2005年04月20日

寺越家を救うぞ!東京集会(7)05.4.14 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

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西岡です。
まず寺越事件について、今安明進さんの証言の話が、寺越さんたちからそして大口事務局長から出ていますが。
実は最近安明進さんが本を出しまして。
「新証言・拉致」と言うこの本の中にその証言が出てきています。
それはすでに私が、これは正論の2003年12月号に書いたんですが。
2003年の10月くらいに詳しく聞き取りをしていまして、それを元に救う会石川が刑事告発をしたと言であります。
その事をまずご報告したいんですが。

2003年の9月にですね、安さんと一緒に石川に行ったんですね。
事故があった現場を見に行ったわけです。
そこに行きますとね、網をかけてた所は100メートルくらい。
海岸から離れている磯なんですね。
たった100メートルしか離れていないんです。
すぐ近くです、見えるんですね。

ハチメ漁ですね。
メバルの事をハチメと言うんだそうですが、私も知らなかったんですけども。
の網をかけていたと。
そして安さんが海の方を見ないで後ろを見るんですね。
なんで後ろを見るのかな?と思ったら
「ここは上陸地点として大変良いんだけども、海から見て何か目印があるはずだ」と。
磯でしてですね、すぐ後ろに道があるわけです。
しかし街灯も無くて寂しいところなんですね。
磯からすぐ上がったら道があってどこかにいけると。
そして寂しいところだと。
大変上がるのに良いところだと。
しかし何か遠くから見て目印があるはずだときょろきょろしてたんですね。

そしたら当時のことを知ってる寺越家の親戚筋の方がですね、実はあの山の上に大きな松が昔あったんだと。
一本松として有名でそこの下にござを敷いて芸者を上げて遊んだもんだと、いうふうに言ってたんですね。
だからつまり入ってくる時に遠くから見えるわけです。
あそこが上陸地点だと。
その松を目標にして工作船から小船が出て来て、それからゴムボートで上がってくるわけです。
あるいは工作船が近づいてくるわけです。
60年代は小船とかゴムボートがあったかどうかちょっと分かりませんが、目印があったということで、大変良い場所だと、言うことが分かってですね。
そして実はと言って、先ほど名前が出てきましたオ・グホという政治軍事大学の自分の担当の教官からこういう話を聞いていたんだと言って、詳しく話をしてくれたわけなんです。

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2005年04月19日

寺越家を救うぞ!東京集会(6)05.4.14 友愛会館にて

『横田拓也氏のお話』

皆様こんばんは、いつもありがとうございます。
今お話を伺ってまして、本当にいろんな方面から過去からこれまで、現在進行形と言う形でいろんな圧力とか誘惑・だましの手口というものが私たちの周りにあるということを改めて認識いたしました。
こういったものに絶対に屈してならない。
家族を取り戻すという原点を大切にして行くということと、そして正義を守り通していくという事が本当に大事なんだと思います。
こういった中、人間として本当に基本的なことを私たちはお一人お一人の国民の皆様方に訴えて。
そして共感を得ていただいて、この厳しい現実を乗り越えていくことが出来ればと思っています。

今日はお話を聞いている内容とは別件なんですが、横田家の事としてひとつお話を申し上げられればと思っております。
これまでも私や国民の皆様のほぼ多くの方々の一致した認識といたしまして、北朝鮮政府の言ってる事柄というのは全て嘘である、ということは申し上げるまでも無いことなんですが。
ここで北朝鮮側がまた横暴なことを言ってるわけなんで、私も再度これまでの資料を読み返してまいりました。
で、そのなかで北朝鮮政府が言ってることの嘘を発見いたしましたので、お話が出来ればと思っております。

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これは第3回日朝実務者協議の終わった後にですね。
北朝鮮政府が日本政府に説明したことを、日本政府が家族会の各家族に示した資料であります。
これはたまたま表紙が横田めぐみと書いてまして。
向こう側が話したことをここにまとめて各家庭に配ったということであります。
この資料、おそらく過去にこういった会合の中ででですね。
マスコミの方をはじめとしてご案内された資料かと思います。
ここに書いてあることをもう一度読み返してみたいと思います。
一部でございます。

「93年9月21日までは695病院で治療を受けた。
めぐみさんの精神状態を積極的に治療するため、95年3月平壌スンホ地区の49予防院に入院させた。
尚前日まで義州の精神病院に入院させることも検討されたが、少し様子を見ようということでこの49予防院に入院させた」

ということが書いてあるわけであります。
ここまでの情報はすでに皆様承知されている内容かと思います。
他方で私たちは日時のお話は避けたいと思いますが、蓮池ご夫妻からですね。
横田家としてお話を直接伺った機会がございます。
その場で彼らが私たちに何を証言してくれたか?という事をお話をしたいと思います。
まずはこれは全てを語るわけに行かないので一部、今のところに関連したお話を申し上げたいと思います。

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2005年04月18日

寺越家を救うぞ!東京集会(5)05.4.14 友愛会館にて

『増元照明事務局次長のお話』

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皆さんご存知の通り、寺越さんの事件は我々も家族会結成して2年目くらいで友枝さんが確か来られて。
一緒に来られてやろうという話になってたんですが、母親として非常に心が揺れていたみたいで。
果たして拉致という被害者家族会に入られてそれが武志さんに何か被害が及ぶのではないか?と。
おそらく先ほど言ったように朝鮮総連とかいろんな代議士から色々な圧力がかかって心変わりをして、その後ほとんどお会いしておりません。

でも確か民放でしたけども、その中で武志さんが拉致かどうか聞いたら、涙ながらに「口が裂けても言えないし墓まで持って行く」と仰ってた。
これが拉致であることを物語ってるわけですけども。
そこまで苦しめている北朝鮮と言う、それに対して非常に私たちは怒りを持っておりますし。

現在拉致被害者は特定失踪者を含めて100人以上いるというふうに考えられております。
国民の皆さんに10件15人ではないということ。
100人以上下手をすればもっと、更に大勢の方が北朝鮮に連れて行かれていると言う事をもう一度認識していただいて。
北朝鮮の脅しには屈していただきたくない。
北朝鮮へ制裁を課せば宣戦布告とみなすと言ってますが、国家主権を侵して日本人を連れて行った時点で北朝鮮は日本に宣戦布告しているわけですから。
そんなことに怯えていてはこれから先また同じことをやられてしまうと。
本当に自覚していっていただきたいと私は思っています。

