2016年05月04日

71年目の命日

今日5月4日は特攻の大叔父71回目の命日です。
母のお供をして、靖国神社で執り行われた永代神楽奉納に参加してきました。

71年前の今日、わずか19歳の若者は何を思って沖縄の海に特攻したのでしょうか?
考えても考えても想像が及ばないのです。
大叔父の冥福を祈るとき、あふれる涙を抑えることは出来ませんでした。

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2015年05月08日

特攻の大叔父さん、初めての永代神楽供養をしてきました

ご無沙汰しております。

ブログの更新をしなくなって長いこと経ちました。
理由はいろいろです。
今風に言えばリア充。
リアルが忙しすぎて、最近はPCを開くのも週に1〜2度あるかどうかという日常です。


一番の理由は母の事。
丁度今から3年前の夏、リウマチを発症し体の自由が利かなくなりました。
リウマチとなれば介護は長期戦となります。
家族だけで抱え込んでは共倒れになる。
そう判断した私は市の福祉課へ行き、介護認定の申し込みをしました。
そして要介護2の判定を受けました。(ちなみに現在は少し良くなって要介護1)
一人では風呂も入れず、包丁を持つことも雑巾を絞る事も出来ず、横になっても寝返りを打つことも出来ず、半日椅子に座る体力さえもなくなってしまいましてね。
まぁ、リウマチと言っても今はいいお薬があり、関節の変形などの重篤な症状が出る前に治療を始めた効果もあって、何とか日常生活を普通に送れるまでに回復しましたが。

そんなこんながありまして、いまだ江田島まで大叔父さんの遺書に逢いに行くことは出来ておりません。
体の不自由な母を連れて飛行機に乗って旅をするとなれば、せめて車いすに一日座っていられる体力がないと難しい・・・
でも、江田島一本に絞って少し頑張れば大叔父さんの遺書にはなんとか逢いに行けそうな目途はつきそうです。
気候の穏やかな時期、なるべく早い頃合いを狙って江田島旅行は敢行したく思っております。



さて、本日久しぶりの更新に臨んだ理由は、特攻の大叔父さんの永代神楽に参列してきたことをご報告するためです。
前述の通り母は急に体を患って、毎年恒例にしていた大叔父さんの命日の靖国参拝すら出来ないありさまとなってしまいました。
このまま自分が永遠に靖国に行けなくなってしまったら、叔父さんはきっと寂しがる。
そう思った母は、大叔父の命日にあたる5月4日の永代神楽供養を靖国に申し込んだわけなのです。


神楽を申込みしますと、神社から参列の案内状が届きます。
でも、体が自由にならない母を連れて、靖国詣では難しい。
神社が混み合う例大祭や夏のみたままつりへ行くことも憚られます。
本人も私も泣く泣く諦めているような状態が続きました。
いつだったか、靖国に行けなくなった母の代わりに一度だけ、私が代参として靖国詣でをしたこともあります。
母の名前で玉串を捧げ、昇殿参拝をさせていただきました。
何故だか、涙があふれて止まらず、号泣一歩手前の状態になったことを覚えております。


前置きが長くなりました。
で、今年の5月4日は、母を車いすに乗せて、久々の靖国参拝を挙行してまいりました。
久しぶりの5月4日の靖国は、いつになく若い人の姿が多かったような気がします。
10代の高校生から大学生くらいと思しきグループや、小さな子供を連れた30代くらいの若い層が、いやに多かったような・・・
世の中、少しづつ何かが変わりつつあるのでしょうかね?
マスコミで靖国が取り上げられるのは、桜の開花のニュースと、例大祭に閣僚が参拝したのしないのという例のあれしかなくて、みたままつりも正月の初もうでも、何時だって華麗にスルーがお決まりでうんざり気味なのですけれど。
参拝する人はするのです。
それも礼儀正しく。

参集殿に上がると、永代神楽の参列者は特別の控室に案内され、お茶の接待をうけます。
時間になると本殿に上がるのですが、その手前で手水を使うときも、濡れた手を拭うための紙が用意されており、一人一人に手渡しされます。
これ、普段の昇殿参拝の時にも、神雷部隊の合同参拝の時にも無かったことです。
神楽の参列者は特別、という扱いになるのでしょうか。

昇殿後、まずは供物が捧げられ厳かな空気の中、神職による祝詞と永代供養を受けた御霊の名前の読み上げがあります。
5月4日のその日だけでもざっと30〜40名位は読み上げられたでしょうか。
その後、神楽へと進みますが、神楽は笛・太鼓・琴のいわゆる生演奏。
謡(でいいのかな?)もお一人。
舞を舞う巫女さんはお二人。

うちの大叔父さんはまだ最近永代神楽を申し込んだばかりなので、名前が出てくるのは最後の方でしたけどね。
靖国がある限り、こうして毎年5月4日になると名前を読み上げられて供養していただける。
その事実を目の当たりにし、高齢となり頻繁に靖国を尋ねることが難しくなってきた家族にとっては、何よりもありがたいことと感じました。
念願叶って靖国に行き、参拝した母は神楽を見ながら泣いておりました。
私も後ろの席で泣きました。
大叔父さんもお社の奥で、喜んでくれたかなぁ?



神雷桜はすっかり花を落し、新緑の若葉と姿を変えていました。
母が元気なころは、桜の花の時期に靖国を訪ねたこともありましたが、今後は人出の多い時期の参拝は安全を確保する意味でも難しくなるかと思われます。
でも本人が元気なうちは命日や例大祭などの物日に関係なく、母と一緒に靖国に参りたいと思っております。

今年は戦後70年。
終戦時7歳の国民学校2年生の母も、喜寿を迎える歳となりました。



追記

この夏、茨城で桜花を題材にした映画の撮影が行われるそうです。

映画「サクラ花〜桜花最後の特攻〜」制作発表
https://www.youtube.com/watch?v=5LiOKnwyddQ

映画「サクラ花」、6月から撮影 特攻機「桜花」題材に
http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14256487396685

映画製作のための協賛金を募っているそうです。
問い合わせ先はこちら↓
藤代範雄デザイン事務所内サクラ花デスク(電話0299・57・0702)
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2012年09月06日

大叔父さんの遺書

先週火曜日放送のクローズアップ現代。
海軍特攻兵の遺書が密かに集められていたと言う話。


もしやうちの大叔父さんの遺書もあるのでは?と局に問い合わせた所、手元の資料の中に、大叔父の写真の他に手紙と手形が入っていたと言う返事。



やっぱり、あった!!



海上自衛隊の第1術科学校に原本があるはずなので、「可能であれば一度原本を見たい、コピーを頂きたい」というこちらの意向を先方に伝えてくれると、担当の記者から連絡を頂きました。


どこの誰とも知らない巡礼者に、祖父が渡してしまった大叔父の遺書。
もう二度とこの世では逢えないと思って諦めていた手紙に、逢える可能性が出てきました。
何という奇跡!



先方との連絡が着いたら、大叔父さんの心に逢いに行く!

母を連れて、広島の江古田まで逢いに行く!
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2012年08月28日

クローズアップ現代「なぜ遺書は集められたのか〜特攻 謎の遺族調査〜」を視て

今日、NHKクローズアップ現代を視聴しました。
番組タイトルは「なぜ遺書は集められたのか〜特攻 謎の遺族調査〜」http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3237.html

本当に久しぶりにブログを更新したのは、この番組に関連して思い出した事を忘れないように、そして多くの方に歴史の事実の一端を知っておいて貰いたく思ったので。


戦争が終わって数年後、私の母がまだ小学生位の頃、ある日巡礼のような格好をした見知らぬ人が、千葉の家を訪ねて来て、特攻の大叔父の遺書を見せて欲しいと懇願したんだそうだ。
私の祖父は、その巡礼風の男の方としばらく話をしたあと、「是非この遺書を預かって供養をしたい」と言うその方の申し出を受けて、特攻の大叔父の遺した遺書の類を沢山渡して帰したのだとか。


遺書は、遺された家族にとってかけがえのない物。
どうしてそれを祖父は見知らぬ他人に渡してしまったのか?
それが私には長年の謎でした。


千葉の生家には大叔父の遺書が二通残っていて、一通は自分の毛髪を縫いとめたハンカチで、もう一通は両親に宛てた遺書だったため、さすがに祖父もこれだけは渡さずに手元に遺したものと思われます。

特攻の大叔父は筆まめな人だったので、手紙の類とか、書き残した物がもっとたくさんあったと母の記憶にはあると言う。
それらがあれば、大叔父の人となりを知るにしても、特攻へ臨む思いにしても、もっともっと遺族には知りうる事がたくさんあったはずなのに、どうして祖父はそれを他人に預けてしまったのか?
いくら人が良いにしたって何故?
 

