2007年07月16日

平成19年、みたままつり

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昨日、今年も家族揃って靖国神社のみたままつりに行ってきました。
折悪しく台風4号が関東地方をかすめ、天気予報は最悪。
しかし予想よりも台風の通過が早く、夕方には天候が回復して来たので思い切って出掛けてまいりました。

母は数日前よりこのみたままつりの参拝をとても楽しみにしておりました。
台風が接近中で交通機関などがどうなるか分からない中、今年の参拝をどうするか思案を始めた時でも、「どうしても靖国に行く、叔父ちゃんに逢いに行く」と言って涙ぐむのです。
「特攻の叔父さんが命をかけて護ってくれた自分が行かなければ、叔父さんが寂しがるから」と言って聞きません。
そこまで言うなら、どんな事をしても行きましょうと、今年もみたままつり参拝を決行いたしました。

15日夕方5時前には家を出て、6時ごろには靖国に到着。
台風による悪天候が災いしたのか、去年のみたままつりに比べて人出は少ないように感じました。
吹き返しの風が境内を吹き抜け時折小雨も舞い、傘を持つのが余計な荷物という厄介な状況の中、それでも私は人ごみが苦手なので、その点だけはありがたいと思ったり。

まずは昇殿参拝をすべく、参集殿を目指します。
去年は自宅を出る時間が遅れ、昇殿参拝は最終ぎりぎりに滑り込みで間に合ったのですが、今年は早く家を出た分余裕がありました。
係りの方の案内に従い、手水を済ませてまずは拝殿へ。
ここでお祓いを済ませた後、渡り廊下を辿って本殿へと進みます。

小雨の舞う本殿の風景もしっとりと落ち着いてそれはそれは荘厳な眺めでした。
空模様が晴れであれ雨であれ、ここにはそんな世情とは関係なく何かが漂う空気がある。
心を静かに落ち着けて本殿に昇殿を致しました。

祝詞を上げていただき、二礼二拍手一礼の参拝を済ませ、しばし黙祷を捧げます。
聞えるのは参道から聞える祭囃子と、風に揺れる木々のざわざわと言う葉摺れの音のみ。
本殿には静かな沈黙の時が流れるのみでした。
去年はこの黙祷の時、「愛する者がいるから命をかけられるんだよ」という大叔父の声が私には聞こえたのです。
けれども今日は私の予想通りに何の声も聞こえる事はありませんでした。

最近私が靖国を訪ねても、もう大叔父の声が聞こえる事はないのです。
けれど声が聞こえなくても、靖国はやはり何かを感じる場所ではある。
今日昇殿参拝をして改めて思いました。
大叔父は私に対して具体的な言葉で進むべき道を示す事は多分この先無いのだろうな、と。
その代わり言葉にならない熱い思い、伝えるべき思い、といったものを感じる瞬間はあったのです。
「どうすれば愛する者を護れるのか?をそろそろ自分の頭で考えて自分なりの行動をしろ、お前なりの努力をしろ」と。

本殿を下がってお神酒を頂いた後、私は本殿に向かって深々と頭を下げました。
「大叔父さんの熱い思いに必ず私なりに応えて見せます、だからどうか温かく見守ってください」と、心の中でつぶやきました。

母は参拝の間も涙ぐんでおりました。
叔父さんの事は忘れないよと。
元気で幸せに暮らす事が叔父さんへの恩返しだから、頑張るよと。

後に残る者の幸福を願うからこそ、大叔父は自分の命を投げ出したのです。
その思いに応えずして、大叔父の恩に報いる事は出来ません。
そしてその幸福と言うのは必ずしも私個人だけのものではないはずでしょう。
自分を取り巻く家族が、地域が、そして国が幸福にならなければ靖国の御霊はとてもとても静かに休んではいられないはず。
そんなことも考えた静かな今年の靖国参拝でありました。

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小雨舞う中、永代献灯の提灯を探して歩きました。
今年の母の献灯は何と木組みの一番上。
これなら大柄な叔父さんにも見やすくて宜しかろう、と家族で喜び、記念の写真を今年も撮りました。
その後は神輿の宮入や盆踊りなど、御霊をお慰めする様々な催しを見学。
台風の被害を避けるべく、今年は仙台七夕の飾りが外してあったり、休業している出店があったりでちょっと寂しげなみたままつりであったかもしれません。

でも、多分昨日の人出が少ない分今日16日の最終日は混むんじゃないのかな?(笑)
それはそれで仕方の無いこと。
台風の影響があったにしては人出はそこそこありました。
賑やかな祭りの様子を見て本殿の奥で英霊もさぞかし喜んでくれたことと思います。

悪天候を反映してか、今年はさすがに浴衣がけの参拝客は少なかったですね。
それでもいましたよ、左前に浴衣を着ている紳士淑女の皆様が・・・(笑)
どうしても職業柄、そういうところには目が行ってしまうのです。
本日の左前=死に装束着付けで祭りをそぞろ歩いていた方は、男性1名・女性6名の計7名。
浴衣がけの方が少ない割りに遭遇率は高かったんじゃないかしら?

お願いです。
着物は日本の民族衣装、日本の大事な伝統文化なのです。
自分の国の民族衣装すら満足に着られないというのは、基本的教養として如何なものか?と思いますよ。
この季節、探せば浴衣の一日着付け教室などと言うのもありますし、着付けの出来る方からきちんと習うなりして、浴衣くらいちゃんと着こなして欲しい、と願う私。

着付けがいい加減だから、襟元が崩れ、すそが乱れ、帯が緩み、腰周りの始末がぐちゃぐちゃと言う方が、本当に多くて参ります。
もう、片っ端から着付けを直して差し上げたい!という衝動に駆られるのを、必死で押さえて過ごすこちらの身にもなって欲しいなぁ・・・(笑)
きちんと襟元を合わせ裾をきちんと決めて帯をしっかりと結べば、多少乱暴に動いても着物と言うのは本来そんなに着崩れしないし、動きやすいモノなんですから♪

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最後に大叔父さんの命の桜である神雷桜について。
台風の雨にずぶぬれになった桜は、今日は献灯と掛け雪洞の陰に隠れてすっかりと目立たない存在でありました。
でも、我が家の面々にとってはこの桜に逢わずして靖国に来た意味が無い。
雪洞の下をくぐり抜け、神雷桜の幹に手を触れてまいりました。
台風の雨をたっぷり吸って湿った桜の幹は、なんだか少し寒そうにも見えました。

雨の靖国を尋ねたのは実はこれが初めての事。
当たり前の話ですが、靖国だって世情と同じように晴れの日もあれば雨の日もある。
でも私たち家族にとって、大叔父の魂の宿る神雷桜が雨に濡れて祭りの喧騒の影でひっそりと立ち尽くしている風景には、何ともいえない寂しさや悲しさを感じるのです。
明日は天候が回復するそうなので、早くからりと幹が乾いて、気持ちよく一日を過ごして欲しい。
沖縄の海に木っ端微塵と散った大叔父さんは遺骨のひとかけらも家族の元には帰って来ていない。
叔父さんと魂の触れ合いが出来るのは、ここ靖国でしかないのですから。
そういう思い入れを持つ遺族にとって濡れ鼠の桜の木は、そのまま大叔父さんがずぶ濡れて立ち尽くしているのに等しい風景なのです。

神雷桜を去るとき、母はポツリとつぶやきました。
「桜も元気で長生きしてね、これは叔父さんの命の木なんだから」

名残を惜しみつつ、靖国を後にしたときは午後の9時を回っておりました。
さすがにこの時間になると少ない人出もさらに少なめになる。
出来れば一晩くらい靖国に泊り込んで大叔父の魂を慰めたいところですが、そういうわけにも行きますまい。
再びの参拝を約束して、私たちは帰途につきました。
大叔父さんの魂がただただ安らかである事だけを祈り、命がけの愛に応える事を改めて約束して、九段の坂を下りて地下鉄を目指し、平成19年のみたままつり参拝を無事に終えた私たち家族でありました。
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2007年07月01日

桜花特攻隊員練成の地、神ノ池基地跡へ行く

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昨日、私は母を連れて茨城県鹿嶋市にある、桜花特攻部隊の訓練基地でもあった神ノ池基地跡を訪ねて参りました。
過去のエントリーでも紹介したように、昭和19年10月、海軍は特攻のための専門部隊「七二一海軍航空隊」通称「神雷部隊」を結成し、翌11月より現茨城県鹿嶋市にあった神ノ池基地で訓練を行う事となりました。
千葉と茨城はお隣の県にも関わらず、交通手段の不便さなどを考えると今までは行きたくても躊躇する日々であったのですが、特攻の大叔父が自分の命をかけて護った当時7歳の姪っこである私の母も今年69歳。
こんな事を書くと縁起でもありませんが、いつ何時何が起こっても不思議ではなくなりつつある歳となっております。
母が元気で足腰立つうちに、思い立ったが吉日とばかりに、叔父の気配の残る土地を片っ端から訪ねてようとしている私たち母子なのですね。

神ノ池基地跡は、現在住友金属鹿島製鉄所の私有地。
しかし神ノ池基地の歴史的経緯に配慮し、敷地の一部を公園として一般に開放し、そこには慰霊碑と桜花のレプリカが展示された、掩体壕(えんたいごう)が無料で見学できるようになっています。

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ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、神ノ池基地における桜花の投下訓練はたったの一回。
それであらゆる攻撃に対応できる「練度A」判定を貰い、彼らは鹿児島県の鹿屋基地へと進出していきました。
叔父の足跡を訪ねるたびに思うこと。
人一人の命を爆弾に乗せて特攻させるという作戦自体も無謀だけれど、その為の訓練もたったの一回こっきりだったという事実を前に、所詮は今の感覚でしか物を考えられない戦後生まれの私には、「余りにも無謀で過酷な状況」の一言しか思い浮かびません。

しかし国家存亡の危機に際し、彼ら特攻志願者は己の命を捨てても国を家族を護りたいと、心底切実に願ったのでありましょう。
それなくして自ら命を散らす特攻作戦などに参加できるものなのかどうか?
特攻は犬死と仰る方もいますけれど、しかし今自分の命を捨てる事が、特攻に臨む事が、自分の愛する家族を護るためにどれ程役に立つか?を分かっていたからこそ、つまり自分の命の価値を知っていたからこそ特攻隊員は誇りを持って出撃に臨んだような気もしています。
でなければ、普通に考えてとても正気の沙汰とは思えない特攻作戦にその身を投じることなど出来るのか?
5月4日の第7次桜花出撃に際し、特攻の大叔父は笑顔で母機の一式陸攻の搭乗員に別れを告げて桜花に乗り込んだと、母機の搭乗員であり桜花の発射ボタンを操作し、戦後を生き抜いた戦友のA氏の手記にもありました。

しかし如何に戦中の過酷な状況にあるとはいえ、人一人が特攻に臨むに当たって笑顔で出撃していくというその境地に至るまでは、人知れず涙を流し恐怖心に駆られ心の揺れる瞬間を何度も通過したに違いないと考えます。
その恐怖心を乗り越えさせたものは何なのか?
それはやはりどう考えても、家族への愛に他ならぬと思う。
それなくして、どうして十死十生の100%の決死の特攻に、そんなに簡単に人は臨めるものなのか?と思っています。

神ノ池基地跡地に立つ桜花の慰霊碑を前に、「叔父さん、やっと逢いに来たよ」と言って私の母は号泣いたしました。
慰霊碑に花と線香を供え、周囲の雑草を抜きゴミを拾い、叔父の魂をしばし慰めました。
特攻作戦は死んで逝く者にも護られて生き残る者にも、過酷なまでの試練を与える。
その心の痛みと共に母の人生はありました。
立派な叔父さんの志に泥を塗ることの無いようにと、叔父さんの心を受け継いで生きる事が、母のその後の人生を支える大きな柱の一つとなりました。

神ノ池基地跡の頭の上に広がる空、そして公園を渡る風。
この地には、当時わずか19歳の青年が、かつて自らの命を真剣に桜花の投下訓練にかけた時間が確かにありました。
街の姿は現在大きく変わってしまっても、叔父がこの地で短い生涯の一部分を過ごしたことに変わりは無い。
もしや叔父の匂いが多少なりとも残ってやしないか?と、母と二人大きく深呼吸などしてみました。
叔父が歩いたかもしれない公園の地を踏みしめ、叔父の気配を追い求めもしました。

特攻の大叔父さん。
どう逆立ちしても私はあなたの壮絶な決意の足元にも及びません。
あなたの命がけの愛に護られ今命をつなぐ者の一人として、精一杯の生を全うしたいと思います。
いつか三途の川を渡ってあなたに逢う時、恥ずかしくない自分でありたいと思う。
そんな事を改めて感じた、神ノ池基地跡を尋ねる母と私の小さな旅でありました。
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2007年05月05日

母の涙

特攻の大叔父の62回目の命日に合わせて、昨日靖国参拝をして参りました。
昨日のBlogにも紹介したように、今回は拉致問題の支援活動で知り合えたお仲間を誘い、私と私の母を含めると総勢14名の大所帯での一日となりました。

参加者には靖国境内内の大村益次郎像の下に集合してください、とお願いしました。
言いだしっぺの主催者が遅刻をしては話にならないので、30分ほど早めに行って参加者のお出でをお待ちしました。
事前の約束どおり、次々とお誘いしたお仲間が集まって来てくれる光景に、まずは胸が熱くなりました。
連休の最中、それぞれに忙しい時間を割いて集まっていただける。
それだけでも靖国の社におわす大叔父の御霊はさぞかし喜んでくれたことでしょう。
何しろ明るく朗らかでどこに行ってもすぐに仲の良い友達を作る名人だった大叔父は、賑やかなことのたいそう好きなひとでもありました。
昨日の団体様ご一行の参拝を一番喜んだのは、私でも母でもなく、特攻の大叔父その人であろうと思っております。

私がこの参拝で参加者の皆さんに一番見てもらいたかったもの。
それは一番の近親者である母の涙でした。
戦後62年の年月を経て、大叔父の戦死時7歳の少女もすでに老年の域に入っております。
まだまだ元気ではありますが、体の衰えはやはり隠せない。
しかし、その母が靖国に参り、叔父の魂に触れた瞬間、一瞬にして7歳の少女に逆戻りしてしまう姿を理屈抜きで見てもらいたかったのです。

この参拝に合わせ、大叔父の人となりを知ってもらうために、事前に私はたくさんの資料を準備しました。
神雷桜の前で、遊就館の桜花の模型の前で、私は大叔父の生涯や家族としての思いなどを拙い言葉で語りました。
でも、そんなものは家族の心情を伝える力の1%にも満たない。
それよりも何よりも生前の大叔父を知る母が、神雷桜の幹に抱きついて号泣する姿をとにかく見て欲しかった。
それを見て何かを感じて欲しかった。
そして感じた何かを、それぞれの参加者が今後の糧にしてくだされば、それが何よりもの大叔父の供養になる。
私はそう考えたのです。

実際、靖国の神門をくぐると同時に神雷桜に駆け寄り、桜の太い幹に抱きつくようにしていきなり号泣を始めた母の姿を見て、びっくりした参加者もいらっしゃいました。
参拝後の懇談会の席で、私が参加者に感想を聞いて回った時も、あの母の姿に驚いたと仰ってくださる方は少なくありませんでした。

遺族の感情を言葉で語る事はいくらでも出来ます。
でも言葉以上に語るべき何かは、やはり生身の遺族の姿を見て感じてもらうのが一番良い。
それが今回大勢のお仲間にお声かけをさせていただいた一番の理由でした。
そしてその思い通り、それぞれの心に遺族の思いは通じてくれたものと私は信じております。

短い生涯を特攻と言う形で閉じた大叔父。
その叔父さんが大好きだったという母は、叔父さんの話になるといつも涙ぐんでしまう。
ゆかりの場所を訪ねれば、一瞬のうちに7歳の少女に戻ってしまう。

特攻は出撃したが最後、いつどこでどんなふうに死んだのか?誰にも分からないのが普通です。
だから多くの遺族は、本当に自分の息子や兄弟が特攻で死んだのかどうかが、はっきりと認識できない場合がほとんどであろうと思います。
もしやどこかで生きているのでは?という淡い期待を捨てきれず、長年苦しむ方も少なくなかったことでしょう。

しかし、うちの大叔父の場合は、桜花といういわゆる人間爆弾での特攻だったため、特攻の瞬間を目撃した生き証人がいるわけです。
叔父の搭乗した桜花を牽引して沖縄へと飛んだ母機の一式陸攻は、奇跡的に鹿屋基地への生還を果たし、その乗組員だった人が大叔父の最期を千葉の生家に伝え、さらに大叔父の出撃の様子を手記と言う形で後世に伝え残してくれました。

否が応でも大叔父の死を家族は受け入れなくてはならない。
でも大叔父の特攻の瞬間の目撃者が生還し、その方が戦後を生き延びてくださったおかげで、私たち遺族は大叔父の特攻の詳細を敵方への戦果まで含めて知ることが出来る。
これもまさしく稀有な事例である事は間違いのない事実なのです。

威張るわけではありませんが特攻隊員の遺族である事は、それ自体がすでに稀有な存在でもあります。
それに加えて、大叔父の出撃から特攻の瞬間、戦果まですべて辿れる我が家のようなケースは本当に稀であるとも思います。
その立場にいる私たち遺族に課せられた使命とは何なのか?
そういう自分の立ち位置と言うものを考えた時、私は特攻の大叔父について語りつがねばならないと思いました。
例えどんなに拙い言葉でも、一人でも多くの方へ、大叔父の短い生涯の意味を伝えねばいけない。
それをしなければ、命をかけて7歳の姪っ子を護るために沖縄の海に命を散らした大叔父の魂に申し訳が立たない。
そんなふうに私は感じているのです。

62回目の大叔父の命日に靖国神社へ一緒に参拝しませんか?と呼びかけたのも、ひとりでも多くの方に遺族の思いを知ってもらいたかったから。
その遺族の思いを言葉以上に雄弁に語るのは、母の涙に他ならない、と私は思うのです。

昨日の経験が参加してくださった皆様の心の中で、どのように受け止められてどのように昇華されていくのかは私には分かりません。
けれど、母が号泣する姿には強烈なインパクトがあった事だけは、間違いの無いことだろうと思っております。
後は昨日感じた事を、それぞれの今後に活かしていただければ良い。
そして亡き大叔父の思いを、参加してくれた皆さんがそれぞれの言葉で周囲の人に伝えてくれたらば、それが何よりも大叔父の魂を引き継ぎ、次の世代に伝える力となるであろうと私は信じております。

靖国におわす私の特攻の大叔父さん。
昨日の参拝はいかがでしたでしょうか?
あなたの魂に会うために、全くの赤の他人である人々が大勢集い、あなたの魂に向けて静かに頭を垂れてくださいました。
あなたが残しおきたいと願った心をひとりでも多くの方に伝えるべく微力ながら奮闘した私ですが、昨日の参拝の様子を見て大叔父さんは喜んでくれたでしょうか?

