2005年05月12日

市川修一さんを救うぞ1東京集会(8)05.3.10 友愛会館にて

『増元照明事務局次長のお話』

今詳しく話されたのでほとんど補足することはないんですけれども。
「人権教育啓発に関する基本計画」
これに対して最初(福田官房長官が)官僚的な答弁をされたので森さんが
「官僚的な答弁は聞きたくないんです。長官自らの意思で自らの言葉で言って欲しい」
と言ったら、最後には踏み込んだ表現をされて「入れるべきだと思う」と。
「個人としては思う」とその程度のことはおっしゃってました。

あとはだいたい飯塚さんがおっしゃった通りなんですけども、とにかく傍聴席って言うのは絶対に声を上げちゃいけない、手を叩いちゃいけない。
皆さんの思うように私も野次を入れたかったんですが、それをやると2度とは入れないので。
何回もそういうところへ行って圧力をかけなきゃいけないと思ってますので、ルールは守ってきました。
また機会があれば、そういう情報があれば、時間があれば行きたいと私は思っています。

今日の申し入れなんですけども、最初「内閣総理大臣」って言ってる。
最初の救う会の全国協議会の幹事会の中では「小泉内閣に対する、小泉内閣に決断を求める」そういう内容だったんですけども。
今小泉内閣ではないだろうと。
小泉総理だろうと、言う幹事会の中でも皆さんの強い意見がありまして。
最初の「小泉内閣」と言うところを「小泉総理」と変えました。
それほど皆さんが今の小泉総理の決断を促す方向でないと、この拉致問題の経済制裁の発動もそうですけども、全て動く方向に行かないだろうと。
今閉塞感を持っておりますので。
小泉総理一点で絞ろうと言うことで、やりたいと思っております。

ぜひメールでもそしてはがきでも、皆さん小泉総理に送ってください。
国民の怒りを“小泉総理に分かるように”これから発揮していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。


市川修一さんを救うぞ!東京集会(7)05.3.10 友愛会館にて

『飯塚繁雄家族会副代表のお話』

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皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
いつもながら大変ご熱心な、集会に来ていただきましてありがとうございます。

今日たまたまですけども、参議院の内閣委員会が開かれまして、私と増元さんで傍聴に行きました。
質問はですね、民主党の森ゆうこさんですね。
この方がハッキリと質問しておりました。
本当に偶然と言うか、もちろん察しておるんですけども、今日たまたま私たちが申し入れた内容、全くそのとおり質問を強く行ってました。

ひとつは人権教育問題。
これをきちっと基本計画に入れなさいという話。
これについては官房長官がですね。
官僚的な回答で「盛り込むように検討します」と、言うことしか言っておりません。
これは今かなり論議が高まってますので、かなり突っ込んだ論議がされると思います。

我々がいつも発信してる「拉致問題解決のためには経済制裁しかない」と。
こういう意見をですね、ハッキリといいまして。
「いわゆるこの問題の一番大きな有効なカードとして今持ってるわけですけども、このカードを無効にするんですか?」と、言うような強い話し方で話しておりました。
「経済制裁ということは世論も支持しているし、いろんな国会議員・その他も支持してる。こういう中で官邸としてはどうするんですか?」と。
「やるんですか?やらないんですか?」と言うような強い質問を行ったわけですけども。

これについても官房長官はハッキリと明言はしておりません。
結論から言いますと、「北の対応は確かに不誠実なものだ、それは我々も感じている」と。
「しかしながらやっぱり対話が出来る状態にしておかなければならない」(薄笑いの声)
「そのようにこれからも努力する」
「多少の忍耐は必要である」(会場内、あきれたようなどよめき)
そんな言葉ばかり出るのかと思うと我々もがっかりするんですけども。
当の質問した森ゆうこさんも私たちに謝ってました。
「こんな回答しか出せなかった、今日は。申し訳ない」と言ってましたけど。

結局いろんな状況を判断して、例えばアメリカのパウエルさんベーカーさん、この辺の話がですね、ありましたけれども。
「必ずしも一国だけで制裁しても効果はないだろう」と言うような話をしてましてね。
で、我々としてはそうではないんですね。
もちろんも森さんも言ってましたけども。
日本が率先して怒ってる、経済制裁という有効なカードを切って、ハッキリとした強いメッセージを送らなければいけないと。
そうしなければ外国諸国もついてこないと、こういう考え方からハッキリ追求しておりました。

日本も今まで3回くらい制裁をしたという話も聞きましたけども。
ラングーンの事件、大韓航空機、それからテポドンが太平洋に落っこった。
このときにしたようなんですけども
その結果は私たちはっきり聞いてませんが、そういった経験はあるわけです
従って「この経済制裁を何とでもすべきだ」と、あくまでも強い態度で迫っておりましたし。
「拉致被害者の家族の人たちに座り込みまでさせるんですか?」と言うようなことも言っておりましたね。
ですから例えば24日に集会をやりますけども、その前にきちっとした態度を出しなさい、と言うことだったと思います。

それからですね、特定失踪者の問題につきましても。
何人かがすでに認定されてもいいと、いうような状況の人がおります。
これについては即認定せよという話もしたんですけども。
やっぱりここはですね、逃げました。
官房長官曰く、「証拠がない」(あきれたどよめきの声)
「証拠がない以上認定できない」と。
まあ「だけれども、これから鋭意一件一件調査します」(あきれたどよめき、野次の声)
同じ議員の中でそういう野次も出ましたけども、「もっと突っ込め〜!」とかね
非常にそういう意味ではこの委員会この拉致については盛り上がっていましたし。
たまたま私と増元さんが入って来た時にすぐ察知して、「今日は家族会の飯塚さんと増元さんも来ております」と。
言うようなハッキリといいまして、その場の雰囲気も高めておりましたけども。

大体そういう内容なんですが。
いずれにしてもいろんな方面から経済制裁につきましては実行可能な場面になってきてるわけです。
ただ一人我が総理がですね、なかなか首を縦に振らないのが非常に残念ですけども。
これからは集会のテーマにあるように小泉さん自身に迫って行くと。
言うような形をとらざるを得ないと思っております。
補足については増元さんの方からお話があると思いますが、以上です。
どうもありがとうございました。(拍手)