たった一人で全国を回り、遺書を集めて回ったと言う近江氏。
その写真が巡礼風の風体だったのをみて、ピンときた。
おそらくこの人は、千葉の家にも立ち寄り、大叔父の遺書を持ち帰っているはず。


近江氏が特攻隊員の遺書を集めて回ったのには、旧海軍上層部の意向があったと言う。
特攻は、それを命じた側にも複雑な思いを遺したのは確か。
そして終戦後の一時期、世間の風が特攻に対して冷ややかだったのも確か。
戦争中、軍神と崇め奉った彼ら特攻隊員を、戦後の日本は手のひらを返し、生きる為の方便として特攻を否定した。
そういう歴史の事実は、知られているのかいないのか…


もし、大叔父の遺書を持ち帰ったのが、番組で取り上げた近江氏ならば、そして大叔父の遺書が今も保存されているなら、是非読みたい。
大叔父が特攻に出撃する前、何を考え何を言い遺したのかを、遺族としてはどうしても知りたいから。

そして集められた遺書は、是非誰でも見られるように可能な限り公開して欲しい。
闇から闇へと葬らないで欲しい。
苦悩の中で若い命を散らした彼らの思いを、どうか後世の私たちにも読めるようにして欲しい。
posted by ぴろん at 23:34| Comment(11) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

NHKハイビジョン特集 「人間爆弾“桜花”」を視て

少し遅くなりましたが、表題の番組を視ての感想を、思いつくままに書き綴ります。

私のマイミクさんが取材の協力をしていること。
ここ数年、3月の神雷部隊戦友会の方と靖国参拝をご一緒させて頂いている関係で、私の知っているお顔が番組に出るであろうこともあり、親近感を持って番組を拝見させて頂きました。


思った通り、番組に登場した証言者の内、3名は、私もお話を伺ったことのある方。
中でも佐伯さんという元桜花隊員の方は、神雷部隊の靖国参拝の折、正義大叔父の訓練の様子を話して聞かせてくれた、大切な方です。

叔父が神ノ池基地で桜花の降下訓練を受けた際、着陸に失敗して滑走路わきの松林に突っ込んだ。
けれどたいした怪我もなく、ケロリとした顔で訓練機を下りてきた・・・という証言を聞かせてくれたのは、佐伯氏です。
家族も知らない訓練の様子を、私は佐伯氏の言葉によって知りました。


証言の内容については、私にとって特に目新しいというものではありません。
今まで特攻の大叔父を追いかけて各地を訪ね歩き、または様々な資料を読み漁り、直接元隊員の方からお話を伺う機会を得てきた私にとっては、周知のことがほとんどでした。

ただ、こうして改めて言葉にして語る様子に触れると、大叔父の最期の様子や心情はやはりこうであったかと、身につまされる場面は多々ありました。
特攻は一度出撃すれば二度と生きて鹿屋の基地には戻りません。
桜花特攻の場合、母機の一式陸攻の搭乗員は全部で7名、桜花隊員1名を加えると計8名が搭乗して出撃するわけです。
母機もろとも迎撃を受けたなら、出撃機の数×8名分、一度に人が消えていなくなる。
一度の出撃で百数十人の兵士がスッポリいなくなる、という証言は、改めて聞けば、特攻を送り出す基地の日常が如何に苛酷であったかを思わされます。

そんな中、出撃命令を待つ隊員の思いはどうだったのでしょうね。
桜花隊員の宿舎は鹿屋基地最寄りの野里国民学校。
私もこの春、野里小学校跡を訪ねましたが、周囲を田んぼと畑に囲まれた、本当にのどかで静かな土地柄です。
出撃割が決まると、上官が、隊員が宿舎にしている教室の黒板にチョークで名前を書いていく。
その名前を見たとき、大叔父はどんな思いだったのでしょうか。
記録を読むと、出撃割の発表の際も、桜花隊員の面々は底抜けに明るかったのだそうです。
出撃する隊員は「一足先に靖国へ行っているぞ!」と言い、後に残る隊員は「後から俺も行く、靖国の社の奥に俺の席も一つ取っておいてくれ」などといった会話を交わしたそうです。

ただ、そうはいっても特攻は非情な死には違いなく、昼間は底抜けに明るく振る舞ってはいても、夜寝る前になるとしくしくと泣く者、やけ酒を飲んで騒ぐ者などがいて、自分に出撃命令が下ったとき、果たして冷静にいられるだろうか?と心配した・・・と記録に書いた元桜花隊員の言葉もあります。


死を覚悟して志願したとはいえ、特攻隊員の心は日々揺れに揺れたことが、テレビに登場した証言者の言葉からもはっきりと読み取れます。
一度出撃すれば必ず死ぬ特別攻撃。
しかし十分な護衛もなく、無事敵艦まで辿りつける保障もない。
作戦としては愚策中の愚策、ということを分かった上で、それでも死の恐怖を振り切って出撃に至るには、よほどの悟りが無ければ往けるものではありません。

これまでに何度か書いたように、特攻兵の最期の覚悟を決めさせた物、最終的に彼らの背中を押した物は、後に残る家族への思い以外にはないと思う。
正義叔父の場合は、私の母(叔父の戦死時、国民学校2年生)が叔父に宛てて書いたハガキを胸に抱いて出撃をしています。
まだ幼い甥や姪を護るため、両親や兄、姉を護るため・・・と思わねば、誰が生への未練を振り切って出撃できるというのでしょうか。

番組には桜花の発進ボタンを押した方の証言も出てきます。
その瞬間、彼は眼をつぶり見ることは出来なかった、と証言しています。
いくら軍人でもあの瞬間は見られない・・・と。
その言葉・思いは、私の正義叔父の出撃ボタンを押した、故・室原知末氏の思いにも重なります。
室原氏は、大叔父の命日、5月4日が近付くと、発射ボタンを押したときの感覚がよみがえり、体中の血が逆流するような感覚に襲われたそうです。
毎年毎年、室原氏は大叔父の実家を守る家族に宛てて、墓前に供えて欲しいと長い手紙と供物を送りつづけました。
私が物心ついたころから、この手紙の存在は私も知っていて、母の実家の仏間にかかる大叔父の遺影と共に、特攻というものを身近にしてきました。
もちろん子供の私に特攻の何たるかが分かるはずもなく、特攻が余りにも非情な死であることを思い知るのは、まだまだ最近の話ではありますが。

室原氏の手紙の内、何通かは私も読ませてもらったことがあります。
達筆でしたためられたその手紙は、出撃当時の状況やその際の自分の思いなどを、まるで便せんにぶつけるようにして書き記してあったことが今も印象に残ります。
室原氏もまた、特攻から生き残ってしまった苦しみを、生涯背負い続けた方でありました。


桜花を作った技術者が仰った、自分が桜花を作ったと胸を張って言えない、という言葉も胸に詰まりました。
戦時中とはいえ、上部からの命令に逆らえない立場であったとはいえ、はやり特攻専用機を作ってしまうという、その苛酷な現状に、人の心はそんなに簡単に苦悩を凌駕してはくれないのですよね。

特攻機を作った人、出撃命令を出した人、発進ボタンを操作した人、そして特攻で死んだ人。
奇しくも生き延びて戦後命を長らえた人。
その誰もが、苦しみ悲しみの渦中に身を置いたのが、特攻です。
勝ち目の無い戦いに、戦果を出せないと分かっている出撃に、我が命を預ける。
死を覚悟するその崇高さと、稚拙な作戦行動の隙間を埋め、自分の死を意味あるものにする唯一の方法は、自分が愛する家族や友人知人のために、我が命を掛ける・・・ということであったのだろうと思います。


特攻の正義大叔父が、特攻に志願し、神雷部隊に配属されるその直前、私の母に書き送ったハガキの最後の一文には幼い子供でも読めるように片仮名書きで「オテガミチョウダイネ」の文字があります。
それに応えて、母はつたない文字をハガキに書き連ねて、叔父に送ったそうです。
特攻の大叔父の足跡を調べるため、あちらこちら訪ね歩き、今年は念願の鹿屋と沖縄に足を運んで、今強く胸に迫るのも、大叔父のハガキにある「オテガミチョウダイネ」の言葉なのです。

どんな思いで、叔父はこの一行をしたためたのだろう?
どんな思いで、母からの返事を待ったのだろう?
訓練の日々、鹿屋に移動してから出撃までの日々、どんな気持ちで叔父は母のハガキを眺めたのだろう?