特攻の大叔父さん、石渡正義、享年21歳。
沖縄本島西方の伊江島近海にて、昭和20年5月4日午前8時55分、その若い命を散らす。
あなたが命をかけて護った石渡家の一人、当時7歳の姪っ子である母は今年69歳となり、おかげさまで叔父さんの歳の三倍以上も元気で生きたことになります。
それもこれも、あなたが命をかけて護ってくださったおかげ。
あなたの家族を思う命がけの愛に応えて、これからも日々を過ごしていくであろう母と共に、私も自分の生を全うします。
いつか三途の川を渡ってあなたに会うときに、恥ずかしくない自分でありたいと日々願いながら・・・
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2007年05月04日

62回目の5月4日

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当Blogをご愛読くださっている方にはすでにご存知のことと思いますが、今日5月4日は、特攻の大叔父の62回目の命日です。
今年、私は大叔父の命日に合わせて靖国神社へ参拝する事を思いつきました。
拉致問題の支援活動で知り合った方に、もし宜しければご一緒しませんか?とお声かけをしたところ、連休中にも関わらず13名の希望者が集まりました。
これには正直、言いだしっぺの私の方がびっくりです。

今年の5月4日もさっぱりと晴れたいい空模様となりました。
世の中はゴールデンウィークの真っ最中。
行楽、帰省、あるいは農家であれば田植え作業など、それぞれに楽しく忙しい時間をお過ごしのことであろうと思います。
でも62年前の今日、決死の特攻で沖縄の海に若い命を散らした人が現実にいた。
その事に思いを馳せてくださる方は、今の時代どれくらいいらっしゃるのでしょうか?

大叔父の搭乗する桜花を牽引した母機の一式陸攻は、62年前の今日午前6時5分、鹿児島県の鹿屋基地を離陸。
午前8時25分には「では、往きます」の言葉を残し、特攻機桜花に乗り組みました。
そして8時55分、沖縄本島西方の伊江島付近でアメリカの掃海艇「ゲーエティ」に向けて発進するも、敵の対空砲火を受けて「ゲーエティ」の左舷後方20メートル手前で墜落爆破。
桜花の破片と搭乗員の肉片が飛び散って、「ゲーエティ」の乗組員3名が負傷したそうです。

20メートルも離れたところから大叔父の肉体の一部が飛び散って、乗組員を負傷させたという。
一体どれほど物凄い爆破の光景がそこにはあったのか?
敵兵に負傷をさせたという大叔父の肉体の一部とは一体どこなのだろう?

大叔父は母機の一式陸攻の乗組員に最期の別れを告げる時、笑みさえ浮かべていたという。
しかし、その境地に至るまで、どれほどの葛藤が彼の中にあったのか?
その事を深く考えてくださる方は、今の時代どれほどいるというのだろう?

ある人は特攻は犬死であり洗脳であるという。
またある人は特攻隊員は英雄であり、勇壮に華々しく死んだという。

直接の遺族である私には、そのどちらの言い分にも微妙な違和感を感じています。
大叔父はあくまでも一人の人間、故郷を思い家族を思うごくごく普通の人間であったはずです。
ごく普通の若者に過ぎない大叔父が、決死の特攻に至るまでには、凡人には及びもつかぬ葛藤の日々があったはず。
それを乗り越えるには、どれほどの苦悩があったのか?
それを分かった上で、世の人々は特攻について語ってくれているのでしょうか?

物事には常に表と裏があり、光と影がある。
それを忘れて、自分のイデオロギーにとって都合の良い部分だけを引っ張り出して、特攻による死を自己主張の種にはして欲しくない。
まずはゆがみの無い目でありのままの特攻隊員の苦悩の日々を思って欲しい、と私は思う。

まだ歳若い大叔父が、最後にはそういう悟りの境地にまで辿り着けてしまった事が、私にはとてつもなく切なく悲しい。
今の私に言えるのはただその一言のみです。

大叔父の命がこの世から消えた午前8時55分。
自宅の庭に出て沖縄の方に向かって私は合掌し、黙祷をささげました。
そして今年も頭の上に広がった青い青い空に大叔父への思いを馳せました。

今日はこれから母を連れて靖国神社へ、特攻の大叔父に会いに行きます。
大叔父が命をかけて護った可愛い7歳の姪っ子も、今年69歳になりました。
年月の経過とともにだいぶ古くなってしまった姪っ子ですが、それでも命をかけて護った肉親が靖国に会いに来てくれれば、大叔父もさぞかし喜ぶことでしょう。

叔父さん、これからあなたの魂のいる靖国に可愛い姪っ子が参ります。
姪っ子の未来につながる私も同行します。
賑やかなことの好きだった大叔父さんに是非会いたいと、今年は13名もの友人・知人が同行してくれることになっています。
だから叔父さん、今日も楽しくお話を致しましょう。
靖国の社でしばしお待ちくださいませ。
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2007年04月02日

土浦にて

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昨日私は母を連れて、茨城県の陸上自衛隊土浦駐屯地内にある、「雄翔館(ゆうしょうかん)」という予科練の記念館を訪ねてきました。
http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/heiki5/yokaren/yokaren.html
ここは戦前、予科練教育の中心的施設があったところだそうで、そこに私の特攻の叔父の遺影が飾られていると聞き、是非一度たずねてみたいと、母と共に足を運んでまいりました。

駐屯地内にある記念館は、それほど大きいものではありません。
学校の教室二つ分くらいの小さな展示室に所狭しと、遺影や遺書などが飾られています。
私の特攻の叔父も話に聞いたとおり、海軍の白い軍服姿の写真と両親に宛てた遺書の写しなどが、ガラスケースの向こう側に展示してありました。

特攻の叔父ゆかりの場所を訪ねるとき、母はいきなり7歳の少女に戻ってしまいます。
今年69歳のいい大人が、人目も憚らず、記念館の中で号泣をする。
「叔父ちゃん、叔父ちゃん」と涙声で話しかける。
それが特攻によって直接に命を護って貰った遺族のありのままの姿なのだろうと思います。
母は結局1時間以上も記念館の叔父の写真の前で号泣を続けておりました。

少し前の私なら、母と共に泣いて涙を流していました。
でも、今回は私は一粒の涙も出なかった。
なぜなのでしょう?

無論、私とて悲しくないわけではないのです。
しかし、直接には特攻の叔父を知らない私の思い・感じ方は、やはり母のそれとは微妙に違う。
直接に知らない分だけ、冷静に客観的に特攻についてのあれこれを読み取る余力が、おそらく私の中にはある。
ただただ肉親として悲しむだけでない何かが、私の中に根付いたようにもこの頃感じられてなりません。

生還不能の決死の突撃。
桜花に乗り込む直前、「では往きます」と、母機の一式陸攻の搭乗員に別れを告げたその姿は神々しささえあったという。
最近入手した地元の郷土史研究家の方の著書によって、私は叔父の最期の様子を知りました。
悟りの境地というのは、そういう姿の事を言うのでしょうか?

自分の愛する家族を護りたい。
そう思わなければ、特攻などと言うおよそ無謀な作戦にその身を投じることなど果たして出来るのか?
大事なものを護るためには、時に命さえも投げ出さねばならない時がある。
それを身をもって私に教えてくれたのが、特攻の叔父。

特攻で死んだ人はただ、可哀想だけの人なのか?
現実問題として、きれい事では済まない無い何かがこの世にはあります。
「戦争はいけないこと」といった決まり文句だけでは解決のつかない世界の矛盾。
極限状態に追い込まれた時、人はどうあるべきなのか?
どうすれば、自分の愛する家族を護り故郷を護り、そして国を護れるのか?

もっともっと、私たちは考えなければならない事があるのだと思います。
のんびりと平和ボケしている間に、忘れてしまった物・失ってしまった物の如何に大きいことか。
真の平和を享受するために、私たちが払わねばならない代償について、戦後の私たちは考えることさえ拒否をしてきました。

でも、そろそろ私たちは目覚めても良い頃合だと思う。
自分の身だけ安泰であれば、という甘えはそもそもはじめから通用しないのだから。
幻想の海の中で惰眠をむさぼる事は、そろそろ許されない時期に来ているのではないか?
そんな事を思いながら、私は資料館を後にしましたが。

資料館の外は、春爛漫の桜の花。
同じ桜の花と書いても、花の桜は平和の時代の私たちの心を和ませる美しい存在です。
しかし、特攻機「桜花」は、同じ桜でも人の命を散らす花。
沖縄の海で、「桜花」と共に散った一つの若い命を、どうか時には思い起こしてください。

いまだひとかけらの骨も故郷に戻れない叔父に会うためには、こうした資料館の類を訪ねていくより他にない。
69歳の良い大人が、一瞬にして7歳の少女に戻り、「叔父ちゃん、叔父ちゃん」と声を上げて泣く。
ガラスの向こうに飾られた写真を前に、「このガラスより近くには叔父ちゃんのところへ行けない。叔父ちゃんに手が届かない」と言っては、また泣く。
「叔父ちゃんの顔に泥を塗るような生き方はしてないよ、叔父ちゃんこれからも私を護ってね」と言って泣く。
それが遺族のありのままの姿であるのだと、どうか心の隅に刻んで欲しいと願っております。
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2007年03月30日

神雷の夜桜

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昨日、夕方から靖国神社へ行って来ました。
ちょうど東京の桜は満開宣言が出て、叔父の魂の宿る神雷桜も見事に枝一杯に花を咲かせておりました。

特攻に限らず、戦地で命を落とした犠牲者の中には、骨のひとかけらさえも故郷の家族の元に帰れない人が多い。
でも自分の魂は必ず靖国の社に帰るから、会いたくなったらいつでも九段まで来て欲しい、と多くの戦死者が遺書にその言葉を残しています。

特攻の叔父さん。
今年はどの枝に花と咲いてくれたのでしょうか?
命の極限を体験した戦友たちとどんな会話をしているのでしょうか?
一抱えもある神雷桜に寄り添って、長いこと私は叔父の言葉を待ちました。

余りにも長いこと神雷桜に寄り添っていたら、通りがかりの年配のご婦人から、「どうかされましたか?」と声をかけられました。
桜の幹に頭をつけてもたれかかっている様子を見て、どうも私が具合を悪くしているように見えたらしい・・・(笑)
「大丈夫です。私はこの桜にゆかりの者です。遺族なのです」
と申しましたら、ご婦人は納得されて「そうでしたか。お邪魔してごめんなさいね」と言う言葉を残し、過ぎ去っていきました。

多くの見物客にとって、桜はただの桜です。
でもゆかりの者にとっては、あれは単なる桜ではない。
靖国の桜は、遺族にとって魂のよりどころ、そして家族の絆を確かめるところ。

だから私は靖国神社へ「桜を見に行く」とは言いません。
「会いに行く」というのです。
魂の桜に会いに行き、私は叔父の魂に触れ合うのです。

靖国神社の境内には、いつもはなにやら重苦しい一種の妖気のようなものが漂う場所であります。
いつもならその重苦しさに圧倒される私なのですが、今回に限ってはその重苦しさを感じる事が全くありませんでした。
なぜなのだろう?
昨日は幾ら話しかけても、特攻の叔父は一言も返事をしてくれませんでした。

これはどういう事なのか?
私の感性が鈍ってしまったという事なのか?

一晩明けて、今私はこんなふうに考えています。
ここ数年、私は色々な手段を通じて叔父の魂に近づこうと努力を重ねてきました。
その努力が実って、叔父が最期に残しおきたいと願った思いが、肉親の私にも多少は理解できるようになったのかもしれない。
それゆえに叔父は満足をして、昨日は語るべき言葉を発しなかったのかもしれないな、と。

ただ安らかに。
私の願いはそれだけです。
家族の幸せだけをひたすら願い、沖縄の海へ命を投げ出した私の特攻の叔父。
叔父の魂の宿りし神雷桜の幹に抱きつくようにして、私は感謝の言葉を捧げました。

叔父さん、あなたのおかげで私も母も元気で暮らしています。
あなたの顔に泥を塗るような恥ずかしい生き方はしておりません。
これからもどうか温かく見守っていてください。
また、会いに参ります、と。

年に一度、わずか1週間ほどでその命を終える桜の花。
余りにも短い生を終えなければならなかった特攻隊員たちにとって、これ以上お似合いの花も他には無い。
靖国の桜に花と咲くことを誓って、命を散らした多くの兵士たち。
彼らの犠牲の上に今の日本の繁栄がある事を、私たちは決して忘れてはいけないと思います。

桜の季節、花見を楽しむその心の片隅で、どうか先人の犠牲を思って欲しい。
それが過去から未来へと命をつなぐ、現在に生きる私たちの役割であると思います。
posted by ぴろん at 08:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月16日

靖国神社 みたままつりへ

昨日15日、靖国神社のみたままつりに行ってきました。
人ごみの苦手な私は祭礼のある日に靖国へ行った事はありません。
私にとって靖国は特攻の叔父の魂に逢いに行く所であり、周囲が余り賑やかだと落ち着いて叔父の供養をする事が出来ないので、なるべくそういう行事のある日は外す事にしていると言うのがその理由です。

そういう私が今回みたままつりに行く事にしたのは、母が今年永代献灯をしたからです。
特攻の叔父が国民学校2年生だった母の書いたハガキを胸に抱いて沖縄へ出撃してから61年。
叔父の戦死時7歳の少女だった母も今年68歳になりました。
まだまだ元気ですけれど、いつ何時何が起こってもおかしくない歳になりつつあるので、永代献灯という形で未来永劫叔父さんの供養をしてもらえるならそうしたい、と言い出し手続きをとったのです。
折角献灯をしたのなら、それを見に行こうか、ということで夕方から家族揃って靖国神社へ行って参りました。

夕方4時に家を出るはずが、何だかんだと雑用に追われ出掛ける時間は6時までずれ込み、結局靖国に着いたのは7時を少し回っておりました。
みたままつり期間中の昇殿参拝は午後8時まで、ということだったのでまずは真っ直ぐ参集殿を目指しました。
ところがちょうどこの時間は奉納の神輿、阿波踊り、青森ねぶたが参道に繰り出していて、人出が物凄い!
故郷の賑やかな祭りをみる英霊たちの気持ちはどんなふうなんだろう?うちの叔父さんもこの祭りをどこかで見物しているのかな?などと感傷に浸っているとついつい涙が滲んでしまいます。
でも、ぼんやりと祭りに見とれていると参拝の時間がなくなってしまうので、感傷に浸るのは一瞬の事として横において、とにかくも朝の満員電車のような人ごみを掻き分け掻き分け、ようやく参集殿まで辿り着いたときは7時半になっておりましたが、最終7時50分の最後の昇殿参拝に滑り込みで間に合いました。
昇殿参拝に間に合わなかったら、何をしに靖国へ行ったんだか分かりませんからまずはホッと一安心をしました。

いつもの昇殿参拝ですと、本殿向かって右側の渡り廊下でお祓いを受け昇殿するのですが、この日は個人団体を問わず昇殿参拝の希望者が多いので、手水を済ませるとそのまま本殿前の拝殿内に進み、そこでお祓いを受けます。
丁度その時間、拝殿前では神輿が宮入をしていて外はまさしくお祭り騒ぎ。
お祓いを受ける時の祝詞の声も全く聞こえない有様でして、あぁ、やっぱり人出の多い時に参拝に来ると落ち着かないなぁ、と内心思っておりました。
でも夜日が落ちてから、ライトアップされる中で参拝するのは初めてだったので、そういう意味ではいつもと違う厳かな本殿の景色を見られて、それはそれで良かったかな?とも思いました。