2005年05月11日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(6)05.3.10 友愛会館にて

『横田早紀江さんのお話』

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こんばんは。(拍手)
いつもご支援ありがとうございます
特になにかお話と言われてもあれなんですが、今日は市川さんのお話をお聞きしまして。
特にお母様の着物の話を聞きまして。
本当にもうどんな思いでその着物を抱きしめていらしただろうなぁと、涙があふれてなりませんでした。

私もやはりそのような時代の者ですから、もう母はおりませんけれども。
今日見せてくださいましたような着物を、就職しました時とか、そのつどやはり母に反物を買ってプレゼントしたことを思い出しながら。
本当に親子の思いというのは、どこでも同じなんだなぁという思いで聞かせていただきました。
本当に早くお母様が元気な間にその思い出の着物をね、着て。
そして修一さんが「あぁ僕の贈った着物を、お母さん忘れないで着てくれたんだ」と思って。
タラップの上から降りてきてお母さんと抱き合われる日が本当に早く。

こんなに長いこと待たされることは許せないことなんです。
考えてみてもね。
いつまでも、いつまでも、いつまでも家族がね。
こんな風に全国駆け巡って皆さんにお話しすることも大事なんですけど。
「もういいですよ」と。
「私たちが責任ですから」
「国を負う者がやるんですから」って、本当に言っていただきたいと思うんです。
政府の方には率先して、何も言わなくても一生懸命に本気で取り返す算段をやっていただきたいと思っています。

私たちはまだまだ元気でがんばれますので一生懸命にまたお話させていただきますけども。
本当にどうか皆様方の目を政府に向けて。
間違った外交をしていないか、どんな思いをしてやっているのかと言うことをしっかりと見ていただいて。
また誉めていただいて、見守っていただきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(5)05.3.10 友愛会館にて

『横田滋家族会代表のお話』

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こんばんは。
横田でございます。(「こんばんは」の声 拍手)
今日は皆さんのところに資料としてふたつ。
総理大臣のところに申し入れをしました。
全会の運動方針に基づく要請と、「人権教育・啓発における日本人拉致問題への積極的関与について」これを今日は救う会の平田さん西岡さん、それと家族会の代表4人が行ってまいりました。
これは小泉総理大臣に対する要請を内閣府の家族支援室の大熊室長に提出して。
それを総理大臣の方に提出していただくことになったわけで。

特にそこで大熊室長に「ハイ分かりました、こうやります」と回答が出るような問題ではありませんが、「皆さんの気持ちはきちんと伝えます」とおっしゃってくださいました。
先般、家族会・救う会それから拉致議連の合同の協議会を開きまして、当面の運動方針を決めたわけです。
例えば4月24日に国民大集会を開くって事は、小泉総理を申し入れることではありませんので、その他の事について申し入れを行いました。

もうひとつが人権問題というのは政府が平成14年に「人権教育啓発に関する基本計画」っていうんで閣議了承したのがありますが。
外国人に対するいろんな差別をしてはいけない、同和教育であるとかいろんな問題が出ておりますが、拉致問題についてはそれが出てません。
14年の段階では当然国会で取り上げられた後ですので、まだ金正日が拉致を認めた段階ではありませんけども。
それこそどんな国内にあります人権侵害といったようなことが並べられてるわけですが。
拉致の問題については何も述べられてませんので、それを入れて欲しいと言うことをお願いしました。

そうしますと学校教育とか、各地の教育委員会が講演会を開く時でも拉致についても加えて欲しいって事を申し入れることが出来ますので。
これが入りますと、学校教育なんかでも拉致問題が広く取り入れられることになると思います。
そしてこの後、増元さんからお話があると思いますが。
今日の参議院の内閣の委員会でこのことについて質問があったときに、官房長官が一般的には曖昧な答えが多かったらしいんですけど、このことについては前向きな答弁をなさったようです。

また最近では家族会・救う会で鳥取県の境港で集会を開きました。
保険をかけてない100トン以上の船は入港できなくなるのが3月1日からでしたが、その直前の27日に境港に行きました。
こちらは人口が2万5千くらいの小さな町で、その中で水産加工業なんかに携わっている方が1100人くらいですから相当影響が大きいわけです。
これはあくまでも経済制裁ではなくて、そうした船が日立でチルソン号が座礁したようなかたちで事故を起こした場合の保障を求めると言うことが、本当に誰でも保険をかけてない船を入れないということで。
経済制裁ではありませんけども。

実際には北朝鮮が2・5%くらいしか加入してませんで、実質的には経済制裁に近い形になりますが。
地元の方にはやはり迷惑な話って言いますか、生活に関わってくるわけです。
しかしそういうところであるにも関わらず市長をはじめたくさんの方が拉致を解決するためには我慢をしなければならないと言う形で支持をしてくださって、我々としましても非常にありがたいことだと思いますし。
直接関係ないところではなおさら強く支持していただけるのではないか?と心強く感じております。
最近の動きをご報告申し上げました。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(4)05.3.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

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最初は79年の4月20日に結婚して、そして9月4日に海水浴で死んだと言ってたわけです。
市川さんについて言うとですね。
ところが昨年の11月に79年の7月20に結婚して9月4日に死んだと今は言っているわけなんです。
しかし、結婚相手のるみ子さんと祐木子さんは79年の10月まで一緒にいたと言っている。
結婚できないんですよね。(笑い声)
しかし自筆のサインがついてる結婚申請書があるんですよね。
自分でサインしたことになってるわけなんですね、二人がね。
それは全部デタラメだということ、なんですよね。

で、少しおかしいといわれたんで直してきたけども、やっぱりるみ子さんだけを直すわけにはいかなくて、市川さんのを隠してた・・・困ったんでしょうね、やっぱりね。
10月まで、10月の後半に結婚したとすると、11月に海水浴に行かなきゃいけない。(笑い声)
それにいくらなんでも気付かなかったのか?
ちょっと困るということになっちゃったんですね。

