんでしょうね?」と尋ねました。
すると彼らは「日本人は北朝鮮の研究所とか大学には結構います。日本語を話せるのは一杯いますよ」と。
「それは日本のせいでしょ?日本語教育、日本人化教育、それはあなた達がやったんじゃないですか?だから一杯いるんですよ」と答えてきました。

そこでちょっと話を戻して、「複数の日本人がヨーロッパから北朝鮮に入国していると言う情報を我々はつかんでいる。どうして彼らが北朝鮮に入国しているんだろうか?」と尋ねました。
すると、「あぁ、チュチェ思想だよ。彼らは北朝鮮でチュチェ思想を勉強している」
その偉大なるチュチェ思想とはどういう物か?というのを参事官がとうとうと説明を始めました。

その説明を一通り聞いて「なるほど、それでは私もチュチェ思想というのを勉強したいと思っている。どうですか?私を北朝鮮に入国させてくれませんか?私を受け入れて、日本の外務省の職員が北朝鮮に亡命したとでも何とでも発表すればあなたたちの国の宣伝にもなる。私が不要になればその時点で私を処分すれば済むのではないのか?こんなに都合の良い話は無いと思うがどうですか?」と北朝鮮入国の交渉を始めました。
いかなる理由、いかなる手段を使ってでも北朝鮮に入国し、彼らの旅券偽造、日本人化教育、北朝鮮にいる日本人の人たちがどうしているのか?
その実態を調査し情報を得なければ、国際社会において彼らを糾弾する事は困難と考えておりました。

彼らはその場で緊急に北朝鮮に本国に打電します。
「私の申し入れを打電します」と言う事で一人の書記官が席を立ちました。
暫くして北朝鮮からは3日後に返事が来るという事になったと言う事で、私は再度また3日後に北朝鮮大使館に来ることになり、その日の会談は終わりました。
それからはホテル周辺ではアジア系の顔をした男たちがうろうろし始めました。
それが北朝鮮側の見張り役かどうかは、確認する必要はありません。

3日後に北朝鮮大使館を訪れ、そこで返事が来たと言う事で返事を聞く話し合いを持ちました。
返事は日本人の外務省職員、あなたをここからオーストリアからウィーンから直接北朝鮮に入国させる事は出来ない。
それは不自然な為、危険と思われる。
日本に帰って朝鮮総連の誰それとコンタクトし、朝鮮総連のアレンジによって入国する事は可能。
あなたの要望を全て満たすことは可能、ということで北朝鮮大使館側からは直接朝鮮総連側の連絡先を記したメモをその場で手渡されました。
それはいわゆる、その時点での情報収集の道をふさがれた事を意味してもいます。

当時はヨーロッパから数名の日本人が北朝鮮に入国していると言う情報は得ておりましたけども、我々もそれが本人の意思で渡ったものなのか?
それとも強制的に渡らされたものなのか?
そこまでの情報は掴んでおりませんでした。
それを思うと、ただただ申し訳なく拉致被害者ご家族に対しては謝る事しか出来ていないと言えます。

さて拉致問題の解決に向けて我々がすべき事はなんでしょうか?
武力行使はもちろん出来ません。
戦争は、過ちは二度と犯してはいけません。
それでは北朝鮮に工作員とかCIAのようにエージェントを潜り込ませて、被害者の救出を図りますか?
そんな簡単な物でもありません。
他にお願い出来るような事でもありません。

それでは北朝鮮の体制崩壊を目論見ますか?
一番望むところですけれども、6者協議における北朝鮮の体制保障の問題、体制保障の絡みもあります。
それではどうしますか?
平壌宣言の約束を破り、国際社会の非難を浴びる中でも核保有をほのめかし、先週7月5日にはミサイルを発射した北朝鮮とどう向き合えば宜しいのでしょうか?