いま日本政府がやることは速やかに被害者を取り戻すことである。
それが当たり前のことだと私は思いますし。
寺越さんたちはお父さんの遺骨を返せと。
被害者家族として返せと、当たり前のことを言ってるんですけども、日本の政府も強く言ってませんし、そして赤十字もなかなかそれに対して動こうとしない。
北朝鮮は家族が反対するから返せない。
昭二さんの息子さんである昭男さんたちが返せと言ってるのに、それに対してそういう言い訳をしている。
非道な国に対して、政権に対して、私たちはここで怒りをぶつけるべきではないでしょうか?
冷静に怒りをぶつけてそれが拉致問題の解決につながるし。

先ほど副代表が仰ってましたように4月24日ぜひ溢れるように。
おそらく日比谷公会堂2000人くらいしか入れないので、外であふれる人の方がもしかして多いかもしれません。
そういう状況になっていただきたい。
中で2000人、外で5000人くらい。(笑い声)
それくらいの状況になるように私は望んでおりますので、ぜひ皆さん、お近くの人を誘い合わせて。
4月24日、日比谷公会堂、14時からやっておりますのでよろしくお願いします。(拍手)

寺越家を救うぞ!東京集会(4)05.4.14 友愛会館にて

『飯塚繁雄副代表のお話』

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皆さんこんばんは。(拍手)
この集会も数を重ねるごとに、それぞれの家族の方のいろいろな今までの経過、あるいは状況。
そういうものがここに非常に良く分かってきて。
実を言うと私も寺越さん事件のことは良く分からなかったんですけども、今日色々聞いてなるほどと、そう思いました。

家族会としても3月の10日ですね。
支援室を通じて内閣総理大臣に、寺越事件を含めた特定失踪者の方の認定を求める申入書出しました。
小熊室長が継いだわけですけども、お話によれば「一生懸命やってると、捜査をしてますと、警察にもよく言ってある」と言う話でしたけども。
その結果はですね、各特定失踪者の方にお話をしてありますよという返事だったんですけども。
中々実態はそうもいってないようで。
一生懸命やるやると言いながら、中々結果が出ていない。
というじれったさがあります。

こういうものも含めて北朝鮮が今まで拉致してきた証拠その他報告に対して、日本政府は「誠意ある対応をしない限り厳しい対応をとる」とハッキリ申しましたが。
そう言っていながら3ヶ月以上3・5ヵ月ほど経ってますね。
一体どうなってるんだ?ということもあるんですが。
というような場面を見ますとこう着状態になってますが。
我々4月の24日国民大集会をやる前に全国で々浦々こういった集会を精力的に開いております。
参加者も以前よりも相当増えておりますし、力強いものを感じています。
そういった国民の力をですね、ぜひ24日に終結して強い態度で政府にも訴えかける。
ということにしたいと思いますので皆様のご協力を更にお願いします。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

寺越家を救うぞ!東京集会(3)05.1.14 友愛会館にて

『大口英夫 救う会石川事務局長のお話』

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皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
救う会石川の事務局長の大口と申します。
お時間もありますので、簡単に少しお話をさせていただきたいと思います。
救う会石川は2年前に設立しました。
ただ、私の方は今から8年前ですね。
救う会石川の設立の6年前から、実は寺越友枝さんと一緒にこの問題取り組んでまいりました。

寺越事件を語るときは大変ややこしいんです。
寺越さんと言う人、何人も出て来てて。(笑い声)
しかも寺越昭二さんの息子さん、長男・寺越昭男さん、御次男・北野政男さん、養子に行かれて。
三男さんの内田美津夫さんも養子に行かれてお名前が違うと。
拉致被害者の方も3人いらっしゃって、しかもお子さんとか、寺越友枝さんもいると大変ややこしいお話になるんですけども。

ただ事件としたらこんなに簡単でおかしな事件は無いんです。
それで2年前救う会石川が出来ました。
救う会石川が寺越さんたちとやってきた事、ひとつは石川県警に告訴をいたしました。
告訴・告発。
これは北朝鮮から亡命された安明進さんの証言を基にしまして作成しました。

まずひとつは寺越昭二さん。
これは「1968年3月30日北朝鮮で死亡」と言ってるのは、これは社会党の当時の代議士の島崎譲さんと言う人がごまかす為に作ったわけです。
安さんのお話によれば、昭和38年5月12日に事故に遭った時。
この時に寺越昭二さんは、寺越武志さんをかばって撃たれて海に捨てられた、という証言があります。
私たちこれを信じております。

そしてその撃った張本人の者の名前もオ・グホといいますが。
安さんの証言によってオ・グホという名前も分かっております。
この人を告訴いたしました。
合わせて外雄さんと武志さん、拉致と言うことで告発もいたしております。
これが私たちが救う会石川が出来てからやったことのひとつ。

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2005年04月17日

寺越家を救うぞ!東京集会(2)05.4.14 友愛会館にて

『北野政男さん(寺越昭二さんの次男)のお話』

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次男の北野政男でございます。
今日こうして寺越事件だけを取り扱って発言させてもらえると言うこと、本当にありがたく思っています。
そして家族会・救う会・一般の方々こうやって多く集まっていただきありがとうございます。
うちの親父のこと兄弟二人で話すと言うとなかなかダブる面も多くあると思うんですけども、それはご理解していただきたいと言うことと、私も何分不慣れなものですから途中で頭の中が真っ白になるかもしれませんがよろしくお願いします。

今日は私は寺越事件の関係者5人。
うちの(兄弟)3人と友枝さんと武志との、「記憶」という面で寺越事件を考えて見たいと思います。
事故があったのはここにも書いてありますとおり、昭和38年ですよね。
記憶と言うのはこの38年を境としてそれ以前・それ以後という事に2分に分けられますよね?
うちら兄弟3人は当然子供ですから親父の記憶は持っております。