お祓いを受けた後、本殿左側の渡り廊下から本殿へと昇殿致しました。
電球のわずかな明かりだけの本殿内もいつもとは違ってなにやら荘厳な雰囲気でありました。
で、私はここでちょっと不思議な体験をしました。
ニ礼二拍一礼の拝礼を済ませ、しばらく黙祷をしていると頭の中をひとつの言葉が不意によぎったのです。

「護りたい者がいるから、命を懸けられるんだよ」 

100%死ぬと分かっている決死の特攻を、勝てない事は分かりきっている戦いに命を懸けて出撃していく叔父の決意はどこから来たのか?というのは、護られた側の私にとっては自分の存在理由にも関わる大命題です。
その命題に、この言葉がひとつの答えをくれたような気がしました。
そう、護りたい者がいるから人は命を懸けて戦える。
護りたい者がいるから人は限りなく強くなれてもしまうのだ、と。

理屈として、人の心とはそういうものなのだろう、というのは頭のどこかでは分かっています。
でも理屈として理解するのと、心の底から心情として理解するのとは違う。
それがあの一瞬、心のどこかに引っかかっていた物がストンと落ちたような気がしました。
あの言葉はなんだったのでしょうか?
自分の深層心理の声だったのか?それとも叔父の魂が私の心に呼びかけてくれたのか?
それは分かりません。
でもその言葉がよぎった瞬間、涙があふれました。
そしてとても温かな気持ちになれたのも事実なのです。

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(↑小型の献灯の数々)

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(↑小野田寛郎さんの懸ぼんぼり)

参拝を済ませると、まずはとにかく母の献灯を探す事にしました。
母の献灯は小型の小さい方。
これは神門内の境内に所狭しと掲揚されています。
これだけ膨大な数の中からたった一個を探すのは気が遠くなりそうだ、と思いつつもともかく片っ端から献灯の名前を確かめて歩く事にしました。
幸いにも、探し始めて5分ほどで、参集殿のすぐ脇に母の献灯を見つけました。
拝殿からも比較的近く、ここなら本殿の叔父さんからも良く見えるはずと家族で喜び、記念の写真も撮りました。

献灯の申し込みをするとき、実は大小どちらの献灯を申し込むか、母は大いに迷ったのです。
大の永代献灯は20万円、小は5万円。
見栄を張るわけじゃありませんが、我が家の経済状況から20万と言うお金が出せないわけではありません。
でも献灯のために20万を出すのは、我が家的に勇気のいる金額であることも正直な話です。
でも大事な事は叔父さんを供養してあげたいという気持ちなのだから、自分の身の丈で良いんじゃないか?
献灯が大きかろうと小さかろうと、どっちだって叔父さんはきっと喜んでくれるよと話をし、結局は小さい方を申す込む事で納得したのですが。
ただ、母は申し込んだ献灯が余りに貧相だったら叔父さんが可哀想だな、とひどく気にしていたらしいのです。
で、実際に靖国へ行って現物をみて、ずらりと壮観に並んだ献灯の数々を見て、これなら良いと本人も納得をしたらしいです。

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(↑奉納阿波踊りの連の人たち)

参拝と献灯の確認をした後、再び参道に戻って祭りの賑わいを楽しみました。
阿波踊りの連の人たちが最後の踊り納めをしており、一般の人も飛び入りで踊りの輪に加わってそれは賑やかでありました。
この日の東京はひどく蒸し暑く風もなく、参道の両脇は屋台のお好み焼きやたこ焼きの店がずらりと並び、その鉄板の熱が通りにまであふれており、更に人いきれで息が苦しくなるくらいの暑さでした。

浴衣がけの参拝客も多く、日本的な風情が見直されているのは嬉しくも思いますが、ただ着物の着方を間違えて、前の合わせ方を左前にしている人が何人もいたのは、正直いかがな物か?と思いましたね。
私は着物関係の仕事をしているので、仕事柄どうしてもそういう所は気にかかるし、目に付いてしまう方なのです。
左前に着物を着るのは死人の経帷子の着方ですから、あれはとても拙いですね。
私は着付けも出来ますので浴衣の左前を直すくらいは訳は無いんですが、そのためには一度帯を全部解かねばなりませんので、現実問題公衆の面前で直してあげる事は出来ませんしね。
みたままつりで浴衣を左前に着ていた8名の紳士・淑女のみなさん、どうか以後はお気をつけの程を・・・<(_ _)>
着物のあわせ方は右前が基本です。
右前・・・前を合わせたとき、右手がすっと懐に入るように合わせるのが正しい合わせ方ですから、この夏お祭りや花火大会で浴衣を着る方は、くれぐれもお間違いの無いように・・・(笑)

一通り祭りの喧騒を楽しみつつ、苦手な人ごみに揉まれて疲労困憊しながらも、心は晴れやかに帰宅の途につきました。
posted by ぴろん at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

5月4日の蒼い空

Img_2869.jpg

今日は私の特攻の叔父の命日です。
家族の写真と手紙を胸に沖縄に散った叔父の事を思うとですね。
この日はやはり、少し胸が痛む思いがします。

そして世間は楽しいゴールデンウィークを過ごすのんびり気分。
61年前の余りにも激しい現実との落差に、何だか打ちのめされるような気がします。

61年前の今日午前6時3分、叔父の搭乗した一式陸攻は特攻機の桜花をその腹に抱いて、友軍機と共に鹿児島県の鹿屋基地を発進しました。
そして午前9時、叔父の搭乗した桜花は、敵の掃海艇・ゲーエテイをめがけて突撃。
その数秒後、沖縄の海で彼は木っ端みじんに吹き飛んで戦死しました。
享年はわずか21歳。

特攻隊員としては非常に珍しい事に、出撃時間も突撃時間も突撃した敵艦の名前も、そして戦果も分かっております。
本当に本当にこれはレアなケース。
大体の特攻隊員は出撃したらそれっきりで、どこでどう死んだのか、全く分からない人の方が多い。
中には特攻隊員として出撃した事さえ知らない家族もあるという中で、突撃した敵艦の名前まで分かっているうちの叔父のようなケースは多分数えるほどだと思います。

彼が今生きていれば、81歳のおじいさんです。
うちはどちらかと言えば長生きの家系なので、十分元気に、かくしゃくと人生を謳歌していたかもしれない。

二度と生還できない故郷日本は叔父の目にはどんなふうに映ったのか?
鹿屋を飛び立ち、やがて見えてくる開聞岳にどのように今生の別れを告げたのか?
後ろに遠ざかる九州の地をどんな思いで見送ったのでしょうか?
南西諸島の島々を次々と眼下に見送りながら、敵艦の迎え撃つ沖縄へと、どんな気持ちで彼は向かったのか?
そして頭の上に広がる5月の蒼い空をどんな思いで見つめたのか?
考えれば考えるほど、自分の身を引き裂かれそうなくらいたまらない気持ちになる自分がいます。

私は自分の特攻の叔父を語る時、散華と言う言葉を使いたくありません。
一連の特攻の叔父のエントリーをお読みいただいた方の中には、もしかしたらすでにお気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、私は叔父の話を語る時に一度もこの散華と言う言葉を使った事がありません。
散華と言う言葉は余りにも美しく文学的に過ぎて、叔父の壮絶な死を語るのには温度差が有り過ぎる言葉と感じてしまうのです。
無論、他の方が散華と言う言葉を使う事に、私は何の違和感も拒否感も無い。
でも自分の叔父の話を語る時に、この余りにも美しい言葉はどうしても使えないのです。
叔父の苦悩をオブラートに包んでしまって、叔父の死をリアリティーの無い物にしてしまうような気がするのです。

叔父は5人兄弟の末っ子で、出撃時には私の母を筆頭に4人の幼い甥っ子姪っ子がいました。
おそらく特攻に臨むに当たっては、俺が命をかけてこの幼い子供たちを守る、と言う決意はどこかに必ずあったと思っています。
叔父は特攻に志願した直後に、私の母の元へ一枚のハガキを寄こしています。
元気で学校に行っているか?弟の面倒は見ているか?といったごくありきたりの近況をたずねる文面の最後に「オテガミチョウダイネ」の文字がある。

元特攻隊員の手記をあれこれと読んでいた時、私の胸に刺さって消えないエピソードが一つあります。
それは特攻に志願した直後、そのあまりの現実の重さに平静を保つ事が出来ないほどの強く激しい恐怖心が襲ってきた、と書き記したある手記を読んだときの事です。
その特攻隊員は、しかしある日道端で無邪気に遊ぶ幼子を見たとき、「そうだ、俺はこの幼い子供たちの命を守るために自分の命をかけるのだ」と決意し、それ以降徐々に冷静さを取り戻していったと言う。

そのエピソードを読んだとき、なぜかその人の決意が、私の叔父の決意と重なって見えました。
叔父にも当時すでに、私の母を含めて4人の甥姪がいた。
当然、彼も死への決意の過程で、この幼い甥っ子姪っ子を守ろうという決心をしたはずで、その事によって叔父もあるいは心の平静さを保っていたのかもしれない、と思うわけなのです。

それを思うと、「オテガミチョウダイネ」の文字はとてつもなく重いのです。
叔父の望みに応えて返事を書き送ったと言う母のハガキ。
死の間際まで、折々に揺れる心を、おそらく叔父は母のそのハガキを読む事で平静さを維持しようと努めていたのかもしれません。
それがとてつもなく、切ない。
叔父の死によって守られた側の私としては、その事実はたまらなく重い。

ともかく叔父は61年前の今日、幼い姪っ子のハガキを胸に、特攻機「桜花」と共に命を散らしました。
皮膚は裂かれ、肉は引きちぎられ、骨は砕かれて、顔も内臓も何もかも人の形を一切残さず、桜花と共に木っ端みじんになって沖縄の海に沈みました。
その悲壮なまでの最期を、どうして肉親の私が散華などと言う美しい言葉で語れようか?
叔父の痛みを我が身に引き受ける時、どうしても私は散華と言う言葉だけは使えない、いや使いたくは無いのです。

叔父が突撃した敵艦の名前が分かっているという事は、アメリカ側の資料を探せば突撃の瞬間その船が沖縄のどこにいたのか?を知る事がおそらく出来るはずだと思います。
そうすれば、例えば戦艦大和のように東経何時何分何秒、北緯何度何分と言う所まで確定が出来るのかもしれません。
もし、それが可能ならその場所へ会いに行きたいと言う気持ちが私にはあります。
なにしろ向こうは木っ端みじんに吹き飛んでしまい、いまだに骨のひとかけらも故郷へ帰って来られないのですから。
はるばる千葉から沖縄の海まで訪ねていけば、叔父は海の底で肉親の訪問を喜んでくれるでしょうか?

今年の5月4日も抜けるような蒼空が頭の上に広がりました。
正義叔父さん、見えますか?
あなたが敵艦目掛けて出撃した午前9時の故郷・千葉の今年の蒼空を、あなたの魂に捧げます。
posted by ぴろん at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月31日

靖国の神雷桜

特攻専門部隊・神雷部隊の隊員が再会を誓った神雷桜に逢うために、満開の桜咲く靖国神社へ行って来ました。
千代田区では丁度さくら祭りが開催中で、平日にもかかわらず大勢の人で賑わっていました。

春の梢に花と咲いて再会しようと誓って出撃した特攻隊員の魂の桜は、それはそれは見事な咲きっぷりでした。
さて、どの枝に咲いた花が叔父の魂の花なのでしょう?
感慨ひとしおで満開の花を眺めてきました。
今日は余計な事は申しません。
英霊たちの命の桜をどうぞ御覧下さい。

Img_2404.jpg

Img_2418.jpg

Img_2423.jpg

↓おまけ
こちらは千鳥ヶ淵の桜です。
丁度満開の見ごろで、花見の人で賑わっていました。

Img_2426.jpg
posted by ぴろん at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

春の梢に花と咲く・・・靖国神社の桜、本日開花の報

本日、東京のソメイヨシノの開花宣言が出ました。
東京の桜の開花標準木と言えば誰でも知ってる靖国神社の桜です。

あそこの境内に咲く桜の木は、その殆どがなくなった英霊の御霊を慰める為に、生き残った戦友たちの手によって奉納された物。
私の特攻の叔父さんが所属した特攻専門部隊・神雷部隊の元隊員の手によって植樹された「神雷桜」も靖国の庭にあります。

その神雷桜が東京のソメイヨシノ開花を観測する標準木の一つである事は以前、当Blogでもご紹介しました。
その桜が今年も無事に咲いたと言う報を受けて、今は亡き多くの英霊が桜の梢に花と咲いて、戦友たちとの再会を喜び合う姿を静かに思い浮かべております。
私の叔父の魂は今年はどの枝の梢に、桜の花の一輪と咲いてくれたのでしょうか?

神雷部隊は特攻専門部隊。
出撃に当たって彼らは靖国の神門右2番目の桜の木の下で会おうと約束をして飛び立っていったという。
骨のひとかけらも故郷の家族の元には帰れない非業の死。
せめて魂は靖国の社に集い、桜の木の下に集って再会しようではないか、と。
有名な軍歌「同期の桜」にも、『花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう』、と言う一説が有ります。
その歌の通り、今年も靖国の桜は梢に花を咲かせました。

開花宣言を受けて、今年の春のお花見はどこにしようか?お弁当は何にしようか?お天気の具合はどうだろう?満開の日はいつごろになるんだろう?と早くも心を弾ませる人も多数いらっしゃる事でしょう。
ぜひぜひ、美しい桜の花を心から堪能して頂きたいと思います。

そしてその折は心の片隅にホンの一瞬でいいのです。
靖国神社の桜の梢に花咲く事を心の拠り所にし、命を散らした多くの英霊の事を桜の花とともに思い浮かべて欲しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考過去エントリー

★靖国神社の桜 こぼれ話
http://piron326.seesaa.net/article/13355994.html
posted by ぴろん at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月16日

靖国神社の桜 こぼれ話

久々に、特攻の叔父さんの話を綴ります。
うちのBlogは拉致問題と特攻の話しか、最近取り上げてません。(笑)
拉致問題もそうですが、特攻のネタも話が話だけに、うちのBlogは相対的にかなりヘビーな内容になりがちなんですが、皆様、読んでいてお辛くはありませんかねぇ?
それでも飽きずにご訪問くださる皆様のご見識と熱意には、いつも感謝の思いで一杯です。
ありがとうございます。

特攻ネタは、最近でも毎日10名前後のアクセスが有ります。
それもどこかでリンクを貼って紹介されたと言うのではなく、「桜花」「特攻」「神風」などという言葉を検索にかけて、ご自分で訪ねてくるケースがほとんどです。
特攻について、歴史的事実を紹介したり兵器としての性能などを解説したりするサイトはあるのですが、直接の遺族がその真情を綴ったサイトはありません。
その意味でも当Blogの存在は、ちょっと珍しい物なのかもしれませんが。
小学生の作文程度のエントリーでお恥ずかしい限りですが、特攻と言うものが私の書く文章で少しでも伝わり、戦争について、あるいは靖国神社について考えるきっかけになって頂けたらありがたいかな、と思っております。

前置きが長くなりました。
今日の本題に入ります。
靖国神社の境内にある桜が、東京のソメイヨシノの開花予想の標準木だと言うのは良く知られた話です。
その内の一本、我が特攻の大叔父の魂の宿りし「神雷桜」がその標準木のひとつであると言うことを、皆様ご存知でいらっしゃいましたでしょうか?

靖国神社に詣でた事のある方ならご存知でしょうが、あそこの境内に植えられた桜の木は、そのほとんどが戦後を生き延びたそれぞれの戦友会の手によって奉納された記念樹です。
私の叔父が所属した神雷部隊は特攻の専門部隊として組織された部隊でした。
ここに所属した隊員たちは、靖国神社の神門を入った右2番目の桜の木の下で会おうと約束をしてそれぞれ出撃をしていったのです。
そして戦後生き残った神雷部隊の戦友たちは、亡き友との約束を果たす為、力を合わせて靖国神社に一本の桜の木を奉納したのですね。
その通称「神雷桜」と呼ばれるその桜の木が、叔父の魂の集う桜の木が、東京のソメイヨシノの開花予想を観測する為の標準木のひとつである事を、亡き叔父の足跡を調べている過程で偶然私は知り得たのです。

有名な軍歌、「同期の桜」の歌詞にはこういう一説があります。

   離れ離れに散ろうとも
   花の都の靖国神社
   春の梢(こずえ)に咲いて会おう

「同期の桜」は神雷部隊の隊員の愛唱歌でもあった歌。
桜花隊の宿舎となった鹿屋基地近くの野里小学校の校舎の中で、元気に賑やかに隊員たちはこの歌を歌っていたそうです。
私の叔父もきっとこの同期の桜を大きな声で戦友たちと歌ったはず・・・

特攻に何の縁もゆかりもない人には単なる歌の歌詞でしかないのでしょう。
しかしこの歌の通りに命を散らし、靖国神社の境内の桜の木の下での再会を約束して出撃して行った多くの特攻隊員たちの事を思うと、この「同期の桜」と言う歌詞、なにやら因縁めいていて涙無しにはとても聴けない。
叔父はいったいどんな思いでこの歌を戦友たちと共に歌ったのでしょうか?