そう思うと、私はとてもいたたまれない気持ちになります。
叔父の圧倒的な愛情の重さに、今も押しつぶされそうになる自分がいます。

自分の命を差し出してでも、国を護る覚悟。
家族を護る覚悟。
その気概。

理屈でなく、鬼気迫る彼らの心情が、後に残された家族の肩には圧し掛かります。
そして心ならずも生き延びてしまった元特攻隊員が、戦後の時代を苦しみや悲しみを胸の奥に抱えて生きてきたという事実も、忘れてはいけないと思っています。


念仏平和では国は護れない。
けれど、特攻の悲劇は繰り返してはならないと思っています。
人の犠牲を最小限に抑えた上で国を護るためには、トップの知恵や戦略が必要。
したたかな外交も必要。

戦後の日本という国は、そういう賢い国であって欲しい・・・
靖国の社で、私の大叔父はそんな風に思ってはいないだろうか?と近頃考えている私なのです。
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2010年11月07日

笑って往く理由

昨日茨城県阿見町の予科練平和祈念館を訪ねてきました。
http://www.town.ami.ibaraki.jp/yokaren/index.html

先月30日には、NHKハイビジョンでの特集番組「人間爆弾桜花」の放送も視ました。
それらの感想を書いて紹介するのが、本来の物の順序なのですが、それより先に書き記したいことがあるので順序の逆はお許しください。


さて。

自分の特攻の大叔父もそうでしたが、特攻で戦死された方の遺書を読むと、そのほとんどが「笑って往くからお父さんお母さん、どうか悲しまないでください」とか、「笑顔で私の帰りを迎えて欲しい」などと書かれた物がほとんどであることに気がつきます。

ちなみに、私の特攻の大叔父が両親にあてた遺書の全文は以下の通り。

  父母様
  幾星霜今日迄愛し育て下された母様
  何一つ孝を致さず何をもお詫びの申す言葉も有りません
  今迄何度か家を訪問致し私の心を明けんと致しましたが
  何か糸にでも引かれる思ひ致しそれも出来ませんでした
  今に成って何も申し上げる事は有りません
  十分御身体を強健にもたれ東洋平和をお待ちください
  父母さまも私が搭乗員に成るをお許し下された以上
  御覚悟は出来て居られた事と思ひます
  私も覚悟は出来ました
  我々が死んで皆様が幸福に成られたら何で惜しみませう
  決して父母様には驚かれず私の帰りを笑って迎へてくださいませ
  御身御自愛の程を

  昭和二十年
  父母様   正義
 
 ※旧仮名使いは現代表記に改めてあります。


非情なまでの死を前にして、何故彼らは笑って往くのか?往こうとしたのか?
実際の出撃の場面でも、特攻兵の多くは笑って特攻機に乗り、出撃していったと記されている資料がほとんどです。
特攻隊員への多くが「笑って往く理由」が、私には長いこと、どうしても理解できずにいました。


ちなみに、私の特攻の大叔父が、特攻機桜花に移乗するときの様子が、母機の一式陸攻搭乗員だった故・室原知末氏の手記に残されていますので、一部引用紹介させて頂きます。


・・・引用開始・・・

 変針から五分経ったころ、石渡兵曹は子飛行機の「桜花」へ移乗する準備にかかった。まだ少し早いのでは?と思っていると、指揮官席を離れ操縦席の後ろへ来て、
「では、そろそろあちらへ移りますから、よろしくお願いします。お世話になりました。では往きます」と、言葉短に挨拶をかわした。私は石渡兵曹と、目標の位置はブザーで送るが、符号は打ち合わせどおり、左前方の時は「モ・イ」、右前方の時は「モ・タ」とし、「桜花」発信は「ク」の長音が終わった直後に発射装置の電鍵を押して母機から切り離すからと、再確認の打ち合わせを行った。石渡兵曹は、あらかじめ作戦指令のあったことであり、軽くうなずきながら私の言葉を聞いていたが、「了解」の合図をしてふたたび「では往きます」と、右手を挙げた。別れの挨拶であった。私は胸がつまった。飛長の私があわてて右手を挙げながら、石渡兵曹の顔が笑っているのにぶつかると、正視できないくらいの神々しい気迫に圧倒されるのをおぼえた。
「では往きます」といった言葉の響きは、三十数年を経た現在でも、私の耳底にしんしんと残っていて、いつでも当時の状況を再現することができる。ふつう、「行ってきます」という言葉に始まり、「ただ今帰りました」で終わるのが挨拶の言葉だが、この場合は永遠に帰ってくることのない出発であった。まさに生きている神か、仏陀のようにおごそかなものに私の目には映った。「がん張ってください」私はつぶやいたが、それは相手には聞こえない心の叫びであった。

「天翔ける若鷲 予科練最前線の記録(読売新聞社刊)」より 
室原知末氏の手記「沖縄神雷特攻」の中から一部抜粋

・・・引用終了・・・


私はこの春、大叔父ゆかりの地、鹿児島県鹿屋市と沖縄県の本部湾を訪ねて、直感的に思ったことがあります。
それは、特攻による死がこれ以上ない非業の死である以上、後に残る家族の心に、余計な重荷を背負わせたくはないという思いやり故だったのではないか?と。
死に直面しての苦しみ悲しみもすべて自分一人の胸に収め、「俺は喜んで死んで行くのだから、家族も喜んで俺の魂の帰りを待っていてくれ」という言葉だけを家族に伝える。
それは家族を思う愛情以外の他に理由はない、と。

俺は笑って往く、だから家族には笑顔で自分を迎えて欲しい・・・
逆に言えば、そこまで真摯に思い込まなければとても出撃して往けないほど、特攻の死は非情で過酷な死なのだ・・・とも思う。



昨日、私は茨城県阿見町にある予科練平和祈念館を訪ねてきました。
展示室の壁に記されたある予科練生の遺書の一文。

「私はお母さんにカタミは遺しません。
カタミを遺すと十年後、二十年後もお母さんは私を思って泣くから」
(メモを取ったわけではないので多少の記憶違いがあるかもしれませんが)

後に残る家族を思い、笑って往く若者が、ここにも一人いました。


予科練平和祈念館の最後の展示室は、特攻の映像が流れる部屋です。
その映像を見ながら、私は涙を抑えられませんでした。
死の恐怖を乗り越えて、家族への思いを募らせたが故に、彼らは笑って往ったこと。
その思いを、今を生きる私たちは、真摯に、そして命の重みを身を持って受け止めるべきと、改めて思っています。

国を護るとは何ぞや?本当の平和とは何ぞや?と考えることを止めてしまうのは、犠牲になった多くの先人たちが後世へ託した思いに対しての冒涜である、とも言えるのではないでしょうか?
posted by ぴろん at 17:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

靖国神社秋季例大祭当日祭

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昨日18日、実家の母のお伴で靖国神社秋季例大祭に参加して参りました。
18日は例大祭の初日、当日祭ということで、この日は皇室から勅使がつかわされ、本殿で拝礼をされます。
勅使1名と御幣物をささげ持った従者2名が宮司の先導により、本殿正面の階段より昇殿をされ、拝礼をされます。
その様子を拝見しながら、心の中によぎった感情は、皇室から勅使の方が来て下さって非常にありがたいと思うのと同時に、どうしてこの場に陛下ご本人がいらして頂けないのだろう?という寂しさでした。

靖国参拝は、国のために命をささげた多くの英霊をお慰めする慰霊行為。
そこに政治のあれやこれやを持ち込んで、陛下も総理大臣も公式参拝出来ないなんて、どこかおかしい。
悔しさやら情けなさやら、様々な感情がない交ぜとなり、勅使参拝の間、私は涙が流れて止めることが出来ませんでした。

靖国参拝という慰霊行為を政治問題にすり替えた張本人は、かつての自民党。
現民主党政権はそれに輪を掛けて、靖国をないがしろにしています。
京極宮司は例大祭最後の挨拶の中で、今年の8月15日には一人の閣僚も参拝しなかったことに触れ、その一方で一般参拝者は昨年より一万人も多かったことをお話になりました。
政治は腑抜けでも、多くの国民には良識と危機感がある。
それが唯一の救いというか、希望であるのかもしれませんね。

