2010年03月26日

関行雄大尉のお母様

特攻に多少なりとも関心のある方なら、関行男大尉のお名前はご存じのことと思います。

(残念ながら知らない、知っているが詳しくは分からないという方はこちら↓をご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7

関大尉はフィリピン・レイテ沖海戦において、初の特攻作戦を決行、戦死したその人です。


先日参加させていただいた、神雷部隊戦友会慰霊祭の席でご一緒した元桜花特攻隊員の、ここでは仮にAさんとしておきます。
Aさんからお伺いした関大尉のお母様のお話を、ここに書きつづりたいと思います。



関大尉のお母様は息子と夫を戦争で失い、戦後は実家からわずかな米を分けてもらいながら命をつなぐという極貧生活を送っていたそうです。
Aさんは関大尉と同じ兵学校の出身。

「戦争中、特攻隊員は神様だった。けれど8月16日以降、我々は特攻崩れとされてしまった。それが戦後日本の処世術だったのです」

というAさんの言葉に象徴されるように、戦争中は神と崇められた特攻兵のお母様が、戦後は手のひらを返したような冷たい扱いを受けることとなりました。

(関大尉のお母様は、戦争中は軍神の母と崇められたのが、戦後は一転して「軍国主義」の批判の矢面にたたされたそうです。特攻隊員に対する世間の扱いが戦争中のそれに比べて如何に冷淡だったかを、私たちは心に留めておく必要はあると思います。)

戦死者の遺族に対し、遺族年金が支給されるようになるのは昭和28年のこと。
それまで国は、国のために命をささげ、一家の働き手を失った遺族を8年間も放置したままだったのですよ、と。

戦後の生活に困っているのを見かねた兵学校時代の仲間が奔走して、お母様を学校の用務員として働けるよう手配をされました。
そして28年の遺族年金支給開始が決定し、これで安心して生活できると喜んだのもつかの間、学校からの帰り道に転んで怪我をし、そのまま関大尉のお母様は亡き人となってしまわれたのだとか。

「息子と夫が戦死し、戦後の極貧生活をしのいだ関大尉のお母様は、結局一円たりともお国のお世話になることもなく、亡くなったのですよ。」

「戦争で一家の働き手である父親や夫や息子を奪われた多くのお母さんや奥さんは、大変な苦労をして遺された子供たちを必死で育てました。その人たちを国は8年間も放置して何もしなかったのです。あの時代、お母さんや奥さんたちはどれだけ苦しい生活をしたか、あなた、分かりますか?」

「終戦当時は大変な就職難の時代。特攻隊員という経歴があるだけで、その就職口がさらに狭められたのがあの時代です。今の時代も就職難というが、私のような元特攻隊員の就職難はその比ではありませんでした。」


「これは私の個人的な意見ですけれど、子供手当とか高校無償化とか、戦後苦労されたお母さんや奥さんのことを思ったら、今の人たちは少し甘えすぎではないですか?」



戦争時代の苦労と今の時代をそのまま比較することはできません。
戦中戦後の生活苦を思えば、どんな時代の苦労もその比ではありません。

ただ、命がけの戦争を戦い、戦後の復興期をがむしゃらに働いて現在日本の礎を作ってくれた大先輩の言葉には、やはり重みがあると思います。
元桜花特攻隊員のこの言葉を、皆さんはどのように受け止められますでしょうか?
posted by ぴろん at 10:21| Comment(5) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

神雷部隊戦友会と共に靖国へ

21日、神雷部隊戦友会の皆さんと共に、靖国神社へ昇殿参拝をしてきました。

ここに参るとき、私はどうも何か願い事をするという気分にはなれません。
国のため、家族のために自分の命を捧げるという大きな犠牲を払った英霊の皆様に、これ以上のお願い事をするのは何か申し訳がないような気がして。

祈りの言葉は、ただひとつ「安らかに」
その一言を念じるだけで、涙があふれて困ります。

遺族と言っても、私は直接大叔父を知る立場でもなく、遺族として参列させていただくことには、いくばくかのこそばゆさもあるのですが。
主催者の方に求められ昇殿参拝の際は、参拝者を代表し玉ぐしを奉るお役目を務めさせていただきました。
ただ、無心に御霊の安らかなことを、お祈り致しました。



参拝の後の直会では、元桜花特攻兵だった方と、席をご一緒し、元特攻隊員としての思いをいろいろとお伺いしました。


少しだけ、お話をした中で、特に印象に残った元桜花隊員の言葉を紹介いたします。


自分はもう80を越えてこの先何年生きるか分からない。
(神雷部隊の元隊員の中で、桜花隊員の生存者は現在は4〜5名ほどしかいない、とのお話も伺いました)
自分の知っていることは何でも話すから、何でも聞いて欲しい。
腰や膝を痛めていて、本当なら打ってはいけない鎮痛剤を医者に無理を言って注射してもらい、今日、ようやく靖国まで来た。
特攻の話をして、心から分かってくれる人は、この席に集まる人くらいしかいない。
だから、多少無理をしても、どうしても私は今日この席に来たかったのです・・・と。





「戦争中、特攻隊員は神様だった。けれど8月16日以降、我々は特攻崩れとされてしまった。それが戦後日本の処世術だったのです」

目にうっすら涙を浮かべて、悔しそうに話された元桜花特攻隊員のこの言葉に、私は今返す言葉がないのです。




心に残る言葉はまだありますが、明日以降、ぼちぼちとご紹介をさせていただきたく。
元桜花隊員の言葉は、重く心に沁みわたり、自分の言葉でそれをつづるのは、おそらく無理かと思われ。
伺ったお話を、可能な限りそのまま再現して明日以降、書き綴ります。
宜しければお付き合いください。
posted by ぴろん at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月18日

桜花キューピーの写真を入手

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あのさ・・・

桜花は十死零生の特攻専用機なのですよ。
搭乗員は母機から切り離されたら最後、後は死ぬしかないのです。



桜花は遊園地のジェットコースターじゃありません。
スカイダイビングでもバンジージャンプでもない。

なんなのでしょう?
このパッケージのあまりにも無邪気なイラストは・・・(呆)



このイラストを描いた人は、桜花特攻隊員の遺族や関係者の肩に圧し掛かる千貫の命の重みを・・・多分想像したことはないんでしょうね。





ふざけるにも・・・程がある。
posted by ぴろん at 20:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

「回天」「桜花」のご当地キューピーはやめて欲しい

山本一太(12月16日付)Blogより
「回天のキューピーちゃんは問題」
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-12-16#favorite



今、各地でご当地キューピーだとかご当地キティちゃんとかが流行っているのは知っていますが、これはやり過ぎだと思います。


言うまでもなく、「回天」も「桜花」も、旧海軍が開発した『生還不能の特攻専用機』です。
この特攻機に乗って若い命を散らした特攻隊員がどんな思いで出撃していったのか?
その覚悟をする過程で、どれだけの苦悩し、どれだけ逡巡したのか?
そこに思いをはせる想像力があるならば、「回天」や「桜花」のご当地キューピーを作る事自体が、犠牲になった特攻隊員に対して失礼であることくらい、気がつきそうなもの。



私の母方の大叔父は、桜花特攻隊員の戦死者です。
彼は特攻に志願した後、当時7歳だった、叔父にとっては姪にあたる私の母に宛てて一枚のハガキを寄こしました。
そのハガキの文面には、「オテガミチョウダイネ」の一文があり、その求めに応じて母は拙い文字で一枚のハガキを書き送りました。
叔父は、幼い姪っ子のハガキを胸に抱いて、沖縄に出撃、戦死しています。


この事実が何を示すか?想像してください。
彼は、たった7歳の姪っ子からのハガキをお守り代わりに胸に抱かねば、出撃することが出来なかったのです。
特攻というのは、それくらい極限状況の覚悟を隊員に強いるもの。
遺族にとって、叔父の乗った「桜花」は、あの世に旅立つための「棺」以外の何物でもありません。


それをご当地キューピーなどというグッズに仕立て上げる感性がそもそも私には理解できないし、仮にも日本の保守を代表する?小池百合子国会議員が「あのね、他にも零戦のキューピーちゃんとか、回天のキューピーちゃんもあるのよ!」とは、いただけない。
そもそも自衛隊の売店とやらで、そんな代物が売られている事自体が、私には信じられません。

靖国神社の遊就館に展示されている桜花のレプリカを見るたびに、声をあげて「叔父さん!叔父さん!」と号泣する私の母の気持など、関係者には遠く及ばないのでしょうか?