同じ部隊の隊員とは言え、出撃はバラバラ、死ぬときもバラバラです。
靖国神社の神門を入った右2番目の桜の木の下と、再会の場所を細かく定めて出撃に臨んだ隊員たち。
彼らはどんな思いで、この場所を約束したのか?
先に逝く者、後から逝く者。
靖国での再会を約束する事で、俺は決して一人ではないと自分に言い聞かせ、死の恐怖と戦う縁としたのでしょうか?
再会の約束までをも心のよりどころのひとつとして、出撃して行った彼らの心中を思うと胸が痛みます。

昭和20年8月15日の終戦を迎え、神雷部隊桜花隊員の生き残りの人たちは復員を前にひとつの約束を交わしました。
3年後の3月21日午前10時、靖国神社で再会しよう、と。
そしてそれぞれが自分の故郷へと復員を開始したのだそうです。

3月21日と言うのは、人間爆弾桜花による最初の特攻作戦が行われた日です。
この作戦は敵の攻撃により出撃者全員全滅と言う、悲惨な結果に終わりました。
この日を彼らは記念の日と定め、再会の約束の日としたのです。
そして3年後の3月21日。
果たして多くの元桜花隊員は靖国神社に参集し、みな打ち揃って参拝をしました。
その後、無事の再会を夜通し語り合い、更に3年後の3月21日の再会を約束して別れました。

その3年後の3月21日も多くの元桜花隊員が集まり、靖国を参拝。
その後は毎年この3月21日を再会と参拝の日と定めて、靖国参拝を続けました。
その後神雷部隊の他の隊員とも合同で参拝をするようになり、戦友会も結成。
そして彼らは力を合わせて亡き戦友との約束を果たす為、一本の桜の木を再会の約束の場所、神門右の2番目の場所に奉納、植樹をしたのだそうです。

高齢化と共に平成8年を最後にこの参拝は終止符を打ち、戦友会も解散したそうですが、命の極限状況を共有した人たちのつながりの深さと言うのは、平和ボケした戦後生まれの私などには到底想像力の及ぶ所ではないのだろうな、とも思います。
もっと早くに特攻の叔父についての関心を深めていれば、知り得る事はもっともっとたくさんあったのだろうな、と思うと今更ながら気付くのが遅すぎた我が身の不明を恥じるばかりなのですが・・・

生き残った神雷部隊の元隊員たちがどんな思いでこの桜の木を靖国神社に奉納したのか?
どうか想像力を働かせて欲しいと思う。
特攻で死んでいった若者たち、奇しくも生き残ってしまった元特攻隊員たちの心の絆の強さを感じて欲しいと切に願う。
靖国の境内にある桜の木にはそういった関係者の深い思いが、それぞれの木にまとわり付いているのだという事実を知っておいて欲しいと思う。

戦争について特攻について、そして靖国について人それぞれ思う事はあるでしょう。
けれども20歳そこそこの多くの若者が特攻と言う決死の出撃に身を投じたのは、紛れもない事実。
そこに至るまでは、生への執着を振り切る為の彼らなりの身を切られるような苦悩があったはず。
その事に思いを致し事実は事実として受け止めて、彼らの魂を供養してやらねば死んだ者は浮かばれないと思うのです。
靖国にはそういう魂がたくさん集っています。
靖国に参るのなら、彼らに対して最低限の礼節を尽くして欲しいと私は思う。

春になり、東京の桜の開花予想が始まったら、あるいは開花宣言が出たらですね。
その桜の木には沖縄の海に特攻して命を散らしたたくさんの神雷部隊の若者達の魂が集っている事を、心の隅にでも思い浮かべていただけたらありがたいと思っております。
東京の桜が咲いた時、多くの神雷部隊の隊員たちが、この神雷桜の枝に花と咲いて再会を喜び合っている事をご想像いただけたらと願っております。

今年の春、東京の桜の開花宣言が出たら、靖国神社を訪ねてみようかと思っています。
春の梢に花と咲いた叔父の魂に会うために・・・
posted by ぴろん at 11:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

「立派な最期でした」親友の戦死を母に伝える・・・映画「男たちの大和 YAMATO」を観て2

すみません。
藤沢集会のテキストの残り、さっさと仕上げねばならないのですが、もう少し大和関連の話にお付き合いいただけますでしょうか?
この作品、本当にいろいろな意味で考える所の多かった映画なので、その感動が薄れないうちにきちんと形に残しておきたいのです。
よろしくお願いを致します。

大和の水上特攻の果て、急死に一生を得て生き延びた特別年少兵の神尾克己が、親友西哲也の戦死を伝える為に西の母親の元を訪ねるというシーンが出てきます。
これは、私にとっては他人事ではない、本当に身につまされる場面でありました。
一連の特攻の叔父のエントリーをお読みいただいた方はもうご存知と思いますが。
うちの場合も戦友のAさんが、わざわざラジオの尋ね人に申し込んでまで家族を探し当て、はるばる熊本から千葉の家までやって来て、叔父の最期の様子を伝えてくれた、と言う体験を持っているからです。

そのとき、実際に私の祖父とAさんがどんな会話を交わしたのかまでは、私も聞いてはおりません。
ですが映画の中の神尾特年兵のように、叔父の両親に「立派なご最期でした」と伝えた事は間違いなく、あるいは両親に土下座して「自分だけ生き延びてしまって申し訳ない」「ごめんなさい、ごめんなさい」と絶叫したのかもしれない。

Aさんが桜花特攻で務めたポジションは、母機の一式陸攻の副操縦員です。
この副操縦員に課せられた任務は、敵艦の上空で桜花を切り離す為のボタンを操作すること。
そしてもう一つは、万が一桜花隊員が負傷などでその任を果たせなくなった時は、代わりに桜花へ乗り込んで特攻する事なのだそうです。
叔父とAさんの命運はまさに紙一重の運命共同体であった、とも言えるのです。

桜花隊員と母機の一式陸攻に乗り込む攻撃隊とでは同じ特攻隊員と言っても少し立場が違います。
前のエントリーでも少し触れましたが、決死と必死の違いがあるのです。
桜花は文字通り切り離しを受けたら最後、あとは敵艦に突っ込むしかない人間爆弾です。
ですから桜花隊員には出撃に当たっては常に決死の覚悟が求められます。
けれど、攻撃隊は少し違う。
母機の一式陸攻は桜花を切り離したら緊急退避し、鹿屋基地まで帰還する事が求められていたからです。
従って、彼らに求められたのは必死の覚悟。
桜花隊と攻撃隊ではそもそも求められる覚悟の具合が違うのですね。
しかし・・・

前述の通り、桜花を牽引した一式陸攻は非常に動きが悪く、喘ぐようにして何とか戦場までたどり着くと言う有様だったのだそうです。
これでは無事に戦場までたどり着けるかどうかわからない。
たどり着けたとしても、今度は無事に帰還出来るかどうかがわからない。
結局の所、一式陸攻の搭乗員たちも、出撃に当たっては決死を覚悟して戦場に臨まざるを得ないという事であったかと思います。
その意味では桜花隊も攻撃隊も、死に赴く覚悟は同じ。
でも攻撃隊には万が一の生存の可能性がある。
実際Aさんの搭乗した一式陸攻は無事帰還に成功した、数少ない母機の一つなのでもありますしね。

けれどAさんの任務は副操縦員。
もしも私の叔父が負傷などで桜花隊の任を果たせなくなった場合は、代わりにAさんが桜花特攻を行っていたかもしれないのです。
同じ攻撃隊でも副操縦員の任にある分だけ、彼も死への覚悟は必死よりは決死に近い物があったはず。

その分だけAさんは、決死の覚悟で桜花特攻を果たした叔父の事を、一心同体に感じていたのかもしれません。
生き延びてしまった自分が、戦友の最期を家族に伝えずしておめおめと生き恥をさらすわけには行かない。
一体全体、どんな覚悟を決めて、Aさんは千葉の家まで訪ねてきてくれたのでしょうか?
映画の中の西の母のように「お前だけむざむざ生き残って」と激しい怒りをぶつけられるかもしれない。
それでも戦友の最期を伝えない事には、彼の戦争体験は自分の中で区切りが付かなかったんでしょう。

映画の中で西の母親は、一度は神尾特少兵を責めますが言い過ぎてすまなかったと詫びます。
おそらく大和の戦死者も、うちの叔父と同様に戦死の公報が届き、遺骨と称して「英霊」と書かれた紙切れ一枚入った空っぽの白木の箱が渡されているはずです。
それで可愛い息子の死を信じろと言う方が無理というもの。
西の母が「うちの哲也はじき帰って来ますので」と言い張って、息子の死を頑なに信じないのも分かる気がします。
あるいはどこかの離れ小島などにたどり着き、生きているのではあるまいか?と。
淡い期待をつなぐのが肉親の偲びがたい情であると思いますので。
けれど、それではいつまで経っても蛇の生殺し、心の区切りが付かないまま、いつまでも苦しみ続けなければなりません。

しかし実際に同じ大和で出撃をし、息子の最期を見届けた人の言葉であれば、それを信じないわけには行かない。
息子の死を伝えに来る戦友の存在は憎らしくもあり、同時にありがたくもあるのだと思う。
それがあって、初めて母親は息子の死を乗り越えて、生きるための覚悟が決められるのですから。
息子は母を護ろうとして大和と共に命をかけた。
その思いを、生き残った者が無駄にして良い訳はないのですから。

仲代達也演じる現代の神尾克己は、長い間大和の沈没地点を訪ねる事は出来なかったという。
自分だけ生き残ってしまったという心の葛藤に苦しんで、戦後60年の年月を彼は寡黙に過ごしてきました。
そして60年ぶりに大和沈没地点を訪ねた彼は、これでようやく俺の昭和が終わったと呟きます。

我が家の場合も戦友のAさんは、叔父の命日のたびに長い手紙とお供物を千葉の実家に送り続けました。
そうしなければ、彼も戦後の年月を生き延びる事は出来なかったのでしょう。
彼の受けた心の傷の深さを、私は知る由もありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★参考過去エントリー
「尋ね人で始まった出会い・・・ある特攻隊員のお話 その6・・・」
http://piron326.seesaa.net/article/5564976.html
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「死ニ方用意」は胸の詰まる台詞でした・・・映画「男たちの大和 YAMATO」を観て

久しぶりに特攻の叔父がらみのネタを書こうと思います。
昨日私は、やっとこさ時間をこしらえて「男たちの大和 YAMATO]を観て参りました。
ちょっと映画の内容にも踏み込んで話を起こしますので、ネタバレは勘弁して欲しいと思う方はどうぞ遠慮なくこのエントリーを飛ばしてください。(笑)

以前にも書きましたが、私はいわゆる戦争物の映画やドラマなどに感情移入がしにくい性質なのです。
身近に生身の特攻隊員の話を聞いて育ったせいか、どんなに良くできた作品でも所詮作り物、と言う冷めた感情がどこかに自然と湧いてしまう方なので・・・
結論から言うと、この作品も所詮は作り物、と言う冷めた感情からは逃れられませんでした。
でも今までのいわゆる戦争物映画と比べたらですね。
生死の境に追い込まれた兵士の苦悩や恐怖と言った、戦争の現場のリアリティはよく表現されていたように思います。
その意味では前評判を裏切らない秀作であったと言えるのではないでしょうか?

私の特攻の大叔父も沖縄戦で出撃、戦死しております。
船と飛行機の違いはあれど、二度と生きては帰れない死出の旅に赴く兵たちの気持ちには通じる物があると思う。
その意味で少しでも叔父の心を理解する一助となれば、との思いでこの作品を観てみたいという思いに駆られたのです。

大和は昭和20年4月5日、菊水1号作戦の一環として水上特攻の出撃命令を受けます。
この菊水作戦と言うのは1号から10号まであり、沖縄に上陸したアメリカ軍への反撃策として決行されました。
(菊水作戦についてはこちら→http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/shiryoukann-(8).htm
私の叔父は同年5月4日、菊水5号作戦の一環として鹿児島県・鹿屋基地より出撃、戦死しております。
ですから戦艦大和の沈没も、私の叔父の特攻も、同じ作戦の一環であるという意味においてそもそもが他人事の話ではないのですね。

大和が沖縄への水上特攻の出撃命令を受けた時、渡哲也演じる“伊藤整一 第二艦隊司令長官”は「護衛の戦闘機は何機あるのか?」と上官に尋ねるシーン。
しかし護衛の戦闘機は一機も無いと言う・・・
まずはこのシーンが胸に詰まりました。
大和の撃沈は4月の7日。
叔父も海軍の端くれですから、戦艦大和が水上特攻の果てに撃沈した事をおそらく知っていた事でしょう。
それも一機の護衛の戦闘機もなく、敵の雨あられの砲弾を受けて沈没したと言う戦艦大和の話を聞いて、彼は一体何をどう思ったか?

叔父の所属した神雷部隊桜花隊も、出撃に当たっては作戦上必要な数の護衛戦闘機が確保されない中での作戦決行でした。
桜花を牽引して戦場へと飛ぶ母機の一式陸攻は、その機体の重さゆえに喘ぐ様にしてやっとこさ飛んでいたと言うのです。
小回りの効かない母機に加え、護衛の戦闘機の絶対的不足。
桜花作戦は、護衛機によって敵の気勢を削ぎ、制空権を確保してこそ生かされる作戦なのです。
それなのに制空権の確保もままならぬ状況で、しかも機動力の悪い母機に牽引されて戦場へと向かい、特攻すると言うのです。
そんな状況で、敵の雨あられの砲撃を一体どうやってかわすというのか?
無事に目的を達成する事などできるのか?

実際桜花による特攻はそのほとんどが無残に迎撃を受け撃沈されています。
無事に母機から切り離されて敵艦の撃沈に成功した桜花は、本当に数えるくらいしかありません。
これが後に無駄死、犬死と揶揄される所以だとは思います。
しかし、そんな事は今の時代改めて言われずとも、当の本人たちがこの作戦いかに無謀か、よくよく承知していたのではないでしょうか?
それなのに、彼らは不平不満も何もいわず、黙々と出撃し特攻し若い命を散らしていきました。
なぜ?どうしてそんな事が出来てしまうのか?
それは叔父の特攻によって護られた側の私にとって、常に考えねばならない大命題でもあるのです。

映画の中でも若い水兵たちが、この水上特攻作戦は無謀ではないかと激論を交わすシーンが出てきます。
その思いは、言葉に出すか出さないかの違いはあっても、戦局の悪化を肌身で知る兵たちにとって、共通の思いではなかったか?とも私には思えてならないのです。
いくら戦時中とは言え、命を捨てるのが当たり前の時代とは言え、いざその時が来た時、恐怖や不安に襲わる事もなく、悟りの境地に辿り着いていた人などどれ位いたのだろう?
上官も下士官も下っ端の水兵たちも、その思いはあるいは皆どこかで相通じる苦悩ではなかったのか?

しかし長島一茂扮する“臼淵磐大尉”は語ります。
 
進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚める事が最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、
真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は救われるか
今目覚めずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る、
まさに本望じゃないか。

この台詞はそのままグッサリと私の胸に突き刺さってしまいました。
そうなんですよね。
特攻に限らず戦死した多くの者は、皆家族のため・後に残る者の為、そして後の時代に生まれる者の為に命を投げ出して逝ったのですから。
特に特攻隊員は、“必死”ではなく“決死”の覚悟で戦いに臨んで逝ったのです。
生き残った元特攻隊員の手記などを読むと、決死と必死では天と地ほどの覚悟の違いがあるといいます。
“必死”には万が一にも生き伸びる可能性があるが、“決死”はその可能性は全くゼロである。
それが特攻に臨む者の覚悟なのだと。
そして彼ら特攻隊員の多くは異口同音に、家族の幸せを祈り後を頼むと言い残して死んでいきました。
その死者の思いに今の日本は果たして応えられているのかどうか・・・?

最後の出撃に臨むに当たり、臼淵大尉は若い水兵たちに向かって、「故郷に向かって別れを告げろ、それも死ニ方用意の手始めだ」と言い聞かせます。
それを受け、若い兵たちは「お母さ〜ん」「母ちゃ〜ん」と母親に向かって叫び、またある兵は「○○〜」と妻や恋人の名前を叫びます。
このシーンには正直参りました。
「母ちゃ〜ん」と絶叫する水兵たちの姿が、そのまま特攻の叔父とダブってしまったからです。
私の特攻の叔父の「死ニ方用意」の中にも、間違いなく家族への決別の瞬間があったはずですから。
出撃の朝、家族の写真を胸に抱き幼い姪っ子の葉書を胸に抱き、身支度を整えた叔父は、静かに淡々と「死ニ方用意」の手順を踏んで鹿屋の基地を飛び立っていったはずですからね。

基地に残る神雷部隊の隊員の帽振れの見送りを受け、沖縄へ向けて飛び立つ叔父。
二度と生きて戻れぬ故郷日本、二度と会えない家族への思い。
どんな気持ちで叔父は勝算の薄い作戦に突入していったのか?

最近ある資料を調べていて、特攻の大叔父の出撃時間と戦況について、私は知る事が出来ました。
叔父は昭和20年5月4日午前6:03分鹿屋基地を出撃、同9:00に桜花の切り離しを受け敵艦へ突撃したそうです。
突撃した敵艦は掃海艇「ゲーエティ」
しかし大叔父の桜花は敵艦に命中せず、真近の海面に突入。
爆発の衝撃により乗組員3名負傷と言う記録がアメリカ側に残っている事が判明しました。

その事実を知って、少しばかり私の心中も複雑です。
無事桜花の切り離しに成功したのは奇跡に近く、本人にとってもまずは第一段階無事にクリアし、ひとしおの感慨はあったと思うのですが、しかし敵艦の撃沈までは至らなかった・・・
叔父の壮絶な決意は、結果として晴れやかに実を結んだとは言えないのです。
やはり叔父もその瞬間、無念の涙を流したのでしょうか?