しかしながら親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数ヶ月しかいなかったんです。
あとは大きい船で漁に出てて、それが38年から以前の記憶は多分4〜5年しかないと思います。
その4〜5年の間の3〜4ヶ月親父と一緒に暮らした日で、通算して1年前後しかありません。
でも記憶は生活した記憶やとか、親父の特徴やとか、親父が身に着けてたものとか、と言うものはうちらでも二人は覚えております。
お風呂へ行って3人で行って体を流してもらって、親父のごつい手で頭をが〜っとやられるのが痛いもんやから親父が嫌でお袋で。
そういうなんていうか生活感に溢れた記憶は持っております。
13歳前後の前の記憶で持っております。

ところが弟の美津夫は親父の記は一切持っておりません。
うちらの記憶の中の会話には入れないと言うことです。
仮に、ここに名前書いてもらったんですけど、兄貴と俺がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持ってると仮定しますと、美津夫は全く無しなんです。
38年以前の友枝さんはもう大人ですよね?
家が隣同士ですので嫁同士話をしていた。
だから親父のことはバレーボールかバスケットボールくらいの大きな記憶を持っているということです。

私たちは12〜3歳の子供ですから大人の話には入れませんから。
この船はいくらで誰から買ったとか、いつ買ったとか、それから親父はどこの船に乗っていて何月に帰って何月に出かけたとか?
要するに大人の話は私たちは全く知らん。
それこそ親と子供の記憶しかありません。

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寺越家を救うぞ!東京集会(1)05.4.14 友愛会館にて

『寺越昭男さん(寺越昭二さんの長男)のお話』

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皆様こんばんは。
私は今から42年前、昭和38年。
能登沖で、わずか海岸から200メートルのところから拉致をされた寺越昭二の息子です。
長男です。
ここにおるのは次男で名前は北野になりますけども。
養子に行きましたんで、北野になります。

事件は、私らはあの、本当にわずか海岸から200メートルのところから、何で800キロも離れた北朝鮮の清津というところに行ったか?と言う疑問。
そして父親が本当に北朝鮮で死んだんか?と言う疑問。
事件の真相を知りたいと言うことから2002年10月に政府に対して、寺越事件の真相究明と拉致認定・遺骨の返還を求めて声を上げさせていただいたわけです。

事件の当時は私は中学校の2年になったばかりでした。
5月の12日、私が中学校の2年で弟が小学校の6年、三男が小学校の4年でした。
小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんか?と。
何でこういう事になったんか?という思いというのは、今までずっと持ち続けて来たことなんですけども。
ひょっとしたら当てた船の当てた犯人が、怖くなって3人をどこかに殺して埋めたんじゃないか?とか。
常にそんなことを思っていましたんですけども。

17年後に突然北朝鮮から手紙が、叔母の栗原豊子さんのところへ来たわけですね。
それまでは本当に死んだとばっかり思ってたわけなんですけども。
突然北朝鮮から手紙が来たと言うことで、死んだ人間が生き返ったというような思い。
でもこの手紙には一番最初の手紙には父親のことは何も書いて無いんです。
「あるとき突然3人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。
その後、「外雄さん・武志は結婚して幸せに暮らしております」と。
で父のことは何も書いてないんです。
3人で一緒に北朝鮮に来たのになんで父のことが書いてないのか?と。
そのこともきちんとと言うか、そういう思いはあったんですけども。

取りあえず北朝鮮から手紙が来た言うことで本当に大騒ぎになりました。
どういうふうに対応していいかというのは、やっぱり北朝鮮がどういう国か分からない国。
それから手紙なんかもおそらく検閲されているんじゃないか?とか。
こっちから変なことを書いたら武志とか外雄さんに何かあるんじゃないか?とかっていう。
そういう意見というか議論をして、差し障りの無いように、「うちの親父がどうしているか?」とかいう返事を書いたわけなんですね。
まぁ私は書いてませんけど、その手紙が来た栗原さんの所から手紙を出して。

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2005年04月16日

増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(8)04.12.9 友愛会館にて

『増元氏による 「蒼のハガキ」の案内』

先ほどもちょっと申し上げましたけど○○さんという人が、インターネットの「青き星々」というHPをやられている方たちが、その中で呼びかけて。
こういうブルーの地に、こちらのほうにはすでに「小泉潤一郎様、内閣支援室宛」になってますが。
こういうものを作って、皆さまにひとりずつ、皆さまの住所と名前を書いて送っていただきたいんです。

で、救う会の方ではハガキの運動を考えておりますが、正式に救う会運動としてはやっておりません。
ですから今日は、私・増元家からのお願いという事で、ぜひ、入り口のほうで配りますので帰る時にお持ち帰りになって頂きたい。
ひとりで何枚というより、なるべく大勢の方に書いていただいた方が良いと思います。

であの、ここに「私の一言」とありますけども、絶対に誹謗中傷だけはやめて下さい。
私等もそうなんですけども、この運動、誹謗中傷するような運動になってしまっては、運動のマイナスになります。
私も日頃あまりだらしない格好して、外を歩けなくなっております。(笑い声)
私のイメージとして、やはりキチッとしとかなければいけないという事で、非常に苦しい思いをしておるんですけども。(笑い声)
でもそれが会としての姿勢だと、いうふうに思っていますので。
この運動も誹謗中傷という事ではなくて、総理大臣に対する国民の一人の意思表示ということでやっていただきたいと思います。

これを欲しい方は、蒼き星々のところに申し込めば送っていただけるとのことです。
これじゃなくても良いです。
電脳保管録の方で作ってるブルーリボンシール、それを貼ってでも良いし。
とにかく小泉総理に・・・私の気持ちとしては辞めて頂きたい・・・そんなこと書いちゃいけません。(笑い声)
小泉総理に国民の意思を突きつける、と。
それで経済制裁の発動を国民の声として突きつける。
どうぞ宜しくお願いします。(拍手)

(司会者より、来年以降の連続集会の案内、チャンネル桜の案内などがあり、そのあと登壇者が全員ならんで挨拶をし、大きな拍手のうちに集会終了)