死んだ人より生きてる人間の方が大事、とは中国の顔色を伺う人たちの常套句。
死んだ人と生きてる人の間にある絆を断ち切ることは、つまりは現世を生きている人同士の絆も断ち切ることになりはしないか?
現代日本ではびこる家族の崩壊や猟奇的殺人事件などの横行も、根源には死者との絆を安易に捨てて、利己主義に走った結果の表れ、という気もしてなりません。

多くの英霊は、「後は頼むぞ」という想いを遺して死んでいきました。
命掛けの彼らの想いに背くことは、人として許される行為ではない、とも感じます。
現世は過去の積み重ねの上にある。
未来は現世の積み重ねの先にある。
今を生きる私たちだけが、好き勝手に我が身の生を謳歌してもいいのでしょうかねぇ?
そんなこともふと思った一日でもありました。


例大祭には、遺族会会長の古賀誠氏、崇敬会会長の扇千景氏も参列。
「たけしのTVタックル」というテレビ番組でおなじみの、三宅久之氏のお姿もお見かけいたしました。

晴天に恵まれ、例大祭初日はつつがなく終了。
最後は、私たち一般の参加者も昇殿参拝をさせて頂き、帰り際には神社より一人一人に神饌を頂戴いたしました。
遊就館の無料招待券も頂きましたので、有難く入場させてもらい、特攻の大叔父の遺影にも対面して来ました。

穏やかに厳かに一心に御霊をお慰めする、その空気の荘厳で清浄なことに感激をいたし、感謝をいたしました。
身はまだ沖縄の海の底にあっても、魂は靖国の社におわす特攻の大叔父も、さぞかし心を慰められたことと思います。
来年も元気でまた来るぞ!と張り切る母と共に、靖国を後にいたし、帰宅の途につきました。
充実した良き一日であったと心より感謝申し上げております。

★写真上より

昨日の神雷桜
頂いた神饌(大きな月餅と例大祭式次第)
posted by ぴろん at 09:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月19日

終戦65年目の靖国神社へ行く

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戦後65年目の今年、昨日18日、初めて夏の靖国を訪ねてきました。
ホントは15日の終戦記念日に行くか行くまいか、当日の朝まで迷ったのですが、猛暑の中人ごみに耐える自信がなく?昨日に順延。

今年は鹿屋と本部を訪ねたこともあり、節目の年に叔父さんに会いに行きたかったので・・・



拝殿前、心に浮かぶ言葉はただひとつ。

「どうか安らかに・・・」


靖国神社に参拝する時、家内安全だとか健康祈願だとか願い事をするのは、申し訳ないような気がしてしまいます。
拝殿前に立つと、世俗の雑念はどこかに消えてしまいます。

神雷桜は、今年の猛暑でいくらか暑さ負けしていたような・・・
大きく太った幹に触れると、戦後65年の年月の重みと65年前の暑い夏を感じます。


参拝の後、遊就館で改めて桜花のレプリカをじっくりと見てきました。
鹿屋の基地を飛び立って、東シナ海海上をおよそ3時間かけて飛び、沖縄本島西側より本部湾めがけて特攻したその姿が、まぶたの裏にリアルに浮かぶような気がして、心が締め付けられるような思いがしました。

桜花に乗り移って発進大破するまでのわずかな時間、あなたは何を思って逝ったのでしょう?



それから、もしもお時間のある方がいらっしゃいましたら、こちらのサイトで紹介されている画像をどうぞご覧ください。
遊就館内の、桜花特攻のジオラマ展示ブース横で流されている映像と同じものです。
元神雷部隊の鈴木氏が、特攻について貴重な証言をされています。

http://morinoske.com/
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2010年08月14日

なぜ、誰も特攻を止められなかったのだろう?

最近、「永遠の0(ゼロ):百田尚樹著・講談社文庫」という一冊の本を読破しました。
それを読んでの感想を、今日は少し書き綴りたいと思います。

ネタばれになると困るので、内容についての詳細は省きます。
大雑把に説明すると、26歳の一人の青年が、沖縄特攻で戦死した祖父の生前の生き様を求めて、全国各地の戦友を訪ね歩く、という内容の小説です。

改めて言うまでもなく、私の肉親にも沖縄特攻で戦死した大叔父がおり、彼の生前の足跡を辿って、つい先日鹿児島県鹿屋市と沖縄県本部湾を訪ねてきたばかりの私には、小説の設定に親近感を持ちました。
小説の形はとっていますが、その内容は、実際の特攻の現状に極めて限りなく肉薄するものと思います。
関心のある方は一度ご一読頂くとして、私が特に興味を引かれたのは、小説の第9章「カミカゼアタック」に出てくる、元海軍中尉の武田という老人が、主人公の健太郎に語る証言の部分です。
その中から、特に、私の心を惹きつけて止まない一文を、ここに引用してご紹介をさせてください。


・・・引用開始・・・

「特攻の父」と言われる大西瀧治郎中将は終戦の日に切腹して死んだ。この死を「責任を取って死んだ」立派な死と受け取る者も少なくないが、私は少しも立派とは思わない。多くの前途ある若者の命を奪っておいて、老人一人が自殺したくらいで責任が取れるのか。
 百歩譲って、レイテの戦いでは、やむをえない決死の作戦であったのかもしれない。しかし沖縄戦以降の特攻はまるで無意味だった。死ぬ勇気があるなら、なぜ「自分の命と引き換えても、特攻に反対する」と言って腹を切らなかったのだ。

・・・引用終了・・・



この言葉を読んで、私ははっとしました。
長年、心の中でもやもやした思いを抱えつつ、上手く言葉に出来なかった私の率直な感情。
それがこの一文には見事に表現しつくされている、と強く感じたからです。



特攻は外道の統率、とは巷間良く言われる言葉。
そして、私がここで改めて説明するまでもなく、特攻隊員に選抜された若者の多くは優秀な人材でした。
生きていれば、日本の発展のためにどんなに役に立ったかわからない人たちでした。
その未来ある優れた若者を、勝ち目の無い絶望的な特攻作戦の渦中に、虫けら同然に投入して死なせた責任は、一体誰が取ってくれたというのだろう???
それが大叔父の足跡を追う一方で、いつも感じる素朴な感情でした。


特攻の責任問題を語る時、大西瀧治郎中将の割腹自殺の話は、必ずと言っていいほど出てきます。
特攻に少しでも関心なり知識なりをお持ちの方で、大西瀧治郎中将の名前とその壮絶な最期を知らない方はいないでしょう。
戦争中「君たちだけを往かせはしない、俺も必ず後を追う」と言いながら、その言葉と裏腹に姑息に戦後を生き延びた人もいる中、自ら自決した大西中将。
部下の介錯を拒み、数時間も七転八倒の末に絶命した・・・壮絶な最期を遂げた、大西中将の死は軍人として天晴れだと。


確かにそういう見方も出来ると思いますし、そういった類の意見に異を唱えるつもりは私にはありません。
大西中将は終戦の日、彼なりに責任を取って自決したという、その心情は私も理解します。
ただ現実問題として、特攻でリアルに肉親を失った遺族の立場から見れば、何か釈然としないもやもやした感情が、ずっと私の心の奥底でうごめいていたのも、また事実です。



大西中将が如何に壮絶な最期を遂げようと、特攻で死んだ多くの若者の命は一人も返ってこない。



それは、遺族としての偽らざる率直な思いです。
特攻そのものが無謀な作戦と分かっていたなら、終戦後に腹を切るのではなく、戦争中に命を掛けて、特攻作戦を止めてはくれなかったのか?
それは何も大西中将でなくても構わない。
誰か一人でも、特攻作戦を強行しようとする上層部に対し、自らの体を張ってでも特攻作戦を阻止してくれる人がいたなら、三千人とも四千人ともいわれる多くの特攻隊員の命は、あるいは救われたかもしれない。

そう思ってはいけないでしょうか?