映画の中で大和めがけて攻撃を仕掛けてくる敵の戦闘機が、なぜか叔父の搭乗した桜花と重なりました。
敵方の攻撃の様子に感情移入する観客なんて、多分私だけ。
きっと非常に珍しい存在だとは思いますが。(笑)
でも攻撃を受ける乗組員の視線で戦闘の激烈さをあそこまで描いた戦争映画を観たのは初めてでしたし、おそらく敵の攻撃を受ける側の艦上の様子と言うのは、あれくらい悲惨なものであったろうと推測はします。
映画の中では、アメリカ側の戦闘機は決して特攻などしませんが、接近戦で大和をかすめた戦闘機がそのまま艦上に突っ込めば確かに特攻シーンの再現ですから。
敵方の戦闘員もさぞかし、恐怖感に襲われたんでしょうね。
実際、戦闘機のパイロットの肉体が特攻によって吹き飛ぶ所を目の当たりにして、ノイローゼになったアメリカ兵もいたんだそうです。
彼らが日本の攻撃を心底恐れたのは、ある意味真実であるのかもしれない。

桜花隊員は全部でおよそ200名、そのうち桜花による特攻はわずか55機、55名の戦死者です。
その内の一名が私の大叔父その人なのですね。
人間爆弾・桜花の戦死者である大叔父ゆかりの者として、私は私なりに精一杯叔父の事を綴らねばならないなぁと、改めて心に誓っている所でもあります。

海軍の白い制服、きびきびした敬礼。
映画の中に出てくるシーンは、どれもこれも叔父の姿と重なり合います。
叔父も出撃に当たってはきっとあのようにきりっと敬礼を決めて、母機の一式陸攻に乗り込んだことでしょう。
いろんな意味で「男たちの大和 YAMATO」はいろいろと考える事の多い映画であったかと思っています。
よくぞこの映画を製作してくれたものと、製作者・出演者の皆様に感謝の気持ちを抱いて所です。
posted by ぴろん at 03:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月17日

大きすぎる愛

秋の例大祭に合わせて小泉首相が本日靖国神社に参拝いたしました。
この件に関してはネット上でもたくさんのBlogが取り上げていますので、あえてうちでは取り扱いません。(笑)
その代わり、身内に特攻隊員の英霊を持つ者として、靖国に寄せる思いなどをつらつら書いてみようかと思っております。

靖国神社へ参る時、私はどうも冷静でいられなくなるのは、過去のエントリーでも何度かご紹介してきたとおりです。
拝殿前で静かに頭を垂れ祈りを捧げていると、とめどなく涙があふれて来ます。
体中を包むなんともいえない空気。
あそこへ行くと私は確かに何かを感じるのです。
少々こっぱずかしい言い方ですが、亡くなった叔父の大きすぎる愛を感じるのです。

映画にドラマ・小説と、世の中には愛を語った作品はいくらでもあります。
「命をかけても君を護る!」なんて普段の生活では決して口にはしないだろうというような、クサイ台詞が飛び出すのも恋愛物のドラマや小説の真骨頂。
しかし現実の暮らしの中で、本当に命懸けで身を護られた経験を持つ人はそうはいないでしょう。
でも世の中には本当に命をかけて愛する家族を護った人、護られた人がいるのです。
それが特攻隊員とその遺族であると、まずはそのようにご理解を頂ければよろしいかと思います。

特攻の話は物心付くか付かないかの子供の頃から祖父に聞かされて育ちました。
敵艦を撃沈する為に生きてる人間が爆弾と一緒に突っ込むんだよ、と聞かされても余りにも話が実生活とは離れすぎていて、子供心に実感が湧かないのです。
爆弾で体が吹き飛んだらさぞかし痛いだろうな、と思うことはそれくらい。
それで精一杯だったのが、私の子供時代です。

大きくなって私にもそれなりの人生経験が出来て、特攻の叔父についてあれこれ調べてみると、それ以降から思うことには、やはりそれなりの切実感と言うかリアリティが持てるようになります。
爆弾と共に敵艦に突っ込んでいくなど、どう考えても正気の沙汰ではありません。
どんな悲壮な決意をすれば、命を捨てて特攻などできるのか?
特攻に至る叔父の気持ちは、いくら考えてもあの当時の世情だけではどうにも理解が及ばないのです。

戦争中は厳しい情報統制があり、欺瞞だらけの大本営発表があり、多くの国民は戦争の正しい情勢を知らなかったと言います。
でもカンの良い人ならば、日本の情勢がかなり厳しい事くらいは薄々気が付いていたのではないでしょうか?
ましてや叔父は軍人として戦争の最前線にいた人です。
いくら下っ端の一兵卒とは言え、戦況が日本にとって優勢か否かくらいは見当がついていたはず。

ましてや特攻作戦です。
命をかけてまで敵艦に突っ込むなどと言う、およそ非常識な作戦を実行せざるを得ない状況に追い込まれたとなれば、それはそのまま日本の勝利が危うい状況と言うこと。
どれだけ日本が追い詰められていたか、叔父がまったく気が付かなかったとは思えないのです。
アメリカと日本の兵力の差を埋め、少しでも日本の戦況を有利にする為ならば、命をかけて特攻するより他に無い。
そういう覚悟で特攻へ志願をしたのだとすれば、叔父の決意の大きさ重さを、改めて思わずにはいられなくなります。

けれどいくら覚悟の上で志願したとは言えいくら戦争中とは言え、叔父はギリギリまで生身の人間だったはず。
最後の最後までどこかに生への執着はあったはずだろうと思います。
その最後の執着を振り切るものは何なのか?
天皇陛下への忠誠?日本国への愛国心?
それもいくらかはあったろうと思います。
でも最終的に叔父が生への未練を断ち切って、海の藻屑と消える覚悟を決めさせたのは家族への愛以外に他ならぬと思うのです。

親を兄弟を、妻を子供を、俺たちが命をかけて護ってやる。
その思いがなくて、どうして彼らは敵艦へ突撃していけたというのでしょうか?
叔父の場合を考えれば、うちは千葉の出身ですから。
もしも戦争が長引いて、本土決戦・首都東京が攻撃されるとなれば、敵アメリカの上陸地点の一つは間違いなく千葉県房総半島です。
沖縄の地上戦が故郷千葉でも繰り広げられてしまう・・・

それは叔父の決意を一層固め、背中を押す原動力になったことでしょう。
俺の故郷を、血の海にしてたまるもんか。
俺が命をかけて敵艦を一隻撃沈すれば、その分故郷の家族の身が護られる。
そう思えばこそ、叔父は全てを振り切って決死の覚悟で敵艦へ突っ込んでいけたのだろうと思うのです。

先日靖国に参った時、少し悲しい出来事がありました。
私の叔父は海軍の神雷部隊の一員です。
彼らは出撃に当たって、靖国神社神門を入った右側2番目の桜の木の下で会おうと約束をして旅立っていきました。
その意を汲んで生き残った部隊の戦友たちの手により、靖国には本当に神門右2本目に桜の木が植えてあるのです。
けれども先日靖国に参った時は、その桜の木に無粋にも一枚の立て看板が結び付けてあったのですね。
それは、許可なく取材してはならないとかビラをまいてはいけないとかいった類の、靖国神社からの注意書きの看板だったのですが・・・

それを見て私の心は波立ちました。
事情を知らない人にとってはたかが1本の桜の木、何の変哲もない桜の木です。
けれど神雷部隊にゆかりのある者の目から見れば、あの桜は単なる桜の木ではないのです。
枝一本葉一枚にも叔父の魂が宿る場所。
叔父の気配を感じる場所、叔父との縁を確かめる場所なのです。
この木のどこかに叔父の魂がいて、今も戦友たちと静かに語り合っている。
それなのにどうしてこんな無粋な事をするのか?
自分の家に他人が土足で踏み込んで来たような気分の悪さ、不快感を私は否めませんでした。

今は亡き御霊との対話を求めて靖国を訪ねる遺族にとっては、立て看板一枚にも心は波立つのです。
靖国はそういう場所なのです。
靖国に寄せる思いに色々あるのは承知してはおりますが。
どうか死者の御霊を安らかに眠らせて欲しい。
騒ぎだてるのはやめて欲しい。
今日一日の喧騒を、叔父の御霊はどう思って見ていたのか?
母も私もたまらない気持ちでニュースを見ておりましたが。

本殿前で拝殿前で、叔父の御霊に頭を垂れる時、私はいつも温かく大きく重過ぎるほどの叔父からの愛を感じます。
命懸けで家族を故郷を護ろうとした叔父の愛。
時に余りにも大きすぎるその愛に潰されそうになりながらも、私は叔父の心に恥じる事無く、ひとりの日本人として、己の生を全うしたいと改めて心に思うのです。
posted by ぴろん at 17:35| Comment(0) | TrackBack(6) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

靖国神社へ行ってきました 2

もう、昨日の話になりますが、救う会の集会へ参加する前に私は靖国神社へ立ち寄ってきました。
今回は母を同行して。
母は靖国参拝は何度もしているのですが、遊就館には一度も入った事が無いと言うのです。
ですからあの中に特攻の叔父さんが搭乗した戦闘機、「桜花」が展示されている事も、桜花出撃の様子をジオラマで再現した横に神雷部隊の戦没者名簿が展示されてことも知らないと言うのです。
それらを改めて母に見せたくて、気候が涼しくなるのを待って昨日、思い切って出かけて参りました。

まず、母に見せたかったのは神門を入って右横2本目に植えてある、神雷桜です。
これは神雷部隊の隊員が、靖国神社神門右2番目の桜の木の下で会おうと約束して出撃したことにちなんで、戦友の方々が植樹された物。
母もやはり泣きました。
桜の木に触れると、叔父の体に触れたような気がするのです。
体の大きかった叔父のように、桜の木もかなりの大木、一抱えは軽くあります。
この木のどこかに叔父がいると思えば、遺族としてはやはり心動かされないわけには行かないのです。
「叔父さん、叔父さん会いに来たよ」としばらくは桜の木の下に佇んで、叔父との会話をいたしました。

時間もありましたので今回は昇殿参拝をさせていただくつもりで靖国に来ました。
秋のお彼岸が近いせいか、昨日は参拝者がやけに多かったような気がします。
それも若い人がたくさん。
遊就館の中は若者てんこ盛り、と言う感じでもありましたしね。
靖国に関心を持って来てくれたのか?
それとも反日感情の延長戦で怖い物見たさ、冷やかし半分で来たのか?
それは分かりませんけれど。
遊就館内に設置してある、見学者ノートには結構辛らつな靖国批判が書いてありますしね。
遺族の一人としましては心中複雑な物がありますが・・・それでも靖国を一度も参った事も無く、観念だけで物を言われるよりは良いのでしょうか?
私としては一日も早く、心静かにお参りが出来るそんな環境が整う事を祈るばかりなのですが。

昇殿参拝は、実は母も私も今回初めての体験です。
何だか今までは気後れしてしまって・・・
でも今回は時間もたっぷりありましたし、やはり戦後60年の節目の年ですし。
拝殿横の参集殿へ昇殿参拝申し込みへ行きますと、係りの人に「ご遺族の方でいらっしゃいますか?」と聞かれました。
靖国神社では一般の参拝と遺族の参拝とでは申し込みの用紙が違うのです。
むろん、私たちは特攻の叔父を供養する為に参ったのですから、遺族ですと申し上げ、それ用の申し込み書を頂き、英霊の名前と申込人の住所氏名などを記入して、玉串料と共にお願いをいたしました。

ではこれを、と渡されたのは黄色のリボン。
一般の参拝者はピンク色のリボンです。
あれ?遺族とそれ以外では参拝者の扱いに違いがあるのだろうか?と思っていたら、その通りだったんですね。
参拝のご奉仕をしてくださった宮司さんのお話によれば、靖国の御霊が何よりお喜びになるのは遺族の参拝であると。
春秋の例大祭や御霊祭りなど、様々な趣向で御霊をお慰めしてはいても、やはりご遺族の拝礼に勝るお慰めは無い、ということで遺族の参拝には特に気を使ってくださるのです。

本殿横でお払いを受ける時も、遺族は最前列へ。
本殿内で座る時もやはり遺族は最前列へ。
玉串を捧げる順番も、遺族が先でその後一般の参列者となります。
何だか申し訳ないくらい、お心を使っていただきました。
祝詞を上げていただく時は叔父の名前も詠んで頂きました。
私も母もただただ、涙。
不思議なものです。
あそこで参拝をするときは、拝殿の前であろうと昇殿であろうと、無心にただひたすら涙涙になる。
叔父の魂に包まれたような気持ちになる。
ここには間違いなく、叔父の魂がいると感じるのです。
昇殿参拝を終えてお神酒を頂戴し、控え室に戻ると遺族だけにはお供物の下賜があります。
それを頂いて無事参拝を終えました。

そしてその後目的の遊就館へ。
初めて「桜花」を目にした母の感想はやはり
「こんなに小さくてどうやって乗り込んだのか?
特攻の叔父さんは人よりも体が大きいから、体を折り曲げるようにして乗り込んだんじゃないだろうか?」
でした。
桜花は本当に小さい。
例えは悪いけど、遊園地に良くあるような飛行機の乗り物に毛が生えたような感じ、なのです。
しかも性能はお話にならないほど幼稚だったと言う・・・これで命をかけて特攻する叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
けれどあの時代、どの若者も国を家族を守るためなら、命をかけることを厭わなかったと言います。
特攻への志願も、後年言われているように嫌々の仕方無しではなく、むしろ進んで志願したケースが多いという。
多分私の叔父も志願するに当たっては、嫌々ではなく、自ら望んで誇りを持って名乗り出たような感じがします。
叔父の場合は赤紙で徴兵されたのではなく、自らの意思で予科練へ進んだ生粋の軍人です。
その軍人としての責務、日本男子として家族を守るという意思、その他もろもろ・・・
国家の危機に際して、叔父がおろおろ・もたもたしたとは考え難い。

特攻に志願するには家族の承諾が必要だったそうですが、それを親に言い出した時、親の側・子の側にどんな葛藤があったのでしょうかね?
それはなんとも分かりませんが、しかし私の祖父は弟を心の底から誇りに思っていました。
それは間違いが無い。
悲しみを乗り越えた上でのゆるぎない心だったのか、誇りに思ってやらねば弟が不憫すぎると思ってのことだったのか?
特攻などと無謀な作戦を考え出した人に対しては、やはりどうにも割り切れない複雑なものが私の心の内にあります。
所詮は戦後生まれの私が今の時代感覚で何を言っても説得力はありませんが・・・けれど戦闘機としてはちゃちな代物だったという桜花を見るたびに心中は複雑になるのであり、桜花を見つめる目には涙が滲むのです。

ジオラマを見て、叔父の出撃の様子を改めて目に焼き付けます。
大きな飛行機の下に戦闘機をくくりつけるような格好で桜花は出撃した・・・と、話には聞いていますが、実際にジオラマを見るとその時の状況をリアルに想像する事ができます。
所詮はたかがジオラマなのですが、これをみてこんなふうに叔父が搭乗していたのだなぁと思うと、遺族にとっては単なる模型、と言うわけにはいきません。
もうこの辺りから、涙モードなのですが、何とかこらえてジオラマ横の神雷部隊戦没者の芳名碑の前へと進みます。
老眼で細かい文字を読むにはそれ用の眼鏡と交換しなければならない母なのですが、眼鏡をかけ直し叔父の名前を確認した途端、芳名碑の前でオイオイと号泣を始めてしまいました。
展示室の中にはかなりの人がいましたから、いったい何事か?と怪訝に思った人は沢山いたでしょう。
でも私は母を止めませんでした。
泣きたいだけ泣けば良い。
叔父はまだ幼かった母を守るため、拙い文字で書かれた母の葉書を胸に抱いて出撃したのです。
その姪っ子が亡き叔父を偲んで泣けば、叔父の魂もいくらか慰められるに違いない。
それが叔父の魂のおわす靖国ならではの事なのだから。

叔父の出撃時(昭和20年5月4日)の頃にはもうたいした戦闘機もなくて、人も戦闘機も寄せ集めのような有様だったんだそうです。
そして特攻の叔父の話でもご紹介した戦友のAさんは、叔父の乗り込んだ桜花の発射ボタンを押した人。
そのわずか数秒後に見事敵艦の撃沈に成功した様子を、彼は一式陸攻の中でどんな思いで見つめたのか?
撃沈の瞬間「石渡〜〜〜!」と一式陸攻の搭乗席で絶叫したと言う彼。
Aさんもきっと生き残った神雷部隊隊員の一人として、戦友たちと共にやはりこのジオラマの設置や神雷桜の植樹のために奔走したのでしょうね。