増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(7)04.12.9 友愛会館にて

『飯塚繁雄さんのお話』

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皆様こんばんは。(拍手)
お忙しいところをたくさんお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。
この会も3回目となりましたけども、各家族被害者のお話を聞きますと、本当に長い間ご苦労なさって。
本人にとっては大事な人生の1ページって言うか。
ちょうど22歳から45歳までの大事な時間を、あんなB5版の偽の死亡診断書で抹殺されてしまっていると言う、今の状態です。
これは絶対有り得ないと言う話を、今西岡先生からもおっしゃったとおりですけども。
先ほどの記者会見で報告した内容を、ちょっと時間無いですから簡単に申し上げます。

いわゆる北の嘘について。
更に「これもだ」と言う事で更に一押ししたのが、いわゆる「田口八重子が、例の大韓航空機事件の金賢姫の教育係り、李恩恵は有り得ない」という、北の報告でありますけども。
地村富貴恵さんから直に私が小浜で聞いた話ですね。
田口八重子さんと別れて、具体的には86年の7月20日に別れたんですけども。
その後数ヵ月後、まぁ約3ヵ月後と言っておりますけども。

「田口八重子をよく知っている運転手が、『田口八重子をデパートで見た』という話を聞いた」と言う、話ですね。
皆さんご存知のとおり、(金賢姫の)本にも書いてありました。
八重子はデパートで良く買い物をする。
しかも外貨デパート、外貨百貨店なんですね。
一般の人はなかなか入れない所でいつもそこに行ってたということは、金賢姫が書いた本にも書いてあります。

ここではっきり言えるのは、北の発表した死亡時期は全くの間違いだと、捏造だという事がハッキリしました。
もちろんこの情報については、直に私と被害者だった富貴恵さんとの確認という形で、はっきりと明確になった情報ですから。
これはある意味では重要な情報として、これからもこれを信じて行きたいし。
生きてると言う事に、さらにつなげて行きたいと。

それからもう一つはですね。
金賢姫と関係ないという話・・・ちょっと前後しちゃったんですけど。
ある時期、「金賢姫に日本語を教えていた」と、いう事が地村富貴恵さんから伺ったんですが。
富貴恵さんは実際金賢姫という言葉は使わなかったんですが。
当時金賢姫の名前が金玉花(キム・オッカ)と。
(飯塚さんの後ろで、西岡氏が「金賢姫=玉花(オッカ)、田口八重子=李恩恵」と板書)

玉の花と書くんですけども、これを朝鮮語でオッカと。
これは後になって救う会の人たちと色々分析した結果、これ(金賢姫=玉花)が出たわけですね。
当初、オッカオッカとこれしか分からなかったんですが、言葉として分かってなかったんですが。
待てよ?という事で西岡先生の分析で、こう(オッカ=玉花)書くんだと。

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増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(6)04.12.9 友愛会館にて

『西岡力副会長のお話』

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西岡でございます。
今日、先ほどここで記者会見をしまして、家族会と救う会としてですね。
11月25日に一度、北朝鮮が今回出してきた出してきた情報の疑問点・矛盾点というのを指摘したんですが。
そのPart2というのを作りまして、それを記者会見をする前の今日の午後4時に政府に提出しまして、午後5時に記者会見をして公開をいたしました。

ここで何回も言ってるんですけども。
基本的に北朝鮮は、日本政府が認定していてまだ帰って来られない拉致被害者10人について、死亡したとか未入国と言ってますけども。
それを証明できる物証をひとつも提供してないんです。
10人についても、ひとつも無いんです。
「そして何も無くなった」という感じです。
今回の結果がそうなった訳なんです。

その事はすでに明らかなんですが、それにもう一押ししようと思って。
実は帰国した5人の方々から、かなりいろんな事を、家族会・救う会はずっと聞いておりまして。
そのことを事前に公開すると、北朝鮮がそれに会わせて情報を修正してきたりする事がありますので。
実際めぐみさんの死亡時期については、あきらかに毎日新聞が、日本政府が北朝鮮にぶつける前に書いてしまったという事のために、1年北朝鮮がずらしてきたという経緯もありましたので。
大変情報の扱いを慎重にしてきたんですが。

今回の実務者協議でかなりのやり取りがあって、北朝鮮が知る事になった情報についてはもう隠しておく意味もありませんし。
また北朝鮮が絶対に修正することが出来ない決定的な矛盾については、今明らかにしたほうがいいだろうと言うことがありまして。
まだ明らかにしない方が良いだろうと思ってる部分もあるんですが、今日は合計8点、話を(政府に)持っていきました。

今日、飯塚さんがここに来てらしゃいますので、田口八重子さんについてですね。
大きな点があるんですけど、それは最後にご挨拶いただく時に飯塚さんの方から話してもらうので、私はここでは増元るみ子さんについて、今日発表した物について、皆さんにご報告します。

とにかく!
何回も言いますけども、死亡の物証は無いんです!
10人についてひとつも無いという事は、生きてるということなんです。
10人いるんですからね、一人くらい物証があっても良いじゃないですか、変な話ですけど。
無いんですよ。
めぐみさんの遺骨と称するものだけが最後に残ってたんです。
10人のうち9人は(物証が)無くなっちゃって、死亡診断書が捏造と認めましたからね。
一個(物証が)残ってたんですけど、それも二人分(骨が)入ってたと、両方(めぐみさんとは)違ってたと。
と、言う事ですから(物証が)無いんです。

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2005年04月15日

増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(5)04.12.9 友愛会館にて

『假屋達郎(たつろう)さんのお話 (るみ子さんの小学校・中学校同級生)』

どうも、皆様はじめまして。
小学校と中学校が同級生ということで、中学校の方で活動していましたけども。
小学校の方が100年以上の歴史があるという事で、関心を持つより行動してもらわないといけないという事で、小学校の方も立ち上げました。

小学校はですね、昭和35年に入学です。
1960年ですね。
まだ、日本が貧乏・貧乏してる頃です。
私たちが最後の日本の貧しいのを知ってるんじゃないかなぁ?と、いうような環境で育ちました。
西郷さんの墓のすぐ近くに、大龍小学校がありました。
西郷さんもそこで学んだと言うことを、先生から西郷さんの幼い頃の話を良く聞かされて、「西郷さんも貧しかったんだよ、皆頑張れよ」と言うような教育を増元さんも受けたんじゃないかなぁと思います。