実は今日ですね、安明進さんが来ることになってたんですけども、ソウルでちょっと用事が出来て今日までにこちらに来れないと昨日電話がかかってきました。
残念なんですが。
実は彼から安さんからですね、市川さんについて詳しく聞き取りを私しておりまして。
それを本当はここで彼に話してもらおうと思っていたんですけど。
まずそのお話、報告からさせていただきたいと思います。

安さんは、ご承知のとおり1987年の3月に金正日政治軍事大学に入ったんですね。
その年の11月に大韓機爆発事件が起きて。
そして学校の中で金賢姫は我々の先輩だという噂が出て。
日本人に化けてたらしいと。
拉致された日本人が先生らしいという噂が駆け巡って、日本人に対する関心が高まるわけなんですね。

一方88年(87年の言い間違い?)の3月、安さんが入学した時にですね。
安さんよりも先輩の工作員たち。
特に、安さんは25期生なんですけども、11期生。
清津連絡所で実際に拉致をやっていた先輩の工作員たちが、「再教育を受けろ」という命令があって政治軍事大学に再入学するわけです。
昔は教育期間が2年ぐらいだったんですね。
安さんは6年コースなんです。

政治軍事大学もだんだんコースが長くなってきて、金正日は工作員教育を重視してたんですね。
現役の工作員だけれども教育期間が足りない、2年しか受けてないから。
もう一度学校に戻って再教育をしろ、と言われて。
それが実はめぐみさんを拉致したチョンという教官が、その再教育組だったわけです。

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2005年05月10日

市川修一さんを救うぞ!東京集会(3)05.3.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
今日せっかく増元さんに来ていただきましたので、この前ここでも話していただいたんですが。
祐木子さんから聞いている結婚の日付のことついてですね。
市川さんが79年の9月に死んだというのは明確に間違っているという情報がありますので。
そのことについて増元さんからちょっとお話をしてもらいたいと思います。

(増元氏壇上に上がる)

『増元照明家族会事務局次長のお話』

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こんばんは。(「こんばんは」の声)
あの〜、結婚の日付けなんですけれど。
あれは第3回実務者協議が(平壌へ)行く・・・政府関係者、支援室・外務省が行く直前ですね。
家族会の皆さんが集まるときに、支援室の方から「こういう話があるですが、ご存知でしたか?」と言うことを言われました。

すなわち、祐木子さんが増元るみ子さんと一緒に暮らしていたのは79年の10月までなんです。
「そういう話をお聞きになっていますか?」と言うから、「それは知りませんでした」というふうに私は申し上げました。
私たちが祐木子さんに最初に会ったときはそのような事はおっしゃっていませんでした。
ただ「るみちゃんとは一緒にいました」
そして「るみちゃんは非常に朝鮮語の歌を覚えるのが早くて、裏山でよく泣いていました」ということを私は聞きました。
それが2002年の12月です。

2003年の5月に姉(=長姉・平野フミ子さん)が今度祐木子さんと会って、姉(=次姉・るみ子さん)はどうやって南浦に入ったか、南浦に着いた時に姉(=るみ子さん)がどういう状態だったか、そして北朝鮮での暮らしを聞いてたようですが。
姉(=フミ子さん)も「いつまで一緒に暮らしていたか?」と言うのは聞いてなかったようでしたので、本当にびっくりしまして。
「そういう話は知りませんでした」というふうに申し上げました。

第3回実務者協議で「北朝鮮サイドがもし結婚の日付を変えてこなかったら、この祐木子さんの証言をぶつけていいですか?」と言うから、「もちろん、どんどんどんどんぶつけてください」と申し上げたんですが。
家族の一応了解を得ないと使えないということを言っておられましたけど。
私は家族の了解というよりも、救出するために必要な日付であればどんどん使ってもらいたいという気持ちでおりましたので、そうやって申し上げたんですが。

その(日本側からるみ子さんと祐木子さんが)10月まで一緒にいたというのを聞いて、実務者協議の(北朝鮮側の)回答が4月20日というふうに最初言っていた結婚の日取りを7月20日に変えてきた。
でも10月まで一緒に暮らしていたというのになんで7月に変えてきたんだろう?と。
全然意味が分からないわけです。
どうして分かるような嘘を。
わざわざ4月20日の結婚日を7月20日といって、間違えて記述しましたとわざわざ言ってきたわけですよね?
意味が無いじゃないですか?

私たちにとってはいつ結婚したか分からないし、確定付けることも出来ないのに。
わざわざ7月20日と言って来た。
こちらサイドでは(るみ子さんと祐木子さんが)10月までは一緒だったから当然結婚してないという。
それまでは結婚してないという情報ですから。
全然意味が分からなかったんですけど。

こちらでよく考えてみるとこれしかないなと思ってるんです。
だいたい2002年9月17日以前、とにかく「8人死亡5人生存2人未入境」という、この方法で日本政府と決着をつけますというふうに金正日の許しを請うた。
で金正日は「それでいいですよ」という風に言って。
その今状況をずっと続けているわけですけども。

市川さんは9月4日に亡くなったといってる。
しかもその時には結婚してた、といってますので。
つまりそれ以前に結婚させておかなゃきゃまずい訳ですね。
10月以降に結婚しているというと、(北朝鮮が出してきた証言を)ガラッと変えなきゃいけない。
(西岡氏の声「海水浴を11月にしなくちゃいけない」)
向こうの証言、言ったことをガラッと変えなきゃいけないので。

横田めぐみちゃんについてはガラッと変えるだけの、多分金正日は許可をするんでしょうけども。
その他、田口八重子さんにしても私の姉にしても市川修一さんにしても、多分有本恵子さんにしても、いちいちそれを変えるっていう、今その一点集中は横田家ですから。
あの当時もそうでしょうけども。

ですから瑣末なことでいちいちまた金正日に「こうやってこうします」ということは出来なかったんでしょう。
ですからあのまま通さなきゃいけない。
9月4日に市川さんは死んだことにしなければいけない。
その前に結婚してたことにしなければいけないから。
祐木子さんが10月まで一緒に暮らしていたのは、当然北朝鮮は記録が残っているから知ってるでしょうけれども。
あえて7月20日に結婚した、ということにしたんじゃないか?と言う風に理解しています。(拍手)