本当に国を憂えるならば、責任ある立場にいた人たちは、日本の未来を担うはずの多くの優秀な若者の命を、どうにかして生かす策を講じて欲しかった・・・とも思うのです。
歴史にif、もしも、という仮定の話をしても仕方がありません。
あの戦争の時代を必死に生きた人たちに、そこまでの覚悟を求めるのは筋違いかもしれない。
私の戯言は、所詮は戦後生まれの平和ボケの極みかもしれません。

でも。

歴史の教訓に学ばなければ、人は同じ過ちを繰り返す。
なぜ誰も、この無謀な特攻作戦を止められなかったのか。
多くの優秀な若者を無意味に死なせてしまったのか。

・・・という本当の意味での反省を今こそしなくては、多くの特攻隊員の死はいつまでも報われない・・・とも思うのです。



特攻は愚策中の愚策。
決して繰り返してはいけない歴史の悲劇、です。
その悲劇を繰り返さないためにも、大西中将の割腹自殺を美談として感じ入った所で思考を止めてはいけないのではないでしょうか。
四千人もの若者を死なせた後で、後追いで一人腹を切った所で、正直どうにもならない。
それが桜花特攻での大叔父の壮絶な死の重みを両肩に背負っている、肉親としての私の率直な感情です。


命を捨てる覚悟が大西中将にあったのならば、死んで責任を取る覚悟があったのならば・・・
多くの前途ある若者の命を救うために、終戦後ではなく特攻作戦を開始する前に、特攻実施を強硬に唱える上層部と例え刺し違えてでも、無謀なこの作戦を阻止して欲しかった・・・

・・・と言ったら、言い過ぎでしょうか?



私の特攻の大叔父は、自分の運命をどう受け入れ、十死零生の特攻作戦の渦中にどう身を置いていたのか?
出撃の地・鹿屋を訪ね、終焉の地・本部を訪ね、いまだ一片の骨すら故郷に帰れないまま、本部湾の底に沈んている叔父の肉体を目の前にして、どうしてだれ一人として、このあまりにも不条理な作戦を止められなかったのか?と思わずにはいられないのです。


予科練の試験を一番で通ったほど、優秀だったという正義大叔父。
その彼を虫けら同様に死に追いやり、その作戦遂行の責任を誰も取らないとしたら、遺族としてはとても納得できるものではありません。
大西中将が如何に壮絶な自決を遂げようとも、特攻という余りにも残酷な死に直面せざるを得なかった若者の無念と、後に残る遺族の悲しみは、どんなに年月が過ぎようともそう簡単に消えるものではない、と私は感じております。
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2010年05月20日

沖縄備忘録

母と共に特攻の大叔父を訪ねる慰霊の旅から帰って、早一ヶ月が過ぎました。
印象に残った旅の出来ごとはすでに書き綴りましたけど、一つだけ忘れていたことがあったので追加で書き記します。
備忘録を兼ねて・・・


まずは旅の二日目、平和の礎を訪ねた時の思い出です。

ここを訪ねた方はご存じだと思いますが、平和の礎に入るとすぐのところに数ヶ所タッチパネル式の検索ガイドがあり、探したい人の名前を入れると、碑の所在地を教えてくれます。
まずはそこで大叔父の名前を入れて、碑のあるところを探し出し、所在地をプリントアウト。
それを手に広い公園内を探すのですが、そこはガイド役も兼ねた観光タクシーのドライバーさん。
平和の礎は案内し慣れていると見えて迷うことなく、千葉県出身者の礎まで連れて行ってくださいました。

碑文に刻まれた名前は50音順に並んでいます。
石渡のいの字は、50音の初めの方と見当をつけて、石井や石田など石の文字から始まるあたりを探し始めた時でした。

「あ!いた!叔父さん、ここにいた!」

母の大きな声でした。

普通、碑文に刻まれた名前を探し当てたらば、ふつうは「あった!」と言うでしょう。
でも、母は「いた!」と叫んだのです。

碑文に刻まれた多くの名前は、縁もゆかりもない人から見れば、ただの名前の羅列です。
でも母にとっては、石碑に刻まれた叔父の名前は、命の温もりを持った叔父の存在そのもの、だったのだと思います。
だから大叔父の名前を見つけた瞬間、本能的に「あった」ではなく「いた!」と叫んだのではないか?と。

そして叔父の名前に取りすがって、後は涙、涙。
「長い間、寂しい思いをさせてごめんなさい、叔父さんやっと逢いに来たよ」と。

沖縄は千葉からは遠い所、そう滅多に行けるところではありません。
石碑の名前を写し取って持ち帰ろうと考えて、事前に半紙を準備していったのですが、石碑に半紙を当てて鉛筆でこすって叔父の名前を写し取るその瞬間、自分の口から出た言葉が、

「せめて名前だけでも千葉に連れて帰る」

でした。
持って帰るのではなく、連れて帰る。
石碑に刻まれた名前を目にしたその瞬間から、私にとっても、叔父の名前が刻まれた石碑はただの碑文ではなくなったのだと思います。



旅の3日目、本部湾にて。

本部の海をどうしても訪ねたかったのは、叔父は特攻で戦死し遺骨のひとかけらも故郷には帰れなかったので、叔父に逢いたいと思ったら、叔父の肉体の沈む海に、こちらから訪ねていかなければ逢えないと思ったから。
叔父もきっと海の底で寂しい思いをしながら、肉親の訪れを心待ちに待っているのでは?と思ったからです。

で、苦心惨憺ようやく訪ねた本部の海で、「叔父さん逢いに来たよ〜!」と母子共々声を限りに叫んで。
花と線香を供えて、遺骨代わりに本部の浜の石と砂を拾い集め、小一時間も過ごしてさて、そろそろ帰ろうとなった時、母の口から思わずこぼれた言葉が、

「叔父さん一緒に帰ろう!和子が叔父さんを背負って帰るから、一緒に千葉まで帰ろう!」

でした。
はるばる千葉から逢いに来ても、叔父の遺骨を連れ帰ることは出来ない。
身代りに浜辺の石と砂を拾っても、やはり叔父の体は、目の前の本部湾の底にいるわけで、置いて帰るのはどうにも忍びない。
さて、困ったどうしよう、と思ったその瞬間に、母が叫んだわけです。
「一緒に帰ろう!」と。

その瞬間、私も思いました。
そうだ、一緒に連れて帰ろう、このまま一人ぼっちで叔父さんの魂を置き去りには出来ない。
連れて一緒に千葉まで帰ればいいんだ、と。
そう思った瞬間から、後ろ髪引かれる思いがす〜っと心の中から消え去る感じがしました。
物理的には叔父の骨を拾ってはいないので、叔父の体は今も本部の海の底にいるわけですが、それでも魂だけは一緒に沖縄から空路千葉まで連れ帰ってきたと感じております。



南方で、シベリアで、無念の死を遂げた日本兵の遺骨が、まだ収拾されずに現地に残されています。
きっと彼らは祖国日本に帰りたいに違いない。
家族のもとへ、故郷へ、帰りたいはずだと思います。

いつだったかアルピニストの野口建さんが、縁あって南方のあるところへ元日本兵の遺骨の調査に同行したとき、多くの遺骨を見つけながら、様々な理由でその御遺骨を持ち帰ることが出来ず、現地に置いたまま日本へ戻らねばならなくなったことがあったそうです。
その時、野口さんは「必ず皆さんを迎えに来るから、もうしばらく待っていて欲しい」と涙し、後ろ髪引かれる思いで現地を離れた・・・という記事を読んだことがあります。
そのお気持、今の私には分かるような気がします。
目の前に、御遺骨があって、無念の魂の存在を目にした時、人はそのままその場を立ち去るなんて、出来ないことだと思いますから。


何気ない一言ではあるのですが、母の発した「叔父さんいた!」と「叔父さん一緒に帰ろう!」の言葉に、肉親ならではの思いを感じて頂ければ幸いです。
知らない人が見れば、ただの石碑、ただのサンゴ礁の海です。
でも、ゆかりの者には、それは単なる物体でも風景でもなく、魂の宿る寄りしろであることを、ご理解いただければ嬉しく思っております。
posted by ぴろん at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月09日

今年の5月4日

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連休中は、バタバタと仕事に追われ、連休明けには拉致支援の街頭活動に追われで、今年の大叔父命日の靖国参拝について書く暇がありませんでした。
ようやく忙しさも少しだけ息をつけたので、忘れないうちに、いろいろと今年の思いを書き記したいと思っています。


5月4日は、私の特攻の正義大叔父の命日。
実家の両親、妹と途中駅で待ち合わせて、今年も靖国へ行ってきました。

今年は念願の鹿屋&本部の慰霊の旅もしたことですし、叔父さんの御霊にその旨を報告する、という大きな目的もあります。
歳を重ねて歩みが少し遅くなった母の隣で、歩調を合わせるようにして、九段の急な坂を上り、社を目指しました。