いろんなエピソードをと思って、クラスの人に同じ学年の人にいろいろ聞いて回ったんですけど、もう何十年も経っているもんですから、文集とか写真がなかなか見つからないで。
やっと見つかりまして、入学式のを引き伸ばして来てありますけども。(大きく伸ばしたモノクロの集合写真を掲げる)
まぁみんな和服ですよね、昭和35年の入学式ですから。
お母さんがいらっしゃらないちゅう事で、昨日お母さんにもお見せしたんですけど、鹿児島で。
お父さんが入学式に来られてるという事です。

こちらの方に、2年の時ですね。(もう一枚の集合写真を掲げる)
一クラス50人くらいいる、大龍小学校はマンモス学校で8クラスですから、400名一学年にいる。
全体では2千人から3千人いると言う学校でした。
まだ脱脂粉乳で給食を(小さな笑い声)ね、ああいう給食を、牛乳じゃなくて。
何故日本の貧しいのを知ってるのか?と言いますと、タダの本を貰った事が無いのが私なんかの年代なんです。
5年生になると4年生まで、6年生になると5年生までという時代ですね。

彼女も拉致という形になりましたけども、やはり気丈にですね。
厳しい中でも生きられる体力を持ってるんじゃないなかぁ、と私自身こう思いましてですね。
なんかそれをちょっとお話しした方がいいかなぁ、と。
今の昭和30年から産まれた後の子供たちとはまた違う、ちょっと教育を受けた子供で。
今、北朝鮮に拉致されてますけども、気丈に生きているんだと言う気持ちを自分は持ちます。

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増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(4)04.12.9 友愛会館にて

『木村宏次郎さんのお話 (るみ子さんの同級生)』

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こんばんは、皆さん。
今日はお急がしい中をありがとうございます。
今日は裏方としてきたつもりなんですが、代表でみどりさんがですね。
お話しするちゅう事で安心したんですが、急にしゃべってくれと言う事で(笑い声)飛び飛びになりますけども、宜しくお願いします。(拍手)

そもそも増元家の方とはですね、お父さんを先に知っててですね。
まず鹿児島市内の国道沿いの八百屋さんにですね。
営林署に勤めてらっしゃったもんですから、賄いの野菜を買いに行くとかですね。
そしてまぁ、電車道を挟んで向かい側が私の家でしてね。
それが、その威勢の良い親父さんでですね。
まぁ家族が怖がっていたと言うかそのくらい、一瞬私は「どこかのやくざかな?」と(笑い声)思ってですね。
自分では側に付きたくない位。
だけど歩道を通る方々へ皆さん笑顔で挨拶してるから、「この人は絶対やくざでは無いな」と思って見てたんですけど。

それで北朝鮮に拉致されて、吹上浜の報道のなされてですね。
「あら?この親父は、るみ子さんの親父さんやったとか?」と言うくらいびっくりしてですね。
何かしないといかんなぁ、ちゅう事でですね。
当初は北朝鮮に拉致されたと言うのが分かんなかったもんですから。
るみ子さんがああして駆け落ちするような女性では無いんです。
とっても優しいですね。
皆に好かれる女性です。

その後、ちょいちょい同窓会を私なんかを良くしてたもんですから、もっと早く力になれたら良かったんですけども。
ここ5〜6年ですかね。
募金も少し、1万2万と皆から集めてですね。
初めて実家の方へ持っていったら、ものすごくお父さんが喜ばれてですね。
「やっと清水中のクラスの同級生が動き出してくれやった」と言ってですね、喜んでくださいましてですね。
同窓会をやるたび、募金を持っていきまして「活動に使ってください」と、そのように動いてまして。

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増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(3)04.12.9 友愛会館にて

『松元みどりさんのお話 (るみ子さんの中学・高校時代の同級生)』

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(司会者の「るみ子さんの同窓生が鹿児島から駆けつけています」の声を受けて)
私は千葉に住んでおります。
私も最初は小泉さん好きでしたが、だんだん嫌いになりそうです。(拍手)
え〜っと、ちょっと読みます。(用意したメモを取り出す)
あがってしまうんで・・・

私はるみ子さんと中学・高校が一緒で、仲良しグループでした。
大きな目が印象的な誠実な女性です。
もう、35年も前のことなのでエピソードなど思い出せませんが、表情やしぐさははっきり覚えています。
ここにしわを寄せて(指で眉間を指差す)はにかむように笑うんですね。
それとか卓球してる時の、切れの良い動きなんかを良く思い出すんですが。
私もいなくなって吹上浜でローラー作戦している時にたまたま行って、「何事が起こったのか?」と思って、夕方のニュースでるみ子さんがいなくなったことを・・・偶然にもその場面を見たんです。

私の中でもそのときからが、ある戦いが始まったような気がして。
まぁ、それからは北朝鮮に拉致された事が分かるまでは何回も同じ夢を見たり。
時としてそうやって思い出しては来たんですが、やはり、絶対諦めてはいけないし、忘れてもいけないので。
なんていうか、皆さんにやっぱりずっとずっと応援してもらって、盛り上げてもらって、空港にお迎えに行くということを頭に浮かべながら、今ずっとひとりでも頑張ろうと思っております。

あと、るみ子さんのお母さんが「心から笑った事がない」という事を聞いた時に、これは絶対に会わせて上げなくちゃいけないな、とそう思いました。
どうぞ、皆さん力を貸してください。
宜しくお願いします(拍手)

増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(2)04.12.9 友愛会館にて

『増元照明さんのお話』

こんばんは。
(立ち見の人に向って)こちらの方、まだ空席があるので、こちらの方入ってください。
(司会より「空間があります」の声)空間がある。(笑い声)
(司会者の声で「ちょっと、どうぞよろしかったら、前へ座ってください」)

あの〜今日は家族会事務局次長ではなくて、増元るみ子の弟として話をしてくださいと言う事で、鹿児島弁でしゃべろうかと思ってるんですけど。(笑い声)
姉が少し泣かしたんで、少し笑わせなきゃ。(小さな笑い声)
私が第一回の国民大集会で「るみ姉」と言う名前を言ったんです。
それが1998年だったんですけども。
そしたら、去年あたりからるみ姉のるみ姉が出始めて、私、商標登録しとけばよかったかなぁ?と(笑い声)思ってます。