市川修一さんを救うぞ!東京集会(2)05.3.10 友愛会館にて

『市川龍子さんのお話』

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皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。

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また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。

今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)

また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

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市川修一さんを救うぞ!東京集会(1)05.3.10 友愛会館にて

『市川健一さんのお話』

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皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの〜、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」
と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4〜5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの〜学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

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2005年05月09日

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(6)05.2.10 友愛会館にて

『もう一度、有本明弘さんのお話』

私はこの運動長年してきて、結局アメリカと北朝鮮とものすごい緊張感が高まる。
出来るだけ早い時期がええと、そういうような観点でおりましたので、いよいよそういう(時期に)近づいてきたなと思っております。
私の見方は、アメリカの大統領としたら、朝鮮戦争が終わって50年になるんですね?
今度戦わずして韓国がツルル〜〜〜っと北朝鮮に取り込まれてしまった。
これアメリカとしたらどういうふうな気持ちか?
「許さん! 」と、これしかないでしょ?
あれだけの軍事大国が戦わずしてツルル〜〜〜っと飲み込まれよった。
日本の状況もアメリカ皆知っとるよ?
ツルツルツルっと日本もやられてしまうとこまで、アメリカ見とんのよ、これ。

そういうなかで今国民は経済制裁賛成と、ここまで日本の国は変わってきた。
だからアメリカはあの国を、とにかく北朝鮮の金正日を許さんと。
僕はそういうような観点でずっと運動をやってきたから、いよいよ最終的な面に近づいてきたなと。
最終的な面に近づいてきた時点では、向こうは必ず日本の国に脅しをかけてくると。
そういう見方もしとった。
だから脅しをかけて来たら、向こう寄りの人がいっぺんおるの、目に見えきれんけれどね。
これらの人がまた、そういう軟弱な言い方をすると。
それをささんためにも、未来の人がしっかりしてくれたら。
日本の国が一体となって北朝鮮に厳しく迫れる。
そのためにはトップが動いて、今も言ったようにアメリカの核とミサイル、これに拉致もセットして共同で向こうに厳しく迫っていく。
こういう体制を出来るだけ早い時期に構築しておかなければならない。

そうすることはどうすることか?
やはり小泉さんに退いてもらって、テレビタックルでやっておったでしょ?
次の総理大臣は誰か?
安倍さんが圧倒的に多かったのよ。(拍手)
西村眞悟は、「平沼さんや」と。
これしかないんです。(拍手)
これがなぜか?分かりますか?

安倍さんはこのおかしな自民党、これを説得する側に立たなければならない。
そして朝鮮半島が傾いた時点でその公式によって、(総理に)なる。(くすくす笑い)
だから今は平沼さんをやったら、これ野党挙党体制が出来るのよ?(くすくす笑い)
これしかないんですよ?
日本の国、政治家ひとつになる。
もう国民はひとつになってるのやからね。
やれと。
こういう体制を早急に構築せねばならない。

だから、小泉さん辞めてもらうしかないのよ。(拍手 「その通り!」の声)
小泉さんが任期までおって国民の大半がね、自民党をぶっ壊す言うた人に物凄い声援を送ってるのよ。
国民はみなそんな考えをもっとるのよ。
自民党も、と言うことは支持ないのよ。
だから国民の信頼を得る、こういう人というのは、やはりこの「制裁せい」と言う人の期待に応える。
こういう体制を自民党が作らねばならない。
これしかないのよ自民党は。
政権の座に着こうと思えば。
だからそれだったら小泉さん、任期までやらさしたらいかんのよ。(拍手)
すぐに辞めてもらう。
その平沼さん、挙党体制を作って、朝鮮半島が片付くまではこれでいくんだと。
これみんな国民賛成してくれるよ?(拍手)
それしかないのよ。

わしら自民党一本でおる。
え〜〜と、中二階いうとったけどな。
4階5階の連中、これみんな朝鮮総連にやられてもうとる。
だからこの状況が生まれて来とる。
なぜか?
朝鮮総連を、一言で「困ってるんやから助けたる」と、1兆何千億もの税金を注ぎ込んでしもた。
それと朝鮮総連を手入れする。
これ情報が漏れてもうて、行ったらダンボールに2〜3杯にしか資料がなかった。
これで終わってるのよ?
そんなおかしいことないですよ?

朝鮮総連のトップ引っ張ってきて、「どこに隠したんや?」と、泥を吐かせる。
これしかないのよ?
何もやってないのよ?
やろうとしたのか、やらされなかったか。
とにかく我々の眼から見たら、とんでもない話でぶん殴ってやりたい。
そういう思いでわしらは朝鮮総連の問題に関しては見とる。
そういうような・・・
(「はい、ありがとうございました」の司会者の声。西岡氏時計を指して「時間です」の合図)
(会場内、拍手と笑い)

8時55分に集会終了

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(5)05.2.10 友愛会館にて

『増元照明事務局次長のお話』

こんばんは。
家族会の増元です。
さっき電話があったのは日経の新聞社が
「なぜ今この時期に北朝鮮がこの時期、『6者協議に出ない・核を保有している』というふうに言ったと思いますか?」って言われまして。
やはりよく考えると日本国内で経済制裁に関する要求が高まってきてると。
実際今年になって万景まだ入ってきてませんから。
これは改正油濁損賠法というのがありまして、これを1月から施行しているのが新潟なんですけど。
今、中国の保険会社の方に要請しているらしくて、4月の10日くらいには入ってくるんではないか?と先ほど言われておりました。

でも実際万景がここまで入ってきてない。
2月の16日は金正日の誕生日なんですが、それにメロン持って行ってない(笑い声)
やっぱり直接金正日が「なぜなんだ?」ということを気付いた。
で、「脅せばどうにかなるんではないか?」とまだ瀬戸際外交やってるではないか?と思いますけど。
6者協議に出ない理由として、「日本がこういう敵視政権やってるから出ないんだ」と、中国とアメリカに言うとする。
中国とアメリカはじゃあ、「日本はもうちょっと拉致問題出すなよ」と言う可能性が出てくる。
そのとき日本はじゃあどうするのか?