特攻隊員の苦悩を少しも理解しようとしないのが、今の日本の現状だというのなら、決死の特攻を覚悟した特攻隊員は浮かばれない、と私は感じてしまいます。



★追記

私の特攻の大叔父だけでなく、多くの特攻隊員が何を思って死んでいったか、考えたことはありますか?

彼らは自分の愛する家族を守るため、国を守るために逡巡の上、自分の命を差し出す覚悟をしたのです。
現代日本に生きる私たちは、彼らの犠牲に守られたからこそ、今安穏に命をつないでいるという事実に、私たちは気がつくべきではないのでしょうか?


特攻隊員の死は遺族だけの問題ではなく、彼らの命の重みは、現代を生きる日本人全体が、等しくわが身に引き受けるべき類のものであるはず、と私は思っています。
それが犠牲になった特攻隊員に対する、せめてもの供養ではないのでしょうか?
彼らの苦悩に思いを馳せ、彼らの覚悟の重さを引き継ぐことは、今を生きる私たちの果たすべき最低限の務めではないのでしょうか?



特攻出撃する多くの隊員は「後を頼む」と言い残して出撃したと聞きます。
「後を頼まれた」私たちは、彼らの命がけの願いに対し、回天や桜花のキューピー人形を作って応じるんですか?
posted by ぴろん at 08:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

ありがとう

麻布十番のアトリエ・フォンティーヌまで、過日の日記で紹介したお芝居を見に行ってきました。
出かける前にほんの少しだけ、不安だったこと。
舞台に限らず戦争ものを作品にする過程で、特定のイデオロギーの色に染まり、特定の主張をするがために、都合のいいところを切り張りするような作品であって欲しくはないな、という点でした。
しかし、2時間にも及ぶ作品を拝見して、その心配は全くの杞憂であったことにまずは安堵しました。

特攻を世に知らしめるために、史実に忠実であることは大事なのですが、それだけでは堅苦しくて一般の方にはとっつきが悪いという問題もあります。
事実は事実として忠実であると同時に、歴史的事実の裏側には生身の人間のドラマがあり、それを伝えるには多少のフィクションもまた必要、というのが私の考えでもありますので。

その意味で、この「蒼空(そうくう) 空どこまでも蒼く」は、特攻を過剰に美化するでもなく、逆に卑下するでもなく、淡々と特攻隊員のありのままを描いて、素直に鑑賞できる作品であると感じました。
まずは、その点に深い感動を覚えました。

ここをご覧の皆様には、多少なりとも特攻についての関心・知識がおありでしょうから、改めて説明は致しません。
ただ、私が思うのは、特攻隊員はどこにでもいるごく普通の人間だったということ。
彼らは常人離れした軍神でもなく、洗脳された狂信者でもない。
特攻というあまりにも過酷な状況の中にその身を投げ出すには、彼らにも逡巡の時間があったのであり、恐怖に震え眠れぬ夜を過ごしたはずの、ごくごく普通の人間だったと思います。
逡巡の末に命を差し出す覚悟を決めても、与えられた特攻機は飛ぶのもやっとのオンボロ飛行機であったりするわけです。
己の命の代償が、果たして特攻の瞬間まで持つかどうかも分からない機体であったとき、彼らの複雑な心中を考えざるを得ません。

もっとも、まともに飛べる飛行機が有り余るほどあるならば、特攻という愚策を講じる必要もなかったはず。
敗戦色が日々濃くなる中、少しでも戦況を好転させるには、無理は百も承知でどんなにボロイ飛行機でも、足の遅い練習機であっても、訓練半ばの未熟な搭乗員でも、次々と特攻に送り出さざるを得なかった、ということでしょうか。
特攻自体が正気の沙汰ではないことは、当の特攻隊員自体が、他の誰よりも承知していたはず。
そんな中で、彼らはいったいどうやって、自分の心を納得させたのか?
何よりもその点を思いやるのが、現在の私たちが特攻について考える原点ではないのか?と思います。

そもそもが、特攻自体が、およそ正気の沙汰を超えた愚策中の愚策。
圧倒的な戦力の差を人の命が埋めるという、その大いなる矛盾の渦中で、彼らが自分の死の意味を真剣に求めたとき、たどりつく答えは、愛する家族や友人をわが身に変えても守って見せる、というその心ひとつだったのではないかと、改めて思われてなりません。
だからこそ、彼らが死に向かうその姿は、人間のそれを超えて神仏の域に達するのだと思います。
彼らは出撃を覚悟したその瞬間から、生きて神様になる・・・私にはそう思えてならないのです。

特攻隊員の多くには護りたい人がいた。
だから彼らは特攻出来たのだと思います。
自分の命をかけても護る価値のある人がいる。
そうでなければ、正気の沙汰ではない特攻作戦に、どうして人はその身を投じることができるのか?

私の特攻の大叔父は、出撃の折、当時国民学校2年生だった私の母が叔父宛てに書いたつたない文字のハガキを胸に出撃しています。
母親の手鏡を抱いて行った特攻隊員、見も知らぬ若い女性の写真を胸に出撃した特攻隊員もいたと聞いています。
私は改めて思います。
彼ら特攻隊員は本当にごく普通の優しい人たちだったのだ、と。
優しい普通の人だからこそ、幼い姪のハガキや、母の手鏡や、赤の他人の女性の写真を胸に抱かねば、とてもとても特攻などと言う極限の出撃など出来なかったのではなかろうか?と。

彼らが、戦争という非常時の中で、どうにもならない矛盾の中で、己の命の意味を問うた時、故郷の家族や友人の命を守ることにその意義を置いたのは自然の事と思います。
それは逆を言えば、彼らの決意の背中を押したのは、護ってもらった側の家族の存在ということ。
我が家の場合でいえば、私の母が書いたつたない文字のハガキが、大叔父の最期の決意の後押しをしている、という事実です。

その事実は、重い。
とてつもなく、重いです。

いまの感覚でいえば、そんな過酷な状況に向き合うことなんてやめて、さっさと逃げればいいじゃん、と思うかも知れません。
でも、戦争の非常時に、自分が逃げるということは、他の誰かが死ぬことを意味します。
死ぬであろう誰かが、自分の愛する家族だったら?恋人だったら?
それでもあなたは逃げますか?
彼らに、そんな卑怯な選択をする余地はない。
七転八倒の苦難の末に、彼らは命を投げ出す覚悟をした。
それが特攻の真実なのだと思っています。

私の大叔父はその命をかけて、故郷に住む幼い姪を護ってくれました。
彼女が戦争を生き延びて無事成人したから、今の私があるのです。
大叔父の愛は、あまりにも大きく重すぎる。
大叔父の決意はあまりにも壮大すぎて、私はその足元にひれ伏すよりほか、ないのです。


彼らの苦悩から目をそむけてはいけないのだと、改めて思っています。
特攻隊員を真の意味で犬死させるのは、彼らの苦悩を忘れること。
彼らの存在を忘れ去ってしまうことです。
等身大の彼らの姿を、生身の息遣いを、苦悩を、私たちは少しでも想像し近付く努力をするべきではないでしょうか?
それが特攻隊員に対する何よりの供養、花向けであると私は信じます。
特攻は愚策中の愚策、けれど、そこに身を投じた若者の心はあくまでも気高く美しいのだと思います。
極限の死に直面した彼らの心中に邪心のはいりこむ余地はない、とも思います。



歴史の教訓に学ぶというのなら、二度と特攻などという愚策を講じることのないように、国のかじ取りを誤ることのないようにして欲しい。
平凡な日常がごく普通に守られる国、特攻などという正気の沙汰ではない作戦を講じずとも、国の安泰を図れる国であって欲しい。
それが、犠牲となった数多くの特攻隊員に対する唯一の恩返しではないか?とも感じています。