私の姉をるみ姉と言い始めたのは、何時頃だったか?ちょっと私も覚えてないです。
小さい時には一番上(ここに)フミ子がおりますけども、フミ子の事を「姉ちゃん」と言ってました。
長男を「信ちゃん」と言ってました。
その次のるみ子は「るみ子姉ちゃん」と言ってたんですね。
小さい時、小学校の位まではそういう呼び方をしたと思うんですけども。

中学校になって、この中学校の写真なんですけどもね。(中学時代の集合写真を一枚掲げる)
姉が中学校3年生、私か中学校1年生で。
中学校入って、私は野球部かサッカー部に入ろうと思ったんですけども、姉貴が「卓球部に入れ」と言われて、素直な弟だったもんですから(会場、くすくす笑い)、そのまま卓球部に入りました。
この真ん中にいるのがキャプテンだと思う、その隣にいるのが副キャプテンの姉、これ卒業アルバムの中の物です。
この一番端にいるのが私なんですが、なんか猿みたいな顔して(笑い声)

私、中学校一年まで本当に小さかったんですね。
確か私の記憶では、129か130です、中学校一年のとき。
ホントに小さくて、姉はさっきフミ子が言ったように大きい姉でしたので、非常にカッコ良くて。
サウスポーなんですけど、サウスポーで卓球やると凄いカッコいいですよ。
あの〜、惚れ惚れしますけども。
ただ、男女一緒に練習した事はなくて、姉と卓球をしたという覚えは無いんです。
とにかくそれぐらい近い存在ではありました。

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増元るみ子さんを救うぞ!東京集会(1)04.12.9 友愛会館にて

『平野フミ子さんのお話』



皆さんこんばんは。
本当にこんなにたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。
私、いつもこうやって立つ時、何から話して良いかいつも迷ってしまうんです。
でも今日はるみ子の事だけ、そして父の事を話さしていただきます。

るみ子は私たち増元家にとっては、太陽的存在でした。
私家族6人、きょうだい4人なんです。
私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下にいるんですけど。
本当にもう、いつも明るくて。
「家族」と言う本にも書いてありましたけども、父親がとにかく厳しくてですね。
私たちは本当に近づけない存在でした。
でも、妹るみ子だけは父親に対してものすごく「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。

父親は営林署に勤めてました。
鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2〜3日おきに帰ってきておりました。
しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して行ってましたので、父は物凄く可愛がってた。

私たちは父が怖くて、何かというとすぐ怒るんですね。
父は酒を飲むんと、鹿児島の言葉で「やまいもを掘る」って言うんですけど、酒が入ると愚痴が出るんです。
仕事の愚痴かなんか知らんけど、ちょっと薩摩男児、亭主関白と言うのが強くてですね。
私たちは本当に「どうしてこんなとうちゃんと結婚したの?」と母にいつも言うぐらいですね、(笑い声)厳しい父でした。
妹のるみ子は厳しい父に本当になついて。
ですから父もそんなにして寄ってくるので目に入れても痛くないくらいほどに、可愛がっていたと思います。

その証拠にですね。
今日は妹の同級生が写真を持ってきてくれたんですけど、大龍小学校の入学式にですね、父が参加してるんですよ。
出席してるんです。
私もその写真見て、びっくりしました。
父親はもっと仕事一辺倒でですね。
子育てには参加してないと思ってたから、「へぇー」と思って。
母親が病気がちだったせいもあって、弟・照明のお守りしてたりして、小学校の入学式に行ったんじゃないかなぁ?と、今私は写真見て思った事でした。

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2005年04月03日

横田めぐみさんを救うぞ!東京集会(6) 04.10.14(木)友愛会館にて

『引き続き、西岡力氏のお話』

最後に最近の拉致問題の動きをお話ししていきたいんですけども、中山参与が辞任されて、日本の政府はいったいどういう気持ちなのか?と言うような話がマスコミにたくさん出ていますね。
斎木審議官もアメリカの大使館に転任すると言う話も出ていましたが、我々としては拉致問題を棚上げされるんじゃないかとかなり危機感を持っていたんですけども。

しかし、斎木さんについては昨日町村外務大臣がはっきりおっしゃってましたけど、この段階で斎木君を動かすことは有り得ないと。(拍手)
実務者協議は局長レベルになりますけれども、斎木さんも一緒に行って追求してくださると言う事は、ハッキリしていますし。
何よりもですね、強い手応えが国の内外から出ていまして、もちろん完全に安心する事は出来ないんですけども、追い込まれているばかりではないと。
逆に私たちは追い込みつつあると、いう風に思っています。

去年に7月に新しい大きな運動方針を出したんですね。
「拉致はテロだ、いまこそ経済制裁を!」
経済制裁を!という事を訴える事を運動を第一ターゲットにしようと。
それまでは「拉致問題をきちんと解決してください」という事を訴えたんですね。
でもその事はもう金正日が拉致を認めて、マスコミがどんどん報道して、拉致問題は取り組まなくてはならないと言う事は、皆言うようになった。
共産党も社民党も含めて皆言うようになった。

で、その方法として当時は二つあった訳です。
ひとつは北朝鮮を刺激してはならない、話し合いで解決しかないんだ、というのと。
そうじゃなくて圧力をかける必要があるんだ、日本が持ってる強い圧力のカードは経済制裁なんだと。
経済制裁をかけて北朝鮮を追い込んで、そして被害者を取り戻す必要があるんだと。
そちらの方を世論に対して主張することを、去年の7月から始めたんです。

去年の7月から実は署名用紙を変えたんです。
変えた時にはですね、署名してくれる人が少し減ったんです。
経済制裁まではちょっと行き過ぎじゃないかと。
北朝鮮の人たちにも、もしかしたら苦しみを与えることになるんじゃないかと。
在日朝鮮人の万景峰号に乗ってる子供たちの人権はどうなるんだとか。
あるいは北朝鮮を刺激したらミサイルが飛んでくるかもしれないとか・・・言うことを言われました。