安倍晋三官房長官は、「我が国として厳しい措置で臨む。日本の出来るあらゆる措置を講じる」と明言しています。
その言葉を拉致問題解決につなげて欲しいと望む所です。
ミサイル発射に対する措置の断行を機に、言うまでも無く対話の門戸は決して閉める事無く、徹底した制裁による圧力を実行し、同時に国際世論、包括的な人権問題として国際世論の形成に日本は全力を傾けるべきだと思っております。

去る4月28日、横田早紀江さんはブッシュ大統領と面会する事が出来ました。
一人のお母さんの心の叫びが一人の母親の声が、超大国アメリカをも国際社会をも動かし始めています。
「10億の人に10億の父あれど、10億の人に10億の母あれど、わが親に勝る親は無し」とご両親の人生をかけた心血を注ぐ活動を知ると、めぐみさんはきっとそう言うと思います。

子を思うお父さんお母さんの叫びを 我が子を愛する親の心を、この日本最南端の地から応援して行こうではないかと思っています。
あなたの声を聞かせてください。
あなたの声を国際社会にも届けてください。
この最南端の石垣から八重山から声を上げていければ、それに勝る喜びは無いと思います。

本日は皆様の前でこうして講和させて頂きました事を改めてお礼申し上げます。
そして横田さんご夫妻がこの最南端の地、石垣市までお出でくださったことに対しまして、心よりお礼申し上げたいと思います。
横田さん、どうもありがとうございます。
そして皆様、どうもありがとうございました。(拍手)

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この集会の模様はオンデマンド放送で見る事が出来ます。
オンデマンド放送を御利用の方はこちらへどうぞ。
http://www.netlive.ne.jp/archive/ISHIGAKIJIMA/ondemand_060712.html
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2006年07月26日

06.7.12 横田早紀江さん2 八重山集会より

「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」 06.7.12 石垣市民会館大ホールにて

『横田早紀江さんの訴え その2』

長男が(アメリカに)一緒に行ってくれましたので、めぐみが北朝鮮に連れて行かれて半年目ぐらいに写された写真だと思いますが、三枚の写真が出てきた中の一枚の、白いブラウスを着ている悲しげな写真を(それを持っていきました。)

あの寄居中学校の帰りに着ていたものと同じような白のブラウスの悲しげな写真を出してきました。骨も一緒に出てきました。けれども私はその骨を見たときは、「絶対にこれはめぐみの骨ではありません、めぐみのものとは思っておりません」とはっきりと藪中さんや斉木さんの前で申しました。「このような写真を出してきたんですよ」と三枚の写真を並べられました。後の二枚は大人になった、私達が想像もしていなかったような、めぐみの初めて見る大人の写真でしたけれども、あの白いブラウスの写真は本当に悲しい顔をしておりました。

もう、何とも言えない、悲しい目をして私達をじっと見ていました。「お母さん、私はどうしたらいいの?助けて、って言えないんだよ。でも生きてるんだよ。」と言う思いでじっと私を見ていました。本当に私は悲しくてたまりませんでした。あの、骨の白い骨壺に対しては、全然感じなかったものが、あの白いブラウスの写真を見たとき、本当に思わずあの写真を手にとって「あ〜、めぐみちゃん どんなに探したかわからなかったのに、こんなところにいたのね!」と思わず涙があふれて止まりませんでした。

二人の弟たちも滅多に泣かない子ですが、声を出して泣きました。
ほんとーになんと残酷なことを、冷酷なことをする国だと思いました。
そしてその後、その骨は日本の科学的な鑑定の結果、やはり思っていたとおり、偽の骨が、二人の他人の骨が入っておりました。

それでも北朝鮮側は、「日本はいい加減なことを言っている。そんなこと言うなら、あの骨壺を返せ、そして拉致問題はこれで終結したんだ。みんな死んだんだ」ということで、今回また考えてもいなかった、あのチョルジュンさんといわれる方、めぐみの夫だとされる方が、外務省の方の前に表れたあの人が、あの時に、政府が「貴方の毛根と血液を差し出してください」と頼んだときにも、「私は特殊機関の者であり、顔を出すわけに行かないので、一切渡すことはできません」と断り続けていたのに、どういう訳か、北朝鮮は今回、めぐみの夫とされる人が、韓国の高校生を5人拉致した中のひとりである、金英男(キム・ヨンナム)と言う名前の、その方が夫である、それがチョルジュンさんだったんですけれども。その人を堂々と、出せないと言っていた人を、完全に世界に見えるように、差し出してきました。