手水を済ませて神門をくぐり、まずは神雷桜へ。
ご本殿の奥深くに叔父の御霊がいらっしゃることは分かっていますけど、戦友との再会を誓った神雷桜は、遺族にとってはもう一つの寄りしろであり、叔父の肉体そのもの、といっても過言ではありません。
年月を重ねて大きく太ったその幹に手を添えると、陽の光に暖められた幹のぬくもりはそのまま叔父の体温のような気がします。
春、桜の季節には淡いピンク色に染めていたその姿も、すっかり新緑の若葉に変わり、風にそよぐ若葉の葉ずれの音は、叔父の息遣いのような。

母は靖国を訪ねると、いつもいの一番に神雷桜に抱きつきます。
神雷桜を抱きしめることは、母にとっては、そのまま特攻の正義叔父を抱きしめるのとイコール。
そして、涙。


昇殿参拝をお願いし、他の参拝者と共に御社深く進んできました。
今回の昇殿参拝は、どういうわけか遺族の方が多かった。
昇殿はこれまでに何度もさせてもらっていますけど、遺族の方と同席することはあっても我が家の他にもう一軒くらい、というのが常でした。
お日柄が良かったのか、たまたまだったのか分かりませんが、この日は大叔父を入れても全部で5名ほどの遺族が集まり、ご一緒に昇殿させて頂きました。
昇殿の拝礼でも、いつもなら家族の代表1名だけが榊をささげて拝礼するのですが、この日は遺族が多いことに配慮してくださったのか、昇殿した参拝者全てに榊を渡してくださり、それぞれ拝礼をさせて頂きました。

静かに頭を垂れて目を閉じると、つい先日訪ねたばかりの鹿屋基地の風景や本部湾の景色が目に浮かび、涙を抑えることが出来ません。
今までも、資料や本などでそれなりに叔父の足跡はたどってきたつもりですが、やはり現地に足を運んで直接にその場の空気なり距離感なりを感じてくると、心に迫るものの強さは違うのだと実感します。

「叔父さん、あなたの人生の最期の場所を訪ねてきました。
残しおきたしわが心かな・・・と願ったあなたの心の内のいくばくかでも感じる旅が出来たと思っています。
この思いを一人でも多くの方に伝えますから、どうか心安らかにお眠りください」


参拝後は、すぐ隣にある遊就館へ。
ここを訪ねるのも、もう何度目なのか分かりません。

でも、例えば沖縄の地に立ち、目の前に迫る東シナ海とその向こうにある中国の存在を意識して戻った視点で展示物を見ると、従来の自虐史観だけでは語れない、当時の日本の切迫感を感じます。
沖縄を守るために、そして一隻でも多くの米戦艦を沈めるためにと出撃した特攻隊員の胸の内を思うと、今までの「戦争=軍隊=悪」という単純図式の思考のままでいいんだろうか?と素朴な疑問も感じます。
戦争はしないに越したことはないけれど、憲法9条を金科玉条のごとく拝み倒し、戦争の出来ない国のままでいることが果して本当の意味での平和の維持につながるんだろうか?・・・とも。


遊就館の中には、特攻機桜花のレプリカが展示されています。
私たち家族がその場にたどり着いた時、小学校3〜4年生くらいの男の子を連れた若いご夫婦が、そのレプリカを興味深そうに見学しているところに出くわしました。
と、次の瞬間、母はその親子に歩み寄り、今日は特攻の大叔父の命日であることや今目の前にある桜花に乗り沖縄に出撃したことを、身振り手振りで説明を始めたのです。
相手のご家族が、母の話に興味を示してくださったこともあり、母はいつもバッグに入れて持ち歩いている叔父からのハガキや遺影、沖縄の旅で半紙に写し取ってきた大叔父の名前を見せながら、「国や家族を思って死んでいった若者がいることを、どうか忘れないでください」と涙ながらに語り始めたのです。

鹿屋と本部の旅でも、途中現地の方と言葉を交わす折には、必ず叔父の話を切り出しては、「どうか忘れないでほしい、こういう若者がいたことを知って欲しい」と、涙交じりに喋り続けていました。
いきなり特攻の話を聞かされる側からしてみれば、このおばさん、なんだろう?と思う方も多分いらっしゃっただろうと思います。
どちらかといえば人見知りするタイプの母が、人が変わったように堰を切って叔父の話をする様子を見るたびに、この頃思うのです。
母は、叔父の事を伝えたいんだな、と。

母も戦後65年を経て、今年72歳になりました。
残りの人生あと何年か、あとどれくらい元気で出歩けるのか?と考える歳になってしまいました。
自分が元気なうちに、一人でも多くの人に叔父さんの存在を知ってもらいたい・・・そんな切なる思いを、この頃の母の後ろ姿に感じています。

遊就館での親子連れは、幸いにも母の話を関心を持って聞いてくださりました。
別れ際には、貴重な話をありがとうございます、と仰ってもくださりました。
母は最後に小学生の男の子に向かって、「私の叔父さんが亡くなった時、私はちょうど君くらいの歳だったんだよ。姪っ子を護ろうとして死んだ人がいることを忘れないでね」と話しかけてお別れをしました。

その男の子の心のうちに、母の話がどの程度伝わったのか?は正直分かりません。
小学生の子供が聞くには、特攻というのは余りにも話が凄すぎて、その苦しみや悲しみを理解するのは相当に難しいと思うからです。
実際、私も小学生くらいの頃は、祖父母から叔父の話をいくら聞かされても、特攻がどれだけ壮絶な死であったかをイメージすることは出来ませんでしたし。

でもいつか、もう少し大きくなって自分の意思で歴史の勉強をするようになった時、彼の心の中で、母とのやり取りが少しでも思い出されてくれれば、それでいいと思っています。
男の子から見ればまったくの赤の他人のおばあちゃんが、いきなり自分の目の前で、大粒の涙を流して叔父の思い出を語るその姿を心の隅にとどめ置いてもらえれば、英霊の心は必ずその子にも伝わるのだと、私は信じたいですから。
posted by ぴろん at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

沖縄の旅・・・本編

沖縄二日間の移動には、奮発して観光タクシーをお願いしました。

理由はいろいろ・・・そもそも免許を持ってない、というのもありますが、極度の方向音痴の私は初めての場所は必ず迷子になる、というリスクがあり、これを考慮しないわけにはいかない・・・(^^ゞ

それに糸満市にある平和の礎は、誰にも知られた観光地でもありますが、本部湾の方は、何か記念碑や慰霊碑があるわけでもなく、とにかく海を一望できて可能であれば浜に降りられる所・・・と、目的地が非常にアバウトですから。
これはある程度地元の地理に詳しい方に連れて行ってもらわないと、どうにもならん、と思っての決断でした。

結果的には、これが非常に良かった・・・と思っています。


観光タクシーを生業にされている方ですから、運転手さんは沖縄のあらゆることを勉強されているわけです。
もちろん、沖縄の地上戦についても非常に詳しい。

特攻に関してなら、私もそれなりに資料を読み漁りある程度の知識を持っていますけど、沖縄戦についてそれほど詳細な知識があるわけじゃありません。
もちろん沖縄戦に関しても多少は勉強してますけれども・・・

逆に運転手さん側は地上戦には詳しくても、特攻に関してはアバウトな知識しかお持ちではないのです。
で、私の持つ特攻の情報と、運転手さんの持つ地上戦の知識をすり合わせると、相乗的に沖縄戦の地上と海上の戦況の様子が、大変なリアリティーを持って浮かび上がってくるわけです。
車が走るのは、まさしく沖縄戦の現地そのもの。
これほど有益な歴史の勉強も他にない、と感じました。

沖縄には、室原さんが書き遺してくださった、叔父の最期の様子を記した手記のコピーを持参しました。
それを改めて現地で読み返しながら、本部湾では叔父の桜花の投下状況を目の前の景色に重ねて再現しました。
地図の上で辿るだけでは分からない、当時の様子が、目の前に浮かびあがりまして、これが現地を訪ねる一番の良さ、と実感しました。


本部では、車一台がやっと通れるような、おそらく地元の人しか知らないような細い道を抜けて、本部湾を一望できる場所を案内して頂きました。
これ、いくらナビ付きのレンタカーを借りても、自力でこの場所にたどりつくのは難しかったかも?
それに本部湾には私たち以外には人の影も無く、記念の写真を撮るにも風がとても強くて、仮に三脚を持参しても役には立たなかったと思われます。