外務省の今でもいらっしゃる田中(均)審議官は、去年朝日新聞で田原総一郎さんとの対談の中でですね、「外交と言うのは共通利益を設定して、お互いにプラスになるようなことを作って進めていくんだ」と。
「北朝鮮外交もそれでやる」と。
「制裁は効果が無い」と。
で、私たちはそんな事は無いと。
北朝鮮を動かすのは制裁しか無いと、主張したんです。
一年以上経って、家族は帰ってきましたけれども、北朝鮮は全くそれ以外の事は認めないんです。

そしてアメリカにも制裁という事を訴えて来たんですけども、1年経ちましてですね、内外で経済制裁が必要だと言う条件が整ってきたんです。
今はここで経済制裁という言葉を言っても、あんまり珍しくなくなってますね?
テレビでも経済制裁という言葉が出るんです。
前は我々だけしか言ってなかったんです。続きを読む

横田めぐみさんを救うぞ!東京集会(5) 04.10.14(木)友愛会館にて

『西岡力副会長のお話と、安明進氏の証言』

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西岡でございます。
北朝鮮は2年前にめぐみさんは93年の3月に自殺した、と聞いております。
そのことを証明する資料として証拠として、北朝鮮側が出してきたものが、実はこのチラシの下に写真をつけてあるんですが、めぐみさんが入院していたとされる、ピョンヤン市の45号院という病院の死亡台帳というものなんですね。

これは2年前の調査団が行った時に、この死亡台帳の現物を調査団は見せられているんですね。
しかし、その現物自体は持って帰ってきてなくて、そこで撮った写真が横田家に提供されて、それをお借りしましてここに載せているわけです。
ですから、日本政府も持っている写真なんです。
この死亡台帳に横田さんの名前、朝鮮でつけられた名前ですけども、入ってるんだから死んだんですよ、と言うのがひとつの説明だったわけです。

そしてもうひとつですね、死亡確認書というものが当時提供されたわけです。(めぐみさんの死亡確認書のコピーを掲げる)
死亡確認書と朝鮮語で書いてありますけど、こちらに日本語訳がつけておきましたけども。
日付が93年3月13日と書いてあるんですね。
3月13日に作られた書類だということですね。
ということになっていて、死亡年月日も3月13日と書いてあるんですけども、下に書いてあるこれは、その書類が作られた日付、なはずですよね?

めぐみさんについては一方的に死亡したと言ってるわけですけども、遺骨は最初は病院の庭に埋めたけれども、その年のお盆にご主人であるキムチョルジュ氏が持って行ってしまって、今どこにあるかわからない、という説明で示されていないわけです。
ですから死亡を証明するものはこの死亡確認書と、死亡台帳しかないわけですね。

しかし、これが本当に滅茶苦茶な物でして、見ていただくと分かるんですけども、この赤い写真をぜひ見ていただきたいんですけども。
これ、朝鮮語で7文字、字があるんですね。
3文字目、4文字目、5文字目のところに青い線で消してありますよね?
ハッキリ見えますでしょう?
そしてその上に何か2文字書いてありますよね?
消してあるところに何が書いてあるかと言うと「患者入退院台帳」と書いてあるんです。
入退院を消して死亡という風にしてあるわけなんです。

さっき横田さんたちと話をしたんですけども、偽造するんだったらこれ剥がして書き直すくらいの手間は作ってもいいじゃないかと。(笑い声)
それが死亡台帳だというわけなんです。
そしてこのページの中にめぐみさんの名前が出てたと、言う事なんですけども、4番目の欄ですね。
1月29日と書いてある2番目のところに、リュウミンスクと書いてあるんですけども。
キムチョルュジュが夫であるとか書いてありまして、1月29日そして93年3月13日となってるんですね。
ですから13日に死んだという意味なんだろうと思うんですが。続きを読む

横田めぐみさんを救うぞ!東京集会(4) 04.10.14(木)友愛会館にて

『馬場新潟救う会・会長による、めぐみさんへの手紙の朗読』

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新潟から参りました、馬場と申します。
めぐみちゃんは40歳になりました。
13歳のときに姿が見えなくなって、今年で40歳です。

私はこの運動が始まりましてから、いつも10月5日、誕生日の日に横田さんの所へ花束をお届けしたり、自分で行きまして、めぐみさんの写真の前でめぐみさんに誕生日のお祝い、と言うと変なんですけども、言葉を伝えて参りました。
今年、めぐみさんのところにあげた手紙を読ませていただきとうございます。
お聞きいただきとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
めぐみさん。

今年もあなたの姿を見ることの出来ない、わびしい誕生日を迎えました。
40歳、とても私にとっては信じられない貴重な長い人生を、彼の国に過ごしてしまったのですね。
どのようにして今日の誕生の日を迎えておられるのですか?
どこであろうが、誰とでも、あなたにとっても、ご両親から人間として貴重な生を得た日であります。

お誕生日おめでとうございます。
心から慶賀を申しのべたいと思っております。

めぐみさん。

さる3学期になった初日に、私はひとりあなたが姿を消したあの新潟の海岸に立ちました。
この海と空の続いているあの北の国で、いったいどんな生を送っているのだろうか?という思いを胸にしまいました。
40年の人生の半分以上を、なぜあの異常な国で過ごさねばならぬのか?
悲哀・落胆が、悲憤と激怒に変わっていきました。
一国の首相が2度までも訪ねながら、何故?