そしてきっと私はその方が出てくるときに、「もう私の妻は死んだんです。私がその骨を持って大事にしていたんです。だから本当に死んだんです。だからこんなに元気な孫が、あなた方の孫がここにいるんですよ。」ということをきっと言うだろうと思っていたら、本当にその通り、間違いなくぴったりのことを証言をしております。

そのようにして、「おじいちゃん、おばあちゃん、私に会いたければ、北朝鮮に来てください。」とウンギョンちゃんと又名前が変わりましたけれども、(以前はヘギョンさんが)言っておりました。

あの当時も(2002年)小さかったまだ15歳の、ヘギョンちゃんの時に泣きながら、フジテレビが放映した中に、「おじいちゃん、おばあちゃん、私に会いに来てください」と言っていた姿を皆様も覚えてくださっていると思います。本当にどんなに揺れ動いたかわからない、すぐにでも抱きしめたい思いでいっぱいでしたけれども、そのようにして又向こうに行ったときに、あちらのラインの中に入ってしまった者と、あの北朝鮮のラインからこちらの自由な世界にいる者とでは、発する言葉が全然違うと言うことを、私達は勉強していました。

金英男さんが出てきたときに、お母さんやお姉さんにも申し上げました。「会いに行かれるのは親心として当然ですけれども、本当にどうしても返してもらいたいと思われるのであれば、ここの膝に、貴方の膝に金英男さんを抱きしめてください。あの北朝鮮のラインから外に出して抱きしめてあげましょう。私達もヘギョンちゃんや、めぐみを取り戻したいと活動しているんです」と言うことを申し上げましたけれども、やはり韓国と日本では拉致問題についての考え方も違うので、やはりまた向こうに会いに行かれました。

そのような中で、今のような状況に動いてきているわけです。けれども本当に先ほど砂川さんのお話にもありましたとおり、もうあの頃から、大韓航空機縛は事件から、そのことさえも北朝鮮は「我が国がやったことではない」と言い続けております。

拉致は認めましたが、「7名の人は全員死亡」、後の二人は、曽我さんのお母さんを含めて「見たことも入ってきたこともない」と言い続けて、「これで拉致問題は終わりだ」と言っています。

みなさま考えてみてください。何にも悪いことをしていない大切な子供が元気いっぱい帰ってきてときに、はっと捕まえられて、あの国に監禁されて、向こうの思想を埋め込まれて、向こうのために、工作員養成のためにこき使われて、今、三十年間もあちらで助けを求めているんです。

今も何処かで「助けて!」と言っている声が聞こえています。けれども、北朝鮮はそのようなことをして、もう、気が狂うようになる、気が狂ったかもしれない。。。めぐみは鬱病になったと言われていますが、本当にそうならないのがおかしいぐらいのことです。

そのような中で、「はい、死にました」「はい、拉致問題は終わりです」と言われて、みなさまは「あ、そうですか」、「残念でした」とおっしゃるでしょうか?

こんな馬鹿なことをされて、そのようなことを言われて引くことができるでしょうか?こんな大事な問題をこのままにして、日本の国は世界に笑われるのではないでしょうか?

さきほどもお話がありましたが、アメリカならば、たったひとりの自分の国の大切な者が連れ去られたら、空母を出してでも取り返すぐらいの力を持っています。

本当に日本中が怒って、外務省が怒って、国会議員全部が怒って、小泉総理が怒って(ほしかったんです。)骨が出てきたときに、偽だったとわかったときに、「何と言うことなんだ!」と怒っていただきたかったんです。誰も怒らなかったんです。「遺憾でありました。」とおっしゃっただけでした。

ご自分のお子様がそうであっても、「遺憾でした」とおっしゃるんでしょうか?