今年は戦後60年と言う節目の年であり、この夏テレビではドラマやドキュメンタリーなどの関連番組がたくさんありました。
当然それらの番組中には特攻の場面を映した映像が流れる事が例年よりも多くてですね。
特攻隊員の英霊を持つ身としましては、ずいぶんと心の痛い夏でありました。
あの映像を見ると、どうも私は平静ではいられない。
いろいろ感じてしまうのです。
いろいろ考えるのではなく、感じてしまう。
突撃の瞬間は自分の体がバラバラにされるような感覚に襲われますし、迎撃を受けて空しく落下する戦闘機を見れば搭乗員の無念の涙を感じてしまう。
私が望むのは、テレビの映像であれ遊就館に展示中の戦闘機であれ、単なる物体としてドライな視線で見ることはしないで欲しい、ということでしょうか?
テレビの向こうに映る戦闘機にも展示中の戦闘機にも、そこには様々な思いを抱いた生身の若者が乗り組み、命をかけて闘ったのだと言う事実を、少しでもリアルに感じて欲しいと思うのです。

館内を一通り見学した後、遊就館一階のサロンで、海軍カレーを頂いてきました。
今時のカレーと違って昔風の素朴な味わいのカレーです。
ちょっと年配の人?であれば、ソースを一さじかけたくなるような昔の味わい、と言えばイメージできるでしょうか?(笑)
叔父さんも海軍だから、きっとこれと同じ味のカレーを食べたのかもしれない、と思うとたかがカレー一つにも感慨深いものがあります。
戦争当時のカレーはさぞかしご馳走だったことでしょう。
体が大きくて大飯食いだった叔父は、やっぱり軍でも人より余計にご飯を食べたんだろうか?とか。
つまらぬ事を思っては、カレー一つにも涙が滲む、変な親子でありました。(笑)

遊就館を出てもう一度拝殿前にいくと夕暮れの中、ライトアップがされており、拝殿前がやけに明るいのです。
さすがに夕方遅くなると人気も少なくなります。
最後にもう一度拝殿でお参りをして叔父との別れを惜しみました。
そして帰り際はやはり振り返り振り返り・・・次回の参拝を約束しつつ、後ろ髪を惹かれつつ、九段下駅へと向かいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日初めて当Blogをご訪問の方へ。
私には沖縄戦で戦死した特攻の大叔父がいます。
本日のエントリーに関連する詳しい話をお知りになりたい方は、カテゴリー「特攻の叔父の話」の過去エントリーをご参照ください。
posted by ぴろん at 11:05| Comment(5) | TrackBack(1) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月04日

靖国神社へ行ってきました

本日のエントリーは3本立てです
 ・靖国神社へ行ってきました
 ・古川了子さん第2回行政訴訟
 ・変人のたわ言を綴ってみる・・・本日は蓮池透氏の事

3本読むとだいぶ長いですけれど、宜しかったらお付き合いくださいませ<(_ _)>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Img_0367.jpg

古川了子さんの訴訟が思ったよりも早く終わってしまったので、思い切って靖国神社まで足を伸ばしてきました。
特攻の叔父の話を書き終えた事を報告したかったし、今年は戦後60年の節目の年でもあるので、最初はお盆の頃にでも、と思ってたんです。
仕事の都合でその頃でないと時間が取れそうもなかったので。
でも盆の頃は混みますでしょ?
人ごみはどちらかと言うと苦手な方だし、あそこに行くとどうも私は平静でいられない。
出来れば人出の少ない静かな時にと思ってたので、今日は私個人的にはちょっとラッキーでした。
古川さん、不謹慎でごめんなさいね<(_ _)>

地下鉄で九段下駅下車、A1番の出口からエスカレーターで上がると、正面に靖国神社の大きな鳥居が見えてきます。
これが見えた時点で、私の涙腺はダムが決壊したような有様となってしまったのですね。
ハンカチで涙を拭き拭き参道を歩く私は、他の人から見たらさぞかしおかしな光景に見えた事でしょう。
戦死者の遺族と言うには私は一応まだ年若いですから。(笑)
この人いったいどうしちゃったのかしら〜〜?と、ね。
今年は叔父の思い出をエントリーする為にあれこれ調べ物もしましたし、以前よりも尚一層叔父の死をリアルに感じられるようになった事も、涙腺決壊の理由だとは思いますが。

本殿が近づくごとに、私の体には叔父の息遣いが肌身で感じられるような感覚を覚えます。
当然心の中ではすでに叔父との会話は始まっております。
「叔父さん、あなたの肉親が会いに来ましたよ。今年はあなたの思い出話をネットで紹介しましたよ。叔父さんは読んでくれましたか?喜んでもらえましたか?」などなど。
本殿前で参拝する時、何とも言えない思いが胸に迫るような気がしました。
これはどうも上手く説明が出来ません。
包まれるような、圧し掛かるような、温かいような・・・
国を家族を護る為沖縄の海に散った叔父の魂が、まるで私の体に乗り移ってきたような感じがする、と言ったら少し大げさでしょうか?

叔父の体は沖縄の海の底。
敵のアメリカ兵の遺体も同じ沖縄の海の底。
敵と味方が死んでもいがみ合う事のないように、叔父が安らかに海の底で眠れるように、叔父の霊を弔うと同時に敵兵の霊もお悔やみします。
どうか同じ沖縄の海の底で静かに安らかに眠ってくださいと。
友達作りの名人だった叔父のことだから、きっと今頃は敵兵のアメリカ人ともお友達になってますよね?などと、話しかけたりもいたします。
涙は相変わらずボロボロ状態ですが、心休まる瞬間でもありました。

参拝後は遊就館へ。
ここでもですね、特攻の展示コーナーを見るのは辛いですね、やっぱり。
特攻の文字を目にした途端、思わず足が止まってしまうのですよ。
でも特攻で戦死した叔父の遺族である私が、このコーナーを見ないわけには行きません。
しばらく深呼吸をして気持ちを整えて、一歩づつ歩みを進めます。
特攻隊員の遺品や遺書、特攻作戦に至る状況説明のパネルなどは読むほどに見るほどに辛いです。
多分他の人にとってはたくさんある展示物のひとつに過ぎないのでしょうが、私にはその展示物の向こう側にどうしても叔父の姿が重なるのです。
自分の存在意義が問われるような気がするのです。

もうひとつ、私の足が止まってしまう展示物があります。
それは特攻機「桜花」の展示と、桜花の出撃を再現したジオラマのコーナーです。
この展示室に入って、天井から吊るされた桜花を見るとですね。
胸が痛いんです。
近づいて行くのに、こちらも本当に勇気が要ります。
呼吸を整えて、気持ちを落ち着けて一歩一歩・・・

桜花、実物は本当に小さいのです。
零戦などよりもはるかにはるかに小さい機体。
こんな小さな機体に、体の大きかった叔父はどんなふうに乗り込んだのだろう?とか。
切り離しを受ける瞬間は何を思ったのだろう?とか、どうしてもあれこれ考えてしまう。
そしてジオラマを見て、一式陸攻の腹に吊り下げられた桜花を見るとですね。
叔父さんもこんなふうに突撃して往ったのだなぁ、と思うとたまらない気持ちになる。
ジオラマの前で再び涙腺決壊状態。
他の人にそれと悟られぬよう、涙を隠すのに必死となりました。

そうそう、遊就館で仕入れた桜花の情報を少しお教えします。
桜花の搭乗員は離陸時は母機の一式陸攻に乗って行くんだそうですね。
そして現地に近づくと桜花に乗り移り、以後は母機と桜花のやり取りはモールス信号でするんだそうです。
そして桜花切り離しの合図は「トン、トン、トン、ツー、トン」。
彼はこの、「トン、トン、トン、ツー、トン」を今生の名残として耳にし、数秒後には突撃して木っ端微塵となったわけです。

こういう事実を一つ一つ知るたびに、叔父の死がますます私の中でリアルになります。
その分だけ叔父に近づけたと思うと同時に、叔父の存在も更に私の中で重みを増してくる。
これはもう、仕方の無いことですね。
私が特攻隊員の遺族である事は避けられない事実。
叔父の生きた証しを背負う覚悟は、キッチリ決めなければならない、と言うことでしょうからね。

ジオラマの横には721海軍航空隊・雷神部隊の戦死者名簿が展示されています。
ここにも叔父の名前はきっちりと記録されておりました。
しばらくその名簿の前に立ち尽くしてですね。
叔父の名前を何度も何度も指で撫でました。
そして心の中で話をしました。
「叔父さん、私はあなたの肉親です。私の温もりが届いてますか?寂しくはないですか?母も私も元気にしていますから心配しないで下さいね」などなど・・・

721海軍航空隊の隊員は、靖国の神門をくぐった右側の2番目の桜の木の下で会おうと約束をしていたんだそうですね。
ですから靖国神社には、生き残った戦友たちの手で本当に右2番目の場所に桜の木が植えてあるのです。
その写真が冒頭の物。
神雷桜と札の架かった桜の木は一抱えもあるような大木でした。
そっと手を触れてみると夏の日差しを受けてほかほかと温かいのです。
私にはそれが何やら叔父の体温のようにも思えました。
「戦友の皆さん、ごめんなさい。ちょっとだけお邪魔して叔父の温もりに触らせてください」
そうお断りをして、少しだけ叔父と話をしました。
もしも生きている叔父さんと触れ合う事が出来たなら、こういう温もりを感じる事が出来たのかな?などと想像を巡らせたりしました。

私にとっては靖国は静かに祈る場所。
叔父と心の対話をする場所。
それ以上でもそれ以下でもありません。
今靖国問題がいろいろ言われていますが、そういう喧騒が一刻も早く鎮まって、心静かにお悔やみが出来る場所になって欲しいというのが、私の素朴な願いです。

帰り際は、何度も本殿を振り返り振り返り、叔父との別れを惜しみました。
「叔父さん、また来るからね。それまで寂しくても待っててね」
と声を掛けながら、地下鉄の駅に向かいました。
posted by ぴろん at 20:04| Comment(8) | TrackBack(3) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

尋ね人で始まった出会い・・・ある特攻隊員のお話 その6・・・

  千葉県出身の石渡正義君の最期の消息を存じておる者です。
  石渡君のご家族の方、この放送を聴いていらっしゃいましたら、
  熊本県○○○○のAまでご一報ください。

戦後しばらくの間、NHKのラジオ放送に、「尋ね人」と言う番組があったのをご存知ですか?
戦争のドサクサで生き別れになってしまった肉親や知人・友人の消息を尋ねる番組。
その番組に上記のような放送が流れたのは終戦後しばらく経ってからのことだと聞いております。
一度目の放送は空振り。
しかし2度目の放送を、当時東京在住だった親戚の人が聞きつけ、放送局に問い合わせを入れました。
そして千葉の家族と、A氏の数奇なご縁がつながったのです。

A氏とは何者なのか?
まずはこれをご説明しなければならないでしょう。
彼は叔父が搭乗した桜花の母機、一式陸攻の搭乗員だった人。
叔父が敵艦目掛けて突撃し、特攻に成功したその瞬間をその目で目撃した生き証人なのです。

前々回のエントリーでご説明したように、桜花は自力発進が出来ない戦闘機です。
一式陸攻の腹に桜花を抱え込むようにして出撃、敵艦目掛けて桜花を切り離し特攻する。
その母機の搭乗員だったA氏は戦争を生き延び、戦友の最期の様子を家族に伝えるべく、尋ね人に申し込んで叔父の家族を探してくれたのです。

戦争を生き延びた元特攻隊員の心中がどのような物であるのか?
私には想像がつきません。
しかし元特攻兵の中には、自分だけ生き残ってしまったという慙愧の念に囚われる余り、心を病んでしまった人も少なくないと聞きます。
とすればA氏も、生き残ってしまった者が感じるであろう、心の痛み・苦しみに苛まれる日々を過ごしていた事は、想像に難くありません。
それもA氏の場合は戦友の死の瞬間をその目で見たのですから。
心に受けた傷の深さも半端なものではなかったであろう事は推測されます。
A氏が戦友の最期を家族に伝えようとしたのも、それをすることで、おそらく自分の心にけじめを付け、心の安らぎを得たかったからではないのではないでしょうか?

721海軍航空隊・別名神雷部隊の出撃は、次から次へと搭乗員を補充して出撃するという有様だったと聞きます。
ひとつの部隊が出撃して基地が空になると次を補充し、その部隊が出撃して空になると次を補充しと言う具合に。
考えてみればこれも当然の成り行きなのですよね?
なにしろ特攻は往ったきりニ度と帰らない片道切符の出撃。
ひとつの部隊が出撃すれば鹿屋の基地は空っぽになるのは当たり前。
作戦続行の為には後から後から人員を補充せねばなりません。

ですから同じ部隊の戦友といっても、叔父とA氏が共に過ごした時間は本当にわずかな物でしかなかったのだそうです。
お互いの事は、せいぜい名前と出身地くらいしか知らなかったんですね。
戦後、A氏が叔父の家族の元を尋ねようと決心しても、尋ねていく先がどうにも分からない。
せめて私の叔父が予科練の17期生だという事だけでも分かっていれば、そこから住所を辿る事も可能でしたでしょうが。
それでやむなくA氏はラジオの尋ね人に申し込み、家族を探す決意をしたのだそうです。

叔父とA氏は出会ってすぐに親しい友人となったと聞きます。
朗らかで明るく、すぐに親しい友人を作る名人だったという叔父の特性が、良く発揮された場面でありましょう。
そして出撃の日、叔父は桜花へA氏は母機の一式陸攻へ。
これも運命なのでしょうか?

過日説明したように、桜花は戦闘機としてはお話にならないくらいちゃちな代物です。
母機の一式陸攻の方も敵の返り討ちに遭い、そのほとんどが帰還を果たせず、搭乗員もろとも撃破されたと聞きます。
しかし幸か不幸か、はたまた叔父の腕前が良かったのか?
叔父の搭乗した桜花は敵艦の撃沈に成功しました。
その瞬間、母機の操縦席の中でA氏は「石渡〜〜〜〜!!」ととてつもなく大きな声で絶叫したのだそうです。

しかし、暢気にしてはいられません。
一式陸攻は無事桜花の切り離しに成功したら、鹿屋基地まで帰還せねばならないのです。
敵の雨あられのような砲弾の嵐をかいくぐり、レーダーに引っかかるのを避けるために海面すれすれを飛行。
A氏の乗った一式陸攻は逃げに逃げたそうです。
けれどアメリカの追撃は激しく、もう駄目かと思ったその時、前方に大きな雲の塊を発見。
その雲の中に飛び込んでアメリカの追撃を辛くも振り切り、計器飛行で鹿屋を目指しました。
そして、何とか無事の帰還に成功したのだそうです。

この話を聞いて、私は自分の立ち位置のレアぶりを思わずにはいられなくなりました。
特攻隊員の遺族である事事態がすでにレアケース。
そして、叔父が特攻に成功した事が更にレアケース。
特攻の瞬間を目撃した生き証人がいる事が更に更にレアケース。
その生き証人を乗せた母機が無事の帰還を果たした事が更に×3のレアケース。
そして母機の搭乗員だったA氏が戦後を生き延びた事が更に×4のレアケース。
そのA氏が千葉の家を探し当てて、叔父の最期を伝えに来てくれた事が、更に×5のレアケースだという事に。

特攻隊員の中にも色々なケースがあります。
中には特攻に志願した事を家族に内緒にしたまま出撃した特攻隊員がいるそうです。
戦後のどさくさで出撃名簿が分からなくなっている者。
自分の息子が兄弟が特攻で戦死したことを知らない遺族もいれば、出撃時の状況どころか出撃地さえも分からない、と言うケースさえあると言います。

そこへいくと我が家の場合、所属部隊から出撃日、出撃の様子から特攻に成功したその瞬間と、何から何まで分かっているのです。
これが叔父の死を受け止め、心の整理を付けるのにどれだけ役に立った事か?
大切な肉親の最期の様子が分からない多くの遺族は、中々その死を受け入れる事が出来ず、最期の消息を求めてあちこち訪ね歩く人もいると言います。
しかし我が家の場合、その必要は全くありませんでした。
はるばる熊本からA氏が叔父の最期を知らせるべく、訪ねて来てくれたのですから。

私が祖父から聞いているのはこれらの事実のみ、です。
A氏が千葉の家を訪ねてきてくれた時、何を感じて何を思ったのか?
どんな会話を交わしたのか?
子供の知恵ではそこまでの機転は利きません。
惜しい話を聞き逃してしまったと、本当に悔やんでおります。
戦友の最期を伝えに千葉の家を訪ねるA氏の心境や如何に?
叔父の最期を知る戦友を迎える祖父たちの気持ちは如何に?
人一人の死を、それも特攻による死を伝えに来るのです。
迎える方も訪ねる方も、それ相応に複雑な心境であった事と推測いたします。
千葉の家の敷居をまたぐ、A氏の足取りは軽かったのか?重かったのか?