所詮戦後生まれの私にとっても、特攻は、どこか遠い世界の物語。
あまりにも凄すぎて、大叔父の決意の程を実感をもって想像することは不可能なのです。
きれいごとでなく、貶められたものでもない、等身大の特攻のありのままを、知ること。
彼らの苦悩を知り、決意の大きさを知り、死の意味を知ること。
それが特攻の果てに命を散らした多くの若者に対する、供養なのだとも感じています。


今日、私は大叔父の遺影を胸に抱いて、この作品を拝見しました。
劇中のセリフの一つ一つが、大叔父のエピソードと重なり、舞台の最初から最後まで、私は流れる涙をこらえることができませんでした。
大叔父は出撃にあたり、次のような辞世を残しています。

「身はたとへ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心かな」

大叔父さんがこの世に残したかったであろう思いを受け継いでくださった方が、この舞台上にはこんなにも大勢いらっしゃる。
そのことが嬉しくて、上演後、事前に頂いていたアンケート用紙に私は下記の言葉を書き記しました。

「ありがとう、この言葉以外に何もありません」

と。



※関連エントリー

特攻を描いたお芝居を見に行きます
http://piron326.seesaa.net/article/125028458.html
posted by ぴろん at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月17日

平成21年みたままつり

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母が亡き特攻の大叔父の供養のために永代献灯をしてから、毎年みたま祭りに出かけています。
今年は母が直前に白内障の手術を受けたため、行けるかどうか危ぶまれたのですが、お医者様から外出をしても差し支えなし、とのお答えを頂きまして、家族そろって出掛けてきました。


普通、神社仏閣に詣でたら、いろいろと願い事をするものだと思います。
健康とか商売繁盛とか学業成就とか・・・
でも、そういう世俗的な願い事をするには、ためらいのある寺社が私には二つあります。

ひとつは伊勢の神宮。
もうひとつは、この靖国神社です。


拝殿の前に進み出たら、心の中で願うことはひとつだけ。

ただ安らかに。

それ以外の言葉は、私の中には浮かびません。
国を家族を守るために命を投げ出した御霊に対し、厚かましくも世俗のお願い事をするなんて、なんだか申し訳がないような・・・


いつものように昇殿参拝を申し込み、夕闇の中ほのかな灯りにうっすらと照らされる本殿に上がらせていただきました。
夕闇の中の昇殿が出来るのも、このみたままつりの期間だけ。
昼間の参拝とは違う厳かな空気の中、静かに大叔父の御霊に頭を垂れてきました。
大叔父は、何も言わず、黙って私たちの参拝を見つめてくれた・・・
そのように感じています。

まつり期間中の靖国は本当に賑やかです。
つのだ☆ひろ氏のジャズ演奏あり、神輿振りあり、盆踊りあり。
種々多様な奉納がなされるのも、靖国のいいところではないかと思います。
御霊もさぞ、お喜びでしょう。
賑やかなことの好きだった大叔父も、きっと・・・

肉親の参拝を大叔父は本殿の奥で喜んでくれたでしょうか?
ともに祀られている戦友たちと「おお、今日は俺の姪家族が来てくれたぞ!」と語り合ってくれたら、それが何よりうれしいです。

本殿参拝の後夜店をひやかし、帰宅の途についたのは9時近く。
来年も家族そろっての参拝が出来ることを願って、靖国を後にしました。
大叔父さん、どうか安らかにお休みください、と願いつつ。
posted by ぴろん at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

64年目の5月4日、その2

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正義大叔父の命日の今日、靖国を訪ねてきました。

いつも思うことですがここは大叔父の魂のいるところ、戦友たちとの再会を誓った約束の地だということです。
神門を入って右2番目の神雷桜を見るたびに、ここに叔父さんの魂は宿っているのだな、と強く感じます。
若葉で覆われた神雷桜が風に吹かれてたてるさわさわという音は、亡き特攻隊員の息遣いのようにも思えます。
神雷桜は、やはりいつ見ても私にとっては特別な桜ですね。


靖国ついていろいろ意見があるのは承知済み。
特攻について様々な理解があるのも承知済み。

でも、私は思うのです。
彼らはどこにでもいるごく普通の人間だったのだ、と。
愛する家族がいるからこそ、自分の命を賭けてでも守ってみせる!と彼らは決意することが出来たのではないか?と。

自分の命をかけるだけの価値のある家族がなくて、どうやって人は決死の特攻を決意できるというのでしょう?
靖国にいらっしゃる英霊たちは、壮絶すぎるほどの愛情を持って後に残る家族たちの未来を守ってくれたのだと思います。
英霊の思いは、後に残る家族へ向ける愛以外に、何があるというのでしょうか?

靖国について特攻について、いろいろ意見はあってもいいと思います。
でも、その議論をする前に、靖国の御霊に対して、一度は深く首を垂れて感謝の意を示すのが、人間としての最低限の礼節ではないか?と私は思っています。

私は後世に生きる一部の人たちが、自分たちのイデオロギー的主張を通すために、特攻隊員を狂信者扱いしたり、逆に軍神扱いする風潮には強い違和感を感じています。
そういう意見に触れるたび、彼らは狂信者や軍神などではなく、ごくごく普通の人間ではありませんか?と私は言いたい。
愛する家族や友人のいるごく普通の人間だから、悩み苦んだ末に、彼らは命を差し出す覚悟が出来たのではないのですか?と言いたいのです。
今の感覚から考えれば正気の沙汰ではない特攻作戦を決行するまでには、彼らにも逡巡の時があり、苦しみの末に悟りの境地に辿り着いた、と考えるのが普通ではないでしょうか?
その過程を忘れて自分の主義主張の裏付けに使うがために、都合のいいところだけを切り取るようにして特攻を語る向きには、違和感と不遜の念しか感じない私です。

世は戦争真っただ中の非常時。
国家存亡の危機に立たされた時、特攻の大叔父は故郷の家族を守るために、自分の命を差し出す覚悟を決めてくれました。
弱冠二十歳の青年の決意の重さを思えば思うほど、私は大叔父の大きな愛情に圧倒されます。
当たり前の話ですが、戦後生まれの私にとって、特攻の大叔父は写真と祖父母や母からの伝聞でしか知らない存在です。
この世で一度も逢ったことのない特攻の大叔父の、あまりにも大きくて重すぎるほどの愛情を感じる場所が、私にとっては靖国なのです。

いつか私が三途の川を渡ってあの世へ逝ったとき、胸を張って正義叔父さんに逢える自分でありたい。
それが、大叔父の命がけの愛に守られた、後世に生きる私の果たすべき最低限の務めと考えています。
posted by ぴろん at 22:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

64年目の5月4日

昭和20年5月4日、私の特攻の大叔父は午前5時鹿児島県鹿屋基地を飛び立ち、沖縄を目指しました。
現在時刻は午前8時を過ぎました。
大叔父の特攻時刻は午前8時55分、まもなくその時を迎えます。
64年前の今頃、正義叔父は沖縄を目指す一式陸攻機の中。
どんな気持ちで今この時間を過ごしたのだろう?と思うと、胸が痛みます。

大叔父の乗る桜花の発射ボタンを押した一式陸攻搭乗員だった室原さんは、毎年この日が近づくと、大叔父の桜花発進に立ち会った記憶や桜花発進ボタンを押した感触がよみがえり、血が騒いでどうしようもなかったのだと聞いています。
その気持ちがあればこそ、生前の室原さんは、毎年毎年命日が近づくと千葉の生家に住む遺族に宛てて、手紙と供物を送り続けてきたのだろうと思います。

今日は大叔父の御霊に逢うために、靖国を訪ねてきます。
自ら決死の特攻を覚悟した大叔父の思い、命令に従い桜花発進ボタンを押す役目を担った室原さんの思いを、理屈抜きに感じて来ようと思います。
posted by ぴろん at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

三途の川の向こう岸で

神雷部隊の慰霊祭を終えて、無事帰宅しました。
いつも靖国を訪ねて思うことは、あそこは無の境地になるところ、ということでしょうか?
何も考えず御霊に頭を垂れて、無心にただひたすら静かに祈る。
それが靖国に詣でるときの一番ふさわしい祈りの形のような気がしています。

世俗の垢もイデオロギーの色も、あの地には似合わない。
ただただ静かに、御霊が安らかであることを祈る。
それが靖国に一番ふさわしい景色のような、そんな気がしています。