気が狂うような思いで私達は何十年間、本当に、一生懸命皆様に助けられて、ここまで来ました。、
そして北朝鮮のいろんな事が明らかにされ、拉致だけでなく、不審船が入ってきたり、そして万景峰号というあの大きな船が、いつも新潟港に入港して、向こうの国会議員といわれる人が、行ったり来たり、堂々とできて、向こうの秘密、こちらの秘密をいろいろ持って帰って、情報をつないでいるような、「そのような船をを止めてください」と、私達は垂れ幕を持って、蓮池さんのお母さんやお父さんと一緒に、もっと前から、万景峰号の前に立って、「子供達を返してください!この船に乗せて返してください。」と何度言ってきたかわかりません。それでもどういう訳か、あの船はなかなか止めて頂くことができませんでした。

「法律がないから、できないんです」ということでしたので、若い議員の方が、一生懸命頑張って、考えに考えて、計画を立ててくださり、ようやく船を止める法律を作ってくださいました。「今ならば、すぐに止められる、だから止めてください!」と言っても、なかなかそのことが実行されないで、発動がなされませんでした。

こーんなに悲しいことが、次から次から、起きていても、どこまで我慢をしなければならないのでしょうか?もしみなさまの大切なお子様やご兄弟が、このような状態にあったら、どうなさるでしょうか?本当にこの日本の国は、どうしてしまったんだろうと思うほど、悲しい思いでいっぱいです。

私達は新潟時代に、毎日、毎日、毎日、泣いて、泣いて、泣いて、絶叫して、畳をかきむしって「もーう、死にたい、早く死にたい」「こーんな哀しいことをひっさげて人生を歩みたくない」と、どれだけ思ったかしれません。どれだけ涙を流したかわかりません。

だんだん年が言ってきましたので、涙が枯れ果てたというか、何か体中の水分が全部抜けてカラカラになったような想いの毎日なんですけれども、今ようやく、大きく国際的に、この北朝鮮に対する人権問題ということが大きく問われているようになってきましたが、(それでも)なかなか、全部の国々が心を一つにして取り組むことができなくて、残念なんですけれども。

いろんなものが突然飛んできたり、恐ろしいことを平然と「これでもか?これでもか?」と北朝鮮はやっておりますけれども、本当にこのようなことを許していて良いのでしょうか?

私は別に戦争をしたいとも、あちらに国を責めてめちゃくちゃにしたいとか、そんなことを考えてはいないのです。本当にあの北朝鮮という国が、あの指導者の方が、ちょっと心を入れ替えて、拉致をした人たちを、「大変なことをやったけれども、これは本当に申し訳なかった」と、みんな待ち望んでいる、年老いた家族の元に、戻してほしいとお願いしているだけなんです。

そしてそのことで、本当にみんなが、国家が全部が、心を合わせて、「よい交流をしましょう」と、本当に「心からの暖かい交流をしましょう」と言うことになってほしいと、いつも願っております。

このような難しい問題を、どのようにするか、これ以上政治的なことは私達はわかりませんが、アメリカが一生懸命に拉致問題に対しては「必ず最後まで、核の問題と一緒に、声を表に出してやっていきましょう」と約束をしてくださいましたし。

本当にあの時に、ブッシュさんが、めぐみの写真を持っていった息子が、あの白いブラウスのめぐみの写真を見せた時、「私の姉は、本当に朗らかな明るい姉でした。いつも、歌っていました。けれども、こんなに悲しい顔をして写されてきたんです。」と言ったときに、ブッシュさんは、悲しそうな顔をなさって「この子の体はここにないけれども、この子の心をここに一緒に置きましょう」と言ってくださって、自分の横のテーブルにこうして(写真を)立てかけてくださったんです。