それを考えていかなければならないと思うし。
先ほど西岡さんがおっしゃったように、日本の立場を明確にこの時期にやっておかなければならない。
拉致問題の6者協議で拉致問題出しますよ?当然。
この拉致問題が解決しなければ経済制裁はありますよ?と。
ということを明確にアメリカにも、中国にも、言っていかなければならない。
中国が、本気で「あっ日本も本気なんだ」と初めてそう思ったら中国は北朝鮮に圧力をかけざるを得ない。
中国は今宗主国でもありますし、議長国ですから。
6者協議でまとめたいというふうに思ってる。

アメリカも一応あんまり北朝鮮に興味ないとしてるんですが、ただ核を持たせるのだけは駄目だと思ってるわけですから。
金正日政権の案件を 6者協議に出して一応まとめる姿勢だけは見せなきゃいけない。
これが崩れたら安保理だと考えているはずですから。
だからどっちにしても出させなければならない。
でも日本が毅然としてやってたら両方の大国が北朝鮮に対して動かざるを得ないということになってる。

ここで日本政府がどうするんだ?と。
「6者協議に出ない・核を持ってる」
この報を受けて日本政府がどういう対応をするか?
私は多分小泉さんがまた弱気になるんだと思いますが。(笑い)
国民の皆さんがどうするか?ということです。
こんなことを言って、じゃあ拉致問題を棚上げするようなそういう機運があるとすると、私たちはやっぱり声を上げていって頂くしかない。
国民がこの国の政策を変えていかなければならない。
小泉さんの弱気を変えていかなければならない。
小泉さんが日本を売ったとすると、辞めてもらうしかない(拍手)

日本の中の経済制裁の機運、さほど変わってないから向こうも困ってるんです。
それがああいう無謀な瀬戸際政策の発言になってるんではないか?と言う私の感想です。
そこではわれわれは絶対に屈してはいけないし。
あんなのに屈したらどこまで付け込まれるか分かりませんからね。
ここは日本として毅然としてやっていただきたいと思っています。
よろしく願いします。(拍手)

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(4)05.2.10 友愛会館にて

『飯塚繁雄副代表のお話』

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皆さん遅くまで大変ご苦労様です。
いろいろ動きが激しくなってくる中で、我々いろいろ考えが及ばないところもあるんですけども。
いろいろ解説を聞きまして、北が6カ国の協議に出ないと。
これは日本のせいだと、いう雰囲気が私には感じられます。
と言う事は逆に拉致の問題ってのはものすごく向こうは注目って言うか、注視している。
そういう表れではないかな?と
という事は逆に西岡さんが言ったように、今が北にハッキリした態度を示すいいチャンスではないか?と。
いう風に考えます。

我々は口を軽くして、経済制裁・経済制裁って言ってますけども、これは本当に家族の人たちからすればいろんなリスクを当然考えるわけですね?
もしかしたら解決の糸口が切れてしまうんじゃないか?
さらに言えば殺されてしまうんではないか?とか。
そういった思いを込めながら、しかしこれをやらなければいつまで経っても解決しないと。
いう固い決意でですね、北に対する強い態度をぜひ、ということで、一昨日も官邸の方に500万の署名を持って行きながらお願いしてきました。
まぁ、官房長官しか会えなかったんですけど。
「皆さんの気持ちを汲んで頑張ります」とは言ってくれましたけどね。

私も昨日曽我ひとみさんのお父さんの告別式に行って参りました。
寒い雪のある葬儀場だったんですけども。
一貫してひとみさんはまっすぐ顔を上げられなく、目を真っ赤にしてですね。
こんな事件がなければもちろんこんなお葬式もなかったろうと、いうような気持ちで。
お母さんに、ぜひお父さんを会わせてあげたかったという思いがまだまだ強く残っていると。
悲しみの中にいると、いう感じでした。
幸いにももちろんひとみさん本人、それから子供たちも帰ってきて、一時会って生活が出来ましたけども。

やっぱりそういうことを考えますとですね、待ってる家族。
もちろん向こうに連れて行かれた被害者が一番大変ですけども、それを救出する、あるいは救出活動する待ってる家族の方がですね。
そしてどんどん年をとって行きます。
我々もそうなんですけど、やはり帰ってきた後の被害者のケアをしなくちゃいけないんですね?
精神的なもの、あるいは経済的なものを含めて、きちっとフォローしてあげなければいけないという責任まで我々は考えております。
従ってその余力を取っておかなければいけないと、言うこともありますので。
一刻も早くこの問題を解決していただきたい、という一心で、信念でおります。
早紀江さんも全身痛くて、今日も明日もお昨日も一昨日も、という感じで全国を回ってます。
有本さんのご夫妻も一番高齢ですけども、(明弘氏の声・・・ただし言葉は聞き取れず 会場笑い声)奥様も足を引きずってですね、皆さんに訴え続けています。

私たち専門家じゃないですから、あんまり難しいことは言えませんが。
ただ言えるのは、ハッキリと向こうが認めた拉致。
被害者を帰して欲しいと。
それだけなんですね。
それを皆さんに、大きな力を頂くためにいろいろ訴えております。
その効果もあってやっとここまで来ましたけども、これからがいわゆる正念場かと思いますが。
いろいろ聞きまして難しい問題が山積している中でいろいろ悩むんですけども。
国民の皆様の声が一番強いということを信念に置きまして、私たちこれからもまた頑張っていきます。
よろしくお願いします。(拍手)

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(3)05.2.10 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

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ちょっと風邪をひいてますのでお聞き苦しいところがありますがご了承ください。
今のお話を聞きながらいろいろ思い出していたんですけど。
実は私はいろいろな所で書いたりしゃべったりしてまして。
97年の3月の家族会結成までは、日本は国家として、そしてマスコミも国民も拉致被害者北に囚われてきた人とその家族を見捨てて来たと思うんですけども。
97年の3月に至るまでの過程で、大きく2段階があったんだなと、今も思い出しながら頭を整理してたんですけど。

77年から78年に拉致が多発する訳ですね。
めぐみさんの事件は77年で、78年には蓮池さんたちや曽我さんがやられていく訳ですけども。
それ以前にどれくらいのものがあったのかということが、まだ分からないので私の分析は今かなり明らかになってる物だけの分析なんです。
これはまたその枠組みが大きく変わるかも知れないんですけど、その前提でお聞きいただきたいんですけども。