靖国参拝のあとのなおらいの会で、今日は元神雷部隊の隊員の方のお話を伺う機会を得ました。
その方のお話によれば、母機の一式陸攻と桜花の間はおよそ1m50cmの距離があるのだそうです。
桜花搭乗員は母機から桜花に乗り移る際、その1m50cmの距離を梯子を伝って下りていく。
その1m50pのことを隊員の方々は“三途の川”と呼んでいたのだそうです。

桜花は一度切り離されたら、後は死に向かうしかない特攻専用機。
「三途の川を渡ったら、それはもう神様なんですよ」と元隊員の方は私に静かに淡々と教えてくださいました。

“三途の川”渡って母機から切り離された桜花が、敵艦に突撃して大破するまでの時間は数秒程度。
「その数秒の間、桜花搭乗員が何を思ったかは、誰にも分からないんです」とも。

“三途の川”とは言いえて妙。
確かに特攻専用機桜花は、一度乗り込んで母機から切り離されたら後は敵艦めがけて突撃するしかない、桜花隊員にとっての棺桶ですから。

私の特攻の大叔父が桜花に乗り込んだあと、母機からの切り離しを受けて敵艦に突撃するまでの本当に短い時間、彼が何を思ったかはあまりにも壮絶すぎて全く想像の余地がありません。
それを知ることが出来るとしたら、私がいつか三途の川を渡ってあの世で大叔父に逢ったときしかないのでしょうね。

願わくば、三途の川の向こう岸で大叔父の最期の思いを聞くその瞬間、大叔父の思いを聞くにふさわしい自分でありたいと思っています。
大叔父が自分の命をかけただけの価値があった、と思ってもらえるような、そんな自分でありたいと思います。
川の向こう岸で大叔父に逢ったとき、「こんな情けない子孫のためにおれは命を捨てたのか?」とがっかりさせたくはありません。

私が死んだあと、あの世で逢うであろう大叔父の前で、胸を張って大叔父の壮絶な決意に対し、毅然と感謝の言葉が言える自分であること。
それが、この国と家族を護るために命をささげた多くの英霊たちに対する最高の恩返しのように感じて、靖国を後に帰宅の途についた私です。
posted by ぴろん at 20:32| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月17日

早春の靖国へ

今年も縁あって、3月20日に行われる神雷部隊戦友会の慰霊祭に、私も参加させていただくことになりました。

この一年、いろいろなことがありました。
昨年靖国へ同行した叔母は、直後に急逝。
人の命は儚いものです。

私の母も71歳になります。
妹の方が先に旅立ってしまったことは、母にとっても少なからぬショックであったと思います。
そんなこともあって、元気なうちは靖国参りを続けたい、叔父さんに会いたいとの思いは、ますます強くなったようにも感じます。
靖国に行きたい一心で、日々体調を整える母のその意思を汲んで、今年も参加することにしました。

特攻の大叔父が64年目の今年。
改めて大叔父の思いをかみしめる慰霊の日になればと思っています。
posted by ぴろん at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月15日

みたままつり

一昨日、13日に靖国神社のみたままつりに行って来ました。
例年家を出る時間が遅れ、昇殿参拝がいつもギリギリなので、今年は意識して早めに靖国を目指しました。
現地到着は16:30くらい。

いつもなら神輿や各地の祭りの奉納などでごった返す境内も、この時間はまだ静か。
拝殿前には参拝の方の列が出来ており、まずは私たち家族もその列に並んで拝殿での参拝を済ませました。

その後、参集殿へ移動して昇殿参拝の申し込み。
これも時間に余裕があるので、慌てることなくゆっくりと参拝をさせて頂きました。

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写真は小野田寛郎さん、小林よしのりご両名の懸雪洞と神門内に並んだ献灯の数々です。
この中には、むろん、私の母の献灯もきちんと灯っておりました。

母が特攻の大叔父のために永代献灯をして三度目のみたままつり。
何とか無事に参拝を終えてホッとしています。
年を追うごとに足腰が弱り、九段の坂がきつくなる母を連れて、後何回参拝が叶うのか?
今年も何とか靖国にいけてよかったと喜ぶ母を見て、これが肉親の素直な気持ちなんだよなぁ、と感じています。
母の率直な感情に触れるたび、靖国を巡る様々な不協和音には違和感を感じる私。
現代に生きる私達は、彼らの犠牲の上に命をつないでいます。
その歴然たる事実の前に、どんな主義主張もイデオロギーも勝ち目はないと私は思う。
まずは彼らの犠牲の前に、静かに頭を垂れるべき、と私は思っておりますが。

天気予報では雨の心配もありましたが、途中ポツポツと落ちる事はあっても、傘がいるほどの降りにならなかったのは、英霊のご加護でしょうか?
母の体力が続く限り、私は母の介添えをして靖国を訪ねたいと思っています。

余談。
いつもみたままつりに行くたびに、浴衣の左前が気になる私。
本日境内でお見かけした左前の方は子供が二人、成人女性が二人の合計4名。
ま、予想よりは少なかったのかな?(笑)
着物は日本の民族衣装、自分の国の文化である浴衣くらい、正しく着装して欲しいな〜と思う私でありました。
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2008年05月05日

5月4日靖国へ、特攻の大叔父の御霊に逢いに行く

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5月4日の命日にあわせて、特攻の大叔父の御霊に逢うべく、両親と共に靖国神社を訪ねてきました。

実は今年3月20日の神雷部隊戦友会の方と共に昇殿参拝をした折、私たち母子と共に同行した叔母(母の妹)が、先月4月に急逝してしまいました。
遊就館に大叔父の遺影を納め、戦友会の方と共に参拝を済ませた事をとても喜んでいた叔母が、私がBlogを通じて大叔父の事を世に伝えている事を喜んでくれた叔母が、靖国で共に参拝をしてひと月も経たない内に、あの世へと旅立ってしまったのです。

3月20日は折悪しく雨。
心臓の具合が悪く体調を崩していた叔母は、本当は千葉から九段の靖国まではるばる足を運ぶほどの体力はなかったものと、いまなら分かります。
当日も道中休み休みしながら、やっとの思いで靖国まで辿り着いたであろう叔母。
独身のまま亡くなった大叔父には供養をしてくれる子供がいません。
大叔父の両親ははるか昔になくなり、大叔父のきょうだいもすでに亡くなり、生前の大叔父を直接に知るのは後は甥姪しかいません。

大叔父戦死時、5歳だった叔母。
大叔父を知る肉親がだんだんと少なくなる中、時を経て代替わりをすれば、悲しいけれど大叔父の存在は少しずつ忘却のかなたへ葬り去られてしまう。
「大叔父の事を直接に知る私たちが元気な内に、できる供養をしておきたい」ということで、私の母と共に大叔父の写真を遊就館に納めるために奔走した叔母。
その写真が無事に遊就館に奉納されたかどうかを自分の目で確かめるべく、無理をして靖国まで出向いてきたであろう叔母。
大叔父の写真が遊就館の展示室に無事奉納されたのを確認し、叔母はホッと安心をしてしまったのかもしれません。

叔母は一足先に大叔父のいるあちらの世界へ逝ってしまいました。
自分より年下の妹に突然先立たれる、というのは母にとっても衝撃だったようです。
そんなこともあったので、今年は叔母の写真も鞄の中に携え、亡き叔母の大叔父への思いも胸に靖国を訪ねてまいりました。

今年の参拝には、3月20日の神雷部隊戦友会参拝の折、叔母と共に写した写真を持参しました。
3月20日に叔母に会ったとき「姉は私より靖国に近いところに住んでいるからこれからも何度でも来られるだろうけど、私は遠いからもう滅多には来られないだろう」と口にしていた叔母。
いつもなら勝気で強気な叔母がやけに弱気な事を言うなと思いつつ、歳を重ねると遠出はしんどくなるのかな?と、そのときは軽く聞き流してしまった私。
けれど本当は体調の悪さから、この参拝がもしかして最期の参拝になるかもしれないと言う予感が、あのときの叔母の心中にはあったのかもしれません。

神雷の桜は、5月の新緑。
母は妹の分まで大叔父さんの桜に抱きつきました。
妹の分まで心をこめて昇殿参拝をしました。
遊就館を訪ねて、大叔父の遺影をもう一度確かめてきました。