そして「本当にこのことは勇気のいる、大変な仕事だけれども、忍耐もいるけれども、お母さん、がんばってね」と最後に私にしっかりと言ってくださいました。

本当に日本の国の、全部の人たち、国民、家族、被害者家族、全国民、警察の方、外務省のお一人お一人、国会議員のお一人お一人−−あれだけたくさんの国会議員の人たちが、ぎっしりとあれだけいつも座っていらっしゃるんですから、あれだけの人たちが、心を合わせて声をだせば、ものすごい大きな声になるはずなんです。怒れば、その声が向こうに届くんです。何も言わなければ、「あぁ、何も怒っていないんだな」と向こうに伝わるだけなんです。

本当に大切なことに対して怒る心を忘れてしまった日本という国が、本当に私は悲しくて仕方がありません。

でもこうして全国のたくさんの支援の方々が私達に力を貸してくださり、いろーんな方々が、いろーんな知恵を出しあってくださって、国民大集会、署名活動、カンパをお願いしたり、みなさまに助けられて、遠い外国まで(行く)費用をだす事ができて、皆様のおかげで、こうして長い時間動いてくることができたことを、本当にありがたく思っています。

けれども、この拉致問題がはっきりと解決しないと言うことは、これは、日本の国にとって大変な問題だと私は思っています。

こーんなに大切な命を奪われている国が、何にもできないということが世界に知れ渡ることは、世界は日本をどう見るのでしょうか?
命がけで、みんなが命がけで、大切な国民を、若者を、取り返そうと、心を込めて団結したときに、初めて、「あぁ、日本という国は、さすがにすごいんだな」ということが、世界に発信されるんではないかと思っているんです。

私達は本当に、小さな、小さな一庶民でしかありません。難しいことは何にもわかりません。
けれども、大事な大事な、<命の問題>、<心の問題>というのを父や母から教わってきました。昔の日本は、みんな父や母が厳しくそのことを教えてきました。本当に「悪に対してだけは、絶対に負けてはいけない。口を、言葉を出して行動で示しなさい」といつも言われてきました。そのような想いがあって、私達は何もできないんですが、一生懸命にこうして動かせていただいてきました。

そして、今一番大切な時に来ておりますので、どうか皆様方の本当の真心を私達と共に合わせてください。この拉致問題、たくさんの被害者がいます。特定失踪者は、480名に近い方が、特定失踪者調査会の方に調査を申し込んでいらっしゃいます。中でも、100名に近い方は、必ず北朝鮮に拉致をされた方だと言われています。こちらの方でも、私達は余り知らなかったのですけれども、二名か三名の方が拉致をされているんではないかと、言われています。

本当に闇の中で埋没してしまって、助けを求めている。どんなに悲しい、暗い、悲しい、人生でしょうか?、あのような無味乾燥なところで、毎晩、毎晩、お月様を見ながら、「どうして助けてくれないんですか」と叫び続けている子供達、溺れ続けている子供達。
溺れている人を見たら、誰だって、すぐに飛び込むんじゃないでしょうか?ロープを持って、投げ出してあげるんじゃないでしょうか?
もうアップアップとして、ほんとうに水がここまで来て、「早くしないと死んでしまいます!」と言っている人たちをしらんぷりをして、あちらに向いて逃げていくのでしょうか?

必ず私達は、日本人は、心を一つにして、今、この拉致問題を、少しの危険はあっても、「命がけで助けてあげましょう、みんなの大切な国民なのですから」ということができ、それが現されたときに、日本の国は、本当に、素晴らしいことに変わっていくのではないかなーと、私は思っています。

恐ろしい親殺し、子殺し、何とも言えない曖昧な、曖昧模糊とした、何を目標にして良いかわからないような、ただ、「勉強しなさい、勉強しなさい」と。何のために勉強するのかわからない。素晴らしい大学だけ出ればいい。優秀な会社に入れば、もうそれでいいというような事だけではなくて、どーんな地位にあっても、大切な魂を、しっかりと人の命を大事にしなければならない。絶対に命を奪ってはいけないと言うそういった大事なことが、真心の中にしっかりと植え付けられた子供達が、育っていくことが、どんな地位にあっても、
それが(命を大切にすると言うことが)発揮されていく大事な問題ではないかと思わせられております。