なので、この先の話は想像するしかないのですが。
私の祖父は人情の塊が服を着て歩いていると表現しても差し支えないくらい、情の厚い人でした。
悲壮な決意をして戦友の最期を伝えに来るA氏の事を、祖父が邪険に扱うとは100%考えられない。
A氏の告白を受けて、おそらく祖父はA氏の手を取り、感激のあまり男泣きに泣いたのでしょう。
そして顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらおそらくこんな台詞を語ったに違いない。

「よく弟の最期の様子を伝えてくださった。
ありがとう。
本当にありがとう。
Aさん、いつでも弟の墓参りに来てやってください。
この家を自分の実家だと思っていつでも訪ねて来て下さい。
あなたが来ればきっと弟も大喜びするでしょうから。」

そんなふうに歓待されて感激しない元特攻隊員がいるでしょうか?
おそらくA氏もつられて男泣きに涙したであろうことは想像に難くありません。
その証拠にA氏はその後何度か叔父を訪ねて千葉まで墓参りに来ています。
叔父の墓の周りを花一杯にしてやりたいと、訪ねてくるたびにツツジなどの花木の苗を持参し、墓の周りに植えつけていきました。
5月4日の叔父の命日には、叔父の霊前に供えて欲しいと供物と手紙を毎年毎年欠かさずに送って寄こすようにもなりました。
平成元年、祖父は病で他界したのですが、その後A氏からは
「実の兄とも思って慕っていたのにとても哀しい。心に穴が開いたようだ」
と言う内容の手紙を書き送ってきています。

祖父との交流を通じて、A氏の心の痛みは少しは和らいだのでしょうか?
生き残ってしまった罪悪感を乗り越える事はできたのか?
分かりません。
特攻の是非を問う事はここではいたしません。
しかし特攻はやはり非業の死です。
死んだ者は無論のこと、生き残った者の心にも癒しがたい傷を作る事だけは確かなのです。
肉親然り、戦友然り。

国を守る為には、家族を守る為には、命を懸けて戦わねばならぬ事がある。
世の中きれい事だけでは済みません。
それは平和の時代を生きる私にも、理解は出来ているつもりです。
けれどもそうかと言って、生きてる人間を爆弾に乗せて敵艦目掛けて打ち込むなど、どう考えても正気の沙汰とは思えない所業でしょう。
同じ戦うにしても、どうしてもう少し人の命を粗末にしない戦い方をしてくれなかったのか?
その思いはやはり私の心のどこかで疼いています。
そして私の心の中から、叔父の特攻死の重みと痛みが消える事は、おそらく永遠に無いのだと思います。

A氏の証言により、祖父を初めとする家族の心の痛みがいくらか和らいだ事は確かなのでしょう。
特攻の現場を目撃した人の証言であれば、叔父の死は動かし難い事実となります。
否でも応でも、叔父の死を受け入れざるを得ないのです。
もしかしたらあるいはどこかで生存しているのでは?という淡い期待も、きれいさっぱり捨て去らねばならない。
A氏のお話は、家族にとってさぞかし非情な非情な死亡通告であったことでしょう。
しかし、叔父は無駄に死んだのではない。
見事敵艦を撃沈して本望を果たしたのだ・・・そう思えば、辛い現実の中にも一筋の光を見る事は出来ますから。

私が物心付くか付かないかの幼い子供の頃から、特攻の叔父の話を聞かされて育ったのも、祖父の心の中である程度、弟の事が整理が付いていたからに他ならないと、今は感じています。
おかげで戦後生まれの私でも、かなり詳細な叔父の人生の軌跡を辿る事が可能になりました。
こうしてご訪問の皆様に叔父の人となりを語る事も出来ました。
叔父が残しおきたいと願った心の内を、多少なりとも受け継ぐ事が出来れば、叔父もさぞかしあの世で喜んでくれる事と思います。

最後に。
拙作ではありますが、叔父の辞世の歌を受けて自分の今の想いを込めた返歌を作ってみました。
これをご紹介して、一連のエントリーを終わりたいと思います。
叔父の短い生涯を通して、何かを感じ何かを考えるきっかけにしていただければ、遺族としましては大変ありがたく嬉しく思います。
長々お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
ご訪問の皆様に、心より感謝申し上げます。
  
  辞世 
  身は例へ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心をば

  返歌
  後の世に残しおきたし心をば 胸に抱きて散る桜花
  残されし心を我に刻みつつ 五月四日の蒼空を見る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・
神風桜花特別攻撃隊・・・ある特攻隊員のお話 その4・・・
遺書・・・ある特攻隊員のお話 その5・・・
posted by ぴろん at 20:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月01日

遺書・・・ある特攻隊員のお話 その5・・・

Img_8422.jpg

  父母様
  幾星霜今日迄愛し育て下された母様
  何一つ孝を致さず何をもお詫びの申す言葉も有りません
  今迄何度か家を訪問致し私の心を明けんと致しましたが
  何か糸にでも引かれる思ひ致しそれも出来ませんでした
  今に成って何も申し上げる事は有りません
  十分御身体を強健にもたれ東洋平和をお待ちください
  父母さまも私が搭乗員に成るをお許し下された以上
  御覚悟は出来て居られた事と思ひます
  私も覚悟は出来ました
  我々が死んで皆様が幸福に成られたら何で惜しみませう
  決して父母様には驚かれず私の帰りを笑って迎へてくださいませ
  御身御自愛の程を

  昭和二十年
  父母様   正義

書き写しているだけでも涙が滲んで仕方がありません。
これは叔父が両親に宛てて書いた遺書です。
文面はとにかく勇ましいのです。
覚悟は出来ましたとか、笑って迎えてくれとか。
でも文字は写真を御覧になれば一目瞭然、乱れに乱れているのです。
叔父の心の揺れを物語って余りある遺書だと私は感じています。

本来叔父はもう少しきちんとした字を書く人です。
しかし、遺書の方は終わりに行くに従って徐々に徐々に乱れていくのです。
書き損じた所も一ヶ所ありますしね。
日付が入っていないので想像するしかないのですが、おそらくこの遺書は出撃命令を受けてから書かれた物ではないのか?と。

初めてこの遺書を目にしたとき、私はこの文字の乱れ具合に打ちのめされました。
特攻に志願した時からいくら覚悟を決めているとはいえ、いざその瞬間が来たとき、やはり人間というもの早々冷静ではいられないのではないでしょうか?
心の揺れが出て当たり前。
生への執着が滲み出て当たり前。
最後の最後まで逡巡して当たり前だよね?叔父さん・・・

文面は一応両親に宛てて別れの言葉をしたためるという形にはなっております。
しかし私にはそれだけではなくて、生への執着を振り切るため・自分自身に言い聞かせるために、威勢の良い言葉をあえて書き連ねているとも感じられてならないのです。
私は初めてこの遺書を目にしたとき、100%の死に向かう人間の覚悟の大きさ・重さに、己の身が潰れそうになりました。
泣くよりも先に、息が出来ないほど胸が痛くなりました。

Img_8422.jpg

千葉の生家には遺書のほかにもうひとつ辞世の歌などを書き付けた物があります。
こちらが叔父本来の筆跡です。
先にご紹介した遺書との違いがハッキリと見て取れるかと思います。
昨日ご紹介した略歴も、ここに書き付けてあります。
じつはこれ、紙ではなく白いハンカチに書き散らしてあるのですね。
中心に縫い止めてあるのは実は遺髪です。
その周りに辞世の歌などを書き付けてあります。
書かれている言葉を、全部拾ってみたいと思います。

  身は例へ南の海に散らうとも 残しおきたし我が心かな
  花は桜木 人は武士
  万歳
  死
  父母に幸あれ
  不幸を詫びる
  一人一艦撃沈あるのみ
  国に忠なるは親に孝なると信じ 我は往かん南の空へ

  海軍一等飛行兵曹 石渡正義

文字がきちんとしているところを見ると、これは出撃の日よりもかなり以前に書かれたのであろうと推測します。
略歴が721海軍航空隊へ配属になったところで終わっているのをみると、あるいは特攻に志願した後、部隊への配属直後に書いたものかもしれません。
出撃日直前に書いたものならば、鹿屋基地への移動も書かねばなりませんが、その記載がありませんので。

遺書の方は最期の場面に直面したギリギリの心情が溢れて余りあるものと思いますが、こちらのハンカチの方は、徐々に徐々に覚悟の程を決めていく、静かな心の軌跡が見て取れると感じています。
遺髪を縫いとめ、略歴を書き記し、心に浮かんだ言葉を書き散らす。
自分の思いを書き記すことによって、叔父は心の整理をつけようとしたのでしょうか?
書かれている言葉は全て、死に向かう覚悟と親への思い。
「花は桜木 人は武士」「一人一艦撃沈あるのみ」と言う言葉はおそらく特攻隊員の合言葉のようなものなのでしょう。
特攻隊員の遺書を調べて見ると、この言葉を書き連ねている人が結構いらっしゃいますので。

特攻については色々なご意見があろうかと思います。
中には厳しい物の言い方をするご意見も散見いたします。
例えば犬死であったとか、洗脳されていたとか。
でも叔父が書き残した物を見る限り、少なくとも私は、叔父が洗脳されていたとは思っておりません。
遺書の文字の乱れを見ただけでも、人間らしい心の揺れが溢れて余りあると思いますし。
叔父が生への執着を振り切り出撃して往ったその悲壮なまでの覚悟の裏には、溢れるほどの家族への思いがある。
ただ、それだけの事ではないのでしょうか?
であるからこそ、叔父の思いを受け継ぐ者の身に圧し掛かってくる物も、また重いのですけれどね。

笑って帰りを迎えてくれと書き残した叔父。
でも一体どうやって帰るのだと?
肉体は敵艦もろとも木っ端微塵、海の底です。
つい最近、NHKでDNA鑑定の結果60年ぶりに遺族の元へ遺骨が帰ったという番組がありましたが。
あれを見て、私はとても羨ましいと感じました。
我が家の場合、そもそも遺骨の収集が100%不可能。
第一叔父の体は人の形をしていません。
どう頑張っても肉体そのものが帰ってくることは出来ないのです。

しかし、これも難儀な話なのですが、特攻であっても一応“遺骨”は帰って来るのですね。
叔父の戦死後、役場から「遺骨を引き渡すので取りに来るように」と言う連絡が実家に入ったのだそうです。
連絡を受けて、私の祖父は役場へ出向き、白木の箱をひとつ受け取って帰ってきました。
帰宅後、箱の蓋を開けると・・・中には「英霊」と書かれた紙切れが一枚っきり入っていただけ。
他には何も無い空っぽの箱が無言の帰宅を果たしたのだそうです。

この箱を受け取って家族はどうしたか?
残念ながら私は、祖父にその心情までもを聞くことはしてないのです。
惜しいかな、さすがに子供はそこまで気が回らない。
事実は事実として何度も祖父から聞いているのですけどね。
子供の頃に思うことと、大人になって思うことの違いをこんな所でも思い知らされます。

で、唯一の体験者である母に聞いてみたのです。
母は、当時国民学校の2年生。
その日の事はハッキリと記憶にあるんだそうです。
当時千葉の家には、叔父のすぐ上の姉一家が東京から疎開して同居しておりました。
祖父の帰宅後、箱の蓋を開けて葉書大ほどの紙に書かれた「英霊」と言う文字を見た瞬間ですね。
その姉が前掛けを顔に押し当て、これ以上無いと言うほどの大きな声を上げて、ワァワァと号泣したのだそうです。
びっくりするほどの声の大きさを、母は今でも昨日の事のように覚えていると言います。

特攻の叔父さん。
笑って迎えてくれ、って言ってもそれは無理な相談ですよ、まさ叔父さん。
だって両親にとって、あなたはかけがえの無い息子。
兄や姉たちにとって、あなたは可愛い弟なのです。
私の母にとっては、優しい優しいお兄さんだったのですよ?
どうやったって、笑って迎える事など出来ようはずもないじゃありませんか?

わずか4年前の岩國予科練時代。
はるばる訪ねてきた年老いた母を見て男泣きに泣いたというあなたが、たった4年の間にどうして?
なぜ?こうも悲壮な死を覚悟するまでに至れたのでしょうか?
お国のため?
天皇陛下のため?
でも一番の理由は、やはり家族への愛ですよね?
私にはそうとしか思えないのです。

戦死の公報を受け、“遺骨”が戻ってきた以上、葬式を出してやらねばなりません。
でも本物の骨は無いのです。
ですので、叔父本人が実家に送ってきていた爪と髪の毛を代わりに収めて、墓を建ててやったのだと聞いております。
田舎のことですし、当時は墓と言っても土葬です。
棺おけごと埋めて土の山を作り白木の墓標を立てるのが、その当時のごくごく一般的な墓の建て方でした。

しかしお国の為に非業の死を遂げた息子を、そんな粗末な墓に埋葬したくは無かったのでしょう。
両親はなけなしのお金をはたいて立派な石の墓を建てました。
叔父の墓石には、先日ご紹介した本人の略歴のほかに、「一人一艦撃沈あるのみ」「国に忠なるは親に孝なると信じ 我は往かん南の空へ」の文字が刻まれています。
息子の生きた証しを後の世に伝え残したい・・・そんな両親の切なる思いが溢れた墓です。
そして、その両親の願いがあったればこそ、戦後60年の今、その記録を辿って叔父の生きた軌跡を辿れる私がいます。
これも家族の絆・血脈の証し、なのでしょうね。

突撃の瞬間。
叔父さんは何を叫んだのでしょうか?
天皇陛下万歳!と叫んだのか?
それとも親父!お袋!と叫んだのか?
その瞬間、叔父さんは笑顔だったのか?
それともぐしゃぐしゃに泣いていたのか?

でも、仮にどんなにみっともない突撃であってもですね。
あなたが家族へ向けた愛情と家族があなたへ向ける愛情に、何の変わりもありはしません。
叔父さんは、私にとって今も大切な家族なのですから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考リンク

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・
神風桜花特別攻撃隊・・・ある特攻隊員のお話 その4・・・
posted by ぴろん at 21:15| Comment(0) | TrackBack(1) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月31日

神風桜花特別攻撃隊・・・ある特攻隊員のお話 その4・・・

105-0598_img.jpg

ネットと言うのは便利な物です。
今回それを痛切に感じる出来事がありました。

「721海軍航空隊 第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」

これが叔父の所属した特攻部隊の正式名称です。
この所属部隊の名称を叔父の両親が息子の墓石に刻んで残していてくれたことで、実は叔父がいつごろ特攻に志願したのかを今回推測することが出来たのです。
祖父亡き今、当時の事情を知ることは永久に不可能だと諦めていたのに、ネットと言うのはすごい。
居ながらにして、60年前の事情を手に入れることが出来るのですから・・・
叔父が両親に宛てた遺書をご紹介し、遺族がなぜ叔父の敵艦撃沈を知っているのかのエピソードをご紹介し、残り後2回で終わる予定にしていた一連のエントリーですが、今回急遽追加のエントリーを一本書くことにしました。
お付き合いくださいませ。

桜花隊で検索をいれると、実にたくさんの資料がヒットします。
桜花とはなんぞや?については後でご説明するとして、それらの資料を当たっているうちに「神風特別攻撃隊の戦没者名簿」なる物を見つけたのですね。
もしや?と思ってその名簿を辿ってみると・・・・・・あったのです。
私の特攻の叔父の名前が。
一瞬心臓が止まるかと思うほど、ドッキリしました。

特攻はアメリカ艦隊への肉弾戦。
戦後はGHQの迫害を恐れて、特攻隊員の遺族であることを隠したり、特攻の出撃者名簿が密かに処分されたりしたケースもあると聞いておりました。
ですから叔父の記録ももしかしてうやむやになっているのではないか?と漠然と考えていたのです。
ところが、あったんですね。
部隊名も戦死した日も、きちんと、正確に。

急いで母を呼んで名簿を見せると、「叔父さん!叔父さん!」と声を上げて泣き出しました。
私も泣きました。
二人してパソコンの前で声を上げて泣きました。
ちゃんとここに、叔父が特攻隊員として確かに存在していたという証しが記録されている。
嬉しくもあり驚きでもあり・・・そして哀しくもありました。
叔父はやはり間違いなく特攻で死んだのだと。
木っ端微塵にその肉体が吹き飛び沖縄の海に沈んだのだと、改めて思い知らされた瞬間でもありました。

このエントリーを始める時は叔父の名前は匿名にして一連の記事を書こうと思っていたのです。
が、こうして正確な記録があるということに感銘を受け、ここで叔父の名前と遺影を公開する決意をいたしました。
ネットで見つけた叔父の戦没者名簿はこちら
神風特別攻撃隊戦没者名簿から沖縄方面作戦・特攻編成部隊→721航空隊攻撃708飛行隊のページを御覧下さい。
「昭和20年5月4日、第七神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊」と言う欄の一番上。
「上飛曹 石渡正義(いしわたまさよし)」という記載があります。
この人が、私の特攻の大叔父その人なのです。
冒頭の写真はその叔父の遺影でございます。
身内の私がほめるのもなんですが、結構良い面構えをしてますでしょう?(笑)
家族や友人から「まーちゃん」と呼ばれて親しまれた、私の特攻の叔父の顔をどうぞ御覧くださいませ。

Img_8422.jpg

さて本日の本題に入りましょう。
まずは今回一連のエントリーを書くに当たって一番重要な手がかりになった、叔父本人の手による略歴をご紹介します。

  昭和十六年十二月一日乙種第十七期
  予科練修生トシテ岩國空ニ入隊
  同十七年七月二十八日三重空に転勤
  同十九年二月二十一日予科練習生
  教程ヲ終了同年三月十日壺中海軍
  航空隊ニ転勤同十一月台北民間飛
  行場台東民間飛行場ニ派遣サレ
  同年五月三十日中間練習機教程ヲ
  終了同六月一日台南海軍航空隊
  ニ転勤艦上爆撃機教程ヲ同年
  九月二十八日卒業同十月四日鈴鹿空
  ニ転勤操縦教員トシテ予備生徒
  ノ教育ニアタリ同年十一月九日
  七二一海軍航空隊に転勤
  戦闘機操縦員トナリ今ニ至ル
  (注: 旧字体の漢字は現代表記に改めてあります)