自画自賛ではありませんが、私の特攻の大叔父は、何度見ても良い男なのです。
亡き叔母も、遊就館に納められた大叔父の写真を見るなり「わぁ、叔父さんいい男!」と喜びの声を上げましたっけ。
時間の流れは残酷です。
当時を知るものはどんどんといなくなる。
先人の思いをどうにかして後世につながなくては、どんな思いも忘却の彼方に消えてしまいます。

遊就館にたった一枚の写真を納めるにしても、そこには遺族の溢れんばかりの思いがある。
生前の大叔父を知る私たちが動かなければ、大叔父の存在も消え去ってしまう。
そんな思いが、あそこに納められた膨大な写真一枚一枚にまとわり付いているのだと思います。
どうか遊就館をお訪ねの際は、膨大な写真の裏にある遺族の悲痛な思いなり、遺族それぞれのストーリーなりも汲み取って頂けたら、と願っております。

尚、私の特攻の大叔父・石渡正義の遺影は、『御遺影86 5列目 上から2段目』に掲げられています。
遊就館の最後の方、感想ノートが置いてあるお部屋の中で来館者を見つめています。
海軍の白い制服姿ですので、割合に目立つと思います。
遊就館をお訪ねの際は、是非大叔父の美男子ぶり?をご覧になってくださいませ。
posted by ぴろん at 09:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

忘却が特攻隊員を犬死させる

先月20日、神雷部隊戦友会の方と靖国参拝をした事について当Blogに書いたところ、たくさんのコメントを頂きました。
訪問者数の少ない弱小Blogではありますが、特攻や靖国について関心のある方は様々な手段を行使して「話の花束」まで辿り着いてくださるようですね。
ありがたいことです。

今朝、その事を私の母に話しました。
「素人の駄文であっても、例えわずかでも、ネットを通じて特攻の大叔父さんの事を知らしめる事が出来たよ」と言ったら涙ぐんでしまいました。

「私たちが忘れたら叔父さんは犬死になってしまう」

それが私の母の言葉です。

その言葉を聞いて私の中でもやもやとした思いが、すとんと落ちたような気がしました。

特攻隊員は左の人が言うように「犬死した」のではありません。
右の論陣が語るような雄雄しい「軍神」でもありません。
彼らは己の生を精一杯生きた生身の人間。
特攻に至るまでは彼らにも葛藤があり悩みがあり恐れがあり、様々な境地を経て解脱の域に達した、というのが正しいのでは無いでしょうか?

特攻隊員の苦悩を忘れる事そのものが、彼らを「犬死」させることになる。
母の言葉はやはり肉親ならの直感に満ちている、と感じました。
昔、あるドラマの有名な台詞に「忘却は罪である」と言うのがありましたが、まさにその通りだと思っています。

特攻についてあれこれと論じるのはいい。
ただし、自分の主張にとって都合のいい部分だけを抜き出して、あ〜だこ〜だと特攻を語って欲しくはありません。

私が素人の駄文をネット上で晒してまで遺族の思いを語るのは、まずは1人の特攻隊員のありのままの真実を知ってほしい、と願うから。
特攻隊員は単なる犬死なのか軍神なのかと論じる前に、彼らにも生身の息遣いがあったという当たり前の事実を感じて欲しいのです。
それを知った上で、特攻について云々してほしいというのが、遺族としての率直な思いであると改めて考えています。
posted by ぴろん at 07:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

靖国

中国人監督による日中合作のドキュメンタリー映画「靖国」の上映を中止する映画館が相次いだ問題について。



靖国の喧騒は一体いつになったら鎮まるのでしょうか?と言うのが、身内に桜花特攻による御霊がいる者としての率直な思いです。

私も所詮は戦後の生まれ、60余年前の戦争の時代の空気がどういうものだったのかを直接には知らない。
でもひとつだけ感じる事はあります。
それは、靖国におわす御霊は、愛する家族を国を護るために命を投げ出したのだ、という歴然たる事実の重みです。

無論英霊の全てが望んで死んだわけでもないでしょう。
死を恐れ、生きる事を渇望し、葛藤の果てに命尽きた兵士もたくさんいたことでしょう。
けれど、極限状況に追い込まれたとき、人はきれいごとだけで物事の判断がつけられるのか?
例えば特攻による死は、左の人の言うような洗脳とか犬死とか、そんなに簡単に決め付けられるものなのでしょうか?
それとも彼らは右の人たちの主張するような立派な「軍神」だったのか?

私はそれはどちらも微妙に違うと思う。
当時の特攻兵たちも、今の時代を生きる私たちと同じ生身の人間。
必死の特攻に向かう彼らの心中に、葛藤の時間が無かったとは思わない。
事実、出撃の命を受けた夜、しくしく泣く者や大声で喚く者など、様々な特攻兵がいたと聞きます。
覚悟の志願とはいえ、いざその時になれば狼狽する者もいたと聞けば、やはり彼らも生身の人間だったのだろうな、と私は思う。

今の時代は平和の時代。
戦後60年も経てば、当時の空気を知る人もいなくなり、今の時代感覚でなんとでも物事の解釈が付けられる。
自分の都合のいいところだけを抜き出して、歴史を語る姿勢には疑問を感じます。
でもあの時代を生きた人たちにも日常の生活があり、生身の感情がある事を、現代の私達は余りにも忘れてはいないか?
生身の人間の息遣いの積み重ねが歴史であることを、理屈ばかり捏ね回す「活動家」「運動家」の人たちは忘れてはいないか?と感じます。

右であれ左であれ、靖国に対して意見はいろいろあって良いと、私個人は思う。
だが、どんな意見を主張するのも、一つだけ忘れて欲しくない事がある。
今を生きる私たちがどんな理屈をひねくりだそうが、彼らが後の時代を生きる私たちの未来を護るために命を投げ出したのは変えようの無い事実なのです。

靖国は英霊に対する祈りの場所、鎮魂の場所。
あそこへ詣でたなら、思想信条・意見の違いを超えて、まずは英霊に対し静かに頭を垂れるべきではないのか?
政治的発言をするなら、靖国以外の場所でやってくれ、と日頃から私は感じています。
あの場所を、己の意見を主張するための舞台にして欲しくは無い。
ただ静かに御霊を慰める場であって欲しいと、私は切に願っています。
posted by ぴろん at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

過日執り行われた、神雷部隊戦友会の皆さんとの靖国参拝について、書き漏らしたこと・改めて思うことなどをつらつら綴りたいと思います。
相変わらず小学生の作文レベルの駄文ですが、宜しければお付き合いの程を。

亡き特攻の正義大叔父の事を直接に知る戦友の方とお会いし、直接に大叔父の思い出話を聞いた事は前回のBlogに書きました。

亡き正義大叔父の戦友だったと言うその方から、大叔父の神ノ池基地での訓練の様子を直に聞いたとき、まるでその場に大叔父が甦り、その戦友の方の口を借りて「俺が受けた訓練はこういうふうだったんだぞ」と、遺族である私たちに伝えに来てくれたような感じがしました。
戦後60年以上の時を越えて、私たち遺族でさえも知らない大叔父の生きた証しを聞く。
それはそれは本当に不思議な体験でありました。
80過ぎの高齢を押して愛媛から出て来たというその方と、過日の神雷部隊戦友会の靖国参拝の折、お会いできたのはやはり何かのご縁だったとしか思うより他ありません。

愛媛と千葉は遠い。
60年余の時間は長い。
当時を知る人は次々と鬼籍に入り、存命であっても足腰が弱って靖国に馳せ参じられない元神雷部隊の方が大勢いらっしゃいます。
そんな中、距離も時間も飛び越えて、正義大叔父の思い出を良く知る人と共に同じ場所で同じ時間を過ごし、大叔父の訓練の様子を聞く事が出来たのは、まさに大叔父の魂が自分の生きた証しを私たち遺族に伝えるために、この不思議なご縁を結んだとしか思えないのです。