どうかみなさま、本当に私達を応援してください。

拉致被害者の、苦しんでいる人たちを、一刻も早く、この自由な日本の国の中に取り戻して、本当に自由な空気を吸わせてあげてほしいと願っております。

どうか宜しくご支援くださいますように、お願いいたします。
ありがとうございました。

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06.7.12 横田早紀江さん1 八重山集会より

「日本最南端から拉致被害者家族を応援する市民のつどい」 06.7.12 石垣市民会館大ホールにて

『横田早紀江さんの訴え その1』

石垣のみなさん、こんばんは。
今日は本当にひどい風の中をこのようにたくさん、遅い時間にお集まりいただきまして、私達の被害者、また拉致問題のためにお話を聞きに来てくださいまして本当にありがとうございます。

今日の会を開いてくださいますために砂川さんはじめブルーリボンの会のみなさま、多くの方々が、いろいろな準備をしてくださいまして、日にちをのばしてもらったり、いろんなご迷惑をおかけしましたけれど、本当にこのように沢山のかたがこの場に集まっていただきまして本当にありがたく思っております。

今日はほんとうに、素晴らしい歌を聞かせていただいて、本当に心の底から、いろーんなことが思われて、あの美しいお月様がこちらで出てきましたときは、本当にお月様をいつもみながら私達も泣いておりまして、何年も何年も、めぐみのことを思いながら、「あの子もこのお月様見てるのかなー?どこにいるのかなー?」「ただもう生きていてほしいなー」、と言う思いで、何度、庭に出ては泣いたかわからないのですが、やはり曾我さん、蓮池さんたち、お帰りになった方もおっしゃっていましたけれども、「本当に何度もお月様をみながら毎日誰かが助けに来てくれるんじゃないかと待っていたんです」ということをおっしゃっていました。

蓮池さんご夫妻は、「待っても、待っても日本から誰も助けに来てくれなかった。三年間一生懸命我慢して助けに来てくれると思い続けていたのに、誰も来てくれなかったので、私達は諦めるしかないんだと、北朝鮮人として生きていくしかないんだと、思って、そして諦めてそのような生活を180度思いを変えて、過ごしてきたんです。」とおっしゃていました。

曾我ひとみさんは、「最後まであきらめないで、必ず日本に帰れると思って、思って、思ってきたんです」とおっしゃっていました。

みんなそれぞれ、どんな本当に悲しみの中に、理不尽な、な〜にも悪いことをしていない、こんなに平和な日本の国の町々から、海岸から、いろんなところから、あっという間に袋を被せられて、あっという間に、船の乗せられて、暗い夜に船に乗せられて、ボートに乗せられて、そして工作艇に乗りかえさせられて、そして大きな母船まで運ばれて、北朝鮮に運ばれていったということを、みんな同じ事をお話しされていることを聞くたびに、本当に本当に恐ろしいことが、この日本の国の中で(起こっていたのだと思うのです。)

私達は何にもわからないで、平和な国になって、戦争を放棄して、「良かった、良かった」と物質にも恵まれ、自由に発言でき、なんでもおいしいものを頂き、なんでも好きなものを着られ、本当に自由に、素晴らしい人生になったと喜んでいたのに、その大切な平和の中で、(そう)思っていた大切な平和の中で、これだけの多くの日本の若者たちが、皆様のお子様と同じように本当に、お母さんのお腹の中に神様がくださった、大切な大切な小さな命が芽生えて、そしてそれが、本当に一生懸命喜びの中で大きくなって、10ヶ月たってようやく生まれてきて、「あー良かった」と、一生懸命に育てて、「あー、三歳になった」、「一年生になった」、「10歳になった」、「あー、13歳になった」、「二十歳になった」と、みんなが喜んで親は、喜んでいる最中に、また子供達はそれぞれに大きな夢を持って「この日本の国でこれからどんなことをしようかな」「どんなお役に立つような人間になろうかな」とか、いろいろに純真な思いで育っていただけの、ただそれだけの平和な子供達が、いったい何の罪があるのでしょうか?