77、78年くらいに多発して発生したわけです。
日本政府が認定しているものもそこが多いわけです。
10年間は何もしなかったわけです。
日本政府は今認定できてる77年78年の拉致については、事件直後から拉致であることを知っていたんです。
だから認定できてるんです。
後になってから証拠が出て来たんじゃなくて、当初から拉致であることについて分かっていたから、認定できてるんです。
分かってなかった拉致もあるんです。
それはもっともっと時間が経てば証拠が出てこないですから、認定は難しいですね。

具体的にいうと電波です。
工作船が来てるとき電波を出してるわけです。
暗号がかかってるんですけども、この電波帯を日本は掴んでいたわけです。
電波が日本海を飛び交えば北朝鮮から船が来てる。
何ヶ所かで傍受しますと、場所が分かるわけです。
来てるというと、警戒をするわけです。
警備警報と言いまして、警察がコリアンボート警報というのをかけるわけです。
1978年の8月には何回もコリアンボート警報というのがかかっていたんです。

警察庁の中でその電波を傍受していた実務責任者の幹部が、2002年の年末にある大手の新聞のインタビューに答えて、「当時私は徹夜で家に帰らなくて泊り込みで仕事をしていた」と。
そして福井沖に来てると。
工作船が来てると言って警戒していると、福井県警からおかしなアベック失踪事件が起きたという報告が上がったと。
その後新潟沖に来てると。
分かって警戒していたらば、またおかしなアベック失踪事件が起きたと報告が上がってると。
そしてその次に鹿児島から来たと。
北朝鮮による拉致だと報告書を書いたと。
その時点ですね。
と言うことをある大手の新聞にしゃべっているんです。
もう辞めてらっしゃる方ですけども。

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2005年05月08日

有本恵子さんを救うぞ!東京集会(2)05.2.10 友愛会館にて

『有本明弘さんのお話』

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皆さんこんばんは。
恵子の父親の有本明弘です。
よろしくお願いします。
ま、家内が言ったとおりの方法で私たちはやってきました。
その中でこの拉致の問題は、一番先に日本の国で国民の皆さんに広まった、分かってきたのが今度のこの子供が北海道の実家に手紙を送ってきたのが、88年の9月なんです。
88年の2月かな?
くらいには共産党は国会で質問してるんです。
(隣の西岡氏より「3月です」の声)
3月か?

そういういきさつもあって、私らの問題も国会へ持って行った。
この時点で政府は拉致されているということは、もうハッキリと分かってるんですよ。
で、それの2年後、その手紙を持っていった明くる年に竹下さんが北朝鮮に対して「前提条件をつけずに話し合う用意がある」と、その一言唐突にしゃべった。
そのときには手紙持っていたところが安倍晋三さんのところやったから、その秘書の飯塚さん言う人とね、その人と話をした。
ちょっと国は動いてくれるのとちゃうか?と。
そういうやり取りをしました、当時はね。

そしてそれから北朝鮮へ行くと言うような政治家が2〜3人名乗りを上げました。
その結果、最終的に残ったのが当時の金丸さんです。
1990年の9月に金丸さんが行くようになったんです。
だから私らはこのときは当然手紙が来てるし。
1年2年前には国会で質問して、政府と共産党の橋本さんとやり取りしてる。
そういう状況をあんのやから、当然外務省と同行する自社、田辺さんと自民党は石井さん、この人が外務省も何べんか折衝を持ってるんです。
当時の新聞にはそういうふうに出てるんです。

だから、当然私は先遣団でむこうに行った議員団は、当然この問題を提起して、あんたとこはこれをどないするんや?と言う折衝は当然やって来るんもんやと思ってた。
当然やらなおかしいんです。
これやってないんです。
だから僕はこれはおかしいやないかと。
スタート時点からおかしいと、追及するんですが。
当然でしょ?

そういうことが全然メディアの情報に載らんのですよ、これ。
取材しとって分かっとるんやからね?もう。
全然載ってないですよ?
もう、僕らは悔しかった。
当然そのときに、先遣団だった議員団が「過去の償いをしましょ」って海部さんの親書まで持っていったんですよ?
でもそれだけでこの拉致の問題は一言も触れずに帰ってきた。
だから今家内が言ったように9月に行った訪朝の、その12月の年末に、警察がこれはマスコミにリークしたと。
僕はそういうふうに解釈してるんです。

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有本恵子さんを救うぞ!東京集会(1)05.2.10 友愛会館にて

『有本嘉代子さんのお話』

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皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。
この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。

当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく〜っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。

おぎゃ〜っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ〜わ〜と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す〜す〜と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。

私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。

外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。
そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。

1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。

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2005年04月23日

松木薫さんを救うぞ!東京集会(4)05.1.13 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

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本日の実はですね、家族会・救う会の役員で、新しく外務省の次官になられました谷内さんと、それからアジア太洋州局長に新しくなられた佐々江さんの所に挨拶に行ってきまして。
その前に支援室にも行ったんですが、支援室でもらった資料がこれでして。

・・・以下資料の内容 全文引用開始・・・

拉致問題に関する専門幹事会 
第17回会合(平成16年12月18日)概要

 拉致問題に関する最近の情勢や今後の対応等についての報告等。
 杉浦副長官(議長)より、以下の点を述べ、関係省庁に対して一層の尽力を要請。

○ 第3回日朝実務者協議を通じて北朝鮮側から得た情報及び物証からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である。北朝鮮側の「結論」は客観的に立証されておらず、我が方としては全く受け入れられない。

○ 今後の対応として、次の6点を確認。
 ・ 北朝鮮側が、日朝平壌宣言に則り、安否不明の拉致被害者に関する真相究明を一刻も早く行なうとともに、生存者は直ちに帰国させることが基本であり、これを要求していく。
 ・ 北朝鮮側の迅速かつ納得いく対応を引き続き求めることとし、その対応如何によっては厳しい対応をとらざるを得ない。
 ・ 対北朝鮮人道支援は当面行なわない。
 ・ 船舶検査等、現行制度の下での厳格な法執行を引き続き実施していく。
 ・ 拉致事案に関する責任者の特定及び処罰に関して、より明確な説明を求める。また、拉致に関し国際手配している3名について、その他「よど号」犯行グループとともに、北朝鮮に対し、引き続き身柄の引渡を要求していく。
 ・ 拉致問題に関する情報収集に引き続き努める。