戦友の方から聞いた大叔父の思い出話は概ね以下のとおり。
神ノ池基地から飛び立った訓練機は太平洋上空を旋回し、その後滑走路に着陸をします。
ところが大叔父の乗った訓練機は、神ノ池基地の滑走路着陸寸前にフラップの具合が悪くなったのか、失速してしまったのだそうです。
それをとっさの機転でなんとか体制を持ち直して、滑走路脇の松林に突っ込み不時着し、その際大叔父は顔に怪我をして頬に傷が残ったのだとか。
大叔父を良く知っていると言うその戦友の方は、大叔父の訓練の一部始終を滑走路脇で目撃していたそうで、身振り手振りを加えて、まるで昨日の出来事のようにその様子を語ってくれたのでした。

「大叔父の頬に傷がある」という事実は、桜花投下のボタンを押したという母機の一式陸攻の副操縦員だった室原知末さん(※1)も後に手記に書き残していらっしゃいます。
千葉の生家で留守を守っていた当時の家族は、大叔父の顔に傷がある事は知りません。
大叔父の兄でもある私の祖父から、私自身もそういう話を聞いた事はありません。
つまり大叔父の頬の傷の話は、戦地で共に出撃に備えた戦友でなければ分からない話、家族では知りえない話なのです。

特攻隊員でなくとも、父が夫が兄弟が次々と出征し、その多くが生きて故郷に帰れなかったのが戦争の現実です。
残された家族の多くは、自分の愛する家族が「いつ・どこで・どんなふうに死んだのか?」を知りません。
ある日役場から戦死の公報が届き、遺骨が帰る。
遺骨が戻ればまだ良い方で、私の特攻の大叔父のように、遺骨さえも戻らず英霊と書かれた紙切れ一枚入っただけの白木の箱で無言の帰宅を果たした兵士も数多くいたはずです。
それで、大事な肉親の死を信じろと言われても、それは無理な相談であったろうと思います。

我が家の遠い親戚の家で本当にあった話をひとつご紹介します。
ある日戦死の報が役場から届き、家族は泣く泣く葬式を済ませ墓も建てて供養をしたところ、終戦後になって英霊となったはずの当の本人が何と生きて帰宅した、という話があるのです。
その方はもうずいぶん前に亡くなりましたが、法事の席などでご一緒するたびに「俺は役場の手違いで一度死んだことにされて、その時お寺に高いお布施を払って、立派に葬式を挙げてもらって墓も作って供養してあるから、本当に死んだ時は火葬だけして骨を墓に収めるだけでいいんだ」と笑い飛ばしていらっしゃいました。
実際、戦後のどさくさの中で、本当は生きていたのに戦死の報が入って死んだ事にされてしまった、というケースはざらによくある話だったと聞き及びます。
であるならば、遺骨もなしに紙切れ一枚だけである日突然戦死を伝えられても、それをそのまま素直に信じる事が出来ず、苦しんだ家族は多かったのでは無いでしょうか?

そんな中、出撃から特攻に至るまでの詳しい経緯が時系列で分かるだけでなく、今回神ノ池基地での訓練の様子まで伝えられたというのは、本当に奇跡的と言うか、珍しいケースであるとしか言いようが無いように感じています。
戦後60年余の時を越え、大叔父の魂が靖国の地で戦友の口を借りて、己の生の証しを自分の肉親に伝える。
当事者である私たち遺族にとっては、戦友の方との語らいの時間は、神がかり的な何かがあるとしか思えない瞬間でありました。
たまたま参拝のあった20日は母の誕生日でもあり、亡き大叔父から思いがけなく大きなプレゼントを貰ったような気持ちだ、と言って人目も憚らず泣いてもおりました。

母が持参した大叔父からのハガキ(※2)も、実に多くの方に読んで頂き、ありがたく思っております。
そのハガキは、なおらいの会の参加者だけでなく、会場のお世話係の方からも「もし宜しければ拝見させていただけませんか?」とお声がけを頂くほど会場の関心を集めました。
私同様戦争を知らない戦後世代の参加者の方も、是非、という事で、大叔父のハガキを手にとって見ていただきました。
軍の検閲が入るため、多くは書けない姪宛のハガキ。
幼い子供でも読めるようにとカタカナだけで綴られたそのハガキをみて、「優しい叔父さんだったのでしょうね」と仰ってくださる方もいました。

母も私も、そのハガキをきっかけにして、なおらいの会の参加者に向けて大叔父の人柄などを語りました。
1人でも多くの方の心に、大叔父の生きた証しが伝われば、それは大叔父の「残し置きたし」と願った心に添うことにもなる、と信じて。
私は比較的冷静に私の知り得た事実をお話したのですが、母は大叔父の話を始めると涙ぐんでしまい、ほとんど言葉になりません。
それを私が隣で補足をしつつ、多くの方に大叔父のお話をさせて頂きました。
大叔父の戦死当時7歳の子供だった私の母が、大叔父から貰ったはがきを後生大事に守り抜き、大叔父の話を語ると涙に暮れてしまう。
その姿を見ることで、何かを感じてくださる方もあったと思っています。
母の話を聞きながら、目を赤くしてくださる方が何人もいらした事を、ここに記しておきたいと思います。



※1 室原知末氏について

過去エントリーでは個人情報に触れることとして、氏の名前は伏せてご紹介しておりました。
しかし、室原氏は生前、私の正義大叔父の最期を伝えるのが生き延びた自分の役目であるとの信念の下に、大叔父の出撃の様子を記した手記を実名で世に出していらっしゃいます。
室原氏の遺志を汲み、氏の書き残した手記の存在を世に知らしめるため、室原氏のお名前をご紹介すると言う判断を致しました。

室原氏の手記は現在絶版のため出版社から入手する事は不可能ですが、古書店を探すなどすると、わずかですが現在でも入手は可能です。(実際私もネット古書店を通じて、室原氏の手記を手に入れました)
ご訪問の皆様の中でもしご関心のある方がいらっしゃいましたら、どこかでこの手記を手に入れて、特攻の大叔父の最期の詳細を知って頂ければと思います。
参考までに、私が入手した室原氏の手記が掲載されている書籍を以下にご紹介いたします。

★読売新聞社刊 『天翔ける若鷲 予科練最前線の記録』 長峯良斉編より 「沖縄神雷特攻」
★草土文化刊 『続・語りつぐ戦争体験−2 沖縄県で戦った』 日本児童文学者協会・日本子どもを守る会編より 「沖縄・空の特攻」


※2 大叔父のハガキの件に関してはこちら↓のエントリーをご参照ください 

http://piron326.seesaa.net/article/4869528.html
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2008年03月21日

神雷部隊戦友会と共に

昨日私はあいにくの冷たい雨の降る中、母のお供をして靖国神社を訪ねてきました。
目的は、一昨日紹介したように特攻の大叔父が所属した海軍神雷部隊の戦友会の方と共に、特攻隊員として若い命を散らした御霊をお慰めするためです。

今回、私は初めて戦友会の参拝に参列させて頂いたわけですが、それが何とも不思議な時間であったなぁ、と言うのが率直な感想でしょうか。

特攻の大叔父と共に同じ時間を過ごされた戦友の方。
遺族の方。
そして特攻に強い関心を持ち、それぞれの分野(映画・演劇・翻訳・ジャーナリストなど)で活躍する一般関係者の方。
総勢80名での昇殿参拝に臨み、その後なおらいの会に参加させていただきました。

昨日参集された方の立場はそれぞれに違っても、特攻で若い命を散らした御霊に寄せる熱い思いは変わらない。
その事を強く実感した一日でもありました。

大叔父と同じ時間を過ごした戦友の方が30名参加されていました。
その中には正義大叔父さんと一緒に茨城の神ノ池基地で訓練を受け、大叔父のことも良く覚えていると言う方が四国からはるばる駆けつけてくださっていました。
その方は(仮にAさんとしておきます)は、私たちに対して神ノ池基地での大叔父の訓練の様子を、まるで昨日の出来事のようにお話をしてくださったのです。

戦友会の参拝に参加した以上は、大叔父の事を直接に知る方と出会い、大叔父の思い出話のひとかけらでも聞く事ができたら・・・とは思っていました。
でも本当に、大叔父と同じ時間を過ごした方と直接にお目にかかれるとは夢にも思っていませんでした。
それは本当に言葉では上手く言えない不思議な体験でした。
まるで大叔父がこの場によみがえり、戦友の方の口を通して、己の生きた証しを私たちに伝えに来てくれているような感じがしたのです。
家族も知らない大叔父のエピソードを、戦後60年以上も過ぎた今、大叔父と共に生きた戦友から直接に聞く。
私にとっては写真でしか知らない大叔父の存在が、リアルに感じられた不思議な瞬間でありました。