私は、この事件が二十年間わからないで、新潟のあの海岸を泣きながら何度も探し回りました。
「めぐみちゃん、どこに行ったの?どうしたの?どこにいるの?」
まさか、あの土の中に埋められたんではないだろうか、まさか、あの海に放り投げられて、お魚に食べられてしまったのだろうかとか、もう本当に、黒い雲のように恐ろしいことが頭の中を駆けめぐって、気が狂うような、新潟時代を過ごしてきました。

一体この子はあんなに元気で歌っていたのに、あんなに家の中で大きな声で笑って、みんなを笑わせていたのに、ぱっとあの学校の帰りに、家のすぐそばの曲がり角のところで消えてしまって、まるで煙のように、パット消えて、何にもわからない、何十年探しても。

新潟県警がもう、かつてないような、大捜索で、あらゆるところを探し回ってくださっても、何一つわからない。こんな不思議なことが何故あるんだろうと思い続けてきました。お友達と三人で帰ってきましたその角のところで、捜査をする犬がきまして、ここでにおいが消えていました。「きっとめぐみさんはここまで歩いてきたにちがいありません」と言われていました。

その角のところで、いつもいつも、普通に帰ってくる角、もうすぐのところが家なんですが、どうしてこんなにわからないんだろうと、ここで何があったんだろうと、いつも思っていました。そして煙のように消えたことが不思議で不思議で、一体どういう事なんだろうと考えていましたが、曾我ひとみさんが帰国をなさって、(曾我ひとみさんはめぐみが連れて行かれて一年ぐらい後に北朝鮮に連れて行かれたんですが)その時にすぐに早いうちに、めぐみがひとりで住んでいる招待所と言うところにひとみさんが、連れて行かれて「今日からあなたはこの子と一緒にここで勉強することになりましたから、この子と暮らしなさい」と連れてこられたそうです。

初めて、自分とほとんど年が同じ年頃の(四つ五つは違うんですが)女の子同士があったわけで(す。)めぐみは本当に不審船(工作船)の船底にに閉じこめられて、「お母さん、助けて! お母さん、助けて!」と絶叫しながらあの暗い日本海を、40時間もかけて、もう泣き叫んで、疲れ果てて、どーんな怖い思いで連れて行かれたかわかりませんが、そのようなことを聞きます時に、本当に恐ろしかったと思います。悲しかったと思います。何故自分がこんなところにいるのかもわからないで、気が狂うような毎日だったと思います。

たったひとりで招待所で朝鮮語や物理や、数学や、いろんなものを、朝鮮史とか朝鮮語とか教えられていたと思いますが、そこにひょっこりと曽我さんが現れたことで、どんなに嬉しかったことでしょう。
あー私と同じようなお友達がきた と思ったと思うんです。それで「<こんにちは>と優しく声をかけてくれたんですよ」 とひとみさんは言ってました。そしてこれから一緒にここに住むようになったということで「よかったね」ということで名前を言い合って、そしてお茶を飲んだりしながら。

「夜寝るときに、お布団を敷いているときに、めぐみちゃんが聞いたんですよ」(ケガをしていたのかどうか知りませんが)ひとみさんの足を見て、めぐみが「<ひとみさん、その足どうしたの>、と聞いてくれたんですよ、こんなに優しく聞いてくれたのは、もう本当に初めてだったので、もう嬉しくて思わず私は本当のことを言いました。私は佐渡に住んでいて、そして佐渡で、お母さんと一緒に、夜、お買い物に出たときに突然後ろから3〜4人の男の人に追いかけてこられて、あっという間に植え込みに連れ込まれて、そしてぐるぐる巻にされて、猿ぐつわをはめられて、あっという間に袋を被せられて、船に乗せられて連れてこられたんです」と言ったらしいんです。

「けれども私のお母さんは一緒に来たのに、そのお母さんはここにいないのよ。どこに行ったのかわからないのよ。」とめぐみに話してくださったそうです。そうしたらめぐみも「あーそうだったの。私も、実はバトミントンの練習の帰りに、お友達三人と一緒に帰ってきたときに、角のところまで歩いてきたときに男性に捕まえられて北朝鮮に連れてこられたんですよ、と言ってくれました。」と初めて話してくださいました。