観光案内付き・カメラマン付き・道案内付き・・・と思えば、タクシー代は決して高くはなかったと、親切にしていただいた運転手さんには心より感謝しております。




空港で運転手さんとお別れする際、「私たちの慰霊の旅に同行して、私もとても勉強になった」と仰ってくださいました。

私からも、
「これも何かのご縁、手記のコピーを差し上げますので、よろしければ読んでみてください」
と、持参した室原さんの手記の写しを、運転手さんにお渡しいたしました。

亡き大叔父の思いや室原さんの思いが、こういう形で少しでも広がれば、それも供養になるのでは?と思っています。
posted by ぴろん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅を終えて

※2010年04月16日17:51 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・

念願の鹿屋&本部の旅を無事終えました。
母の足腰が立つうちに、という願いがかなえられてホッとしています。

旅を終えて今一番思うのは、やっとこれで気持ちが一区切りついたなぁ、ということ。
良くテレビなどで「ようやく私の戦後が終わった」というセリフを耳にしますが、あれに近い感情が今私の中にはあります。



特攻の死は、遺骨の一片も拾えない死です。
うちの正義叔父の場合は奇跡的に、最期の地を知る手がかりがありましたが、多くの遺族にとっては、肉親の終焉の地を知ることすらできない。
分からなければ、最期の場所を訪ねて行くことも出来ないわけです。

でも、私たちは本部を訪ね、叔父の最期の突撃の様子を目の前に再現することが出来る。
それが、どんなに心の区切りをつけるのに役立っているのか?ということを、深く実感しています。
その意味で、逆に最期の様子が分からないご遺族は、いつまでも苦しい思いを引きずって辛い思いをされるのだろうな、との思いも強くしました。
区切りがつかなければ、多くの遺族にとって戦後は終わりたくとも終わらないのだ、と実感を持って受け止めています。


本部の浜で花束を捧げた後、浜辺で石と砂を少し拾い集めました。
叔父の遺骨を拾うことは出来ないけれど、この浜辺にはもしかしたら、叔父の骨片が一部なりとも打ち寄せられていたかもしれない。
そう思いながら、砂と石を拾い集めた後、本部を立ち去るとき、後ろ髪を引かれる思い、というのは不思議とありませんでした。

本部の海に向かって「叔父さん!私が叔父さんを背負って千葉に帰るよ!長い間待たせてごめんなさい!」と母が叫んだ通り、叔父の魂を一緒に連れて帰って来たような気がしているのです。

物理的には、今も叔父の肉体は本部の海の底にあります。
魂は靖国の社にいるもの、と信じて参拝も続けてきました。
戦死の公報をいただいて、空っぽの白木の骨箱ももらっていますし、千葉の実家には叔父の爪と髪を納めて作った墓もある。

でも、何かが足りない。
長い間、心のどこかで漠然とそんな思いを抱えて過ごしてきました。
その足りなかったものが、今度の旅で埋められたような、そんな満足感・充足感があります。


鹿屋も本部も、遠い。
飛行機に乗れば半日で行ける距離だけど、日常に追われていれば、そんなに簡単に行ける距離でもありません。
その遠い遠い鹿屋と本部に行って、叔父が人生最後の時間を過ごした場所と、肉体の沈んでいる場所を訪ねて、ようやく、心の隙間が埋まったような・・・そんな感じ、と言ったらいいでしょうか。

自分たちの手で、鹿屋、平和の礎、そして本部湾から叔父の魂を故郷に連れ帰り、これでようやく叔父さんもひとりぼっちで寂しい思いをしなくて済むと思うと、心から本当にホッとしています。
posted by ぴろん at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ただいま

午前様ジャスト!!の時間に無事帰宅しました。
※2010年04月16日01:21 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・・・

おかげさまで、正義叔父慰霊の旅は無事終了しました。

3日目の朝は、ザーザー振りの雨。
あれま、これからこの旅一番のイベント、本部に行くというのに困ったな〜〜と思っていたら、途中宜野湾市あたりで雨も上がりまして。
本部では風こそ強かったものの、無事に大叔父終焉の地を訪ねることが出来ました。

で、本部を離れた直後に再びの雨。
これは、叔父の涙雨に違いない、と・・・


無事慰霊の旅を終えて、心が急に軽くなったような気がしています。
ここ数年胸につかえていたものが、スッと落ちたというか。

3日間、本当に良い旅が出来ました。
明日以降、詳しく旅の思い出を書き綴ります。
取りあえず無事に千葉まで帰れて、「皆様ただいま〜〜!!」ということで、取り急ぎ休みます。
明日から早速、私の日常再開ですので・・・(笑)
posted by ぴろん at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄・平和の礎

※2010年04月14日19:02 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・・

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正義叔父さんの名前を見つけました。
一度も会ったことのない人なのに、どうして涙が止まらないんだろう?

半紙に名前を写し取って、せめて名前だけでも千葉に連れ帰ります。
65年、待たせてごめんなさい・・・
posted by ぴろん at 09:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿屋、朝

※2010年04月14日07:35 mixi日記に投稿

・・・・・・・・・・

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午前6時の朝日をホテルから母と共に見ました。
丁度、大叔父が鹿屋から飛び立った時刻。
この時刻、この朝日の中を沖縄目指して、飛び立ったのか・・・と思ったら、涙がこぼれました。

これから鹿児島空港に移動して那覇へ飛びます。
65年前と同じ空を飛んで、叔父のいる沖縄の地に降り立ちます。
posted by ぴろん at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

鹿屋にて

※下記エントリーは、平成22年4月13日午後17:57にmixiへ投稿

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★航空資料館二階展示室に掲示されていた大叔父の遺影
 資料館側のご厚意で特別に撮影させていただきました

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★資料館入口

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★特攻慰霊塔全景

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★戦死者の芳名が刻まれた石碑 写真中央に「石渡正義」と大叔父の名前


・・・・・・・・・・

予定より早くホテルに着いたので、ロビーのPCから書き込みしてます。
朝5時に家を出て、飛行機とバスを乗り継いで航空資料館に着いたのがちょうど11時。
鹿屋は、ちょっと遠かった。。。(汗)

資料館の受付で特攻隊員の遺族のものです、と名乗ったら、すぐに大叔父の史料を出してくださり、学芸員の方が着いて展示物の説明をしてくださりました。
資料館二階の展示室には、正義叔父さんの遺影もきちんと掲示されていました。
母は、写真の前で泣きました。

資料館の二階の窓からは、基地の全景がほぼ見渡せます。
現在の滑走路は当時とほぼ同じ位置だそうで、沖縄出撃の際、母機の一式陸攻が滑走路の端から端まで使って離陸したという風景が、そのまま目の前にありました。

途中、訓練中の自衛隊機が離陸する場面を何度か目にし、飛び立つ方向が同じなのを見て、65年前の出撃風景が目の前によみがえるような錯覚を覚えました。

この基地から南が沖縄の地。
叔父さんは、ここ鹿屋からどんな思いで飛び立ったのでしょう?
多くの特攻隊員はここを飛び立ったまま、二度と帰らないわけで、それを見送る人たちの気持ちはどんなだったのだろう?と思うと、胸が痛い・・・


特攻慰霊碑では出撃者名簿の中に大叔父の名前を探し、せめて名前だけでも連れ帰りたいと、持参した半紙に刻まれた名前を写し取りました。
途中散歩のために訪れた地元のご婦人と行き交い、少しお話をいたしました。
その方の話によれば、慰霊碑に花の絶えることはなく、地元の方によって英霊の御霊は手厚く護られていることを実感。
これならば、叔父さんも寂しい事は無いと感じ、心からありがたく思いました。

桜花別杯の碑は、桜花隊員の宿舎があった、旧野里国民学校の跡地にある記念碑。
田んぼの迫る里山の縁に、その碑はありました。
往時を偲ぶものはすぐ隣の小さなお社くらいですが、ここで叔父は仲間とともに、出撃の日を待って過ごしたのか、と思うと胸が詰まります。

出撃命令を受けて、野里国民学校の宿舎を出て、資料館のある鹿屋基地にトラックで移動したという、その風景が現地に立つと、まざまざとその距離感・空気感を感じて、身につまされます。

基地から鹿屋の市街地まではおよそ2キロ、車で10分ほどの距離。
隊員達は、時々基地を抜け出して町に繰り出したとも聞きますが、その距離感も現地に立って、初めて実感できることのひとつです。