なおらい会では、冒頭、関係者や遺族の協力を得て、沖縄守備のため散った神雷部隊の戦死者の名前を沖縄の平和の礎に昨年無事に刻む事が出来た、という報告もありました。
沖縄の平和の礎に、大叔父の名前があるのかどうかは私も以前より気になっていて、いろいろ調べてみたのですが、地上戦の犠牲者はともかく、海上での特攻による戦死者の名前が刻まれているかどうかはどうしても分からず、そのままにしてありました。
でも、この度、無事に平和の礎に神雷部隊の犠牲者の名前のほとんどを刻む事が出来たとのお話を伺い、ホッと安堵いたしました。
陸と海との違いはあっても、神雷部隊の戦死者も沖縄守備作戦の一環として出撃しているわけですから、地上戦の犠牲者と同様にその名を刻んで後世に残して欲しい、と言う願いはありました。
その願いが、関係者の努力によって果たされたと知り、本当にありがたく感謝しています。


私の母は昨日の参拝に、このBlogでも紹介した特攻の大叔父からのハガキを持参しました。
なおらいの会では遺族の方もご挨拶をと求められ、ハガキを持参している事を紹介し、「もしご関心のある方がいらしたらお見せしますのでお声がけください」とご案内したところ、たくさんの方がぜひハガキを拝見したいと申し出てくださいました。
涙ぐみながらハガキを手にとって、読んでくださる方が大勢いらっしゃいました。
多くの方に特攻の叔父の肉声のひとかけらを伝える事が出来、いい供養が出来たと感じています。


昨日の参拝に参集した方の全部が私にとっては初対面です。
そしてその方々に特攻の大叔父の思いを伝える、あるいは大叔父の思い出を知る人からお話を直接に聞く。
まるでその場に大叔父の魂が存在していたかのような気持ちを感じた、と言ったら大げさでしょうか?
これも特攻の大叔父が導いてくれた貴重なご縁なのかな?と感じています。

それから昨年、遊就館に奉納の手続きをとった特攻の大叔父の写真が、無事納められているのを昨日確認をしてきました。
もし、このBlogをご覧の方で遊就館にお出かけの際は、是非大叔父の遺影を確かめてみてくださいませんか?
石渡正義と言う名前と、白い軍服姿の凛々しい写真が立派に納められています。
これで靖国神社がある限り、大叔父の存在は後世に伝え残される。
遺族としては、ホッと一安心した瞬間でもありました。


すみません、なんだか文章がめちゃくちゃですね。
あまりにも不思議な時間を過ごしたので、一晩経っても言葉が上手くまとならないのです。
そうでなくても小学生レベルの文章しかかけないのに・・・私の思い、少しは伝わっているでしょうか?
いずれにせよ、私の中で大叔父への思いがさらにリアルに増したのは確かだと感じています。
貴重な一日を過ごせた事を関係者の皆さんに感謝しています。
posted by ぴろん at 08:36| Comment(4) | TrackBack(1) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月19日

明日は靖国へ

海軍特攻専門部隊であった神雷部隊戦友会の昇殿参拝が明日靖国神社で行われます。
ひょんなことからご縁を得て、私もその戦友会の参拝に加えて頂くことになりました。

神雷部隊桜花隊の一員として沖縄の海に散った、私の特攻の大叔父さんの御霊に対し、静かに頭を垂れてまいります。

桜花特攻隊の第一次出撃は昭和20年3月21日。
生き残った神雷部隊の方々は、毎年この日に靖国に参集し、亡き戦友の御霊を供養するために参拝をしてきたそうです。
戦友会そのものは、戦後50年を区切りに解散されているそうですが、一部の有志の方がボランティアの助けを借りて、今も参拝を続けているのだとか。
今年はたまたま閏年の関係で一日前倒しの20日参拝となりますが、心は靖国の御霊にも通じることと思います。


特攻の大叔父と同じ時間を過ごした生き残りの神雷部隊の方にお会いできるというのは、なにやら不思議な気持ちです。
彼らの年齢を考えても、今お会いしなければ聞ける話も聞けなくなってしまいます。
特攻の大叔父についてあれこれ調べ、大叔父の魂に少しでも近づけたらと自分なりに動いてきた事が、まさか神雷部隊の生き残りの方とお会いできるチャンスにまで結びつくとは思いませんでした。

これはきっと靖国の大叔父のお導きなのかな?(笑)
今までも何度か靖国参拝はしておりますが、明日の参拝はこれまでの参拝とは一味違うものになる予感はしています。
参拝の感想は後ほど書き綴りますので、お楽しみに。
posted by ぴろん at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月24日

北鎌倉 建長寺・正統院 神雷戦士の碑を尋ねて

昨日、私は母を連れて北鎌倉にある建長寺・正統院という小さなお寺を訪ねてまいりました。
ここには海軍神雷部隊の顕彰碑があると聞き、縁の者としては一度は行かねばなるまいと、前々から考えていたところ。
今年も大分押し詰まりましたが、ここでようやく時間の都合がつきましたので、千葉から鎌倉まではるばる日帰り旅行を決行した、と言う次第です。

自宅から鎌倉までは総武・横須賀線直通の快速電車を使えば、乗り換え無しでおよそ1時間半で辿り着けます。
一度電車に乗ってしまえば訳は無いのですが、そこまで腰を上げるのが意外と億劫。
近場にあるゆえに「いつでも行けるさ」という安心感と、片道1時間半・往復で3時間も電車に乗るとなると、いくら近場とはいえ丸一日潰れてしまうという億劫さ。
余程思い切らないと、中々腰が上がらないのが、悲しいけれど人間の性なのです。
しかし、私の母も寄る年波には勝てず、体の衰えは日々隠しようがありません。
その内その内と先延ばしにしている内に、行きたくても本当に動けない体の状態になっても後で心残りが生まれます。
ならば思い立ったが吉日とばかり、今年は共に茨城県にある土浦の特攻記念館に神ノ池基地跡と、神雷部隊縁の場所を訪ね歩いてまいりました。
そして年の最後に、近場で残った最後の縁の場所、建長寺・正統院を訪ねてきたというわけです。

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東北・北海道では11月としては記録的な降雪量を記録したと言う寒波がまだ関東上空にも残り、朝方は吹き寄せる北風が冷たく、格好よりは温かさを優先とばかりに、完全防備のスタイルで親子共々家を出発しました。
が、寒かったのは自宅から電車に乗るまでのわずかな時間だけ。
電車内は当然暖房が効いているので寒さは感じませんし、北鎌倉駅に着いたら写真の通り、抜けるような青い空に暖かな日差し、風もぴたりと止んで寒さなど微塵も感じませんでした。
母曰く、「これもきっと特攻の叔父さんのお陰。わざわざ千葉から身内が訪ねてくるのに、寒くては可哀想だと気を使ってくれたのだろう」と。

祝日という事もあり、鎌倉にはたくさんの観光客がそぞろ歩いておりました。
その人並みに混じって、まずは目的地の建長寺を目指します。
鎌倉に行ったことのある方ならご存知でしょうが、建長寺は駅からは徒歩15分ほどと少し離れた場所にあります。
歩く以外に交通手段がなく、それもついつい出かけるのを億劫にしてしまう理由の一つ。
ともかくも足早な他の観光客の方をどんどん先に行かせ、私たちは母の体力に合わせて、時間をかけてゆっくりゆっくりとお寺を目指しました。

建長寺は北鎌倉でも最大級のお寺の一つ。
その奥の塔中(たっちゅう)寺院の一つに正統院があり、その正統院自体は本当に小さな小さなお寺です。
ここは基本的に一般の観光客の立ち入りお断りのお寺ですが、私は事前に正統院へ電話を入れて、「神雷部隊の顕彰碑に参拝するのであればどうぞご自由にお入りください」との了解を取りました。
山門前の竹の仕切りを開けて正統院の墓地へと進み、その一角にある神雷戦士の碑の前へ進み出ました。
そこには、切り立った山の斜面を掘り抜いて、その中に大きなステンレス製の芳名板が据えられた立派な顕彰碑がありました。