○ 帰国された拉致被害者御家族に対する支援を関係機関が連携して行うこと、拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はないこと、を確認。
                                                   (了)

・・・資料の引用終了・・・

これは昨年の12月28日に、政府が北朝鮮から第3回実務者協議で提供された、証拠なるもの情報なるものを分析をした結果を発表しましたね。
それを受けて専門幹事会というのが開かれたと。
政府の中で各省庁の局長クラスの人が入っていて。
安倍さんが官房副長官のときに議長をやられてたんですけども。
その後任の後任ということで杉浦副長官が議長をやっているんですが。

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松木薫さんを救うぞ!東京集会(3)05.1.13 友愛会館にて

『熊本救う会代表 加納さんのお話』

救う会熊本の加納です。
今日はたくさんお集まりいただきまして大変ありがとうございます。

実は松木さんは、父の友人でありまして、あのお父さんがですね。
それを全く知りませんでした。
そして、うちにお母さんもよく遊びにこられておったんですが、拉致のらの字も言われなかったもんですから。
私はこの救う会の活動を始めて何年間も、うちにいらっしゃってた松木さんと、被害者のお母さんの松木さんが結びつきませんで。
結びついたのが2002年だったんですね。
それぐらい一生懸命自分でこらえていらっしゃったんだなぁ、と今から思います。

熊本県警も最近になって口をやっと少し開き始めていますが、拉致の当初から知っておったと。
まだたくさん情報を隠しているみたいで。
先ほど信宏さんがおっしゃいましたが、「今騒いでも向こうがいないと言ったら終わりだ」などと。
信宏さんたちは非常に好意的にそれを受け止められたみたいですが、とんでもないと。
公安の関係の話を聞くと、たくさんの情報をいまだに隠しておるんだな、と思って。
今年はもっと、そういうのを少し目標にしようかな、と。
口を開かせるということで目標にしようかなと思ってます。

で、今日丁度、熊本の朝鮮会館の減免に関する裁判を私が今しておりまして、今日結審だったんですが。
今度4月の21日に判決が下ります
熊本の市長は、私どもがおととしの9月に監査請求を行いまして、熊本市の監査委員が「減免は不当である」と。
「直ちに徴収しなさい」という、勧告が出たにもかかわらずこれに従わなかったと、言うことで私が裁判を起こしたんですが。

熊本の市長は保守系の人だったんですが、どうも市長に当選するときに共産系の人の支援を得まして、どうもそのせいで朝鮮会館の減免を続けておるようなことみたいです。
で、丁度朝鮮会館というのは、今信宏さんがおっしゃられたように、松木薫さんも信宏さんも行かれた九州学院高校の目と鼻の先という所にありまして、多分、なにか関与があるではないかと思っております。

本当にいま少し、もう一歩だと思っております。
今年、今年は本当に帰ってきて、皆でやれたらなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。

2005年04月22日

松木薫さんを救うぞ!東京集会(2)05.1.13 友愛会館にて

『松木信宏さんのお話』

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私の名前の件については2〜3日前に聞いたばっかりなので、正直ちょっと驚いてます。
あんまり「信宏」という名前も男らしい名前とは思えないんですけども。(笑い声)
まぁ、私の兄にとっては、薫よりはるかにましだったのではないかな?と思います。

私は本当は、兄から見れば2番目の姉の子供になるんですけども。
いろいろまぁ、私の実の母親の方にもいろいろな事情があったかも知れないんですけど。
生まれてすぐに、本当でしたら祖父母になる父親の養子ということで入りました。

まぁ、兄はその当時大学・・・短期大学に行ってみたり、そこから編入学して京都産業大学の方に行きましたりしてましたので、滅多に家に帰ってくることは無かったんですけども。
帰ってきたときは良く・・・遊ぶといっても、私の兄は参考書とかそういうものを買ってきては勉強を教えてやるから付いて来いという感じでしたから、遊びにはならないんではないかな?と思うんですが、よく勉強を教えてくれました。

本当にじっくり私が本気になって教わっていれば、もうちょっと私も違う人生を送ったんではないかな?とは思うんですけども。
本当に私の目に焼きついている兄というのは、机に向かっている姿っていうのがほとんどです。
よくまぁ、私と父親母親とで、週末に海に行ったり山に行ったりするわけですが、兄がいるときはもちろん兄にも一緒に行こうよと声をかけるわけですが、10回誘って1回付いてくればいいほうかなぁ、と。
「家で留守番してるよ」と。

「またそんなこと言って留守番するとか言って、どっか遊びに行くんじゃないのかな?」と言ったら、「いやそんな暇があるんなら、勉強してるほうがましだよ」というふうな感じで。
実際帰ってくれば、どんな時間に帰ってきても、大体机に向かっていると。
だからもともと賢いとかそういうあれではないと思うんですけど、努力の人かなぁ?と、言うのは、まぁ私の目にはそう映りました。

先ほどうちの姉の方が、うちの父親が「勉強したいと言えばどんなことしてでも学校に行かしてあげるよ」と言ってた事を言ってましたが、私なんかの時はだいぶ父親が定年退職した後で、比較的落ちついた状態でしたので。
なんでもこちらのわがままをきいてくれるという風な。
なんでもいいよ、と。
何かしたいことがあったらしていいよと、言うようなことをよく言ってました。

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松木薫さんを救うぞ!東京集会(1)05.1.13 友愛会館にて

『斉藤文代さんのお話』

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皆様こんばんは。
今日はお忙しい中集まっていただいて、本当にありがとうございます。
このような場で私の弟の話をさせていただくと言うことは、本当にうれしく思っております。