「あーそれで、あの角で消えたのは、そういうことだったのか」とわかりました。
そして、本当に、北朝鮮に連れて行かれたことが現実だとはわかっていましたけれども、いろいろと細々と知らないことが次から次からと出てくるようになりました。

私達は、一人ではめぐみを捜し出すことはできませんので、家族会のたくさんの方達と、有本恵子さんや、この方は先ほど砂川先生がお話なさったように、ヨーロッパ経由であちらの方に騙されて連れて行かれたんですけれども、海岸から連れて行かれた蓮池さんや地村さん、そして曽我さん、そして富山から連れて行かれそうになって、ぐるぐる巻きにされて、もう連れて行かれそうになって海岸に置いておかれた時に、犬がワン!ワーン!と吠えてきたので連れて行こうとしていた人たちは、ぱーっと逃げて、そして、もうおばQのようにくるまれたたままでその男の人は転がるようにそのままで民家まで転がって、助けを求めて、助けていただいた。それは未遂事件ですけれども、その方は、全然表には出ませんが、そういうことは確かにあるんです。

そう言うことが、次から次からと、こんなに平和な日本の国で行われ続けてきたと言うことが、今わかりました。そして私達は、あまりにも北朝鮮という恐ろしい国のことを知らなすぎました。私達も全然知りませんでした。朝鮮と言っても本当にそんなことまでする国とは思っておりませんでした。だけれども、今の指導者の国家犯罪としての指令のために「拉致をしてきなさい」ということで、たくさんの人を連れて行ったんです。そしてそれは私達の日本だけではなく、ジェンキンスさんがお帰りになって「告白」と言う本を書かれてっそしてその本の中で、レバノンやその他の国(タイ・シンガポール・マカオ・香港・イタリアなど)全部で12カ国から若い人たちが拉致をされ、そして親はみんな悲しんで待っているわけです。そのようなことがだんだんと明らかにされてきました。

私達は今年の3月に一度(那覇に)伺いましたけれども、今日、二度目の沖縄ですが、全国を回って、もう10年になります。全国をこうして訴えてきまして、全国みんな、ほとんどの県がよくわかってくださり、そして救う会もたくさんの会ができました。私達はそのことだけでなくアメリカにも二度行きました。向こうのアーミテージさんはじめ多くの高官の方々、上院議員、下院議員の方に拉致問題を訴え、スイスのジュネーブのほうまで行き、国連の(国連人権委員会)にまで行って、訴え、本当に一生懸命に助けを求めてきましたけれども、日本の政治、日本の動きというのは非常に私達にとっては冷たいものでありました。本当にどうしてこんなに本気になって動いてくださらないんだろうと、みーんな家族のものは悲しくて仕方がありませんでした。

けれども、このたび、初めてアメリカの議会の公聴会に出させていただき、拉致被害者の家族として証言をさせていただく機会を与えられました。本当に普通の主婦でしかない私など、そんなところにとっても出られるものではないのですが、もうただ一心で、この問題を一生懸命話させていただき、まさかお会いできると思わなかったブッシュさんにお会いさせていただき、非常に緊張してカチカチになっていたのですけれども、ブッシュ大統領は非常に明るい方で、「こんな大切な人権の、命と自由と言うことについては、私はどんな時間でも割いて話しをすることができる」と言う形ではっきりとおっしゃっていただき、「このお母さんは、もう何にもいらないんだ、だた娘を返してほしいだけなんだ。娘を抱きしめてやりたいだけなんです。」ということもはっきりとおっしゃってくださいました。「北朝鮮が世界に尊敬される国になりたいのならば、拉致をした人を、すべて返すべきだ」ということまで、はっきりとおっしゃってくださいました。

・・・その2に続く・・・

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このエントリーのテキストはblue-jewelさんの手によるものです。
posted by ぴろん at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 集会テキスト(八重山集会) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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