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まずは持参した花を供え手を合わせて拝んだ後、特攻の大叔父の名前を探しました。
当たり前ですが、大叔父の名前もきちんと漏れなく、その顕彰碑に刻まれておりました。
その名前を見つけると、母はすぐに号泣をしてします。
大叔父の名前を手でさすり、長い間億劫にして放っておいて寂しい思いをさせた事を詫びました。

特攻の大叔父は、沖縄の海で木っ端微塵に果て、いまだ骨のひとかけらも戻ってきてはいない。
叔父さんの魂に触れるには、こうした記念の場所を訪ね歩くより他ないのです。
母が顕彰碑に寄り添っている間、私は持参した線香に火を点し、母と共に改めて顕彰碑に供えました。
中々その場を去りがたく、線香が点っている間はここにいようということで、およそ30分ほど碑の前で大叔父とお話を致しました。

人気のない正統院の墓地は静かで陽だまりに包まれた、穏やかな場所です。
顕彰碑の脇にある、案内板の説明を読むと、この碑を作ったのは神雷部隊生き残りの戦友会の方で、この碑が最初に作られたのは戦後20周年を記念した昭和40年のこと、と知りました。
そして戦後49周年の年、平成5年に改修を加えたことも記してありました。

戦後49年の年、と言う数字には思い当たる節があります。
神雷部隊戦友会は戦後50年の節目の年に、会員の高齢化を理由に解散しています。
会の解散を翌年に控えて、最後の務めとして亡き戦友の顕彰碑を自分たちの力で整え、それを心の区切りとしたのでは無いでしょうか?
十死零生の特攻部隊に生きた、彼ら神雷部隊の生き残りの人たちの心に去来するものが何なのか?
私には到底理解の他でしかありません。
でも、先に逝った戦友達に向けて、自分たちが元気な間に出来る限りの供養をしておこうという強い志を、私はこの戦後49周年の年に碑の改修を行ったと言う一文に感じました。
それは遺族としてはとても有難い事であり、同時に生き残りの彼らが生涯背負わざるを得なかったであろう業の重さを、推測するに十分の物でもあるとも感じました。

建長寺は由緒正しき歴史あるお寺さんです。
ここにどういう由来で神雷戦士の碑が立つことになったのか、その理由は私には良く分かりません。
関係者の中に、どなたかお寺さんとご縁のあった方でもいらしたのか?
いずれにせよ、これだけ立派なお寺の一角に顕彰碑が作られ、日々供養をして頂いていると思うと、何か心休まるものを感じます。

人はいずれ歳を取り、肉体は滅びて消えていく。
でも、日本の歴史の一ページに、確かに神雷部隊という特攻専門部隊は存在したのであり、そこで命を散らした多くの若者がいたのは事実なのです。
生き延びた神雷部隊の戦友会の方々が、戦後その重い荷物を背負って生きたのも、確かな事実なのです。
その事実の重みを、こうした顕彰碑の中に感じ取って欲しい。
そして後世に長く伝えて欲しい。
 
そんな事を思いつつ、冬の短い日が傾きだして少し風に冷たさを増した正統院の墓地を後にしました。
その後、建長寺名物のけんちん汁でお腹を満たし、少しばかり北鎌倉をそぞろ歩いて町並みの風情を楽しんだ後、夕暮れ迫る頃には帰宅の徒につきました。
千葉からの遠出で歩きっぱなしの疲れる旅であったにも関わらず、帰宅後それ程の疲れが残らなかったのは、ようやく特攻の大叔父さんの縁の場所を訪ねてきた、と言う安堵感が先に立った証しでしょうか?

鎌倉の青い空のように、帰宅後の私たち母子の心も快晴。
沖縄の海に沈む叔父さんの魂に、私たち肉親の思いは無事届いたでしょうか?
そんな事を思う、北鎌倉建長寺までの日帰りの旅でありました。
posted by ぴろん at 10:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月09日

靖国神社へ

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昨日所要で九段下まで出ましたので、少し早めに家を出て、待ち合わせの時間前に靖国神社へ参拝をしてきました。
過日の日記にも紹介したように、この度遊就館に特攻の大叔父の遺影を奉納する手続きが終了した事を報告するためです。

九段下の駅に着いたのが丁度3時半頃。
陽はすっかり西に傾き、境内は夕闇迫って薄暗くなり始めておりました。
人影もまばらな境内を進み、今日は時間の関係で拝殿前だけの参拝で、ごく簡単に特攻の大叔父の御霊に、写真奉納の件について報告を致しました。

最近は靖国に詣でても滅多に感情をかき乱されることも無かった私ですが、この日はあふれる涙を抑えるのに苦労しました。
写真を納める目処が立ち、靖国がある限り大叔父の遺影は未来永劫伝えられるのだと言う喜びと安堵感とで、私の心のあり方もいつもと少し違っていた模様。

戦後60年以上も経って、今更奉納もへったくれもないのかもしれません。
本当に遅ればせではあるのですが、これで長年心のどこかにつかえていたものが取れたというか、ホッとしたと言うか。
大叔父を直接に知る母の世代ももうすぐ70代に突入する歳となった今だからこそ、出来る供養をしておかねばあの世に逝った時叔父さんに会わせる顔が無い。
その意味でも、この度写真奉納の手続きが無事に済んだ事は本当に心安らぐ出来事であると思っております。

今度靖国をお尋ねの折、遊就館に行かれたら、是非特攻の大叔父の顔を探してやってくださいませんか?
名前は「石渡正義」享年21歳、海軍神雷部隊の一員として沖縄戦で桜花による特攻死・・・とおそらくそういった内容表示と共に小さな写真が掲示されることになるはずです。

特攻機・桜花の戦死者は55名。
そのうちの一人が私の特攻の大叔父・正義叔父さんその人です。
愛する祖国を家族を守るために、若い命を桜花によって散らした若者がいた事を、どうか一人でも多くの方の心に刻んでいただき、彼が「残しおきたし」と願った心をひとりでも多くの方に受け継いで頂けたらと考えております。
posted by ぴろん at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月02日

遊就館に特攻の大叔父の遺影を奉納

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夕べ、親戚の叔母から嬉しい電話あり。
私の特攻の大叔父の遺影が靖国神社の遊就館の展示室に奉納される手続きが完了したのです。

遊就館にはご祭神の写真を飾ってあるコーナーがあります。
それを見たとき、うちの大叔父さんの写真もここに納めさせてもらえたらいいのにな、と漠然と思っておりました。

靖国神社に問い合わせたところ、奉納にあたっては規定の書類に必要事項を記入し、ご祭神のお写真1枚と初穂料1万円以上を添えて郵送するか神社に直接お持ちください、との事。
早速その場で書類を送ってもらうよう手配をしたのが、今年の夏前の話でしたでしょうか?

大叔父の遺族は我が家だけではなく、他の親戚にも関係することなので、各方面の調整に手間取りましたが、昨日ようやく靖国神社宛に必要書類を郵送し終えたのです。
実際写真が展示されるまでにはおよそ3ヶ月ほどかかるそうですが、この分だと来年の3月21日の神雷部隊の初出撃日にちなんだ旧戦友会の皆さんの昇殿参拝の日に、間に合うかもしれません。

そうそう、申し遅れましたけど、私が特攻の大叔父の事を自分のBlogに書いたのが縁で、今度の3月21日神雷部隊の生き残りの方が行う靖国参拝の席に同行させて頂けることになりました。

大叔父が短い人生の最期を過ごした神雷部隊の生き残りの方々。
もう皆さん80を越えた老境にある方ばかりですから、今お会いしてお話を聞かなければ、未来永劫禍根を残すことにもなります。

直接に大叔父の事を知る人がその中にいらっしゃるかは分かりませんが、同じ場所同じ時を過ごした戦友の方々のお話を伺えば、大叔父が人生の最期をどんな気持ちで生きていたのかを知る手がかりにはなるでしょう。
その時を楽しみに待ちたいと思います。

これも多分、大叔父さんのお導き。
青空の向こうにいる大叔父さんの魂に深く感謝します。
posted by ぴろん at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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