私は帰宅してある書を読んでいる中で、次のような一節に出会いました。
ある精神医の調査によれば、ナチスドイツの強制収容所で最後まで頑張る事が出来たのは、体力のある人間ではなく、家族や恋人や友人や智慧などが、何か自分の愛する物を持っていた人間だそうである。
その場合の智慧とは、自分とは何か?
何故自分はこのような不条理に耐えければならないのか?などと考える精神のことである・・・云々と。

めぐみさん。

あなたにとって13年と言う本当に短い日本での人生でありましたが、ご両親と弟さん達から大きな温かい愛を一身に受け、愛を応えてきたあなた。
そして、人一倍賢明で智慧のある少女でした。
そのめぐみさんが拉致と言う不条理極まりない行為であり、現在もその環境の中で人生を送っているのですが、前述した医者の言う通りで、あなたは絶対に無様な死に方や生き方をしている訳がないものと信じています。

めぐみさん。

毎年あなたの誕生日にささやかでありますが、花束を持って祝賀の意を表して参りました。
今年は考えを変えて、あなたの写真のそばでいつもあなたを見守って、一刻も早く帰国する事を願って、小さな時計を持って参りました。
この時計の針は一年半から二年くらい、絶えることなく時を刻んでくれます。
この時計の針が止まるまでの間に、必ずこのご両親のおられる部屋へ帰って来てくださいよ。
待っております。
ご両親と弟さんはもちろんの事、私を始め全国の人たちが一刻も早くと、必死になってめぐみさんの帰国を待ち焦がれておりますから。

めぐみさんは生きている。
きっと帰ってくる。
この時計の針が止まる日までに。
信じています。
祈っています。

平成16年10月5日 馬場吉衛

40歳を迎えた横田めぐみ様

・・・続く・・・

2005年04月02日

横田めぐみさんを救うぞ!東京集会(3) 04.10.14(木)友愛会館にて

『横田拓也さんのお話』

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皆様方こんばんは。(会場よりこんばんはの声)
横田めぐみの弟の横田拓也と申します。
今、(司会の)平田さんの方から話がありましたが、危うく「横田きん也」だったかも知れません。(笑い声)
双子の上の方になります。

私が、姉がいなくなったのは小学校の低学年でございますから、正直言って物理的に記憶している事は親がここでしゃべった事より長く記憶している事ではございませんので、皆様方にお話できる事はかなり対比すると限定的になると言う事を、ご承知の上で聞いていただけたらと、思っています。

すでにご承知の事と思いますが、私の姉は13歳でこの日本から拉致されたわけですから、今月の10月を持って40歳の誕生日を迎えましたから。
すでに人生の3分の2以上をですね、日本から離されそして家族の元から引き離されて、地獄以下の北朝鮮で生活を強いられていると。
この事実はどう見ても変えられない事実であると言う事を、私たちは忘れてはならないと言う風に思います。

どこにいても、家族から一方的に強制的に離されると言う事自体が異常だと思うんですが、離された土地が民主主義の国家では無い。
自由が無い!食料も無い!未来も無い!思想も発言も許されない!
こういった過酷な状況の中でですね、生活を強いられていると言う事は、本当に異常な事態であると。
人権的にも人道的にも本当にこの上ない異常な事態の中で、この人生を強いられていると言う事を、私たちは認識していく必要があると思います。

たまたま私は姉の弟、もしくは横田家のひとりとして申し上げてるわけなんですが、これは横田家だから言う話ではなくてですね。
人間として、私たちが人類として受けた生と役割としてですね。
この事は声高に訴えていかくてはならないのかな、と思っています。(拍手)

先般、後ほど西岡先生の方からもお話があると思うんですが、アメリカの方で人権法案が通ったと言うような事があります。
後はブッシュ大統領が署名するだけと伺っておりますけども。
これは世界的に見てもどう考えてもおかしいと言う事は、厳然たる事実なんですね。

私たちは隣の日本海を越えた朝鮮半島の中で怪しい国であると。
だから日本はもう少し毅然と構えなくてはいけないと言う事だけではなくて。
異常事態がテポドンで言えば10分くらいのところですけども、そこで起きていることを私たちは忘れてはならないわけなんです。続きを読む

横田めぐみさんを救うぞ!東京集会(2) 04.10.14(木)友愛会館にて

『横田早紀江さんのお話』

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横田めぐみの母でございます。
本当に北朝鮮に連れて行かれてからの活動の中で本当にたくさんの方に助けていただきまして、署名やカンパ、それぞれのひとりひとりの心遣いを私たちに寄せていただいて、今日まで元気でやってくる事が出来ました。
ありがとうございます。

今日はいつものお話と違ってめぐみのことを話してくださいという会なんだそうで、初めての事なんですが。
今、主人が話しましたように、初めての女の子でした。
私は自分が兄と二人兄妹なもんですから、男の兄妹が上にいるってのがとても良かったものですから、先に男の子が生まれて、そして女の子が生まれたら、お兄ちゃんのお友達が良い人と結婚できるかもしれない(笑い声)とか、そんな事まで思ったりして、最初男の子が良いと思ってたんですね。

主人は女の子が良いと思っていたんですね。
何人女の子が生まれても良いと言ってて、双子の時も女の子だったらいいね、と言うてる位でした。
私はやはり最初に男の子が生まれて、3つほど離れて女の子が生まれるのが ちょうどお兄ちゃんのお友達とかね、そういうなんか(結婚できて)良いなとか、母親って馬鹿な事を考えるんですが(会場にはずっとクスクス笑いが続く)そうした事を考えていました。

そうしたところが大きな女の子が生まれました。
生まれた時も「拓也」と言う名前しか考えていなかったんです。(大きな笑い声)
恥ずかしいんですけど、絶対男の子が生まれると思って「拓也」と言う名前だけ考えていましたら、「お嬢さんですよ」と言われて、どうしようと思ったんですけど。(大きな笑い声)

「名前が無い、早くつけなきゃ」と思って、私は早紀江と言う1字1字見ると簡単に見えるんでけど、非常に書くのが3字で漢字で大変な思いをしてきたもんですから、(笑い声)「早は「さ」と読むんですか?」とか、いちいち言わなきゃならなかったので。
平仮名で誰でも書けるような簡単な可愛い名前がいいなと言う事で、「大変だ、早く名前付けなきゃ」と言って、ベッドの上で一生懸命二人で考えていたんですね。
ひろみさんとかあけみさんとかあゆみさんとか・・・・いろいろ平仮名の名前を挙げたんですけども。
「めぐみ」と言うのは名前としても良いし、とても良い意味があるので「めぐみ」にしようと言う事で、それで「めぐみ」と付けたわけです。

今度、男の子が生まれたら「拓也」にしようと思ったら、今度はふたり生まれて(大きな笑い声)また名前が無い(笑い声)ということで、大急ぎで、同じ「也」と付けた方が良いと言う事で、「きん也」とか「てつ也」とかいろいろ「也」が合う名前を考えて、最終的には拓也・哲也という名前を付けました。
名前から言ってもそういう面白いいわれがあるんです。続きを読む
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