松木薫という人物を知らない方がまだたくさんいると思います。
私の弟・松木薫は1980年に、スペインのマドリードから北朝鮮の方に拉致されました。
連絡も何も無くて、88年に石岡さんの手紙、有本さんたちのところに「薫と3人で一緒に暮らしている」ということで、北朝鮮にいると言うことが分かりましたけども。
私たちきょうだいには父は何も教えてくれなくて。
父は本当につらかったと思います。
私たちが(北朝鮮による拉致を)知ったのは本当に後のことですから。

(司会者より「座って」の声)
よろしいですか?
すみません、座らせてお話させていただきます。

父は本当につらい思いをしたと思います。
薫は私より8つ下で、小さいときからだいたいおとなしくて。
私たちきょうだいは父母が戦後復帰で、一生懸命二人とも共稼ぎしておりましたので。
薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。

本当におとなしいもんですから。
女のきょうだいの方が、うちの場合は男の子一人ですから、女のきょうだいの方がやんちゃで。
面倒見るのは全然手がかからない弟でした。
弟は私たちにとっては大事な宝物でしたし、小さいときから男の子が一人ということで。

父親は男の子が欲しくて欲しくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と言うことで母に言ったらしいんです。
でも母も、いやもう私・・・女ばかり生まれるもんですから、5人きょうだいで4人目が亡くなったんですけど女ばっかりでしたから。
母は「そんなに産めない」って言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれまして、それはそれは父はとっても喜んで。

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2005年04月20日

寺越家を救うぞ!東京集会(9)05.4.14 友愛会館にて

『西岡氏もう一度お話』

最後に今後の予定、運動の展開についてご説明して時間ですので終わりにしたいと思います。
ご承知の通り4月24日ですね。
4月24日の2時から4時まで、「小泉総理の決断を求める国民大集会」を行います。
3時間ありますので、あまりたくさんの人に代わりばんこに話してもらわないで、今回は家族会の人たちにパネルディスカッションみたいに座ってもらってですね。
特に帰って来られていない10人の家族の人たちが、心の中で心配を思いながら今制裁しかないと思ってると。

一日一日向こうにいる人たちは今日どうしているだろうか?と思いながら過ごしていると。
早紀江さんなども今大変疲労感を覚えていらっしゃる。
色々な週刊誌に情報が出ますけど、それが本当かどうか?確認するすべはないし。
本当だとしたら、今度は本当のことが出てしまったら、北朝鮮に響いて娘の身に何か起きるかも知れないとか。
毎日いろんなことを分からなくて心配しながらというのは大変なんですよね。

逆に増元さんたちなどは何にも情報がないという辛さがある。
たくさん出てくる辛さもあるし何にも無くて待ってるという辛さもあると。
そういう中で日本政府が始めて厳しい態度をとると予告して4ヶ月経つんですけども。
このまま言ったら日本政府言ってることは虚勢であって、そんなに怖がることは無いと金正日が思ってしまったら、圧力にならないじゃないか?

12月に厳しい対応をすると予告したんですから、そうなったら拉致問題を日本は重視していないという、間違ったメッセージが金正日やその周辺や中国や韓国やアメリカに送られてしまったならば。
これから核問題などで情勢が緊迫したら、拉致は棚上げになってしまうかも知れないと。
いう強い危機感を持ってるという事に付いてですね、ぜひ皆さんに。
やっぱり国民の皆様に真正面から訴えるしかないと言うこと意外に無いと思ってますので。
なぜ経済制裁を今我々は訴えるのか?ということを分かってもらえるような、そういう時間をたくさん取る集会にしたいと思っています。

もうひとつ北朝鮮の核問題がクローズアップされていて。
国際社会は拉致問題より核問題になって、アメリカを含めて今すぐに日本が経済制裁単独でという事に、手をあげて応援してくれているという雰囲気じゃないんですね。
それでもう一度、アメリカに家族に行ってもらおうと。
24日が国民大集会ですけど、25日に増元さんとうちの島田洋一副会長二人でワシントンに行ってもらいます。

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寺越家を救うぞ!東京集会(8)05.4.14 友愛会館にて

『もう一度寺越昭男さんのお話』

最後にこれは私の叔父、神戸に昭二のすぐ下の叔父・クニオさんと言う人がいるんですけども。
クニオさんが私に言った言葉でちょっと印象に残ってる言葉なんですけども。
うちの父親は5人なんです。
男兄弟。
男5人女6人の全部で11人のきょうだいなんです。
5人しかいない男兄弟で、なんのゆかりも縁も無い北朝鮮で3人骨を埋めるのは、うちの親父も北朝鮮に骨を埋めたと仮定しての話なんですけども。

なんの縁もゆかりも無い北朝鮮で3人も兄弟が骨を埋めるのは情けない話だと。
というのはうちの親父、外雄さん、で最後に武志の父親(=太左衛門さん)。
3人が本当にに何のゆかりも無い北朝鮮で骨を埋めることになるのは情けない。
私も本当にどうかやぁ?と。
今現在生きとるのは神戸の叔父さんと北朝鮮にいる武志の父親だけなんです。
ちなみにこれは叔父さんがここにおったらこういう話をしてくれるやろうな、ということで最後に話をさせていただきました。
ありがとうございました。(拍手)

(会場より質問)外雄さんの死亡原因は間違いないんですか?向こうの発表は?

(昭男さん)
多分間違いはないんだと思いますが、私らには全然分かりません。

(同じ質問者)肺がんですか?

(昭男さん)
そういうふうになってますけど。
亡くなる前に親族って言うかな。
きょうだいのところへ電話をかけて来たらしいです。
で、ただ本当に残念なのは北朝鮮の言うように救助っていうんであれば、病気になった時点で友枝さんは知ってたわけですから。
友枝さんが日本政府に働きかけて日本で治療を出来るように、やっぱりそういうふうに働きかけをしてくれればよかったなぁとは思ってますけど、私らは全然知らなかったもんで、その時は。

その当時は全然病気であると言うことも知らなかったし、亡くなったということも本当に後から聞いて知ったわけなんですけど。
拉致って言うのは中々駄目だと思うんですけど、救助をされたって言うなら北朝鮮では治療出来んから、日本で治療したいからと日本政府が働きかけをしてくれてもいいがじゃないかな?と思うんですけど。
そういうことが出来なかったのは残念だなと思ってますけども。
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