叔父の予科練入隊は昭和16年12月1日。
真珠湾攻撃の直前なんですね。
まさかこのときに、叔父は特攻で死ぬことなどこれっぽっちも思ってはいなかった事でしょう。
当時の軍国少年ならば予科練は憧れの的。
叔父も純粋に飛行機乗りになりたくて、少年らしい無邪気な心で志願をしたのかもしれません。
また予科練は、経済的理由で中学に進学できない地方の少年を教育するという性格も兼ねていたらしいのですね。
叔父の合格した乙種と言うのは高等小学校卒業程度の学力が求められたのだそうです。
となると頭の良かった叔父はもっと勉強がしたくて、予科練へ進むことを考えたのかもしれません。
う〜ん、やはり生家が貧乏でなければ、ね。
無事に中学進学を果たしていれば、予科練と言う人生の選択はあるいは有り得なかったかも知れない・・・

またこの略歴を読むと、台湾に赴任したり教官として予備生徒を教えていたことも分かります。
721海軍航空隊に集められた人材は優秀なメンバーを選抜したそうですが、この略歴を読むだけでも叔父がそれなりに優秀な人材であったであろうことは容易に推測されます。
実際、桜花の搭乗員は優秀な人材が多かったそうです。
後で説明しますが、そもそも桜花と言う戦闘機自体が貧弱で粗末極まりない代物であり、これをカバーして無事操縦し目的を果たすにはそれ相応の力量がいること。
桜花による特攻は、操縦の腕前の良い人から出撃をしていったと言います。

もしも叔父が平々凡々のつまらぬ人であったなら、パイロットとしての腕前が下の下であったら?
あるいは特攻に志願したとしても選抜されることもなく、死ぬことは無かったのかもしれない。
優秀ゆえに非業の死を招く、と言うのも考えてみれば罪な話。
心中は少し複雑です。
今は亡き祖父が口癖に言っていたことをふと思い出したりもします。

「正義は優秀な人間だった。
あれが生きていたら日本の戦後復興にどれだけ役に立ったか分からない。
つくづく惜しい人間を死なせたものだ・・・」

本当に。
特攻で戦死した隊員の多くは優秀な人材が多かったと、どの資料に当たっても記述が見つかります。
これらの人が戦争を生き延びていたら、どれほど国の宝となったことか。
その意味でも彼らの尊い犠牲を無にすることは申し訳の立たない話だと私は思っています。
自分に出来る精一杯の生き方をしなければ、先人の犠牲に顔向けが出来ないのではとも感じます。

更に叔父の墓には本人がしたためた上記の略歴と共に、家族が追加した以下の一文が刻んであります。

  特別攻撃隊第七神雷部隊桜花隊員トシテ鹿屋基地ヨリ
  沖縄周辺ニ出撃敵艦轟沈戦死ス 功ニ依リ二階級特進少尉
  ニ任ゼラル 享年二十一才

この所属部隊名が墓石に刻んであったことで、叔父が特攻に志願し死に至るまでの経緯が、今回おおよそ推測できたのです。

資料によれば721海軍航空隊・別名神雷部隊が、全国の航空隊から目的と生存不可能の条件を示した上で、密かに募集を始めたのが昭和19年の8月中旬。
応募者の中からおよそ200名を選抜し10月から11月に掛けて721航空隊に着任したと、記録にはあります。
もう少し細かく時系列を追うと、9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決定。
10月1日、百里原(茨城)に桜花特攻専門部隊第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入される。
11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられる。
翌年、神雷部隊は鹿屋基地(鹿児島)より出撃、となります。

資料と叔父自筆の略歴を総合して考えるに、叔父は昭和19年の夏から秋にかけて特攻に志願し選抜され、同年11月9日721部隊に着任するという流れであったと推測できるのです。
そこで問題になるのが一連のエントリーの最初にご紹介した叔父から姪に宛てた2枚の葉書です。
そのうち「オテガミチョウダイネ」と記された、2枚めの葉書が投函されたのが昭和19年10月18日。
やはり思ったとおり、あの葉書を書いた時点で叔父はすでに特攻へ志願し、死の覚悟を決めていたと想像されるわけです。
「オテガミチョウダイネ」の一文は、やはり単純に故郷恋しさや姪っ子可愛さだけで書いたものでは、無い。
いずれ来るその時に備え、可愛がっていた姪っ子の思い出を出撃の際連れて行くべく、叔父は母からの返事を求めたに違いありません。
この推測を説明した所、再び母は泣き出しました。

「それじゃ私の書いた葉書は叔父さんの役に立ったんだね?」

この言葉に再び私の胸は詰まってしまいました。
その通り。
母の葉書は確かに叔父の役に立ったのです。
叔父が僅かに残された生への執着を振り切り、出撃の覚悟を決める最後の切り札として。

叔父が戦死した5月4日と言う日は、鹿屋だけでなく、知覧・指宿・串良など他の基地からも陸海合わせてたくさんの特攻機が出撃をしています。
かなり大規模な作戦が展開されたのでしょう。
出撃の朝、叔父は何を思って身支度をしたのでしょうか?
家族の写真や母の葉書を胸に収めるとき、心によぎった物はなんなのでしょうか?
葉書ですから裏を返せばすぐに文面を読むことが出来ます。
ミミズが這ったようなたどたどしい文字を見て、思ったことは何なのでしょう?
二度と生きて戻れぬ死出の旅。
どんなに想像力を巡らせても巡らせても、叔父の心中にたどり着くことは容易には出来ません。

「兄ちゃんがお前を護ってやるからな。
しっかり勉強するんだぞ。
親父やお袋のことは頼んだぞ。」

そういう思いが生への執着を振り切る切り札となったのだとしたら、母の書いた葉書の重さを今更ながらに思わずにはいられません。
叔父が命を懸けて母を護ったということは、母の未来を護ったということ。
母の未来には当然娘の私の存在があるわけです。
つまり叔父の特攻は母だけでなく、娘の私の人生も護ってくれたということにもつながります。
それを意識する時、私は叔父の壮絶な決意の重さに潰されそうになります。
平和の時代を生きる私が、叔父と同じような決意が出来るのか?
とてもとても、そんな決意など今の私には出来そうもありません。

「桜花」についてすこし説明いたします。
桜花の写真はこちら
桜花は自力発進が出来ないため、全長約20メートルある一式陸上攻撃機と言う母機が機体の腹に桜花を抱えるようにして飛び立ちます。
桜花は全長約6メートル、両翼を含めた全幅5メートルの小型機だそうです。
機体の先端に1トン前後の大型爆弾を搭載。
中央部にパイロットの座席があり、後部には推進用のロケットを搭載していました。
これを敵艦上空で母機から切り離し、滑空したりロケットを噴射したりしてパイロットもろとも敵艦に体当たりをするんだそうです。
いわゆる「人間爆弾」と言う物です。

桜花は特攻機ですから、着陸の為の車輪がありません。
訓練用の機体には車輪の代わりにソリを付けて着陸が出来るようにしておき、爆弾の代わりに水や砂を積んで訓練をしました。
搭乗員に求められた技能は着陸技術ではなく、敵艦に向かって降下する技術のみ。
投下訓練を“一回”終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる「練度A」の判定を受けたんだそうです。
そして彼ら桜花隊員は、鹿児島の鹿屋基地に送られていきました。

桜花とは一言で言って、グライダーに毛が生えた程度の代物だそうです。
そしてこれで敵艦を撃沈するのはほとんど不可能だったのだそうですね。
機体が重いわりに翼が小さい桜花のような飛行機は、高速飛行しなければ失速するんだそうです。
しかし実態は、桜花のロケットの噴射時間はおよそ9秒程しか持ちません。
そのため桜花は母機から投下された後、グライダーのように滑空して敵艦に接近するというのです。
操縦がかなり難しいというより、ほとんど不可能に近かったのではないでしょうか?
ですから実際の戦闘の場でも、大半の桜花が迎撃されて撃沈。
母機の一式陸攻の方も、そのほとんどが敵の攻撃を受けて撃沈。
桜花作戦はほとんど見るべき成果を上げられませんでした。

敵の砲撃が雨あられと降り注ぐ中、グライダーで敵艦接近とは・・・いやはや何とも。
しかも桜花の投下訓練はたったの一回。
それで実践に臨むとは、ほとんど行き当たりばったりです。
今の時代感覚で言えば、なにやら性質の悪い冗談話か?としか思えないのが桜花作戦と言うわけです。
敵方のアメリカは、桜花のことを「BAKA」と呼んで嘲笑していたとも聞きます。
こんなちゃちな戦闘機で、しかもろくな訓練も無くですよ?
死を覚悟して特攻せねばならなかった叔父の心中はいかばかりだったのだろう?
それでも母機から投下され目標からそれぬよう桜花を操縦し、見事敵艦の撃沈に成功したという叔父。
たまたま運が良かったのか?それとも操縦の腕前が優れてよかったのか?

それでもですね。
変な言い方ですけれど、一度特攻の覚悟を決めたのならば、無事本懐を遂げられた叔父は幸せだったのかな?とも思っています。
これからの季節、テレビのドキュメンタリー番組などで、特攻の様子を収めたモノクロの映像が流れることがありますね。
あれを見るのは正直辛いんです。
無事敵艦に体当たりできた特攻機は、まだ良い。
しかしアメリカの迎撃を受けて、空しく落下する特攻機を見るのがたまらなく辛いのです。
死を覚悟し「花は桜木、人は武士」「一人一艦撃沈あるのみ」の精神で出撃した多くの特攻隊員。
その目的を果たす事もできずに落下する戦闘機の操縦席で、あの特攻隊員はさぞかし無念の涙を流しているのだろうな、と思うとですね。
私はどうしてもあの映像を正視出来ないのです。

同じ理由で特攻を扱った映画やドラマも基本的に私は駄目ですね。
感情移入がうまく出来ないんです。
もっと正確に言うと、感情移入は一応それなりに出来るんですけど、同時に物凄く冷めた感情も沸き起こってしまうのです。
なまじっか、リアルな特攻隊員を身近に知っているせいなのか?
どんなに良く出来たドラマを見ても、心のどこかで実際の特攻隊員はこんなものじゃないでしょ?と冷めた気持ちが沸き起こってしまう。
これは良いことなのか悪いことなのか?
これはおそらく肉親ゆえに感じてしまう、特攻と言う現実の重みの違いなのでしょう。

明日のエントリーでは叔父が両親に宛てた遺書をご紹介します。
明後日のエントリーではなぜ私たち遺族が叔父の敵艦撃沈を知っているのか?その珍しいエピソードをご紹介する予定です。
特攻の叔父さんのお話。
ここで一気に連続エントリーをいたします。
いま少しお付き合いいただきますことを、お願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考リンク

残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・
posted by ぴろん at 23:26| Comment(15) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

ロマンス・・・ある特攻隊員のお話 その3・・・

特攻について調べていると、必ずぶち当たるのが恋、恋愛の話です。
特攻隊員のほとんどが10代後半から20代の前半。
中には結婚して子供のいた特攻隊員もいましたがそれはむしろ少数派。
大多数が未婚の独身者のまま戦死しているのです。
燃えるような恋愛をしたという話もありますが、まだ恋も知らぬままに戦死してしまった悲哀を語ることも多いのですね。

私が調べた中で一番切ないなぁと思った話をひとつご紹介します。
ある特攻隊員が、自分が出撃するときにはぜひ若い女性の写真を持って往きたい、と考えたのだそうです。
しかし彼に特定の女性がいたわけではありません。
そこで知り合いの伝を頼り、全く見ず知らずの若い女性の写真を手に入れ、それを胸に抱いて彼は出撃して往ったのだとか。
10代後半から20代前半の年回りと言えば、異性に興味を持ち恋の切なさを知り、将来の希望を描く時代。
人生の中でも一番輝きに満ち溢れる時代です。
その輝くべき時代をひたすら戦争に捧げ、死に向かうことのみを求めるしかなかった特攻隊員の心を思うと、本当に切なくてやりきれない思いがします。

それでは私の叔父の場合はどうだったのか?
避けては通れぬロマンスの話を、今日は皆様にご紹介したいと思います。

叔父さんはどうも女性にはかなりもてたみたいですね。
頭は良いし背は高いし。
頭が良いと言ってもそれをひけらかして人を馬鹿にすることはありませんでしたし、人懐っこくてユーモアがあっておしゃべり好きで、話の場を賑やかせずにはいられないと言う明るい性格でしたしね。
顔もまぁ・・・特別美男子と言うほどではありませんが、鼻筋がすっと通っていて貫禄のある顔立ちをしています。
どちらかと言えばいい男の方だと思います。(笑)
身内の私が褒めるのもなんですが・・・(^^ゞ
それに何よりも当時憧れの予科練ですからね。
年頃の女性陣が放っておくはずが無いでしょう。

時期がいつだか不明なのですが、近所の神社の境内で海軍の軍服姿の叔父を真ん中に、7〜8人の女の同級生ばかりがずらりと周りを取り囲み、黒一点写っている写真も残っています。
まだまだあの当時は男女7歳にして席を同じにせず、と言う時代ですよ?
多分叔父が久しぶりの帰省をしたときに、急遽同級生が集まって写したんだと思いますが。
そんな写真が残っているほど、叔父は人気者だったのです。

叔父は優秀な上に農家の次男坊でしたから、ぜひ婿養子に迎えたいと言う話は実際たくさんあったのだそうです。
その中でも一番手の有力候補が前回ご紹介した同級生のTさん。
このTさんは後に小学校の先生になり、母の恩師でもあった人です。

ただどうも正式な約束は無かったようです。
特攻隊員に志願していたということもあって、そこまでは踏み切れなかったのでしょうけれど。
生きて無事に帰ってきた暁にはぜひ、と言う話は親も含めてそこそこの所まで進んでいたらしい。
もしも叔父が戦争を生き延びていたら、このTさんと結婚して家庭を築いていたのかもしれません。
母にすれば恩師の先生がそのまま親戚の叔母さんになるという不思議なめぐり合わせになるのですが、良いじゃないですか、そういうご縁があっても。

母の記憶によれば、叔父の死後、このTさんは一度生家にお線香を上げに来たことがあるんだそうです。
仏壇の前で静かに手を合わせて長いこと祈りを捧げていたのを、覚えているのだと。
母はまだ子供でしたし、恋がどうのこうのなんてその頃は分かりようもないのですが。
ただ単に叔父さんの同級生だからお参りに来てくれたのだ、と単純に考えていたのだそうですけどね。
今になって考えれば、Tさんはもしや叔父さんの事が好きだったのではないのかな?と。
そういうふうに思える節もあったわけです。

本人同士がどこまで心に秘めた物を持っていたかは分かりません。
Tさんもだいぶ前に亡くなっているので確かめようが無いのです。
でも、幼馴染が大人になってそのまま結婚すると言うのは今も昔も良くある話です。
私としては通じあう物があったと信じたいと言うのが、正直な所なのですが。
人を愛し愛されるという至福の感情を味わうことなく命を散らしたとは思いたくありません。
たとえ淡い初恋のような物であっても、恋の喜びを少しでも知った上での死だと思いたいのです。
でなければ、あまりにも叔父が可哀想過ぎる。

私の母はどちらかと言うと父親似です。
当然戦死した叔父とも顔つきがどことなく似ております。
亡き人の面影を残す少女を教えるかつての同級生だった恩師のTさん。
中学校時代の恩師だった元同級生のEさん。
中々心中複雑な物があったのではないでしょうか?
ついつい昔を思い出しては「あなたの叔父さんは優秀な人だった」と昔語りするのも仕方の無いことではありましょう。
子供だった母にとっては、ひたすら優秀すぎる叔父と比べられる苦痛の日々であってもですね。
元同級生の彼女たちにしてみれば、母の姿を通して懐かしい青春時代を思い起こしていたのでしょうからね。

もしも叔父が生きて家庭を持ったとしたら、今頃どんなお爺さんになっていたのか?
ふと考えることがあります。
私の祖父はとても子煩悩な人でした。
自分の孫が12人もいるのにそれでは足らず、隣近所の子供まで手懐けて可愛がるという、地元では知らぬ人のいないくらい子煩悩なお爺さんで有名な人でした。
似たもの兄弟の叔父のことですから、私の祖父に負けず劣らず子煩悩爺さんになったのではないのかな?と。
生きていれば今年80ですから、ひ孫がちらほらいてもおかしくない年です。
次々と生まれる孫やひ孫を可愛がり、それでも足らずに近所や親戚の子も可愛がりしてたんじゃないのかな?と。
その中で、ついでも私もご相伴にあずかって可愛がってもらえたのじゃないかしら?などと思ったりもするのです。

大勢の子や孫に囲まれて賑やかな老後を過ごしていたであろう叔父。
わずか20歳でその生涯を閉じねばならなかった彼の無念を思うと、いい加減な気持ちで日々の暮らしを貪るのは、やはりどこか申し訳ないような気がするのです。

参考リンク
残しおきたし我が心をば・・・ある特攻隊員のお話・・・
生い立ち・・・ある特攻隊員のお話 その2・・・
posted by ぴろん at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 特攻の叔父の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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