遠いけれど、思い切って来て本当によかったなと。
母が元気なうちに、一度は鹿屋を訪ねたいという夢が叶って、とりあえず今はホッとしています。

明日は、鹿児島空港から那覇へ飛びます。
叔父の出撃空路をほぼそのまま辿って、終焉の地沖縄を目指します。
叔父の気配を追いかけて、叔父の生きた証をじっくりと感じる旅は、明日以降も続きます。

乱文乱筆ですが、取り急ぎ報告まで。
posted by ぴろん at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿屋&本部へ 特攻の大叔父の足跡を辿る旅

念願だった正義叔父の縁の地、鹿児島県鹿屋市と沖縄県本部湾を訪ねて母と共に旅をしてきました。

mixiの日記に現地から書きこんだ文章をここに転載し、続けて鹿屋と本部で感じた思いを、このBlogにも書き綴りたいと思います。
特攻の大叔父関連のエントリーが連投しますが、宜しければお読みください。
旅先の短い時間で書いた文章はかなり乱文ですが、その代わり、その時感じたまっさらの感情をストレートに書いているとも思うので、そのままここでもご紹介します。

お付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>
posted by ぴろん at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月01日

神雷桜

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実家の両親と待ち合わせて、靖国神社へ神雷桜を見に行ってきました。
開花状況、本日満開宣言が出た模様ですが、私の実感では7〜8分咲き位だったでしょうか?
それでも見事な咲き具合だったと思います。


多くの特攻隊員が、靖国での待ち合わせの場所と定めた神門右二番目の桜。
私の大叔父さんの魂の拠り所。

靖国を訪ね、神雷桜に逢うと、やはり心がホッとします。
でも、母が神雷桜の大きな幹にしがみ付いて話しかけても、返事はないのです。

「叔父ちゃん、な〜んにも喋ってくれない」

母は一言ぽつんとつぶやき、寂しそうな顔をして、しばし桜に寄り添ったまま時間を過ごしました。

今年も花開く時期に神雷桜に逢えて、感無量。
来年も、またきっと逢いに来ます。
それまで、まずは母に元気でいてもらわねば・・・

叔父の戦死時7歳の少女も、この春72歳になりました。
年月は無情に過ぎていくのです。
posted by ぴろん at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月27日

伝える

先日の神雷部隊戦友会の慰霊祭でご一緒した、あるご遺族の方は、お兄様を特攻で亡くされています。
特攻兵は普通次男以下が志願し選抜されるのですが、お兄様は長男であるにも関わらず特攻兵に志願されました。
しかもその事実を両親には隠しての志願だったのだそうです。

彼の母親はある日、面会のために茨城の訓練地を訪ねたそうです。
その時上空を訓練で飛ぶ飛行機(多分、桜花の訓練機のこと)をみて、旅館の仲居さんに「あれは何ですか?」と聞きました。
仲居さんは「ああ、あれは神様です」と一言答えたとのこと。

飛行機を見てそれを即「神様」と呼べば、それは特攻の訓練であることは当時の日本人には常識です。
いくら息子が何も言わずに黙ってても、母親には長男が特攻に志願したことはすぐに分かります。

面会の席で母親は息子に「おまえは特攻に志願したのか?長男なのになぜ志願したのか?」と問い詰めましたが、息子は最後まで頑として口を割らなかったとか。
その席に戦友として同席した前述の元桜花特攻隊員も、お母様に厳しく問い詰められ往生したとか。
あの日の母親の様子は今も忘れられない・・・そうです。


私のマイミクさんが、最近「神雷部隊始末記」という本を出版されました。
その本を見て、最近になって神雷部隊で戦死した特攻隊員の遺族の方が、自分の肉親がどういう人だったのかを知りたいという問い合わせが、戦友会の関係者の方のもとにもたくさん届いている、というお話が直会の席で披露されました。
問い合わせを受けて、「その人のことなら北海道のどこそこに住んでいる○○さんが同期だから彼に聞くといい」と連絡先を教えることもあるそうです。
教えられた連絡先に電話を入れて早速話を聞きました、とお礼の電話を頂くこともあるそうで。

そのお話を伺い、改めて私は自分の幸運を思わずにはいられない、と感じています。
自分の息子が、兄貴が、夫が戦場でどんな死に方をしたのか?を知りたい・・・と思うのは人情だと思います。
けれど特攻の場合、その攻撃の性格上、多くのケースが実際の戦闘の様子を知るすべはないのです。
それどころか、前述のご遺族の方のように、自分の息子が特攻に志願したことそのものを知らされていないケース、戦後占領期に世間の批判を恐れて、名簿などの関係書類が破棄されたり紛失したりで、誰がいつどこで特攻したのかという基本情報すらうやむやになっているケースなどが、たくさんあると聞いています。

そして多くの特攻隊員はそのほどんとが未婚のまま戦死していますので、今遺族としてある人たちも、親・兄弟・妻という立場の人はごく少数。
肉親であっても私の母のように姪であったり、私のように姪の娘であったりと、どんどん縁が遠くなるわけです。
縁が遠くなり時間がたてば、肉親といえども、特攻隊員として死んだ身内の人となりが分からない・・・というのは有り得ることです。
それでも、肉親の死に少しでも関心を持てば、その人がどういう人であったのか?
わずかでもいいから知りたい、知って供養をしたい・・・と思う気持ちは、私にも痛いほどよくわかります。

幸運にも母機の一式陸攻が無事生還して、搭乗員の室原さんが手記を書き残し実家に手紙を送り続けてくれたことで、我が家の場合は正義大叔父の人となりも特攻の様子も、戦死の地も全てが分かっています。
だからこそ、終焉の地である沖縄の本部を訪ねて行くことも出来る。
その幸運に感謝し、肉親が訪ねることさえ出来ないであろう、多くの特攻隊員の御霊を思って、本部湾に頭を垂れたい・・・との思いを強くしています。



慰霊祭でご一緒した元桜花特攻隊員のAさん。
彼は今も戦友のご母堂とやり取りをされているのだそうです。
戦後65年経って、まだ健在のお母様がいらっしゃることに驚きつつ。(御歳100歳を超えていらっしゃるそうです)
戦友の死を忘れたくないとAさんは毎年の命日に靖国参拝を欠かさず、鎌倉の建長寺の慰霊碑を訪ねては、お母様の分までお参りしましたと、鎌倉銘菓の鳩サブレをお母様の手元に送り続けているのだそうです。

お母様からは、「今年も鎌倉から鳩が飛んできた」とお礼の言葉を頂き、同時に次のような言葉を仰るのだ、と私に語ってくださいました。


「Aさん、人間には二つの死があります。ひとつは医学的に、生物学的に死ぬこと。もうひとつは、その人の存在が忘れ去られて人の心から消えてしまうこと。忘れ去られての死はとても辛いことです。私は生きている限り息子を忘れたくはありません」


Aさんは直会の席で、今私が話したことをどうか次の世代に伝えてください、と懇願されました。
生きている限り、私が知っていることは何でもお話します。
そのために膝と腰の痛みをこらえて、今日私はここに来ました。
来年も元気で再びここに来たいと思いますが、私は80を超えてあと何年生きられるか分かりません。
聞きたいことは何でも聞いてください、その代わり、私から聞いたことをどうか一人でも多くの方に伝えてください・・・と。

私は特攻から逃げて生き残ったわけではありません。
死ぬ覚悟をしたのに、結果として生き残ってしまった。
そのことだけは、どうかわかってください。
Aさんは目にうっすらと涙を浮かべながら、そういう言葉も仰りました。

死ぬよりも生きる方が辛い。
言葉にすればたったそれだけですが、大変な重い荷物を背負われて戦後を必死に生きてきた大先輩の思いが、そこにありました。
思いを託された者の一人として、その重い荷物のいくばくかでも、代わりに背負う責任が、私にもあると思っています。
戦友の死を思って、戦友のお母様に鳩サブレを送り続けるAさんの姿は、今は亡き、室原さんの姿と重なります。
生き残った特攻隊員も、また苦しい時間を必死に生きてきたのだと。


忘却は罪です。
戦争についていろいろ意見はあろうとも、国を守り家族を守ろうとして命をかけた人たちがいたこと。
そして生き残った苦しみを背負い、戦死した戦友の分までもと、戦後の復興期を必死に働いてきた元特攻隊員がいたこと。

彼らの思いを決して忘れてはいけない。
日本の今は、彼らのような大恩人・大先輩の苦難の上にあることを、忘れてはいけないと改めて心に刻んでいます。
posted by ぴろん at 09:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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